戦国時代の終焉から江戸時代初期という、日本史の大きな転換点を生きた武将、宍戸元続(ししど もとつぐ)。彼は、毛利元就の孫娘を祖母に持ち、主君・毛利輝元とは従兄弟という極めて近い血縁関係にあった 1 。その生涯は、単なる勇猛な武将として語られるにとどまらない。主家の存亡をかけた重要な局面において、冷静な政治判断と、時には非情ともいえる大胆な謀略を駆使した忠臣としての側面が色濃く浮かび上がる。彼の人生は、西国に覇を唱えた大大名であった毛利氏が、いかにして近世大名・長州藩として激動の時代を生き残ったかを映し出す鏡である。本稿では、一次史料と二次史料を駆使し、武人として、そして政治家としての宍戸元続の実像に多角的に迫る。
年代(和暦) |
年齢 |
出来事 |
永禄6年(1563) |
1歳 |
宍戸元秀の子として安芸国に生誕 1 。 |
天正6年(1578) |
16歳 |
織田氏との上月城の戦いにおいて初陣を飾る 1 。 |
文禄2年(1593) |
31歳 |
祖父・宍戸隆家の死去に伴い、廃嫡された父・元秀を飛び越えて家督を相続 1 。 |
慶長2-3年(1597-98) |
35-36歳 |
慶長の役に従軍。稷山の戦いで先鋒を務め、第一次蔚山城の戦いで籠城戦を戦い抜き、豊臣秀吉から感状の筆頭に挙げられる武功を立てる 1 。 |
慶長5年(1600) |
38歳 |
関ヶ原の戦い。主君・輝元の西軍総大将就任に反対するも、決定後は伊勢安濃津城攻めで奮戦 1 。 |
慶長9年(1604)以降 |
42歳以降 |
毛利氏の防長移封後、萩城の普請奉行の一人として築城を指揮 5 。 |
慶長19-元和元年(1614-15) |
52-53歳 |
大坂の陣。弟・内藤元盛(佐野道可)を大坂城へ送り込む謀略に関与し、戦後、その事後処理に奔走する 1 。 |
元和元年(1615) |
53歳 |
佐野道可事件の処理を終え、隠居。家督を嫡男・広匡に譲る 1 。 |
寛永8年(1631) |
69歳 |
長門国萩にて死去 1 。 |
宍戸氏の源流は常陸国にあり、藤原北家道兼流八田氏の一族とされる 7 。南北朝時代に安芸国へ下向し、高田郡甲立荘(現在の広島県安芸高田市)の五龍城を本拠とする有力な国人領主として勢力を扶植した 7 。戦国時代に入り、毛利元就が台頭すると、隣接する宍戸氏は当初、毛利氏と勢力を争うライバル関係にあった 9 。しかし、元就は中国地方の覇権を確立する過程で、宍戸氏との連携を重視。天文3年(1534年)、元就は自身の娘(五龍局)を、当時の宍戸家当主・元源の孫である宍戸隆家(元続の祖父)に嫁がせた 10 。この婚姻同盟により、宍戸氏は単なる従属国人ではなく、毛利元就の子である吉川元春・小早川隆景の「両川」に次ぐ、毛利「一門」の筆頭として遇されることとなる 12 。その重要性から、後世「四本目の矢」と称されるほどの地位を確立し、毛利宗家と運命を共にすることになったのである 9 。
元続の父・宍戸元秀は、隆家と元就の娘・五龍局との間に生まれた正嫡であり、毛利家の血を色濃く引く人物であった 2 。しかし、元秀は「病弱等を理由に」廃嫡され、家督を継ぐことはなかった 8 。戦国時代において「病弱」という理由は、必ずしも身体的な問題のみを指すとは限らず、当主としての器量や政治的な判断を隠すための口実として用いられることも少なくない。元秀が廃嫡後も870石余の隠居領を与えられ、慶長2年(1597年)に51歳で亡くなるまで穏やかに過ごしたことからも 14 、彼が完全に排斥されたわけではないことがうかがえる。
この背景には、祖父・隆家が、息子の元秀よりも孫の元続の器量を高く評価し、毛利一門としての宍戸家の将来を託したという意図があった可能性が考えられる。結果として、文禄2年(1593年)に祖父・隆家が76歳で亡くなると、家督は父・元秀を飛び越え、孫である元続が直接相続するという異例の形が取られた 1 。この継承形態は、元続が父の世代のしがらみから解放され、毛利家との強固な関係を築いた祖父・隆家の遺志を直接継ぐ者として、主君・輝元への純粋な忠誠を誓う立場に置かれたことを意味していた。
宍戸元続が毛利家中で重きをなした背景には、その複雑かつ濃密な血縁関係がある。彼の母は、周防の有力国人・内藤興盛の娘であった 2 。そして、元続の主君である毛利輝元の母・尾崎局もまた内藤興盛の娘である 17 。これにより、元続と輝元は母方の従兄弟という極めて近しい関係にあった。
さらに、父方の祖母は毛利元就の娘・五龍局であるため、元続の父・元秀は輝元の従兄弟にあたる 1 。このため、元続は輝元から見て「従伯父の子」という関係にもあり、父方・母方の双方から毛利宗家と二重の血縁で結ばれていた。この血の近さが、彼を一門筆頭という地位に押し上げ、後の政治的な活動における重要な基盤となったことは想像に難くない。
Mermaidによる家系図
宍戸元続は、家督相続後まもなく、天下人・豊臣秀吉からもその存在を認められる。文禄4年(1595年)、彼は秀吉から豊臣姓を下賜された 1 。これは、彼が単なる毛利氏の一家臣ではなく、豊臣政権が直接把握するべき有力武将の一人として認知されたことを示すものであり、彼の政治的キャリアにおける重要な一歩であった。慶長2年(1597年)に朝鮮への再出兵、いわゆる慶長の役が始まると、元続は毛利軍の主力部隊を率いて朝鮮半島へと渡海した 1 。
朝鮮に渡った元続は、早速最前線での戦闘に身を投じる。同年9月、漢城(現在のソウル)近郊で繰り広げられた稷山の戦いにおいて、彼は毛利軍の先鋒を務め、南下する明・朝鮮連合軍と激しく衝突した 1 。この戦いは、日本軍の進撃を阻止しようとする敵の意図を挫く上で重要な意味を持った。
稷山の戦いの後、日本軍は朝鮮半島南岸に恒久的な城砦網(倭城)を築き、防衛態勢を固める戦略に移行する。元続の部隊は、加藤清正が縄張りを行った蔚山城の築城任務に、浅野幸長らと共に従事した 1 。この普請作業は、敵の襲来に備えながら進められる過酷なものであった。
慶長2年(1597年)12月、蔚山城が完成間近となった矢先、楊鎬・麻貴らが率いる数万の明・朝鮮連合軍が城に殺到し、日本史上屈指の過酷な籠城戦として知られる第一次蔚山城の戦いが勃発した 1 。当時、城内には十分な兵糧も水も備蓄されておらず、守備兵も少数であった。急報を受けた加藤清正が僅かな手勢を率いて入城し、元続もこれに合流。彼は二の丸の守備を担当し、絶望的な状況下で奮戦した 21 。飢えと寒さで凍死者や餓死者が続出する凄惨な戦況の中、彼らは毛利秀元や吉川広家らが率いる救援軍が到着するまで持ちこたえ、ついに明・朝鮮連合軍を撃退することに成功した 1 。
この蔚山城での壮絶な戦いにおける元続の武功は、遠く日本の秀吉の耳にも達した。そして、彼の働きは最高の名誉をもって報いられることとなる。慶長3年(1598年)1月25日付で豊臣秀吉が発給した朱印状において、この戦いで功績のあった毛利氏家臣を賞賛するリストの中で、元続の名(宍戸備前守)が筆頭に記されたのである 1 。
この事実は、単なる軍事的な名誉にとどまらなかった。当時の武士社会において、主君からだけでなく天下人たる秀吉から直接評価され、しかも感状の筆頭に挙げられることは、その武功が並外れたものであったことを公式に証明するものであった。この「天下人からの直接評価」という客観的な実績は、元続の毛利家内における発言力と政治的地位を飛躍的に高める決定的な要因となった。2年後に訪れる天下分け目の大戦、関ヶ原の戦いにおいて、彼が吉川広家らと共に毛利家の進退を議論する重臣グループの中核を担うことができた背景には、この蔚山での輝かしい武功と、それによって得られた確固たる名声があったのである。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、家康による会津征伐を契機に天下を二分する戦いへと発展した。この重大な局面において、毛利輝元は安国寺恵瓊らの進言を受け入れ、西軍の総大将に就くことを決断する。しかし、この決定に対し、宍戸元続は強い危機感を抱いた 1 。彼は、天下の形勢が徳川方に有利であることを見抜き、輝元が総大将という名目だけの神輿に担がれることは、敗北した際に毛利家が全ての責任を負わされ、取り潰しの危機に瀕することを意味すると判断した。
元続は、同じく東軍有利と見ていた吉川広家、そして福原広俊、益田元祥といった毛利家の宿老たちと密かに談合し、輝元の総大将就任に強く反対した 1 。しかし、恵瓊ら主戦派の勢いは凄まじく、彼らの諫言が聞き入れられることはなかった。ここに、毛利家は西軍の主軸として、望まぬ戦いへと突き進むこととなる。
主家の決定が覆らないと知るや、元続は一人の武将として自らの職務に忠実であった。彼は毛利氏が支配下においていた備中・備後国の国人衆(石蟹孫兵衛、赤木氏、冷泉元珍、和智元盛ら)を率いて出陣した 1 。彼の部隊は、関ヶ原の本戦に先立つ前哨戦として、伊勢方面の攻略を担当する毛利秀元・吉川広家らの軍に加わった。
その最大の激戦地となったのが、東軍の分部光嘉が守る安濃津城であった。元続はここでも勇戦し、城主・分部光嘉と一騎討ちを演じ、双方負傷するという激闘を繰り広げた 1 。この戦いは西軍の勝利に終わり、安濃津城は開城。元続は、主家の決定には反対しつつも、一度戦場に立てば命を懸けて武功を立てるという、武士としての本分を貫いた。この行動は、彼の反対論が臆病さからではなく、あくまで主家の将来を憂う忠誠心からのものであったことを家中に示す結果となった。
しかし、元続らの奮戦も空しく、関ヶ原の本戦において毛利軍は戦局に何ら寄与することができなかった。徳川家康との間に密約を結んでいた吉川広家が、南宮山に布陣した毛利秀元率いる主力部隊の進軍を頑なに阻止したためである。世に言う「宰相殿の空弁当」の故事の通り 23 、毛利軍は戦闘に参加することなく、西軍は一日で壊滅した。
戦後、西軍総大将であった輝元の責任は厳しく問われ、毛利氏は安芸・備後など8か国112万石の広大な領地を没収され、周防・長門の二か国(実高約30万石)に大減封されるという厳しい処分を受けた 1 。これにより、元続もまた、宍戸氏が数百年間にわたって本拠としてきた安芸国五龍城を去り、主家に従って新たな本拠地・萩へと移住することを余儀なくされたのである 1 。
元続の関ヶ原における一連の行動は、彼の冷静な現実主義者(リアリスト)としての側面を強く印象付ける。彼は、総大将就任という「名誉」よりも、敗北した場合の「リスク」を重く見て、主家存続という現実的な利益を最優先に考えた。そして、その意見が通らずとも、家臣としての公的な義務は忠実に果たし、安濃津城で武功を立てることで自らの立場を確保した。この理想論に溺れないバランス感覚こそが、敗戦後の混乱期において彼が藩政の中枢を担う上で不可欠な資質となったのである。
関ヶ原の戦いでの敗北とそれに伴う大減封は、毛利氏にとって存亡の危機であった。この苦境の中、藩の新たな体制が構築されていく。宍戸元続は、周防国佐波郡右田(現在の山口県防府市右田)に11,000石の知行を与えられ、毛利家一門の筆頭家老という重責を担うことになった 1 。慶長3年から5年頃の分限帳によれば、元続の石高は47,000石であり 25 、減封後も1万石を超える知行を与えられたことは、輝元からの絶大な信頼が揺らいでいなかったことを示している。慶長10年(1605年)に起きた重臣間の対立事件である「五郎太石事件」の後、家臣団の結束を固めるために提出された820名にも及ぶ連署起請文にも、元続は名を連ねており、藩の重鎮として中心的な役割を果たしていたことがわかる 26 。
新たな領国となった防長二州において、毛利家は本拠地を萩に定める。慶長9年(1604年)から始まった萩城の築城は、敗戦からの再起を象徴する国家的な大事業であった。この重要なプロジェクトにおいて、元続は益田元祥、熊谷元直、天野元政らと共に普請奉行に任命され、工事の総指揮を執った 5 。
萩の築城地は、指月山麓の三角州であり、軟弱な地盤や湿地帯が多いなど、決して恵まれた立地ではなかった 5 。しかし、毛利家はかつて同様の条件下で広島城を築いた経験があった。元続ら普請奉行は、その経験を活かし、専門の石工集団である穴太衆(あのうしゅう)などを動員して、石垣の構築をはじめとする難工事を監督した 5 。萩城の建設は、単なる土木工事ではなく、毛利家の権威を再建し、動揺する家臣団の心を一つにまとめるための象徴的な事業であった。この大役を任されたことは、元続が関ヶ原での慎重論によって信頼を失うどころか、むしろその先見性と忠誠心を高く評価され、新しい長州藩の藩政を担う中核人物として確固たる地位を築いていたことを物語っている。彼は、毛利氏が「戦国大名」から「近世大名」へと移行する困難な時期に、実務的な橋渡し役を果たしたのである。
関ヶ原の戦いから14年後、豊臣家と徳川家の対立が最終局面を迎える。慶長19年(1614年)に始まった大坂の陣において、毛利家は徳川方の要請に応じ、表向きは徳川軍として参陣した 6 。しかし、その水面下では、家の存亡を賭けた驚くべき二重戦略が進行していた。
主君・輝元は、万が一豊臣方が勝利した場合の保険として、密かに豊臣方と通じる手を打つ。その密命を帯びたのが、元続の実弟であり、内藤家に養子に入っていた内藤元盛であった 1 。輝元、毛利秀元、そして元続らごく一部の中枢のみで練られたこの計画により、元盛は「佐野道可」という偽名を名乗り、豊臣方の武将として大坂城に入城した 6 。この謀略は、親徳川派の重臣である吉川広家や福原広俊には全く知らされていなかった 30 。毛利家に伝わる『閥閲録』には、輝元が元盛に対し、兄である元続を通じてこの密命を依頼したこと、そして成功の暁には内藤家の末代までの安泰を約束した起請文の写しが収録されており、この謀略における元続の中心的役割を裏付けている 29 。
元和元年(1615年)の夏の陣で大坂城は落城し、豊臣家は滅亡。佐野道可こと内藤元盛は城から脱出するも、京都近郊で捕縛され、毛利家の謀略は露見の危機に瀕した 27 。幕府は直ちに調査に乗り出し、取調べの担当となった大目付・柳生宗矩は、元盛の背後に毛利家の影があることを鋭く追及した 6 。老中・本多正純は、当時伏見にいた元続を呼び出し、「速やかに元盛を捕らえて差し出さねば、輝元が直接命じたものと見なす」と、最後通牒を突きつけた 6 。
主家が取り潰されかねない絶体絶命の状況下で、元続は冷徹な決断を下す。彼は幕府の要求を受け入れ、実の弟である元盛の捕縛と自刃という非情な手段で、事件の幕引きを図ることを決意した。元続は事後処理に奔走し、捕らえられた元盛は柳生宗矩の厳しい尋問に対し、あくまで「豊臣家への恩義から、独断で入城した」と主張し続け、毛利家の関与を否定したまま自刃した 1 。これにより、幕府は毛利本家への追及の矛を収め、毛利氏は最大の危機を脱した。
しかし、事件はこれで終わらなかった。幕府の疑念が完全に晴れたわけではないと恐れた輝元は、さらなる非情な手を打つ。家康から一度は許され、父の籠城とは無関係と認められて帰国した元盛の二人の息子(元続の甥にあたる内藤元珍と粟屋元豊)を、長州藩内で切腹させてしまったのである 6 。
この悲劇的な結末を知った取調べ担当の柳生宗矩は、深く心を痛めたと伝わる。彼は、元盛の息子たちの死を悼み、その処理に奔走した兄・元続に対して、同情の意を示す書状を送っている 28 。この書状の存在は、元続の巧みな事後処理が、幕府の諜報機関のトップである宗矩にさえ「毛利家の陰謀」ではなく「忠義に厚い家臣(元盛)の暴走と、それを止められなかった兄(元続)の悲劇」という構図として映った可能性を示唆している。佐野道可事件の処理は、元続が主家の存続のためには肉親の犠牲をも厭わない冷徹な政治家であったこと、そして危機的状況において極めて高度な政治工作を遂行できる人物であったことを、何よりも雄弁に物語っている。
宍戸元続の私生活、特にその最初の妻については、興味深い伝承が残されている。宍戸家の系図や、彼女の墓があるとされる周南市小松原の伝承では、彼女は「織田信長の娘」であったと記されている 34 。しかし、幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』などの信頼性の高い史料には、信長の娘が宍戸家に嫁いだという記録は見当たらない 34 。
より史料的な裏付けが強いのは、山口県文書館などが所蔵する史料に基づく説である。それによれば、彼女は「内藤元種の娘であり、毛利輝元の母方の従姉妹にあたる女性」であった。彼女はまず輝元の養女となり、織田信長の実子で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀勝(於次丸)に嫁いだ。しかし秀勝が早世したため、実家である毛利家に戻り、その後、宍戸元続と再婚した、というものである 17 。この説に基づけば、彼女は元続の母方(内藤氏)の血を引く従姉妹であり、二人は従兄弟同士の結婚であったことになる 34 。この婚姻は、単なる個人の縁組ではなく、毛利氏の対中央政権(豊臣)戦略の重要な縁故を家中に留め置くと同時に、藩内の中核をなす宍戸氏と内藤氏の結束を血縁によって固めるという、高度に戦略的な意味合いを持っていた。元続自身が、その政略を実行するに最もふさわしい人物と見なされていたことがうかがえる。
元和元年(1615年)、佐野道可事件の処理を終えた元続は、その責任を取るかのように隠居し、家督を嫡男の広匡(ひろまさ)に譲った 1 。その後、宍戸家の歴史は新たな地で紡がれていく。寛永2年(1625年)、元続の孫である宍戸就尚(なりなお)の代に、藩内の知行替えが行われ、宍戸家の所領は周防国佐波郡右田から熊毛郡三丘(現在の周南市三丘)へと移された 1 。これ以降、宍戸家は「三丘宍戸家」として、長州藩一門筆頭の家格を保ちながら幕末維新まで存続した 37 。
隠居後も、元続は一門の長老として藩政に一定の影響力を持ち続けたと考えられる。大坂の陣という最後の動乱を乗り越え、長州藩の基礎が固まるのを見届けた彼は、寛永8年(1631年)7月25日、新たな本拠地である長門国萩の屋敷でその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年69であった 1 。
その遺体は、かつての給地であった周防国佐波郡下徳地(現在の山口市徳地)の龍福山宗円寺にて荼毘に付され、同郡牟礼(現在の防府市牟礼)の阿弥陀寺に葬られた 1 。
宍戸元続の生涯は、戦国の武勇と近世の政治的謀略が交差する、激動の時代そのものを象徴している。彼は、朝鮮の役において鬼神のごとき働きを見せ、天下人・秀吉から感状の筆頭に挙げられるほどの武名を轟かせた勇将であった 1 。同時に、天下分け目の関ヶ原では、主家の将来を冷静に見据えて慎重論を唱え、敗戦後の藩の再建事業を指揮する行政官でもあった 1 。そして大坂の陣では、主家存続のためには実の弟や甥の犠牲をも厭わない、非情な謀略を主導する冷徹な政治家としての顔も見せた 6 。
彼の果たした役割を再評価するならば、彼は毛利元就が築き上げた「一門体制」という強固な結束を、主君・輝元の時代、そして長州藩の成立という新たな政治体制下で、現実的な形で維持・発展させた鍵となる人物であったと言える。彼の卓越した武勇、冷静な政治的判断力、そして何よりも主家を守るためならば汚名をも被ることを厭わない危機管理能力なくして、毛利氏が関ヶ原の敗戦という最大の危機を乗り越え、近世大名として存続し得たかは疑問である。華々しい表舞台に立つことは少なかったかもしれないが、宍戸元続は間違いなく、毛利家の歴史における「陰の功労者」として、より高く評価されるべき武将であろう。