太田資高は、日本の戦国時代、特に関東地方の動乱期に生きた武将である。彼の名は、主家であった扇谷上杉家から離反し、新興勢力である後北条氏に内応して江戸城を明け渡したという、戦国ならではの劇的な行動によって歴史に刻まれている。この行動は、単に一個人の裏切りという範疇に収まらず、当時の関東における勢力図を大きく塗り替える契機の一つとなった。扇谷上杉家の家臣でありながら、なぜ主君を裏切り、敵対勢力であった後北条氏に通じたのか。その背景には、祖父・太田道灌の非業の死、主家の衰退、そして後北条氏の巧みな調略など、複雑な要因が絡み合っていたと考えられる。本報告書は、太田資高の生涯を多角的に検証し、彼が生きた時代の関東の政治・軍事状況の中で、その行動がどのような意味を持ち、歴史にどのような影響を与えたのかを明らかにすることを目的とする。
本報告書は、太田資高の生涯について、その出自と太田一族の系譜、扇谷上杉家臣としての活動、後北条氏への内通と江戸城掌握の経緯、後北条氏家臣としての役割、そして晩年と子孫に至るまでを、現存する史料や研究成果に基づいて詳細に追跡する。特に、資高の行動の動機や、それが当時の関東の歴史展開に与えた影響について深く考察する。構成としては、第一章で資高の出自と太田氏の系譜を、第二章で扇谷上杉家臣時代の資高を、第三章で北条氏への内通と江戸城の掌握を、第四章で後北条氏家臣としての資高の活動を、第五章で資高の晩年と死を、そして第六章でその子孫と太田家のその後を記述する。結論では、太田資高の生涯を総括し、戦国期関東における彼の歴史的評価と意義を考察する。記述にあたっては、史料に基づく客観性を重んじ、不自然な英単語の混入や部分的なマークダウン記述の突出を避けるよう留意する。
太田資高の祖父にあたる太田道灌(資長)は、室町時代後期の武将であり、扇谷上杉家の家宰としてその名を馳せた。道灌は卓越した軍事的才能と政治的手腕を発揮し、特に長禄元年(1457年)に江戸城を築城したことは、その最大の功績として知られている 1 。江戸城は、その戦略的な立地から、後の関東支配における重要な拠点となった。道灌はまた、主家である扇谷上杉家の勢力拡大に大きく貢献し、関東の安定化にも尽力した。
しかし、その輝かしい功績とは裏腹に、道灌の晩年は悲劇的なものであった。文明十八年(1486年)、道灌は主君である扇谷上杉定正によって謀殺されるという非業の死を遂げた 2 。この事件の真相については諸説あるものの、有能すぎた道灌に対する定正の猜疑心や、家臣団内部の対立などが背景にあったと考えられている。道灌の死は、扇谷上杉家にとって計り知れない損失であり、その後の同家の衰退を招く一因となったとも言われる。
この祖父・道灌の非業の死は、孫である資高の心境や後の行動に大きな影響を与えた可能性は否定できない。主君に尽くしながらも謀殺された祖父の運命は、資高にとって主家である扇谷上杉家に対する潜在的な不信感を抱かせる要因となったかもしれない。実際に、資高が後に扇谷上杉家を裏切り北条氏に通じた背景には、この道灌謀殺の恨みが存在したとする見方もある 6 。道灌の死は、単に太田家の悲劇に留まらず、資高の世代における主家への忠誠心のあり方を問い直す契機となり、後の離反へと繋がる遠因となった可能性が考えられる。
太田資高の父は、太田資康である 5 。資康は道灌の嫡男であり、父・道灌が謀殺された後、太田家の家督を継いだとされる。しかし、道灌暗殺という異常事態の後、資康の立場は決して安泰なものではなかった。一時期、父を暗殺した扇谷上杉家を離れ、対立関係にあった山内上杉氏に仕えたとも伝えられている 5 。これは、当時の太田家が置かれていた不安定な状況を如実に物語っている。
資康の具体的な事績に関する史料は限られているが、扇谷上杉家と山内上杉家の間で揺れ動く関東の政情の中で、太田家の存続と再興に努めたものと考えられる。資康の妻、すなわち資高の母については、北条氏綱の娘である浄心院とする史料 8 が存在するが、これは資高が後妻として迎えたものであり、資高自身の生母に関する記録は明確ではない。
資高が家督を継承するまでの太田家は、道灌という偉大な指導者を失い、主家との関係も微妙なものとなる中で、困難な舵取りを迫られていた。そのような状況下で、資高は父・資康の追善のために法恩寺の堂塔を再建したと伝えられている 13 。この行為は、資高の父に対する敬愛の念を示すと同時に、太田家の家督継承者としての自覚と、一族の結束を固めようとする意志の表れであったと解釈することもできよう。
太田道灌の死後、太田一族の系譜は複雑な様相を呈し、主に二つの系統に分かれていく。一つは、道灌の嫡男・資康の子である太田資高に繋がる「江戸太田氏」、もう一つは、道灌の養子(または甥)とされる太田資家の子・資頼に始まる「岩付(岩槻)太田氏」である 5 。
太田資高は、このうち江戸太田氏の嫡流として、父・資康の後を継ぎ、扇谷上杉家の家臣として江戸城代の地位にあった 5 。江戸城は祖父・道灌が築いた城であり、その城代職は太田家にとって象徴的な意味を持つものであった。
一方、岩付太田氏の祖となった太田資頼も、当初は扇谷上杉氏の重臣であったが、大永四年(1524年)、資高が江戸城を北条氏に明け渡すのとほぼ同時期に、北条氏に内応し、武蔵国岩付城を奪取して拠点とした 5 。この二つの太田氏が同時期に北条氏に通じたことは、単なる偶然とは考えにくい。背景には、扇谷上杉家の衰退と後北条氏の台頭という関東の勢力図の変化の中で、太田一族全体が生き残りをかけて新たな道を模索していた状況が窺える。もはや扇谷上杉氏に将来を託すことはできないという共通認識が、一族内に広まっていた可能性も考えられる。資高の行動も、こうした太田一族全体の動向と無関係ではなかったであろう。
太田家の分岐は、一族内の勢力バランスの変化や、当時の関東における複雑な政治状況を反映したものであり、資高のその後の行動選択にも少なからぬ影響を与えたと考えられる。
太田資高の妻の一人に、後北条氏二代当主・北条氏綱の娘である浄心院がいたことは、資高と北条氏との関係を考察する上で極めて重要な点である 8 。史料によれば、資高は享禄三年(1530年)までに浄心院を後妻として迎えたとされている 11 。これは、資高が大永四年(1524年)に江戸城を北条氏に明け渡した後、数年を経て成立した婚姻関係であることを意味する。
この婚姻は、単なる個人的な結びつきを超え、高度な政治的意味合いを持っていたと考えられる。北条氏にとっては、江戸城奪取の功労者である資高を姻戚関係によって取り込むことで、江戸支配の安定化と、太田家に対する影響力の強化を図る狙いがあった。一方、資高にとっても、関東における新興勢力である北条氏との間に確固たるパイプを築くことは、自らの立場を強化し、太田家の安泰を保障する上で大きな意味を持ったであろう。
特に、資高と浄心院の間に生まれた嫡男・太田康資が北条氏の血を引くことは、両家の結びつきをより強固なものにした。康資は後に母方の伯父にあたる北条氏康から偏諱を賜り「康資」と名乗っており 12 、このことからも北条氏との密接な関係が窺える。この婚姻は、資高と北条氏の関係を単なる主従を超えた、より緊密なものへと発展させる役割を果たしたと言える。
太田資高が仕えた扇谷上杉家の当主は、上杉朝興であった。朝興は、関東管領を世襲した山内上杉家と並び、関東に大きな勢力を持った扇谷上杉家の当主として、激動の時代を生きた武将である。しかし、朝興の時代、扇谷上杉家の勢力は、長享の乱(長享元年(1487年)~永正二年(1505年))以降、山内上杉家との対立や古河公方足利氏との複雑な関係の中で、徐々に陰りを見せ始めていた。
資高が江戸城代として活動していた当時の江戸城は、祖父・太田道灌が築城した頃の威容を保っていたか、あるいはその後の戦乱や改修によってどのような姿であったか、詳細は必ずしも明らかではない。しかし、江戸が武蔵国の要衝であり、江戸湾を通じた水運の拠点でもあったことから、その軍事的・経済的重要性は依然として高かったと考えられる 1 。資高は、この江戸城の城代として、扇谷上杉家の武蔵国南部における支配の一翼を担っていた。
太田資高が歴史の表舞台で大きな動きを見せる大永四年(1524年)頃の関東地方は、複数の勢力が複雑に鼎立し、相争う状況にあった。主な勢力としては、扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏、そして伊豆・相模を基盤に関東への進出を窺う新興勢力の後北条氏(当時は伊勢氏)が挙げられる 14 。
この中で、扇谷上杉家は、かつての勢いを失いつつあった。山内上杉家との長年にわたる抗争は両家の力を削ぎ、また古河公方との関係も不安定であった。こうした状況を巧みに利用し、勢力を拡大してきたのが北条氏である。初代・北条早雲(伊勢宗瑞)が伊豆・相模を平定し、二代・氏綱の時代には武蔵国への本格的な進出を開始していた 15 。
扇谷上杉家は、この北条氏の圧迫を直接的に受ける立場にあり、次第に劣勢へと追い込まれていく。このような主家の将来に対する不安感が、資高のような重臣層の間に広まっていたとしても不思議ではない。扇谷上杉家の衰退と後北条氏の台頭という、関東における大きな力のうねりの中で、資高は自らの家と将来をどのように見据え、どのような行動を選択するのか、重大な岐路に立たされていたと言える。主家の将来性に対する見切りが、後の離反という決断に至る一つの要因となった可能性は十分に考えられる。
太田資高が長年仕えた扇谷上杉家を離反し、敵対関係にあった後北条氏の当主・北条氏綱に内通した動機は、単一の理由で説明できるものではなく、複数の要因が複雑に絡み合った結果であったと考えられる。
最も直接的な感情的動機として挙げられるのが、祖父・太田道灌が扇谷上杉定正によって謀殺されたことへの積年の恨みである 6 。道灌は扇谷上杉家の繁栄に大きく貢献したにもかかわらず、主君の手にかかって非業の死を遂げた。この事実は、太田家にとって決して忘れられない屈辱であり、孫である資高の胸中にも、扇谷上杉家に対する根深い不信感として残っていた可能性が高い。
これに加えて、当時の扇谷上杉家の勢力が衰退し、将来性が見通せない状況であったことも、資高の決断に影響を与えたであろう。前章で述べたように、扇谷上杉家は山内上杉家との抗争や内紛により弱体化し、新興勢力である北条氏の圧迫を受けていた。このような状況下で、資高が主家の将来に見切りをつけ、より強力な勢力に自らの家運を託そうと考えたとしても不思議ではない。
そして、資高の離反を決定づけたのが、北条氏綱による周到な調略であった。氏綱は、扇谷上杉家の重臣である資高に接近し、内応を働きかけたとされる 6 。北条氏は、敵対勢力の内部を切り崩す調略を得意としており 17 、資高が抱える扇谷上杉家への不満や、同家の弱体化という状況を巧みに利用したと考えられる。資高にとって、北条氏からの誘いは、積年の恨みを晴らし、かつ自家の勢力を維持・拡大するための絶好の機会と映ったのかもしれない。
このように、個人的な恨み、主家の衰退という客観的状況、そして北条氏の巧みな外交戦略という複数の要素が複合的に作用し、資高は扇谷上杉家からの離反、そして北条氏への内通という重大な決断に至ったと推察される。
大永四年(1524年)正月、太田資高の歴史的転換点となる出来事が起こる。当時、扇谷上杉朝興は、宿敵であった山内上杉家との和睦交渉のため、居城である江戸城を離れ、河越城に着陣していた 11 。この主君不在という絶好の機会を捉え、北条氏綱は武蔵国への侵攻を開始した。
この時、江戸城の留守を預かっていたのが太田資高であった。かねてより氏綱と内通していた資高は、北条軍の侵攻に呼応し、江戸城の門を開いて北条軍を城内に引き入れたと伝えられている 4 。ある記録では、堅固に閉ざされていたはずの江戸城の門が、いとも簡単に開かれた様子が劇的に描写されている 6 。これにより、扇谷上杉家の重要な拠点であった江戸城は、ほとんど抵抗を受けることなく北条氏の手に落ちた。
この江戸城の易主は、単に一つの城の支配者が変わったという以上の意味を持っていた。江戸は、その地理的条件から武蔵国南部における戦略的要衝であり、水上交通の結節点でもあった。この江戸城を掌握したことは、北条氏にとって武蔵国への本格的な進出と、さらには関東一円への覇権確立に向けた大きな足掛かりとなった。一方、扇谷上杉家にとっては、本拠地の一つを失っただけでなく、その権威と勢力に大きな打撃を受けることとなり、没落を決定づける出来事の一つとなったのである。
江戸城を太田資高の内応によって北条氏綱に奪われた扇谷上杉朝興は、この屈辱的な事態に対し、ただちに江戸城奪還の兵を挙げた。大永四年(1524年)正月十三日、朝興率いる扇谷上杉軍は、江戸城を目指して進軍し、武蔵国高輪原(現在の東京都港区高輪周辺)において、北条氏綱軍と激突した。これが高輪原の戦いである 9 。
戦いは両軍にとって激しいものとなり、一進一退の攻防が繰り返されたと記録されている 16 。しかし、最終的には北条軍が扇谷上杉軍を押し返し、扇谷上杉軍は敗北を喫した。この敗戦により、上杉朝興は江戸城奪還の望みを断たれ、河越城へと敗走することを余儀なくされた 4 。
高輪原の戦いは、江戸城の帰属を最終的に決定づけた戦いであったと言える。太田資高の寝返りによって江戸城は一度北条氏の手に渡ったが、この戦いにおける北条氏の勝利によって、その支配は確固たるものとなった。そして、この戦いの結果は、武蔵国における扇谷上杉氏の勢力後退と、北条氏のさらなる進出を決定づけるものとなった。資高の江戸城開城という行動が、この高輪原の戦いという軍事的な帰結に直結し、関東の勢力図を大きく塗り替える上で決定的な役割を果たしたことは疑いない。北条氏にとって、江戸城は武蔵侵攻の橋頭堡となったのである 15 。
北条氏の支配下に入った江戸城において、太田資高は江戸城奪取の最大の功労者として遇されたものの、城主として本丸に居住したわけではなかった。史料によれば、資高は太田道灌ゆかりの「香月亭」と呼ばれる場所に居を構えたとされる 7 。香月亭は、江戸城の三の丸、あるいは外郭に位置していたと考えられている 4 。
一方、江戸城の中枢部である本丸には北条氏の譜代家臣である富永政辰(富永氏)が、二の丸には同じく譜代の重臣で城代格の遠山直景(遠山氏)が配置された 4 。この配置は、北条氏が江戸城という戦略的要衝を確実に掌握し、その防衛体制を盤石なものにしようとした意図を明確に示している。
提案表1: 後北条氏支配下の江戸城における役割分担
守備区画 |
担当者(氏族・個人名) |
主な役割・備考 |
本丸 |
富永氏(富永政辰) |
城の中枢防衛、北条氏譜代 |
二の丸 |
遠山氏(遠山直景、後に綱景) |
城代、下総方面の軍事行動担当 23 、北条氏譜代 |
三の丸 / 香月亭 |
太田資高 |
外郭防衛、江戸衆寄親 11 、旧扇谷上杉家臣、太田道灌ゆかりの地 8 |
この表が示すように、資高は江戸城奪取に大きく貢献したにもかかわらず、城の軍事的中枢からは巧みに距離を置かれた形となった。北条氏は、資高の功績と太田家の名跡に配慮して道灌ゆかりの香月亭を与えつつも、江戸城の実質的な支配権は自らの信頼する譜代家臣に掌握させるという、計算された人事配置を行ったと考えられる。これは、外様家臣に対する巧みな処遇の一例であり、資高は名誉と一定の所領は得たものの、江戸城の完全な実権からは遠ざけられた可能性を示唆している。
前述の通り、太田資高は北条氏綱の娘である浄心院を後妻として迎えている 8 。この婚姻は享禄三年(1530年)までに成立しており、江戸城が北条氏の支配下に入った後の出来事である。この政略結婚は、北条氏と太田氏の関係をより強固なものにする上で重要な役割を果たした。
氏綱にとって、資高を娘婿とすることは、江戸という重要拠点の支配を安定させ、旧扇谷上杉家勢力下の国人や地侍を懐柔する上で有効な手段であった。また、資高の嫡男となる康資が北条氏の血を引くことは、将来にわたって太田家を北条氏の勢力圏に留め置くための布石ともなった。
一方、資高にとっても、関東における新興の覇者である北条氏と姻戚関係を結ぶことは、自らの政治的立場を著しく強化するものであった。これにより、資高は北条氏の一門に準ずる特別な地位を得て、その後の活動における大きな後ろ盾を得ることになった。ただし、この婚姻は同時に、資高の北条氏への従属関係をより明確にし、その支配体制に深く組み込まれることを意味していた。
太田資高は、北条氏への内応と江戸城攻略の功績により、北条氏綱から厚遇された。具体的には、江戸および小机(現在の神奈川県横浜市港北区周辺)を中心に約2000貫文に上る所領を安堵されたと記録されている 8 。これは当時の武士の所領としてはかなりの規模であり、資高が北条氏から高く評価されていたことを示している。
さらに重要なのは、資高が「江戸衆の寄親」という役職に任じられたことである 11 。戦国時代における寄親・寄子制は、大名が国人や地侍といった在地武士を家臣団に組み込み、統制するための重要なシステムであった 24 。寄親は、複数の寄子(配下の武士)を指揮・統括する立場にあり、大名の領域支配において軍事的・行政的に重要な役割を担った。
資高が江戸衆の寄親とされたことは、彼が単に所領を与えられただけでなく、江戸周辺の在地武士団を束ねる責任者として、北条氏の江戸支配体制の一翼を担ったことを意味する。北条氏は、江戸という新たに獲得した戦略的拠点において、太田氏という名家出身で、かつて扇谷上杉家の重臣であった資高の影響力を利用し、江戸周辺の武士たちを効果的に自らの支配体制下に組み込もうとしたと考えられる。これは、北条氏の巧みな在地支配策の一環であり、資高が北条氏政権下で一定の軍事的・政治的実権を保持していたことを示唆している。
太田資高は、扇谷上杉家から後北条氏へと主を変え、戦国乱世の関東を生き抜いたが、その生涯は天文十六年(1547年)七月二十四日に終わりを迎えた 9 。その死因や具体的な状況についての詳細な記録は、現在のところ乏しい。しかし、彼の死は、北条氏の江戸支配体制や、太田家の家督継承に影響を与えたことは想像に難くない。
資高は死に際して、次のような辞世の句を残したと伝えられている。
「見残して帰へりもやせむ花のもと浮世の雲の風たたぬまに」 9
この句は、資高の文化的な素養を示すと同時に、激動の生涯を送った武将の最期の感慨を垣間見せる貴重な史料である。「花のもと」は、美しいもの、価値あるもの、あるいは人生における喜びや栄華の象徴と解釈できる。それを「見残して帰へりもやせむ」とは、それらを十分に味わい尽くさないうちに、この世を去らねばならないのだろうか、という名残惜しさや未練の情を示唆しているように思われる。「浮世の雲の風たたぬまに」という下の句は、はかないこの世で、死という避けられない運命の嵐が訪れないうちに、という意味合いであろうか。
祖父・太田道灌もまた歌道に通じた文人武将であったことが知られており 2 、資高もその血を受け継ぎ、風雅の心得があったことがこの句から窺える。主家を裏切り、新たな主君に仕え、一定の地位を築いたものの、その生涯は常に緊張と変化の中にあった。この句には、そうした人生の無常観や、もう少し穏やかに世を眺めていたかったという願望、あるいは一種の諦観にも似た静かな心境が込められているのかもしれない。激動の時代を生きた武将の、人間的な一面を伝えるものと言えよう。
太田資高の信仰心や、太田家としての先祖供養の意識を物語るものとして、彼と寺院との関わりが挙げられる。
資高は、自らが開基となって本行寺を建立したと伝えられている 8 。史料によれば、この本行寺は当初、大永六年(1526年)に江戸城内の平河口に建立された 27 。この時期は、資高が江戸城を北条氏に明け渡した後であり、新たな支配体制下で太田家の存在感を示すとともに、自らの信仰の拠点としようとした意図があったのかもしれない。本行寺はその後、江戸時代の都市計画などにより、神田、谷中を経て、最終的には宝永六年(1709年)に現在の地(荒川区)に移転した 27 。
また、資高は父・太田資康の追善供養のために、法恩寺の堂塔を再建したとも記録されている 13 。法恩寺は、元々太田道灌が江戸城築城の際に城内鎮護の祈願所として建立した寺院であり、資高による再建は、父への孝養を示すと同時に、太田家の法統を継承する者としての責任感の表れであったと考えられる。
戦国武将にとって、寺院の建立や再建は、単なる個人的な信仰行為に留まらず、一族の権威を示し、家の安泰を祈願するという社会的な意味合いも持っていた。資高のこれらの行為もまた、太田家の当主としての立場を内外に示し、激動の時代における精神的な支えを求めようとしたものと解釈できよう。
太田資高の死後、家督は子の太田康資が継承した 5 。康資の母は北条氏綱の娘・浄心院であり、康資自身も母方の伯父にあたる北条氏康から偏諱(「康」の字)を賜るなど、北条氏とは極めて近い関係にあった 12 。資高の代で築かれた北条氏との強固な結びつきは、康資の代にも引き継がれるかに見えた。
しかし、康資は後に北条氏に対して反旗を翻すことになる。その背景には、北条氏の処遇に対する不満があったとされる。具体的には、祖父・道灌が築城し、父・資高が北条氏に渡した江戸城の城主になれなかったことや、父・資高の遺領の一部しか相続を認められなかったことなどが挙げられている 28 。これらの不満が鬱積し、康資は同族の太田資正(岩付太田氏)らと連携し、永禄六年(1563年)頃、北条氏からの離反を画策するに至った 5 。
この離反計画は露見し、康資は岩付城へ逃れる。翌永禄七年(1564年)には、里見義弘らと結んで北条氏康軍と第二次国府台合戦で激突するが、連合軍は大敗を喫した 12 。この敗戦後、康資は上総国へ逃れ、里見氏を頼ったとされる。
資高の代では北条氏との間に協調関係が成立し、太田家(江戸太田氏)の地位は一定の安定を見た。しかし、息子の康資の代でその関係が破綻したことは、戦国時代における主従関係や同盟関係がいかに流動的であり、武将個人の野心や不満、そして勢力間の力関係の変化によって容易に覆りうるものであったかを示している。康資の不満の根源には、父・資高が北条氏の下で得た地位や処遇に対する、世代間の認識の相違や、期待と現実の乖離があったのかもしれない。資高の選択が、次世代においては異なる評価や反発を生んだという事実は、戦国時代の複雑な人間関係と権力構造を浮き彫りにしている。
太田康資の北条氏からの離反は、江戸太田氏にとって大きな試練となった。しかし、太田氏の血脈はその後も途絶えることなく、近世へと受け継がれていく。特に、康資の息子とされる太田重正の系統は、江戸時代に大名として存続することになる 5 。
その背景には、徳川家康の側室となった英勝院の存在が大きい。英勝院は太田康資の娘(あるいは孫娘とも)とされ、彼女が兄・重正の子である太田資宗を養子とし、徳川秀忠に出仕させたことが、太田家再興のきっかけとなった 5 。資宗は徳川家光からも重用され、若年寄などを歴任し、最終的には遠江国浜松藩三万五千石の藩主となった。その後、子孫は幕府の要職を歴任し、江戸時代中期からは遠江国掛川藩主として定着し、明治維新を迎えた 5 。
戦国時代の激動の中で、主家を変え、時には反旗を翻しながらも、太田氏の家名が近世大名として存続し得たのは、英勝院のような女性の活躍や、時代の変化に巧みに適応していった結果と言えるだろう。太田資高が下した後北条氏への帰属という決断が、遠因となって子孫に新たな道を開いたと見ることも可能かもしれない。彼の選択がなければ、太田家が江戸周辺に基盤を持ち続けることは難しく、その後の徳川家との繋がりも生まれなかった可能性も考えられる。
太田氏の系譜は現代にも受け継がれている。太田道灌の第十八代子孫にあたる太田資暁氏は、「NPO法人 江戸城天守を再建する会」の会長を務めるなど、祖先の偉業を顕彰し、歴史文化の継承に尽力している 1 。戦国時代から数百年を経た現代においても、太田氏の名とその歴史は生き続けているのである。
太田資高の生涯は、まさに戦国乱世の縮図であったと言える。扇谷上杉家という旧主に対する「裏切り」と、後北条氏という新興勢力への「忠誠」。この二つの側面は、資高の評価を複雑なものにしている。しかし、彼の行動を単なる変節と断じるのは早計であろう。
その背景には、まず祖父・太田道灌が主君に謀殺されたという、扇谷上杉家に対する根深い不信感があった。加えて、当時の扇谷上杉家の勢力は明らかに衰退しており、主家の将来に見切りをつけたとしても不思議ではない。そのような状況下で、関東に急速に勢力を伸長させていた後北条氏からの調略は、資高にとって魅力的な選択肢として映ったはずである。彼の決断は、個人的な感情、客観的な情勢判断、そして自家の存続と発展への希求が複雑に絡み合った結果であったと考えられる。
後北条氏に仕えた後、資高は江戸城の香月亭に拠点を置き、江戸衆の寄親として一定の勢力を保持した。北条氏綱の娘を娶ることで、その立場はさらに強化された。しかし、江戸城の枢要部は北条氏の譜代家臣が掌握しており、資高が江戸城主となることはなかった。この事実は、北条氏が資高の功績を認めつつも、その処遇には慎重であったことを示唆している。
太田資高の歴史的評価は、彼が下した「江戸城開城」という一点に集約されがちである。この行動は、扇谷上杉家の没落を決定づけ、後北条氏の関東支配を大きく前進させる画期となった。その意味で、資高は関東の勢力図を塗り替える上で極めて重要な役割を果たした人物と言える。
彼の選択がなければ、江戸がこれほど早期に北条氏の手に渡ることはなく、その後の関東の歴史も異なる展開を見せたかもしれない。北条氏による江戸支配は、後の徳川家康による江戸幕府開府へと繋がる、遠い伏線の一つとなったと見ることもできる。江戸という都市の戦略的重要性を、戦国時代において改めて浮き彫りにしたのが、資高の行動であったとも言えよう。
「裏切り者」という評価は一面的な見方であり、彼が生きた時代の過酷な現実、すなわち、いつ滅びるとも知れぬ主家、台頭する新興勢力、そして何よりも自らの一族と家名をいかにして守り、存続させていくかという武将としての宿命を考慮に入れる必要がある。太田資高の生涯は、戦国武将が直面した忠誠と裏切り、旧恩と実利、そして家の存続という普遍的なテーマを我々に問いかけている。彼の選択は、善悪二元論では割り切れない、戦国乱世の複雑な人間ドラマの一幕であったと言えるだろう。
本報告書作成にあたり参照した主要な史料・文献には、以下のものが含まれる。
(具体的な文献名は、各引用箇所に示した史料IDに対応する原典を参照されたい。)