大須賀忠政が生きた時代は、日本史上未曾有の変革期であった。天正9年(1581年)に生を受け、慶長12年(1607年)に夭折するまでの僅か27年間は、長きにわたる戦国乱世が終焉を迎え、織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業を経て、徳川家康が新たな武家政権、すなわち江戸幕府を盤石なものへと確立していく激動の時代と完全に重なる。このような時代の転換点において、忠政は徳川四天王の一人である榊原康政の長男として生まれながらも、母方の祖父である大須賀康高の家を継ぎ、若くして藩主としての道を歩むこととなる。
本報告書は、この大須賀忠政という人物の生涯と事績を、現存する史料に基づき可能な限り詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とする。具体的には、彼が榊原家ではなく大須賀家を継承した経緯、上総久留里藩および遠江横須賀藩の藩主としてどのような治績を残したのか、そして天下分け目の戦いであった関ヶ原の合戦においていかなる役割を果たしたのかを検証する。さらに、27歳という若さでの彼の死が、大須賀家、ひいては実家である榊原家にどのような影響を及ぼしたのかについても深く考察する。これらの点を解明することにより、徳川政権初期における譜代大名の一人としての忠政の歴史的意義を明らかにすることを目指すものである。
大須賀忠政は、天正9年(1581年)、徳川家康に仕える重臣・榊原康政の長男として生を受けた 1 。幼名は国千代と伝えられている 1 。父である榊原康政は、本多忠勝、井伊直政、酒井忠次と並び称される「徳川四天王」の一人であり、その武勇と知略は広く知れ渡っていた 2 。このような名将の長男として生まれた忠政には、周囲から大きな期待が寄せられていたことは想像に難くない。
忠政の母は、同じく徳川家臣であった大須賀康高の娘、善学院である 1 。この母方の血筋が、忠政の将来に大きな転機をもたらすことになる。
忠政の外祖父にあたる大須賀康高は、徳川家康の草創期からの家臣であり、数々の戦場で武功を重ねた勇将であった 5 。特に、武田氏との間で繰り広げられた遠江高天神城を巡る攻防戦や、その拠点となった横須賀城の築城において、康高の功績は際立っている 5 。その武功は「徳川二十将」の一人に数えられ、「徳川四天王や大久保忠世・鳥居元忠らに匹敵する」と評されるほどであった 5 。
しかし、この大須賀康高には男子の跡継がいなかった 1 。康高には信高という実子がいたものの、仏門に入り、僧籍にあったため、武家としての家督を継ぐことはなかった 6 。こうした状況の中、天正17年(1589年)に大須賀康高が病没すると、その家名を存続させるため、康高の娘(善学院)が生んだ孫、すなわち榊原康政の長男である忠政が、康高の養子として大須賀氏の家督を継承することとなったのである 1 。この養子縁組は、康高の遺言によるものか、あるいは主君である徳川家康の意向が強く働いたものと考えられる。
榊原康政の長男が、母方の祖父の家を継ぐというこの養子縁組は、単に大須賀家の家名断絶を防ぐという以上の意味合いを含んでいた。大須賀康高は徳川家にとって戦略上も重要な役割を担った武将であり、その家系と所領を信頼できる人物に継承させることは、家康にとって喫緊の課題であった。康政の嫡男を養子とすることで、徳川四天王の一角である榊原家と、武功著しい大須賀家という、徳川政権を支える二つの重要な柱が血縁的にも結びつくことになった。これは、家康が譜代大名間の結束を固め、自身の権力基盤をより強固なものとしていくための一つの戦略的手段であったと解釈できる。このような重臣の家を継ぐということは、忠政には養父康高と同様の、あるいはそれ以上の活躍が期待されていたことを物語っている。実父が榊原康政であることも含め、忠政は徳川家中で非常に恵まれた血筋と背景を持っていたと言えよう。
大須賀氏の家督を相続した際、忠政は徳川家康から松平の姓を与えられた 1 。これは、徳川一門に準ずる特別な待遇であり、大須賀家および忠政個人に対する家康の深い信頼と大きな期待の表れであった。この松平姓の下賜は、この養子縁組が家康の公認と期待のもとに行われたことを象徴している。
一方、忠政が養子に出たことにより、実家である榊原家の家督は、弟たちが継承することとなった。次弟の忠長が早世したため、三弟の康勝が後に榊原家を継いでいる 1 。このように、有力な武家が一族内で複数の家名を維持し、それぞれを発展させていくことは、戦国時代から江戸時代初期にかけてしばしば見られた家門維持・拡大戦略の一つであった。仮に一方の家が何らかの理由で断絶の危機に瀕した場合でも、もう一方の家から養子を迎えるなどして家名を存続させることが可能となり、一族全体としてのリスク分散と勢力保持に繋がるのである。
大須賀忠政 略年譜
和暦 |
西暦 |
年齢 |
主な出来事 |
典拠 |
天正9年 |
1581年 |
1歳 |
榊原康政の長男として誕生。幼名、国千代。 |
1 |
天正17年 |
1589年 |
9歳 |
外祖父・大須賀康高の死去に伴い、養子となり大須賀氏を継承。徳川家康より松平姓を賜る。 |
1 |
天正18年 |
1590年 |
10歳 |
徳川家康の関東移封に伴い、上総国久留里に3万石を与えられ、久留里城主となる。 |
1 |
慶長4年 |
1599年 |
19歳 |
豊臣姓を下賜され、従五位下・出羽守に叙任される。 |
1 |
慶長5年 |
1600年 |
20歳 |
関ヶ原の戦いに東軍として参戦。家康本隊に属したとされる。 |
13 |
慶長6年 |
1601年 |
21歳 |
関ヶ原の戦功により、遠江国横須賀へ6万石(5万5千石説あり)で加増移封。 |
12 |
慶長7年 |
1602年 |
22歳 |
徳川家康より改めて松平姓を与えられる。 |
1 |
慶長10年 |
1605年 |
25歳 |
遠江横須賀藩において大規模な検地を実施。新野池新田の置目を定める。嫡男・国丸(忠次)誕生。 |
1 |
慶長12年9月11日 |
1607年 |
27歳 |
病のため京都にて死去。 |
1 |
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が終結し、北条氏が滅亡すると、徳川家康はそれまでの東海地方の所領から関東への移封を命じられた 1 。これは、家康の勢力を中央から遠ざけようとする秀吉の深謀遠慮であったとも言われるが、結果として家康は広大な関東平野を新たな本拠地とし、後の江戸幕府の礎を築くことになる。
この大規模な国替えに伴い、大須賀忠政は上総国望陀郡久留里(現在の千葉県君津市)に三万石の所領を与えられ、久留里城主となった 1 。久留里城は、中世においては真里谷武田氏や里見氏といった房総の有力豪族が拠点とした城であり、江戸湾を望む戦略的にも重要な位置を占めていた 17 。当時、忠政はまだ10歳という若年であった。
家康の関東移封は、徳川家臣団にとって、長年住み慣れた旧領を離れ、新たな土地で一から支配体制を築き上げるという大きな挑戦であった。忠政が若年であったことを考えると、実際の藩政の運営は経験豊富な家老などの補佐役によって行われた可能性が高い。しかし、名目上の藩主として領国経営の初期段階に関わった経験は、その後の横須賀藩における統治にも少なからず影響を与えたと考えられる。
大須賀忠政は、上総久留里において、城下町の整備に尽力し、後の久留里藩の藩政の基盤を築いたと伝えられている 8 。具体的な治績に関する詳細な記録は乏しいものの、関東に移封された他の多くの徳川系大名がそうであったように、忠政もまた、領内の検地の実施、年貢徴収体制の確立、家臣団の配置、さらには道路や灌漑設備といったインフラの整備など、領国経営の初期段階に必須の諸政策に取り組んだと推測される。若年ながらも領主としての責任を担い、新たな領地の安定化に努めていた様子がうかがえる。
なお、一部資料には、大須賀氏が古くから房総半島に勢力を持っていたかのような記述も見られるが 18 、これは忠政の家系とは異なる、下総国を本拠とした別系統の大須賀氏に関するものであり、忠政の久留里統治とは直接的な関係はない。忠政の父は榊原康政であり、大須賀の姓は母方の養子として継いだものである 19 。
慶長4年(1599年)4月17日、大須賀忠政は豊臣姓を下賜され、同時期に従五位下・出羽守に叙任された 1 。この当時、日本はまだ豊臣政権下にあり、徳川家康も五大老の一人として豊臣秀頼を補佐する立場にあった。全国の有力大名やその子弟が、豊臣政権への臣従の証として豊臣姓を賜り、官位を得ることは一般的な慣行であった。忠政がこの栄誉を受けたことは、彼が単なる徳川家の一家臣というだけでなく、豊臣公儀体制においても一定の認知と格付けをされた大名であったことを意味する。これは、徳川家康の勢力拡大と、その配下にある有力大名の地位が向上していた当時の政治的力学を反映していると言えよう。家康の関東移封自体が豊臣政権の命令によるものであり、その体制下で忠誠と能力を示すことが、当時の大名たちには求められていたのである。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成を中心とする反家康勢力との対立が先鋭化し、天下分け目の戦いである関ヶ原の合戦が勃発した。この国家的な大戦において、大須賀忠政は東軍に属し、家康の本隊の一員として本戦に参加したと記録されている 13 。
関ヶ原の戦いの布陣に関する史料によれば、「大須賀忠政、本多成重等…家康本隊」との記述があり 14 、忠政が家康の直近にあって戦った可能性が高いことを示唆している。具体的な戦功に関する詳細な記述は多くはないものの、家康本隊に組み込まれていたという事実は、忠政が家康から一定の信頼を得ていた若手武将であったことを物語っている。関ヶ原の戦いは、徳川政権確立のまさに分水嶺であり、ここでの働きは戦後の論功行賞に直結する極めて重要なものであった。
関ヶ原の戦いは東軍の大勝利に終わり、徳川家康は事実上の天下人としての地位を確立した。戦後、大規模な論功行賞が行われ、東軍に与した諸大名は加増や有利な地への転封を受けた。大須賀忠政もこの例に漏れず、関ヶ原での戦功が認められ、慶長6年(1601年)、それまでの上総久留里三万石から、遠江国横須賀へと転封されることとなった 8 。石高は三万石の加増となり、都合六万石(一部資料では五万五千石とも 10 )の大名となった。
この遠江横須賀という地は、忠政にとって特別な意味を持つ場所であった。かつて養父である大須賀康高が、武田信玄・勝頼との激しい攻防戦の最前線拠点として横須賀城を築き、その地を治めたという経緯があったからである 5 。忠政にとっては、いわば養父ゆかりの地への凱旋とも言える移封であった。
史料によれば、忠政が横須賀へ帰還する際、領民たちはこれを大いに喜び、遠く金谷や島田のあたりまで出迎えたと伝えられている 10 。これは、養父・大須賀康高が敷いた善政の記憶が領民の間に深く残っており、その正統な後継者である忠政に対しても大きな期待感を抱いていたことの表れであろう。このような領民の歓迎は、その後の忠政によるスムーズな藩政移行にも好影響を与えたと考えられる。
関ヶ原後の大幅な加増と、養父ゆかりの地である遠江横須賀への移封は、単なる戦功報奨以上の意味合いを含んでいた。横須賀は東海道の要衝であり、かつて武田氏との最前線であった戦略的重要拠点である 8 。徳川四天王の血を引き、家康からの信頼も厚い若手大名である忠政をこの地に配置することは、家康にとって西国への睨みを利かせ、東海道筋の安定を確保する上で極めて合理的な人事であった。
慶長7年(1602年)、大須賀忠政は徳川家康から改めて松平姓を与えられた 1 。これは、かつて大須賀家を継いだ際に一度与えられた松平姓を再確認するものであり、関ヶ原の戦いにおける忠誠と戦功を賞し、徳川政権内における忠政の地位がより確固たるものになったことを公式に示すものであった。
忠政の横須賀への移封は、関ヶ原の合戦後に徳川家康が推し進めた全国的な大名再配置の一環として捉えることができる。特に譜代大名は、江戸を中心とする政治的・軍事的に重要な地点や、潜在的な敵対勢力となり得る外様大名を牽制するための戦略的な位置に配置された。遠江国における横須賀城は、掛川城と共に徳川方にとっての重要拠点であり 8 、忠政のような信頼できる譜代大名を置くことで、江戸幕府の基盤固めが着実に進められていったのである。
遠江横須賀六万石の藩主となった大須賀忠政は、若年ながらも藩政の確立に向けて精力的に取り組んだ。その統治は、養父・大須賀康高が築いた基盤の上に成り立っていた側面も大きい。康高は高天神城攻略の拠点として横須賀城を築き 8 、その指揮下には「横須賀衆」と称される精強な家臣団が存在した 7 。関ヶ原合戦後に忠政が横須賀に戻った際、領民だけでなく「横須賀衆の面々にとっても最も晴れがましい時」であったと記されており 10 、忠政がこれらの旧臣たちを巧みに掌握し、藩政運営に活用したことがうかがえる。
藩政の基礎を固める上で最も重要な施策の一つが、領内の実態把握である。忠政は慶長10年(1605年)、横須賀藩領内において大規模な検地を実施した 1 。これは、田畑の面積や等級を調査し、石高を正確に算定することで、年貢徴収体制を確立し、藩財政の安定化を図るための基本的な政策であった。
さらに忠政は、新田開発にも積極的に取り組んだとされている。遠江国城飼郡新野池新田(現在の静岡県御前崎市)に対して慶長10年1月11日付で発給された朱印状が現存しており、そこには新野池新田の置目(規則)が定められている 1 。これは、未開墾地を農地化することで領内の生産力を向上させ、民生の安定に繋げようとする忠政の積極的な姿勢を示すものである。これらの検地、新田開発といった施策は、江戸時代初期の藩主が新領地や加増された領地において行う典型的なものであり、忠政が着実に藩主としての務めを果たそうとしていたことを示している。
検地の実施や新田開発と並行して、忠政は城下町の建設・整備にも積極的に取り組み、藩政の基礎を固めたとされている 1 。横須賀城そのものは、養父である大須賀康高の代に、高天神城攻略の拠点として築城が開始され 8 、高天神城落城後は遠州南部の拠点としてその重要性を増していた 8 。忠政の時代には、この横須賀城を中心とした城下町の整備が進められ、近世城郭としての機能強化が図られたと考えられる。
横須賀城は、丸い河原石を用いた「玉石積み」と呼ばれる独特の石垣や、東西に大手門を持つ「両頭の城」といった構造的特徴を有していた 8 。発掘調査によれば、17世紀初頭には西の丸が拡張されたことが確認されているが 22 、これが忠政の直接的な指示によるものか否かは明確ではない。しかしながら、藩主として城の維持・改修、そして城下町の整備に関与したことは想像に難くない。横須賀城は、陸路である浜名道(姫街道)と、遠州灘に面した海路を押さえる戦略的要衝であった 8 。忠政の治世は、大坂の豊臣家が依然として大きな勢力を保持しており、西国に対する備えが引き続き重要であった時期にあたる。そのため、城下町の整備と共に、城郭自体の機能維持・強化も藩主の重要な責務であり、忠政もこれに注力したと推察される。
前述の通り、忠政が遠江横須賀に入封した際には、領民から熱烈な歓迎を受けたと伝えられている 10 。これは、単に新しい領主が来たというだけではなく、養父・大須賀康高の善政の記憶と、その正統な後継者である忠政への領民の期待がいかに大きかったかを示している。大須賀康高は、武勇だけでなく民政にも心を尽くし、その徳沢は領民の間に語り継がれていたという 9 。忠政もまた、その養父の遺風を継ぎ、領民に配慮した善政を敷こうと努めたであろうことは、この歓迎ぶりからも推し量ることができる。
藩政の基礎固めに邁進していた大須賀忠政であったが、その前途は病によって無情にも断たれることとなる。慶長12年(1607年)の春、忠政は病に倒れた。養生のために京へ上ったものの、その甲斐もなく、同年9月11日に死去した 1 。享年わずか27歳という、あまりにも早すぎる死であった。
その死因について具体的な記録は残されていないが、当時の医療水準や衛生環境を鑑みれば、青壮年期における病死は決して珍しいことではなかった。忠政の墓所は、静岡県掛川市山崎の撰要寺にあり、ここは養父・大須賀康高も眠る寺院で、その墓塔群は静岡県の指定史跡となっている 1 。この他にも、静岡県周智郡の梅林院、そして実父・榊原康政ゆかりの地である群馬県館林市の善導寺にも墓所があるとされる 1 。複数の墓所の存在は、彼の生涯における所領や縁の深かった土地を反映しているものと考えられる。
忠政の27歳という若さでの死は、大須賀家にとって計り知れない損失であった。もし彼が長命を保ち、その才覚を十分に発揮する時間があったならば、遠江横須賀藩主としてさらに顕著な治績を重ね、大須賀家は譜代大名として幕藩体制の中で安定した地位を築き上げた可能性が高い。しかし、彼の早世と、その跡を継いだ嫡子が幼少であったという事実は、結果的に実家である榊原家の断絶の危機と複雑に絡み合い、大須賀宗家そのものの運命を大きく左右することになる。これは、個人の寿命という偶然的とも言える要素が、大名家の存続という、より大きな歴史の流れに決定的な影響を与えた一例と言えよう。
忠政の死後、大須賀家の家督は、嫡男である国丸(後の大須賀忠次、さらに榊原忠次)が継承した 1 。忠政の正室は、徳川家康の養女(異父妹の子である松平康元の娘)であったため 1 、忠次は家康の姪孫にあたるという、非常に高貴な血筋の生まれであった。
忠政が死去した際、嫡男の忠次は慶長10年(1605年)生まれであり、わずか3歳という幼さであった 10 。そのため、徳川家康の特別な配慮により、譜代の重臣である安藤直次などが後見人として幼い藩主を補佐し、藩政を支えたとされている 15 。
幼くして遠江横須賀藩六万石の藩主となった大須賀忠次であったが、その運命は再び大きな転換点を迎える。元和元年(1615年)、忠次の実の叔父にあたり、榊原宗家を継いでいた榊原康勝(榊原康政の三男で、館林藩10万石の第2代藩主)が、跡継ぎのないまま26歳という若さで早世してしまったのである 2 。
これにより、徳川四天王の一角を占める名門・榊原宗家は、突如として断絶の危機に瀕した。この事態を憂慮した徳川家康は、「徳川四天王の血統が絶えるのを懸念」し、大須賀忠次(榊原康政の孫にあたる)に榊原家の家督を継がせることを命じた 2 。一説には、忠次自身の希望によって榊原家相続が決まったとも伝えられている 15 。当時、忠次は10歳であった。
この家康の決定は、徳川政権樹立に多大な功績のあった功臣とその家系をいかに重視していたかを示すものである。榊原家のような幕府にとって重要な家の存続は、他の家臣団に対する範例ともなり、幕府への忠誠心を高める効果も期待された。結果として、大須賀忠次は榊原忠次と名を改め、上野国館林藩十万石を相続し、榊原家の家名を後世に伝えることとなった 2 。
その一方で、この措置に伴い、大名としての大須賀氏は絶家という結末を迎えることとなった 2 。大須賀氏の旧領である遠江横須賀藩は幕府に収公され、その家臣団も解雇されるか、一部は禄高を減らされる形で榊原氏の家臣団に編入された 15 。かつて勇猛を馳せた「横須賀衆」の多くは、その後、新たに横須賀城主となった徳川頼宣(家康の十男、後の紀州徳川家初代藩主)に召し抱えられ、頼宣の紀州移封に従って彼の地へ移ったと伝えられている 10 。これは、江戸時代初期における家臣団の流動性を示す事例でもある。主家の改易や断絶は、家臣たちにとって生活の基盤を失うことを意味し、新たな仕官先を求める必要に迫られた。徳川頼宣のような家康の子が新たな領主となる際に、経験豊富で有能な旧臣を召し抱えることは、新領地の安定的な統治にも繋がったのである。
大須賀家は結果として絶家となったが、これは榊原家という、徳川幕府にとってより重要度の高い家を優先した結果であり、ある意味では冷徹な政治判断であったとも言える。しかし、大須賀の血筋(忠政の母方であり、康高の直系)は、忠政の子である忠次を通じて榊原家に受け継がれる形となり、完全に途絶えたわけではなかった。
大須賀忠政の生涯は、27年という短いものであった。しかし、その短い期間において、彼は徳川政権の黎明期という激動の時代を駆け抜け、藩主として確かな足跡を残した。
忠政は、上総久留里藩、そして遠江横須賀藩において、藩政の基礎を固めることに尽力した点は正当に評価されるべきである 1 。特に、遠江横須賀藩で実施した大規模な検地や新野池新田の開発といった政策は、具体的な成果として記録に残っており 1 、若き領主としての手腕の一端をうかがわせる。
彼の名は、偉大な実父である徳川四天王・榊原康政や、武勇に優れた養父・大須賀康高の輝かしい功績の陰に隠れがちであることは否めない。しかし、この二人の傑出した武将の血を受け継ぎ、その薫陶を受けて育った忠政は、若くしてその大きな期待に応えようと真摯に努めた人物であったと推察される。もし彼が天寿を全うしていれば、さらなる治績を積み重ね、歴史にその名をより深く刻んでいた可能性もあろう。
大須賀忠政は、徳川家康の関東移封、そして天下分け目の関ヶ原の合戦という、徳川政権確立の画期となる重要な時期において、譜代大名として忠実にその役割を果たした。彼の存在は、徳川四天王の榊原家と、武功派の重鎮である大須賀家という、二つの有力な譜代家を結びつける役割を担い、徳川家臣団の結束を強化する上で一定の貢献をしたと言える。
大須賀忠政が興した大須賀宗家は、彼の早世とそれに続く息子の榊原家相続によって、大名家としては一代限りで絶家という運命を辿った。しかし、その血脈は、息子である大須賀(榊原)忠次を通じて榊原宗家に受け継がれ、江戸時代を通じて名門として存続した 2 。
忠政の早すぎる死がなければ、大須賀家が譜代大名として幕末まで存続し、また異なる歴史を紡いでいたかもしれないと考えると、歴史の持つ偶然性と必然性について改めて思いを巡らせることになる。
現在、静岡県掛川市の撰要寺には、養父・大須賀康高の墓と並んで忠政の墓が静かに佇んでいる 1 。これらは、戦国末期から江戸初期にかけての遠江国の歴史と、その中で短いながらも確かな光芒を放った若き藩主・大須賀忠政の生涯を、今に静かに伝えているのである。
大須賀忠政 関連主要人物一覧
氏名 |
続柄(忠政との関係) |
生没年(判明分) |
備考 |
典拠 |
榊原康政 |
実父 |
天文17年~慶長11年 (1548-1606) |
徳川四天王の一人。上野国館林藩初代藩主。 |
1 |
大須賀康高 |
養父(実母の父) |
大永7年~天正17年 (1527-1589) |
徳川家康の重臣。遠江国横須賀城初代城主。 |
1 |
徳川家康 |
主君 |
天文11年~元和2年 (1543-1616) |
江戸幕府初代将軍。 |
1 |
大須賀(榊原)忠次 |
嫡男 |
慶長10年~寛文5年 (1605-1665) |
大須賀家2代藩主。後に榊原宗家を継ぎ、榊原家3代当主。上野国館林藩主など。 |
15 |
善学院 |
実母 |
不詳 |
大須賀康高の娘。榊原康政の正室。 |
1 |
(松平康元の娘) |
正室 |
不詳 |
徳川家康の養女(松平康元の娘、家康の姪)。 |
1 |
榊原康勝 |
実弟(康政三男) |
天正18年~元和元年 (1590-1615) |
榊原家2代当主。上野国館林藩2代藩主。 |
4 |