本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて生きた武将、大谷吉治(おおたに よしはる)の生涯について、現存する史料や研究成果に基づき、詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。大谷吉治は、一般に「豊臣家臣。吉継の長男。関ヶ原合戦では父とともに西軍に属して戦った。戦後、牢人となるが、豊臣秀頼に招かれ大坂城に入る。天王寺口の戦いで戦死した」と概要が知られている。本報告書では、この情報を基点としつつ、その範囲に留まらない多角的な情報を提供し、一人の武将の生涯を深く掘り下げる。
大谷吉治は、豊臣秀吉の側近として知られる名将・大谷吉継の子(あるいは弟、養子ともされる)であり、父と共に豊臣方として関ヶ原の戦いに参陣した。西軍の敗北後は牢人の身となったが、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入り、豊臣家のために戦い、慶長20年(1615年)の夏の陣、天王寺口の戦いでその生涯を閉じた。
吉治の生涯は、豊臣政権の終焉と徳川幕府の成立という、日本史における激動の時代と分かち難く結びついている。父・吉継の輝かしい功績と悲劇的な最期の影に隠れがちではあるが、吉治自身の生き様もまた、戦国末期から江戸初期にかけての武士のあり方、そして豊臣家への忠義を貫いた一つの典型として、歴史の中に位置づけられる。彼の生涯を追うことは、時代の転換期に生きた武士たちの多様な運命を理解する上で、貴重な手がかりとなるであろう。
大谷吉治の生涯を理解する上で、まず彼の出自、特に父・大谷吉継との関係性は避けて通れない論点である。吉治自身の記録が乏しいこともあり、その人物像の多くは父・吉継の事績や、吉継を取り巻く環境から推察される部分が大きい。
大谷吉継の出自に関しては、いくつかの説が存在する。近江国(現在の滋賀県)の出身とする説 1 や、豊後国(現在の大分県)の大友氏家臣であった大谷盛治の子であるとする説 1 、あるいは六角氏の旧臣であった大谷吉房の子とする説 3 などが伝えられている。母は豊臣秀吉の正室・高台院(北政所、ねね)に仕えた侍女で東殿と呼ばれた人物であったとされ 1 、その縁からか、天正年間初め頃に秀吉の小姓として取り立てられ、寵愛を受けたとされる 1 。秀吉による播磨攻略の頃からその名が記録に見えるようになる 4 。
吉継は秀吉の下でその才能を高く評価され、越前国敦賀(現在の福井県敦賀市)の城主として、当初2万石、後には5万石余を領する大名となった 5 。敦賀は日本海交易の要港であり、吉継はその地の利を活かして物資の集積や輸送、さらには検地奉行など、主に内政面や兵站面で卓越した手腕を発揮した 1 。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(文禄の役)においては、船奉行や作戦参謀として朝鮮半島へ渡海し、石田三成らと共に作戦の遂行にあたった 6 。このように、吉継は豊臣政権の中枢を支える重要な人物の一人であった 1 。
吉継は若い頃から重い病(業病)を患っていたと伝えられる。その病については、ハンセン病であったとする説 1 や、末期の梅毒による組織壊死であったとする説 3 などがあるが、正確な病名は特定されていない。この病により容貌が著しく変化したとされ、それが彼の行動や周囲との関係にも影響を与えたと考えられる 3 。
特に有名な逸話として、ある茶会での出来事が挙げられる。席上、諸将が一つの茶碗を順に回し飲みする際、病を患う吉継が口をつけた茶碗を、他の者たちは感染を恐れて飲むふりをするだけであった。しかし、石田三成だけは普段と何ら変わることなくその茶を飲み干し、吉継に気さくに話しかけたという 3 。この三成の態度に吉継は深く感動し、二人の間には固い友情が結ばれたとされている。この友情こそが、後の関ヶ原の戦いにおいて、吉継が不利を承知で三成方に味方する大きな要因となったと考えられている 4 。
吉継の子としては、本報告書の主題である吉治の他に、木下頼継、そして真田信繁(幸村)の正室となった竹林院、泰重らの名が伝えられている 2 。
父・吉継の人物像、豊臣政権における彼の立場、そして石田三成との深い絆は、息子の吉治の生涯を考察する上で不可欠な背景情報となる。吉継が示した豊臣家への忠誠心や、友との義理を重んじる姿勢は、吉治の行動原理にも少なからず影響を与えたであろうことは想像に難くない。
大谷吉治の生年については明確な記録がなく、後述する年齢に関する議論がその推定の手がかりとなる。幼名についても、現存する史料からは確認できない。
諱(いみな)は「吉治(よしはる)」の他に、「吉胤(よしたね)」や「吉勝(よしかつ)」といった名も伝えられている 13 。本報告書では主に「吉治」の呼称を用いるが、史料によっては「吉勝」と記される場合も見られる 14 。官位は大学助(だいがくのすけ)であったことが記録されている 13 。これらの基礎情報を整理することは、史料を読み解く上での混乱を避けるために重要である。
大谷吉治は一般的に大谷吉継の長男として認識されている 6 。しかし、この関係性については古くから議論があり、実子ではなく弟、あるいは養子であった可能性も指摘されている 13 。この謎を解く鍵の一つとして注目されるのが、大坂の陣に参加した徳川方の武将・土屋知貞(つちや ともさだ)の記録である。
土屋知貞が残したとされる『大坂陣山口休足咄』の中に、大坂夏の陣(慶長20年・1615年)における吉治の年齢が「五十歳計り」(50歳くらい)と記されているという 13 。もしこの記述が正確であるならば、吉治の生年は永禄8年(1565年)頃と推定される。
一方、父とされる吉継の生年には、永禄2年(1559年)説と永禄8年(1565年)説が存在する 2 。仮に吉継が永禄2年(1559年)生まれであったとしても、吉治が永禄8年(1565年)生まれであれば、父がわずか6歳の時の子となり、実子としては極めて不自然である。もし吉継が永禄8年(1565年)生まれであったならば、吉治と同年齢となり、実の親子関係はあり得ないことになる。この年齢的な矛盾が、吉治が吉継の弟、または養子であったとする説の有力な根拠となっている 13 。
この「長男」説が広く受け入れられている背景には、江戸時代に成立した軍記物などの影響が考えられる。しかし、土屋知貞の記録という具体的な史料と照らし合わせると、その信憑性には大きな疑問符が付く。もし吉治が弟や養子であった場合、大谷家の家督相続のあり方や、吉治が豊臣家に対して抱いた忠誠心の源泉(父の遺志を継ぐのか、兄の遺志を継ぐのか等)についての解釈も変わってくる可能性がある。
ただし、土屋知貞は敵方である徳川方の武将であり、その記録の信憑性については慎重な検討が必要である。戦場での見聞や伝聞に基づく記録である可能性も高く、勘違いや誤りが含まれていることも十分に考えられる 13 。また、吉継が患っていた病が、実子を儲けることや、その事実を公にすることに何らかの影響を与えた可能性も、憶測の域を出ないものの、考察の一つの視点として残る。
表1:大谷吉治の呼称・官位・続柄に関する諸説
項目 |
内容 |
主な根拠史料・備考 |
諱(いみな) |
吉治(よしはる) |
一般的な呼称 |
|
吉胤(よしたね) |
13 |
|
吉勝(よしかつ) |
13 関ヶ原や大坂の陣関連の史料に見られる |
官位 |
大学助(だいがくのすけ) |
13 |
続柄(対吉継) |
実子(長男)説 |
通説 6 |
|
弟説 |
土屋知貞の年齢記述(下記参照)に基づく年齢差の矛盾から 13 |
|
養子説 |
土屋知貞の年齢記述(下記参照)に基づく年齢差の矛盾から 13 |
年齢に関する記録 |
『大坂陣山口休足咄』(土屋知貞)にて「五十歳計り」(慶長20年当時) |
13 これが事実なら生年は永禄8年(1565年)頃。吉継の生年(永禄2年説または永禄8年説)との間に矛盾が生じ、実子説に疑義が生じる。 |
この表は、吉治に関する基本的な情報と、その出自に関する最大の謎を一覧化することで、複雑な情報を整理しやすくするものである。特に、土屋知貞の記録という一点の史料が、どのように複数の解釈を生み出しているのかを視覚的に示すことは、歴史研究における一次史料の重要性と、その解釈の多様性・困難性を理解する上で有効である。
慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いと称される関ヶ原の戦いは、大谷吉治の運命を大きく左右する出来事であった。父・吉継と共に西軍に与した吉治は、この戦いで父を失い、自身もまた敗走の憂き目に遭う。
豊臣秀吉の死後、五大老筆頭であった徳川家康はその影響力を急速に拡大させ、豊臣政権内部では石田三成ら奉行衆との対立が次第に先鋭化していった。家康の専横を許せない三成は、ついに打倒家康の兵を挙げることを決意する。
この三成の決意に対し、大谷吉継は当初、反対の立場をとった。吉継は、三成の器量や人望では諸将の広範な支持を得ることは難しく、また家康の実力を冷静に分析した結果、西軍に勝ち目はないと判断し、三成に挙兵を思いとどまるよう説得を試みたとされる 4 。しかし、三成の固い決意と、長年にわたる二人の深い友情から、吉継は最終的に三成と共に戦うことを決断する 4 。この決断には、秀吉から受けた恩顧に対する思いや、豊臣家の将来を憂う気持ちも複雑に絡み合っていたと考えられる。吉治もまた、父・吉継のこの決断に従い、西軍の一翼を担うこととなった。
関ヶ原において、大谷吉継は主戦場の西、現在の岐阜県不破郡関ケ原町山中にある山中村に布陣した。この地は東山道(中山道)を見下ろす戦略的要衝であり、かつ東軍への寝返りが噂されていた小早川秀秋の陣取る松尾山を正面に監視できる位置でもあった 15 。吉継は秀秋の動向を強く警戒し、その裏切りに備えた陣形を敷いていたと伝えられている 15 。
大谷父子の兵力については、史料によって記述に差異が見られる。『朝野旧聞裒藁』という史料には、大谷吉継の兵を600、大谷吉治(吉勝)の兵を2,500とする記述がある 14 。一方で、同じ『朝野旧聞裒藁』に収録されている「慶長五年八月五日付真田昌幸宛 石田三成書状の備口人数書」によれば、大谷吉継の兵力は1,200とされている 14 。また、江戸時代に成立した軍記物である『関原軍記大成』では、大谷吉継、その子吉治、そして木下頼継の兵を合わせて約5,000と記している 21 。
これらの兵力数の違いは、史料の成立時期や性格(一次史料に近い同時代の記録か、後世の編纂物や軍記物か)、あるいは兵力の算定基準の違いなどによるものと考えられる。特に『朝野旧聞裒藁』における吉継600、吉治2,500という記述は、もし事実であれば、吉治が父の指揮下にある一将というよりも、独立した部隊を率いる将として扱われていた可能性を示唆し、興味深い。これは吉治の年齢や経験、あるいは吉継の病状が進行し、実質的な部隊指揮の一部を吉治が担っていた可能性など、様々な解釈を生む。
近年の関ヶ原研究においては、白峰旬氏や小池絵千花氏らによって、従来の布陣図や兵力に関する通説の見直しが進められている 14 。小池氏は、同時代の書状を詳細に分析することで、白峰氏が提唱する主戦場が山中であったとする説を批判しつつも、大谷吉継・吉治の部隊が山中に布陣していたこと自体は認めている 25 。
表2:関ヶ原の戦いにおける大谷父子の兵力比較
史料名 |
大谷吉継 兵力 |
大谷吉治(吉勝) 兵力 |
木下頼継 兵力 |
合計・備考 |
『朝野旧聞裒藁』 |
600 |
2,500 |
1,000 |
吉継・吉治・頼継で合計4,100。吉治の兵数が突出している 14 。 |
『朝野旧聞裒藁』内「石田三成書状の備口人数書」 |
1,200 |
記載なし |
700 |
吉継と頼継の合計1,900。吉治の兵力は不明 14 。 |
『関原軍記大成』 |
- |
- |
- |
大谷吉継・大谷吉治・木下頼継の合計として約5,000と記述 21 。内訳不明。 |
この表は、関ヶ原における大谷父子の兵力という基本的な情報について、史料間の差異を明確に示すものである。これにより、歴史記述の多様性と、数字の背後にある解釈の必要性を理解することができる。特に吉治の兵力が大きく記されている史料を提示することで、彼の戦場における潜在的な重要性に光を当てる。
慶長5年9月15日、関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。戦闘開始後、大谷隊は東軍の藤堂高虎隊や京極高知隊と激しい攻防を繰り広げた 20 。吉継は病のため輿に乗って指揮を執ったと伝えられる。
戦況が膠着する中、昼過ぎ、松尾山に布陣していた小早川秀秋の大軍がついに東軍に寝返り、側面から大谷隊に襲いかかった 15 。吉継はこの裏切りを予測しており、寡兵ながらも果敢に防戦し、一時は小早川勢を三度押し返したともいう奮戦を見せた 15 。
しかし、秀秋の裏切りに呼応するように、西軍に属していたはずの脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった諸隊までもが東軍に寝返り、大谷隊に対して攻撃を開始した 15 。これにより、大谷隊は正面の敵に加え、側面および後方からも攻撃を受けるという絶望的な状況に陥り、奮戦もむなしく壊滅状態となった。
敗北を悟った吉継は、自害を決意。年来の病によって変わり果てた自らの首を敵に渡すことを潔しとせず、側近の湯浅隆貞(五助)に介錯を命じ、首を戦場から離れた場所に隠すよう言い遺した 14 。湯浅隆貞は主君の最後の命に従い、吉継の首を埋めた後、追ってきた藤堂高虎の甥・藤堂高刑の軍勢に捕らえられた。その際、隆貞は自らの首を差し出す代わりに吉継の首のありかを秘匿するよう高刑に懇願し、高刑もその義心に感じてこれを承諾したという逸話が残されている 15 。
吉継が辞世に詠んだとされる「契りあらば六つの巷に待てしばし おくれ先立つたがいありとも」という句は、盟友・石田三成への想いを込めたものとして、今に伝えられている 30 。
父・吉継が自害し、大谷隊が総崩れとなる混乱の中、大谷吉治(史料によっては吉勝)は、同じく父に従っていた木下頼継と共に戦場からの離脱を余儀なくされた 15 。
その後の吉治の足取りについて、江戸時代の軍記物などには、一旦、父・吉継の旧領であった越前敦賀へ落ち延び、再起を図ろうとしたと記されている 13 。しかし、敦賀城を守っていた留守居役にも不穏な動きが見られたため、敦賀での再起を断念し、最終的には大坂方面へ落ち延びたとされる 13 。
父の壮絶な死と自軍の壊滅を目の当たりにした吉治の胸中は察するに余りある。この過酷な経験は、その後の彼の牢人生活、そして大坂の陣での行動に大きな影響を与えたであろう。敦賀への一時的な敗走は、単なる逃避ではなく、父の旧領における再起という具体的な目標があった可能性を示唆している。しかし、そこでも安住の地を得られず、大坂へ向かうという決断は、彼を豊臣家への最後の奉公へと駆り立てる原動力の一つになったのかもしれない。ただし、これらの敗走経路に関する記述は、後世に成立した軍記物に依拠する部分が大きく、その記述の信憑性については慎重な検討が必要である。関ヶ原直後の混乱期における個人の詳細な動向を正確に追うことは極めて困難であり、軍記物には創作や脚色が含まれる可能性も否定できない。
関ヶ原の戦いでの西軍敗北は、大谷吉治の人生を大きく変えた。父を失い、大谷家は改易。吉治は一転して主家を持たない牢人となり、雌伏の時を過ごすことになる。そして十数年後、豊臣家の存亡を賭けた大坂の陣が勃発すると、彼は再び歴史の表舞台に姿を現す。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍の勝利に終わった。西軍に与した多くの大名は改易(領地没収)や減封(領地削減)の処分を受け、その結果、膨大な数の武士が主家を失い、牢人となった 31 。大谷家も例外ではなく、吉継が西軍の主力として戦死したため改易となり、吉治は牢人の身分に転落した 6 。
当時の牢人の生活は極めて困窮を極めることが多く、再仕官の道も非常に限られていた 34 。特に、関ヶ原で徳川家康に敵対した豊臣恩顧の武将やその家臣たちにとっては、徳川の治世下で新たな活躍の場を見出すことは一層困難であった。大名家の嫡男であった吉治が、無禄の牢人としてどのような生活を送ったのか、その経済的・社会的困窮は想像に難くない。
吉治の具体的な潜伏先や牢人時代の生活実態を直接的に示す詳細な史料は、残念ながら乏しい。各地の伝承には、戦乱を逃れた武将が潜伏したとされる話が残されているが 36 、吉治に明確に結びつくものは確認されていない。
しかし、同時代に牢人となった他の著名な武将たちの事例から、当時の牢人の境遇をある程度推察することは可能である。例えば、黒田家を出奔し牢人となった後藤又兵衛は、諸国を流浪した後に京都で潜伏生活を送ったとされ 38 、宇喜多秀家の旧臣で熱心なキリシタンであった明石全登は、関ヶ原敗戦後、旧主の縁故を頼って潜伏し、信仰を守りながら再起の機会をうかがっていた 41 。彼らのように、吉治もまた、父・吉継の旧臣や縁者を頼ったり、あるいは身を隠しながら再起の機会を待っていた可能性が考えられる。関ヶ原で敗れた西軍の牢人たちの間には、情報交換や相互扶助のための何らかの繋がりが存在した可能性もあり、吉治もそうしたネットワークを通じて大坂方の動向を察知していたのかもしれない。
関ヶ原の戦いから十数年が経過した慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件などをきっかけとして、徳川家康と豊臣秀頼との間の緊張関係はついに限界に達し、大坂冬の陣が勃発する。豊臣方は、徳川方に対抗するための戦力増強策として、全国に散在していた牢人たちを積極的に召し抱えた 35 。
大谷吉治も、この豊臣秀頼からの招きに応じ、大坂城に入城したとされている 6 。彼が大坂方からの誘いに応じた動機は、複合的なものであったと考えられる。第一に、父・吉継が豊臣家、特に石田三成を通じてではあるが、多大な貢献をしたという実績。第二に、吉治自身の武勇に対する豊臣方の期待。そして何よりも、吉治自身にとって、この戦いは父・吉継の仇討ちであり、恩義ある豊臣家への最後の奉公であり、さらには大谷家の再興を賭けた最後の機会と捉えていた可能性が高い。長年の牢人生活で味わった困窮と屈辱も、豊臣家からの誘いに応じる大きな動機の一つになったであろう。
大坂城に入った吉治は、100名の兵士を率いる隊長に任命されたと伝えられている 13 。真田信繁(幸村)や後藤又兵衛といった、大坂の陣で活躍した他の有力な牢人武将たちが率いた兵力と比較すると、やや小規模な部隊であった。これは、関ヶ原での敗戦後の影響や、十数年に及ぶ牢人としての期間の長さが、彼の評価や豊臣方における兵力編成の実情に影響した可能性を示唆している。父・吉継が豊臣秀吉から「百万の軍勢を預けてみたい」と評されたほどの将であったことを考えると 10 、この規模の部隊指揮は吉治にとって必ずしも本意ではなかったかもしれないが、それでも豊臣方についたのは、やはり豊臣家への忠義や再起への強い思いがあったからであろう。
慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣において、大谷吉治が具体的にどのような戦闘に参加し、どのような活躍をしたのかについては、提供された資料からは明確な記録を見出すことは難しい。
しかし、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣においては、彼の名が戦闘記録に現れる。まず、5月6日の道明寺の戦いに参加したとされている 13 。この戦いは、豊臣方の後藤又兵衛らが寡兵で徳川方の大軍と衝突し、壮絶な戦死を遂げたことで知られる。
そして、豊臣方の命運を決する最終決戦となった5月7日の天王寺・岡山の戦いにも、吉治は参加している 13 。この戦いを描いたとされる『大坂夏の陣図屏風』には、大谷吉勝(吉治)が、父・吉継の旧縁者である木下頼継や戸田重政らと共に「大谷隊」として布陣し、奮戦する様子が描かれている部分があるとされる 16 。これは、吉治が単独で行動していたのではなく、父の代からの繋がりを持つ者たちと一つの部隊を形成し、組織的に戦っていた可能性を示している。
大坂夏の陣のクライマックスである天王寺口の戦いにおいて、大谷吉治は豊臣方の主力部隊の一翼を担い、真田信繁(幸村)隊などと共に前線で徳川軍と激しく戦った 13 。
吉治が対峙したのは、徳川家康の孫であり、父・吉継の旧領である越前国北ノ庄(福井)藩主となっていた松平忠直の軍勢であった 13 。奇しくも父の旧領の兵と戦うことになった吉治は、奮戦したものの、この戦闘中に松平忠直の家老であった本多富正の配下によって討ち取られ、戦死を遂げたと記録されている 13 。『当代記』には、大坂夏の陣において松平忠直・本多富正らが豊臣勢と戦い、その中で大谷吉治が戦死したことが記されている 45 。
この本多富正の家中には、彼の軍功に関する家伝史料として『本多富正一手江討取首数覚』や『本多富正家伝抜書』といった記録が伝えられている 46 。これらの史料は、福井県立図書館や福井県文書館などに所蔵されている可能性があり 47 、もし現存し内容が確認できれば、大谷吉治を討ち取った具体的な状況や、その首を挙げた人物の名前など、彼の最期に関するより詳細な情報が明らかになるかもしれない。越前兵の中には、かつて大谷吉継に仕えた者やその子弟が含まれていた可能性も皆無ではなく、彼らがどのような思いで旧主の子と刃を交えたのか、歴史の皮肉を感じさせる。
真田信繁らが徳川家康本陣に迫るほどの猛攻を見せた天王寺口の戦いであったが、豊臣方の奮戦もむなしく、大勢は徳川方に傾き、大坂城は落城、豊臣家は滅亡した。大谷吉治は、父・吉継と同じく、豊臣家のために最後まで戦い抜き、その生涯を閉じたのである。
大谷吉治の生涯を再構築する上で、彼に関する記述を含む史料の性質を理解し、それらを批判的に検討することが不可欠である。また、近年の研究動向を踏まえ、吉治像の再検討を行うことも重要となる。
大谷吉治に関する直接的な一次史料は極めて限られており、多くは父・吉継の事績に関連して、あるいは敵方の記録や後世の軍記物の中に断片的に見出される。
これらの史料を総合的に分析することで、断片的ながらも吉治の人物像や行動の一端を垣間見ることができる。しかし、彼自身の発給文書や詳細な日記といった一次史料が乏しいため、その内面や具体的な思考を深く知ることは困難であると言わざるを得ない。
近年の歴史研究、特に関ヶ原の戦いや大坂の陣に関する研究の進展は、大谷吉治像の再検討にも影響を与える可能性がある。
歴史像は固定されたものではなく、新たな史料の発見や研究の進展によって常に更新されうる。大谷吉治についても、今後の研究次第では、これまでとは異なる側面が浮かび上がってくるかもしれない。
大谷吉治の子としては、吉之(よしゆき、または「きちの」か) 13 、あるいは吉行(よしゆき) 17 という名の人物が伝えられている。
ある伝承によれば、この吉行は武士の身分を捨て、農民になったとされている 17 。これが事実であれば、大谷吉治の直系は武士としての家名を保つことができなかったことを示唆しており、戦国敗将の子孫がたどる一つの典型的な運命と言えるかもしれない。
一方で、大谷吉継の息女である竹林院が真田信繁(幸村)の正室となったことは広く知られており 2 、これにより大谷家の血脈は真田家を通じて後世に繋がっている。これは吉治の直系ではないものの、大谷一族の血筋がどのように後世に伝えられたかの一例である。その他にも、大谷吉継の子孫に関する伝承は散見されるが 8 、それらが吉治の直接の子孫に関わるものかどうかは判然としない。
武家社会において家の存続は極めて重要な意味を持っていた。吉治の血筋が武士として続かなかった可能性は、彼の生涯を評価する上で、また当時の社会状況を理解する上で、一つの側面として考慮されるべきであろう。
大谷吉治の生涯は、父・大谷吉継という偉大な武将の強い影響下にありながらも、関ヶ原の戦いでの敗北、その後の十数年に及ぶ牢人生活、そして豊臣家最後の戦いとなった大坂の陣での奮戦と最期という、彼自身の選択と時代の大きな奔流に翻弄されたものであった。
彼の出自、特に父・吉継との正確な関係(実子か、弟か、養子か)については、土屋知貞の記録を発端とする謎が依然として残されている。しかし、どのような関係性であったにせよ、吉治が父と共に西軍に与し、父の死後も豊臣家への忠誠を貫き、大坂の陣でその命を散らしたことは、史実として揺るがない。
父・吉継が石田三成との友情と豊臣家への恩顧に殉じた「義将」として語られることが多いのに対し、吉治の生涯は、より直接的に豊臣家の滅亡と運命を共にした悲劇の武将としての側面が強い。しかし、その中にも、牢人から再起を期して大坂城に馳せ参じ、最後まで武士として戦い抜いた一人の人間の確かな生き様を見出すことができる。
大谷吉治の生涯は、関ヶ原の戦いで敗れた西軍諸将の子弟がたどった多様な運命の一つの典型を示すと同時に、大坂の陣に全国から集結した牢人武将たちの動機や境遇、そして彼らが抱いた豊臣家再興への期待と絶望を考察する上で、貴重な事例を提供する。
今後の研究課題としては、まず第一に、吉治の年齢を記したとされる土屋知貞の記録(『大坂陣山口休足咄』など)そのものの史料的価値や記述の背景について、より詳細な検討が求められる。第二に、吉治を討ち取ったとされる本多富正に関連する史料(『本多富正一手江討取首数覚』や『本多富正家伝抜書』など)の調査と分析を進め、彼の最期に関する具体的な情報を確定することである。これらの史料は福井県関連のアーカイブに所蔵されている可能性が示唆されている 46 。第三に、依然として少ない吉治に関する同時代史料を丹念に探索し、彼の具体的な行動や人物像に関する新たな手がかりを発見することが期待される。
これらの研究が進むことによって、大谷吉治という、これまで父の影に隠れがちであった武将の実像がより鮮明になり、戦国末期から江戸初期という激動の時代を生きた人々の多様な姿を理解する一助となるであろう。