最終更新日 2025-06-14

奥平貞治

奥平貞治 - 関ヶ原に散った忠勇の武将、その生涯の徹底的考察

序章:歴史の狭間に埋もれた勇将

日本の歴史上、天下分け目の戦いとしてその名を知らぬ者はいない関ヶ原の合戦。この巨大な歴史の転換点において、徳川家康の勝利を決定づける極めて重要な役割を果たしながら、その実像が十分に語られてこなかった一人の武将がいる。その名は、奥平貞治(おくだいら さだはる)。一般的には、西軍から東軍への寝返りを逡巡する小早川秀秋を督促し、その裏切りを確認した後に大谷吉継隊との激戦の末に陣没した忠臣として、断片的に記憶されているに過ぎない 1

しかし、彼の生涯は、関ヶ原での壮絶な最期だけで語り尽くせるものではない。兄であり、長篠の戦いで武田氏に与した父と袂を分かって徳川家康への帰参を主導した奥平貞能(さだよし)。そして、その子であり、長篠城を死守して織田信長と家康から絶賛され、家康の長女・亀姫を娶って奥平家を大名へと押し上げた甥の奥平信昌 2 。これら一族の著名な人物たちの輝かしい功績の陰で、貞治は常に彼らを支え、時には彼ら以上に数奇な運命を辿った。

本報告書は、これまで散逸し、断片的にしか伝わってこなかった史料を丹念に繋ぎ合わせ、奥平貞治という武将の生涯を、その出自から最期の瞬間、そして後世における記憶の継承に至るまで、徹底的に追跡するものである。彼の行動原理を、戦国末期の激動の時代背景と、奥平一族が置かれた絶え間ない緊張の中から多角的に分析し、歴史の狭間に埋もれた勇将の正当な評価を試みることを目的とする。

第一章:奥平一族と三河の動乱

奥平貞治という個人の人格と行動原理を理解するためには、まず彼が属した「奥平一族」が、いかにして戦国の世を生き抜いてきたのかを詳述する必要がある。彼の生涯は、この一族の歴史と分かち難く結びついている。

1.1. 奥三河の国人領主・奥平氏

奥平氏は、三河南設楽郡作手(現在の愛知県新城市)の亀山城を本拠とした有力な国人領主であった 1 。その出自については、村上源氏を称した赤松氏の一族とする説や、武蔵七党の一つである児玉党の支流とする説などがあり、その系譜は一筋縄ではいかない複雑な背景を持っていたことがうかがえる 3 。一族の結束の象徴として、「奥平唐団扇」の家紋が用いられていた 3 。彼らは、戦国時代を通じて「七族五老」と呼ばれる重臣団に支えられ、奥三河の地に確固たる勢力を築いていた 3

1.2. 生存を賭けた選択:今川・徳川・武田の間で

奥平氏が本拠とした奥三河は、東に駿河・遠江を支配する今川氏、西に三河で勢力を伸ばす松平(徳川)氏、そして北に甲斐から信濃を経て南下してくる武田氏という、三大勢力の緩衝地帯に位置していた。この地政学的な条件が、奥平氏の運命を決定づけた。彼らは、強大な勢力に挟まれながら、従属と離反を繰り返すことで、かろうじて一族の命脈を保つという、極めて不安定な立場に置かれていたのである 1

当初は今川氏に属していたが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、三河における今川氏の影響力は急速に後退する。この機に乗じて、奥平氏は徳川家康の傘下に入った 2 。しかし、元亀2年(1571年)以降、武田信玄による三河侵攻が本格化すると、その圧倒的な軍事力の前に、奥平氏は再び従属先を変え、武田氏の配下として戦うことを余儀なくされた 1

この一見すると日和見主義的な行動は、単なる裏切りとは一線を画す。それは、激動の時代において、より強大な勢力に従い、時にはその力を利用して自らの価値を高め、一族の存続という至上命題を達成するための、小規模な国人領主ならではの極めて現実的な生存戦略であった。この一族に深く根差したプラグマティズムとも言うべき行動原理は、後に奥平貞治が徳川家臣でありながら豊臣秀吉の直臣となるという異例の経歴を理解する上で、重要な鍵となる。

1.3. 奥平一族の主要人物と関係性

奥平貞治の生涯を語る上で不可欠な人物は、父、兄、そして甥である。彼らの決断と行動が、貞治の運命を大きく左右した。以下の表は、その関係性をまとめたものである。

人物名

貞治との続柄

生没年

主要な功績・役割

関連史料

奥平貞勝

1512-1595

奥平氏当主。今川、徳川、武田と従属先を変える。晩年は武田氏への従属を主張し、息子たちと対立。道文入道と号す。

1

奥平貞能(定能)

1537-1598

貞治の兄(異母弟説あり 1 )。武田信玄の死後、徳川への再帰参を決断。長篠の戦いでは鳶ヶ巣山奇襲隊に参加し活躍。

1

奥平信昌(貞昌)

1555-1615

貞能の嫡男。長篠城を500の兵で死守し、信長・家康から絶賛される。家康の長女・亀姫を娶り、奥平家を大名へ押し上げる。

2

奥平貞治

本人

不詳-1600

本報告書の主題。幼名は清三郎、通称は藤兵衛。兄・甥を支え、関ヶ原で陣没。

1

第二章:武将・奥平貞治の形成

一族が激動の渦中にあった時代、奥平貞治は一個の武将として、その武勇と忠誠心をいかにして育んでいったのか。彼のキャリアの初期段階は、後の運命を決定づける重要な経験に満ちている。

2.1. 生い立ちと武田家臣時代

奥平貞治の幼名は清三郎、通称は藤兵衛と伝わる 1 。生年は不詳であるが、一族の本拠地である三河国作手で生まれたと推察される 8 。彼の武将としてのキャリアは、皮肉にも、後に生涯を捧げることになる徳川家康の敵方として始まった。

元亀2年(1571年)以降、奥平一族が武田信玄の軍門に降ったことに伴い、貞治も武田軍の一員として三河や遠江を転戦した 1 。特筆すべきは、元亀3年(1573年)12月、徳川家康が生涯最大の敗北を喫した

三方ヶ原の戦い に、貞治が武田軍として従軍していたという事実である 1 。この経験は、彼の武将としての資質に計り知れない影響を与えたに違いない。当時最強と謳われた武田軍の組織力、騎馬隊の運用、そして戦術を、敵としてではなく味方として内部から体験したことは、彼の軍事的な知見を飛躍的に高めたはずである。この敵方としての経験こそが、後に徳川家臣として、特に軍監という監察・指導的な役割を果たす上での貴重な素地となった可能性は極めて高い。

2.2. 一族の命運を分けた決断 - 徳川家への帰参

転機は天正元年(1573年)に訪れる。巨星・武田信玄が陣中で病没すると、兄である奥平家当主・貞能は、これを好機と捉え、武田勝頼からの離反と徳川家康への再帰参という重大な決断を下した 1

この決断は、一族内に深刻な亀裂を生んだ。父である老将・貞勝や次兄・常勝は、依然として武田氏の強大さを信じ、武田への残留を強く主張した。まさに一族分裂の危機であった。この時、貞治は明確な意思表示をする。彼は、父の意向に逆らってでも、兄・貞能の決断を全面的に支持し、一族郎党の大半を率いて本拠の亀山城を出奔、兄に随従したのである 1

この行動は、単なる勢力変更以上の意味を持つ。それは、貞治の生涯における最初の、そして最も重要な「忠誠の表明」であった。伝統的な価値観である「孝」(父への従順)よりも、一族の将来を見据えた指導者(兄)と、その先にある新たな主君(家康)への期待という「忠」を選んだのである。この時点で、彼の忠義のベクトルは、明確に徳川家康へと向けられ、その後の彼の人生を方向づけたと言えよう。

2.3. 長篠の戦いにおける功績

徳川方への帰参は、奥平一族に新たな試練をもたらした。家康は彼らの忠誠の証として、武田方に対する最前線である長篠城の守備を命じた 1 。城主には、貞能の嫡男でまだ20歳と若年の甥・奥平信昌(当時は貞昌)が任じられた。そして貞治は、この若き城主を補佐する重要な役割を担うことになった 1

天正3年(1575年)5月、武田勝頼は父・信玄の弔い合戦とばかりに1万5千と号する大軍を率いて長篠城に殺到した。対する奥平勢は、わずか500の兵力であった 1 。絶望的な兵力差の中、貞治たちは籠城戦を展開。織田・徳川の援軍が到着するまでの間、武田軍の猛攻を耐え抜き、結果として歴史的な長篠の戦いの勝利に大きく貢献したのである 1

この戦いの英雄として後世に名を残したのは、籠城を指揮した甥・信昌や、命を賭して援軍要請の使者となった鳥居強右衛門であることは間違いない 12 。しかし、経験の浅い若き城主・信昌の側近として、かつて武田軍に属し、三方ヶ原の戦いを経験した叔父・貞治がいたことの意義は計り知れない。彼は単なる一兵卒ではなく、豊富な実戦経験を持つ軍事顧問として、また精神的な支柱として、絶望的な状況下で信昌と城兵たちを支え続けたと推察される。表舞台の英雄たちの陰で、貞治はまさに「縁の下の力持ち」として、その役割を十全に果たしたのである。

第三章:天下人に見出された武勇

徳川家臣として、長篠の戦いという輝かしい戦歴を刻んだ奥平貞治。彼のキャリアは、徳川家の中核を担う武将として続いていくかと思われた。しかし、その武勇は、彼の人生を予期せぬ方向へと導くことになる。

3.1. 徳川家臣から豊臣家臣へ - 秀吉の黄母衣衆抜擢

天正14年(1586年)、主君・徳川家康は長年の対立に終止符を打ち、豊臣秀吉に臣従の意を示すため大坂城で対面した。この歴史的な会見に、甥の奥平信昌がお供として随行し、貞治もその一行に加わっていた 1

その場で、驚くべき出来事が起こる。天下人である秀吉自身が、数多いる徳川家の武将の中から、奥平貞治を名指しで「家臣として所望した」のである 1 。これは、陪臣(家臣の家臣)を主君の許可なく引き抜くことを禁じた当時の慣習から見ても、極めて異例の抜擢であった。

結果として、貞治は家康の許可のもと、秀吉の直臣である**黄母衣衆(きぼろしゅう)**の一員となった 1 。この異例の移籍は、いくつかの側面からその意味を読み解くことができる。

第一に、貞治個人の武勇の証明である。多くの武将が居並ぶ中で、天下人・秀吉が直接スカウトするということは、貞治の武人としての評判や、その立ち居振る舞いが、人の能力を見抜くことに長けた秀吉の目に留まるほど際立っていたことを物語っている。

第二に、主君・家康の政治的計算である。家康がこの引き抜きを許したのは、秀吉への恭順の意を形に示すと同時に、自らが最も信頼する人物の一人を、豊臣政権の中枢に送り込むという高度な政治的意図があった可能性が考えられる。貞治は、徳川と豊臣の間のパイプ役、あるいは家康のための情報源としての役割を密かに期待されたのかもしれない。

第三に、貞治自身のキャリアにおける飛躍である。これにより貞治は、三河の一国人領主の一族という立場から、天下人の親衛隊とも言うべきエリート武官へと、一足飛びの出世を遂げた。これは、彼の能力が主家である徳川の枠を超えて、天下に通用するものであると公に認められた証左に他ならない。

3.2. 黄母衣衆としての活動と5000石の知行

黄母衣衆とは、戦場において主君の周囲に控え、伝令や斥候、あるいは主君の警護といった重要な任務を担う、武勇と機動力を兼ね備えた精鋭部隊である。かつて織田信長が赤母衣衆・黒母衣衆を組織したように、母衣衆に選ばれることは武人としての最高の名誉の一つであった 14

この栄誉ある抜擢に伴い、貞治は5000石という破格の知行を与えられた 1 。これは、一介の武将としては非常に高い禄高であり、秀吉がいかに貞治の能力を高く評価し、その活躍に期待していたかを示している。こうして貞治は、徳川家臣でありながら豊臣家の直臣でもあるという、特異な立場に身を置くことになったのである。

第四章:生涯最後の戦役 - 関ヶ原の合戦

豊臣秀吉の死後、天下の情勢は再び大きく動き出し、徳川家康と石田三成の対立は決定的となる。この日本史上最大の決戦において、奥平貞治は、その生涯のクライマックスとも言うべき、極めて重要な役割を担うことになった。

4.1. 運命の任:小早川秀秋の軍監として松尾山へ

慶長5年(1600年)6月、家康が会津の上杉景勝討伐の軍を起こすと、貞治もこれに同行した 1 。この時点では、家康の次男・結城秀康の麾下に付けられている 1 。しかし、石田三成らが大坂で挙兵し、東西両軍が美濃で対峙するに至り、家康は貞治に新たな、そして遥かに重大な任務を与える。

それは、西軍に属しながら、事前に東軍への内応を約束していた若き大名・ 小早川秀秋 の部隊に**軍監(ぐんかん)**として派遣されることであった 1

軍監、あるいは目付とは、戦場において味方の将兵の働きを監視し、督戦し、戦後の論功行賞の参考とするためにその功績を主君へ報告する役職である 21。しかし、この関ヶ原における貞治の役割は、それ以上に重い意味を持っていた。1万5千の大軍を率いて関ヶ原の勝敗の鍵を握る松尾山に布陣した秀秋の裏切りを、確実に実行させるための「監視役」であり、時にその決断を促す「指南役」でもあったのだ 17。家康の信頼がいかに厚かったかが窺える人事である。

4.2. 天下分け目の督促:逡巡する秀秋と貞治の焦燥

慶長5年9月15日、決戦の火蓋が切られた。しかし、松尾山に陣取る小早川秀秋は、眼下で繰り広げられる激戦を前に、どちらに味方すべきか決めかね、ただ戦況を傍観するばかりであった 1 。東軍にとっては、この秀秋の動向が勝敗を左右する。

松尾山の陣中では、貞治が、同じく東軍の黒田長政から目付として派遣されていた大久保猪之助と共に、秀秋の家老である平岡頼勝らを通じて、あるいは秀秋本人に直接、再三にわたり東軍への加勢を督促したと伝えられる 1 。この時の貞治の焦燥と心労は、察するに余りある。

この緊迫した場面は、後世の軍記物などで劇的に脚色された。中でも有名なのが、しびれを切らした家康が松尾山へ威嚇射撃( 問鉄砲 )を命じ、それに驚いた秀秋がようやく裏切りを決断したという逸話である。特に江戸中期の軍記物『関原軍記大成』や、それを基にしたとされる「関ヶ原合戦図屏風」には、貞治がこの「問鉄砲」の現場にいたかのように描かれている 25 。しかし、近年の研究では、この「問鉄砲」の逸話自体が、家康の神格化のために後世に創作されたものである可能性が指摘されている 20 。幕府の公式記録に近い『武徳大成記』や、それを参照した『東照宮御実紀附録』などでは、貞治が家康の命で督促したことは記されているものの、鉄砲の逸話はなく、秀秋は比較的速やかに内応に応じたかのように記述されている 24

4.3. 壮絶なる最期:大谷吉継隊への突撃と陣没

いずれにせよ、貞治らの執拗な督促が功を奏し、秀秋はついに東軍への寝返りを決意。1万5千の軍勢は、雪崩を打って松尾山を下り始めた。その攻撃目標は、西軍の中でも屈指の知将・ 大谷吉継 が率いる部隊であった。

ここからの貞治の行動が、彼の武人としての評価を決定づける。彼は単なる監視役、督促役にとどまらなかった。秀秋の裏切りが実行に移されるや、 自ら小早川隊の先頭に立ち 、大谷隊へと勇猛果敢に突撃したのである 29

なぜ軍監である彼が、危険な先陣を切ったのか。その背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、軍監としての任務を完遂せんとする強い責任感である。秀秋を裏切らせるだけでなく、確実に西軍に打撃を与えさせるところまでが、彼の任務だと認識していたのかもしれない。第二に、小早川軍内部の混乱への対応である。一説には、秀秋の先鋒を務めるはずだった家臣・松野重元(主馬)が、主君の裏切りという不義を良しとせず、命令を拒否して戦線を離脱したとされる 13。この指揮系統の麻痺と士気の低下を目の当たりにした貞治が、攻撃を停滞させないために、自ら範を示して将兵を鼓舞し、突撃を先導する必要があったという説は、非常に説得力が高い。そして第三に、武人としての本能である。督促という胃の痛む役目を終え、いざ合戦となった時、武人としての血が騒ぎ、率先して敵陣に斬り込んでいったという、彼の生粋の武将としての気質も大いに考えられる。

彼の突撃は、単なる猪突猛進ではなかった。「軍監」としての責任感、現場の混乱に対応する判断力、そして「武人」としての矜持が複合的に作用した、究極のリーダーシップの発露であった。しかし、大谷隊の抵抗は凄まじかった。吉継は秀秋の裏切りを予期しており、精鋭部隊を側面に配置して備えていた。小早川隊は予期せぬ猛反撃に遭い、激戦となる。この乱戦の最中、貞治は致命傷を負い、関ケ原の玉村あたりで壮絶な討死を遂げた 1 。慶長5年(1600年)9月15日のことであった 1

4.4. 貞治の死が戦局に与えた影響

奥平貞治の戦死は、井伊直政や本多忠勝といった徳川四天王が無傷であったことからもわかるように、東軍の主要な将校としては数少ない戦死例であり、いかに彼が激戦の最前線に身を投じたかを物語っている 29 。彼の奮戦と死が、ためらいがちだった小早川の将兵を奮い立たせ、大谷隊の撃破、ひいては東軍の勝利へと繋がったという英雄的な解釈も存在する 33 。貞治の死は、小早川軍の裏切りを本物にし、関ヶ原の戦局を決定づける上で、計り知れない影響を与えたのである。

第五章:死後の栄誉と後世への継承

一人の武将の死は、そこで物語の終わりを意味しない。その死が主君や一族、そして後世の人々にどのように受け止められ、記憶されていったのかを追うことで、彼の生涯が持つ真の価値がより明確になる。

5.1. 徳川家康による追悼と恩賞

天下統一を成し遂げた徳川家康は、関ヶ原における奥平貞治の功績と、その命を賭した忠節を高く評価した 1 。戦後の論功行賞において、家康は貞治に対して異例とも言える措置を取る。

貞治には子がいなかったため、家は断絶となるはずであった 1 。しかし家康は、その勲功に報いるため、彼の

生母に対して供養料として年々300石(一説には近江国内に200石 34 )を給する

ことを決めたのである 1

これは、極めて特異な恩賞であった。通常、恩賞は本人かその後継者である男子に与えられるのが通例である。子がない貞治に対し、あえて「生母」に「供養料」という形で恩賞を与えたことは、家康の深い配慮と、貞治の功績を徳川家として永く記憶するという強い意志の表れに他ならない。それは単なる金銭的価値を超え、奥平一族全体に対する家康の変わらぬ信頼と、貞治個人への深い弔意を示す、極めて象徴的な処遇であった。

5.2. 子孫なき武将の記憶

貞治自身に直系の子孫は存在しなかったが 1 、彼の忠勇の記憶は、本家である甥・奥平信昌の家系(後の豊前国中津藩主家)によって大切に語り継がれていった。中津藩では、一族の運命を切り開いた長篠の戦いが「開運戦」と呼ばれ、その記憶が藩士たちのアイデンティティの中核を成していた 35 。その文脈の中で、徳川の天下統一に命を捧げた一族の英雄・貞治の物語もまた、藩の誇りとして継承されていったと考えられる。

5.3. 岐阜県関ケ原町の墓碑

貞治の忠義の記憶は、言葉としてだけでなく、形としても後世に残された。現在の岐阜県不破郡関ケ原町玉、彼が討死したと伝わる地には、奥平貞治の墓と碑が静かに佇んでいる 1

この墓は、関ヶ原の戦いから260年以上が経過した元治元年(1864年)10月、子孫(傍系の子孫か)にあたる中津藩士・ 奥平新左衛門源貞昭 によって建立されたものである 29 。さらに時代は下り、大正8年(1919年)には、地元の不破古跡保存会によって、その功績を讃える顕彰碑が墓の隣に建てられた 29

墓が建立された元治元年という時代背景は、特に注目に値する。この年は、まさに幕末の動乱が激化し、徳川幕府の権威が大きく揺らいでいた時期である。そのような状況下で、中津藩の藩士が、徳川幕府の創始者である家康のために命を捧げた先祖の墓を、決戦の地に建立したという行為は、単なる先祖供養以上の意味を持ち得る。それは、揺らぐ幕府への忠誠を改めて表明し、奥平家が徳川の譜代として歩んできた栄光の歴史を再認識するという、政治的な意思表示であった可能性も否定できない。この墓碑そのものが、建立された時代の空気を映し出す、一つの貴重な歴史的史料と言えるだろう。

終章:奥平貞治の再評価 - 史料と物語の狭間で

奥平貞治の生涯を振り返る時、我々は史実と、後世に創られた物語との間にある人物像の変遷を目の当たりにする。彼の再評価は、この二つの側面を慎重に比較検討することから始めなければならない。

6.1. 『関原軍記大成』に描かれた英雄像

貞治の劇的な最期は、江戸時代中期に成立した軍記物である『関原軍記大成』において、非常に英雄的に描かれた 25 。この物語の中で、彼は逡巡する秀秋を叱咤激励し、自ら先陣を切って敵陣に突入し、その死をもって東軍を勝利に導いた忠勇の士として描かれている。この種の軍記物は、講談や芝居を通じて庶民に広く浸透し、後世における貞治像の原型を形成したと考えられる。しかし、これらの物語は多分に創作や脚色を含むため、史料としての取り扱いには細心の注意が必要である 25

6.2. 一次史料と軍記物の比較から浮かび上がる実像

一方で、比較的信頼性が高いとされる『当代記』や、幕府の公式記録である『徳川実紀』(およびその編纂資料)などでは、貞治の役割はあくまで「軍監」として秀秋を「督促」したことに重点が置かれている 24 。彼の死が、後世の物語の中で、よりドラマティックに、そしてより英雄的に昇華されていった過程は、民衆が歴史に何を求めたかを映し出す鏡でもある。人々は、天下分け目の戦いにおいて、私心を捨てて主君のために命を捧げた理想の武士像を、奥平貞治の中に見出したのであろう。

6.3. 結論:奥平貞治とは何者であったか

奥平貞治とは、果たして何者であったのか。本報告書の分析を通じて、その人物像はより立体的に浮かび上がってくる。

彼は、三河の小国人領主の子として生まれ、一族の存亡を賭けた選択を幾度となく経験し、武将としての器量を磨いた。その忠誠と武勇は、まず兄・貞能と共に徳川家康への帰参を決断した時に示され、長篠の戦いで証明され、ついには天下人・豊臣秀吉にまで認められるに至った。そして最終的に、その忠誠心は、主君・徳川家康によって絶対の信頼を寄せられる礎となった。

彼の生涯は、主君のために命を捧げるという「武士の鑑」として語られる。しかしその背景には、常に大勢力の間で揺れ動き、生き残りのために現実的な判断を下し続けてきた一族の歴史があった。彼の行動は、理想論だけではない、戦国の世の厳しさを知り抜いた上での、計算された忠義であったとも言える。

関ヶ原での彼の死は、単なる一武将の戦死ではない。それは、徳川の天下を盤石にするための決定的な布石であり、奥平一族の安泰を未来永劫にわたって保証するための、最後の、そして最大の奉公であった。彼は、兄の貞能や甥の信昌のような、歴史の表舞台で輝く華々しい大名ではなかったかもしれない。しかし、時代の転換点において、最も困難で、最も重要な「現場」を支え、その命を燃焼させた、真の忠勇の士として再評価されるべき人物である。彼の名は、関ヶ原の地に、そして徳川の歴史に、永遠に刻み込まれている。

引用文献

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  6. 家康の娘・亀姫が嫁ぐ、奥平信昌が辿った生涯|長篠城を守り抜いた奥平家当主【日本史人物伝】 https://serai.jp/hobby/1128167
  7. 奥平信昌 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97490/
  8. おくだいら - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/okudaira.html
  9. KD13 奥平貞俊 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/kd13.html
  10. 短編時代小説『貞能の腹芸』|城田涼子 - note https://note.com/ryouko/n/na15735e49a17
  11. 関ヶ原古戦場・奥平貞治の墓と碑(関ヶ原町) | おすすめスポット - みんカラ https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/159357/
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  31. 戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【9月20日~26日】 - note https://note.com/takamushi1966/n/nd83f13c67e95
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  35. 【会期終了】収蔵品展「ナガシノノキオク~中津藩士のルーツは長篠にあり~」 https://nakahaku.jp/2023/06/17/%E5%8F%8E%E8%94%B5%E5%93%81%E5%B1%95%E3%80%8C%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%B7%E3%83%8E%E3%83%8E%E3%82%AD%E3%82%AA%E3%82%AF%EF%BD%9E%E4%B8%AD%E6%B4%A5%E8%97%A9%E5%A3%AB%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84/
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  40. フィクションとしての小山評定 −家康神話創出の一事例− - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=6757
  41. 奥平貞勝とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E5%8B%9D
  42. 奥平定能 - Wikipedia https://wikipedia.cfbx.jp/wiki/index.php/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E8%83%BD
  43. 奥平定能 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E8%83%BD
  44. 奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E6%98%8C-40005