戦国時代の関東を語る上で、太田道灌(資長)という名は圧倒的な輝きを放つ。江戸城を築城し、武勇のみならず和歌にも通じた「文武両道の鑑」として、その功績は今なお語り継がれている 1 。しかし、その偉大すぎる父の影に隠れ、歴史の表舞台で語られることの少ない一人の武将がいる。それが、道灌の嫡男、太田資康である。彼の生涯は、父が築いた栄光と、その栄光が招いた悲劇という巨大な遺産を一身に背負い、激動の時代を駆け抜けた流転の物語であった。
資康が生きた時代は、関東の勢力図が根底から覆る大転換期にあたる。主家である扇谷上杉家の権勢が陰りを見せ始め、本家である山内上杉家との間で「長享の乱」と呼ばれる泥沼の内乱が勃発。そして、その混乱の隙を突くように、伊豆から新興勢力である後北条氏(伊勢氏)が関東へと触手を伸ばし始めていた。資康の人生は、この旧勢力の衰退と新勢力の台頭という、時代の力学そのものを体現するものであった。父を殺した主君に反旗を翻し、その敵であったはずの勢力と手を結び、やがては帰参を果たすも、その死には複数の説がつきまとう。彼の足跡を辿ることは、一個人の伝記に留まらず、戦国初期の関東における武士の生き様、忠誠観、そして権力構造の変遷を解き明かす上で、極めて重要な意味を持つ。
本報告書は、この太田資康という人物に焦点を当てる。太田一族には「資」の字を持つ人物が多く、特に後代の孫にあたる「太田康資(やすすけ)」や、子とされる「太田資高(すけたか)」との混同が見られるが、本稿では文明8年(1476年)に生まれ、太田道灌の嫡男であった「源六郎資康」に限定し、その生涯を徹底的に追跡する 4 。父の非業の死から始まった彼の波乱に満ちた生涯を、現存する史料を基に多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。
太田資康は、文明8年(1476年)、扇谷上杉家の家宰としてその名を轟かせていた太田道灌(資長)の嫡男として生を受けた 4 。この時、父・道灌は44歳。当時としてはかなりの高齢であり、すでに実子に恵まれなかったことから、後継者として複数の甥(資忠、資家など)を養子に迎えていた 5 。そのような状況下で誕生した実子・資康は、道灌にとってまさに待望の嫡男であり、その将来には大きな期待が寄せられていたことであろう。彼の幼名は不明だが、元服後の通称は源六、あるいは源六郎と伝わっている 8 。
資康が生まれた頃、父・道灌の功績は絶頂期にあった。約30年にわたり関東を二分した「享徳の乱」や、それに続く「長尾景春の乱」において、道灌は扇谷上杉家の軍事的中核として連戦連勝を重ね、主家の勢力を飛躍的に増大させた 10 。しかし、そのあまりにも傑出した能力と高まる名声は、皮肉にも破滅の種を内包していた。主君である扇谷上杉定正は、家臣である道灌の功名に嫉妬と猜疑心を募らせていった 3 。さらに、扇谷上杉家の台頭を快く思わない本家の山内上杉顕定は、両者の間に楔を打ち込むべく、離間の計を巡らせていたとも言われる 3 。道灌自身も、自らの功績に見合わぬ待遇への不満を漏らすことがあったとされ、君臣の関係は次第に冷え切っていった 12 。
このような不穏な空気の中、資康は文明17年(1485年)に10歳で元服を迎える 5 。元服の儀は江戸城西側の平河天満宮で執り行われたとされるが、この祝儀の直後、彼の運命は大きく揺れ動く 5 。父と主君・定正の険悪な関係はもはや修復不可能な段階に達しており、資康は定正と対立関係にあった古河公方・足利成氏のもとへ、「人質の名目」で送られることになったのである 5 。これは、道灌の力を削ぎ、その動きを牽制しようとする定正の政治的圧力であった可能性が極めて高い。資康の少年期は、父の栄光の陰で、常に政治的な緊張と危険に晒されていた。彼が人質として送られたことは、単なる政略上の駒として扱われただけでなく、父子の絆を物理的に引き裂き、彼のその後の人生を決定づける最初の大きな悲劇であった。
そして文明18年(1486年)7月26日、資康の人生を根底から覆す事件が発生する。父・道灌が、主君・上杉定正の居館である相模国糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市)に招かれ、謀殺されたのである 1 。『太田資武状』によれば、道灌は入浴を勧められ、無防備になったところを襲われたという。その際に「当方滅亡」という言葉を遺したと伝えられるが、これは自らがいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという、その後の歴史を正確に予見した言葉であった 1 。享年55。この暗殺により、11歳の資康は突如として父を失い、父の仇が自らの主君であるという、あまりにも過酷な現実に直面することになる。この事件が、彼のその後の人生の全てを規定していくのである。
父・道灌の訃報に接した資康は、人質先から江戸城へ戻り、家督を継承したとみられる。しかし、安息の時はなかった。父を殺した上杉定正は、道灌の嫡男である資康をも排除すべく、追討の軍を差し向けたのである 5 。これにより、資康は父が築いた居城・江戸城を追われ、甲斐国へと逃亡した 5 。この一連の事件は、道灌暗殺に続く扇谷上杉家の内紛として「江戸城の乱」と呼ばれている 15 。後ろ盾を失い、父の仇に追われる身となった資康の流転の人生は、ここから始まった。
甲斐国に逃れた資康は、そこに留まらなかった。彼は父の主家であった扇谷上杉家と長年対立していた、本家の山内上杉顕定のもとへと身を寄せたのである 9 。これは単なる亡命ではなく、父を殺した上杉定正への復讐という明確な意志に基づいた、極めて戦略的な選択であった。道灌という当代随一の将を失った扇谷上杉家に対し、その嫡男である資康が敵対する山内方についたという事実は、関東の国人や地侍たちの動向に大きな影響を与えた 1 。道灌の死と資康の離反は、それまで水面下で燻っていた両上杉家の対立を決定的なものとし、翌長享元年(1487年)から始まる全面戦争「長享の乱」の直接的な引き金の一つとなったのである 1 。
長享の乱が勃発すると、資康は山内上杉軍の武将として、父の旧主君である扇谷上杉軍と干戈を交えることになる。
長享2年(1488年)6月、両上杉軍は武蔵国須賀谷原(現在の埼玉県嵐山町菅谷)で激突した 17 。この時、資康は山内方の拠点・鉢形城の前線基地である菅谷城を預かる将として、この合戦に参加している 9 。『梅花無尽蔵』の記述によれば、資康は菅谷の地に軍営を構えていた 17 。父・道灌が当代随一の築城家であったことを考えれば、資康もその薫陶を受け、菅谷城の防備を固める上で父譲りの才を発揮した可能性も考えられる 17 。この合戦自体は扇谷方の勝利に終わったが、資康はその後も同地に留まり、山内方の武将として戦い続けた 9 。
この長享の乱のさなか、資康は生涯の伴侶となる女性と出会うきっかけを得る。山内方の陣中には、資康と同じく上杉定正(定正は実弟)に反旗を翻していた三浦高救や、その孫にあたる三浦義同(道寸)も加わっていた 5 。同じ「反・定正」という立場で共闘したことが縁となり、資康は後に三浦義同の娘を正室として迎えることになった 5 。この婚姻は、単なる政略結婚に留まらず、後の資康の運命を決定づける重要な伏線となる。
戦塵にまみれる日々の中、資康の人間性を垣間見せる貴重な記録が残されている。父・道灌が生前深く親交を結んでいた詩僧・万里集九が、長享2年(1488年)8月、わざわざ須賀谷の陣中にいる資康を見舞いに訪れたのである 17 。万里集九は、道灌の三回忌を終えた後、江戸を離れて資康のもとへ駆けつけた 19 。彼の詩文集『梅花無尽蔵』には、その時の様子が「須賀谷の北、平沢山に入り、太田源六資康の軍営を明王堂の畔に問う」と記されている 17 。戦いの生々しい痕跡が残る陣中で、親友の遺児が無事である姿を見て、万里は詩を詠んでその再会を賀した 17 。この交流は、資康が単なる武辺者ではなく、父から文化的な教養や人脈をも受け継いでいたことを示唆している。彼の流転の人生は、武力だけでなく、こうした文化的な繋がりによっても支えられていたのかもしれない。
資康が山内方として扇谷上杉家と戦い続けること約8年、彼の運命を再び大きく転換させる出来事が起こる。明応3年(1494年)10月、父の仇であり、彼が扇谷上杉家と敵対する最大の理由であった上杉定正が、武蔵国寄居の荒川で落馬し、49歳で急死したのである 5 。この突然の事故死により、資康の個人的な怨恨の対象は消滅した。
定正の死は、資康の立場に大きな変化をもたらした。扇谷上杉家では定正の養子であった上杉朝良が新当主となり、体制が刷新された。また、時を同じくして、資康の舅である三浦義同が長年の争いを経て相模三浦氏の家督を完全に掌握し、扇谷上杉家との関係を修復したことも追い風となった 5 。これにより、資康が扇谷上杉家へ帰参する道が開かれた。彼は新当主・上杉朝良に許され、再び扇谷上杉家の家臣として復帰を果たす 5 。
この一連の動きは、戦国武将の「忠誠」が、現代的な意味での組織への絶対的な忠誠ではなく、当主個人との関係性に大きく依存していたことを示す典型例と言える。資康の行動原理は「扇谷上杉家への裏切り」ではなく、あくまで「父の仇・上杉定正個人への敵対」であった。その原因が消滅したことで、関係は修復され得たのである。これは、下剋上が常態化する戦国時代における、極めて現実的かつ合理的な武士の価値観を反映している。
帰参当初、資康は須賀谷城などを拠点としていたようだが、長年にわたって関東を混乱させた長享の乱が実質的に終結に向かう永正2年(1505年)頃、ついに父が築いた本拠地・江戸城へと帰還したとされている 5 。父の暗殺後、追われるようにして脱出してから、実に20年近い歳月が流れていた。父の思い出が詰まった居城に、流転の末に戻った彼の感慨は、察するに余りあるものがあっただろう。帰参後の彼の具体的な活動に関する記録は乏しいが、父・道灌の嫡男であり、かつて敵対した山内方にも通じ、相模の有力国衆である三浦氏とも強固な姻戚関係を持つ彼の存在は、複雑な関東の情勢において、扇谷上杉家にとって独自の価値を持つ切り札となり得たはずである。
束の間の安寧を得たかに見えた太田資康であったが、その最期については記録が錯綜しており、現在に至るまで定説を見ていない。彼の死を巡っては、主に三つの説が存在し、どの説を採るかによってその人物像は大きく異なる。
説の名称 |
典拠史料 |
没年 |
享年(推定) |
死因 |
場所 |
関連人物 |
永正十年戦死説 |
『太田家記』、大明寺伝承など |
永正10年 (1513) |
38歳 |
戦死 |
相模国三浦郡(玉縄城付近か) |
北条早雲、三浦義同 |
明応七年死去説 |
『赤城神社年代記録』 |
明応7年 (1498) |
23歳 |
不明(「生涯」とのみ記述) |
不明 |
不明 |
永正二年謀殺説 |
『年代記配合抄』 |
永正2年 (1505) |
30歳 |
謀殺 |
武蔵国中野陣 |
上杉朝良 |
最も広く知られ、物語として語られることが多いのがこの説である。永正10年(1513年)、相模国において新興勢力の伊勢宗瑞(後の北条早雲)が、資康の舅である三浦義同の所領に侵攻を開始した 23 。義同は岡崎城を追われ、三浦半島先端の新井城に籠城して徹底抗戦の構えを見せる 23 。主家である扇谷上杉家は、この三浦氏の危機に際して援軍を派遣。資康もその一軍を率いて、舅の救援に駆けつけた 20 。しかし、早雲は三浦氏の補給路を断つために、三浦半島の付け根に玉縄城を築いて待ち構えていた 26 。資康の軍勢は、この玉縄城付近で早雲軍の迎撃に遭い、奮戦の末に討ち死にしたとされる 23 。この説の主な典拠は、後代に成立した軍記物である『太田家記』などである 5 。また、神奈川県横須賀市の大明寺には、現在も資康の墓と伝わる五輪塔があり、寺の由緒にもこの戦死の逸話が刻まれている 8 。義理の父を救うために命を落とすという劇的な展開は、武士の「義」を体現するものとして後世に好まれ、父・道灌の悲劇的な最期と重ね合わせる形で、太田家の悲運を象徴する物語として定着したと考えられる。
次に、史料的価値が高いとされるのがこの説である。『赤城神社年代記録』という史料の明応七年(1498年)の条に、「太田源六生涯」という極めて簡潔な記述が見られる 5 。通称「源六」は資康を指すと考えられ、「生涯」は「生涯を終える」、すなわち死去したことを意味すると解釈される。これに従うならば、資康は扇谷上杉家に帰参してからわずか4年後、23歳という若さで亡くなったことになる。この記録は同時代に近いもので、軍記物のような脚色がないため信頼性は高い。しかし、死因や場所、状況が一切不明であり、あまりに情報が少ないことが最大の難点である。もしこの説が事実であれば、彼の人生はあまりにも短く、その後の歴史に大きな影響を及ぼす前に幕を閉じたことになる。
三つ目の説は、資康の生涯に最も暗い影を落とすものである。『年代記配合抄』という史料に、永正2年(1505年)、武蔵国中野の陣中において、「太田六郎右衛門尉」なる人物が主君・上杉朝良によって謀殺されたという記録が存在する 5 。この「六郎右衛門尉」を資康と同一人物と見なすのがこの説である。もしこれが事実であれば、資康は父・道灌と全く同じように、仕えていた主君の手によって殺されるという、あまりにも皮肉で宿命的な最期を遂げたことになる。帰参から日の浅い資康がなぜ殺されなければならなかったのか、その理由は定かではない。しかし、彼の持つ複雑な経歴(山内方への出奔歴)や、三浦氏との強固な繋がり、そして何よりも「道灌の嫡男」という存在感が、再び主家の猜疑心を招いた可能性は否定できない。
これら三つの説は、それぞれが異なる歴史的文脈と価値観を反映している。1513年説は「武士の義理と悲劇」を語る英雄譚であり、1505年説は「下剋上の非情さ」を象徴する宿命の物語、そして1498年説は「歴史の記録の断片性」を示す一つの事実である。どの説が真実であるか断定することは困難だが、複数の説が存在すること自体が、彼の生涯の複雑さと、関東戦国史の混沌とした様相を如実に物語っている。
太田資康の死後、彼が遺した血脈は、関東の覇権が「扇谷上杉」から「後北条」、そして「徳川」へと移り変わる激動の時代を、巧みに、そして時には苦難に満ちた形で生き抜いていくことになる。
道灌の死後、太田一族は、道灌の実子である資康を祖とする系統と、道灌が後継者として迎えた養子・資家(道灌の甥とされる)を祖とする系統に事実上分裂した 6 。資家の子孫は武蔵国岩付城(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)を拠点としたことから
岩付太田氏 と呼ばれ、太田氏伝来の文書などを引き継いだため、こちらが嫡流と見なされることが多い 6 。一方、資康の系統は父・道灌以来の本拠地である江戸城を拠点としたため、
江戸太田氏 と称された 6 。資康の生涯は、この江戸太田氏の源流を確立したという点で、重要な歴史的意義を持つ。
Mermaidによる関係図
資康の子・太田資高は、父の跡を継ぎ、扇谷上杉氏の重臣として江戸城代を務めていた 30 。しかし、時代は大きく北条氏に傾きつつあった。大永4年(1524年)、資高は関東での勢力を急速に拡大していた北条氏綱に内応し、主君・上杉朝興を江戸城から河越城へと追放、城を氏綱に明け渡したのである 32 。父・資康が命を懸けて戦った相手(1513年戦死説の場合)である北条氏の軍門に、その子が下るという極めて皮肉な結果となった。この「裏切り」の功績により、資高は北条氏のもとで江戸城代としての地位と所領を安堵され、江戸衆の寄親という重責を担った 30 。この決断は、一族が生き残るための現実的な選択であった。
資高の子、すなわち資康の孫にあたる太田康資の代になると、一族の運命は再び大きく揺れ動く。康資は母が北条氏綱の娘であり、主君である北条氏康から「康」の一字を賜るなど、北条家とは極めて深い血縁・主従関係にあった 35 。しかし、何らかの処遇への不満があったのか、あるいは岩付太田氏の太田資正(資康の従兄弟の子にあたる)の動きに同調したのか、永禄6年(1563年)頃に突如として北条氏から離反する 35 。彼は安房の里見氏と結び、翌年の第二次国府台合戦では里見軍の先鋒として、かつての主君・北条軍と激しく戦った 35 。この戦いで敗れた後は里見氏を頼って上総国へ落ち延び、不遇の晩年を送ったと伝えられている 36 。資康の「反北条」の姿勢(1513年説)から、子の資高の「親北条」、そして孫の康資の「反北条」へと揺れ動く姿は、一族が生き残りをかけて時代の波に必死に対応しようとした苦闘の証左である。
康資の子・重正の系統は、小田原北条氏の滅亡後、関東に入府した徳川家康に召し出され、旗本として仕える道を見出した 39 。そして、その子である太田資宗は、三代将軍・家光の時代に六人衆(後の若年寄)に抜擢されるなど幕政の中枢で活躍し、最終的には3万5000石を領する譜代大名にまで出世した 40 。この家系が近世大名・遠江国掛川藩主太田家として明治維新まで存続し 6 、その子孫は現代においても、太田道灌の血筋を伝えている 41 。流転を重ねた江戸太田氏は、最終的に徳川の世で安泰を得たのである。これは、道灌以来の「太田」という名跡が、時代を超えて価値を持ち続けたことを物語っている。
太田資康の生涯は、父・道灌の暗殺という抗い難い悲劇に端を発し、主家への復讐、敵方への加担、流転の末の帰参、そして諸説ある謎の死に至るまで、まさに関東戦国史の激動そのものであった。彼の人生は、個人の意志や能力だけではどうすることもできない、時代の巨大な奔流に翻弄され続けたものであったと言えよう。
彼の行動は、戦国武将が置かれた「義」と「利」の狭間を浮き彫りにする。舅・三浦義同のために命を落としたという英雄譚(1513年説)は、武士としての名誉や義理を重んじる「義」の側面を象徴している。一方で、父の仇である上杉定正が死ぬと、あっさりと旧主家に戻るという行動は、一族の存続と自らの安寧を最優先する現実的な「利」の判断を示している。この二つの側面が、彼の人生の中に複雑に絡み合っていた。
歴史的に見れば、資康の生涯は、鎌倉公方以来の旧来の権威であった両上杉氏が衰退し、新たな実力者である後北条氏が関東の覇権を確立していく、まさにその過渡期に位置する。彼は、古い秩序と共に戦い、そして散っていった最後の世代の一人であったのかもしれない。そして彼の子や孫は、北条氏、さらには徳川氏という新しい秩序の中で、帰順と離反を繰り返しながら必死に生き残りを模索した。その意味で、太田資康は単なる「道灌の子」という枠を超え、関東戦国史の大きな転換点を一身に体現する、極めて象徴的な人物として再評価されるべき存在である。彼の悲劇と流転に満ちた生涯は、戦国という時代の非情さと、そこに生きた人間の複雑な実像を、我々に力強く語りかけている。