本報告は、戦国時代に津軽地方で活動した武将、大浦為則(おおのためのり)公の生涯と、その歴史的役割について詳述するものである。為則公は、後の弘前藩祖として名高い津軽為信(つがるためのぶ)の養父として知られることが多い。しかし、本報告では、為信公の陰に隠れがちな為則公自身の事績や、彼が生きた時代の津軽地方の政治状況、そして大浦氏の当主としての役割を、現存する限られた史料から多角的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。
津軽為信公以前の大浦氏に関する史料は乏しく、為則公の具体的な活動や人物像を詳細に描き出すことは容易ではない 1 。それゆえに、断片的な記録や伝承を丹念に繋ぎ合わせ、歴史的文脈の中に彼を位置づける作業は、津軽地方の戦国史を理解する上で不可欠である。本報告を通じて、為則公が津軽の歴史において果たした役割と、その意義を明らかにしたい。
大浦為則公の生年については、複数の説が存在する。一般的には、永正17年3月3日(1520年3月21日)の生まれとされることが多い 1 。一方で、『青森県史』においては、享禄2年(1529年)生まれとする説も提示されており、為則公に関する基礎的な情報でさえ、確定が難しい状況が窺える 1 。これらの生年に関する説の違いは、後の津軽氏が藩としての体裁を整える以前の記録が散逸したか、あるいは藩祖・津軽為信公の権威を高める過程で、その祖先の経歴に何らかの作為が加えられた可能性を示唆している。為信公以前の大浦家の史料が少ないという事実は 1 、当時の記録管理の未熟さに加え、南部氏からの独立と大名としての地位確立を目指す中で、都合の良いように由緒が整理された可能性も否定できない。結果として、為則公自身の具体的な姿は、津軽為信という後継者の存在や、断片的な伝承を通してしか窺い知ることができない状況にある。
為則公の父は、大浦氏の当主であった大浦政信(おおうらまさのぶ)である 1 。政信公は、天文10年(1541年)、和徳城(わとくじょう)攻めの際に戦死したと伝えられており 1 、この出来事が為則公の若年での家督相続に繋がった。大浦氏は、南部氏の庶流とされ 4 、この出自は後の津軽氏の独立という歴史的転換において重要な意味を持つことになる。大浦氏の津軽地方における勢力基盤は、始祖とされる大浦光信(おおうらみつのぶ)が種里城(たねさとじょう)に入部し、その後、津軽平野内陸部の大浦城(現在の弘前市)を本拠としたことに始まるとされる 5 。政信公の代には、大浦城主であったことが確認できる 6 。
また、政信公に関しては、関白・近衛尚通(このえひさみち)の猶子(ゆうし)となったという伝承も存在する 7 。これが事実であれば、大浦氏が早くから中央政権との繋がりを意識していた可能性を示し、後の為信公による巧みな外交戦略の伏線とも考えられるが、この伝承もまた、確たる史料に裏付けられているわけではない。
為則公が生きた時代の津軽地方は、名目上は南部氏の支配下に置かれていた。南部氏は郡代を派遣して津軽を統治しようと試みていたが 9 、その統制は必ずしも強固なものではなかったようである 4 。南部氏の支配が津軽の末端まで完全には及んでいなかったことは、後の為信公による独立の素地となったと考えられる。
南部氏の統制が緩やかな中で、津軽地方では大浦氏を含む中小の在地領主が割拠し、互いに勢力を競い合い、小競り合いが絶えない状況にあった 4 。このような群雄割拠の状況が、後の津軽為信公による津軽統一事業の背景となる。大浦氏の周辺には、堀越城(ほりこしじょう)の武田氏など、他の在地勢力も存在しており 1 、これらの勢力との関係が大浦氏の動向に影響を与えていた。大浦氏が南部氏の庶流でありながら 4 、津軽に独自の拠点を築き 5 、在地領主として活動していた事実は、南部宗家の支配が実質的に弱かったことを示している。このような「力の空白」あるいは「支配の緩み」が、後の津軽為信公による急速な台頭と南部氏からの独立を可能にする重要な伏線となったと言えよう。為則公の父・政信公の戦死も 1 、そうした在地勢力間の抗争の一端であった可能性が高い。
年代(西暦) |
和暦 |
出来事 |
典拠 |
1520年3月21日 (説1) |
永正17年3月3日 |
生誕 |
1 |
1529年 (説2) |
享禄2年 |
生誕(『青森県史』説) |
1 |
1541年 |
天文10年 |
父・大浦政信、和徳城攻めで戦死。為則、家督を相続 |
1 |
時期不詳 |
天文年間か |
堀越城の武田氏を降し、弟・守信を同氏に養子として送り込む |
1 |
1545年 (伝承) |
天文14年 |
大浦城近隣に八幡宮を創建したとの伝承(弘前八幡宮) |
7 |
1567年 (説1) |
永禄10年 |
津軽為信を婿養子として迎える。娘・阿保良(戌姫)が為信に嫁ぐ |
1 |
1568年 (説2) |
永禄11年 |
津軽為信を婿養子として迎える |
1 |
1567年4月25日 (説1) |
永禄10年3月16日 |
死去 |
1 |
1568年3月30日 (説2) |
永禄11年3月2日 |
死去(『青森県史』説) |
1 |
天文10年(1541年)、大浦為則公の父である大浦政信公が、和徳城攻めの際に討死した 1 。この父の死により、為則公は大浦氏の家督を相続することとなった 1 。相続時の年齢は、前述の生年に関する諸説によって異なるが、いずれにしても比較的若年であった可能性が高い。若くして一族の命運を託された為則公の肩には、大きな重圧がかかっていたことであろう。
為則公の治世における具体的な活動として記録に残るものは多くないが、その中で注目されるのは、近隣勢力である堀越城の武田氏への対応である。為則公は武田氏を降伏させ、弟の守信(もりのぶ)を同氏に養子として送り込んだとされている 1 。これは、大浦氏の勢力範囲の安定化、あるいは近隣勢力との連携を深めるための一策であったと考えられる。一説によれば、この守信公は後に病弱な為則公に代わって政務を取り仕切ったとも言われている 11 。この記述は、為則公の病弱説と関連して興味深い。しかしながら、守信公の動向については情報が錯綜しており、別の資料では南部家の相続問題に絡む内乱によって戦死したとも伝えられている 12 。もし守信公が早くに亡くなっていたとすれば、為則公が病弱であった場合、後継者問題はより深刻なものとなっていたであろう。この情報の食い違いは、大浦氏内部の権力構造や後継者問題の複雑さ、あるいは当時の記録の不確かさを反映している可能性がある。守信公の生死や役割によって、為則公が津軽為信公を養子に迎えた背景の解釈も変わり得る。
為則公自身については、「生来病弱であったため政務を家臣に任せていた」という伝承が広く知られている 1 。この「病弱説」は、彼が実子ではなく津軽為信公を養嗣子として迎えるに至った理由として頻繁に引用される。しかし、この「病弱」が具体的にどのような状態であり、どの程度政務遂行能力に影響を及ぼしたのかを示す一次史料は乏しい。これが事実であれば、大浦氏の権力構造や家臣団の力関係、そして後の為信公の養子入りに大きな影響を与えたことは想像に難くない。ただし、この病弱説が、津軽為信公の養子入りと家督継承を円滑かつ正当なものとして説明するための後世の解釈、あるいは強調された側面である可能性も考慮に入れる必要がある。特に、為信公が実権を掌握していく過程で、為則公の主体性や能力を相対的に低く見せる効果があったかもしれない。
為則公時代の具体的な家臣団の構成については、残念ながら史料が乏しく、詳細は不明である。津軽為信公の時代の家臣団 13 から遡って推測することも困難であり、この時期の大浦氏の家政運営の実態については、多くの謎が残されている。
大浦為則公の数少ない具体的な治績として伝わるものの一つに、弘前八幡宮の創建がある。天文14年(1545年)、為則公が大浦城の近隣に八幡宮を創建したという伝承が残されている 7 。これが事実であれば、大浦氏が領内における宗教的権威を確立しようとした動きや、武神である八幡神への篤い信仰を通じて武運長久を祈願したことの現れと考えられる。
しかしながら、弘前八幡宮の創建については、慶長17年(1612年)に津軽為信公の子である津軽信枚(のぶひら)が創建したという説も有力であり 14 、為則公創建説の真偽については慎重な検討を要する。また、大浦氏の始祖とされる大浦光信公による種里八幡宮の建立(大永3年、1523年)との関連性も 5 、大浦氏の宗教政策を考察する上で興味深い視点を提供する。為則公の「病弱説」が広く流布している一方で、このような社寺創建の伝承が残っていることは、彼が一定のリーダーシップを発揮していた可能性も示唆しており、「病弱」の程度やその影響については、多角的な検討が必要であろう。
大浦為則公の養嗣子となり、後に津軽地方を統一し弘前藩の礎を築いた津軽為信公の出自は、津軽氏成立史における最大の謎の一つであり、今日に至るまで諸説が入り乱れている 10 。この出自の曖昧さは、為信公自身の経歴が、後の南部氏との激しい対立や、津軽支配の正当性をめぐる言説の中で、双方の記録において大きく異なる形で記述される原因となった。
津軽為信 出自に関する諸説比較表
説の名称 |
主な内容 |
根拠とされる史料・伝承など |
特徴・備考 |
久慈氏説 |
南部氏の一族で、下久慈城主(現在の岩手県久慈市周辺)であった久慈氏の出身。具体的には久慈治義(くじはるよし)の二男、幼名を平蔵とする説が有力。 |
『津軽一統志』などの津軽側史料、南部氏側史料の一部、民間伝承 10 。為信が久慈村から出奔し大浦氏の養子になったとの伝承 5 。 |
弘前藩の公式見解に近いとされる。為信を南部氏の一族と位置づけることで、南部氏からの独立という物語性を強める。南部氏側からは「裏切り者」と見なされる根拠ともなる。 |
武田氏説 |
堀越城主・武田守信(たけだもりのぶ)の子、あるいは大浦為則の弟・大浦守信の子とする説。 |
一部の系図、伝承 5 。 |
為信をより津軽土着の勢力、あるいは大浦氏の近縁者と結びつける説。 |
その他 |
上記以外にも、詳細不明な伝承や異説が存在する可能性。 |
|
史料的裏付けに乏しいものが多い。 |
為信公の出自が久慈氏(南部庶流)であれ武田氏(在地領主)であれ、彼が大浦氏の養子となったという事実は、当時の津軽における勢力図や血縁関係の重要性を示している。久慈氏説が有力視される背景には、為信公が南部氏の一族でありながら独立を成し遂げたという劇的な経緯が、後の津軽氏のアイデンティティ形成に影響を与えた可能性が考えられる。この出自の曖昧さ、あるいは複数の説が存在すること自体が、為信公という人物の複雑性と、彼が台頭した時代の流動性を象徴していると言えよう。また、津軽氏と南部氏の長年にわたる対立関係の中で、互いの正当性を主張するために、為信公の出自に関する言説が戦略的に利用された可能性も否定できない。
津軽為信公が、大浦為則公の養子となったのは、永禄10年(1567年)または永禄11年(1568年)のこととされている 1 。この際、為則公の娘である阿保良(あぼら、戌姫(いぬひめ)、お福(おふく)とも呼ばれる 1 )を娶り、婿養子という形で大浦氏の後継者候補となった。
この養子縁組の理由としては、第一に為則公の病弱説が挙げられる 1 。また、為則公には男子がいなかった、あるいはいても幼弱であった可能性も考えられる(実際には6人の男子がいたとされるが 1 、その年齢や状況は不明である)。さらに、当時の大浦氏を取り巻く厳しい状況の中で、家勢を安定させ、さらには発展させるために、有能な人物を外部から迎え入れる必要性を感じていた可能性も否定できない。そして何よりも、為信公自身の非凡な器量と野心が、この養子入りを実現させた大きな要因であったろう。
しかしながら、『青森県史』では、為則公から為信公への家督相続が必ずしも円滑に行われていなかったのではないか、という推測もなされている 1 。これは、史料の少なさからくる憶測の域を出ないものの、後継者問題に何らかの複雑な事情が存在したことを示唆している。為則公が為信公を養子に迎えたのは、単に病弱で後継者がいなかったという消極的な理由だけでなく、大浦氏の存続と発展のための戦略的判断であった可能性が高い。一方、為信公にとっても、大浦氏の養子となることは、津軽での勢力拡大の足がかりを得る絶好の機会であった。この養子縁組は、為則公個人の意向のみならず、時代の要請や為信公の野心が複雑に絡み合った結果と見るべきであろう。
津軽為信公は、養子入り後、大浦氏の第五代当主を継いだとされる 5 。当初は「大浦右京亮(うきょうのすけ)為信」を名乗っており 21 、これは大浦氏の家督を正式に継承したことを示している。
しかし、為則公の存命中に為信公がどの程度の実権を掌握し始めていたのか、あるいは為則公の死後に正式に家督を継いだのか、その具体的なプロセスについては不明瞭な点が多い。為則公の没年とされる永禄10年(1567年)または11年(1568年)は、為信公の養子入りの時期とほぼ重なるため、養子入り後間もなくして為則公が死去し、為信公が家督を継いだ可能性が高い。
ただし、家督相続が「円滑」であったかについては議論の余地がある。前述の『青森県史』の推測に加え、後の為則公の子息たちの処遇を巡る不穏な説(第四章で詳述)などを考慮すると、為信公の台頭が必ずしも穏健なものではなかった可能性も示唆される。為信公が大浦氏の家督を継いだことで、大浦氏の性格は大きく変容し、より積極的な勢力拡大へと舵を切ることになる。この家督相続は、津軽の歴史における大きな転換点であったと言える。
大浦為則公の没年についても、生年と同様に複数の説が存在する。一般的には、永禄10年3月16日(1567年4月25日)に亡くなったとされる 1 。一方で、『青森県史』は永禄11年3月2日(1568年3月30日)説を採録している 1 。津軽為信公の養子入りが永禄10年または11年とされているため 1 、いずれの説を採るにしても、為則公は為信公を養子に迎えてから比較的短い期間でこの世を去った可能性が高い。
死因については、生来病弱であったと伝えられることから 1 、病死であった可能性が高いと考えられるが、具体的な病名や死に至る経緯を記した史料は乏しい。為則公の死は、養子である為信公にとって、大浦氏における実権を完全に掌握し、自らの構想を本格的に推し進める大きな契機となった。
大浦為則公には、6人の男子がいたと記録されている 1 。養嗣子である津軽為信公が家督を継承した後、これらの実子たちがどのような運命を辿ったのかは、大浦家の変容を考える上で極めて重要な問題である。
特に注目されるのは、為則公の五男と六男(為信公の正室・阿保良の実弟にあたる)に関する悲劇的な伝承である。天正13年(1585年)頃、この二人の若者が川遊び中に溺死したとされている 1 。この事件について、為信公が後の家督争いの芽を摘むため、あるいは自らの権力基盤を盤石なものとするために、彼らを意図的に暗殺させたのではないかという説が存在する 1 。この暗殺説は、為信公の冷酷非道な一面を強調する逸話として、特に津軽氏と対立した南部氏側の記録や、後世の編纂物において語られることが多い 22 。
この暗殺説の真偽を確かめることは、現存する史料の制約から極めて困難である。直接的な証拠となる一次史料は限られており、主に状況証拠や伝承に頼らざるを得ない。津軽氏側の公式記録である『津軽一統志』などがこの事件をどのように扱っているか(あるいは意図的に黙殺しているか)の検証も必要となるが、仮に暗殺が事実であったとすれば、為則公の死後、大浦家内部で為信公による権力集約が、極めて強硬かつ非情な手段をもって進められたことを示すものとなる。
為則公の五男・六男の溺死事件と暗殺説は、天正13年(1585年)頃の出来事とされる。この時期は、為信公が津軽統一をほぼ完成させ、中央の豊臣政権との交渉を本格化させようとしていた重要な時期と重なる 16 。このような状況下で、自らの地位を脅かす可能性のある潜在的なライバルを排除しようとしたとしても、戦国時代の権力闘争の常として、不自然とは言い切れない。たとえ暗殺が事実でなかったとしても、このような噂が流布したこと自体が、為信公の権力掌握過程が穏健なものではなく、少なからぬ疑念や反感を抱く者が存在したことを示唆している。為則公の死からこの事件までの約18年間、他の兄弟たちがどのように扱われたかについての情報も乏しく、為信公による権力基盤固めの過程で、旧体制に連なる人物が排除されていった可能性は否定できない。
大浦為則公の死後、養嗣子の津軽為信公は大浦氏の当主として、津軽統一に向けた動きを本格化させる。元亀2年(1571年)の石川城攻略 10 、天正3年(1575年)から翌年にかけての大光寺城攻略 10 、そして天正6年(1578年)の浪岡城攻略 10 など、為信公の軍事行動は次々と成果を上げ、その勢力範囲を急速に拡大していった。
天正13年(1585年)頃には、為信公は津軽地方の大部分をその手中に収め 16 、中央の豊臣政権との接触を試み始める 16 。そして文禄3年(1594年)、ついに豊臣秀吉より正式に「津軽」の姓と所領の安堵を受け 4 、名実とも独立した大名としての地位を確立する。ここに、「大浦氏」から「津軽氏」への転身が公的に完成したのである。
この一連の過程において、大浦為則公は、津軽氏の直接の始祖ではないものの、為信公に大浦氏の家督を譲った養父として、津軽氏成立の「前段階」を準備した人物として歴史に位置づけられる。為則公自身の主体的な記録は少ないものの、彼が大浦氏の当主として存在し、為信公を養子に迎えたという事実は、津軽氏成立史において不可欠な環であった。彼の存在がなければ、為信公が津軽において初期の足がかりを築くことは困難であった可能性が高い。結果として、為則公は、津軽為信公という稀代の英雄が登場するための「舞台装置」あるいは「橋渡し役」としての歴史的役割を担ったと評価できる。彼の個性や具体的な治績よりも、彼が「誰の養父であったか」という点において、歴史に名を残すことになったと言えよう。これは、為則公個人の限界を示すと同時に、戦国時代の武家の家督相続や勢力拡大において、養子縁組がいかに重要な戦略的手段であったかを示す好個の事例でもある。
大浦為則公に関する一次史料は極めて限定的であり、その生涯や人物像の多くは、養子である津軽為信公の記録や、後世に編纂された『津軽一統志』 24 などの二次史料を通じて間接的に推測するほかないのが現状である。特に、『青森県史』が指摘するように、為信公以前の大浦家の史料が極めて少ないこと 1 が、研究を進める上での大きな制約となっている。
津軽氏側の史料と、長らく対立関係にあった南部氏側の史料(例えば『南部根元記』 25 など)とでは、津軽為信公及びその周辺の出来事に対する評価が大きく異なるため、多角的な史料批判が不可欠となる。また、『永禄日記』 26 のような同時代の地域記録に、為則公に関する記述がどの程度見られるか、あるいは全く見られないのかという点も、彼の活動範囲や当時の影響力を測る上で参考になる。
為則公に関する情報が極めて乏しいのは、単に記録が失われたという物理的な理由だけでなく、津軽為信公という傑出した人物の業績を強調する歴史叙述の中で、その前段階の人物が相対的に矮小化されたり、あるいは為信公の物語を補強する役割に限定されたりした結果とも考えられる。津軽氏の公式史書である『津軽一統志』は、当然ながら藩祖・為信公の功績を称揚する目的で編纂されており 24 、このような「英雄史観」のもとでは、英雄登場以前の人物や出来事は、英雄の偉大さを際立たせるための序章として位置づけられがちである。その結果、為則公自身の主体的な活動や、彼が直面したであろう困難、あるいは彼自身の構想といったものは記録に残りにくく、為信公の物語に従属する形でしか語られない傾向が生じる。したがって、為則公の実像に迫るためには、断片的な情報から当時の状況を類推し、為信公中心の物語から意識的に距離を置いて考察する必要があるが、史料的限界からその再構築は極めて困難であると言わざるを得ない。
主要関連史料とその特徴
史料名 |
編纂時期・性格 |
大浦為則・津軽為信に関する記述の傾向・特徴 |
史料としての信頼性や注意点 |
『津軽一統志』 |
享保16年(1731年)完成。弘前藩撰の公式史書。 |
津軽氏の始祖から説き起こし、為信による津軽統一の過程を詳述。為則は為信の養父として登場。津軽氏の正当性を強調する傾向。巻一に為則の死去までの事績を記述 24 。 |
藩の公式見解であり、為信顕彰の意図が強い。為則に関する記述は比較的簡潔。 |
『南部根元記』 |
江戸時代中期以降の成立か。南部氏側の軍記物・歴史書。 |
南部信直の事績が中心。津軽氏の独立を南部氏の立場から批判的に記述する傾向。為信を謀反人として描く 22 。 |
南部氏側の視点であり、津軽氏に対する敵対的な記述を含むため、史料批判が必要。 |
『永禄日記』 |
北畠家に伝わる記録を山崎立朴が編集。永禄元年~安永七年。 |
戦国時代の津軽地方の農民生活や出来事を知る手がかりとなる。為信の石川城攻撃や大光寺城攻撃、堀越城修築などに関する記述が見られる 10 。 |
同時代の地域記録として貴重だが、為則個人に関する直接的な記述は少ない可能性。 |
『青森県史』 |
近代以降の編纂物。 |
諸史料を比較検討し、客観的な記述を試みる。為則の生没年には異説を提示し、為信以前の史料の少なさを指摘 1 。 |
現代の研究成果を踏まえており、多角的な情報が得られるが、一次史料ではない。 |
大浦為則公自身は、津軽統一を成し遂げたわけでも、戦国大名として名を馳せたわけでもない。しかし、彼が大浦氏の家督を継承し、そして何よりも津軽為信公を養子に迎えたという一点において、津軽氏成立の歴史の連鎖における重要な一環を成したことは疑いようがない。
為則公の存在は、為信公が津軽の地に確固たる地盤を築き、後の目覚ましい飛躍を遂げるための、いわば「前提」あるいは「踏み台」となったと評価できる。彼の「病弱説」や、その子息たちが辿ったとされる悲劇的な結末(暗殺説を含む)は、ややもすれば為信公の英雄性を際立たせるための背景として語られがちである。しかし、これらの伝承は、為則公自身の苦悩や、当時の大浦氏が置かれたであろう厳しい政治的・軍事的状況を反映している可能性も十分に考慮すべきであろう。
大浦為則公個人が、後世の津軽に直接的かつ具体的な影響を与えた事例を見出すことは難しい。しかし、彼を通じて大浦氏の家督が津軽為信公に引き継がれたという事実は、津軽地方の歴史を大きく転換させる決定的な出来事であった。
弘前八幡宮創建の伝承が事実であれば 7 、地域の信仰にささやかながらも足跡を残したことになるが、これもまた確証を得るには至っていない。為則公の真の人物像、具体的な治績、そして養嗣子・為信公との間にどのような関係性が実際に存在したのかなど、多くの謎が未だ解明されないまま残されている。
大浦為則公のような、中央の華々しい歴史の舞台には名を残さなかった地方領主に関する記録の乏しさは、戦国時代の地方史研究における共通の課題でもある。彼のような人物の生涯を丹念に追うことは、中央集権的な歴史観では見過ごされがちな、地域の多様な歴史の様相を明らかにする上で重要な意義を持つ。為則公の事例は、史料の乏しい中でいかにして地方史の細部を復元し、地域社会のダイナミズムを理解するかという、歴史研究の方法論的な課題をも提示している。
結論として、大浦為則公は、津軽の歴史において、直接的な英雄ではないものの、英雄の登場を準備し、その道を拓いた「影の立役者」として、その名を記憶されるべき人物であると総括できる。今後の新たな史料の発見や、研究の進展によって、為則公に関する新たな側面が明らかになる可能性に期待を寄せたい。