戦国時代、数多の武将が歴史の舞台に登場しては消えていった。その中で、永正9年(1512年)に生を受け、文禄4年(1595年)に84歳という長寿を全うした一人の武将がいた。三河国作手(つくまで)の国人領主、奥平貞勝である 1 。彼の生涯は、今川、織田、徳川、武田という巨大勢力の狭間で、弱小豪族がいかにして生き抜いたかを示す、まさに戦国乱世の縮図であった。
貞勝の行動は、常に「家名の存続」という一点に集約される 3 。その目的のためには、主家を時勢に応じて変えることを厭わず、時には一族が敵味方に分かれるという非情な決断すら下した 4 。本報告書は、この奥平貞勝という人物を、単なる「日和見主義者」として片付けるのではなく、三河山間部という地政学的な制約の中で、一族存続のための最善手を模索し続けた「現実主義の戦略家」として、その生涯を徹底的に掘り下げ、再評価することを目的とする。
奥平氏が本拠とした奥三河の作手地方は、東に今川、西に織田、そして後に北から武田、南西から徳川という、当代きっての強大勢力が絶えずせめぎ合う、極めて不安定な国境地帯であった 4 。この過酷な環境下で、作手の奥平氏、田峯(だみね)の菅沼氏、長篠の菅沼氏は、互いに婚姻関係を結び、時に団結して外敵に対抗する攻守同盟「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)」を形成していた 5 。
しかし、この三方衆の結束は絶対的なものではなく、巨大勢力の圧力や内部の利害対立によって、容易に分裂し、互いに争うことも少なくなかった 6 。彼らの動向は、しばしば背後にいる大名たちの代理戦争の様相を呈しており、奥平貞勝の決断を理解するためには、この奥三河全体の地政学的な文脈と、山家三方衆内部の複雑な力学を常に念頭に置く必要がある。
貞勝の複雑な生涯を概観するため、その主家の変遷を以下にまとめる。この年表は、本報告書を通じて、各時代の出来事の位置づけを理解するための羅針盤となるであろう。
西暦 |
和暦 |
貞勝の年齢 |
主要な出来事 |
所属勢力 |
1512年 |
永正9年 |
0歳 |
三河国作手にて誕生 2 。 |
今川氏 |
1530年 |
享禄3年 |
19歳 |
松平清康に従い、宇利城攻めに参加 3 。 |
松平氏 |
1535年 |
天文4年 |
24歳 |
守山崩れで清康が横死。松平氏の弱体化を受け、今川氏に再属 3 。 |
今川氏 |
1556年 |
弘治2年 |
45歳 |
織田信長に通じ、今川氏に離反(日近合戦)。しかし敗北し、半年で再帰属 3 。 |
織田氏→今川氏 |
1560年 |
永禄3年 |
49歳 |
桶狭間の戦いに今川方として参陣。今川義元の死後、情勢を静観 3 。 |
今川氏 |
1563年頃 |
永禄6年頃 |
52歳頃 |
周辺国衆の動向を見極めた後、徳川家康に帰属 3 。 |
徳川氏 |
1571年 |
元亀2年 |
60歳 |
武田信玄の三河侵攻を受け、嫡男・定能の反対を押し切り、武田氏に服属 3 。 |
武田氏 |
1573年 |
天正元年 |
62歳 |
信玄の死後、定能・信昌らが徳川方に再帰参。貞勝は武田方に残留し、一族分裂 3 。 |
武田氏 |
1582年 |
天正10年 |
71歳 |
武田氏滅亡。息子・定能を頼り三河に帰郷、隠棲 1 。 |
(徳川庇護下) |
1595年 |
文禄4年 |
84歳 |
三河国額田郡にて死去 1 。 |
(徳川庇護下) |
奥平氏の家伝によれば、そのルーツは上野国(現在の群馬県)にあり、室町時代に奥平貞俊が三河国設楽郡作手に移り住んだことに始まるとされる 11 。貞勝の父である三代目当主・奥平貞昌の代には、駿河の今川氏に仕え、遠江国の一部に所領を宛がわれるなど、東三河から遠江にかけて着実に勢力を拡大していた 14 。
享禄年間(1528年~1532年)、岡崎城を拠点とする松平清康が西三河を統一し、その勢いを駆って東三河へと侵攻を開始した。この新たな力の奔流に対し、奥平氏は機敏に反応する。父・貞昌、そして青年期の貞勝は、従来の主家であった今川氏から離れ、清康の麾下に入った 9 。
享禄3年(1530年)、当時19歳の貞勝は、清康が指揮する八名郡・宇利城攻めに従軍。この戦いで彼は、搦手門(裏門)から攻め入るという武功を挙げ、その名を上げた 3 。この行動は、より強力な勢力に味方することで自家の利益を図るという、奥平氏の基本的な生存戦略を示すものであった。
しかし、松平氏の勢力拡大は突如として終わりを告げる。天文4年(1535年)、尾張遠征の最中に松平清康が家臣に殺害されるという事件(守山崩れ)が発生。これにより松平氏は指導者を失い、急速に弱体化した 3 。
このパワーバランスの劇的な変化を、貞勝は見逃さなかった。彼は清康の死によって生じた力の空白を即座に見極め、再び今川氏の傘下へと戻る決断を下す 3 。この迅速な鞍替えは、特定の個人への忠誠心よりも、勢力としての「力」そのものに従属するという、彼の生涯を貫く冷徹な現実主義を早くも示している。今川氏の配下として、貞勝は天文11年(1542年)の小豆坂合戦で織田信秀軍と戦うなど、今川方の武将として活動を続けた 3 。
今川氏の支配が安定していた三河であったが、西からは尾張を統一した織田信長の力が及んできていた。弘治2年(1556年)、貞勝は大きな賭けに出る。彼の正室は、家康の外祖父でもある水野忠政の妹であった。この縁を通じて、織田信長と繋がる水野信元から、今川氏からの離反を促す誘いを受けたのである 3 。
貞勝はこの誘いに応じ、山家三方衆の縁戚である田峯菅沼氏をも巻き込んで蜂起。今川方の秦梨城を攻撃し、戦いの火蓋を切った 3 。
この反乱に対し、今川義元はただちに東三河の諸将に鎮圧を命令した。緒戦となった日近合戦では、貞勝の弟・貞直が籠る日近城に今川方の東条松平勢が攻め寄せたが、奥平方はこれを撃退し、敵将・松平忠茂を討ち取るという大きな戦果を挙げた 3 。
しかし、緒戦の勝利も束の間、奥平氏の期待した織田方からの十分な援軍は到着しなかった。今川方が菅沼定村や本多忠俊といった有力武将を投入して本格的な攻勢に出ると、奥平方は次第に劣勢に追い込まれる。同年8月の雨山合戦で、奥平方は今川軍の攻撃を防ぎきれずに降伏。蜂起からわずか半年で、この反乱は鎮圧された 3 。
貞勝は今川氏への再帰属を余儀なくされ、その赦免の条件として、反乱に同調した実の弟・貞直を追放するという、苦渋の決断を迫られた 3 。この失敗は、貞勝に大きな教訓を残したに違いない。
この弘治二年の離反劇について、近年の研究は新たな視点を提示している。従来、当主である貞勝が反乱を主導したとされてきたが、歴史研究家の大石泰史氏は、これを主導したのは当時20歳であった嫡男の奥平定能(さだよし)であり、父・貞勝はむしろ今川への忠節を維持しようとしていたと指摘する 3 。
この説によれば、新興勢力である織田氏に未来を賭けようとする野心的な息子・定能と、既存の秩序である今川氏の下で安定を求める現実的な父・貞勝との間に、深刻な路線対立があったことになる。しかし、定能の勢いは強く、一族の大半が彼に従ったため、結果として当主である貞勝が離反の責任者として歴史に記録された、という解釈である。この父子の対立構造は、後の武田氏帰属を巡る一件で再び顕在化し、一族の運命を決定づける重要な伏線となる。
永禄3年(1560年)5月、今川義元は2万5千ともいわれる大軍を率いて尾張に侵攻した。貞勝も今川軍の一員として、松平元康(後の徳川家康)の与力に付けられ、大高城への兵糧入れ作戦に参加している 3 。しかし、同月19日、田楽狭間で休息中の今川本隊が織田信長の奇襲を受け、義元自身が討ち取られるという歴史的な大事件(桶狭間の戦い)が勃発した。
主君の死という衝撃的な報に接した貞勝は、即座に自領へと兵を退いた 3 。義元の死は、三河における今川氏の支配力を一瞬にして瓦解させ、この地域に巨大な権力の空白を生み出した。
この好機を捉え、松平元康は岡崎城で独立を果たし、今川氏からの離反を表明した。これを契機に、三河の国人領主たちは堰を切ったように今川氏を見限り、次々と元康の麾下へと馳せ参じた。
しかし、貞勝はこの大きな流れにすぐには乗らなかった。彼は、弘治二年の離反失敗の教訓からか、極めて慎重な姿勢を貫く。周辺の国衆たちがこぞって松平氏に転属する中、彼はなおも状況を静観し続けた。そして、東三河で最後まで今川方として抵抗していた牧野氏さえもが徳川方(松平元康が改姓)に属するのを見届けた上で、ようやく家康への帰属を決断したのである 3 。
この行動は、貞勝の「後乗り」ともいえる生存戦略を象徴している。一番に鞍替えして高い功績を狙うというリスクを冒すよりも、時流が完全に定まってから安全に乗り換えることを選ぶ。彼は失敗から学び、より確実で現実的な戦略を練り上げていったのである。
徳川家康の家臣として、遠江侵攻などに従っていた奥平氏であったが、元亀2年(1571年)以降、新たな、そして最大の脅威に直面することになる。甲斐の武田信玄が、本格的な三河・遠江への侵攻を開始したのである 3 。山家三方衆をはじめとする奥三河の国衆は、徳川に留まるか、強大な武田に降るか、という究極の選択を迫られた。
奥平家内部でも意見は真っ二つに割れた。当主となっていた嫡男・定能は、徳川への忠誠を貫くべきだと強く主張した。しかし、家中には武田の武威を恐れ、服属を主張する声も根強く存在した。
この家中を二分する深刻な議論に、最終的な決断を下したのは、隠居の身でありながら絶大な影響力を保持していた父・貞勝であった。彼は、徳川への忠義を説く息子・定能を制し、「破滅を招くよりは、時節を待つべし」と諭し、武田氏への服属を決定した 4 。
貞勝の視点では、当時最強と謳われた武田軍と正面から戦うことは、一族の「破滅」を意味する無謀な行為であった。一時的に服従してでも家名を存続させ、「時節」の到来を待つことこそが、国衆の長としての最善の策だと判断したのである。これは、彼の生涯を通じた行動原理と完全に一致する、冷徹な現実認識に基づいた決断であった。
この決定により、奥平家は武田氏に恭順の意を示し、その証として人質を甲府へ送ることになった。人質として差し出されたのは、当主・定能の次男で貞勝の孫にあたる仙千代(当時10歳)、一族の娘・おふう(当時13歳)、そして同じく一族の子・虎之助(当時13歳)という、三人の幼い子供たちであった 8 。
武田氏に服属した奥平家は、三方ヶ原の戦いなどで武田軍の一員として徳川軍と戦うことになった 8 。しかし、天正元年(1573年)、西上作戦の途上にあった武田信玄が病に倒れ、陣中で死去するという激震が走る。武田軍の不可解な撤退行動から、当主・定能は信玄の死を確信した 5 。
この千載一遇の好機を、徳川家康は見逃さなかった。彼は直ちに奥平父子に密使を送り、破格の条件を提示して徳川方への帰参を促した。その条件とは、本領安堵と大幅な領地加増に加え、家康の長女である亀姫を、定能の嫡男・信昌(貞昌)に嫁がせるというものであった 5 。
定能はこの破格の条件を受け入れ、武田からの離反を決意する。天正元年8月21日、彼は嫡男・信昌や末弟・貞治ら、一族の大半を率いて本拠地である作手・亀山城を電撃的に脱出。徳川方へと走った 3 。
この時、父である貞勝は、次男の常勝ら少数の者たちと共に、武田方に留まる道を選んだ。ここに奥平一族は、徳川方と武田方に完全に分裂することになったのである 3 。この父子の分裂は、表向きは意見の対立による決裂と見えるが、その裏には、関ヶ原の戦いで真田家が父子兄弟で東西両軍に分かれたのと同様の、家名存続を賭けた「両属策」であった可能性が極めて高い 13 。すなわち、どちらの勢力が勝利しても、奥平家だけは生き残れるように保険をかけた、貞勝の老獪な戦略であったと解釈できる。彼は息子の離反を、水面下で承認、あるいは後押ししていた可能性すら否定できない。
この複雑な一族分裂の状況を、以下に整理する。
陣営 |
主要人物 |
動向 |
徳川方 |
奥平定能(当主、貞勝の長男) |
一族の大半を率いて徳川に再帰参 3 。 |
|
奥平信昌(定能の長男、貞勝の孫) |
父に従い徳川方へ。後の長篠城主 10 。 |
|
奥平貞治(貞勝の末子) |
父・貞勝と袂を分かち、兄・定能に従う 3 。 |
武田方 |
奥平貞勝(隠居、一族の長老) |
武田方への残留を表明 3 。 |
|
奥平常勝(貞勝の次男) |
父・貞勝に従い武田方に残留 3 。 |
|
和田氏など一部の一門衆 |
宗家に従い武田方に残留し、後に甲斐へ移住 32 。 |
定能・信昌父子の裏切りに激怒した武田勝頼は、冷酷な報復に出る。人質として甲府に送られていた仙千代、おふう、虎之助の三人を、わざわざ三河の鳳来寺口まで連行し、見せしめとして惨殺したのである 28 。その処刑方法は、仙千代は切腹、そしてまだ10代半ばであったおふうと虎之助は磔(はりつけ)にされるという、凄惨なものであったと伝えられている 28 。
この悲劇には、さらに深い闇が隠されている。近年の研究、特に歴史研究家・平山優氏の説によれば、処刑された「おふうの方」は、単なる一族の娘ではなく、信昌(当時は貞昌)の正室であった可能性が極めて高いという 28 。武田方の軍記『甲陽軍鑑』や、徳川方の史料『松平記』にも、彼女が信昌の妻であったと記されている 28 。
この説が事実であれば、物語はより悲劇的な様相を帯びる。信昌は徳川へ帰参するにあたり、家康の娘・亀姫との婚約を新たな主従関係の証として受け入れた。それは同時に、武田の人質となっている正室・おふうを見殺しにすることを意味した。この非情な事実は、後の江戸時代において、神君・家康とその娘婿である信昌の栄光を憚り、奥平家の公式な歴史記録から意図的に抹消されたのではないかと推測されている 28 。
信昌と亀姫の結婚は、単なる恩賞ではなく、血塗られた犠牲の上に築かれた新たな主従関係の証であった。そして、この悲劇の遠因を作ったのが、他ならぬ祖父・貞勝の「武田服属」という決断であったことは、歴史の皮肉と非情さを物語っている。
天正3年(1575年)5月、武田勝頼は1万5千の大軍を率いて三河に侵攻し、徳川方の最前線拠点である長篠城を包囲した。この城を守っていたのが、わずか500の兵を率いる21歳の奥平信昌であった 34 。信昌は、家臣・鳥居強右衛門の決死の活躍などにも支えられ、武田軍の猛攻に耐え抜いた。そして、設楽原で繰り広げられた決戦において、織田・徳川連合軍が武田の騎馬軍団を壊滅させるという、歴史的な大勝利に大きく貢献した 34 。
この孫・信昌が歴史に不滅の名を刻む大功を立てているまさにその時、祖父である貞勝は、敵方である武田氏の支配下にある甲斐の地に留まっていた 3 。孫が栄光の頂点にいる一方で、祖父は敗軍の側にいる。この劇的な構図は、戦国という時代の異常さと、貞勝が選択した(あるいは演じきった)道の過酷さを何よりも雄弁に物語っている。
長篠の戦いで致命的な打撃を受けた武田氏は、その後も衰退の一途をたどる。そして天正10年(1582年)3月、織田信長による本格的な武田征伐(甲州征伐)によって、名門・武田氏は滅亡した 37 。
これにより、甲斐に留まることができなくなった貞勝は、三河へと帰郷する 3 。彼が頼ったのは、かつて袂を分かった息子・定能であった。定能は父を迎え入れ、貞勝は三河国額田郡の滝山城(亀穴城)付近に居を構え、静かな隠棲生活に入った 1 。
隠棲後の貞勝は、政治の表舞台から完全に身を引いた。その一方で、息子・定能や孫・信昌たちが徳川家康の下で重用され、信昌は上野小幡3万石、関ヶ原の戦いの後には美濃加納10万石の大名へと出世していく様を、静かに見守っていた 1 。
自らが下した数々の非情な決断と、一族に強いた多大な犠牲の果てに、奥平家が繁栄の礎を築いたことを見届けた貞勝は、文禄4年(1595年)10月9日、84年の波乱に満ちた生涯に幕を下ろした 1 。その墓所は、現在も愛知県新城市作手明見の地に、ひっそりと残されている 1 。
奥平貞勝の生涯を振り返ると、その主家を転々と変える様は、一見すると節操のない「日和見主義」と映るかもしれない 4 。しかし、彼の全ての行動は、「家名の存続」という、国人領主にとって至上命題である一点に貫かれていた。彼の「老獪さ」とは、巨大勢力に常に翻弄される弱小豪族が、知恵と胆力、そして非情なまでの現実主義をもって乱世を生き抜くために身につけた、唯一の武器であったと評価できる 13 。
一族が敵味方に分かれて家の存続を図るという戦略は、しばしば信濃の真田氏と比較される 13 。真田昌幸が武田氏滅亡後も、徳川、北条、上杉といった大勢力の間を渡り歩き、巧みな外交と軍略で自立的な勢力として立ち回ろうとしたのに対し、貞勝と定能が選んだ道は、最終的に徳川家康という巨大な権力構造の中に完全に組み込まれることであった。この違いは、両家が置かれた地政学的な条件や、当主の気質の違いから生まれたものであり、両者を比較することで、それぞれの生存戦略の特徴がより鮮明となる。
結果として、貞勝が時に泥をかぶり、非情な決断を下し続けたことが、奥平家が長篠の戦いで歴史的な功績を挙げる機会を掴む土台となった。その功績により、奥平家は徳川譜代の大名として近世を生き抜き、明治維新後には伯爵家として存続するという、国衆としては望みうる最高の未来を手に入れたのである 11 。
奥平貞勝は、歴史の教科書に名を連ねるような華々しい英雄ではない。しかし彼の生涯は、戦国時代において「個人」の武勇や忠誠心以上に、「家」という共同体の存続がいかに最優先されたかという、当時の価値観を色濃く体現している。彼は、乱世を生き抜くとはどういうことか、その現実と非情さ、そしてそのために求められる冷徹な戦略性を、後世の我々に静かに、しかし力強く教えてくれる、極めて重要な歴史上の人物であると言えるだろう。