宇都宮興綱は下野宇都宮氏19代当主。甥から家督を奪うも家臣の傀儡となり、最期は自害を強要された。戦国時代の下剋上の悲劇を体現。
宇都宮興綱(うつのみや おきつな)は、戦国時代の下野国(現在の栃木県)にその名を刻んだ、下野宇都宮氏第19代当主である。しかし、その生涯は栄光とは程遠く、矛盾と悲劇に満ちていた。彼は、正統な当主であった甥の宇都宮忠綱を追放して家督を簒奪した下剋上の体現者でありながら、その治世のほとんどを、彼を当主に押し上げた重臣たちの傀儡として過ごし、最後はその家臣たちの手によって自害に追い込まれるという非業の最期を遂げた 1 。
興綱の生涯は、単なる一個人の野心と没落の物語ではない。それは、鎌倉時代以来の名門であり、北関東に覇を唱えた宇都宮氏が、戦国の荒波の中でいかにしてその権威を失墜させ、内部から崩壊していったかを示す象徴的な出来事であった。彼の行動は、彼個人の資質だけに起因するものだったのか。あるいは、宇都宮氏とその宿老・芳賀氏との間に長年横たわっていた構造的な対立、さらには古河公方を巡る関東全体の政治情勢が生み出した、抗いがたい歴史の必然であったのか。
この問いの根底には、戦国時代を貫く「正統性」と「実効支配」の乖離という普遍的なテーマが存在する。興綱は宇都宮氏の血を引くことで名目上の「正統性」をかろうじて担保しつつも、その地位は芳賀氏や壬生氏といった家臣団が持つ「実効支配」の力によって与えられたものであった。彼がその枠を超え、真の君主として振る舞おうとした瞬間、その存在価値は失われ、悲劇的な結末を迎えることとなる。
本報告書は、錯綜する出自の問題から、家督簒奪に至る背景、傀儡としての治世の実態、そして非業の最期までを、関連する史料に基づき詳細に検証する。これにより、宇都宮興綱という一人の武将の生涯を多角的に再構築するとともに、彼の存在が戦国期下野国の権力構造の変質にいかなる影響を与えたのかを明らかにすることを目的とする。
西暦 |
和暦 |
興綱の年齢 (1475年生誕説) |
宇都宮興綱の動向 |
宇都宮家中・芳賀氏の動向 |
関東・周辺勢力の動向 |
1475年 |
文明7年 |
1歳 |
誕生(通説による) |
父・宇都宮正綱が当主 |
享徳の乱が継続中 |
1512年 |
永正9年 |
38歳 |
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兄・成綱が芳賀高勝を誅殺。「宇都宮錯乱」勃発。甥・忠綱が家督相続。 |
古河公方家で足利政氏・高基父子が対立(永正の乱)。 |
1514年 |
永正11年 |
40歳 |
宇都宮錯乱鎮圧後、芳賀氏の名跡を継承。「芳賀興綱」となる。 |
芳賀高経らが助命される。竹林の戦いで佐竹・岩城連合軍に勝利。 |
足利高基方が優勢となる。 |
1516年 |
永正13年 |
42歳 |
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兄・成綱が死去。忠綱が名実ともに当主となる。 |
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1526年 |
大永6年 |
52歳 |
結城政朝と結託し、猿山合戦で忠綱を破り宇都宮城を奪取。宇都宮氏当主となる。 |
芳賀高経が復権。忠綱は壬生綱房を頼り鹿沼城へ逃れる。 |
結城政朝が宇都宮領へ侵攻。 |
1527年 |
大永7年 |
53歳 |
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宇都宮忠綱が鹿沼で死去(暗殺説あり)。 |
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1534年 |
天文3年 |
60歳 |
芳賀高経・壬生綱房らとの対立に敗れ、隠居・幽閉される。 |
子・尚綱が新たな当主として擁立される。 |
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1536年 |
天文5年 |
62歳 |
8月16日、家臣に強要され自害。 |
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宇都宮興綱の生涯を理解する上で、まず直面するのはその出自の曖昧さである。彼の父が誰であるかについては複数の説が存在し、確定的な史料に乏しい。この出自の不確かさこそが、彼の政治的立場の脆弱性を象徴しており、その後の波乱に満ちた生涯を運命づけた要因の一つと言える。
興綱の生没年については、いくつかの記録が残されている。生年に関しては、文明7年(1475年)または文明8年(1476年)とする説が通説となっている 1 。これは、彼の没年である天文5年(1536年)から、日光輪王寺の『常行堂大過去帳』などに記された享年61または62を逆算したものである 1 。この説は、彼を後述する宇都宮正綱の子、すなわち成綱の弟と位置づける系譜と整合性が高い。一方で、永正11年(1514年)に生まれたとする異説も存在するが 3 、享年から考えると信憑性は著しく低いと言わざるを得ない。
没年については、諸史料の記述が比較的よく一致しており、天文5年8月16日(西暦1536年9月1日)とされている 1 。
興綱の父親が誰であるかについては、大きく分けて三つの説が提示されており、現在も議論が続いている。
最も広く知られ、伝統的に支持されてきたのが、第16代当主・宇都宮正綱の次男(または三男)であり、「宇都宮氏中興の祖」と称される傑物、第17代当主・宇都宮成綱の弟(一説には異母弟)とする説である 1 。『下野国誌』をはじめとする江戸時代の地誌や系図類の多くがこの説を採用しており、日光輪王寺の過去帳や『那須記』といった文献も、興綱を成綱の弟として扱っていることが、この説の有力な根拠となっている 3 。この説によれば、興綱の母は関東管領であった上杉顕実の娘とされる 2 。
近年、歴史研究者の江田郁夫氏らによって提唱され、注目を集めているのが、興綱を宇都宮成綱の三男、すなわち忠綱や尚綱の弟とする説である 3 。この説は、従来の系図が持ついくつかの矛盾点、特に忠綱、興綱、尚綱の三代にわたる複雑な家督継承の経緯を、彼らを兄弟と位置づけることでより合理的に説明しようと試みるものである。この場合、興綱は甥ではなく、実の兄である忠綱から家督を奪ったことになる。
数は少ないながらも、興綱を成綱の嫡男である宇都宮忠綱の子、すなわち成綱の孫とする説も存在する 3 。この説の根拠は他の二説に比べて薄弱であるが、当時の宇都宮氏の系図がいかに混乱していたかを示す一例として重要である。
興綱の出自がこれほどまでに錯綜している事実は、単なる記録の散逸や不備に起因するものではない。むしろ、彼の当主就任が、正統な血筋に基づく穏当な家督相続ではなく、クーデターによる権力奪取という異常な事態であったことの動かぬ証拠と見るべきである。家督を簒奪した興綱自身や、彼を擁立した芳賀氏、壬生氏といった勢力が、自らの行動を正当化し、権威づけるために、意図的に系図に手心を加えた可能性は極めて高い。
もし彼が誰もが認める正嫡であったならば、その出自が揺らぐことはなかったであろう。しかし、彼の権力の源泉は血筋の正統性ではなく、家臣団による軍事的な支持にあった。この正統性の脆弱さこそが、彼の生涯を通じて常に付きまとうアキレス腱となった。彼は家臣団の支持なくしては当主の座を維持できず、結果として彼らの傀儡とならざるを得なかった。出自の曖昧さは、彼の悲劇的な運命を予兆する、最初の兆候だったのである。
宇都宮興綱の生涯を語る上で、宇都宮氏の宿老(筆頭家老)であった芳賀氏の存在を抜きにしては成立しない。両者の関係は単なる主従ではなく、時には主家を凌駕するほどの権勢を誇った芳賀氏との長年にわたる緊張と協調の歴史が、興綱の運命を大きく左右することになる。
芳賀氏は清原氏を祖とし、下野国において益子氏と共に「紀清両党」と称される強力な武士団を率いる名門であった 10 。鎌倉時代以来、宇都宮氏の最も重要な家臣として仕えてきたが、その関係は単純なものではなかった。特に室町時代には、宇都宮宗家が断絶の危機に瀕した際、芳賀氏出身の宇都宮正綱が宇都宮氏の家督を継承するという出来事があり、両家は血縁的にも深く結びついていた 10 。
この歴史的経緯により、芳賀氏の権勢は宇都宮家中において絶大なものとなった。興綱の兄(または父)にあたる宇都宮成綱の時代には、当主である成綱が発給した文書に対し、家臣であるはずの芳賀高勝が追認の署名を加えるという、主従が逆転したかのような事例すら見られるほどであった 10 。芳賀氏はもはや単なる家臣ではなく、宇都宮氏の共同統治者、あるいはそれ以上の実力者として君臨していたのである。
「宇都宮氏中興の祖」と称される英主・宇都宮成綱は、こうした芳賀氏の専横を抑え、当主を中心とした集権的な支配体制を確立しようと試みた。その対立が爆発したのが、永正9年(1512年)に始まる内紛、通称「宇都宮錯乱」である 13 。
この内紛の直接的な引き金は、関東全域を巻き込んだ古河公方家の家督争い「永正の乱」であった 8 。当主・成綱が婿である足利高基を支持したのに対し、家中を牛耳る芳賀高勝は、現職の公方である足利政氏を支持した。これにより、宇都宮家中は二つに分裂し、一触即発の事態に陥った 12 。永正9年4月、ついに成綱は実力行使に踏み切り、芳賀高勝を謀殺した 1 。これをきっかけに、高勝の弟・芳賀高経ら芳賀一族は一斉に蜂起し、宇都宮氏は約2年間にわたる泥沼の内戦状態に突入したのである。
宇都宮成綱は、嫡男の忠綱と共に、足利高基や家臣の壬生綱重らの支援を得て、この反乱の鎮圧にあたった。激しい戦いの末、永正11年(1514年)までに芳賀氏の勢力を打ち破り、内紛を終結させた 8 。
乱の終結後、成綱は驚くべき手を打つ。反乱の主導者であった芳賀高経らを助命し宇都宮城下に軟禁する一方で、自らの弟(または子)である興綱に、敵対した芳賀氏の名跡を継がせたのである 1 。ここに「芳賀興綱」が誕生した。この措置は、芳賀氏の強大な軍事力と領地を、宇都宮一門である興綱を通じて宗家の直接管理下に置き、その力を完全に無力化しようとする、成綱の巧みな権力掌握術であった 1 。
この成綱による措置は、短期的には芳賀氏の勢力を削ぎ、宗家の権力を強化するという目的において成功したかに見えた。しかし、それは結果として、興綱に「宇都宮一門」でありながら「芳賀氏当主」という二重の立場を与えることになった。この特異な立場こそが、後に彼が芳賀高経ら反忠綱派に担がれる素地となり、父・成綱の深謀遠慮が、その死後に皮肉な形で裏目に出る伏線となったのである。主家を守るための駒が、主家を覆すための駒へと変質する運命の歯車は、この時に静かに回り始めていた。
宇都宮成綱の死は、彼が築き上げた危うい権力バランスを崩壊させ、宇都宮家中に新たな動乱の時代をもたらした。その中で、芳賀氏当主という特異な立場にあった宇都宮興綱は、歴史の表舞台へと躍り出ることになる。彼が主導した家督簒奪劇、通称「大永の内訌」は、宇都宮氏の衰退を決定づける分水嶺となった。
永正13年(1516年)、北関東に覇を唱えた英主・宇都宮成綱がこの世を去った 2 。彼の死は、宇都宮家中の求心力を著しく低下させた。父の跡を継いだ宇都宮忠綱は、叔父たちの補佐を受けながら勢力拡大を目指したが、成綱という絶対的な重石が失われたことで、抑えられていた諸勢力の思惑が再び動き出す。
特に深刻だったのが、かつては成綱の娘を娶り、強固な同盟関係にあった下総国の結城政朝との関係悪化であった 2 。その背景には、南北朝時代以来、宇都宮氏の支配下にあった旧結城領の返還を巡る根深い領土問題があった 15 。両者の対立は、宇都宮家中の反忠綱派に、外部勢力を引き込む絶好の口実を与えることになった。
宇都宮錯乱で兄・高勝を殺され、雌伏を余儀なくされていた芳賀高経は、忠綱の治世に公然と不満を抱き、復権の機会を虎視眈々と狙っていた 19 。彼の胸中には、兄を殺されたことへの復讐の念が燃え盛っていたのである 20 。
高経は、芳賀氏当主の立場にあり、宇都宮一門でもある興綱に接近する。興綱は、叔父として当主忠綱を支える道を選ばず、高経の誘いに乗り、さらには忠綱と敵対する結城政朝とも内通を開始した 1 。興綱がこの危険な賭けに出た動機が、彼自身の野心であったのか、あるいは高経らの巧みな唆しに乗せられた結果であったのかは定かではない。しかし、宇都宮宗家と芳賀氏の双方に連なる彼の立場が、反乱の旗印として極めて魅力的であったことは間違いない。
大永6年(1526年)、ついに陰謀は実行に移された(一部史料では大永3年(1523年)とする) 1 。結城政朝が宇都宮領へ大軍を侵攻させると、当主・忠綱はこれを迎撃すべく、居城である宇都宮城を出て猿山(現在の宇都宮市新里町付近)に布陣した 1 。
この猿山合戦で、忠綱軍は結城軍の前に敗北を喫する。忠綱が宇都宮城へ敗走したところ、そこには驚くべき光景が待っていた。城はもぬけの殻ではなく、叔父である興綱、そして芳賀高経、塩谷孝綱といった反忠綱派の諸将によって完全に占拠されていたのである 1 。忠綱の出陣は、彼を城から誘い出すための巧妙な罠であった。
人物 |
続柄・関係 |
備考 |
宇都宮正綱 |
宇都宮氏16代当主 |
成綱、興綱らの父(通説)。 |
宇都宮成綱 |
宇都宮氏17代当主 |
正綱の子。「中興の祖」。忠綱の父。興綱の兄(通説)。 |
宇都宮忠綱 |
宇都宮氏18代当主 |
成綱の嫡男。興綱に家督を簒奪される。 |
瑞雲院 |
成綱の娘 |
古河公方・足利高基の妻。 |
玉隣慶珎大姉 |
成綱の娘 |
結城政朝の妻。 |
宇都宮興綱 |
宇都宮氏19代当主 |
正綱の次男(通説)。成綱の弟。忠綱の叔父。芳賀氏を継承後、忠綱を追放し当主となる。 |
宇都宮尚綱 |
宇都宮氏20代当主 |
興綱の子。父の失脚後、家臣に擁立される。 |
芳賀高勝 |
芳賀氏当主 |
宇都宮成綱と対立し、誅殺される(宇都宮錯乱)。 |
芳賀高経 |
高勝の弟 |
兄の死後、雌伏。興綱を擁立して復権し、後に興綱をも排除する。 |
壬生綱房 |
宇都宮氏家臣 |
忠綱を保護するが、後に見限り暗殺したとされる。興綱政権下で台頭。 |
結城政朝 |
結城氏当主 |
宇都宮成綱の婿(忠綱の義兄弟)。忠綱と対立し、興綱のクーデターを支援。 |
進退窮まった忠綱は、わずかな供回りと共に、家臣の壬生綱房が守る鹿沼城へと落ち延びていった 2 。入れ替わるように宇都宮城に入った興綱は、ここに宇都宮氏第19代当主の座を簒奪。「大永の内訌」は、興綱と芳賀高経らの完全な勝利に終わった 1 。
鹿沼城に身を寄せた忠綱であったが、彼に再起の機会が訪れることはなかった。宇都宮城への復帰は果たせぬまま、クーデターの翌年である大永7年(1527年)7月16日、31歳の若さでこの世を去った 2 。その死は、失意のうちの病死とも伝えられるが、彼を保護していたはずの壬生綱房が、既に興綱側と内通しており、その謀略によって暗殺されたという説が有力視されている 2 。
この一連の政変は、単なる興綱個人の反乱ではなかった。それは芳賀氏の積年の恨みが爆発した復讐劇であり、同時に、壬生綱房という新たな権力者が、主君の命を取引材料にして自らの地位を確立する下剋上の舞台でもあった。興綱が手にした当主の座は、このような血塗られた権力闘争の末に築かれた、極めて不安定なものでしかなかったのである。
甥を追放し、宇都宮氏当主の座を手に入れた宇都宮興綱であったが、彼が真の意味で下野国の支配者となることはなかった。彼の権力は、自らを擁立した家臣団、すなわち復権を果たした芳賀高経と、この内乱を通じて急速に台頭した壬生綱房によって支えられており、興綱自身はその象徴的な「お飾り」に過ぎなかったのである。彼の治世は、傀儡の君主と、実権を握る二大権臣との間の、息詰まるような権力闘争の時代であった。
興綱が宇都宮城主となると、間もなく芳賀高経は芳賀氏当主の座に復帰し、宇都宮錯乱で失墜した一族の権勢を完全に取り戻した 1 。また、忠綱を見捨てて興綱に内通した壬生綱房は、その功績によって宇都宮家中における発言力を飛躍的に増大させ、芳賀氏と並び立つ実力者としての地位を確立した 22 。
興綱の政権は、宇都宮当主を頂点としながらも、その実態は芳賀・壬生両氏を中核とする有力家臣団による連合政権であった。興綱の発給したとされる寄進状なども現存するが 27 、重要な政治決定は高経と綱房の合議によってなされ、興綱はそれを追認するだけの存在だったと推測される 1 。
当初は傀儡としての役割に甘んじていた興綱も、時が経つにつれて当主としての自意識に目覚め、独自の意思を行使しようと試みるようになる 1 。しかし、その試みはことごとく、実権を握る高経や綱房との深刻な対立を引き起こした。残された逸話によれば、興綱は宇都宮氏の伝統的な権威を過信するあまり、周辺勢力との力関係を冷静に判断できず、非現実的な強硬策を主張することがあったという 29 。このような政治感覚の欠如は、「貪欲なだけで器量がついていってない」 30 と酷評される所以であり、老獪な高経らにとっては御しやすいと同時に、危うさを感じさせるものであった。
興綱には、高経が率いる芳賀一族(清党)や、鹿沼城を拠点に勢力を拡大する壬生氏に対抗できるだけの直属の軍事力も、経済的基盤もなかった。彼の抵抗は、家臣団の支持という裏付けを欠いた空虚なものであり、結果として家中でますます孤立を深めていくだけであった。
興綱の治世は、下野国における伝統的な権力秩序が、名実ともに崩壊したことを象徴している。かつての「守護(宇都宮氏)- 守護代・有力国人(芳賀氏など)」という主従関係は完全に逆転し、実力を持つ家臣が主君を操り、時には排除することさえ可能な下剋上の時代が到来したのである。この現象は、同時期の他の地域、例えば周防国における大内義隆と陶晴賢の関係 31 や、畿内における室町将軍足利義輝と三好長慶の関係 33 にも見られる、戦国時代に共通する権力構造の変質であった。
興綱の傀儡政権は、宇都宮氏の権威そのものを内部から著しく損なう結果を招いた。「宇都宮当主は、家臣団の実力さえあれば交代させられる」という危険な前例を作ってしまったのである。当主の座が血統の神聖さに裏打ちされたものではなく、家臣たちの力学によって左右される相対的な「役職」へと変質したことの帰結は、興綱自身の末路、そしてその後の宇都宮氏のさらなる混乱となって現れる。興綱の時代に宇都宮当主の権威が地に落ちたことが、後の壬生綱房による宇都宮城乗っ取りという、より深刻な下剋上を誘発する土壌を耕してしまったと言えるだろう 22 。
傀儡の当主としての日々は、長くは続かなかった。自らの権力を確立しようとする興綱の試みは、彼を擁立した家臣団との決定的な亀裂を生み、その生涯は謀略と裏切りによって幕を閉じる。謀反によって始まった彼の治世は、皮肉にも家臣からの謀反によって終焉を迎えたのである。
天文年間に入ると、興綱と芳賀高経・壬生綱房との対立はもはや修復不可能なレベルに達していた。自らの意のままにならない興綱を、高経らは危険視し、その排除へと動き出す。天文3年(1534年)頃、権力闘争に敗れた興綱は、高経らによって宇都宮城から追放され、幽閉の身となった 1 。事実上のクーデターであり、これにより彼は全ての権力を剥奪され、隠居を強要された。
この時点で、高経らはすでに次の手を打っていた。興綱の子である俊綱(後の宇都宮尚綱)を、新たな傀儡当主として擁立したのである 1 。これは、もはや宇都宮氏の家督相続が血筋の正統性によって決まるのではなく、家臣団の都合によって当主が「交換」されうることを示す決定的な出来事であった。高経らにとって、当主は「宇都宮興綱」個人である必要はなく、「宇都宮家の血を引く、より若く従順な人物」であれば良かったのである。
隠居・幽閉の身となってから約2年後の天文5年(1536年)8月16日、宇都宮興綱はその生涯を終えた 1 。その死は、穏やかなものではなかった。諸々の記録は、彼が芳賀高経や壬生綱房ら家臣によって自害を強要されたことを示唆している 2 。一説には討たれた、あるいは毒殺されたとも伝えられており 1 、その最期が極めて非情なものであったことが窺える。享年62(または61) 1 。戒名は「長順大禅定門」と伝わる 3 。
興綱の墓所は、栃木県益子町にある尾羽寺(現在の地蔵院)とされている 3 。この寺は宇都宮氏代々の菩提寺であり、初代・宗円から33代・正綱に至るまでの墓塔が並ぶ神聖な場所である 38 。しかし、主家を簒奪した興綱の墓碑が、この歴代当主の墓所の中に明確な形で現存するかについては、なお慎重な検証が求められる。宇都宮氏の歴史において、彼の存在が極めて複雑な位置づけにあることを物語っている。
彼の生涯は、まさに「謀叛にはじまった反逆生活は10年目にして、家臣らに強いられた隠居後に自刃するという、なんとも皮肉なうちに幕を閉じてしまった」 2 のであった。
宇都宮興綱の生涯は、戦国時代という時代の本質を体現している。彼は自らの野心によって甥から家督を奪った簒奪者であると同時に、より大きな権力構造の力学に翻弄され、自らが乗ろうとした下剋上の波に飲み込まれていった悲劇の人物でもあった。
人物像として、興綱は「貪欲なだけで器量がついていってないタイプ」 30 と評されるように、野心に実力が見合わない人物であった可能性が高い。宇都宮氏の伝統的な権威を過信し、現実の力関係を見誤る政治的判断力の欠如が、彼を孤立させ、破滅へと導いた 29 。しかし、彼が置かれた状況を鑑みれば、その運命は半ば必然であったとも言える。宇都宮錯乱を経て復権を狙う芳賀氏、下剋上を狙う壬生氏といった強力すぎる家臣団、そして正統性の欠如という構造的な弱点を抱える中で、彼が家臣団を完全に掌握することは極めて困難であった。
興綱の10年間の治世が宇都宮氏の歴史に与えた影響は、決定的に大きい。彼が引き金を引き、そして主役となった「大永の内訌」は、「中興の祖」宇都宮成綱が心血を注いで再建した権力基盤を根底から覆し、宇都宮氏の権威を回復不可能なまでに失墜させた 8 。この内紛によって生じた権力の空白と家中の混乱は、壬生氏のような家臣のさらなる台頭を許し、やがては後北条氏をはじめとする外部勢力の介入を招く直接的な原因となった。
最終的に、宇都宮興綱は歴史の転換点に現れた、時代の徒花であったと言えるだろう。彼は自らの手で古い秩序を破壊したが、新たな秩序を築くことはできなかった。その結果、彼自身も破壊の渦に巻き込まれ、その生涯は宇都宮氏衰退の序章として、歴史に深く刻まれることとなったのである。