最終更新日 2025-06-07

安楽兼寛

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戦国武将 安楽兼寛に関する調査報告

1. はじめに

本報告書は、日本の戦国時代、大隅国(現在の鹿児島県東部)において活動した武将、安楽兼寛(あんらくかねひろ)について、現存する史料に基づき、その生涯、特に彼が城主として指揮した牛根城(うしねじょう、別名:入船城(いりふねじょう))における島津軍との籠城戦を中心に、その背景、経緯、結果、そして彼とその一族のその後を詳細に明らかにすることを目的とする。

安楽兼寛は、肝付氏の家臣であり、入船城主として島津義久軍の攻撃に対し、主家からの援軍がないまま1年3ヶ月に及ぶ籠城戦を戦い抜き、最終的に降伏したと伝えられている。この情報は、彼の武将としての tenacious な抵抗と、戦国時代の地方勢力が置かれた厳しい状況を端的に示している。本報告では、これらの情報を出発点とし、安楽兼寛という人物の具体的な歴史像、彼が守った牛根城の戦略的価値、島津氏との戦いの実像、そして降伏後の彼と彼の一族が辿った運命について、多角的に掘り下げていく。

調査の範囲は、安楽兼寛個人に加え、彼が属した肝付氏、対峙した島津氏、戦いの舞台となった牛根城、そして彼の子孫の動向に及ぶ。安楽兼寛は、戦国時代における典型的な「国衆(くにしゅう)」あるいはその有力家臣と位置づけられ、大勢力間の争いに翻弄されつつも、武士としての矜持と一族の存続をかけて戦った人物像が浮かび上がってくる。特に「1年3ヶ月」とされる籠城期間は、当時の攻城戦としては比較的長期にわたり、牛根城の戦略的重要性、安楽兼寛の指揮能力、そして島津軍による攻略の困難さを示唆していると考えられる。本報告は、これらの点について、史料に基づいた客観的な記述を心がけるものである。

2. 安楽兼寛の出自と時代背景

安楽兼寛の生涯を理解するためには、まず彼が属した安楽氏と主家である肝付氏の関係、そして彼が生きた戦国時代の大隅国における島津氏の台頭という時代状況を把握する必要がある。

2.1. 安楽氏と肝付氏

安楽氏は、大隅国の有力国人であった肝付氏の分家筋にあたる一族である 1 。系図によれば、肝付氏の祖である伴兼貞(ばんのかねさだ)の子孫が薩摩、大隅、日向の三国に広がり、その中で肝付兼俊が肝付氏を称したのに対し、その弟たちの子孫がそれぞれ萩原氏、安楽氏、和泉氏、梅北氏などの祖となったとされている 2 。この出自は、安楽兼寛が単なる雇われ城主ではなく、肝付宗家と血縁的にも強い結びつきを持ち、一門衆として防衛の重責を担っていたことを意味する。主家への忠誠心や一族としての連帯感が、彼の行動原理の根底にあったと推察される。

肝付氏の本姓は伴氏であり、平安時代に薩摩掾(さつまのじょう)として下向した伴兼行を祖とし、大隅国肝属郡を本拠とした旧来の有力氏族であった 3 。戦国期には大隅国の戦国大名として、隣接する島津氏と熾烈な勢力争いを繰り広げた 3

安楽兼寛は、史料において「安楽備前守兼寛」としてその名が見える 1 。この「備前守(びぜんのかみ)」という官途名は、当時の武士が任官される、あるいは自称する官職名であり、安楽氏が肝付家中で一定の地位を占めていたことを示唆している。戦国時代において官途名は実態と乖離することも少なくないが、それでもなお、対外的な権威や家格を示す一定の指標として機能していた。

2.2. 島津氏の台頭と大隅侵攻

安楽兼寛が生きた16世紀後半は、島津氏が薩摩・大隅・日向のいわゆる三州統一を目指し、急速に勢力を拡大していた時期にあたる 4 。島津氏は、天文23年(1554年)の大隅国岩剣城(いわつるぎじょう)の合戦以降、本格的に大隅・日向への勢力拡大を図り、現地の渋谷氏や肝付氏といった国人領主たちと激しい抗争を繰り返していた 5

この島津氏の拡大戦略において、肝付氏は最大の抵抗勢力の一つであった 3 。肝付氏は、一時は島津氏を圧倒する勢いを見せたものの、永禄9年(1566年)の当主肝付兼続(きもつきかねつぐ)の死後、次第にその勢力を弱めていく 3 。安楽兼寛が城主を務めた牛根城は、まさにこの島津氏による大隅侵攻の最前線に位置し、肝付氏の防衛網における極めて重要な拠点であった 4

したがって、安楽兼寛の戦いは、単なる局地的な戦闘ではなく、島津氏による大隅統一事業という大きな歴史的文脈の中に位置づけられる。彼の抵抗は、強大な島津氏の進撃を一定期間食い止める役割を果たしたと考えられる。しかし、同時に、主家である肝付氏の勢力衰退と内紛は、前線で戦う安楽兼寛の運命にも深刻な影響を及ぼすこととなる。ユーザー情報にある「主家から援軍は来ず」という状況は、まさにこの肝付本家の弱体化と深く関連していると推測されるのである。

3. 牛根城(入船城)の戦略的重要性

安楽兼寛が守った牛根城は、複数の史料で「入船城」あるいは「松ヶ崎城(まつがさきじょう)」とも呼ばれている 4 。この城の地理的条件と構造は、戦国時代の大隅半島における軍事戦略上、極めて重要な意味を持っていた。

3.1. 地理的条件と城郭構造

牛根城は、現在の鹿児島県垂水市牛根地区に位置し、鶴岳(つるだけ)を頂点とする鹿倉峠(かくらとうげ)と、約300メートル離れた早崎台地(はやさきだいち)に挟まれ、深く切り込んだ瀬戸海峡(現在の錦江湾の一部)に面した天然の要害であった 4 。当時の瀬戸海峡は急流であり、早崎台からの展望は雄大で、この城塁から監視すれば「島津方の軍船を一隻たりとも海上より見逃すことはできない、いわば天然の要衝」と評されるほどであった 4 。この記述は、牛根城が単に陸上の防御拠点としてだけでなく、海上交通の監視と制圧、さらには制海権の確保という観点からも重要であったことを強く示唆している。物資の補給や海上勢力との連携といった戦略的選択肢にも影響を与えた可能性が考えられる。

その戦略的重要性から、「早崎台と入船城を智勇に優れた将が守れば盤石であり、島津家にとっては難攻不落の地」とまで称された 4 。城の具体的な縄張りや構造に関する詳細な記録は乏しいものの、「山城」であったとされ 4 、地形を巧みに利用した堅固な防御施設が構築されていたと推測される。築城年代は明確ではないが、南北朝時代には既に牛根兵衛五郎道網(みちつな)が居城し、その後、池袋氏や本田薫親(ほんだしげちか)が城主を務め、最終的に肝付兼続が安楽兼寛に守らせたとされる 6

このように「難攻不落」とされた牛根城が最終的に落城したという事実は、単に城の物理的な堅牢さだけでなく、兵力差、兵站の断絶、そして何よりも援軍の欠如といった、城郭構造以外の要因がいかに戦局を左右したかを物語っている。

4. 牛根城籠城戦の実像

牛根城をめぐる安楽兼寛と島津軍の戦いは、戦国末期の大隅における島津氏の勢力拡大を象徴する激戦の一つであった。

4.1. 開戦から籠城へ

島津氏による三州統一の動きが本格化する中で、大隅における肝付氏や伊地知氏(いじちし)との対立は先鋭化していった。永禄4年(1561年)頃から島津貴久(しまづたかひさ)を総大将とする島津軍と、肝付・伊地知連合軍との間で戦闘が始まった 4 。貴久の子・義久(よしひさ)が家督を継いだ後もこの方針は継続され、元亀2年(1571年)以降、大隅・日向方面で攻勢を強めていく 5

牛根城が直接的な戦火に巻き込まれるのは、元亀3年(1572年)頃からである。この年、牛根城と連携する重要拠点であった早崎台で激しい争奪戦が繰り広げられた 4 。島津歳久(しまづとしひさ、義久の弟)の奇襲により早崎台が陥落すると、牛根城はより一層厳しい状況に置かれたと考えられる。安楽兼寛は、この早崎台と連携しつつ島津軍の侵攻に抵抗したが、ここから天正2年(1574年)1月までの約1年半にわたり、牛根城を舞台とした激しい攻防戦が続くこととなる 8

島津軍は、当主である島津義久自らが指揮を執り、その配下には伊集院忠棟(いじゅういんただむね)や新納忠元(にいろただもと)といった重臣たちが名を連ねていた 7 。これらの有力武将を投入していることからも、島津氏が牛根城攻略を極めて重要視していたことがうかがえる。

4.2. 籠城戦の期間と戦いの様相

牛根城における籠城戦の期間については、複数の史料や情報が若干異なるニュアンスで伝えている。ユーザー提供情報では「1年3ヶ月」とされている。一方、垂水市関連の資料では、元亀3年(1572年)から天正2年(1574年)1月まで安楽兼寛が島津軍と激突したとあり、これは約1年半に及ぶ 8 。『大日本史料』に引用される記録などでも、天正2年1月の降伏が確認できる 10 。また、新納忠元の事績を記す史料には「1年以上籠城を続ける肝付兼亮の家臣・安楽兼寛」という記述も見られる 11 。これらを総合すると、牛根城をめぐる広義の戦闘状態は1年以上に及び、特に最後の数ヶ月間が熾烈な籠城戦となったと解釈するのが妥当であろう。

この戦いの激しさについては、後世に生々しい伝承が残されている。「天正二年の安楽備前守と島津義久の戦いでの戦死者の首を竿に吊るしたら、八百八竿あった」という言い伝えがそれである 4 。この「八百八竿」という数字は、文字通りの数と解釈するよりも、戦闘の凄惨さと犠牲者の多さを象徴的に表現したものと考えられるが、それほどまでに激しい戦いであったことの記憶が地元に強く残っている証左と言える。この伝承は、島津軍が敵対勢力に対して見せしめ的な意味合いも込めて徹底的な攻撃を行った可能性、あるいは他の抵抗勢力に対する心理的効果を狙った側面があったことも示唆しているかもしれない。

安楽兼寛は、天然の要害である牛根城の地理的利点と、「山城の堅牢さを盾によく防ぎ」 7 、徹底した防衛戦術を展開した。これにより、島津軍の攻撃を長期間にわたり凌ぎ続けることができた。一方の島津軍は、牛根城を包囲し 7 、力攻めだけでなく、兵糧攻めや持久戦術も併用した可能性が高い。堅城に対する力攻めは攻め手にも大きな損害をもたらすため、長期戦においては兵站の維持と敵の補給路の遮断が重要となる。1年以上にわたる抵抗は、城方が一定の兵糧と士気を維持し、かつ島津方も決定打を欠いた状況が続いていたことを示唆している。

4.3. 援軍なき戦いと降伏

安楽兼寛と牛根城の将兵が長期間にわたり奮戦したにもかかわらず、最終的に降伏に至った最大の要因は、主家である肝付氏からの援軍が絶望的であったことである。ユーザー情報が示す通り「主家から援軍は来ず」、牛根城は孤立無援の戦いを強いられた。

この時期、肝付本家は深刻な内紛と弱体化に見舞われていた。当主であった肝付兼亮(きもつきかねあき)は、島津氏への徹底抗戦を主張したが、親島津派の家臣団や義母である御南(島津貴久の姉)らによってその方針を反対され、天正元年(1573年)には当主の座を追放されてしまう 3 。そして翌天正2年(1574年)には、新たな当主のもとで肝付氏は島津氏に従属することになる 3 。このような主家の混乱と弱体化が、最前線で戦う牛根城への支援を不可能にした直接的な原因であったと考えられる。孤立無援の状態では、いかに堅城であっても、また将兵がいかに勇猛であっても、長期の抵抗には限界があった。

追い詰められた安楽兼寛は、天正2年(1574年)1月に島津軍に降伏し、牛根城を開城した 1 。『大日本史料』第十編之二十には、天正2年1月19日付の記録として、「島津忠長(しまづただなが)等が、肝属兼亮の将安楽兼寛を大隅牛根城に降したことにより、島津氏と肝属氏・伊地知氏との和睦の成立をみた」と明確に記されている 10 。この記述は、牛根城の戦いが単に一城の攻防に留まらず、大隅半島における島津氏の覇権確立と、それに対する主要な抵抗勢力であった肝付氏・伊地知氏との間の和平交渉に直結する重要な出来事であったことを示している。

この降伏交渉において重要な役割を果たしたのが、島津方の武将・新納忠元であった 9 。新納忠元は、自ら人質交換の申し出を行い、安楽氏のもとへ赴いて島津氏への帰順を促したとされる 9 。ある記録(小説)では、忠元の嫡男である新納忠堯(にいろただたか)と安楽兼寛自身との人質交換が条件として提示されたと描かれている 7 。武力で圧倒できる状況下にあっても、相手の武士としての体面を保たせることで降伏を受け入れさせ、その後の支配を円滑に進めようとする島津氏の戦略の一端が垣間見える。これはまた、智勇兼備の武将として知られる新納忠元の交渉手腕を示す逸話とも言えよう 14

表1:安楽兼寛と牛根城籠城戦関連年表

年月

出来事

主な関連人物

典拠(史料ID)

永禄4年(1561)

島津氏、肝付・伊地知連合軍との本格的抗争開始

島津貴久、肝付兼続

4

元亀2年(1571)

島津貴久死去、義久が家督相続

島津義久

4

元亀3年(1572)

早崎台の争奪戦。牛根城をめぐる本格的戦闘開始

安楽兼寛、島津歳久

4

天正元年(1573)

肝付兼亮、家臣団により追放

肝付兼亮

3

天正元年12月24日

(小説情報)島津軍、牛根城を包囲

伊集院忠棟、新納忠元

7

天正2年(1574)1月

安楽兼寛、島津軍に降伏。牛根城開城。島津氏と肝付氏・伊地知氏の和睦成立。

安楽兼寛、島津義久、新納忠元

1

この年表は、牛根城の戦いが長期にわたるものであったこと、そして肝付氏内部の動向や島津氏の戦略が複雑に絡み合っていたことを示している。

5. 降伏後の安楽兼寛とその一族

牛根城の開城後、安楽兼寛自身、そして彼の一族がどのような道を歩んだのかは、戦国時代の敗将とその家族の運命を考える上で興味深い事例を提供する。

5.1. 安楽兼寛の処遇とその後

降伏後の安楽兼寛自身の具体的な処遇、例えば島津氏に仕官したのか、あるいは隠棲したのかといった詳細については、残念ながら直接的に明らかにする史料は乏しい。しかし、注目すべき記述として、「安楽備前守夫婦の墓は、入船城大手の下の堀之内に残っています」というものがある 4 。この事実は、彼が処刑されたり遠方に追放されたりすることなく、少なくともその旧領近くで生涯を終えたか、あるいは手厚く葬られた可能性を示唆している。敵将であったとはいえ、その武勇や家柄を尊重し、降伏条件として身の安全が保障された結果かもしれない。これは、戦国時代に見られた一定の価値観や、島津氏による統治戦略の一環であったとも考えられる。

牛根城については、安楽兼寛からの明け渡しを受けた島津義久が、直ちに重臣である伊集院久通(いじゅういんひさみち、魯笑斉(ろしょうさい)とも)を地頭として派遣し、この地を治めさせた 4 。これは、戦略的要衝であった牛根を確実に掌握し、島津氏の支配体制を迅速に確立するための措置であった。

5.2. 子・安楽兼致(かねむね)の活躍

安楽兼寛の降伏は、必ずしも一族の終わりを意味しなかった。彼の息子である安楽兼致は、父の降伏後、島津氏の家臣となり、後に新城島津家(しんじょうしまづけ)の家老という重要な役に就いている 1 。新城島津家は、島津義久の娘である新城(島津彰久室)とその子・島津久信(しまづひさのぶ)に連なる家系であり、島津本家と密接な関係を持つ有力な分家であった 18

敵対した武将の子息が、勝利した側の、しかも有力な分家の家老という重職に登用されることは、注目に値する。これは、兼致個人の能力が高く評価された可能性、あるいは安楽家が旧領において一定の影響力を保持しており、それを取り込むことが島津氏の支配安定に資すると判断された可能性などが考えられる。戦国時代から近世初頭にかけての武家社会では、旧敵対勢力であっても有能な人材を登用したり、その勢力を巧みに取り込んだりすることで、支配体制を強化しようとする動きが見られた。安楽兼致の事例は、安楽家が単に命脈を保っただけでなく、薩摩藩体制下で一定の地位を回復し、新たな支配構造の中に組み込まれていったことを示している。

5.3. 孫・呉鑑(国一どん)の信仰と地域への影響

安楽兼寛の孫、すなわち兼致の二男にあたる呉鑑(ごかん)は、武士の道ではなく仏門に入り、玉照寺(ぎょくしょうじ)の僧侶となった 1 。呉鑑和尚は、その学識の深さと人徳の高さから、地域住民から篤い信仰と敬愛を集め、「国一どん(くにいちどん)」、すなわち「国で一番優れた人」と尊称されるようになった 1 。記録によれば、彼は「学問を好み、高徳で博愛の精神に富み、頭も良く庶民を善導したため、人々から尊敬されました」と伝えられている 1

武家の家系から高僧が輩出されることは決して珍しいことではないが、呉鑑が「国一どん」として民衆から深く敬愛されたという事実は、安楽家が武力による貢献だけでなく、信仰や文化の面でも地域社会に影響を与える存在へと変容していったことを示している。これは、戦国武将の子孫が、時代の変化の中で生き残り、社会に貢献していくための一つの道筋と言えるだろう。祖父・兼寛が武勇によってその名を刻んだのに対し、孫の呉鑑は徳行によって人々の記憶に残り、地域社会の精神的な支柱となったのである。

国一どんの墓とされる宝篋印塔(ほうきょういんとう)は現存し、現在も地域の人々や関係者によって大切に守られている 1 。このことは、呉鑑の人徳が後世に長く語り継がれ、地域コミュニティの結束やアイデンティティ形成に寄与してきた可能性を示している。

6. 安楽兼寛に関する史料と後世の評価

安楽兼寛という武将の姿を現代に伝える史料は限られているが、その中から彼の事績と後世における評価の断片を拾い上げることができる。

6.1. 主要史料における記述

安楽兼寛に関する最も重要な史料の一つは、日本の基本史料集である『大日本史料』である。その第十編之二十には、天正2年(1574年)1月19日の条として、島津忠長らが肝付兼亮の将であった安楽兼寛を大隅牛根城で降伏させ、この結果として島津氏と肝付氏・伊地知氏との間に和睦が成立した旨が記載されている 10 。この記録は、安楽兼寛の降伏という出来事が、単なる一地方の戦闘の終結に留まらず、より広範な政治的影響力を持った重要な事件として、中央の史料編纂事業においても認識されていたことを示している。これは、彼の戦いが島津氏の三州統一という大きな歴史的画期に関わるものであったと評価されていることの証左と言えよう。

また、地域史料に目を向けると、垂水市に残る記録として「天正2年安楽兼寛より城の明け渡しを受けた島津16代義久は部下の伊集院久道を地頭に置き、島津家の氏神・稲荷神社を創建しました」という記述が見られる 13 。これは、安楽兼寛の時代の出来事が、その後の地域の統治体制や宗教施設のあり方にも直接的な変化をもたらしたことを具体的に示しており、歴史的事件が地域レベルでどのように受容され、記憶されたかを示す一例である。

一方で、『島津国史』 20 や『本藩人物誌』 22 、『三州御治世要覧』 8 といった薩摩藩編纂の主要な史書や人物誌においては、現在のところ安楽兼寛に直接言及する詳細な記述は見当たらない。しかし、これらの史料は、当時の島津氏や肝付氏の動向、大隅地方の情勢を理解する上で、貴重な背景情報を提供してくれる。

6.2. 地域伝承と記憶

公式な記録に残る安楽兼寛の姿は断片的であるが、彼とその時代を物語る伝承や史跡は、地域において今なお生き続けている。

前述の通り、安楽備前守兼寛とその妻の墓とされるものが、旧入船城の大手口下にある堀之内に残されていると伝えられている 4 。また、牛根城の戦いの激しさを物語るものとして、「笠仏首塚(かさぶとけくびづか)」または「六地蔵」と呼ばれる供養塔の伝承がある 4 。これは、牛根城の戦いで出た夥しい数の戦死者(「八百八竿の首」の伝承)を供養するために建立されたとされ、文政2年(1819年)には六地蔵塔が建てられたという 4 。これらの塚や墓といった物理的な「記憶の場」の存在は、安楽兼寛とその時代の出来事が、単なる歴史的記述を超えて、地域の伝承やアイデンティティの一部として継承されていることを示している。

さらに、安楽兼寛の孫にあたる国一どん(呉鑑)の墓と、彼の人徳を偲ぶ顕彰活動が現代に至るまで続いていることは特筆に値する 1 。安楽兼寛自身に関する伝承よりも、孫の国一どんに関する伝承の方が、より具体的かつ肯定的な形で地域に残っているように見受けられる。これは、戦乱の時代の武功よりも、平和な時代における徳行の方が、地域社会においてより長く、より身近な記憶として語り継がれやすい傾向を示すのかもしれない。

7. 結論

本報告では、戦国時代の武将・安楽兼寛について、現存する史料と伝承を基に、その生涯と彼が関わった牛根城籠城戦の実像、そして彼の一族のその後を明らかにしてきた。

安楽兼寛は、大隅国の有力国人・肝付氏の分家筋として、主家の命運を賭けた島津氏との抗争の最前線である牛根城(入船城)の守将を務めた。天然の要害と称された牛根城に拠り、1年以上に及ぶ長期間の籠城戦を戦い抜いたその指揮ぶりは、武将としての高い能力と不屈の精神を示すものであった。しかし、主家である肝付氏の内紛と弱体化により援軍の望みが絶たれ、天正2年(1574年)1月、ついに島津軍に降伏した。この降伏は、単に一城の陥落に終わらず、『大日本史料』にも記録されるように、島津氏と肝付氏・伊地知氏との間の和睦成立に繋がるなど、大隅地方の勢力図に大きな影響を与えた。彼の戦いは、島津氏による大隅統一という大きな歴史の流れの中で、その進撃を一時的にでも遅滞させ、あるいはその後の和平交渉のきっかけを作った可能性も否定できない。

安楽兼寛自身の降伏後の詳細な動向は不明な点が多いものの、その子・兼致が島津氏の有力分家である新城島津家の家老となり、孫の呉鑑(国一どん)が徳の高い僧侶として地域住民から深く敬愛された事実は、戦国時代の敗者が必ずしも滅亡の道を辿るのではなく、新たな支配体制の中で形を変えて存続し、時には武力とは異なる形で地域社会に貢献していく様を示す興味深い事例である。これは、戦国武士が直面した「武」の追求と「家」の維持という二つの側面を象徴しており、安楽一族の歴史は、単なる英雄譚や悲劇ではなく、戦国武士の現実的な生き残り戦略の一端を示していると言えよう。

安楽兼寛の生き様は、忠誠、武勇、そして孤立無援の中で下した降伏という現実的な判断など、戦国武将が直面した複雑な状況下でのリーダーシップや決断のあり方について、現代に生きる我々にも多くの示唆を与える。彼の物語は、ミクロな視点(一武将の奮闘)とマクロな視点(島津氏の領土拡大と戦国大名間の勢力争い)とを結びつける結節点として捉えることができ、歴史における個人の役割と構造的な変化の相互作用を考える上で貴重な素材を提供する。

史料の性質(公式記録、軍記物的記述、地方伝承など)による情報の差異を認識し、それらを批判的に検討することで、より多角的で深みのある歴史像を構築することの重要性も改めて確認された。「八百八竿の首」のような伝承は、その数字の正確性よりも、それが何を伝えようとしているのか(戦いの激しさ、恐怖、記憶のあり方)を読み解くことが肝要である。

今後の研究への展望としては、安楽氏に関する未発見の地方史料(古文書、系図、寺社縁起など)のさらなる探索や、同様の状況にあった他の国衆・家臣団の事例との比較研究を進めることで、戦国時代における地方勢力の動態や、大名支配体制への編入過程について、より詳細な理解が得られることが期待される。

引用文献

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  23. 半田喜作 - 藩主板倉勝明と新島七五三太 かつぁきら - 同志社大学 https://www.doshisha.ac.jp/attach/page/OFFICIAL-PAGE-JA-320/140118/file/92PoepleAroundJo.pdf
  24. 三州御治世要覧 - 鹿児島県 https://www2.library.pref.kagoshima.jp/honkan/files/2017/03/%E7%AC%AC25%E9%9B%86_%E4%B8%89%E5%B7%9E%E5%BE%A1%E6%B2%BB%E4%B8%96%E8%A6%81%E8%A6%A7.pdf