但馬国人太田垣輝延の生涯:山名家臣としての興隆から織豊政権下の動乱と没落まで
1. はじめに
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本報告の目的と対象
本報告は、戦国時代の但馬国において重要な役割を担った国人領主、太田垣輝延(おおたがき てるのぶ)の生涯を、現存する史料に基づき、詳細かつ網羅的に明らかにすることを目的とする。太田垣輝延に関しては、山名家臣、竹田城主、山名四天王の一角を占め、織田家から毛利家に離反したために羽柴秀吉に攻められ、一時は居城を奪還するも後に敗れて逃亡した、という概要が知られている。本報告では、この既存の知識の範囲に留まることなく、輝延の出自、但馬国における太田垣氏の勢力基盤、激動する戦国情勢下での政治的・軍事的活動、そしてその終焉と一族のその後に至るまで、多角的に光を当てることを目指す。
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太田垣輝延に関する先行研究と史料概観
太田垣輝延に関する研究は、但馬国衆や山名氏、あるいは織田氏と毛利氏の抗争史といったより大きな枠組みの中で、部分的に言及されることが一般的である。輝延個人に焦点を当てた包括的な伝記的研究は多くない。それゆえ、本報告では、朝来市史や養父市史などの地方史誌、竹田城をはじめとする城郭研究の成果に加え、『信長公記』、『吉川家文書』、『益田家什書』、『播翰譜』 といった同時代史料や後代の編纂物に残された記述を可能な限り渉猟し、断片的な情報を繋ぎ合わせることで、総合的な人物像の再構築を試みる。これらの史料を丹念に読み解くことで、輝延の具体的な行動や、彼が置かれた複雑な状況の一端を明らかにできると考える。
2. 太田垣氏の出自と但馬国における勢力基盤
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太田垣氏の系譜と竹田城主としての地位
太田垣氏は、但馬国に古くから勢力を有した日下部氏(くさかべし)の一族とされている。その名は、嘉吉元年(1441年)に勃発した嘉吉の乱において、太田垣光景(みつかげ)が山名氏配下として赤松氏討伐に軍功を挙げたことにより、歴史の表舞台に現れる。光景はこの功績により、山名氏のもとで播磨国守護代に任ぜられた。そして嘉吉三年(1443年)頃、但馬守護であった山名宗全(もちとよ、後の宗全)の命により、竹田城を築城、あるいはその守備を命じられ、初代城主となったと伝えられている。
竹田城は、播磨国と但馬国の国境に位置し、円山川西岸の古城山(虎臥山とも)山頂に築かれた山城である。標高353.7メートルに位置し、眼下に交通の要衝を抑えるこの城は、播磨に対する防御拠点として、また播磨への出撃拠点としても極めて戦略的に重要な役割を担っていた。太田垣氏は、この竹田城を代々の居城とし、輝延は第七代城主にあたる。
太田垣氏 歴代竹田城主と在城期間
代
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城主名
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就任年(判明分)
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主な典拠
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初
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太田垣光景(誠朝説あり)
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嘉吉3年(1443年)
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二
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太田垣景近
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寛正6年(1465年)
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三
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太田垣宗朝
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文明11年(1479年)
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四
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太田垣俊朝
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延徳4年(1492年)
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五
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太田垣宗寿
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大永元年(1521年)
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六
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太田垣朝延
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天文7年(1538年)
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七
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太田垣輝延
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永禄13年(1570年)
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この表が示すように、太田垣氏は1世紀以上にわたり竹田城主の地位を世襲しており、但馬国内において確固たる勢力基盤を築いていたことがわかる。この長期にわたる支配は、太田垣氏が単なる城代ではなく、地域に深く根差した領主であったことを物語っている。
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山名四天王としての太田垣氏
太田垣氏は、その勢力と山名家に対する貢献から、垣屋氏(かきやし)、八木氏(やぎし)、田結庄氏(たいのしょうし)と共に「山名四天王」と称された。この称号は、山名宗全の時代から続く太田垣氏の軍功と、山名家中における重臣としての地位を反映したものであろう。戦国時代、輝延の時代には、太田垣輝延、垣屋続成(つぐなり)、田結庄是義(これよし)、八木豊信(とよのぶ)が、それぞれ四天王の当主として名を連ねていた。
しかし、応仁の乱以降、守護大名としての山名氏の権威は次第に衰退していく。この主家の弱体化に伴い、山名四天王と称された有力国人衆は、徐々に独立性を強めていった。彼らは但馬国内の政治・軍事において独自の判断で行動することが増え、時には相互に、あるいは山名宗家と対立することもあった。このことは、但馬国内の権力構造が、山名氏を中心としつつも、有力国人の動向によって大きく左右される、複雑な様相を呈していたことを示している。
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太田垣輝延の登場:家督相続と当時の但馬情勢
太田垣輝延は、天文七年(1538年)に但馬国養父郡大屋荘(おおやのしょう)で生まれたと伝えられている。父は第六代竹田城主であった太田垣朝延(とものぶ)である。幼少期から父に従い、城の普請や領内巡察に同行し、領主としての薫陶を受けたとされる。
永禄十一年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした頃、父・朝延は病床にあり、輝延が実質的に太田垣城の政務と軍事を取り仕切るようになっていた。そして永禄十三年(1570年)、正式に家督を相続し、第七代竹田城主となった。
輝延が家督を継いだ当時、但馬国は依然として守護・山名祐豊(すけとよ)の統治下にあり、輝延も祐豊に仕える立場であった。しかし、国内では太田垣氏をはじめとする国人衆が各地に割拠し、それぞれが独自の勢力を保持していた。国外に目を向ければ、畿内では織田信長が急速に勢力を拡大し、西方からは毛利氏が中国地方一帯に覇を唱え、その影響力は但馬にも及びつつあった。輝延は、このような内外ともに複雑で流動的な情勢の中で、太田垣家の舵取りを担うことになったのである。彼が指導者としての地位を継承したのは、まさに時代の大きな転換期であったと言える。
3. 織田・毛利の狭間で揺れる但馬と輝延の選択
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主君山名祐豊と但馬国人衆の動向
山名祐豊は但馬守護職を世襲していたものの、その支配力は但馬一国に完全に及んでいたわけではなかった。太田垣輝延をはじめとする山名四天王など、有力国人衆が国内各地で大きな実力と発言権を有していた。彼らは山名氏の被官でありながらも、半ば独立した領主としての性格を強めていた。
中央の政局が織田信長の台頭によって大きく変動する中、山名祐豊の立場もまた揺れ動いた。当初、祐豊は尼子氏の残党を支援し、毛利氏と敵対する姿勢を示していた。太田垣輝延も、山名祐豊の重臣として、その軍事行動に従事していた記録が残っている。例えば、永禄七年(1564年)頃、因幡国において武田高信(たけだ たかのぶ)と山名氏が争った際、輝延は山名軍の部隊を率いて鳥取城下へ派遣され、武田高信勢と交戦した。この戦いにおける家臣の功を賞して、輝延が感状を発給したことが史料から確認できる。これは、輝延が単なる城主ではなく、山名軍の中核をなす武将として活動していたことを示している。
しかし、山名氏の弱体化は明らかであり、国人衆は自家の存続のため、より現実的な勢力に頼る必要性を感じ始めていた。この状況が、後の但馬国人衆の複雑な外交戦略、そして太田垣輝延の選択に繋がっていく。
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生野銀山を巡る権益と抗争
但馬国の経済的価値を高めた要因の一つに、生野銀山の存在がある。この銀山は天文十一年(1542年)に本格的な採掘が始まったとされ、山名祐豊がその支配を試みた。しかし、竹田城を拠点とする太田垣氏も、この銀山の権益に深く関与していた。特に輝延の父である太田垣朝延の時代、弘治二年(1556年)には、祐豊から銀山の領有権を奪取したと記録されている。この事実は、太田垣氏が主君である山名氏に対しても、経済的利益を巡っては強硬な姿勢を取るだけの力を持っていたことを示唆している。
生野銀山から産出される銀は莫大な富を生み出し、それは軍事力の維持・強化に不可欠であった。そのため、この銀山の支配権は、但馬国内の諸勢力にとって死活問題であり、山名氏と太田垣氏の間だけでなく、他の国人衆をも巻き込んだ争奪の対象となったと考えられる。さらに、この銀山の価値は但馬国内に留まらず、中央の織田信長(そしてその部将である羽柴秀吉)にとっても、西国攻略と経済基盤の強化の観点から、極めて重要な戦略目標となった。生野銀山の存在は、太田垣氏に経済的恩恵をもたらす一方で、強力な外部勢力の介入を招く要因ともなったのである。
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織田信長の但馬侵攻と一時的服属
永禄十二年(1569年)、織田信長は中国地方への影響力拡大を目指し、部将の木下藤吉郎秀吉(後の羽柴秀吉)に但馬侵攻を命じた。秀吉軍は破竹の勢いで進軍し、わずか十日間で生野銀山から此隅山城(このすみやまじょう)に至る18の城を陥落させたとされる。この第一次但馬侵攻において、太田垣輝延が城主を務める竹田城も一度は織田方の手に落ちたと考えられる。
この織田軍の圧倒的な軍事力の前に、山名祐豊や太田垣輝延ら但馬の国人衆の多くは、信長に服属することを余儀なくされた。この服属は、軍事的圧力による現実的な選択であった可能性が高い。なお、太田垣輝延の名の「輝」の一字は、当時の室町幕府第十三代将軍足利義輝からの偏諱(へんき、主君などが臣下に対し自らの名の一字を与えること)である可能性も指摘されており、太田垣氏が中央の権威とも一定の関係を持っていたことをうかがわせる。しかし、この織田氏への服属は、但馬国人衆にとって必ずしも本意ではなく、情勢の変化に応じて再びその立場を変える余地を残すものであった。
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毛利氏への帰属と芸但和睦
織田信長と将軍足利義昭の関係が悪化し、天正元年(1573年)に信長が義昭を京都から追放すると、義昭を庇護した毛利氏と織田氏との対立は決定的となった。この新たな対立構造は、但馬国人衆の動向にも大きな影響を与えた。
天正三年(1575年)、毛利氏の重鎮である吉川元春(きっかわ もとはる)は、これまで敵対することもあった但馬の国人衆に対し、積極的な外交工作を展開した。その結果、太田垣輝延を含む但馬の国人衆の多くが毛利氏と和睦し、反織田の立場を鮮明にする「芸但和睦(げいたんわぼく)」が成立した。これにより、太田垣輝延は織田方から離反し、毛利方へと帰属することになった。
この芸但和睦は、毛利氏にとっては、東方からの織田氏の圧力を食い止めるための重要な戦略であり、但馬国を対織田戦線の緩衝地帯、あるいは同盟勢力として確保する狙いがあった。一方、太田垣輝延ら但馬国人衆にとっては、強大化する織田信長の脅威に対抗するため、西国の雄である毛利氏という強力な後ろ盾を得るという現実的な選択であった。しかし、この選択は、輝延と竹田城を、織田氏による本格的な中国攻略の最前線に立たせることにも繋がったのである。
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丹波荻野直正による竹田城占拠と輝延による奪還
太田垣輝延が毛利方へと立場を転換した直後の天正三年(1575年)十月、事態はさらに複雑化する。丹波国黒井城主で「赤鬼」と恐れられた荻野直正(おぎの なおまさ、赤井直正とも)が、突如として竹田城および山名祐豊の居城であった有子山城(ありこやまじょう)を急襲し、これを占拠したのである。
この荻野直正の行動の背景には、織田・毛利の対立という大きな構図の中で、丹波・但馬国境地帯における勢力争いが絡んでいたと考えられる。興味深いことに、この時、名目上の主君でありながら輝延とは異なる立場(織田方寄り、あるいは日和見的)にあった可能性のある山名祐豊は、織田信長に救援を求めた。これに応じた信長は、明智光秀を丹波へ派遣し、第一次丹波攻め(第一次黒井城の戦い)を開始させている。
しかし、太田垣輝延は単に城を奪われたままでは終わらなかった。翌天正四年(1576年)には、輝延が竹田城の奪還に成功したとの記録がある。この事実は、輝延が依然として相応の軍事力と、領内における求心力を保持していたことを示している。一度は毛利方につきながらも、その直後に城を失い、さらに自力で奪還するという一連の出来事は、当時の但馬国がいかに流動的で緊迫した状況にあったか、そして輝延がその中でいかに粘り強く戦っていたかを物語っている。この奪還により、輝延は再び竹田城主として、織田氏の本格的な侵攻に備えることとなった。
4. 羽柴秀吉の但馬平定と竹田城の攻防
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天正五年(1577年)羽柴秀長による第一次但馬攻めと竹田城の戦い
織田信長は、毛利氏との全面対決に向けて中国攻めを本格化させ、その総大将として羽柴秀吉を播磨国へ派遣した。天正五年(1577年)、秀吉は弟の羽柴秀長(はしば ひでなが、小一郎とも)に兵を与え、毛利方に与した但馬国の攻略を命じた。秀長軍の主要な目標の一つは、生野銀山を確保すること、そして毛利方の有力国人である太田垣輝延が守る竹田城の制圧であったと考えられる。
秀長軍は真弓峠を越えて但馬に侵攻し、まず岩州城(がんしゅうじょう)を攻略、次いで竹田城に迫った。『信長公記』によれば、秀長は竹田城を攻め、太田垣輝延は城を明け渡して退散し、秀長が城代として入ったと記されている。また、『武功夜話』には、竹田城が険阻な地形を利して抵抗し、三日間の戦闘が繰り広げられた末に降伏したとの記述もあるが、同書の史料的価値については慎重な検討が必要である。いずれにせよ、この攻撃によって竹田城は一時的に織田方の支配下に入った。
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輝延による一時的な居城奪還
天正五年(1577年)に竹田城を失った太田垣輝延であったが、その勢力は完全に潰えたわけではなかった。羽柴秀長は竹田城を拠点とした後、天正七年(1579年)五月には、織田信長の命により明智光秀を支援するため丹波へ出陣した。秀長が竹田城を離れたこの機を捉え、毛利方として活動を続けていた太田垣輝延が竹田城を奪還し、再び居城としたと考えられている。
この奪還劇は、輝延の不屈の精神と、依然として但馬国内に一定の支持基盤を有していたことを示している。また、織田方の支配が、主要な城を抑えたとはいえ、必ずしも但馬全域に盤石に及んでいたわけではなかった可能性も示唆される。この一時的な奪還は、輝延にとって束の間の勝利であったが、彼の武将としての力量を物語る出来事と言えよう。
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天正八年(1580年)羽柴軍による最終侵攻と竹田城落城
太田垣輝延による竹田城奪還は、織田方にとって許容できるものではなかった。天正八年(1580年)四月、羽柴秀吉(あるいは再び秀長)は、但馬国の完全平定を目指し、大規模な軍勢を率いて再度侵攻を開始した。
この織田軍の総攻撃の前に、但馬国内の毛利方国人衆は次々と降伏していった。太田垣輝延が守る竹田城も、有子山城と共に、さしたる抵抗もできないまま降伏・落城したと『信長公記』などに記されている。この敗北により、太田垣氏による竹田城支配は完全に終焉を迎え、輝延は城主の座を追われることとなった。
但馬国を平定した秀吉は、有子山城に羽柴秀長を、竹田城には秀長の配下である桑山重晴(くわやま しげはる)を城主(または城代)として配置した。この天正八年の敗北は、太田垣輝延にとって決定的なものであり、彼の国人領主としての歴史に幕を下ろすものであった。先の奪還成功とは異なり、織田軍の周到な準備と圧倒的な物量の前に、輝延はなすすべもなかったと考えられる。
太田垣輝延の生涯における主要年表
和暦
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西暦
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主な出来事
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典拠例
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天文7年
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1538年
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但馬国養父郡大屋荘にて出生(伝)
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弘治2年
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1556年
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父・太田垣朝延、山名祐豊から生野銀山の領有権を奪取
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永禄11年頃
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1568年頃
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父・朝延の病により、実質的に家政を掌握
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永禄12年
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1569年
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木下秀吉の第一次但馬侵攻。竹田城一時落城か。織田氏に服属。
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永禄13年
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1570年
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家督を相続し、第七代竹田城主となる
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天正元年
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1573年
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毛利氏に服属(『兵庫県史』による。芸但和睦の前段階か)
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天正3年
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1575年
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芸但和睦成立、毛利方に明確に帰属。同年、丹波の荻野直正により竹田城を奪われる。
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天正4年
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1576年
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荻野直正から竹田城を奪還
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天正5年
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1577年
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羽柴秀長の第一次但馬攻め。竹田城落城、秀長が城代となる。
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天正7年
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1579年
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羽柴秀長の不在を突き、竹田城を奪還し再入城
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天正8年
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1580年
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羽柴軍の第二次(最終)但馬侵攻。竹田城落城、太田垣氏による支配終焉。輝延は逃亡。
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この年表は、輝延の生涯がいかに激動の時代の中にあったか、そして竹田城が如何に戦略的要衝として争奪の的となったかを明確に示している。
5. 落城後の輝延と太田垣氏の行方
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播磨への逃亡と潜居
天正八年(1580年)に竹田城が最終的に落城し、城主の座を追われた太田垣輝延は、隣国の播磨国へ落ち延びたとされている。敗れた武将が縁故を頼って近隣の国へ逃れるのは戦国時代の常であり、但馬と接する播磨は地理的にも自然な逃亡先であったと考えられる。しかし、その後の輝延の具体的な動向や潜伏場所、生活状況などについては、現存する史料からは詳らかにすることは困難である。一度勢力を失った人物の足跡は、歴史の記録から急速に失われていくことが多い。
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嫡子・新兵衛の白岩隠棲と白岩氏
太田垣輝延自身の消息は不明な点が多い一方で、その嫡子とされる太田垣新兵衛(しんべえ)に関する伝承が残されている。新兵衛は、父・輝延と共に竹田城を脱出した後、但馬国養父郡の白岩(しらいわ、現在の兵庫県養父市吉井地区)という地に落ち延び、そこに小規模な城(あるいは砦)を築いて隠棲したと伝えられている。
さらに重要なことには、新兵衛は羽柴(豊臣)方の追捕を逃れるためか、あるいは太田垣氏の再興を期してその名を一時的に伏せるためか、太田垣の姓を隠し、隠棲した土地の名を取って「白岩」姓を名乗ったとされる。これが、後に「白岩太田垣氏」とも称される家系の始まりと考えられる。この改姓と潜居は、没落した一族が血脈を保つための、戦国時代によく見られた知恵であり、生き残り戦略であった。
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太田垣氏のその後と末裔に関する伝承
白岩に隠棲した太田垣新兵衛の子孫は、その後も養父市吉井周辺に存続したと考えられている。太田垣の血筋は、武家としての表舞台からは姿を消したものの、形を変えて後世に繋がっていく。
江戸時代に入ると、養父市関宮村で私塾「敬忠舎」を開き、教育者として活動した太田垣猶川(ゆうせん)という人物がいる。また、より広く知られているのは、幕末から明治時代にかけて活躍した尼僧であり、優れた歌人・陶芸家としても名高い大田垣蓮月(おおたがき れんげつ)である。蓮月は実父が伊賀国上野の城代家老藤堂良聖であったが、生後まもなく京都知恩院の寺侍であった大田垣光古(てるひさ)の養女となった。この養父・光古は因幡国の出身で、室町時代に因幡・但馬で栄えた山名氏の重臣の子孫である太田垣氏の系統であるとされている。これらの人物の存在は、太田垣氏の血脈や家名が、武力を背景とした支配者としてではなく、文化や教育の分野で後世に影響を与え続けたことを示している。これは、戦国時代の敗者が必ずしも歴史から完全に消え去るのではなく、新たな形で社会に貢献し得ることを示す好例と言えよう。
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輝延の終焉と墓所に関する考察
太田垣輝延自身の没年や正確な死没地、そして墓所については、現在のところ確かな史料は見当たらず、特定は困難である。播磨国へ逃れた後の消息は、前述の通り不明な点が多い。
兵庫県朝来市には、竹田城初代城主とされる太田垣光景の墓と伝えられるものは存在するが、七代目城主である輝延個人の墓所として明確に比定できるものは、現時点では確認されていない。嫡子・新兵衛が隠棲したとされる養父市吉井の白岩地区には、太田垣氏に関連する伝承や古墓が存在する可能性があり、今後の詳細な現地調査や郷土史料の再検討が、輝延の終焉に関する手がかりをもたらすかもしれない。
6. 太田垣輝延の人物像と歴史的評価
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史料に見る輝延の武将としての資質と行動原理
太田垣輝延は、竹田城という天下に名だたる堅城を拠点とし、織田・毛利という二大勢力の狭間で、複数回にわたる激しい攻防戦を経験した武将である。特に、羽柴秀長軍によって一度は奪われた竹田城を、天正七年(1579年)に奪還した手腕は注目に値する。これは、輝延が単に状況に流されるだけの人物ではなく、機を見て果敢に行動する軍事的指揮能力と、領内に依然として影響力を保持していたことを示している。また、山名祐豊の指揮下で因幡に出陣し、武功を挙げた家臣に感状を発給している事実も、彼の武将としての一面を伝えている。
輝延の行動原理は、激動する情勢の中で、いかにして太田垣家の本領と領民を守り抜くかという点にあったと考えられる。ある伝承によれば、輝延は「変わらぬものを守るには、時に変わることも必要か」と自問自答したとされ
1
、これは主家である山名氏への忠誠と、織田・毛利といった新興勢力との間で揺れ動く自身の苦悩、そして現実主義的な判断を下さざるを得なかった状況を象徴している。山名氏から毛利氏へ、そして一時的には織田氏にも服属するという彼の選択は、まさにこの行動原理に根差したものと言えよう。
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領主としての統治と家臣団との関係
輝延は幼少期より父・朝延から城の普請や領内巡察の重要性を叩き込まれ、自身も竹田城の防衛力強化に努めたと伝えられる
1
。また、生野銀山を巡る権益争いに見られるように、領地の経済的基盤の確保にも意を注いでいたことがうかがえる。
家臣団との関係においては、羽柴秀吉による但馬侵攻という国家存亡の危機に際し、家臣を集めて評議を開いたとされ
1
、また秀吉に降伏し所領の一部安堵を得た際には、その経緯を家臣一同に説明したという
1
。これらの逸話は、輝延が重要な局面において家臣の意見に耳を傾け、意思疎通を図ろうとした領主であった可能性を示唆している。家臣への感状発給も、主従関係を維持し、家臣団の士気を高めるための重要な手段であった。
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激動の時代を生きた地方領主としての意義
太田垣輝延の生涯は、戦国時代末期から安土桃山時代という、日本史上未曾有の変革期を生きた一地方国人領主の典型的な軌跡を辿っていると言える。守護山名氏という旧来の権威が衰退し、織田信長、豊臣秀吉といった強力な中央集権勢力が台頭する中で、多くの地方領主がそうであったように、輝延もまた、自領と一族の存続を賭けて、目まぐるしく変わるパワーバランスの中で苦渋の選択を迫られ続けた。
彼が最終的に選択した毛利氏への帰属は、結果として竹田城の失陥と自身の没落に繋がった。しかし、この選択は、当時の但馬国人たちが置かれていた地政学的な状況と、巨大勢力間の狭間で生き残りを図ろうとした地方領主のリアルな姿を反映している。輝延の物語は、天下統一という大きな歴史の潮流の中で、翻弄されながらも必死に抵抗し、あるいは適応しようとした無数の地方領主たちの姿を代弁しているとも言えるだろう。
7. おわりに
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太田垣輝延の生涯の総括
太田垣輝延は、戦国時代の但馬国にその名を刻んだ武将である。名門山名氏の重臣「山名四天王」の一家、太田垣氏の第七代当主として竹田城に拠り、当初は山名祐豊に仕えた。しかし、織田信長の勢力が但馬に及ぶと、毛利氏との間で揺れ動き、最終的には毛利方として織田氏と対峙した。羽柴秀吉(秀長)による数度にわたる但馬侵攻を受け、居城竹田城を巡って激しい攻防を繰り広げ、一時は城を奪還するなどの抵抗を見せたものの、天正八年(1580年)に最終的に敗れ、城を失い播磨へ逃亡した。その後の消息は詳らかではないが、嫡子・新兵衛は白岩の地に潜んで太田垣の血脈を伝え、後世には太田垣蓮月のような文化人も輩出した。輝延の生涯は、巨大な統一権力の前に、地方の国人領主がいかにして自立を保とうとし、そして多くがその波に飲み込まれていったかを示す、戦国末期の縮図と言える。
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今後の研究課題と展望
太田垣輝延に関する調査は、依然として多くの課題を残している。
第一に、播磨へ逃亡した後の輝延自身の具体的な足取り、終焉の地と正確な没年については、史料が乏しく、今後の新たな史料発見が待たれる。
第二に、嫡子・新兵衛が興したとされる白岩太田垣氏の系譜、及び養父市周辺に残る太田垣氏関連の伝承や墓石等の詳細な調査は、一族のその後の展開を明らかにする上で重要である。
第三に、芸但和睦成立に至る過程での但馬国人衆の具体的な動向、特に輝延がその中でどのような役割を果たしたのかについて、毛利方史料(例えば『吉川家文書』や『萩藩閥閲録』など)の網羅的な再検討による史料的裏付けが一層求められる。
第四に、輝延が発給したとされる感状の現存状況の確認と、その内容分析は、彼の主従関係や軍事行動を具体的に知る上で有効であろう。
これらの課題に取り組むことで、太田垣輝延という一地方武将の生涯をより深く、多角的に理解することが可能となり、戦国時代から織豊時代への移行期における但馬国の歴史、ひいては地方社会の変動に関する研究の進展に寄与するものと期待される。
引用文献
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太田垣輝延(おおたがき てるのぶ) 拙者の履歴書 Vol.344~山名の世から秀吉の世へ - note
https://note.com/digitaljokers/n/n200a1049ce3c