最終更新日 2025-07-26

宇佐見左衛門

宇佐見左衛門は諏訪の商人として記録はないが、伊豆にルーツを持つ有力商人だった可能性が高い。戦国期の諏訪の激動を生き抜き、領主と結びつき、地域の特産品を広域に流通させた「政商」だったと推測される。

諏訪の商人「宇佐見左衛門」に関する歴史的考察

序論:諏訪の商人「宇佐見左衛門」をめぐる調査の視座

本報告書は、戦国時代の信濃国諏訪に存在したとされる商人、「宇佐見左衛門」という人物の実像を、歴史的文脈の中に多角的に位置づけることを目的とする。ご依頼者は、諏訪が諏訪大社の門前町、そして甲州街道と中山道が交わる交通の要衝として発展したという地理的・経済的背景を認識されており、その上で、この特定の人物に関する徹底的かつ網羅的な情報の提示を求めている。

しかしながら、現存する各種史料や地方史、研究論文を広範に調査した結果、戦国期の諏訪における「宇佐見左衛門」という商人に直接言及した、信頼に足る記録を発見するには至らなかった 1 。この「記録の不在」という事実こそが、本調査における分析の出発点となる。特定の人物の伝記を追うことが困難である以上、本報告書は異なる調査アプローチを採用する。すなわち、「宇佐見」という姓、「左衛門」という通称、そして彼が生きたであろう「戦国期の諏訪」という時空間の三つの構成要素をそれぞれ解体し、その歴史的意味を深く掘り下げた上で、それらを再び統合することによって、歴史の狭間に埋もれた一商人の輪郭を、蓋然性の高いプロファイルとして描き出すことを試みるものである。

第一部では、人物名そのものに内包された社会的・歴史的情報を読み解くため、「宇佐見」姓の源流と「左衛門」という呼称が持つ階層的意味を分析する。第二部では、宇佐見左衛門が生きたであろう時代の諏訪がいかに激しい政治的・軍事的変動に晒されていたかを、諏訪氏の統治から武田氏の侵攻、そして高島城築城に至るまでの歴史的経緯を追うことで明らかにする。第三部では、交通の要衝としての地の利や特産品、そして領主との関係性といった側面から、当時の諏訪における商人の具体的な生業の実態に迫る。

最終的に、これらの分析を統合し、なぜ「宇佐見左衛門」という人物の記録が今日に伝わっていないのかを考察するとともに、記録には残らない無数の商人たちの営みが、いかにして地域の歴史を形成していったのかを結論づける。この調査は、一人の名もなき人物の探索を通じて、戦国という激動の時代に地方で生きた人々のリアルな姿を、重層的な歴史的文脈から再構築する試みである。

戦国期から近世初頭にかけての諏訪関連年表

本報告書で詳述する諏訪地方の歴史的変遷を理解するため、以下に主要な出来事をまとめた年表を提示する。

西暦 (和暦)

日本の主な出来事

武田家・諏訪氏の動向

諏訪地方の出来事

1467年 (応仁元年)

応仁の乱 (-1477)

-

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1541年 (天文10年)

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武田晴信(信玄)、父・信虎を追放し家督相続 4

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1542年 (天文11年)

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武田晴信、諏訪に侵攻。諏訪頼重は甲府にて自害し、諏訪惣領家は滅亡 5

諏訪郡は武田氏の支配下に入る。統治拠点は上原城に置かれる 7

1546年 (天文15年)

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諏訪御料人が武田勝頼を出産 4

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1549年 (天文18年)

-

-

武田氏の諏訪統治拠点が上原城から茶臼山の高島城に移される 7

1582年 (天正10年)

本能寺の変、天正壬午の乱

武田勝頼、天目山にて自害。武田氏滅亡 9

織田、徳川、北条による支配権争奪の場となる。

1590年 (天正18年)

豊臣秀吉、天下統一

-

豊臣家臣・日根野高吉が諏訪の領主となる 5

1592年 (文禄元年)

文禄の役 (-1593)

-

日根野高吉、諏訪湖畔に高島城の築城を開始 5

1598年 (慶長3年)

豊臣秀吉、死去

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高島城がほぼ完成。上原城周辺から商工業者を移住させ、城下町(上諏訪宿)の建設を進める 7

1600年 (慶長5年)

関ヶ原の合戦

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日根野高吉が死去。子の吉明が跡を継ぐ 5

1601年 (慶長6年)

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-

徳川家康の命により、諏訪頼水(頼重の血を引く)が旧領に復帰。諏訪高島藩が成立 5

1615年 (元和元年)

大坂夏の陣、武家諸法度発布

-

諏訪高島藩の藩政が安定期に入る。

第一部:名称の解体―「宇佐見」と「左衛門」

人物の特定に至る直接的な史料が存在しない場合、その名前に含まれる要素を分析することは、人物像を推測する上で極めて有効な手段となる。本章では、「宇佐見」という姓の由来と、「左衛門」という通称が持つ社会的な意味合いをそれぞれ解き明かし、それらが示唆する人物の輪郭を明らかにする。

第一章:「宇佐見」姓の源流と展開

「宇佐見」あるいは「宇佐美」という姓は、その出自を伊豆国賀茂郡宇佐美荘(現在の静岡県伊東市宇佐美)に持つとされる 11 。この地の開発領主であった藤原南家工藤氏の一族、工藤祐茂が宇佐美荘に住んだことから宇佐美氏を称したのが始まりである 11 。この事実は、「宇佐見」という姓を持つ人物が、伊豆半島にそのルーツを持つことを強く示唆している。

戦国時代において、宇佐美一族の中で最も高い名声を得たのは、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)に軍師として仕えたとされる宇佐美定満(定行とも)であろう 12 。彼の存在は、『北越軍記』などの軍記物語を通じて広く知られ、「宇佐見」という姓が、単なる地名由来の名字に留まらず、有力大名の軍略を支える参謀クラスの武士の家格としても認識されていた可能性を示している。

一方で、信濃国、とりわけ諏訪地方に、この宇佐見氏の有力な一族が土着していたことを示す直接的な史料は見当たらない。隣国の甲斐国(山梨県)には、境川村や甲府に少数の分布が見られるものの 13 、これは武田氏の支配との関連性が考えられる程度であり、諏訪との直接的な結びつきを証明するものではない。

この地理的分布から導き出される一つの重要な推論がある。それは、もし戦国時代に「宇佐見」姓の人物が諏訪に存在したとすれば、その人物は古くからの諏訪の土着豪族などではなく、外部から移住してきた人物であった可能性が極めて高いということである。その出自としては、いくつかの可能性が考えられる。一つは、宇佐美氏の勢力圏であった伊豆・相模方面を支配した北条氏との関係、あるいは敵対した上杉氏との緊張関係の中で、何らかの理由で信濃に流れ着いた武士の一族であった可能性。もう一つは、より直接的に、伊豆や一族が分布したとされる地域から、商業活動を目的として交通の要衝である諏訪に移住してきた商人であった可能性である。

いずれの経緯を辿ったにせよ、「宇佐見」という姓は、我々が探求する人物が、諏訪の地においては「よそ者」、すなわち新来者であったことを強く示唆している。この点は、彼が地域社会の中でどのような社会的立場を築き、いかなる行動原理で生きていたのかを考察する上で、極めて重要な前提となる。新来者であることは、旧来のしがらみがないという利点と、地域社会に根付いた既得権益層との間に摩擦を生むという欠点の両面を併せ持っていたはずである。

第二章:「左衛門」という呼称の社会的意味

「左衛門」という呼称は、元を辿れば日本の律令制下における官職名、「左衛門尉(さえもんのじょう)」に由来する。左衛門府は、右衛門府とともに宮城の門を警備する役所であり、その判官(三等官)である左衛門尉は、従六位下に相当する官職であった 14 。歴史上、源平合戦で活躍した源義経がこの官職に任ぜられたことでも知られており、名誉ある役職と見なされていた 14

しかし、鎌倉時代以降、律令制が形骸化するにつれて、これらの官職は実質的な職務権限を失い、武士が自らの家格や社会的地位を対外的に示すための称号、すなわち「通称(官途名)」として広く用いられるようになった 14 。特に「左衛門尉」やその上位である「左衛門佐(さえもんのすけ)」は、武門の誉れを象徴する名称として武士階級から広く好まれた。

時代が下り、商人の経済力が社会において無視できない影響力を持つようになると、この傾向に変化が生じる。特に江戸時代に入ると、武士だけでなく、大きな富を築いた豪商たちが「〇〇左衛門」という名を名乗る事例が数多く現れる。これは、彼らが藩の御用達を勤めるなどして準武士的な扱いを受けたり、あるいは自らの社会的権威を高めるために、武士の通称を意識的に借用したりした結果と考えられる。江戸の材木商として巨万の富を築いた紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門 17 、朱印船貿易で活躍した大坂の末吉孫左衛門 18 、伊勢松阪の豪商であった小津清左衛門 19 、越後府内で青苧座を支配した蔵田五郎左衛門 20 など、その例は枚挙に暇がない。

この歴史的変遷は、「左衛門」という呼称が持つ社会的な階層性を示唆している。商人が「左衛門」を名乗るという行為は、単なる名前以上の意味を持っていた。それは、自身が単なる物売りではなく、領主との公的な繋がりを持ち、相当の財力と社会的信用を確立した「豪商」クラスの人物であることを、社会に対して宣言する行為に他ならなかった。一介の小売商人が軽々しく名乗れる名前ではなく、それを名乗るには、周囲が納得するだけの経済的実力や、領主からの何らかの公認が必要であったと考えられる。

したがって、「宇佐見左衛門」という呼称は、我々が探求すべき人物像を「外部から諏訪の地へやって来て、商業活動で成功を収めた有力商人」という輪郭へと、より具体的に絞り込むための強力な手掛かりとなる。彼の名は、出自の特異性と、獲得した社会的地位の両方を同時に物語っているのである。

第二部:時代の奔流―戦国期諏訪の激動

「宇佐見左衛門」が生きたであろう戦国時代から安土桃山時代にかけての諏訪は、日本の他の多くの地域と同様、あるいはそれ以上に激しい政治的・軍事的変動の渦中にあった。領主の交代は、その支配下にある商人たちの運命を根底から揺るがす。本章では、諏訪の支配体制の変転と、それに伴う都市構造の変化を詳述し、一商人がその激流の中でいかに生き抜いたかを考察する。

第一章:諏訪氏の統治と武田氏の侵攻

16世紀半ばまで、諏訪地方は諏訪大社の大祝(おおほうり)を頂点とする諏訪氏によって、長らく統治されてきた 8 。上社と下社の間での対立といった内部抗争を抱えつつも 9 、諏訪氏は信濃国において屈指の名族として、神権的な権威を背景にこの地を支配していた。

この伝統的な秩序が根底から覆されたのが、天文11年(1542年)の武田信玄(当時は晴信)による諏訪侵攻である。信玄は、父・信虎の代に諏訪氏と結ばれていた同盟関係を反故にし、突如として諏訪郡へ兵を進めた 4 。当時の諏訪惣領家の当主であった諏訪頼重は、抵抗むなしく降伏し、甲斐の甲府へ送られた末に自害に追い込まれた。これにより、鎌倉時代から続く名族・諏訪氏は事実上滅亡し、その所領は武田氏の支配下に置かれることとなった 4

領主の交代は、その地で生業を営む商人にとって、まさに死活問題であった。これまで結んできた諏訪氏との関係や、それに基づく商業上の特権は全て白紙に戻る。庇護者を失うという大きなリスクと、新たな支配者である武田氏に取り入ることで飛躍するチャンスが同時に発生したのである。

武田氏による支配は、単なる軍事占領に留まらなかった。信玄は、滅ぼした諏訪頼重の娘(諏訪御料人)を側室として迎え入れ、彼女との間に後の武田家後継者となる四郎勝頼をもうけた 6 。これは、諏訪の旧臣や民衆の心を掴み、武田による支配を正当化するための、極めて高度な政治的戦略であった。勝頼は一時期「諏訪勝頼」を名乗り、諏訪氏の後継者として公式に位置づけられたことからも、信玄の周到な懐柔策がうかがえる 4

この支配体制の転換期において、商人に求められたのは、変化を読み取り、新たな権力構造に迅速に適応する能力であった。もし宇佐見左衛門が武田氏の侵攻以前から諏訪で活動していたならば、彼は旧領主である諏訪氏との関係を清算し、武田氏が派遣した郡代の板垣信方 7 や、城代らとの新たな関係構築を迫られたはずである。逆に、武田氏の支配が確立した後に諏訪へやってきた新来の商人であれば、旧来の勢力とのしがらみがなく、武田氏が進める信濃経営、特に軍需物資の調達などに協力することで、急速に台頭する機会を掴んだかもしれない。

いずれにせよ、武田氏による諏訪支配は、この地域の商人勢力にとって、既存の経済秩序が破壊され、新たな序列が形成される一種の「リセット」の機会であった。宇佐見左衛門の生涯を考える上で、この激変期をいかにして生き抜いたか、あるいは好機として捉えたかが、その後の彼の運命を大きく左右したことは間違いない。

第二章:支配者の変転と城下町の形成

天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏が滅亡すると、諏訪地方は再び激動の時代を迎える。本能寺の変後のいわゆる「天正壬午の乱」では、徳川、北条、上杉による草刈り場となり、支配者は目まぐるしく変転した。この混乱を最終的に制し、豊臣秀吉の天下統一事業の一環として諏訪の新たな領主となったのが、秀吉の家臣・日根野高吉であった 5

日根野高吉が諏訪の歴史に与えた最も大きな影響は、近世的な城郭都市の建設である。彼は文禄元年(1592年)頃から、それまでの諏訪の統治拠点であった山城の上原城 7 に代わり、防御性に優れ、湖上交通も利用できる諏訪湖畔の「高島」と呼ばれた地に、新たな城の築城を開始した 5 。これが、後に「諏訪の浮城」とも呼ばれる高島城である。

この築城事業は、単に軍事拠点を移すだけに留まらなかった。高吉は、織田信長や豊臣秀吉のもとで培った築城技術を駆使して石垣や天守を備えた本格的な城を建設すると同時に、極めて計画的な城下町の整備に着手した。その中核となったのが、旧来の政治経済の中心地であった上原城の周辺に居住していた商工業者たちを、新しく建設する高島城の城下(現在の諏訪市上諏訪)へ強制的に移住させるという政策であった 7

この強制移住は、商人たちにとって人生を左右する一大事件であった。住み慣れた土地や店舗、長年かけて築き上げた顧客との関係を全て捨て、領主が指定する新たな場所で、一から商売を再建することを意味したからである。これは、領主が商人たちを自身の経済基盤として城下に集約・掌握し、藩の財政を安定させるとともに、統制を容易にするという強い意志の表れであった。この都市計画によって、政治・経済の中心地は上原から上諏訪へと完全に移り、甲州道中の宿場町「上諏訪宿」としての骨格も形成されていった 26

「宇佐見左衛門」がこの時代に諏訪で活動していた商人であったならば、彼もまたこの強制移住の対象者であった可能性が極めて高い。彼の生涯において、これは間違いなく大きな転換点となったはずである。この領主主導の都市再編という巨大な変化の波に、彼は巧みに順応して新たな城下町でさらなる成功を収めたのか、あるいは抵抗し、あるいは乗り切れずに没落していったのか。彼の商才と時代の流れを読む力が、まさに試された瞬間であった。

関ヶ原の合戦後、この地は徳川家康によって、諏訪氏の血を引く諏訪頼水に与えられ、ここに諏訪高島藩が成立し、以後明治維新まで諏訪氏による統治が続くことになる 5 。日根野高吉が築いた高島城と城下町は、そのまま諏訪藩の政治経済の中心として引き継がれ、近世諏訪の繁栄の礎となったのである。

第三部:生業の現場―諏訪における商人の実像

一人の商人の生涯を理解するためには、彼が生きた時代の政治的背景と並行して、その生業の具体的な内容、すなわち何を扱い、誰と取引し、どのように利益を上げていたのかを解明する必要がある。本章では、諏訪という土地が持つ経済的なポテンシャルと、そこで活動した商人たちの実像に迫る。

第一章:戦国期から近世初頭の商業活動

諏訪地方の経済的特質を決定づけた最大の要因は、その地理的条件にある。諏訪は、江戸と京を結ぶ中山道と、甲斐国府(甲府)を経て江戸に至る甲州街道という、二つの主要な幹線道が交わる交通の結節点であった 27 。これにより、人、物資、そして情報が絶えず往来し、商業活動にとって理想的な環境が整っていた。

このような地勢において、商人たちは領主権力と密接な関係を築きながら活動した。特に重要な役割を担ったのが「御用商人」の存在である。戦国時代、武田信玄が繰り返した信濃や関東への遠征は、兵糧、武具、塩、その他の軍需物資の安定的な調達と輸送、すなわち兵站(へいたん)の維持を絶対的な至上命題とした。甲斐本国と信濃の最前線を結ぶ経路上に位置する諏訪の商人たちが、この兵站活動に深く関与し、武田氏の「御用商人」的な役割を担ったことは想像に難くない。彼らは、領主の軍事行動を経済面から支える見返りとして、商業上の特権や保護を与えられていたと考えられる。

この「御用」を勤めるという伝統は、江戸時代に入り諏訪高島藩の統治下でも引き継がれ、より制度化された形で存続した。例えば、享保2年(1717年)に創業した米問屋「大津屋」は、諏訪高島藩の御用商人を務めていた記録が残っている 28 。また、宿場町の中心機能である問屋場は、江戸時代を通じて小平家が世襲で務めており 9 、特定の有力商家が藩と不可分な関係を結び、地域の商業を統制していたことがわかる 29

「宇佐見左衛門」という、武士の官途名を思わせる格式高い通称を名乗っていた人物が、こうした領主の「御用」と無関係であったとは考えにくい。彼が豪商クラスの商人であったとすれば、武田氏、日根野氏、そして藩政期の諏訪氏といった、各時代の権力者から何らかの御用を請け負っていた可能性は非常に高い。それは、年貢米や塩の納入であったかもしれないし、宿場の人馬の手配を担う問屋業務であったかもしれない。

しかし、「御用商人」であることは、安定した取引と社会的地位が保証される一方で、常に領主の都合に経営が左右されるというリスクも伴った。藩の財政が逼迫すれば、御用金の献上を強要されることもあった。それは、権力との近さがもたらす光と影であり、諸刃の剣であった。支配者が目まぐるしく変わる戦国末期から近世初頭の諏訪において、商人が生き残り、成功を収めるためには、単に商品を売買する商才だけでなく、各時代の領主が何を求めているかを的確に読み取り、その経済政策に巧みに食い込んでいく政治的な嗅覚と手腕が不可欠であった。このことから、「宇佐見左衛門」は、単なる商人という枠を超え、領主の経済活動を支えるパートナー、すなわち「政商」としての一面を持っていたと推測するのが妥当であろう。彼の商いは、常に諏訪の政治情勢と密接に連動していたはずである。

第二章:商人が扱った産品と経済圏

商人の活動を具体的にイメージするためには、彼らが扱った商品を知ることが不可欠である。諏訪の冷涼な気候と、霧ヶ峰高原を源流とする清冽で豊かな水資源は、この地ならではの多様な産物を生み出した。古くから、凍餅(しみもち)や凍み豆腐、そして信州味噌に代表される味噌や酒の醸造が盛んであった 30

これらの特産品は、諏訪の商人たちの手によって「商品」となり、地域の経済圏を越えて広く流通した。甲州街道や中山道といった交通網を活かし、江戸をはじめとする東国の巨大な消費市場へ向けて、活発な商いが行われていたのである 30 。諏訪の商人は、地域内での取引に留まらず、広域な交易ネットワークを構築していたことがうかがえる。江戸時代に入ると、この地の気候風土を活かした寒天の製造が一大産業となり、全国市場を席巻するに至る 31

宇佐見左衛門が扱った商品も、こうした諏訪の特産品であった可能性が高い。味噌や酒、あるいは他国から仕入れた塩、海産物、織物などを扱っていたかもしれない。彼は、諏訪の産物を江戸へ送り、その見返りとして江戸の文化や商品を諏訪へともたらすという、双方向の交易に従事していたことが考えられる。

さらに重要なのは、時代の変化に適応する能力である。諏訪の経済は、戦国期から江戸期、そして明治期へと、その主役となる産業をダイナミックに変化させていった。江戸後期から明治にかけて、製糸業が勃興すると、諏訪は瞬く間に「世界のシルク産地」としての地位を確立し、近代産業都市へと変貌を遂げた 27 。これは、この地に根付いていた商業的な土壌と、新しいものを取り入れる進取の気性が、近代化の波と見事に融合した結果であった。

もし宇佐見家が商家として代々存続したとすれば、そこには時代のニーズに合わせて主力商品を柔軟に転換させていく、巧みな経営判断があったはずである。戦国時代に味噌や酒を扱っていた商家が、江戸時代には寒天に、明治時代には生糸の取引へと事業の中心を移していく。そうした変革を成し遂げた商家だけが、激動の時代を生き抜き、繁栄を続けることができたのである。

宇佐見左衛門という一商人の活動は、こうした諏訪の地域経済全体のダイナミズムの中に位置づけられるべきものである。彼の店の軒先には、戦国乱世の軍需に応える緊張感と、来るべき近世の商業的繁栄の萌芽が、同時に存在していたのかもしれない。

結論:歴史の狭間に「宇佐見左衛門」を位置づける

本報告書は、戦国時代の諏訪に生きたとされる商人「宇佐見左衛門」という人物を起点に、その実像を求めて多角的な調査と分析を行ってきた。直接的な記録の不在という制約の中で、本稿は人物名と時代背景を解体・再構築することにより、歴史の狭間に埋もれた一商人の輪郭を浮かび上がらせることを試みた。

これまでの分析を統合すると、「宇佐見左衛門」の人物像は以下のようなプロファイルとして再構築される。

  • 出自 : 伊豆国をルーツに持つ「宇佐見」姓を名乗ることから、諏訪の土着の家系ではなく、何らかの理由で外部から移住してきた新来者であった可能性が高い。
  • 社会的階層 : 武士の官途名に由来し、近世には豪商たちが好んで用いた「左衛門」という通称を名乗っていることから、彼は単なる一介の商人ではなく、諏訪の地で商業的に成功を収め、相応の財力と社会的信用を築き上げた有力商人であったと推測される。
  • 生きた時代 : 彼の活動時期を戦国時代と仮定するならば、諏訪氏の滅亡、武田氏による支配、支配者の目まぐるしい変転、そして日根野高吉による高島城築城とそれに伴う城下への強制移住という、諏訪の歴史上、最も激しく、そして劇的な動乱期をその身で経験した人物であったはずである。
  • 事業内容 : 領主の御用を勤める「政商」としての一面を持ち、権力と巧みに結びつきながら、諏訪の特産品を広域市場へ供給する一方、他国からの物資を地域に流通させるという、地域経済の結節点としての役割を担っていたと考えられる。

では、なぜこれほど特徴的なプロファイルを持つ人物の記録が、今日に伝わっていないのだろうか。その理由として、いくつかの可能性が考えられる。第一に、戦国時代から近世にかけての度重なる戦乱や、城下町で頻発した火災などによって、特定商家の経営記録や系図といった私的な文書が散逸してしまった可能性である。第二に、彼が諏訪の商人の中では有力者であったとしても、大名家の系図や藩の公式な編纂史料にその名が記されるほどの、傑出した大商人ではなかった可能性も否定できない。最後に、後世の人々が、諏訪における商人文化の隆盛や、激動の時代を生き抜いた商人の典型的な姿を象徴する存在として、複数の人物像を統合したり、あるいは物語として創出したりした、一種の伝承上の人物である可能性も考慮すべきであろう。

延宝年間(1673年-1681年)の武家名簿に「諏訪部甚左衛門」という名が見えるが 1 、時代も姓も異なり、本稿の対象人物との直接的な関連性を見出すことは困難である。

結論として、「宇佐見左衛門」という一個人の具体的な生涯を特定するには至らなかった。しかし、彼の存在を追うこの調査の旅は、結果として、戦国末期から近世初頭にかけての諏訪地方が経験した、政治権力の劇的な変転、それに伴う計画的な都市構造の変革、そして交通の要衝という地の利を活かした商業経済のダイナミックな発展という、重層的で豊かな歴史像を浮き彫りにした。

彼の名は記録に残らなかったかもしれない。しかし、彼のような、出自のハンディキャップを乗り越え、時代の激流を読み、権力と渡り合いながら富を築いた無数の商人たちの営みこそが、戦国の世を終わらせ、近世の安定と繁栄をもたらす原動力の一翼を担い、今日の諏訪の礎を築いたのである。本調査は、歴史の表舞台に登場しない名もなき人々の生業を探求することの意義を、改めて示すものとなったと言えよう。

引用文献

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  4. 【戦国時代の境界大名】諏訪氏――武田に滅ぼされた名族がその出自故に蘇る! https://kojodan.jp/blog/entry/2021/01/11/180000
  5. 諏訪高島城(知る) https://www.suwakanko.jp/takashimajo/shiru/index.html
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  9. 諏訪WALK - 湯遊.net http://www.spa-yuyu.net/suwa/kamisuwa.html
  10. 高島城 (諏訪市高島) - らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~ https://ranmaru99.blog.fc2.com/blog-entry-1081.html
  11. 宇佐美 (曖昧さ回避) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%BE%8E_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF)
  12. 武家家伝_宇佐美氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/usami.html
  13. 「ウサミ」という苗字の由来、どの地域(全国・山梨)に多いのか知りたい。 https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000113440
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  27. 知っ得!まち歩きが断然楽しくなる!下諏訪町通史 https://shimosuwaonsen.jp/feature/1078/
  28. 戸田酒造株式会社 =ダイヤ菊の歴史-小津安二郎監督が愛した銘酒= http://www.shopdaiya.jp/tra/
  29. 車山レア・メモリーが語る諏訪高島藩二之丸騒動 http://rarememory.sakura.ne.jp/justsystem/2/2.htm
  30. 諏訪圏の歴史 【まほろば諏訪圏】 https://suwaarea-examine.com/suwahistory.html
  31. 旧甲州街道ウォーク㉟ 金沢宿→上諏訪宿|ばーど - note https://note.com/birdsea730/n/nb6e3b2dcb377