最終更新日 2025-06-12

大館義実

「大館義実」の画像

戦国武将 大館義実の生涯と事績

1. はじめに

大館義実(おおだて よしざね)は、室町幕府の末期から安土桃山時代にかけて活躍した武将である。その名は、歴史の表舞台で華々しく語られることは少ないかもしれない。しかし、彼の生涯は、足利将軍家への奉仕、主家の滅亡と流浪、そして新たな主君のもとでの再起と、戦国という激動の時代を生きた武士の一つの典型を示している。さらに、武人としての側面のみならず、甲冑研究家という文化的な一面も持ち合わせていた点は特筆に値する。

本報告書は、現時点で入手可能な史料や研究成果に基づき、大館義実の出自、足利将軍家への奉仕、関岡城主としての活動、室町幕府滅亡後の動向、加藤清正への仕官と朝鮮出兵への参加、伊賀・山城における所領獲得、そして甲冑研究家としての側面など、その生涯と業績を多角的に明らかにすることを目的とする。以下に、義実の生涯の概略を示す略年表を提示する。

表1:大館義実 略年表

時期(推定和暦・西暦)

出来事

関連史料

備考

生年不詳

大館清祐の子として生まれる

1

16世紀の人物とされる 2

天文年間~永禄年間

足利義輝に仕える

1

永禄8年(1565年)

永禄の変。足利義輝死去。その後、足利義昭に仕える

1

義昭への臣従時期の詳細は不明

元亀4年(天正元年、1573年)

足利義昭、織田信長により京都から追放される(室町幕府滅亡)。義昭に従い流浪。所領を失う。関岡城主であったとされる。

1

「北陸に流浪」 1 、「各地を流転」 3

天正年間

和泉国堺に居住

1

文禄年間

加藤清正に仕える

1

文禄元年~慶長3年(1592年~1598年)

文禄・慶長の役(朝鮮派兵)に従軍

1

慶長年間

朝鮮より帰国後、豊臣秀吉より伊賀国・山城国に所領を与えられる

1

山城国の所領は「京都の旧領」とも 3

没年不詳

2. 大館氏の出自と室町幕府における立場

大館義実の理解を深めるためには、まず彼が属した大館氏の出自と、室町幕府におけるその立場を把握する必要がある。

大館氏の起源と系譜

大館氏は、清和源氏の中でも名門とされる新田氏の支流である 5 。具体的には、新田義重の孫にあたる新田政義の次男、大館家氏(おおだち いえうじ)を祖とする 5 。家氏は上野国新田郡大舘郷(現在の群馬県太田市付近か)に居住し、大舘二郎と称したことがその名の由来とされる 5 。家紋としては、新田氏本宗家が用いた大中黒(おおなかぐろ)や酢漿草(かたばみ)のほか、一部の系統では二引両(ふたつひきりょう)、三巴(みつどもえ)、笹竜胆(ささりんどう)なども用いられたという 5 。このように、大館氏は鎌倉時代以来の由緒ある武家としての家格を有していた。

室町幕府への臣従と奉公衆としての役割

鎌倉幕府滅亡後、新田一族は南朝方として足利氏と対立したが、大館氏の一部は早くから室町幕府に仕える道を選んだ。新田義貞の弟である脇屋義助と共に戦った大館氏明の子孫は、室町幕府の奉公衆として仕えたと伝えられる 6 。氏明の子とされる義冬は、近江国の有力守護大名であった佐々木道誉(京極高氏)に見出され、その娘を娶り、近江国草野荘を与えられた後、室町幕府に出仕し治部少輔に任じられた 5 。この系統の大館氏は、新田氏の支流であると同時に、足利氏とも同じく源義家の孫である源義国の子孫にあたる同族関係にあったことから、幕府内でも重用され、政所奉行人(まんどころぶぎょうにん)などの要職を務める者も現れた 5

特に、三代将軍足利義満が将軍親衛隊として組織した五ケ番衆(ごかばんしゅう)では、大館氏がその番頭(ばんがしら、隊長職)を歴任し、一族の多くが奉公衆に名を連ねた 5 。奉公衆は将軍直属の軍事力であり、幕府の権威を支える上で極めて重要な存在であった。例えば、『永享以来御番帳』には大館祐善・同常安・同持房、『文安年中御番帳』には大館晴光・同晴忠・同藤安といった名が見え、大館氏から多数の奉公衆が輩出されていたことが確認できる 7 。彼らが将軍の側近として軍事的に枢要な位置を占めていたことは、一族の武勇と忠誠が高く評価されていた証左と言えるだろう。さらに、八代将軍足利義政の乳母であり、後に側室となった大館佐子(おおだちのすけこ)も大館氏の出身であり 5 、将軍家との個人的な結びつきの強さも窺わせる。

大館尚氏(常興)とその功績

大館氏からは、武人としてだけでなく、故実家(こじつか、古来の儀式や典礼に通じた専門家)としても幕府に貢献した人物が現れている。その代表格が、大館佐子の甥にあたる大館尚氏(なおうじ、法名:常興)である 5 。尚氏(常興)は、書札礼(しょさつれい、書状の作法)の大家として知られ、小笠原氏や伊勢氏と並び称される室町幕府の故実家として活躍した 5

彼が著した『大館常興日記』や『大館常興書札抄』は、室町幕府後期の政治状況や、公家・武家の儀礼、荘園制末期の社会経済の様相などを具体的に伝える貴重な史料として、今日高く評価されている 5 。尚氏は、将軍足利義尚、義稙、義晴の三代に仕え、幕政の諮問機関である評定衆(ひょうじょうしゅう)や内談衆(ないだんしゅう)の一員としても活動しており 7 、その政治的影響力も大きかった。尚氏(常興)のような人物の存在は、大館氏が単に武勇に優れた一族であっただけでなく、文化や実務においても幕府を支える高い能力を有していたことを示している。このような家風が、後に大館義実が「甲冑の研究家」としての一面を持つに至った背景の一つと考えられるかもしれない。

大館晴光の活動と一族の動向

尚氏(常興)の子である大館晴光(はるみつ)もまた、父祖の才を受け継ぎ、故実家として知られた。彼は、十三代将軍足利義輝と越後の上杉謙信との間の交渉に関与するなど、幕府の外交・政治の舞台でも活動した 5

しかし、晴光が永禄8年(1565年)4月28日に死去すると、その直後の5月19日には永禄の変が勃発し、将軍義輝が三好三人衆らによって殺害されるという大事件が起こる 8 。晴光の跡を継いだ嫡男の大館輝光(てるみつ)は、義輝の従兄弟にあたる足利義栄(よしひで)に仕えたことが確認されているものの、その後の消息は不明である 8 。そして、織田信長に擁立された足利義昭が将軍となると、輝光をはじめとする大館氏本流の多くが追放され、そのまま没落したと見られている 8

この室町幕府末期の混乱と、それに伴う大館氏本流の没落は、大館義実のような傍流の人物が、幕府滅亡後に独自の道を歩まざるを得なかった背景を理解する上で重要である。本流の勢力が衰退したことが、結果的に義実のような人物の相対的な活動の余地を生んだ可能性も考えられる。

3. 大館義実の生涯

大館氏が室町幕府の奉公衆として重きをなした背景を踏まえ、次に大館義実個人の生涯を追う。

出自と初期の経歴

大館義実の父は、大館清祐(きよすけ)と伝えられている 1 。「清祐」という名は、大館氏の伝統的な通字(「氏」「光」「義」など)とは異なるため、清祐自身や義実の家系が大館氏の中でどのような位置にあったのか、詳細は不明な点が多い。義実の生没年も詳らかではなく、現存する資料では「16世紀の人物」とされるに留まっている 2 。これは、戦国時代の多くの武将に共通する課題であり、彼の具体的な活動期間を特定する上での制約となっている。父・清祐に関する情報が乏しいことは、義実の家系が大館氏の傍流であった可能性を示唆しており、彼がどのようにして将軍家に仕えるに至ったのか、その初期のキャリア形成については謎が残る。

足利将軍家への奉仕

将軍足利義輝への臣従

義実は当初、十三代将軍足利義輝に仕えたとされる 1 。義輝の治世は、失墜した将軍権威の回復を目指し、畿内の実力者であった三好長慶らとの間で激しい権力闘争が繰り広げられた時代であった 4 。奉公衆の一員であったと推測される義実も、義輝の軍事行動や政務に何らかの形で関与していた可能性が高い。

しかし、永禄8年(1565年)5月19日、義輝は京都の二条御所において三好三人衆や松永久秀の子・久通らの軍勢に襲撃され、非業の死を遂げる(永禄の変) 4 。この未曾有の事態に際し、義実が具体的にどのような行動を取ったのか、例えば御所に駆けつけたのか、あるいは別の場所にいたのかなど、その詳細は不明である。主君を失うという大きな出来事に直面したことは、彼のその後の人生に大きな影響を与えたであろう。義輝の近臣であれば、御所で討死した者も少なくない中、義実が生き延びて次の主君である義昭に仕えるに至った経緯は、彼の危機察知能力や政治的判断力を示す上で重要なポイントであるが、史料的な制約から明らかではない。

将軍足利義昭への臣従

義輝の死後、義実はその弟である足利義昭に仕えた 1 。義昭は、当初、織田信長の強力な後ろ盾を得て十五代将軍に就任し、室町幕府の再興を目指したが、やがて信長との関係が悪化し、対立を深めていく。

天正元年(1573年)、信長との対立が決定的となると、義昭は信長によって京都から追放され、ここに室町幕府は事実上滅亡した 1 。義実はこの時も義昭に従い、所領を失いながらも、北陸地方など各地を流浪したと伝えられている 1 。主君義輝の横死後、多くの旧臣が離散する中で義昭に仕え続け、さらに義昭が信長によって追放された後も行動を共にしたという事実は、義実の足利将軍家、あるいは義昭個人に対する忠誠心の篤さを示しているのかもしれない。あるいは、他に頼るべき有力な勢力がなかったという現実的な状況も影響していた可能性も考えられる。いずれにせよ、幕府滅亡という歴史的な転換点を当事者として経験したことは、彼のその後の人生観や武士としての行動原理に大きな影響を与えたと想像される。

関岡城主として

大館義実は「関岡城主」であったと伝えられている [ユーザー提供情報] 1 。この「関岡」という地名、あるいは城との関連性は、義実の経歴を考える上で興味深い点である。

史料によれば、大館一族の中には伊賀国に拠点を持ち、「関岡氏」とも称した系統が存在したことが確認できる 5 。この系統は、大館氏明の子である伊賀守氏清の子孫と伝えられている。また、別の伝承として、『関岡家始末』という記録には、大館氏明の子・氏節(うじとき、ただしその実在性については疑問視する声もある)が南北朝時代に南朝に仕え、後に伊勢国司であった北畠顕能(きたばたけ あきよし)のもとで伊賀国の関岡城主となり、戦功によって北畠氏から「関岡」の名字を与えられたという話が記されている 9 。これが事実であれば、大館氏と伊賀及び関岡の地との結びつきは、南北朝時代という古い時期にまで遡ることになる。さらに、三重県名張市神屋にあったとされる北畠具親(ともちか、別名:関岡)の城の呼称が、大館氏の「関岡の屋形」に由来するという伝承も存在する 10

これらの情報から、義実が「関岡城主」であったという事実と、後に伊賀国に所領を得たという事実は、単なる偶然ではなく、大館氏(あるいはその一派)が以前から伊賀国に何らかの足跡や縁故を有していた可能性を強く示唆している。「関岡」という名称が地名に由来するのか、あるいは功績による賜姓なのか、その両方が複合しているのか、複数の伝承が存在すること自体が、この地と大館氏との繋がりの深さを物語っているのかもしれない。義実が具体的にどの系統に連なるのか、また、これらの伝承が彼の「関岡城主」という肩書とどのように結びつくのかは、今後の研究課題と言えるだろう。いずれにせよ、忍びの活動で知られる伊賀国に城(あるいはそれに準ずる屋敷)を構えていたことは、義実の武将としての性格や役割を考える上で重要な要素である。

幕府滅亡後の雌伏時代:和泉国堺での生活

足利義昭が京都から追放され、室町幕府が終焉を迎えると、義実もまた所領を失い、和泉国の堺に移り住んだとされている 1 。当時の堺は、環濠を持つ自治都市として繁栄を極め、海外貿易の拠点として多くの富が集積する一方で、様々な文化人や、主家を失った浪人たちが集う場所でもあった。

主君を失い、拠るべき所領も失った義実が、なぜ堺を選んだのか。それは、堺が持つ都市としての特性、すなわち経済的な中心地であり、比較的自由な雰囲気に満ち、多くの情報が集まる場所であったことを考慮した結果である可能性が高い。この堺での潜伏期間中、彼がどのように生計を立て、どのような人々と交流し、再起の機会をうかがっていたのか、その具体的な生活ぶりは明らかではない。しかし、この時期の経験や人脈が、後の加藤清正への仕官に繋がる何らかの布石となった可能性も考えられる。例えば、甲冑研究家としての知識や技術をこの時期に深めたり、あるいはそれを介して新たな人脈を築いたりしたことも想像に難くない。

加藤清正への仕官と文禄・慶長の役(朝鮮派兵)への従軍

堺での雌伏の時を経て、大館義実は豊臣秀吉の有力家臣であり、後に熊本藩初代藩主となる加藤清正に仕官することになる 1 。浪々の身であった義実が、豊臣政権下で勇猛果敢な武将として知られた清正に召し出された背景には、義実自身の武将としての能力や経験が評価されたことはもちろん、あるいは甲冑研究家としての専門知識が清正の関心を引いた可能性も考えられる。清正は築城術に長け、武具にも強い関心を持っていた武将であり、義実の持つ専門性が魅力的に映ったのかもしれない。

清正の家臣となった義実は、文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけて行われた文禄・慶長の役(朝鮮派兵)に従軍し、活躍したと伝えられている 1 。具体的な武功の内容は不明であるが、この朝鮮での「活躍」が、後の所領獲得に繋がったことは確かである 3 。異国の戦場での経験は、義実の武将としてのキャリアに新たな一ページを加え、また、甲冑研究家としての視点にも影響を与えた可能性がある。

伊賀国及び山城国における所領獲得と晩年

朝鮮出兵からの帰国後、あるいはその戦功により、大館義実は豊臣秀吉(あるいは加藤清正を通じて)から伊賀国と山城国に所領を与えられたとされる 1 。これにより、義実は再び領主としての地位を確立し、安定した晩年を迎えることができたと考えられる。

特に、山城国の所領については、「再び京都の旧領を与えられている」との記述もあり 3 、これが事実であれば、単なる新規の恩賞というだけでなく、かつて足利将軍家の臣として京都周辺に何らかの縁故があった大館氏の立場を回復するという象徴的な意味合いを持っていた可能性も考えられる。また、伊賀国に所領を得たことは、前述の「関岡城主」としての経歴や、大館氏と伊賀との間に存在したかもしれない古いつながりを考慮すると、自然な成り行きであったとも言えるだろう。

義実の没年や最期の地に関する具体的な情報は、現在のところ提供された資料からは見出すことができない。彼が伊賀あるいは山城の地でどのような晩年を送り、いつ頃その生涯を閉じたのかは、今後の研究によって明らかにされるべき点である。

4. 甲冑研究家としての大館義実

大館義実は、武将としての側面だけでなく、「甲冑の研究家として著名」であったと複数の資料で言及されており [ユーザー提供情報] 1 、この点は彼の人物像を理解する上で非常に興味深い。

甲冑研究家としての評価

ある資料には、義実の言葉とされる次のような記述が見られる。「兜を特徴づけるのはやはり立物(たてもの)よな。文字を象(かたど)ったり、守り札や仏像、水牛の角、鹿の角、象の鼻まで、ありとあらゆる意匠がある。わしは、いくら見ても飽きぬのじゃ」 3 。この言葉からは、彼が甲冑、特に兜の立物の意匠やその多様性に対して、深い関心と専門的な知識を有していたことが窺える。これは単に甲冑を使用する者としての知識を超え、収集や分類、あるいは製作に関する知識も持ち合わせていた可能性を示唆している。

当時の武具・甲冑研究の背景

戦国時代は、合戦の様相が大きく変化した時代であった。集団戦術が発達し、鉄砲が導入されるなど、戦闘のあり方が変わる中で、甲冑もまた、より高い機能性や防御力を求めて多様な発展を遂げた。いわゆる「当世具足(とうせいぐそく)」の登場はその代表例である。武将にとって甲冑は、自らの生命を守るための実用的な道具であると同時に、戦場において自らの武威や家格、個性を誇示するための装飾品としての意味合いも強かった。

また、武家社会においては、有職故実(ゆうそくこじつ)の一環として、武具に関する知識やその取り扱いに関する作法も、武士の重要な教養の一つとされていた 11 。大館氏には、前述の通り故実家として高名な大館尚氏(常興)がおり 5 、一族の中に武具に関する学識や伝統が蓄積されていたとしても不思議ではない。義実の甲冑への深い造詣は、このような大館氏の家柄的背景と無関係ではないかもしれない。武具に関する知識は、将軍の側近たる奉公衆としての務めにも直結し、また、乱世を生き抜く上での実用的な技術でもあったはずである。

義実の研究内容や専門性の推測

義実の甲冑研究が、具体的にどのようなものであったのか、彼が何らかの著作や図録を残したかについては、現時点の資料からは残念ながら確認できない 13 。しかし、 3 に引用された言葉からは、彼が特に兜の立物の意匠やその多様性に強い関心を抱いていたことがわかる。彼の研究が、実践的な甲冑の改良を目指すものであったのか、あるいは古今東西の甲冑の様式や変遷を研究する学術的なものであったのか、もしくはその両面を兼ね備えていたのかは、非常に興味深い点である。

戦国武将にとって甲冑は、実用的な防具であると同時に、自らの家柄、武勇、そして個性を象徴する極めて重要な装備であった。義実が甲冑、特にその中でも最も目立つ部分の一つである立物に関心を持ったのは、そうした甲冑の持つ多面的な意味を深く理解していたからではないだろうか。室町幕府の滅亡という激動の中で主家を失い、流浪の身となった彼にとって、甲冑の研究は、武士としてのアイデンティティを再確認し、あるいは新たな時代における武士のあり方を模索する行為であったのかもしれない。立物は戦場で敵味方を識別する役割も持つが、同時に持ち主の思想や願いを込めたシンボルでもあった。義実が「ありとあらゆる意匠がある。わしは、いくら見ても飽きぬのじゃ」と語ったとされる背景には、それぞれの甲冑に込められた物語や、それらを身にまとった武士たちの精神性への深い共感が隠されているのかもしれない。彼の専門性が、例えば加藤清正への仕官の際に評価された可能性も考えられる。清正自身も武具に関心が高く、実戦経験豊富な義実の知識は貴重だったであろう。

5. 大館義実に関する史料と研究の現状

大館義実の生涯を詳細に明らかにする上で、関連史料の状況と現在の研究における課題を整理しておく必要がある。

主要関連史料の概観

大館義実個人に焦点を当てた一次史料は、残念ながら豊富とは言えない。彼の経歴は、いくつかの編纂物や記録に断片的に記されているものを繋ぎ合わせることで、ようやくその輪郭が見えてくるのが現状である 1

大館氏全体に関する史料としては、前述の『大館常興日記』や『大館常興書札抄』 5 、そして室町幕府の奉公衆の構成を伝える各種の御番帳 7 などが存在する。しかし、これらの史料に義実個人に関する具体的な記述が含まれているか否かは、現時点では不明である。

伊賀の関岡氏(大館氏の一派か)に関連する史料として「関岡家始末」の存在が指摘されているが 9 、その内容の信憑性については慎重な検討が必要とされる 9

また、義実が仕えた加藤清正の家臣団に関する史料、例えば分限帳(ぶげんちょう、家臣の知行高を記した帳簿)や侍帳(さむらいちょう、家臣の名簿)などに、義実の名前や知行、役職などが記録されている可能性は高い 16 。しかし、今回の調査で参照した範囲では、これらの史料中に義実の名を直接確認することはできなかった。

研究における課題

大館義実の研究を進める上での最大の課題は、やはり史料の乏しさである。特に、彼が足利義輝・義昭に仕えていた時期の具体的な活動内容、幕府滅亡後の堺での生活の実態、そして甲冑研究家としての具体的な業績や著作の有無などについては、不明な点が多い。

また、正確な生没年が不確定であるため、彼の活動期間を厳密に特定したり、同時代の他の人物との関係性を精密に考察したりすることが困難となっている。

「関岡城主」であったとされるが、その関岡城の正確な所在地や規模、城主としての義実の具体的な活動内容についても、さらなる郷土史的な調査が求められる。伊賀地方の郷土史研究の中に、何らかの手がかりが眠っている可能性も否定できない 9

今後の展望

大館義実のような、歴史の表舞台で常に主役級の活躍をしたわけではない人物の研究は、断片的な史料を丹念に拾い集め、それらを時代背景や関連人物の動向といった文脈の中に位置づけて解釈していく地道な作業が不可欠である。例えば、大館氏本流の動向 8 、室町幕府の奉公衆制度の実態 7 、当時の堺という都市の性格、そして加藤清正という人物の事績や家臣団編成の方針などを深く理解することが、義実の行動や選択をより深く理解する鍵となるだろう。

今後の研究においては、大館氏関連の古文書(特に未公開のものや地方の旧家などに残るもの)のさらなる調査、加藤清正関連史料(特に家臣団名簿や朝鮮出兵時の陣立書、恩賞に関する記録など)の網羅的な精査、そして伊賀国や山城国の郷土史料における大館氏(あるいは関岡氏)及び義実に関する記述の探索などが期待される。また、甲冑史の研究成果と照らし合わせることで、義実の「甲冑研究家」としての側面をより具体的に評価することも可能になるかもしれない。現状では、義実の伝記はいくつかの重要な出来事の点を線で結ぶような形になっているが、その線と線の間を埋めるためには、周辺情報からの推論や、同時代人の類似ケースとの比較検討などが有効なアプローチとなるであろう。

6. おわりに

大館義実の生涯は、室町幕府の奉公衆として名高い大館一族の一員として始まり、主君足利義輝、そして義昭に仕え、幕府の終焉という歴史的転換点を経験した。主家滅亡後は所領を失い、堺で雌伏の時を過ごしたが、やがて加藤清正にその武勇や専門知識を見出されて仕官し、朝鮮出兵にも従軍。その功績により伊賀・山城に所領を与えられ、再び武士としての地位を確立するに至った。

大館義実は、歴史の教科書に名を残すような著名な大名や武将ではないかもしれない。しかし、彼の生き様は、戦国時代から安土桃山時代という激動の時代を生きた一人の武士の姿を鮮やかに映し出している。主家の盛衰に翻弄されながらも、武士としての矜持を失わず、新たな活躍の場を求めて生き抜いたその生涯は、多くの名もなき武士たちの生き様を代表するものと言えるかもしれない。

さらに特筆すべきは、彼が単なる武人としてだけでなく、「甲冑の研究家」という文化的な側面を併せ持っていた点である。これは、武芸百般に通じるだけでなく、特定の専門分野にも深い造詣を持つという、当時の武士の一つの理想像を示すものとも考えられる。

本報告書では、限られた史料の中から大館義実の足跡を辿ってきたが、依然としてその生涯には多くの謎が残されている。特に、彼の甲冑研究家としての具体的な業績や、伊賀・山城における晩年の活動については、今後の研究によって新たな事実が明らかにされることが期待される。大館義実という一人の武将の生涯を深く掘り下げることは、戦国時代の武士の多様な生き方や、当時の社会の一断面を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれるに違いない。

引用文献

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  2. 16世紀 日本(お) - 英霊人名録@ ウィキ https://w.atwiki.jp/eirei/pages/396.html
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  9. 大内(おおうち)氏 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/jiten/o.html
  10. 【関岡家】福運名前集・PDF形式 - 福運命名書店 - BOOTH https://booth.pm/zh-tw/items/5824452
  11. 有職故実(ユウソクコジツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E8%81%B7%E6%95%85%E5%AE%9F-144799
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  14. 北秋田市ゆかりの音楽家 https://www.city.kitaakita.akita.jp/archive/contents-5961
  15. 検索結果一覧 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム - 宮内庁 https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Search?archive=Toshoryo&hasdetail=True&sort=Title&offset=48650&limit=50&searchtype=Category
  16. 加藤忠廣の基礎的研究 : 附 飯田覚資料の翻刻・紹 介 https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2545082/p037.pdf
  17. 分限帳(ブンゲンチョウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%88%86%E9%99%90%E5%B8%B3-128422
  18. 本覚院 (加藤清正側室) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%A6%9A%E9%99%A2_(%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3%E5%81%B4%E5%AE%A4)
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  21. 備前堀 | 熊本城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/17/memo/629.html
  22. 城から読み解く伊賀の歴史 書籍出版 郷土史研究家の福井さん https://www.iga-younet.co.jp/2024/06/30/92434/