宇喜多直家(うきた なおいえ、享禄2年/1529年 – 天正9年/1581年または天正10年/1582年)は、戦国時代に備前・美作(現在の岡山県)一帯を支配した大名である 1 。彼は、祖父と父を失い、流浪の境遇から身を立て、裸一貫から備前・美作の戦国大名へと成り上がった人物として知られる 1 。特に、岡山城とその城下町の基礎を築いたことは、彼の大きな功績の一つとして挙げられる 1 。しかし、その一方で、直家は斎藤道三や松永久秀と並び称される「戦国三大梟雄(きょうゆう)」の一人として、冷酷非道な謀略家という評価が一般的である 4 。
この梟雄というレッテルは、直家の生涯における数々の暗殺、裏切り、そして非情な策略を的確に捉えている側面があることは否定できない 6 。しかしながら、近年の研究では、彼の領国経営における先見性や、時には家臣や領民を思いやる一面も指摘されており 4 、その人物像は単純な「悪人」として片付けられるものではない。直家の行動は、下克上が横行し、昨日の友が今日の敵となる戦国乱世という極限状況の中で、一族の存続と勢力拡大を目指した結果であった可能性が高い。彼の評価に見られるこの二面性、すなわち冷酷な謀略家としての側面と、地域発展に貢献した統治者としての側面との間の矛盾は、直家という人物を理解する上で中心的な課題となる。
本報告では、宇喜多直家の生涯、戦略、統治、そして歴史的評価について、既存の史料や研究成果に基づき、多角的かつ詳細に分析することを目的とする。彼の出自から権力の掌握、巧みな外交戦略、そして彼が用いたとされる数々の謀略、さらにはその人物像や後世に与えた影響に至るまでを包括的に検討し、梟雄というレッテルを超えた、より深みのある直家像を提示することを目指す。
宇喜多氏の起源については、直家の祖父・能家(のういえ)の肖像画に付随する解説文によれば、百済の王子の末裔が備前児島に漂着し、三宅姓を称したことに始まるとされる伝説が伝えられている 1 。この伝説は、宇喜多氏が自らの家系の権威付けを図ったものと考えられ、特に瀬戸内海の制海権と結びつけて水軍としての出自を主張した可能性も指摘されている 9 。実際には、宇喜多氏は備前国の土豪であり、当初は守護赤松氏の守護代であった浦上氏の家臣という立場にあった 2 。
直家の祖父である宇喜多能家は、浦上氏の重臣として多くの戦功を挙げた武将であったと記録されている 9 。現存する能家の肖像画は、大永4年(1524年)頃に描かれたものとされ、その勇猛な姿を今に伝えている 9 。しかし、能家は天文3年(1534年)頃、同じく浦上氏の家臣であった島村盛実(しまむらもりざね)によって暗殺される 2 。この事件は宇喜多氏にとって大きな打撃となり、一時的な没落を余儀なくされた。直家の父・興家(おきいえ)については、能家ほどの器量はなかったか、あるいは比較的早くに亡くなったとされ 2 、幼い直家は極めて不安定な状況に置かれることとなった。
宇喜多直家は、享禄2年(1529年)、備前国邑久郡豊原荘の砥石城(といしじょう、現在の岡山県瀬戸内市邑久町)で生まれた 1 。幼名は八郎(はちろう)と伝えられている 2 。祖父・能家の暗殺時、直家はわずか5、6歳であり、父・興家と共に故郷を追われ、流浪の生活を送った 1 。この困窮と屈辱に満ちた少年時代の経験は、直家の強靭な精神力と、目的のためには手段を選ばない冷徹な性格を形成する上で、決定的な影響を与えたと考えられる。
父・興家もまた、この流浪の最中に病没したとされる 1 。一部の記録では、直家が商家に身を寄せ、そこで商才を磨いた可能性も示唆されているが 3 、いずれにせよ、彼の少年期が極めて過酷であったことは疑いない。この幼少期の苦難、特に祖父の横死と一族の没落という事実は、直家の心に深い復讐心と、宇喜多家の再興という強烈な野心を刻み込んだ。彼の生涯を通じて見られる執拗なまでの権力への意志と、時には非情とも言える策略の数々は、この「復讐と再興」という個人的な動機によって、強力に駆動されていたと解釈できる。この個人的な恨みと一族再興の悲願は、単なる権力欲を超えた、直家の行動の根源的なエネルギー源となり、彼の計算された冷酷さを一層際立たせる要因となったであろう。
流浪の身であった直家だが、母が浦上宗景(うらがみむねかげ)の室と遠縁であった関係から、宗景の許しを得て宇喜多家の家督を継承し、再び浦上氏に仕えることとなった 2 。天文12年(1543年)か13年(1544年)頃、15、6歳で元服し、三郎左衛門直家(さぶろうざえもんなおいえ)を名乗った直家は、宗景から乙子城(おとごじょう、岡山市東区)を与えられた 2 。乙子城は吉井川河口近くに位置し、物流を掌握する上で戦略的に重要な拠点であった 9 。
直家は赤松氏との戦いなどで早くから頭角を現し、その武勇と知略は周囲に認められるようになった 5 。特に15歳での初陣では、敵将を討ち取ることに集中し、自軍の損害を最小限に抑えるという冷静な判断力を見せ、若年ながらも非凡な将器の片鱗を示したと伝えられている 5 。
直家の勢力拡大において転機となったのは、沼城(ぬまじょう、岡山市東区)の獲得である。天文20年(1551年)頃、直家は沼城城主・中山信正(なかやまのぶまさ、勝政とも)の娘を娶ったが、これは宗景が信正を監視するための政略結婚であったとされる 2 。永禄2年(1559年)、直家は宗景の指示とも、あるいは自らの判断とも言われるが、舅である中山信正を酒宴に招いて謀殺し、沼城を奪取した 2 。この沼城(亀山城とも呼ばれた)は、以後14年間にわたり直家の本拠地となり、彼の飛躍の拠点となった 15 。息子の秀家もこの城で生まれたとされている 16 。
ほぼ同時期に、直家は祖父・能家の仇敵であった島村盛実(あるいは盛貫)が籠る砥石城を攻め、盛実を自刃に追い込み、長年の宿願を果たした 2 。その後も直家の謀略は続き、龍ノ口城主・穝所元常(さいしょもとつね)を、美少年であった小姓・岡清三郎を刺客として送り込み暗殺 6 。永禄9年(1566年)には、備中の有力大名・三村家親(みむらいえちか)を鉄砲で暗殺するという、当時としては画期的な手段で排除した 2 。翌永禄10年(1567年)には、家親の子・元親(もとちか)が率いる大軍を明善寺合戦(みょうぜんじかっせん)で寡兵をもって破り、備前西部における地位を固めた 2 。さらに、永禄11年(1568年)頃には姻戚関係にあった金川城(かながわじょう)の松田氏を滅ぼし 2 、元亀元年(1570年)頃には石山城(後の岡山城)城主・金光宗高(かなみつむねたか)を追放してその居城を奪うなど 6 、次々と政敵を排除し、備前国内の領土を拡大していった。
この石山城(岡山城)への最終的な本拠地移転と、その後の城下町建設は、直家の戦略眼を示す重要な決断であった。従来の山城や丘城(沼城もその一つ)から、平野部に位置し、河川交通や陸上交通の要衝を抑える岡山へと拠点を移したことは、単なる軍事拠点としての城ではなく、領国経営の中心地としての機能を重視した結果と言える 1 。直家が商工業の重要性を認識し、山陽道を城下に引き込み、商人を誘致して城下町の発展を図ったことは 4 、織田信長の安土城建設に先駆ける先見的な政策であり 3 、彼の梟雄としての側面に隠れがちな、優れた統治者としての一面を物語っている。この経済基盤の強化こそが、彼の軍事行動を支え、領国支配を安定させる上で不可欠であった。
数々の戦功と謀略により、直家は浦上家中において随一の実力者となった 2 。その力は主君・宗景を凌駕する勢いであり、両者の間に亀裂が生じるのは時間の問題であった。永禄12年(1569年)、直家は赤松政秀と結び、将軍・足利義昭や織田信長の支持を得て宗景に反旗を翻したが、赤松氏の敗北により義昭の仲介で一旦和睦した 19 。
しかし、元亀4年(1573年)に足利義昭が信長によって追放されると、状況は再び変化する。直家は宗景との対立を深め、今度は毛利氏と結んで宗景を追い詰めた 19 。天正3年(1575年)、直家は宗景の重臣であった明石行雄(あかしゆきお、景行とも)らを内応させ、宗景の本拠地である天神山城(てんじんやまじょう)を攻略。宗景は播磨へと敗走し、ここに浦上氏の備前支配は終焉を迎え、直家は名実ともに独立大名となった 19 。これはまさしく下克上の典型であった。
備前を掌握した直家は、続いて美作国にも勢力を拡大した。美作の国人衆の内部対立に乗じ、軍事侵攻と調略を巧みに組み合わせることで、徐々にその影響力を浸透させていった。特に毛利氏と手を切り、織田信長に与してからは、美作国内の毛利方勢力と戦い、その支配を確固たるものとした 23 。天正年間後半には、直家は備前・美作の両国をほぼ手中に収め、一大戦国大名としての地位を確立した 1 。
表1:宇喜多直家権力掌握への主要年表
年代(和暦/西暦) |
主要な出来事 |
関連資料 |
意義 |
享禄2年(1529年) |
砥石城にて誕生 |
1 |
直家の生涯の始まり |
天文12/13年(1543/44年) |
浦上宗景より乙子城を与えられる |
2 |
城主としてのキャリアの第一歩 |
永禄2年(1559年) |
中山信正を謀殺し沼城を奪取。島村盛実を破り、祖父の仇を討つ |
2 |
復讐の達成。主要戦略拠点の獲得 |
永禄9年(1566年) |
三村家親を鉄砲で暗殺 |
3 |
強力なライバルの排除。革新的な戦術 |
永禄10年(1567年) |
明善寺合戦で三村元親を破る |
2 |
備前西部における支配権の確立 |
永禄11年(1568年) |
金川城の松田氏を滅ぼす |
2 |
備前国内のさらなる勢力統合 |
元亀元年(1570年) |
石山城(岡山城)を金光宗高より奪取 |
6 |
将来の首都となる城の獲得 |
天正3年(1575年) |
浦上宗景を追放(天神山城落城) |
19 |
独立を達成。備前の支配者となる |
直家は当初、主君・浦上宗景を打倒する過程で、中国地方の覇者であった毛利氏と同盟関係を結んだ 19 。これは共通の敵に対する現実的な戦略的提携であった。しかし、この同盟はあくまで便宜的なものであり、直家の勢力が拡大し、また織田信長の勢力が西方へ伸長してくるにつれて、両者の間には緊張が生じた。直家は、毛利と織田という二大勢力の狭間で、難しい舵取りを迫られた。
天正7年(1579年)頃、直家は毛利氏と手を切り、織田信長に臣従するという大きな賭けに出た 6 。これにより、直家は毛利氏との最前線に立つこととなり、以後、備前・美作において毛利方勢力と激しい戦闘を繰り広げることになった 6 。
直家が信長に臣従したのは、織田氏の圧倒的な勢力と将来性を見据えた、極めて計算高い戦略的判断であった 6 。彼は、自らの生き残りとさらなる発展のためには、強大な織田の傘下に入ることが最善の道であると考えたのであろう。信長(実際にはその部将である羽柴秀吉)が主導する中国攻めにおいて、直家は毛利氏と対峙する上で重要な役割を担った 6 。
その梟雄としての評判にもかかわらず、信長は直家の帰順を受け入れ、彼の備前・美作における所領を安堵した 23 。さらに、信長の推挙により、和泉守(いずみのかみ)の官位と従五位下(じゅごいのげ)の位階を授けられたことも記録されている 2 。しかし、両者の信頼関係は盤石なものではなかったようである。直家が最初に信長への帰順を申し出た際、信長はその真意を測りかねて警戒したとされ、直家自身も「信長は用心深い大将だ。儂を見抜いておる」と漏らしたという逸話は 23 、当時の同盟関係の脆さと緊張感を物語っている。
直家のこのような巧みな勢力間の渡り歩きは、戦国時代における典型的な生存戦略であった。より大きな勢力に挟まれた小大名にとって、忠誠はしばしば二義的なものであり、自領の保全と勢力拡大の機会を常に窺う必要があった。直家の行動は、伝統的な武士道精神(仮にそのような統一された規範が存在し、普遍的に適用されていたとしても)から見れば裏切りと映るかもしれないが、当時の政治的現実の中では極めてプラグマティックであり、彼の立場では不可欠な選択であったと言える。彼は政治の風を読む達人であり、状況に応じて巧みに立場を変えることで、激動の時代を生き抜いたのである。このことは、戦国時代の外交がいかに流動的で、しばしば非情なものであったかを浮き彫りにしている。
表2:宇喜多直家の主要な同盟者と敵対者
人物/勢力 |
初期関係 |
主要な転換点/出来事 |
末期関係(直家存命中) |
関連資料 |
浦上宗景 |
主君 |
直家、家臣として勢力拡大。直家、謀反(1569年、1574-75年) |
1575年に直家により追放 |
2 |
毛利氏(元就/輝元) |
同盟者(対浦上) |
直家、毛利氏と提携。直家、毛利氏と断交し織田氏に臣従(1579年頃) |
敵対 |
6 |
織田信長 |
敵(間接的) |
直家、信長に臣従(1579年頃) |
主君/従属先 |
6 |
三村氏(家親、元親) |
ライバル |
家親暗殺(1566年)。明善寺合戦(1567年) |
敗北/弱体化 |
2 |
中山信正 |
舅/標的 |
中山信正暗殺(1559年) |
排除 |
2 |
島村盛実 |
仇敵 |
直家、島村盛実を自刃に追い込む(1559年) |
排除(復讐達成) |
2 |
宇喜多直家は、その生涯を通じて数々の謀略を駆使し、敵対者を排除し、勢力を拡大したことで知られている 5 。彼の手段は、暗殺、裏切り、心理戦など多岐にわたった。
具体的な事例としては、まず自身の舅である沼城城主・中山信正(勝政)の暗殺が挙げられる。直家は信正を酒宴に招き、油断させて殺害した 2 。この早期の非情な行動は、彼のその後の手法を予見させるものであった。龍ノ口城主・穝所元常の暗殺もまた、直家の冷酷さを示す事例である。元常が男色家であることを知った直家は、美貌の小姓・岡清三郎を送り込み、元常の信頼と寵愛を得させた上で寝首を掻かせた 6 。これは、個人的な弱点を巧みに利用し、家臣を道徳的に問題のある任務に就かせることも厭わない直家の性格を物語っている。
備中の雄・三村家親の暗殺は、鉄砲という当時最新の武器を用いた点で特筆される。直家は遠藤兄弟という刺客を雇い、家親を狙撃させた 2 。これは日本の歴史上でも初期の鉄砲による要人暗殺例とされ、その大胆さと効果は衝撃的であった。主君であった浦上宗景に対する下克上も、直家の代表的な裏切り行為である 19 。彼は宗景の権力を徐々に蚕食し、最終的には追放した。石山城(岡山城)主・金光宗高に対しては、毛利氏に通じているという濡れ衣を着せ、城を明け渡させた上で自刃に追い込んだ 6 。
直家の非情さは、血縁関係にある者に対しても容赦がなかった。彼の弟・忠家は、兄の予測不可能な性格を恐れ、会う際には常に鎖帷子を衣服の下に着用していたと伝えられている 6 。また、敵対した家に嫁いだ自身の娘の子(つまり孫)をも殺害したと記録されている 6 。さらに、権力を持ちすぎた家臣や忠誠を疑った家臣を、自らの死の直前にさえ毒殺したという疑惑も持たれている 6 。
これらの暗殺や裏切りは、衝動的な行為ではなく、多くの場合、長期的な計画、標的の弱点の周到な分析、そして緻密な実行に基づいていた。例えば、穝所元常に対する謀略は、時間をかけて間者を潜入させるものであり 7 、松田氏に対する工作には1年をかけた準備があったとされる 7 。この計算された冷酷さは、直家を単なる残忍な人物としてではなく、高度に理性的で忍耐強く、目的達成のためにはいかなる手段も辞さない戦略家として特徴づけている。彼の暴力は、特定の目的を達成するための道具であり、その計画性と実行力は、彼を戦国時代でも特に恐るべき存在たらしめた要因であった。
表3:宇喜多直家の著名な謀略と論争のある行動
行動/標的(氏名、所属) |
用いられた手法 |
動機/結果と推定されるもの |
関連資料 |
中山信正(舅、沼城城主)の暗殺 |
酒宴に誘い出し、酔ったところを殺害 |
沼城の奪取、備前における権力強化 |
2 |
穝所元常(龍ノ口城城主)の暗殺 |
美貌の小姓(岡清三郎)を送り込み、信頼を得させた上で暗殺 |
龍ノ口城の奪取、ライバルの排除 |
6 |
三村家親(備中松山城城主)の暗殺 |
刺客(遠藤兄弟)を雇い、鉄砲で狙撃 |
強力な三村氏の弱体化、勢力拡大 |
2 |
金光宗高(石山/岡山城城主)の自刃強要 |
毛利氏に通じているとの濡れ衣を着せる |
岡山城(将来の首都)の獲得 |
6 |
浦上宗景(主君)の追放 |
権威の失墜工作、軍事的圧力、家臣の内応(例:明石行雄) |
独立の達成、備前の支配者となる |
19 |
自身の娘の子(孫)の殺害 |
その子の家(松田氏)が敵対したため |
将来の潜在的脅威、敵対勢力との繋がりの排除 |
6 |
直家の成功は、彼自身の謀才だけでなく、有能な家臣団の支えがあってこそ可能であった。いわゆる「宇喜多三老」と称される戸川秀安(とがわひでやす)、長船貞親(おさふねさだちか)、岡家利(おかいえとし)らは、直家の創業期からその覇業を支えた重臣たちである 17 。明石行雄もまた、浦上氏から直家に転じ、重要な役割を果たした 19 。戸川秀安は将として、また行政官としても直家を補佐し 29 、長船貞親は数々の合戦で功績を挙げ 26 、岡家利は岡山城の築城と城下町建設を任されるなど 27 、それぞれが専門性を活かして直家の領国経営に貢献した。
直家の領国経営において特筆すべきは、その経済重視の姿勢である。彼は吉井川・旭川という二大河川の水運を掌握し 3 、岡山に平城を築いて商人を呼び込み、城下町の形成に着手した 1 。山陽道を付け替えて城下に引き入れたとも言われ 4 、その商業政策は領国の経済的発展に大きく寄与した。また、瀬戸内海の商人や船乗りから税を徴収することで財源を確保した可能性も指摘されている 30 。これらの政策は、直家が単なる武将ではなく、経済的基盤の重要性を深く理解していたことを示している。検地や寺社政策に関する具体的な記録は乏しいが、兄と共に金山寺を復興させた記録はある 19 。
直家の人物像は、しばしば「必要悪」として語られる。戦国乱世という過酷な時代背景の中で、一族の存続と発展のためには、時に冷酷非情な手段も辞さなかったという見方である 8 。彼はまさに「裸一貫」からのし上がった人物であり 1 、その過程で多くの敵を作らざるを得なかった。
家臣や領民に対する態度は、矛盾した側面を見せる。一部の者(実弟の忠家さえも)からは恐れられていた一方で 6 、譜代の家臣は大切にし、食糧難の際には家臣と共に絶食するなど、苦楽を共にしたという逸話も残っている 4 。これが真の情愛から出たものか、あるいは忠誠心を確保するための計算された行動であったかは議論の余地があるが、少なくとも彼が中核となる家臣団の重要性を認識していたことは確かである。ある論者は、民衆の支持なしには彼の成功はあり得なかったとし、単なる悪人ではないと主張している 8 。彼の行動原理は、道徳よりも現実的な成果を優先するプラグマティズムに貫かれていたと言えよう。
この「内」と「外」での態度の使い分けは、直家の複雑な性格を理解する鍵となるかもしれない。彼は、自らの権力基盤にとって不可欠な中核家臣団に対しては、ある程度の信頼と配慮を示し、その忠誠心を確保しようとした。一方で、外部の敵対勢力や、内部であっても障害となる者に対しては、容赦ない手段で臨んだ。この選別的な態度は、彼の恐ろしい評判にもかかわらず、機能的な支配体制を維持するための巧妙な戦略であった可能性がある。しかし、弟さえもが抱いた恐怖心は 6 、たとえ内部の人間であっても、その関係が常に緊張をはらんでいたことを示唆している。
伝統的に、直家は斎藤道三、松永久秀と共に「戦国三大梟雄(あるいは三大悪人)」の一人として数えられ、その裏切りと残酷さが強調されてきた 4 。しかし、近年の歴史研究や歴史小説などでは、彼の戦略家としての卓越性や、領国経営における先見性を評価する動きも見られる 4 。彼の「悪名」は、後世の儒教的価値観による断罪や、単純化されたイメージの産物であるという意見もある 3 。
宇喜多直家の最大の功績の一つは、石山と呼ばれた小高い丘に岡山城を築き、その周囲に城下町を整備したことである 1 。これは、彼の領国の政治的・経済的中心を確立する上で極めて重要な決断であった。直家は、岡山が旭川の水運と山陽道という陸上交通の結節点に位置する戦略的重要性を深く理解しており 3 、積極的に商工業を振興し、商人たちを呼び寄せることで、岡山発展の基礎を築いた 3 。この都市計画と経済政策における先見性は、同時代の他の大名と比較しても際立っており、彼の統治者として優れた側面を示している。
直家は、天正9年(1581年)あるいは天正10年(1582年)頃、病により死去した 2 。享年は50代前半であった。伝えられるところによれば、死の床にあってもなお謀略を巡らせ、有力な家臣を毒殺したとも言われる 6 。
直家の死後、家督は元亀3年(1572年)生まれの息子・秀家(ひでいえ)が、わずか9歳か10歳で継承した 19 。秀家が幼少であったため、政務は直家の弟である宇喜多忠家や、戸川秀安、長船貞親、岡家利といった「宇喜多三老」、そして明石行雄ら重臣たちによる集団指導体制で運営された 24 。直家が生前に織田信長と同盟を結んでいたことが、秀家の将来にとって決定的な意味を持つことになった。信長の死後、秀家は羽柴(豊臣)秀吉の強力な庇護を受けることになり、秀吉の養子の一人として、また秀吉の養女である豪姫(前田利家の娘)を娶ることによって、豊臣一門に準ずる厚遇を受けた 3 。これにより、宇喜多氏は秀家の代に全国的な大名へと飛躍を遂げることになる。
宇喜多直家の最大の政治的功績は、備前・美作両国を統一し、中国地方東部に一大勢力圏を築き上げたことである 1 。そして、彼が岡山の地に築いた城と城下町は、その後も発展を続け、現代の岡山市の礎となった。直家の苦闘と戦略的決断、特に織田氏との同盟は、息子・秀家が豊臣政権下で五大老の一人にまで昇り詰めるための道筋をつけたと言える 3 。
彼の冷酷非道な「梟雄」としての評価は、論争の的であり続ける一方で、戦国乱世の厳しさと、下克上を体現した野心的な武将としての彼の姿を、後世に強く印象付けている。直家の生涯は、暴力と策略、そして建設的な野望が織りなす複雑なタペストリーであり、単純な善悪の尺度では測りきれない戦国武将の一典型を示している。彼の行った数々の非情な行為によって達成された領国の統一と安定が、その後の岡山の発展を可能にしたという事実は、権力、暴力、そして進歩というものの間の、しばしば不快な関係性を我々に突きつける。
宇喜多直家は、一介の流浪の身から身を起こし、備前・美作二国を統一し、岡山の地に繁栄の礎を築いた戦国大名である。彼の生涯は、下克上が横行する戦国時代の厳しさと、そこに生きる人々の野心と策略を色濃く反映している。
「梟雄」というレッテルは、彼の行った数々の暗殺や裏切りといった非情な手段を的確に捉えている。しかし、その評価は、彼の戦略家としての卓越した才能、忍耐強い計画性、そして領国経営における先見性といった側面を見過ごすものであってはならない。直家の行動は、常に戦国乱世という極限状況の中で、一族の存続と勢力拡大という至上命題に突き動かされていた。
直家が中国地方の勢力図に与えた影響は大きく、彼が築いた基盤は、息子・秀家が豊臣政権下で重きをなす上で不可欠なものであった。彼の生涯は、戦国時代という時代の本質、すなわち、既存の権威が崩壊し、実力のみがものを言う世界で、個人がいかにして生き残り、そして成り上がっていくかという物語を、最も劇的な形で示している。
宇喜多直家は、その善悪を超えた複雑な人物像をもって、戦国時代を代表する武将の一人として、今後も歴史家や歴史愛好家の関心を引きつけ続けるであろう。彼の生涯は、権謀術数が渦巻く乱世において、個人の野心と冷徹な理性が、時に創造的、時に破壊的な力を持ちうることを示す、痛烈な教訓として記憶されるべきである。