大関資増(おおぜき すけます)は、天正4年(1576年)に生まれ、慶長12年4月1日(1607年4月26日)に没した、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将であり、下野国黒羽藩の初代藩主です 1 。
本報告書は、利用者様が既に把握されている大関資増に関する基礎情報(那須七騎の一人、大関高増の三男、兄・晴増の死後に下野黒羽1万3千石を継承、関ヶ原合戦で東軍に属し本領安堵、後に兄の子・政増に家督を譲ったこと)を踏まえつつ、これらの情報を超えて、資増の生涯を詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とします。具体的には、彼の出自、複雑な背景を持つ家督相続の経緯、関ヶ原の戦いにおける具体的な行動とその戦略的意義、黒羽藩初代藩主としての役割、そして若くして甥に家督を譲りこの世を去るまでの軌跡を、関連資料を駆使して検証いたします。
特に、資増個人の事績のみならず、彼を取り巻く大関氏一族、那須衆の動向、そして中央政権との関わり合いの中で、彼が如何にして家の存続と発展を成し遂げたのかを多角的に考察します。
表2:大関資増 略年表
年代 |
出来事 |
備考 |
天正4年(1576年) |
誕生 |
|
慶長元年(1596年) |
兄・晴増の死去に伴い家督相続(21歳)、1万3千石 |
|
慶長3年(1598年) |
父・高増死去 |
3 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦い。小山評定で東軍に参加。戦功により2万石に加増。黒羽藩初代藩主となる。 |
|
慶長10年(1605年) |
甥の政増に家督を譲る(30歳) |
|
慶長12年4月1日(1607年) |
死去(享年32歳) |
墓所:大雄寺 2 |
大関資増は、天正4年(1576年)、下野国の有力武将であった大関高増の三男として生を受けました 1 。幼名は弥六郎と伝えられています 2 。父である高増は、元来大田原氏の出身(大田原資清の長男)でしたが、大関宗増の養子に入り大関家の家督を継いだという経歴の持ち主です 4 。資増の母は、宇留野義元娘でした 2 。
高増の時代、大関氏は那須氏の家臣団の中でも「那須七騎」の筆頭格として重きをなし、那須氏内部で大きな影響力を行使していました。高増は巧みな外交戦略を展開し、常陸国の佐竹氏とも連携し、時には主家である那須氏と対立することも辞さない独自の動きを見せましたが、最終的には和睦し、その実力を保持しました 4 。特筆すべきは、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際です。主家である那須資晴が参陣に遅れたのに対し、高増は長男・晴増と共にいち早く秀吉のもとに参陣しました。この功績により、高増は本領1万石を安堵され、晴増も3千石を与えられ、大関氏は合計1万3千石を領する大名としての地位を確立しました 8 。この時点で、大関氏は名目上の主家であった那須氏から事実上自立した存在となっていたのです 9 。戦国時代における主従関係の流動性は、有力な家臣(国人)が自立化を目指す傾向を助長しました。中央政権と直接結びつくことは、その地位を向上させる有効な手段であり、高増の秀吉への直接参陣は、まさにその典型例と言えるでしょう。この高増の行動は、後に資増が徳川家康に直接臣従する際の素地を形成したと考えられます。
大関氏を含む那須七騎(蘆野氏、伊王野氏、千本氏、福原氏、大田原氏など)は、那須氏を盟主とする武家連合でしたが、各々が強い独立性を有しており、必ずしも主家那須氏の意向に一様に動くわけではありませんでした 10 。高増の時代、大関氏は那須七騎の中でも特に抜きん出た実力を有し、那須氏宗家の動向にも大きな影響を与える存在となっていたことが窺えます 8 。
大関資増の家督相続に至る道程は、二人の兄の相次ぐ早世という、大関家にとって危機的な状況の中で形作られました。
資増の長兄である大関晴増は、永禄4年(1561年)に生まれました。彼は一時、白河結城氏の当主・白河義親の婿養子となりましたが、佐竹義重の白河侵攻により義親が降伏し、義重の次男・義広が家督を譲り受けることになったため、晴増は廃嫡されました。その後、実家に戻るも、既に弟の清増が家督を継いでいたため、佐竹氏の客将として迎えられ、壬生氏の鹿沼城攻めでは一番槍の功を挙げるなど武功を重ねました 7 。
しかし、天正15年(1587年)に弟の清増が急死したため、父・高増の要請を受けて大関氏に復帰し、佐竹義重の支援のもと家督を継承しました。天正17年(1589年)には伊達政宗と岩城常隆が白河に侵攻した際、佐竹軍に加勢してこれを退けるなど軍功を示しています。豊臣秀吉の小田原征伐の際には、父・高増と共に秀吉のもとに参陣し、3千石を加増され、既に領していた1万石と合わせて1万3千石を安堵されました 9 。文禄の役(朝鮮出兵)では名護屋城まで出陣しましたが、やがて病を得ます。嫡男である政増がまだ幼少であることを憂慮し、弟である資増に家督を譲る旨の遺言を残し、文禄5年5月8日(1596年6月3日)に36歳という若さで病死しました 7 。
資増の次兄である大関清増は、兄・晴増が白河結城氏の養子となっていたため、父・高増の隠居(実権は保持)に伴い、一時大関氏の家督を継いだとされています 7 。天正13年(1585年)の薄葉原の合戦では父と共に奮戦し宇都宮勢を破りましたが、天正15年(1587年)に23歳という若さで急逝しました 7 。
戦国時代の過酷な環境は、戦乱のみならず病による当主の早世リスクも高く、家督相続の不安定化を招きがちでした。特に幼い君主が出現した場合、有力な一族(叔父など)による中継ぎ相続は、家を存続させるための重要な手段でした。清増、晴増という二人の兄の相次ぐ早世は、大関家にとってまさにそのような危機的状況をもたらしました。
慶長元年(1596年)、長兄・晴増が病死した際、晴増の嫡男であり、後の黒羽藩2代藩主となる大関政増はまだ幼少でした(『黒羽町誌』所収の「大関家系図」によれば、慶長5年(1600年)時点で9歳とあり、逆算すると慶長元年の家督相続時には5歳程度であったと推測されます 12 )。このため、晴増の遺言に基づき、あるいは一族の協議によって、父・高増の三男である資増が、政増が成長するまでの中継ぎとして家督を相続することになりました 1 。この時、資増は21歳でした。資増の家督相続は、単なる三男の繰り上がりではなく、幼い嫡流である政増を守り、激動期において大関家の家名を安定させるための極めて重要な「中継ぎ」としての役割を担ったことを意味します。資増が後に政増に家督を譲っている事実は、彼が当初から中継ぎの意識を持っていた可能性を強く示唆しています 7 。
表1:大関氏略系図(資増周辺)
Mermaidによる家系図
この系図は、資増の立場を理解する上で重要です。父・高増が大田原氏からの養子であること、長兄・晴増が本家の後継者であったこと、そして資増がその晴増の「中継ぎ」として、晴増の子である政増に繋ぐ役割を果たしたことが視覚的に把握できます。特に、資増が政増の叔父にあたるという関係性は、後の家督譲渡の文脈を理解する上で不可欠です。
慶長3年(1598年)8月の豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢に大きな変動をもたらしました。五大老筆頭であった徳川家康が急速にその影響力を強め、豊臣恩顧の他の大名たちとの間には深刻な対立が生じ始めていました。特に会津120万石の領主であった上杉景勝は、領内諸城の修築を進めるなど軍備を増強し、家康と公然と対立する姿勢を見せていました。家康はこれを討伐する名目で、諸将を動員し会津へ軍を進めることになります 15 。
慶長5年(1600年)6月、家康は会津攻めを決定。同年7月、家康が上杉景勝討伐の軍を率いて下野国小山(現在の栃木県小山市)に着陣した際、石田三成らが家康に対して挙兵したとの報がもたらされます。この報を受け、家康は諸将を集めて軍議を開きました。これが世に言う「小山評定」です 16 。この時、大関資増は、那須氏当主の那須資景、同じく那須七騎に数えられる大田原晴清、伊王野資信、芦野政泰、福原資保、千本義定らと共に小山の家康に謁見し、徳川方に味方し二心なきことを誓いました 7 。多くの大名が去就に迷う中、資増を含む那須七騎が迅速に家康支持を表明したことは、徳川方にとって関東地方、特に奥州への抑えとして極めて重要な意味を持ちました。この迅速な決断は、結果的に大関家の存続とさらなる発展に不可欠な判断だったと言えるでしょう。家康は資増の忠誠を賞し、宇多国光作の刀一腰と黄金百両を授けたとされています 7 。これは家康からの期待の表れであると同時に、資増の東軍参加を確実なものとするための恩賞的な意味合いがあったと考えられます。
さらに那須七騎は、その忠誠の証として、それぞれ人質を江戸に送りました。この時、大関資増が差し出した人質の中には、家臣の妻子のほかに、兄・晴増の嫡男であり、将来家督を継ぐべき甥の政増(当時9歳)が含まれていました 7 。通常、当主の近親者、特に後継者が人質となることは、その家の命運を相手に委ねるに等しい行為です。政増は晴増の嫡男であり、資増が保護すべき存在でした。その政増を差し出すことは、裏切りの可能性を完全に断ち切るという、大関家の家康への忠誠を最大限に示す行為であり、資増自身が「中継ぎ」としての自覚を持ち、政増の将来と大関家の安泰を最優先に考えていたことを強く示唆しています。
表3:那須七騎の小山評定における人質(大関氏中心)
大名氏名 |
主な人質 |
出典 |
大関資増 |
大関政増(甥、9歳、晴増長男) 、家臣金丸杢之助資貞妻、家臣浄法寺越前茂直娘、家臣松本治部右衛門妻、家臣津田光明寺源海妻(資料により若干の差異あり) |
7 |
那須資景 |
資景妻(小山氏娘)、家臣高瀬弥六妻、家臣大田原周防 |
17 |
大田原晴清 |
晴清老母、家臣大谷甚太郎娘、家臣大谷源太郎娘 |
17 |
伊王野資信 |
資信妻(佐久山信隆娘)、弟の猪右衛門(直清)、猪右衛門娘、家臣娘2人 |
17 |
芦野政泰 |
政泰老母(大関高増娘)、家臣芦野九右衛門 |
17 |
福原資保 |
資保妻(久野氏娘)、弟保通 |
17 |
千本義定 |
義定老母(那須資胤娘)、家臣某、家臣娘1人 |
17 |
家康は、上杉景勝の南下に備えるため、那須七騎をそれぞれの領地に戻し、国境の防衛を厳にするよう命じました。大関氏の居城である黒羽城は、上杉領に接する戦略的要衝と見なされ、徳川四天王の一人である榊原康政が奉行となり、その家臣である伊奈主水(資料によっては伊奈図書とも 19 )が派遣されて大規模な修築が行われ、城の面目を一新したと伝えられています 7 。これも家康が彼らの帰順を高く評価し、戦略的拠点として重視したことの証左です。
慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で天下分け目の決戦が行われました。大関資増がこの主戦場で具体的にどの部隊に属し、どのような戦闘に参加したかについての詳細な記録は、提供された資料からは明確には判明していません 1 。「関ケ原の戦いで戦功をあげ」 1 、「関ヶ原の戦いにおいて戦功を挙げたことにより」 1 と複数の資料で戦功があったことは確認されていますが、その具体的な内容は不明です。
しかし、資増の「戦功」は、美濃主戦場での直接的な戦闘行為のみに限定されるものではなかったと考えられます。関ヶ原の戦いは、主戦場以外でも各地で戦闘が発生した多戦線的な性格を持っていました 21 。東軍の総大将である家康にとって、主戦場に兵力を集中させる一方で、後方の安定、特に強大な上杉景勝の脅威に備えることは極めて重要な戦略課題でした。
下野国においては、北方に位置する上杉景勝領への備えが最重要任務であり、資増を含む那須衆は主にこの方面での防衛任務を担ったと考えられます。家康が小山評定の後、那須七騎をそれぞれの領国に戻して防衛を厳命したこと 7 、そして実際に黒羽城の修築を支援したこと 7 は、この地域の戦略的重要性を物語っています。
『黒羽町誌』によれば、家康は那須地方の守備を固めさせ、黒羽城では大関資増(同書では清増と記されている箇所があるが、年代的に資増が適切と考えられる)、千本義定らが守備に就いたとされています 17 。また、関ヶ原での合戦とほぼ時を同じくする9月14日には、上杉景勝方の部隊が白河方面から伊王野口(現在の栃木県那須町伊王野付近)に進軍してきたとの急報があり、伊王野氏などがこれと交戦しています(関山合戦) 17 。この際、黒羽城も後方支援や厳重な警戒態勢を敷いていたと推測され、上杉軍の南下を牽制し、家康本隊が美濃での作戦に集中できる環境を作ったという点で、間接的ながらも重要な「戦功」と評価できます。
さらに、慶長5年9月14日付で資増が浅野長政(当時は家康軍の主要武将の一人)に対して出した書状が、4日後の9月18日に美濃赤坂(関ヶ原前線)に届けられたという記録があります 22 。これは、資増が単に領国守備に専念していただけでなく、中央の戦況とも密接に連絡を取り合い、東軍全体の戦略に関与していた可能性を示唆しています。
関ヶ原の戦いにおける東軍の勝利は、徳川家康による天下統一を決定的なものとし、戦後には大規模な論功行賞が行われました。大関資増は、この戦いでの功績が認められ、従来の1万3千石の所領を安堵された上で加増を受け、2万石を領する大名となりました 1 。これにより、下野国黒羽藩が正式に成立し、資増はその初代藩主としての地位を確立しました 1 。
父・高増の代に豊臣政権下で独立大名としての地位を築いていた大関氏ですが 9 、徳川家康を中心とする新たな武家政権下で改めてその地位を公認され、さらに石高も増加したことは、大関家の基盤をより強固なものにする上で大きな意味を持ちました。1万石級の小大名から2万石への加増は、単なる石高の増加以上の意味を持ちます。これにより大関氏は、より安定した経営基盤と軍事力を保持することが可能となり、幕藩体制下での発言力や家格も向上したと考えられます。これは、資増の的確な時局判断と、関ヶ原における直接的・間接的な貢献がもたらした直接的な成果と言えるでしょう。
外様大名としてではありましたが 25 、徳川幕府の体制下で大名として認められたことは、大関家のその後の存続にとって決定的な要因となりました。黒羽藩はその後、幾度かの分知を経て石高は1万8千石となりますが、明治維新に至るまで大関氏によって治められ 23 、関東地方においては改易されることなく続いた数少ない外様大名の一つとして歴史に名を刻んでいます 20 。
大関資増が黒羽藩初代藩主として、具体的にどのような藩政を行ったかについての詳細な記録は、提供された資料からは乏しいのが現状です 13 。
黒羽城は関ヶ原の戦いの直前に大規模な修築が施されていますが 7 、藩主となった資増が、さらなる城下町の整備や藩政諸制度の構築に着手した可能性は十分に考えられます。父である高増が黒羽城を築き、城下町の形成に努め、近世黒羽藩の基礎を築いたとされており 25 、資増はその基盤の上に立って藩政を進めたものと推測されます。
資増が家督を相続したのは慶長元年(1596年)ですが、関ヶ原の戦いが終結し、2万石の藩主として実質的に藩政を執り始めたのは慶長5年(1600年)末以降と考えられます。そして、慶長10年(1605年)には甥の政増に家督を譲っているため、初代藩主としての実質的な統治期間は約5年間と比較的短いものでした。この短い期間に、戦後の混乱収拾、徳川幕府という新たな中央政権への対応、家臣団の再編、そして何よりも次代の政増への円滑な権力移譲の準備などが、彼の主要な課題であったと推測されます。大規模な新政策を打ち出すよりも、むしろ豊臣政権下の大名から徳川幕藩体制下の藩主へと、大関家をソフトランディングさせるという「過渡期」の管理に注力した可能性が考えられます。具体的な藩政に関する資料が乏しいこと自体が、こうした体制移行への注力を示唆しているのかもしれません。
慶長10年(1605年)、大関資増は、兄・晴増の嫡男である甥の大関政増に家督を譲りました 7 。この時、政増は14歳程度(慶長5年時点で9歳であったことから計算 12 )であり、元服を済ませ、大名としての務めを担うことができる年齢に達したと資増が判断したためと考えられます。
既に述べた通り、資増の家督相続そのものが、政増が幼年であるための「中継ぎ」という性格を帯びていたことは明らかです 7 。したがって、政増の成長に伴い、当初の予定通り、あるいは兄・晴増の遺志を尊重する形で、家督が譲られたと解釈するのが自然でしょう。資増が成長した政増に速やかに家督を譲ったことは、大関家の正統な後継者への権力移譲を滞りなく行ったことを意味し、これは家中の結束を維持し、将来的なお家騒動の芽を摘む上でも極めて重要な行動であったと言えます。中継ぎの当主が権力に固執することなく、正統な後継者に円滑に家督を譲ることは、家の安定にとって理想的な形です。
家督を継いだ政増は、若年ながらも藩主としての務めを果たし、慶長19年(1614年)に安房国の里見忠義が改易された際には、その旧領である館山城の守備を命じられています。また、同年に勃発した大坂冬の陣では徳川方に与し、本多正信の指揮下で河内国平野口の守備を担当しました。翌年の大坂夏の陣においては、敵兵の首級を97も挙げるという武功を立てています 13 。資増による円滑な家督譲渡は、政増が若くして藩主としての経験を積み、大関家のさらなる安定と発展に貢献する道を開いたと言えるでしょう。
慶長10年(1605年)に家督を甥の政増に譲った後の、大関資増の具体的な動向については、提供された資料からはほとんど情報が得られていません 20 。30歳という若さでの隠居であったため、何らかの形で藩政の後見役や相談役を務めた可能性も考えられますが、それを裏付ける具体的な記録は見当たりません。
隠居からわずか2年後の慶長12年4月1日(1607年4月26日)、大関資増はこの世を去りました 1 。享年32歳という若さでした。その死因については、残念ながら記録に残されていません。戒名は「重弘院殿劔性宗恵大居士」(資料によっては「劔性宗恵重弘院」とも)とされています 2 。
資増の墓所は、栃木県大田原市黒羽田町に現存する大雄寺の境内にあります 2 。大雄寺は、大関氏歴代の菩提寺として知られています。
32歳という若さでの死は惜しまれますが、既に嫡流である政増への家督譲渡を終えていたため、大関家の存続や藩政に大きな混乱を招くことはなかったと考えられます。彼の最大の功績は、兄たちの相次ぐ早世という危機的状況下で家督を継ぎ、関ヶ原の戦いという激動期を乗り切り、そして次代へと円滑にバトンを渡したことにあると言えるでしょう。後継者問題を引き起こすことなく、藩政の混乱も最小限に抑えられたことは、資増が「中継ぎ」としての歴史的役割を完全に果たしたことを示しています。
大関資増の生涯を振り返ると、彼は派手な武勇伝や奇抜な策略で歴史に名を残したタイプの武将ではありませんでした。しかし、父・高増、そして兄・晴増が築き上げた大関家の基盤を継承しつつも、関ヶ原の戦いという天下分け目の大乱において、的確に時勢を読み、徳川家康に迅速に帰順するという冷静な判断力と果断な行動力を持っていた人物と評価できます 18 。この決断こそが、大関家を近世大名として存続させ、さらに2万石へと所領を増加させる礎となったのです。
兄たちの相次ぐ死という困難な状況下で家督を継ぎ、幼い甥・政増が成長するまでの「中継ぎ」としての役割を忠実に果たし、家系の断絶や内紛の危機を回避した功績は大きいと言えます。そして、関ヶ原の戦いでの功績により、新たに成立した徳川幕府のもとでの大関家の地位を確固たるものにしました。
提供された資料からは、資増個人の性格や趣味、具体的な逸話といった、彼の人間性を深く掘り下げられる情報は残念ながら多くは見当たりません 31 。したがって、彼の評価は、主にその政治的・軍事的な行動とその結果から推測されるものとなります。一連の行動、すなわち家督相続の経緯 7 、小山評定での迅速な対応 7 、関ヶ原での戦功 1 、そして政増への円滑な家督譲渡 7 は、場当たり的なものではなく、大関家の存続と安定という一貫した目的意識に基づいていたことを示唆しています。これらの行動からは、資増の「堅実さ」と「先見性」を読み取ることができます。彼は、兄の遺志を継ぎ、時流を的確に捉え、家の将来を見据えて行動した結果、大関家は戦国末期の混乱を乗り越え、江戸時代を通じて存続し得たのです。
大関資増の跡を継いだ甥の大関政増(黒羽藩2代藩主)以降、大関氏は黒羽藩の藩主として明治維新まで16代にわたり存続しました 14 。当初2万石であった石高は、後に政増の子・高増(3代藩主、資増の父と同名)の時代に弟・増親に分知したため1万8千石となりましたが 14 、関東の小藩でありながら、また外様大名でありながら、一度も改易されることなく幕末を迎えたことは特筆に値します。これは、初代藩主である資増の時代に築かれた徳川家との良好な関係と、その後の歴代藩主による堅実な藩運営の賜物であったと考えられます。
江戸時代を通じて、黒羽の地は文化人にも知られるようになります。特に元禄年間には、俳聖・松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅の途中で黒羽に14日間という長期にわたり滞在し、当時の大関氏の家老であった浄法寺図書高勝(俳号は桃雪)とその弟である鹿子畑翠桃といった俳諧の心得のある人々と深い交流を持ったことは有名です 35 。
明治維新を迎えると、大関氏は華族に列せられ、子爵家となりました 8 。大関資増が関ヶ原という大きな岐路において下した的確な判断と行動は、単に短期的な家の安泰をもたらしただけでなく、その後約270年間にわたる黒羽藩大関氏の存続という長期的な結果に結びついたのです。彼の功績は、江戸時代を通じて家中で語り継がれ、藩のアイデンティティの一部を形成した可能性も否定できません。
大関資増は、戦国末期から江戸初期という日本史の大きな転換期において、大関家の舵取りを誤ることなく、家名を高め、黒羽藩の礎を築いた重要な人物であったと言えます。
父・高増、そして兄・晴増の急逝という困難な状況の中で家督を継承し、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいては徳川家康方に与して戦功を挙げ、その結果として2万石の初代黒羽藩主となりました。そして、兄の遺児である政増の成長を待って家督を譲り、32歳という若さでこの世を去りました。
彼の生涯は、個人の武勇や才覚のみならず、時代の流れを冷静に読み解き、一族の将来を見据えた判断力と、与えられた「中継ぎ」という役割を誠実に果たす責任感に貫かれていたと総括できます。
本報告では、現存する資料に基づきその生涯の軌跡を追ってまいりましたが、初代藩主としての藩政初期における具体的な施策や、資増個人のより詳細な人物像については、なお不明な点も多く残されています。『黒羽藩庁資料』 28 や『大関家文書』 29 といった一次史料の更なる分析・研究により、大関資増に関する新たな事実が明らかになる可能性があり、これは今後の研究課題と言えるでしょう。