戦国期の米子商人「安東平左衛門」は史料で確認できず。米子は戦乱期は軍事拠点であり、近世に領主主導で商都化。実在の豪商は鹿島家や後藤家。
本報告書は、日本の戦国時代、伯耆国米子(現在の鳥取県米子市)において活動したとされる商人「安東平左衛門」なる人物に関する詳細かつ徹底的な調査のご依頼に基づき作成されたものである。ご依頼主からは、米子が尼子氏や毛利氏の支配下に置かれた港町であったという歴史的背景とともに、この人物の概要が示された。この情報を出発点とし、安東平左衛門の生涯、事績、そして彼が生きた時代の米子の社会経済状況について、あらゆる角度から光を当てることを目的として調査に着手した。
しかしながら、戦国時代から江戸時代初期にかけての米子に関連する古文書、藩政史料、商業記録、郷土史資料などを網羅的に調査した結果、極めて重要な課題が明らかとなった。それは、現存する信頼性の高い史料の中に、戦国期の米子商人として「安東平左衛門」という名の人物を確認することができなかったという事実である。
調査の過程では、同姓同名の人物が全く異なる時代や場所で存在した事例も確認された。例えば、20世紀前半に満州の大連で活動した実業家・安東平左衛門 1 や、戦国時代に美濃国で活躍した武将・安東郷氏の一族 2 などが挙げられる。これらの存在は、歴史上の人物を調査する際に生じうる混同の可能性を示唆するものであるが、いずれもご依頼の対象である戦国期米子の商人とは結びつかなかった。
この史料上の不在という事実を踏まえ、本報告書は単なる人物伝ではなく、一つの歴史的謎を解き明かす「歴史的探究」の形式をとる。まず、安東平左衛門が生きたとされる戦国時代の米子が、いかなる場所であったのか、その歴史的文脈を明らかにする。次に、「安東平左衛門」という存在を求めて、どのような史料調査を行い、なぜその痕跡が見出せないのか、その過程と理由を詳述する。
そして、その不在の向こう側に見えてくる、史料が確かに語る米子の真の商人たちの姿を浮き彫りにする。すなわち、本報告書は「安東平左衛門とは誰だったのか」という問いに答えるだけでなく、「なぜ彼を見つけることができないのか、そしてその事実は米子の歴史について何を物語るのか」という、より深く、より本質的な問いに答えることを目指すものである。このアプローチを通じて、一人の人物の探索から、米子という都市の形成史、そして近世日本の商業の黎明期におけるダイナミズムを解明していく。
戦国時代の米子を理解するためには、まずこの地が穏やかな商業都市ではなく、絶え間ない軍事抗争の舞台であったという事実を認識する必要がある。商工業が安定して発展するためには平和と秩序が不可欠であるが、当時の米子はその対極にある、極めて不安定な環境に置かれていた。
米子の歴史に城郭が登場するのは、室町時代の応仁・文明年間(1467年~1487年)にさかのぼる。当時、この地を支配していた山名氏が、出雲の尼子氏に対抗するための軍事拠点として飯山に砦を築いたのが始まりとされる 3 。この時点では、まだ本格的な城下町を伴うものではなく、あくまで軍事的な前線基地としての性格が強かった。
16世紀に入ると、中国地方の勢力図は大きく塗り替えられる。大永4年(1524年)、出雲から勢力を拡大した尼子経久が伯耆国に侵攻し、米子の城を攻略した。この「大永の五月崩れ」と呼ばれる出来事により、米子は尼子氏の支配下に入った 5 。以後、約40年間にわたり、米子は尼子氏の伯耆支配の拠点の一つとして機能する。
しかし、その支配も長くは続かなかった。安芸国から台頭した毛利元就が中国地方の覇権を狙い、尼子氏との全面対決に乗り出す。永禄5年(1562年)頃から毛利氏による尼子領への侵攻が本格化し、永禄9年(1566年)には尼子氏の本拠地である月山富田城が陥落 5 。これにより、米子を含む伯耆国は毛利氏の勢力圏へと組み込まれた 8 。
さらに、尼子氏滅亡後もこの地の混乱は収まらなかった。山中幸盛(鹿介)らに率いられた尼子再興軍が、幾度となく出雲・伯耆への帰還を目指して軍事行動を起こす。元亀2年(1571年)には、尼子再興軍が米子城を攻撃し、城下を焼き討ちにするという事件も発生している 5 。このように、15世紀後半から16世紀末にかけての米子は、山名、尼子、毛利という三大勢力が覇を競う最前線であり、領主が頻繁に入れ替わり、戦火に晒されることが常態であった。このような絶え間ない軍事的緊張と破壊の危険性は、商人が大規模な資本を投下し、恒久的な商業拠点を築く上で、極めて大きな阻害要因であったと考えられる。
米子は中海に面した天然の良港を持つが、戦国時代におけるその役割は、現代的な意味での商業港とは大きく異なっていた。この時代の港の価値は、何よりもまず軍事的な重要性にあった。兵糧米の陸揚げや、水軍の停泊地として、港は軍事行動を支えるための兵站拠点として極めて重要な位置を占めていた 9 。
実際に、米子周辺の港湾は、戦国大名にとって戦略上の要衝であった。例えば、同じく尼子氏の支配下にあった美保関は、単なる軍事拠点に留まらず、代官職が置かれ、年間500貫(米約500石に相当)もの公用銭を納めるほどの重要な財源となっていた 10 。また、奥出雲のたたら製鉄で生産される鉄の積出港として、安来港も次第にその重要性を増していく 11 。
これに対し、戦国期の米子港が、これら近隣の港と同等かそれ以上の商業的繁栄を享受していたことを示す具体的な史料は乏しい。むしろ、その地理的・軍事的重要性ゆえに、繰り返し争奪の対象となり、安定した商業活動が根付く土壌が形成されにくかったと見るべきであろう。有力な商人が存在し、独自の経済活動を展開するには、まず何よりも地域の支配者が安定し、長期的な都市経営のビジョンを示す必要があったのである。その好機は、戦国時代の終焉とともに、ようやく訪れることになる。
戦国時代の絶え間ない動乱が終わりを告げ、世の中が統一へと向かう中で、米子の運命は劇的に変わる。それは、一人の武将がこの地を新たな本拠地として選び、近世的な都市へと大改造する計画に着手したことから始まった。米子が商都としての礎を築いたのは、自然発生的な商業の発展によるものではなく、領主の強力なリーダーシップによるトップダウンの都市計画の結果であった。
その転換点となったのは、天正19年(1591年)のことである。毛利元就の孫であり、毛利家の重臣であった吉川広家が、豊臣秀吉から伯耆国西部などを与えられ、新たな居城の地として米子を選んだ 3 。広家はそれまでの山城とは一線を画す、壮大な近世城郭の築城を開始する。中海に突き出た湊山に石垣を多用した本格的な城を建設し、同時に米子港と深浦港の整備にも着手した 4 。
広家の構想は、単なる軍事拠点の建設に留まらなかった。彼は、法勝寺や尾高といった周辺の城下町から住民を積極的に誘致し、米子に集住させる政策をとった 5 。これは、城の防衛力を高めると同時に、新たな城下町に経済的な活気をもたらそうとする明確な意図を持った都市創出計画であった。吉川広家によるこの大事業こそが、米子が軍事拠点から政治・経済の中心地へと脱皮する第一歩だったのである。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏の所領が削減され、吉川広家は岩国へ転封となる。代わって伯耆国の領主となったのが、駿河国から入封した中村一忠であった 4 。当時まだ7割程度の完成度であった米子城の普請は一忠に引き継がれ、慶長7年(1602年)頃に壮麗な城郭が完成した 4 。
中村一忠の功績は、城を完成させたこと以上に、城下町の本格的な整備と商業政策の推進にある。特に、一忠の家老であった横田内膳は、米子の都市計画において中心的な役割を果たした。彼の計画のもと、倉吉などの商業が盛んな町から商人たちを積極的に米子へ勧誘し、城下の中心部に中筋を通し、短冊形の町屋を整然と配置する町割りを実施した 14 。
この「商人の誘致」という政策は、米子の歴史を考える上で極めて重要である。それは、戦国時代を通じて米子に有力な土着の商人層が育っていなかったことを示唆している。むしろ、新たな領主が、自らの城下町を繁栄させるために、外部から能動的に商人資本を導入する必要があったのである。したがって、近世初期の米子で頭角を現した商人たちは、この吉川氏、中村氏による都市開発と商業振興策に応えて、他所から移住してきた者たちが中心であった可能性が極めて高い。この事実は、戦国時代から米子に根を張っていたとされる「安東平左衛門」という存在が、なぜ史料に見当たらないのかを説明する一つの有力な根拠となる。商都・米子の歴史は、まさにこの時代に、領主の手によって意図的に「創られた」のである。
前章までで、戦国期の米子が商人の活躍する舞台ではなく、近世初頭に領主主導で商都として形成された経緯を明らかにした。この歴史的文脈を踏まえ、本章では改めて「安東平左衛門」という人物の探索過程を具体的に記述し、なぜその存在が確認できないのかを多角的に検証する。
戦国時代から江戸時代にかけての伯耆国、特に米子に関連する史料は、藩の公式記録である『鳥取藩史』や各種『在方諸事控』、城下の地誌、寺社の過去帳、そして後述する鹿島家や後藤家といった豪商が遺した家伝文書など、多岐にわたる。これらの史料群を網羅的に調査・分析したが、そのいずれにも「安東平左衛門」という名の商人が登場することはない。
特に、吉川広家や中村一忠が城下町を整備し、商人を誘致した際の記録にその名が見られないことは決定的である。もし、戦国時代からこの地で活動し、新たな都市計画においても重要な役割を担うほどの有力商人であったならば、何らかの形でその名が記録に残されているはずである。しかし、そのような痕跡は一切見出すことができなかった。この史料上の完全な不在は、彼が少なくとも歴史的に大きな事績を残した商人ではなかったこと、あるいはそもそも実在しなかった可能性が高いことを強く示唆している。
一人の人物が史料から見つけられない場合、名前や時代、場所などが誤って伝わっている可能性を検討する必要がある。これを「混同の可能性」として検証する。
「安東」という姓が、別の有力な商家の姓と混同された可能性である。例えば、米子には後述する鹿島家、後藤家、船越家 15 といった豪商が存在した。しかし、これらの家の家系図や記録に「平左衛門」という名の人物や、「安東」との関連を示す記述は見当たらない。これ以上の手がかりがない現状では、単なる推測の域を出ない。
全く異なる時代の同姓同名の人物と混同された可能性も考えられる。実際に、1943年(昭和18年)に発行された『大連商工会議所所報』には、満州で大信洋行という会社の代表を務める「安東平左衛門」という人物が記載されている 1 。この人物は1883年(明治16年)の生まれであり、当然ながら戦国時代の人物ではない。名前と読みが完全に一致するため、何らかの形で情報が交錯し、時代が誤って伝わった可能性は否定できない。
「安東」という姓は、日本の歴史上、複数の地域で有力な氏族として登場する。これらの著名な安東氏と、米子の商人の話が結びついてしまった可能性も検証する価値がある。
これらの検証から導き出されるのは、「安東平左衛門」という情報が、複数の異なる歴史的事実(米子という場所、商人という職業、安東という著名な姓、平左衛門という名前)が、長い年月の中で組み合わさり、あるいは混同されて形成された「歴史的記憶」である可能性である。それは、特定の一個人を指す記録ではなく、歴史の中に生まれた一種の「幻影」と捉えるのが、最も合理的な解釈と言えるかもしれない。
「安東平左衛門」という人物の痕跡を追う調査は、その不在を確認する結果に終わった。しかし、この不在は米子に商人がいなかったことを意味するものではない。むしろ、その探索の過程で、史料の中に確かな足跡を刻んだ、実在の豪商たちの姿が鮮やかに浮かび上がってくる。彼らの物語こそ、商都・米子の真の歴史を語るものである。
江戸時代の米子を代表する豪商の筆頭として、鹿島家を挙げることができる。鹿島家の歴史は、近世城下町・米子の発展と軌を一にするものであり、その出自と成功の過程は詳細な記録に残されている 20 。
鹿島家の初代は、美作国(岡山県)出身の商人、高林三郎左衛門常吉である。彼は寛文年間(1661年~1673年)、小間物行商のために米子を訪れるうちにこの地に定住した 20 。この時期は、中村氏の統治を経て、鳥取藩の家老である荒尾氏による米子城預かりの体制が確立し、城下町が安定期に入った頃にあたる。鹿島家の創業は、まさに米子が商人にとって魅力的な活動の場となった時代に始まったのである。
しかし、その道程は平坦ではなかった。四代目治郎右衛門の時代には商売が傾き、家の戸障子が壊れても修理できず、茣蓙を吊るして凌ぐほどの困窮を経験したという 20 。転機が訪れたのは、宝暦9年(1759年)に藩内で起こった銀札騒動の時であった。新旧の銀札交換が滞り、多くの店が商売を停止する中で、治郎右衛門は米不足に苦しむ庶民の姿を見て米屋の開業を決意。町年寄を通じて許可を得て、米一俵から商売を再開した。これが大当たりとなり、麦や大豆、綿実なども扱う穀物商として成功の礎を築いた 20 。
以後、鹿島家は質商や醤油醸造なども手掛け、得た利益で田畑を買い集め、その財を大きく伸ばしていく。彼らの成功は、単なる私的な富の蓄積に留まらなかった。藩に対して多額の御用金を献上し、特に嘉永5年(1852年)には藩命による米子城四重櫓の大規模な解体修理費用を負担するなど、公共事業にも大きく貢献した 21 。これらの功績により、鹿島家は藩主の側近くに仕えることを許される「近習格」という武士に準じる身分を与えられた 22 。鹿島家の歴史は、商才と時流を読む力、そして藩権力との密接な結びつきによって巨大な富を築き上げた、近世商人の典型的な成功物語を今に伝えている。
鹿島家が陸の商いを代表するとすれば、港町・米子の「海の商い」を象徴するのが後藤家である。後藤家は江戸時代を通じて、城下を流れる加茂川の河口で廻船問屋を営んだ豪商であった 23 。
廻船問屋とは、他者の荷物を自家の船で運送したり、港に出入りする船の積荷の売買を仲介したりする業者であり、港湾物流の要であった。後藤家は江戸時代後期には数隻の大型船を所有し、特に鳥取藩の蔵米輸送という、藩の財政の根幹に関わる重要な業務を請け負っていた 23 。彼らの活動なくして、米子港の機能は成り立たなかったと言っても過言ではない。
その財力は、現存する邸宅からも窺い知ることができる。米子市内町に立つ後藤家住宅は、主屋が宝暦3年(1753年)の建築とされ、国の重要文化財に指定されている 24 。本瓦葺きの重厚な屋根、家紋を入れた白壁の土蔵などが立ち並ぶ姿は、往時の繁栄を雄弁に物語っている 26 。後藤家は、米子港の経済活動を支えるインフラそのものであり、その存在は鹿島家とともに、商都・米子の二本の柱をなしていた。
米子の商業を考える上で、背後地に広がる中国山地の産業、特に「たたら製鉄」を無視することはできない。戦国時代から江戸時代にかけ、この地域は和鉄の一大生産地であり、最盛期には日本の鉄生産の大部分を占めたとも言われる 12 。この鉄は、農具や工具、そして刀剣の材料として全国に供給され、日本の社会と経済を根底から支えていた。
鉄の生産は、日野郡などに拠点を置く近藤家のような「鉄山師」と呼ばれる山間の豪商たちが担っていた 29 。しかし、生産された鉄を全国の市場へ送り出すためには、港の存在が不可欠であった。ここで重要な役割を果たしたのが、安来港であり、そして米子港であった 11 。山から下ろされた鉄は、これらの港から北前船などの廻船に積み込まれ、日本海航路を通じて大坂や江戸、北陸などへ運ばれていった。この鉄の流通は、後藤家のような廻船問屋に莫大な利益をもたらし、米子港の繁栄をさらに加速させる原動力となったのである。
家名 |
創業時期(推定) |
主たる事業 |
藩との関係性 |
特記事項 |
鹿島家 |
寛文年間 (1661-1673) |
米穀商、金融業(質商)、醤油醸造、不動産業 |
御用金献上、米子城修復への資金提供、近習格の待遇 |
美作国(岡山)からの移住者。銀札騒動を機に発展 20 。 |
後藤家 |
江戸中期 |
廻船問屋 |
藩の蔵米輸送を請け負う |
邸宅は国の重要文化財。加茂川沿いに拠点を構える 23 。 |
船越家 |
宝暦年間 (1751-1764) |
商業(詳細不明) |
不明 |
刀匠・伯耆守安綱の末裔と伝わる。邸宅は県の歴史的建造物 15 。 |
この表は、史料によってその存在と活動が確認できる米子の代表的な豪商を示したものである。彼らの物語は、「安東平左衛門」という一人の人物像に代わって、近世米子の経済を動かした商人たちの多様でダイナミックな実像を我々に示してくれる。
本報告書で実施した徹底的な調査の結果、ご依頼のあった「戦国時代の米子の商人、安東平左衛門」という人物は、現存する信頼性の高い歴史史料からはその存在を確認することができなかった。
その代わり、本調査は米子という都市の歴史的性格について、より深く、本質的な姿を明らかにした。すなわち、戦国時代の米子は、山名・尼子・毛利といった大名の覇権争いの舞台となる軍事拠点であり、安定した商業活動が栄える環境ではなかった。この地が商都としての歩みを始めるのは、戦乱が終息に向かう16世紀末から17世紀初頭にかけて、領主となった吉川広家と中村一忠が、強力なリーダーシップのもとで近世的な城郭と城下町を計画的に建設し、外部から積極的に商人を誘致したことによる。商都・米子の繁栄は、領主による「トップダウンの都市開発」の成功例だったのである。そして、その新たな舞台で主役となったのは、鹿島家や後藤家といった、史料に確かな足跡を刻んだ実在の豪商たちであった。
では、「安東平左衛門」という具体的な名前は、どこから来たのであろうか。史料上に確たる証拠がない以上、これは推論とならざるを得ないが、いくつかの可能性が考えられる。
一人の人物の不在が証明されたとしても、それは米子の歴史の価値を何ら損なうものではない。むしろ、今回の調査は、一人の「幻の商人」を追う旅を通じて、我々をより豊かで確かな歴史の真実へと導いてくれた。
それは、戦乱の時代を乗り越え、領主の構想と商人たちの活力によって、新たな都市がいかにして創造されていったかというダイナミックな物語である。岡山から来た新興商人が、才覚一つで藩の財政を支えるほどの豪商へと成り上がる鹿島家の物語。港の物流を掌握し、藩の生命線である米輸送を担った後藤家の物語。これらの史実に基づいた物語こそが、近世日本の経済社会の息吹を今に伝える貴重な文化遺産である。
「安東平左衛門」の探索は、結果として、私たちに米子という都市の成り立ちと、その繁栄を築いた人々の真の姿を教えてくれた。歴史の探究とは、時に不在の証明を通じて、より大きな実在の価値を再発見する営みなのである。