序論
本報告書は、戦国時代の伊予国(現在の愛媛県)において活動した武将、宇都宮清綱(うつのみや きよつな)について、その生涯、事績、そして彼を取り巻く歴史的環境を詳細に明らかにすることを目的とする。清綱は、伊予宇都宮氏の一翼を担い、萩森城の築城者としてもその名が伝わるが、その全体像については断片的な情報に留まることも少なくない。本報告では、現存する史料を基に、清綱の実像に迫る。
利用者より提供された情報として、「伊予の豪族。1532年頃、三男・房綱とともに萩森城を築き、居城とした。伊予宇都宮家は武茂景泰(下野宇都宮家8代当主・貞綱の甥)を祖とするという」との概要が示されている。本報告書はこれらの情報を出発点とし、関連史料の渉猟と分析を通じて、これらの情報を検証しつつ、より広範かつ深掘りした調査を行い、宇都宮清綱という人物、彼が生きた時代、そして彼の一族が辿った運命を多角的に考察する。
第一章:伊予宇都宮氏の淵源と清綱の登場
一節:下野宇都宮氏と伊予宇都宮氏の分岐
宇都宮清綱の理解のためには、まず伊予宇都宮氏の出自と、本家とされる下野宇都宮氏との関係を把握する必要がある。下野宇都宮氏は、関東の名門武家として知られ、その出自については藤原氏説(特に藤原道兼流)が有力視されている 1 。家伝によれば、藤原鎌足の後裔で関白藤原道兼の曾孫にあたる宗円が、前九年の役の際に下野国に下向し、宇都宮座主となったことを起源とするという 1 。鎌倉時代には幕府の有力御家人として重きをなし、伊予国や美濃国などの守護職を与えられるなど、その勢力は広範囲に及んだ 1 。
伊予宇都宮氏の祖と伝えられるのは、利用者情報にもある武茂景泰(むも かげやす)、後の宇都宮貞泰(さだやす)である。史料によれば、貞泰は宇都宮泰宗の子とされ、伊予宇都宮系図には「六郎、始景泰、美濃守、遠江守、野州宇都宮の住人、後京都に住す、法名蓮智」と記されている 2 。伊予国との直接的な関わりは、元徳三年(1331年)、貞泰が伊予国喜多郡の地頭職に補任され、京より移り住み、大洲の根来山城(ねごろやまじょう)を拠点としたことに始まるとされる 2 。
南北朝時代の動乱は、伊予宇都宮氏のその後の方向性にも影響を与えた。宇都宮貞泰は当初、北朝方として活動していたが、後に南朝方に転じたと考えられている。特筆すべきは、後醍醐天皇の皇子である懐良親王(かねよししんのう)が征西大将軍として九州へ下向する途上、伊予国の忽那島(くつなじま)を経由し、一時的に喜多郡にあった貞泰の館に滞在したという記録である 2 。貞泰はその後、懐良親王に同行して九州の豊前国仲津へと移ったとされる 2 。
この懐良親王との関わりは、伊予宇都宮氏の性格を考察する上で重要な示唆を与える。征西大JG将軍という南朝方の最重要人物の一人を庇護し、さらに九州まで随行するという行動は、貞泰が単なる一地方の地頭に留まらず、中央の政争(この場合は南朝の勢力回復)に深く関与し、南朝方から一定の信頼と期待を寄せられるだけの実力と意志を有していたことを物語る。このような中央政界との結びつきは、伊予における宇都宮氏の地位を相対的に高め、他の国人領主との関係においても有利に働いた可能性があり、また、代々受け継がれる家意識として、中央への志向や大義名分を重んじる気風を育んだとも考えられる。この時期の活動が、伊予における宇都宮氏の基盤形成に繋がったと言えよう。
二節:清綱に至る伊予宇都宮氏の系譜と伊予国の情勢
宇都宮貞泰以降、伊予国に根を下ろした宇都宮氏は、戦国時代の清綱登場まで命脈を保つ。史料 3 によれば、伊予宇都宮氏の系譜として、宇都宮豊房(とよふさ)を初代とし、宗泰(むねやす、貞泰の四男で豊房の養子)、泰輔(やすすけ)、家綱(いえつな)、安綱(やすつな)、宣綱(のぶつな)と続き、そして清綱に至る流れが確認できる。各代の具体的な事績については不明な点が多いものの、伊予国内において一定の勢力を維持し続けてきたことが窺える。清綱は、この系譜の中で伊予宇都宮氏7代当主とされる 4 。
清綱が活動した戦国時代初期から中期の伊予国は、守護であった河野(こうの)氏の権威が必ずしも全土に行き渡っていたわけではなく、東予・中予・南予の各地で有力な国人領主が割拠する、複雑な情勢下にあった 5 。特に南予においては西園寺(さいおんじ)氏などが大きな力を持っていた。このような群雄割拠の状況は、清綱をはじめとする伊予宇都宮氏の行動や戦略に大きな影響を与えたと考えられる。
清綱の官途については、「左近大輔(さこんのたいふ)」であったことが史料 3 から確認できる。この官位が、当時の伊予宇都宮氏当主としてどの程度の格式を示すものであったかについては、他の伊予国人と比較検討する必要があるが、一定の家格を保持していたことを示唆している。
第二章:宇都宮清綱の生涯と萩森城
一節:家督相続と勢力基盤
宇都宮清綱が伊予宇都宮氏の家督を父・宣綱からいつ相続したか、その正確な時期を特定する直接的な史料は見当たらない。しかし、後述する萩森城の築城年が天文年間(1532年~)であることから、それ以前に家督を継承していたと推測される。伊予宇都宮氏7代当主としての清綱は 4 、当時の伊予国の複雑な政治状況の中で、一族の存続と勢力維持に努めたものと考えられる。
清綱が萩森城に移る以前の本拠地は、地蔵ヶ嶽城(じぞうがたけじょう)、後の大洲城(おおずじょう)であったと複数の史料が示している 4 。大洲は喜多郡の中心地であり、伊予宇都宮氏の伝統的な勢力基盤であった。
二節:萩森城築城と隠居
宇都宮清綱の名を戦国史に刻む最大の事績の一つが、萩森城(はぎもりじょう)の築城である。築城時期については、天文年間(1532年~1555年)とされ 8 、より具体的には天文元年~八年(1532年~1539年)の間とする史料もある 4 。この時期に清綱は、嫡男である宇都宮豊綱(とよつな)に家督と本拠地である地蔵ヶ嶽城を譲り、自身は三男(一部史料では次男 8 )の宇都宮房綱(ふさつな)を伴って新たに築いた萩森城に移り、隠居したと伝えられている 4 。
萩森城は、現在の愛媛県八幡浜市大平に位置し 8 、標高約200メートルの山頂に築かれた山城であった 7 。清綱・房綱父子は萩森城を拠点として、保内郷(ほないごう)25村、7800石の所領を支配したとされ、房綱は「萩森殿」と呼ばれたという 4 。この7800石という石高は、隠居領としては決して小さくなく、清綱・房綱父子が萩森において相当な経済力と軍事力を保持していたことを示している。
清綱のこの「隠居」と萩森城への移住は、単なる権力からの引退以上の意味を持っていた可能性が考えられる。戦国時代における当主の隠居は、必ずしも政治の第一線からの完全な離脱を意味するものではなく、後見として実権を握り続ける例や、一族の勢力範囲を分担・拡大するための戦略的な配置である場合も少なくない。清綱の場合、嫡男豊綱に本拠地の大洲を任せつつ、自身は房綱と共に新たな拠点である萩森を確保することで、宇都宮家の勢力範囲を実質的に拡大、あるいは防衛体制を複層化する意図があったのではないだろうか。特に、八幡浜市の資料には萩森城が「西(九州)の海側からの攻撃に対して築かれており」との記述があり 11 、この点は清綱の隠居が単なる個人的なものではなく、伊予宇都宮氏全体の防衛戦略、特に豊後水道を介した九州方面からの脅威を意識した広域的な視点を含んでいたことを強く示唆する。この戦略的配置は、豊綱の大洲を中心とする体制を補完し、宇都宮家の影響力を保内郷方面へ拡大する、あるいはその方面の防御を固めるための布石であった可能性が高い。また、万が一、豊綱の系統に不測の事態が生じた場合の備えとして、房綱の系統を別個に立てておくというリスク分散の意図も考えられなくはない。
三節:清綱の晩年と死没
宇都宮清綱の明確な没年や晩年の具体的な動向については、残念ながら史料に乏しく、詳細は不明である。萩森城が天正二年(1574年)に後述する大野直之によって攻め落とされるが 7 、この時点までに清綱が没していた可能性が高いと考えられる。隠居後の清綱が、どの程度まで豊綱や房綱の統治に関与し、影響力を行使していたかについても、現存する史料からは推測の域を出ない。
第三章:萩森城の歴史と構造
宇都宮清綱とその子房綱の拠点となった萩森城は、戦国時代の伊予における地域支配の様相を物語る上で重要な城郭である。その歴史的変遷を以下に概観する。
表:萩森城略年表
年代(和暦) |
年代(西暦) |
主要な出来事 |
関連史料 |
天文年間 |
1532-1555頃 |
宇都宮清綱により築城、清綱・房綱の居城となる |
4 |
天正二年 |
1574年 |
大野直之(長宗我部氏に通じる)により攻められ落城、房綱は豊後へ亡命 |
7 |
天正七年 |
1579年 |
梶谷景雄らにより奪還、房綱が豊後より帰還し再び城主となる |
7 |
天正十三年 |
1585年 |
豊臣秀吉の四国平定の際、小早川隆景の進攻を受け開城、その後廃城となる |
7 |
一節:萩森城の立地と構造
萩森城は、前述の通り現在の愛媛県八幡浜市大平に所在し 8 、標高約200メートルの山上に築かれた典型的な山城であった 4 。JR予讃線八幡浜駅から南東方向に位置し、当時の交通路や周辺地域への睨みを利かせる戦略的要衝であったと考えられる。アクセスについては、JR八幡浜駅からバス利用で「名坂」下車後徒歩40分とされている 4 。
城郭の構造としては、曲輪(くるわ)、土塁(どるい)、石塁(いしるい)、堀(ほり)といった基本的な防御施設が設けられていたことが確認されている 4 。さらに、石垣、堀切(ほりきり)、横堀(よこぼり)といった、より戦国期に発達した城郭技術も用いられていたようである 8 。また、萩森城の支城として、高森城(たかもりじょう)、城高城(じょうこうじょう)、飯森城(いいもりじょう)といった小規模な城砦群が存在したことも記録されており 7 、これらが一体となって萩森城を中心とする防衛網を形成していたと考えられる。
特に注目すべきは、八幡浜市教育委員会が関与した可能性のある資料に記された「(萩森城は)西(九州)の海側からの攻撃に対して築かれており、西南側には城戸(きど)、城の首(じょうのくび)などの小字(こあざ)が残る」という記述である 11 。この指摘は、萩森城の設計思想を具体的に示しており、単に内陸の在地支配を目的とした城ではなく、豊後水道を介した九州方面からの海を通じた脅威(例えば豊後の大友氏や活動が活発化していた海賊衆など)を明確に意識して構築された可能性を示唆している。当時、豊後水道を挟んで九州には大友氏という強大な戦国大名が存在し、その伊予への影響力行使や軍事介入は十分に考えられる状況であった。実際に、後に宇都宮房綱は萩森城を追われた際に豊後の大友宗麟を頼っていることからも 7 、伊予宇都宮氏と大友氏との間には何らかの接触があったか、あるいは大友氏が伊予の反毛利・反長宗我部勢力の受け皿として機能しうる存在と認識されていたことが窺える。このことから、宇都宮清綱は萩森城を、宇都宮氏の勢力圏の西端における対九州、特に大友氏を意識した前線基地、あるいは監視拠点として機能させる意図があったのではないかと推測される。嫡男豊綱が守る大洲城と連携し、東西からの脅威に対応する複合的な防衛体制を構築しようとした可能性も考えられる。
二節:清綱・房綱時代の萩森城
宇都宮清綱は、嫡男豊綱に家督を譲った後、三男房綱と共に萩森城に移り住み、隠居生活を送ったとされる 4 。しかし、前述の通り、その隠居は単なる余生ではなく、保内郷7800石という少なくない所領を背景に 4 、房綱と共にこの地域の実質的な統治者としての役割を担っていたと考えられる。清綱の没後(正確な時期は不明)、房綱が正式に萩森城主を継承し、「萩森殿」としてこの地を治めた 4 。
三節:大野直之による攻略と房綱の豊後亡命
平穏であったと推測される萩森城の状況は、天正二年(1574年)に一変する。この年、土佐国の長宗我部(ちょうそかべ)氏と通じた大野直之(おおの なおゆき)によって萩森城は攻撃を受け、落城の憂き目に遭う 7 。大野直之は、元々は伊予宇都宮氏の旧臣であり、地蔵ヶ嶽城(大洲城)の城主であった人物であるが 9 、この時期には長宗我部氏の勢力拡大の波に乗り、旧主筋である宇都宮氏に反旗を翻した形となる。
この大野直之の萩森城攻撃は、単なる局地的な豪族間の私闘というよりも、土佐の長宗我部元親(もとちか)が進める伊予侵攻戦略と深く連動した動きであった可能性が高い。史料 10 は「長宗我部氏と通じた大野直之」と明記しており、また別の史料 14 も大野直之が長宗我部元親の支援を得て河野氏に背いたと記録している。これは、長宗我部氏が伊予攻略を進めるにあたり、伊予国内の親長宗我部勢力(この場合は大野直之)を利用して既存勢力を切り崩していくという、戦国期によく見られた戦略の一環であったと考えられる。
城主であった宇都宮房綱は、萩森城の落城後、海を渡り豊後国(現在の大分県)の大友宗麟(おおとも そうりん)を頼って落ち延びたとされる 7 。房綱が豊後の大友宗麟を頼ったという事実は、単なる偶然の亡命先の選択ではなく、以前から伊予宇都宮氏と大友氏との間に何らかの外交的繋がりが存在したか、あるいは地政学的に大友氏が伊予の反長宗我部・反毛利勢力にとって潜在的な支援者として認識されていたことを示唆する。大友氏は当時、九州において毛利氏と激しく覇権を争っており、四国における毛利氏の影響力拡大を牽制する意味でも、伊予の諸勢力との連携は戦略的に重要であったはずである。
四節:梶谷景雄による奪還と房綱の復帰
萩森城を失い、豊後に亡命していた宇都宮房綱であったが、天正七年(1579年)に転機が訪れる。宇都宮氏の旧臣であった梶谷景雄(かじや かげかつ)・景晴(かげはる)・良景(よしかげ)の三兄弟が、風雨に紛れて大野直之方の守る高森城(萩森城の支城の一つ)および萩森城本体に奇襲をかけ、これを奪還することに成功したのである 7 。
梶谷景雄は、父・景則が伊予宇都宮氏の老臣であり、自身も宇都宮氏に仕えていた武将である。大野直之によって居城であった高森城を奪われた際、父・景則は息子たちに城を奪還することが最大の供養であると言い残して亡くなったと伝えられており、景雄はこの父の遺言を果たすべく行動したとされる 12 。景雄らは、萩森城を奪還すると、豊後にいた旧主・宇都宮房綱を呼び戻し、房綱は再び萩森城主として返り咲くこととなった 7 。
梶谷景雄のこの行動は、戦国時代における主従関係の複雑さと、旧主への忠義が一つの行動原理として依然として機能し得たことを示す好例と言える。一度失われた拠点を、かつての家臣の力によって奪還し、旧主を再び迎え入れるという劇的な展開は、伊予宇都宮氏の在地における影響力や家臣団との絆が、落城によっても完全には失われていなかったことを物語っている。この成功は、大野直之の萩森城支配が盤石ではなかったこと、梶谷氏の奇襲戦術が極めて巧みであったこと、そして何よりも宇都宮房綱(ひいては宇都宮氏)を支持する在地勢力が依然として存在したことを示している。
五節:四国平定と廃城
宇都宮房綱が萩森城に復帰し、一時的に勢力を回復したものの、その支配は長くは続かなかった。天正十三年(1585年)、豊臣秀吉による全国統一事業の一環として四国平定(四国の役)が開始されると、毛利輝元を総大将とする軍勢が伊予に侵攻し、その先鋒を務めた小早川隆景(こばやかわ たかかげ)の軍勢が萩森城にも迫った。圧倒的な兵力差の前に、萩森城は戦わずして開城したと伝えられている 7 。
開城後、萩森城はその戦略的価値を失い、廃城となった 7 。これにより、宇都宮清綱が築城し、その子房綱が波乱の生涯を送った萩森城は、その歴史的役割を終えることとなった。
第四章:清綱の子らの動向と伊予宇都宮氏の終焉
宇都宮清綱の隠居後、伊予宇都宮氏の命運は、嫡男・豊綱と三男・房綱の二人の息子たちに託された。しかし、彼らが生きた時代は、伊予国内の勢力争いに加え、土佐の長宗我部氏の台頭、さらには中国地方の毛利氏や豊後の大友氏といった外部の巨大勢力の影響が色濃く及ぶ、まさに激動の時代であった。
一節:嫡男・宇都宮豊綱の苦闘
父・清綱から家督と本拠地である大洲城(地蔵ヶ嶽城)を継承した宇都宮豊綱は 4 、官位として遠江守(とおとうみのかみ)を称していたことが史料 3 から確認できる。豊綱は、伊予国内の複雑な勢力関係の中で、一族の存続を図るべく活動した。史料によれば、豊綱は姻戚関係にあった土佐一条(いちじょう)氏と結び、伊予の伝統的守護家である河野氏と対立する道を選んだ 5 。
この選択が、豊綱の運命を大きく左右することになる。永禄十一年(1568年)、豊綱は一条氏と共に河野氏と衝突するが、河野氏は中国地方の雄・毛利氏の援軍を得て反撃に転じ、鳥坂峠(とさかとうげ)の戦いにおいて豊綱・一条連合軍は大敗を喫した 5 。この戦いの背景には、土佐一条氏が伊予南部への進出を強め、それに豊綱が呼応したという動きがあった 15 。
豊綱の行動は、当時の伊予国内の地域勢力が、中国地方の毛利氏や土佐の一条氏・長宗我部氏といった外部の有力大名の勢力争いや代理戦争に否応なく巻き込まれていく様相を呈している。永禄十一年(1568年)頃は、毛利氏が中国地方での覇権を固め、四国への影響力を積極的に強めようとしていた時期であり、豊後の大友氏と連携する傾向があった一条氏の伊予への進出は、毛利氏にとって看過できない動きであった。豊綱は、長年のライバルであった河野氏に対抗するため、一条氏との連携を選択したのであろうが、それは同時に毛利氏という巨大勢力を敵に回す結果を招いた。伊予宇都宮氏のような中小規模の国人領主が、このような大勢力間の争いに主体的に関与し、その中で生き残ることは極めて困難であった。鳥坂峠での敗北後、宇都宮豊綱は毛利方に捕らえられ、天正十三年(1585年)、奇しくも弟・房綱の萩森城が開城し廃城となったのと同じ年に、亡命先の備後国(現在の広島県東部)で病死したと伝えられている 5 。これにより、伊予宇都宮氏の本家筋は事実上滅亡した。
二節:三男・宇都宮房綱と萩森宇都宮氏の末路
一方、父・清綱と共に萩森城に入り、一度は城を失いながらも家臣・梶谷景雄の活躍によって城主に復帰した三男の宇都宮房綱であったが 7 、その後の道のりも平坦ではなかった。房綱が萩森城に復帰した後も、四国統一を目指す長宗我部氏の圧力は依然として強く、房綱の所領であったとされる三机村(みつくえむら)や町見村(まちみむら)の城砦が長宗我部氏の侵攻により落城したとの記録がある 16 。これは、房綱が萩森城を回復した後も、長宗我部氏による伊予侵攻が継続し、宇都宮氏の勢力圏が脅かされ続けていたことを示している。
天正十三年(1585年)の豊臣秀吉による四国平定の際、萩森城が開城した後の房綱の具体的な動向(降伏後の処遇など)については、史料からは詳らかではない。房綱を萩森城主に復帰させた梶谷景雄は、小早川隆景に帰順した後、武士の身分を捨てて平地村で庄屋を営んだとされていることから 12 、房綱も同様に武士としての地位を失い、歴史の表舞台から姿を消した可能性が高い。
宇都宮豊綱の死と、宇都宮房綱の勢力基盤であった萩森城の廃城により、伊予における宇都宮氏の組織的な力は大きく後退し、戦国大名あるいは有力国人領主としての歴史は実質的に終焉を迎えたと考えられる。
第五章:宇都宮清綱とその一族をめぐる周辺勢力
宇都宮清綱とその子らの時代は、伊予国内のみならず、四国全体、さらには中国・九州地方の有力大名が複雑に関係し合う、まさに戦国乱世の縮図ともいえる状況であった。伊予宇都宮氏が置かれた、これらの錯綜した勢力関係を概観する。
一節:伊予国内の競合勢力
二節:四国内の拡張勢力
三節:四国外からの影響力
表:宇都宮清綱関連主要人物一覧
人物名 |
立場・役職など |
宇都宮氏との主な関連 |
宇都宮清綱 |
伊予宇都宮氏7代当主、萩森城築城主 |
本報告書の中心人物、房綱と共に萩森城へ隠居 |
宇都宮豊綱 |
清綱の嫡男、伊予宇都宮氏当主、大洲城主 |
一条氏と結び河野・毛利連合と戦い敗死 |
宇都宮房綱 |
清綱の三男(次男説あり)、萩森城主 |
父清綱と共に萩森城へ、落城・亡命後、梶谷景雄により復帰、四国平定で開城 |
河野通宣(通直) |
伊予国守護 |
宇都宮豊綱と敵対、毛利氏の支援を得て鳥坂峠で勝利 |
一条兼定 |
土佐一条氏当主 |
宇都宮豊綱と同盟、河野・毛利連合と戦う |
長宗我部元親 |
土佐国主、四国統一を目指す |
大野直之を支援し伊予へ侵攻、宇都宮氏の脅威となる |
大友宗麟 |
豊後国主 |
宇都宮房綱が亡命先として頼る、毛利氏と敵対 |
毛利元就・隆元・輝元 |
中国地方の覇者 |
河野氏を支援し伊予へ出兵、宇都宮豊綱を破る |
小早川隆景 |
毛利氏一門、伊予方面軍指揮官 |
四国平定時に萩森城を開城させる |
大野直之 |
元伊予宇都宮氏家臣、後に長宗我部氏に通じる |
萩森城を攻略、宇都宮房綱を追う |
梶谷景雄 |
伊予宇都宮氏旧臣、高森城主 |
萩森城を奪還し、宇都宮房綱を復帰させる |
結論
宇都宮清綱は、戦国時代の伊予国という、守護権力が揺らぎ、在地領主が群雄割拠する厳しい環境の中で、伊予宇都宮氏の存続と勢力維持に努めた武将であった。彼が嫡男・豊綱に本拠地である大洲城を任せ、自身は三男・房綱と共に新たに萩森城を築いて移った行動は、単なる隠居ではなく、一族の勢力範囲の複層化や、西からの脅威(特に九州方面)を意識した戦略的な拠点配置という、一定の先見性を持った施策であったと評価できる。特に萩森城の立地選定や城郭構造には、その意図が色濃く反映されている可能性が示唆される。
しかしながら、清綱のこうした試みにもかかわらず、その子らの時代には、伊予国内の複雑な勢力争いに加え、土佐の長宗我部氏による四国統一の野心、さらには中国地方の毛利氏と九州の大友氏といった巨大勢力間の争いの余波が伊予国にも及び、伊予宇都宮氏はその中で翻弄された。嫡男・豊綱は毛利氏との戦いに敗れて捕囚の身となり、三男・房綱も一度は萩森城を回復するものの、最終的には豊臣秀吉による四国平定の波に抗しきれず、その勢力を大きく減退させ、独立した戦国領主としての地位を失った。これは、戦国時代において、中小規模の国人領主が、より大きな勢力間のパワーゲームの中でその主体性を維持することの困難さ、そして最終的には吸収・淘汰されていくという、歴史の非情な現実を示す典型的な過程であったと言える。
宇都宮清綱の具体的な没年や、隠居後の政治的影響力の詳細、さらには萩森城のより詳細な構造や機能など、依然として不明な点も多く残されている。これらの課題については、今後の更なる史料の発見と、考古学的調査を含む学際的な研究の進展が待たれるところである。本報告書が、宇都宮清綱という一人の戦国武将と、彼が生きた時代の伊予国の歴史への理解を深める一助となれば幸いである。
参考文献