本報告書は、日本の戦国時代、播磨国(現在の兵庫県南西部)にその名を刻んだ武将、宇野政頼(うの まさより)について、現存する史料、研究、及び伝承を基に、その生涯と事績を多角的に検証し、詳細に明らかにすることを目的とする。特に、利用者より提供された基礎情報を踏まえつつ、より深く掘り下げた情報を提供する。
宇野政頼は、播磨守護であった赤松氏の一族に連なる人物であり、播磨国宍粟郡の長水城(ちょうずいじょう)を拠点とした国人領主である 1 。当初は赤松氏の家臣として活動したが、戦国時代中期の播磨における複雑な勢力争いの中で、出雲国の尼子晴久(あまご はるひさ)に属し、その所領を安堵されたと伝えられる(ユーザー情報)。最終的には、織田信長の命を受けた羽柴秀吉(はしば ひでよし、後の豊臣秀吉)の中国地方侵攻軍と対峙し、居城である長水城で敗れ、自刃した悲劇的な武将として知られている 1 。
本報告書では、宇野政頼の出自と彼が属した宇野一族の背景、主家であった赤松氏との関係性の変遷、尼子氏への帰順に至った経緯、羽柴秀吉との間で行われた長水城の戦いの詳細と政頼の最期、そして彼にまつわる史跡や伝承、さらには史料における記述について、詳細に論じる。
年代(和暦・西暦) |
出来事 |
関連史料・備考 |
生年不詳 |
宇野政頼、宇野村頼の子として誕生。 |
1 |
天文11年(1542年)頃 |
(父・村頼と共に?)太田の戦いに参加か(赤松晴政による広岡城攻略)。 |
1 (「四郎」が政頼を指す場合) |
天文17年(1548年)以降 |
父・村頼から家督を相続か。 |
1 |
年未詳(家督相続後初期か) |
「蔵人」として伊和神社の竹木を保護する文書を発給。 |
1 (伊和神社文書) |
天文20年(1551年)頃 |
赤松氏と決別し、尼子晴久に帰順。 |
1 (田路文書) 5 |
天文末~弘治年間(1554-57頃) |
尼子方として赤松晴政・政祐父子と度々交戦。 |
1 (小南文書、小林文書、嵯峨山文書、豊福文書) |
天正5年(1577年) |
羽柴秀吉、播磨に進攻開始。播磨の国衆は織田方と毛利方に分裂。宇野政頼は毛利方に与する。 |
2 |
天正8年(1580年)4月 |
羽柴秀吉軍、宍粟郡に侵攻。長水城包囲される。 |
2 , 『信長公記』 |
天正8年(1580年)5月9日 |
長水城落城。美作へ敗走中、宍粟郡千種河呂の大森の段にて子・祐清と共に自刃(享年58歳説あり)。法名:松山専哲居士。 |
1 , 『三日月町史』 |
没後 |
子・真賢法印(伝)または地元住民により、自刃の地に供養塔(宇野塚)建立。 |
1 |
昭和9年(1934年) |
長水城本丸跡に真徳寺建立(宇野氏家臣の子孫による)。 |
8 |
宇野政頼の理解を深めるためには、彼が属した宇野氏の出自と、播磨における主家であった赤松氏との関係性を把握することが不可欠である。
宇野氏は、赤松氏と同じく村上天皇を祖とする村上源氏の末裔を称する家系であったとされる 9 。具体的には、山田入道頼範の子である将則(為助とも)が宇野氏の直接の祖とされ、当初は現在の兵庫県佐用町米田付近にあった宇野荘を拠点として宇野氏を名乗ったと伝えられている 9 。この共通の祖先を持つという認識は、両氏が同族意識を育む基盤となった一方で、戦国時代の動乱期においては、必ずしも強固な結束を意味するものではなかった。
宇野氏は、播磨守護赤松氏の「御一族衆」として、その家中で重きをなす存在であった 1 。特に、応仁の乱後の混乱を経て、赤松氏が播磨における支配を再建する過程で、宇野氏の役割は重要性を増したと考えられる。1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱の後、宇野氏は長水城の城主となり 8 、赤松氏の惣領家当主である赤松政則の時代には、一門の中でも名家として位置づけられていた 10 。
宇野氏の勢力を示す具体的な事例として、赤松円心の三男・則祐の子である赤松義則の時代に、西播磨の守護代に任じられたことが挙げられる 9 。守護代は、守護の権限を代行して広範な地域支配を行う役職であり、宇野氏がこの地位にあったことは、彼らが播磨国内において非常に有力な存在であったことを物語っている。全盛期には8つの郡を支配したとも伝えられており 9 、これは宇野氏が単なる赤松氏の家臣という立場を超え、実質的な領国経営を行う能力と基盤を有していたことを示唆する。このような守護代としての経験が、後の赤松宗家に対する一定の自立性を育み、戦国期の複雑な状況下における独自の判断へと繋がった可能性は否定できない。
室町時代から戦国時代にかけての武将である宇野政秀も、赤松氏の一族であり、赤松則祐の6世の孫とされている 11 。政秀は赤松姓を名乗ることもあったが、「宇野」と記されることもあり、本姓はこちらの可能性もあるという 11 。宇野政頼との直接的な系譜関係は、現存する資料からは明確ではないものの、宇野一族が赤松氏と密接な関係を持ちながら広範に活動していたことを示唆している。また、「宇野」と「赤松」の姓が混用される、あるいは本姓が宇野である可能性が示唆されることは、戦国期における武家の「姓」の流動性や、一族内での分化・統合の複雑さを物語っており、宇野政頼の家系もこうした複雑な背景を持っていた可能性がある。
宇野政頼の直接的な出自に目を向けると、父である宇野村頼の存在が重要となる。
政頼の父は、宇野蔵人村頼(うの くらんど むらより)である 1 。村頼は西播磨守護代を務めたとされ 4 、史料によれば天文17年(1548年)頃まで当主として活動していたことが確認できる 1 。父村頼が安積平次郎に与えたとされる感状(安積文書)には、「今度於太田面、被蒙手、無比類御動由、四郎方より申越候」という一節が見られる 1 。この「四郎」という名は、宇野村頼をはじめ宇野氏歴代の当主が少年期に名乗った通称であるとされ、宇野政頼を指している可能性が高いと指摘されている。この推定が正しければ、政頼は父の隠居前から軍事指揮に関与し、家臣の手柄を父に報告するような立場にあったことになり、早くから実務経験を積んでいたことが窺える。
村頼から政頼への家督相続の正確な時期は不明であるが、村頼の活動が天文17年(1548年)頃まで確認されることから、それ以降に家督が譲られたと推測される 1 。
宇野政頼は、若年時には蔵人(くろうど)を名乗り 1、後に下総守(しもうさのかみ)を称したとされている 1。彼がまだ「蔵人」を称していた頃、播磨国一宮である伊和神社の境内にある竹木を、先例に任せて保護するという内容の文書を発給していることが確認されている(伊和神社文書) 1。この文書の年次は不明であるが、おそらく代替わりに伴う所領や権益の安堵を再確認する意味合いがあったものと考えられる。
一方で、官途名に関しては異説も存在する。ある資料では、宇野村頼の嫡子が政頼であるが、政頼は弘治年間(1554年~1558年)に文書を発給しているものの、永禄6年(1563年)まで父村頼が越前守(えちぜんのかみ)を名乗っていたため、政頼自身は「蔵人」であったとしている。そして、天正元年(1573年)に政頼の嫡子である宇野景(かげ)が「蔵人」を名乗っており、この時に宇野政頼は「越前守」を名乗ったのではないかとの考察がなされているが、確証はないとされる 5。この官途名の変遷や継承に関する記録の錯綜は、宇野氏内部の家格や、当時の武家社会における官途名の意味合いを考察する上で、さらなる史料分析の必要性を示唆している。
宇野政頼の名前「政頼」のうち、「政」の一字は、当時の播磨守護であった赤松晴政(あかまつ はるまさ)から偏諱(へんき、名前の一字を与えられること)を受けたものと考えられる 1 。
偏諱の授受は、戦国時代において主君と家臣の間、あるいは有力大名とその影響下にある国人領主の間で結ばれる主従関係や同盟関係を象徴する行為であった。宇野政頼が赤松晴政から「政」の字を拝領したという事実は、彼が当初は赤松氏の被官として、その権威を認め、一定の忠誠を誓っていたことを示す重要な証左と言える。
この偏諱は、宇野政頼と赤松晴政の間に、形式的あるいは実質的な主従関係が存在したことを物語っている。しかしながら、この関係は絶対的なものではなく、後の政頼の行動、すなわち赤松氏からの離反と尼子氏への帰順という選択は、戦国武将が置かれた状況の厳しさと、主家の衰退や新興勢力の台頭といったパワーバランスの変化の中で、いかにして自家の存続を図ろうとしたかという現実的な判断を浮き彫りにする。赤松晴政から偏諱を受けたという事実は、後の離反との間に強いコントラストを生み出し、戦国時代の主従関係が固定的なものではなく、実利と勢力バランスによって流動的に変化するものであったことを示す好例と言えよう。
宇野政頼の活動を理解する上で、彼の本拠地であった長水城と、彼が生きた時代の播磨国の情勢を把握することは極めて重要である。
宇野政頼は、父・村頼と同様に、播磨国宍粟郡広瀬(現在の兵庫県宍粟市山崎町)に位置する長水城を居城とした 1 。長水城は、標高584メートルの長水山の山頂に築かれた典型的な山城であり、長水山城(ちょうずいさんじょう)とも呼ばれる 8 。
長水城の城郭構造は、山頂の最高所に本丸を置き、尾根に沿って南北に二の丸、さらに南の尾根の先端に三の丸が配置されるという、連郭式の縄張りであったと推定される 8 。本丸の主郭部には石垣が築かれており、現在も曲輪、石垣、土塁、堀切などの遺構が良好な状態で残存している 8 。特に、中世の山城としては珍しく高石垣が残っている点は特筆に値し 12 、これが長水城の堅固さを示す証左となっている。
長水城の築城は南北朝時代に遡り、播磨守護であった赤松則祐(あかまつ のりすけ)によって築かれたとされる 8 。その後、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱を経て、城主が宇野氏へと変わった 8 。宇野氏による支配は5代続いたとされ、この間に宇野氏は長水城を本拠として城を拡張し、その勢力を宍粟郡周辺にも広げ、龍野赤松氏と並ぶ地域領主へと成長した 8 。
伝承によれば、宇野氏によって拡張された長水城は、高さ10メートル近くにも及ぶ長大な石垣や、三重の天守なども築かれたとされ、その威容から「雲突城(くもつきじょう)」とも呼ばれたという 10 。この伝承の真偽は定かではないが、宇野氏の勢力が相当なものであり、長水城がその権威を象徴する堅固な城郭であったことを示唆している。長水城が宍粟郡という播磨北西部に位置し、美作国との国境に近いことは、宇野氏の地政学的な役割を考える上で重要である。西播磨における赤松氏の勢力圏の維持、あるいは対外的勢力(尼子氏など)との緩衝地帯としての機能、さらには外部勢力との交渉窓口としての役割も担っていた可能性が考えられる。
宇野政頼が活動した天文年間(1532年~1555年)から弘治年間(1555年~1558年)にかけての播磨国は、守護赤松氏の権威が大きく揺らぎ、内部対立と外部勢力の介入によって極めて不安定な状況にあった。
当時の播磨守護であった赤松晴政は、家臣団の統制に苦慮していた。特に、守護代であった浦上氏の台頭は著しく、晴政は浦上村宗(うらがみ むらむね)を討ち、一時的に勢力を回復しようと試みたものの、その直後に大きな試練に直面する 13 。
浦上村宗の子である浦上政宗(うらがみ まさむね)は、父の死後も赤松家中で影響力を保持し続けた。当初は晴政と激しく対立したが、後述する尼子氏の侵攻という共通の脅威を前に一時的に和睦する。しかし、その後も赤松家中の実権を巡る対立は続き、最終的には浦上政宗が晴政を追放し、その子である赤松義祐(あかまつ よしすけ)を擁立するに至るなど、赤松家中における浦上氏の影響力は決定的なものとなった 15 。
この時期、西隣の出雲国を本拠とする尼子晴久が勢力拡大を目指し、播磨国へ繰り返し侵攻を行った 1 。天文6年(1537年)に始まるこの侵攻は、播磨の国衆に大きな動揺を与え、赤松氏の領国は混乱に陥った。赤松晴政自身も、尼子軍の圧迫により、一時は播磨を追われて淡路、さらには和泉国の堺へと逃亡を余儀なくされる事態となった 13 。
このような混乱した状況下で、宇野政頼は当初、赤松方として活動していたと考えられる。前述の通り、天文11年(1542年)頃に赤松晴政が行ったとされる播磨国揖保郡の広岡城(太田城)攻略に関連する太田の戦いに、父村頼と共に、あるいは父の名代として参加した可能性が、安積文書の記述から示唆されている 1。
しかし、赤松宗家の弱体化、浦上氏のような有力家臣の台頭、そして尼子氏という強大な外部勢力の介入は、宇野政頼を含む播磨の国衆にとって、自らの生き残りをかけた重大な選択を迫られる状況を生み出した。どの勢力に与し、あるいは自立を模索するのかは、それぞれの国衆が置かれた所領の位置、保有する兵力、そして将来に対する展望によって異なった判断がなされたであろう。播磨国内だけでなく、周辺諸国の動向(尼子、毛利、そして後の織田など)が複雑に絡み合う中で、国人領主が生き残るためには、正確な情報収集と巧みな外交戦略が不可欠であった。宇野政頼のその後の行動も、こうした情報戦・外交戦の一環として捉えることができる。
播磨国内の混乱と赤松氏の衰退が進行する中で、宇野政頼は大きな政治的決断を下す。それは、長年の主家であった赤松氏から離反し、当時播磨に勢力を伸長しつつあった尼子晴久に帰順することであった。
宇野政頼が赤松氏から離反し、尼子晴久に味方するようになった正確な時期については諸説あるが、概ね天文20年(1551年)頃と考えられている。この時期、尼子晴久による備前・美作方面への侵攻が激化し、翌天文21年(1552年)には室町幕府が両国の守護職を赤松晴政から取り上げて尼子氏に与えるという事態が発生した 1。これにより、赤松氏の本国である播磨国にも大きな動揺が走り、宇野政頼はこの時期を境に赤松氏と手を切り、尼子晴久に与したとされる(田路文書) 1。また、備前の浦上政宗が赤松晴政に離反して尼子晴久と結んだ動きが播磨にも波及し、この地域を管轄していた宇野政頼も赤松晴政と袂を分かち、尼子氏と結ぶことになったという記述もある 5。尼子方に降った結果、所領を安堵されたとの情報もある(ユーザー情報)。
この決断は、単に強大な勢力に屈したというよりも、赤松氏の衰退と尼子氏の伸長という当時のパワーバランスを冷静に判断し、自家の利益と存続のために主体的に下した戦略的なものであった可能性が高い。戦国時代の「国衆(国人領主)」は、守護大名のような広域支配者とは異なり、在地性の強い領主であった。彼らにとって最も重要なのは自らの所領の維持であり、そのためには主家を変えることも厭わないという行動原理は、宇野政頼の選択にも見て取れる。
尼子方となった宇野政頼は、天文末年から弘治年間(おおよそ1554年~1557年頃)にかけて、かつての主家である赤松晴政に対して積極的に軍事行動を展開した 1 。自ら「広瀬衆」と呼ばれる宇野家の家臣団を率い、晴政の居城である置塩城(おじおじょう)に程近い菅生(すごう、現在の兵庫県姫路市夢前町)まで進出し、出撃してきた赤松晴政・政祐父子と激しい攻防を繰り広げたと記録されている(小南文書・小林文書・嵯峨山文書) 1 。また、弘治2年(1556年)には、赤松晴政が尼子・宇野両勢力の結節点にあたる美作国吉野郡(現在の岡山県北東部)へ兵を送ると、宇野政頼はこれに即座に反応し、赤松方の城砦(城名・所在地ともに未詳)に攻撃を加えている(豊福文書) 1 。
宇野政頼率いる「広瀬衆」の度重なる攻撃と、その神出鬼没な動きに、赤松晴政は大いに手を焼いたとみられている 1 。これは、宇野政頼が単に尼子氏の武力を背景にしただけでなく、彼自身が有能な軍事指揮官であり、在地領主としての地理的知識や動員力を巧みに活用していたことを示唆している。宇野政頼が赤松晴政と直接戦闘を繰り返したことは、播磨国内における紛争が、単なる大名間の代理戦争ではなく、在地領主間の深刻な対立に発展していたことを示している。
尼子晴久に帰順した宇野政頼は、播磨における尼子方の有力な国人として活動することになる。
宇野政頼は、美作国吉野郡など、尼子・宇野の勢力圏において活動したとされている 6 。これは、彼が播磨国内だけでなく、隣接する美作方面においても一定の影響力を行使しうる立場にあったことを示している。
宇野氏のような西播磨の有力国人が尼子方についたことは、播磨国内の勢力図を大きく塗り替える要因となった。これにより、赤松氏の求心力は一層低下し、播磨国は尼子氏、そして後に台頭する毛利氏や織田氏といった外部勢力の草刈り場としての様相を呈していくことになる。
しかしながら、尼子氏との同盟も盤石なものではなかったようである。ある記録によれば、天文22年(1553年)頃には、尼子に与する播磨の地侍(宇野氏ら一党)は、それまでの戦闘による消耗に加え、本国である出雲や美作からの支援が滞り始めたことで、今後の継戦能力に陰りが見え始めていたという 16。頼みとしていた尼子軍主力も、備後方面での戦況が芳しいものではなく、宇野政頼の先見性を疑問視する声も出始めていたとされる 16。これは、尼子氏の勢力にも陰りが見え始めていたこと、そして同盟関係の不安定さを示唆している。
このような状況は、戦国時代の同盟関係が常に流動的であり、一方の勢力の盛衰が他方に直接的な影響を与えるリスクを孕んでいたことを示している。宇野政頼は、尼子氏という強大な後ろ盾を得た一方で、その尼子氏の勢力が減退すれば、自身の立場も再び不安定になるという現実に直面したのである。
それでもなお、宇野政頼は生き残りの道を模索し続けたようである。前述の記録 16 によれば、宇野政頼は京都の公家である山科言継(やましな ときつぐ)卿に使者を送り、その仲介を取り付けることで、西播磨の今後を左右する重要な会議への参加が許されたという。これは、尼子方としての立場が弱体化しつつある中でも、外交努力によって自らの発言力を確保し、生き残りの道を模索し続けていた戦国武将のしたたかさを示していると言えよう。
尼子氏の勢力に陰りが見え始めた後、播磨国はさらに大きな変革の波に洗われることになる。織田信長による天下統一事業の進展と、その命を受けた羽柴秀吉の中国方面への進出である。
天正年間(1573年~1592年)に入ると、尾張国の織田信長が急速に勢力を拡大し、天下統一事業を本格的に推進し始めた。その一環として、中国地方の雄であった毛利氏との対決は避けられないものとなり、信長は家臣である羽柴秀吉を中国方面軍の司令官に任命した。
天正5年(1577年)、羽柴秀吉は織田信長の命を受け、大軍を率いて播磨国に進攻を開始した 2 。これにより、播磨国内の諸大名や国人領主たちは、織田方につくか、それとも西国の雄である毛利方につくかという、重大な選択を迫られることになった 2 。当時の播磨国は、東の織田勢力と西の毛利勢力という二大勢力に挟まれた戦略的要衝であり、各領主は自らの生き残りをかけて複雑な外交交渉や情報収集を行っていた 7 。
この播磨進攻に対し、小寺政職(こでら まさもと)の家臣であった黒田官兵衛(くろだ かんべえ、後の孝高)は、早くから織田信長の才能を高く評価し、主君・政職に織田氏への臣従を進言した 17。結果として、小寺氏や黒田氏などは織田方に属し、秀吉の播磨平定を助けることになる 2。
一方で、宇野政頼は毛利方に組することを選択した 2。宇野政頼の所領である宍粟郡は播磨国の西部に位置し、地理的に毛利氏の影響力が比較的及びやすい地域であった。また、かつて同盟関係にあった尼子氏の残党勢力が毛利氏の庇護下にあったことも、政頼の選択に影響を与えた可能性がある。あるいは、織田氏の急進的な中央集権化政策よりも、毛利氏の比較的緩やかな支配体制の方が、国人領主としての自立性を保てると判断したのかもしれない。
播磨の情勢は非常に流動的であり、天正6年(1578年)には、織田方に属していたはずの摂津国有岡城主・荒木村重(あらき むらしげ)が信長に対して謀反を起こし、これに同調して小寺政職ら一部の播磨の国衆も毛利方につくという動きも見られた 18。このような複雑な状況下で、宇野政頼は毛利方として織田勢力と対峙することになる。
羽柴秀吉による播磨平定が進む中で、宇野政頼は毛利方として最後まで抵抗を試みた主要な勢力の一つであった 12 。
史料によれば、宇野政頼は織田軍から毛利軍へ寝返った、あるいは当初から毛利方に与していたとされている 2 。いずれにせよ、彼は秀吉の播磨侵攻に対して明確な敵対姿勢を示した。
天正8年(1580年)正月、秀吉軍は播磨攻略における最大の難関の一つであった三木城を兵糧攻めの末に陥落させた。そして同年4月、秀吉軍は播磨の西部に位置する宍粟郡へと侵攻し、宇野氏の支配下にある諸城を次々と攻略していった 2 。『信長公記』によれば、秀吉軍は宇野民部(政頼のこととされる)の属城である伊和郷岡城、杉ヶ瀬城、高家郷都多村の城、千草郷黒土の城(家臣・石原右京の居城)などを乗っ取り、250余りを討ち取った後、宇野氏の本城である長水城を包囲したと記録されている 2 。この時、秀吉は宇野政頼・祐清(すけきよ、政頼の子)親子の長水城と、同じく毛利方に属していた三木通秋(みき みちあき)の英賀城(あがじょう)を同時に攻撃対象とした 3 。
長水城に籠城した宇野一族と城兵は、羽柴秀吉の大軍を相手に40日余りにわたって激しい攻防戦を繰り広げたと伝えられている 2。この長期にわたる抵抗は、宇野政頼が単に時流に流されたのではなく、強い意志をもって秀吉軍に立ち向かったことを示している。しかし、長期の籠城は兵の士気を低下させ、内部からの切り崩しを容易にする。伝承によれば、内通者が出るなどして城内に混乱が生じ、最終的に長水城は炎上し、落城した 1。羽柴勢の攻撃により長水城は放火によって陥落し、ここに宇野氏は滅びることになった 19。
長水城攻めに参加した秀吉配下の武将として、蜂須賀正勝(はちすか まさかつ、通称:小六)の名が挙げられている 2。蜂須賀正勝は秀吉の股肱の臣であり 21、このような有力武将が投入されたことは、秀吉が長水城攻略を重要視していたことを示唆している。
勢力 |
主要人物 |
備考 |
宇野方 |
宇野政頼(下総守、民部) |
長水城主。毛利方に属し抵抗。 |
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宇野祐清(政頼の子) |
父と共に籠城、敗走。 |
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宇野祐光(政頼の従弟) |
共に自刃したとされる 2 。 |
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宇野祐政(政頼の従弟、あるいは入道名祐政) |
共に自刃したとされる 2 。『書写山十地坊過去帳』には「宇野下総入道祐政」との記述あり 1 。 |
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石原右京 |
千草郷黒土の城主、宇野氏家臣 2 。 |
羽柴方 |
羽柴秀吉 |
織田信長の家臣、中国方面軍司令官。 |
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蜂須賀正勝(小六) |
秀吉配下の武将。追撃軍を率いたとされる 2 。 |
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木下平太輔 |
秀吉配下の武将。追撃軍を率いたとされる 2 。 |
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(黒田官兵衛) |
直接的な戦闘参加は史料上明確ではないが、秀吉の播磨平定における重要人物であり、宇野氏とは対抗関係にあったとされる 2 。『播磨佐用軍記』では、官兵衛の秀吉への進言で宇野氏討滅が決まったとも伝えられる 2 。 |
この表は、長水城の戦いという宇野政頼の生涯におけるクライマックスにおいて、敵対した双方の主要な登場人物を一覧化することで、戦いの構図を読者が視覚的に理解しやすくすることを意図している。特に宇野一族側の人物を明記することで、一族を挙げた抵抗であったことを強調し、また秀吉軍の主要武将を挙げることで、戦いの規模感や重要性を示すことができる。
長水城の落城は、宇野政頼とその一族にとって決定的な敗北を意味した。しかし、政頼は最後まで抵抗を試み、その最期は悲劇的なものとして伝えられている。
長水城が炎上し、落城した後、宇野政頼と嫡男である祐清らは、わずかな家臣と共に城を脱出し、再起を図るべく美作国(現在の岡山県北部)方面へと逃走した 1。
伝承によれば、彼らが目指したのは美作竹山城主であった新免伊賀守宗貫(しんめん いがのかみ むねつら)の許であったとされる 2。この新免伊賀守宗貫は、宇野政頼の三男であったという説があり 2、また別の史料では、新免氏の初代則重の嫡男・長重が山名氏に滅ぼされた後、遺児の貞重が外戚にあたる宇野氏を頼り、後に宇野氏の養嗣子となって家督を継承し、その後新免氏に名を戻したという経緯が述べられている 6。これらの情報を総合すると、宇野氏と新免氏の間には深い縁戚関係が存在した可能性が高く、政頼が新免氏を頼ろうとした行動の背景には、単なる逃避ではなく、縁者を頼って一族の再起を図ろうとした切実な願いがあったと推測される。
しかし、羽柴秀吉軍の追撃は厳しく、木下平太輔や蜂須賀小六らが率いる追討軍が、政頼一行の跡を執拗に追った 1 。
追撃軍に追いつめられた宇野政頼・祐清父子は、播磨国宍粟郡千種(現在の兵庫県宍粟市千種町)の地で、ついに最期の時を迎えることとなる 1。
具体的な場所は、千種町内の河呂(こうろ)地区にある大森の段(おおもりのだん)と伝えられており、天正8年(1580年)5月9日、政頼以下の一族郎党がこの地で自刃して果てたとされる 2。この時、政頼と共に殉死した家臣は侍分32人、士卒95人に及んだという 2。息子・祐清と共に自刃を選んだこと、そして多くの家臣が殉死したという事実は、宇野一族の強い絆と、捕らえられて恥辱を受けることを潔しとしない武士としての矜持、そして主君と運命を共にする家臣たちの忠義を示している。
この逃走経路や最期の地には、いくつかの悲話が伝えられている。例えば、逃走中に渡ったとされる「紅葉橋(もみじばし)」の伝説や、最期を悟った際に笛石山(ふえいしやま)の猫石(ねこいし)から聞こえてきた笛の音を、既に追手が先回りしたものと誤解し、もはやこれまでと自決を決意したが、実はその笛の音は味方である美作竹山城主・新免伊賀守の一族が、援軍として到着したことを知らせる合図であったという哀しい物語である 2 。これらの伝承は、史実そのものではない可能性もあるが、宇野一族の最期が地域の人々にとって衝撃的な出来事であり、後世まで語り継がれるほど記憶に残ったことを示している。そして、これらの物語は宇野氏に対する同情やその悲劇性を強調し、歴史的事件が人々の心にどのように刻まれていくかを示す好例と言えるだろう。
宇野政頼の法名は、松山専哲居士(しょうざんせんてつこじ)と伝えられている 1。
また、享年については、『三日月町史』などの記録によれば五十八歳であったとされるが、その根拠は不明であるとされている 1。しかしながら、彼の活動期間と照らし合わせると、この享年は矛盾しないとも指摘されている 1。もしこの享年が正しければ、逆算することで政頼の生年を推定することが可能となり、彼が戦国中期の播磨の動乱期において、それぞれの出来事にどのような年齢で直面したのかを具体的に把握することができる。例えば、尼子氏に帰順した時期や、羽柴秀吉と対峙した際の年齢などが明らかになれば、その判断の背景をより深く理解する一助となるであろう。
宇野政頼の実像に迫るためには、彼に関する記述が残る史料や、地域に伝わる伝承を多角的に検討する必要がある。
宇野政頼に関する記述は、同時代の編纂史料や記録、後世の軍記物、そして断片的な古文書などに見られる。
これらの史料を比較検討し、それぞれの特性を理解した上で総合的に判断することが、宇野政頼の実像に迫る上で不可欠である。『信長公記』のような中央の編纂史料と、『書写山十地坊過去帳』のような地方の記録、そして各種古文書や後世の軍記物では、宇野政頼に対する視点や情報量が異なる。これらの異なる種類の史料を組み合わせることで、一方の史料だけでは見えてこない宇野政頼の多面的な姿や、歴史的背景をより深く理解できる。
また、『信長公記』で「宇野民部」と記されている点 2 は、当時の一般的な呼称であった可能性が高い。「下総守」という官途名 1 との関係性や、どちらがより公的な場面で用いられたかなど、さらなる検討の余地がある。
宇野政頼とその一族の最期を偲ぶ史跡として、彼らが自刃した地に建立された供養塔、通称「宇野塚(うのづか)」または「宇野のお塚さん」が存在する。
子息や地域住民によって供養塔が建立され、今日まで維持されてきたという事実は、宇野政頼と一族の悲劇的な最期が、後世の人々に深い印象を与え、その記憶が地域社会の中で大切に継承されてきたことを示している。これは、彼らが単なる歴史上の人物としてではなく、地域の人々によって語り継がれる存在であったことを意味する。真賢法印の伝承 1 は、宇野氏の血脈が途絶えずに続いた可能性を示唆するが、史実としての裏付けはさらに必要である。供養塔の形態や建立時期に関する考古学的・美術史的な調査も、伝承の信憑性を検証する上で有効であろう。
宇野政頼の本拠地であった長水城の跡地もまた、彼の記憶を今に伝える重要な場所となっている。
真徳寺の建立経緯は、宇野氏とその家臣たちの霊を慰め、その記憶を後世に伝えようとする強い意志が、時代を超えて存在したことを示している。お告げという宗教的な動機と、地元住民の協力という地域社会の支えが結びついた結果であり、信仰が歴史的記憶の継承に果たす役割を考える上で興味深い事例である。長水城跡が単なる史跡としてだけでなく、信仰の場、そして宇野氏を偲ぶ場として機能していることは、歴史的遺産が現代社会において持ちうる多層的な意味を示していると言えよう。
宇野政頼の官途名については、いくつかの記録や考察が存在するが、確定的な情報には乏しい面もある。
「下総守」という官途名が広く知られている一方で、一次史料での確認が難しいという指摘 5 は、歴史情報を扱う上での史料批判の重要性を示している。通説や二次史料の記述を鵜呑みにせず、根拠となる一次史料の有無を確認する姿勢が求められる。もし「下総守」が当主の官名でなかった場合、なぜそのように伝えられたのか、あるいは別の「宇野下総守」を名乗る人物が存在したのか、といった新たな問いが生じる可能性がある。
また、5の考察は、宇野氏内部における官途名の継承ルールや、一族内での序列、分家の存在など、宇野氏の家構造に関するより深い理解を促すものである。政頼の父・村頼が「越前守」を名乗り、政頼自身も後に「越前守」を名乗った可能性が示唆されている点は、この考察を深める上で重要な手がかりとなる。
宇野政頼は、播磨の有力国人として、主家である赤松氏の衰退、そして尼子氏、毛利氏、織田氏といった強大な外部勢力が播磨の支配を巡って角逐する激動の時代の中で、一族と所領の存続をかけて苦渋の選択を繰り返した武将であった。赤松氏からの離反と尼子氏への帰順、そして最終的には羽柴秀吉の中国侵攻軍に対する徹底抗戦と、その後の悲劇的な最期は、戦国時代の地方領主が直面した過酷な現実を象徴していると言えよう。
宇野政頼は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人に比べれば、全国的な知名度こそ高くないものの、播磨という特定の地域史において、また戦国期の国人領主の動向を理解する上で、決して無視できない重要な存在である。彼の生涯は、中央の大きな権力構造の変動が、いかに地方の勢力図を塗り替え、個々の武将の運命を左右したかを示す格好の事例と言える。彼の選択と行動は、当時の播磨における政治的・軍事的力学を反映しており、地域史研究において貴重な考察対象となる。
現存する史料は断片的であり、宇野政頼の人物像の全てを明らかにするには限界がある。しかし、これらの史料と後世に伝えられる伝承を丹念に繋ぎ合わせることで、彼の武将としての側面だけでなく、一族の長としての苦悩や、地域社会に記憶される人間的な側面も垣間見ることができる。長水城での籠城戦や、最期の地での自刃といったエピソードは、彼の武士としての矜持と悲壮な覚悟を物語っている。
今後、未発見の史料の出現や、長水城跡をはじめとする関連遺跡の考古学的調査が進展することによって、さらに新たな宇野政頼像が明らかになる可能性も残されている。本報告書が、そうした今後の研究の一助となれば幸いである。