日本の戦国時代、中国地方に覇を唱えた毛利元就には、「三本の矢」の教えで知られる三人の優れた息子たちがいた。しかし、その三子に比肩するほどの重みを持ち、毛利家の発展を支えた「四本目の矢」と呼ぶべき人物が存在したことは、あまり知られていない 1 。その人物こそ、安芸国の有力国人領主から毛利元就の娘婿となり、一門衆筆頭の地位を確立した宍戸隆家(ししど たかいえ)である 3 。
本報告書は、宍戸隆家という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げるものである。彼の出自にまつわる謎と家督継承の力学、政略結婚がもたらした安芸国の勢力図の劇的な転換、そして軍事・外交の両面で発揮された非凡な才覚を明らかにする。さらに、嫡男の廃嫡という家庭内の相克や、彼が後世に残した影響についても深く考察する。
隆家が率いた宍戸氏に関する史料は、その歴史的重要性にもかかわらず、断片的なものが多い 2 。しかし、近年の広島県安芸高田市歴史民俗博物館などによる研究は、従来の系図や通説に再検討を迫る新たな知見をもたらしている 2 。本報告書は、これらの最新の研究成果を積極的に取り入れ、宍戸隆家の実像に迫ることを目的とする。なお、当時の古文書において、彼の苗字である「宍戸」は、「完戸」あるいは「鹿戸」と記されることが通例であった点も、ここに記しておく 3 。
宍戸氏の歴史は、鎌倉時代初期にまで遡る。その祖は藤原北家道兼流を称し、鎌倉幕府の創設に貢献した源頼朝の重臣、八田知家(はった ともいえ)であった 3 。知家の四男・家政が常陸国宍戸荘(現在の茨城県笠間市)を領地とし、その地名を姓としたことが宍戸氏の始まりとされる 5 。
一族が安芸国(現在の広島県西部)に根を下ろすのは、南北朝時代の動乱期である。当時の当主・宍戸朝家(ともいえ、初名は朝里)は、足利尊氏に従って各地を転戦し、元弘3年(1333年)の六波羅探題攻略などで功績を挙げた 5 。その恩賞として、建武元年(1334年)、朝家は安芸守に任ぜられ、安芸国甲立荘(現在の広島県安芸高田市甲田町)を賜った 5 。これが安芸宍戸氏の直接的な起源となる。安芸に下向した朝家は、当初、菊山麓に柳ヶ城を構えたが、後に対岸の元木山に新たな城を築いた。その際、水不足に悩んだ朝家が五龍王に祈願したところ、清らかな水が湧き出たという伝説から、この城は「五龍城」と名付けられ、以降約260年にわたり安芸宍戸氏の本拠地となった 9 。
宍戸隆家が家督を継承するまでの経緯は、単純な世襲ではなく、複雑な背景を持っていた。通説では、隆家の曽祖父にあたる宍戸元家(もといえ)が常陸宍戸氏から養子として迎えられ、安芸宍戸氏の中興の祖となったとされてきた 5 。
しかし、この通説には近年、有力な異説が提唱されている。安芸高田市歴史民俗博物館の研究によれば、当時の大内氏や陶氏が発給した書状を分析した結果、安芸宍戸氏の内部で深刻な家督争いがあった可能性が浮上した 2 。これは、当時の安芸国が周防の大内氏と中央の足利幕府(細川氏)の勢力争いの最前線であったことを背景に、宍戸氏の家中が「大内派」と「細川派」に分裂し、その抗争の末に元家の系統(安芸守系)が勝利して家督を掌握したというものである。単なる養子縁組ではなく、一種の権力闘争、あるいは簒奪に近い形で家督が移ったことを示唆している。この説を補強するのが、元家以降の当主が「弥三郎」という、それ以前の家系とは断絶した通称を名乗り始めるという事実である 2 。
この一連の出来事は、隆家が相続した宍戸家が、古くからの血統を単純に受け継いだのではなく、内紛を経て「再創」された新しい支配体制であった可能性を示している。外部勢力である大内氏の支持を取り付けた元家・元源の系統が、反対派を排除して実権を握ったとすれば、その基盤は必ずしも盤石ではなかった。
このような一族の不安定な状況下で、宍戸隆家は数奇な運命のもとに生を受ける。永正15年(1518年)、父である宍戸弥三郎元家が、隆家の誕生を待たずに戦場で命を落とした 1 。父の死後、身重であった母(備後国の有力国人・山内直通の娘)は実家である山内家へと戻り、同年に隆家を出産した 3 。幼名を「海賊」と名付けられた隆家は、大永3年(1523年)に祖父・宍戸元源(もとよし)のもとへ引き取られるまでの約5年間を、母方の祖父・山内直通の庇護下で過ごすこととなる 2 。この幼少期の経験は、後に彼が備後方面の国人衆との関係を構築する上で、重要な人脈的基盤となった。やがて元服した隆家は、当時の西国随一の大大名であった大内義隆から「隆」の一字を賜り、「隆家」と名乗った 3 。
隆家の生涯は、この「断絶と再創」という脆弱な基盤の上に始まった。父の早逝、他家での養育という経験は、彼に一族存続への強い危機感を植え付けたに違いない。この出自の不安定さこそが、後に彼が毛利氏との強力な同盟を渇望し、一度結んだ関係を徹底して維持しようとする行動原理の根源となった。彼の毛利家に対する揺るぎない忠誠心は、単なる生来の気質ではなく、一族の存亡を賭けた極めて戦略的な選択だったのである。
家 |
世代 |
人物名 |
関係性 |
宍戸家 |
祖父 |
宍戸元源 |
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父 |
宍戸元家 |
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本人 |
宍戸隆家 |
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妻 |
五龍局 |
毛利元就の次女 |
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嫡男 |
宍戸元秀 |
妻は内藤興盛の娘 |
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孫 |
宍戸元続 |
隆家の後継者 |
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長女 |
天遊永寿 |
河野通宣の正室 |
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次女 |
春木大方 |
吉川元長の正室 |
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三女 |
南の大方 |
毛利輝元の正室 |
毛利家 |
舅 |
毛利元就 |
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義兄 |
毛利隆元 |
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義弟 |
吉川元春 |
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義弟 |
小早川隆景 |
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婿 |
毛利輝元 |
隆元の嫡男 |
吉川家 |
婿 |
吉川元長 |
元春の嫡男 |
山内家 |
外祖父 |
山内直通 |
隆家の母の実父 |
河野家 |
婿 |
河野通宣 |
伊予の国人領主 |
戦国時代の安芸国において、吉田郡山城を拠点に勢力を伸張する毛利氏と、五龍城を本拠とする宍戸氏は、互いに領地を接する有力な国人領主であった。そのため両者の間では衝突が絶えず、永正年間(16世紀初頭)には幾度も干戈を交える緊張関係にあった 1 。毛利元就の父・弘元が、その遺言の中で宍戸氏との友好関係を築くよう書き残したほど、両者の対立は根深いものであった 6 。
隆家の祖父・宍戸元源は勇将として知られ、家督を継いだばかりの元就を大いに苦しめた 8 。しかし、元就は安芸国統一のためには、背後に控える強敵・宍戸氏との和睦が不可欠であると判断。天文2年(1533年)、ついに両者の間で和睦が成立する 6 。伝承によれば、元就はこの和睦に際し、わずかな供回りだけを連れて単身で五龍城に乗り込み、元源と膝を突き合わせて夜通し語り合ったという 15 。敵対勢力の懐に自ら飛び込む元就の胆力と、宍戸氏を取り込むという強い政治的意志が、長年の対立に終止符を打ったのである。
和睦の証として、そして両家の永続的な同盟関係を担保するために結ばれたのが、隆家と元就の娘との政略結婚であった。天文3年(1534年)、隆家は元就の次女(一説には長女)・五龍局(ごりゅうのつぼね、実名「しん」)と婚約する 1 。彼女が宍戸氏の本拠地である五龍城に嫁いだことから、その名で呼ばれるようになった 16 。
この婚姻により、宍戸氏は単なる同盟者から、毛利家の血縁者、すなわち「一門」という特別な地位へと昇格した 3 。元就は、この関係を極めて重視した。彼は長男・隆元をはじめとする息子たちに対し、隆家を彼ら兄弟と同格に扱い、決して疎かにしてはならないと繰り返し訓戒している 2 。これは、宍戸氏が持つ強大な軍事力と、隆家の外戚である山内氏などを通じた備後方面への影響力を、元就が高く評価していたことの何よりの証拠である 3 。
元就のこの戦略は、彼の勢力拡大手法の巧みさを示している。彼は、吉川氏や小早川氏のように当主不在や内紛で弱体化した家には、自らの息子を養子として送り込み、事実上乗っ取る形で支配下に置いた(毛利両川体制)。一方で、宍戸氏のように強力な当主(元源・隆家)が健在で、乗っ取りが困難な独立勢力に対しては、婚姻によって血縁関係を結び、自らの権力構造の最上位に組み込む「一門化」という手法を用いた。これは、戦国時代の脆弱な同盟関係とは一線を画す、計算され尽くした「制度設計」であった。この巧みなハイブリッド戦略により、宍戸氏は独立性を保ちつつも、毛利家の意思決定から離脱できない強固な枠組みに組み込まれた。元就はこうして安芸国内の有力国人をまとめ上げ、中国地方の覇権争いに打って出るための盤石な基盤を築き上げたのである。
毛利一門となった宍戸隆家は、その期待に応え、毛利家の主要な戦役において中核的な役割を果たしていく。特に、長年の宿敵であった出雲の尼子氏との戦いでは、目覚ましい武功を挙げた。
その最初の試金石となったのが、天文9年(1540年)に勃発した「吉田郡山城の戦い(郡山合戦)」である 21 。尼子詮久(後の晴久)率いる3万の大軍が毛利氏の本拠地に侵攻したこの危機に際し、隆家は祖父・元源と共にいち早く毛利方として馳せ参じ、籠城戦に加わった 21 。尼子軍の別動隊が手薄になった宍戸領へ侵攻すると、これを迎撃して見事に撃退 13 。この戦いでの忠勤ぶりは、元就の隆家に対する信頼を絶対的なものにした。
その後、毛利氏が中国地方全域へと勢力を拡大していく過程で、隆家は主に元就の次男・吉川元春が率いる軍団に属し、山陰方面の平定戦で活躍した 3 。元亀元年(1570年)の「布部山の戦い」では、尼子勝久ら残党勢力に包囲された月山富田城の救援に駆けつけ 6 、元就が没した元亀2年(1571年)以降も、元春に従って伯耆国(現在の鳥取県中西部)へ出陣するなど、尼子氏との戦いの最前線に立ち続けた 3 。途中、弘治2年(1556年)には石見銀山を巡る「忍原崩れ」で毛利軍が手痛い敗北を喫するなど 24 、山陰攻略は困難を極めたが、隆家は一貫して毛利方として奮戦した。
隆家の活躍の場は、山陰方面に留まらなかった。天文24年(1555年)の「厳島の戦い」で大内氏の実力者・陶晴賢を滅ぼした後、毛利氏が周防・長門二国(現在の山口県)の併合(防長経略)に乗り出すと、隆家もこの一連の戦役で重要な役割を担った 6 。
さらに特筆すべきは、彼の外交官としての一面である。隆家は長女・天遊永寿を伊予国(現在の愛媛県)の有力領主・河野通宣に嫁がせていた 3 。この姻戚関係を背景に、宍戸氏は毛利家の対四国、特に河野氏との外交チャンネルを独占する窓口となった 20 。毛利氏が伊予へ出兵した際には、河野氏を支援するために奔走し、瀬戸内海の制海権を握る小早川隆景と共に、毛利氏の四国方面への影響力拡大に絶大な貢献を果たした 20 。
隆家の価値は、一戦場での武勇に留まるものではなかった。彼は、自らの外戚関係(備後の山内氏)と姻戚関係(伊予の河野氏)を戦略的に活用し、毛利家の勢力圏に隣接する備後・伊予方面の安定化と勢力拡大を担う、替えの効かないスペシャリストであった。毛利家の統治体制は、当主と両川(吉川・小早川)という中核だけでなく、隆家のような有力国人に特定の「方面」を委任する、柔軟な分担統治を採用していた。隆家は「山陰の軍事(元春の補佐)」と「伊予の外交(河野氏担当)」という二つの重責を担う、いわば「方面軍司令官」兼「特命担当大臣」とも言うべき存在だったのである。元就が彼を「息子たちと同格」と評したのは、この軍事・外交にまたがる複合的な貢献を正当に評価した結果に他ならない。
元就の死後、毛利家は織田信長との全面対決に突入する。当主となった毛利輝元(元就の孫)のもと、隆家も一門の重鎮としてこの国難に立ち向かった。彼の孫にあたる宍戸元続が、天正6年(1578年)の「上月城の戦い」で初陣を飾っていることは、宍戸家が対織田戦線の第一線に立っていたことを物語っている 26 。
天正10年(1582年)の「本能寺の変」を契機に毛利氏が豊臣秀吉に臣従すると、隆家もそれに従った。その後、秀吉が推し進めた天下統一事業、すなわち四国攻め(1585年)、九州平定(1586-87年)、小田原征伐(1590年)といった大規模な戦役にも、毛利軍の一翼を担って従軍したと考えられる 18 。隆家は、戦国乱世の終焉と新たな時代の到来を、毛利家の中枢で見届けることとなった。
宍戸隆家の人柄を伝える貴重な記録が、江戸時代に編纂された軍記物『吉田物語』に残されている 23 。そこには、隆家自身が舅である毛利元就の人物像を追想する逸話が収められている。
ある時、元就の忌日にその位牌を祀り、静かに供養を行っていた隆家のもとへ、義弟・吉川元春からの使者が訪れた。隆家は使者に対し、焼香を勧めながら、若き使者には知る機会もなかったであろう元就の在りし日の姿を語り始めた。いわく、「元就公は、いかなる急難に際しても常に物静かで動じることがなく、それでいて春の花や秋の紅葉を愛でる風流心をお持ちであった。一度交わした約束は決して違えぬ律儀な方で、家臣や民を深く慈しみ、その心遣いは比類なきものであった。初めてお会いする者でさえ、この方こそ主君と心から頼りにしたくなる、そのようなお人柄であった」と 23 。
この逸話は、隆家が元就に対して抱いていた深い敬慕の念と、その人物像を的確に理解していたことを示している。同時に、元就もまた隆家を深く信頼し、様々な内情を打ち明けるほどの関係を築いていたことがうかがえる。元就が息子たちに遺した「三子教訓状」などの書状で、繰り返し隆家を大切にするよう説いているのは、彼の能力と忠誠心に対する絶対的な信頼の証左に他ならない 19 。
公の場では毛利家の中核として輝かしい功績を残した隆家だが、その家庭生活は必ずしも平穏ではなかった。
妻の五龍局は、詳細は不明ながら気性の激しい女性であったと伝わっている 20 。彼女は天正2年(1574年)に卒中により死去し、隆家はその後、石見国の国人・石見繁継の姉を継室として迎えた 3 。
一方で、隆家は娘たちを巧みに嫁がせることで、毛利一門内での政治的地位を盤石なものにした。長女は伊予の河野氏へ、そして次女を吉川元春の嫡男・元長へ、三女を毛利宗家の当主・輝元へと嫁がせた 3 。この重層的な婚姻政策により、宍戸家は毛利宗家と分家の吉川家とを繋ぐ結節点となり、その発言力は絶大なものとなった。
しかし、その輝かしい閨閥形成の陰で、隆家は深刻な後継者問題に直面していた。嫡男である宍戸元秀は、公式記録の上では「病弱」を理由に廃嫡されたとされている 32 。家督は隆家の死後、元秀を飛び越えて孫の元続が継承することになった 3 。
だが、この「病弱説」には多くの疑問が残る。元秀は天正年間、父・隆家と共に山内氏との間で交わされた起請文に連署しており、政治活動に参加していた記録が残っている 28 。また、彼には隠居領としてまとまった知行が与えられており 34 、元続や内藤元盛(後の佐野道可)など複数の子も儲けていた 34 。これらは、家督を継げないほど虚弱であったとする人物像とは明らかに矛盾する。
この不自然な措置の背景には、公式の記録には残らない深刻な事情があったと推測される。戦国時代において、当主との確執や素行不良、あるいは家臣団の支持を失ったことなどを理由に嫡子が廃嫡される例は決して珍しくない 35 。したがって、元秀の廃嫡は、単なる健康問題ではなく、父・隆家との深刻な対立や、家臣団を巻き込んだ内紛が存在した可能性を強く示唆する。「病弱」という理由は、家の内紛という不名誉な事実を外部に隠蔽するための、体裁を整えた公式見解(カバーストーリー)であった可能性が高い。隆家は、毛利家という「外」の政治世界では大成功を収めたが、自らの「内」である家庭、特に後継者問題においては、深刻な苦悩を抱えていた。この公私の鮮やかなコントラストは、彼の人物像に深い奥行きと人間的な陰影を与えている。
天正19年(1591年)、毛利輝元が本拠地を長年続いた吉田郡山城から、太田川デルタに新たに築いた広島城へと移した。この毛利家の新たな船出に際し、隆家も一門の重鎮としてこれに従い、広島城内に広大な屋敷を構えた 4 。これは、輝元の代においても、彼が毛利家の中枢にあり続けたことを明確に示している。
しかし、その広島での生活は長くは続かなかった。豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)の最中であった文禄2年(1593年)2月5日、隆家は広島の屋敷でその75年(一説に76年)の生涯を閉じた 3 。法名は「天叟覚隆大居士」と贈られた 3 。
その亡骸は、故郷である安芸国甲立へと運ばれ、かつての居城・五龍城からほど近い山中にある菩提寺・天叟寺の跡地に葬られた 3 。現在、その墓所には二基の五輪塔が並び立っているが、一つは隆家のもので、もう一つは彼の生涯を支えた正室・五龍局のものではなく、彼女の死後に迎えた継室(石見繁継の姉)のものであると伝えられている 16 。
隆家の死後、宍戸家の家督は、廃嫡された元秀を飛び越え、孫の宍戸元続が継承した 26 。若き当主・元続は、祖父の威光を受け継ぎ、慶長の役では自ら軍を率いて朝鮮半島へ渡海。蔚山城の戦いなどで武功を挙げ、豊臣秀吉から直接賞されるなど、その器量を示した 27 。
しかし、慶長5年(1600年)、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発すると、宍戸家も毛利家と共に最大の危機に直面する。主君・輝元が西軍の総大将に祭り上げられるという事態に、元続は強い不安を覚え、吉川広家らと共に徳川家康との内通交渉に関与し、毛利家の本戦不参加(不戦)工作に加わった 27 。結果として、毛利本隊は関ヶ原の主戦場で戦うことなく、西軍は敗北。毛利家は敗戦の責を負うことになった。なお、元続自身は、関ヶ原の前哨戦である伊勢「安濃津城の戦い」において、東軍方の城を攻め落とすなど奮戦している 27 。
関ヶ原の戦後処理により、毛利家は中国地方8か国112万石の広大な領地を没収され、周防・長門の二国(現在の山口県)約37万石へと大減封された。この未曾有の国難に際し、宍戸元続もまた、一族を率いて父祖伝来の地である安芸国甲立を去り、新たな本拠地である萩へと移住した 5 。
しかし、宍戸家はここで没落することはなかった。江戸時代、長州藩が成立すると、宍戸家は毛利宗家に次ぐ「一門八家」の筆頭とされ、周防国三丘(みつお)に1万1千石余の知行を与えられる大身の家老として遇された 4 。この藩内最高の家格は、幕末維新の動乱期に至るまで維持された。
戦国時代の国人領主の多くが、下剋上や大大名間の争いの中で滅亡していったことを考えれば、宍戸家のこの結末は驚くべき成功例である。これを可能にした要因は、まさしく宍戸隆家の代に築かれた「政治的資産」にあった。第一に、元就の娘婿となり、輝元の正室の父となることで築き上げた、毛利宗家との不可分な一体性。第二に、吉川家との二重の姻戚関係による、藩内での多角的な支持基盤。これらの隆家が遺した有形無形の財産が、関ヶ原という最大の危機において絶大な効果を発揮し、孫・元続の代の宍戸家を救ったのである。
宍戸隆家の最大の功績は、数多の戦での武功以上に、戦国時代の独立領主であった宍戸氏を、近世大名の家臣団筆頭という極めて安定した地位へと「軟着陸」させたことにあると言えよう。彼の生涯は、激動の時代を生き抜き、一族を未来へと繋ぐための、長期的かつ戦略的な生存戦略そのものであった。関ヶ原で父祖の地を失ったことは一族にとって悲劇であったが、その血脈が長州藩の中枢として存続できたのは、まさしく隆家が遺した偉大な「遺産」のおかげだったのである。
宍戸隆家の生きた時代から400年以上が経過した現在も、彼の足跡は安芸高田の地に確かに刻まれている。
かつての本拠地・五龍城跡は、今なお土塁や堀切、石垣の遺構を良好な状態で留めており 9 、毛利元就ですら力攻めを躊躇したという 43 、安芸宍戸氏のかつての威勢を雄弁に物語っている。また、山中に静かに佇む菩提寺・天叟寺跡の墓所 37 は、栄華を極めた戦国武将の終焉の地として、訪れる者に歴史の無常と時の流れを感じさせる。
宍戸隆家は、毛利元就・隆元・輝元の三代にわたって忠節を尽くし、軍事、外交、そして政略結婚の全てにおいて、毛利家の勢力拡大と安定に不可欠な役割を果たした。その存在は、あまりにも有名な「三本の矢」の輝きの陰に隠れがちである。しかし、彼の功績は吉川元春・小早川隆景の「両川」に決して劣るものではなく、毛利家の歴史を語る上で欠くことのできない、まさしく「四本目の矢」として再評価されるべき人物である。彼の生涯は、戦国という激動の時代を、卓越した知略と揺るぎない忠誠、そして一族存続への強い意志をもって生き抜いた、一人の傑出した武将の姿を、今に伝えている。
西暦(和暦) |
宍戸隆家の動向 |
毛利家の動向 |
日本の主な出来事 |
1518年(永正15) |
父・元家が戦死。母の実家である備後・山内家にて誕生。幼名は海賊。 |
毛利幸松丸が家督を継承。元就が後見。 |
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1523年(大永3) |
祖父・宍戸元源に引き取られ、五龍城へ戻る。 |
毛利元就が家督を継承。 |
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1534年(天文3) |
毛利元就の次女・五龍局と婚約。 |
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1540年(天文9) |
吉田郡山城の戦いで毛利方として籠城し、奮戦する。 |
尼子晴久、大軍を率いて吉田郡山城へ侵攻。 |
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1555年(天文24) |
厳島の戦いに従軍。 |
厳島の戦いで陶晴賢を破る。 |
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1557年(弘治3) |
防長経略に従軍。 |
大内義長が自刃し、毛利氏が周防・長門を領有。 |
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1563年(永禄6) |
三女(南の大方)と毛利輝元の婚約が成立。 |
毛利隆元が急死。輝元が家督を継承。 |
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1570年(元亀元) |
布部山の戦いに従軍。尼子残党勢力と戦う。 |
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石山合戦が始まる。 |
1571年(元亀2) |
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毛利元就が死去。 |
織田信長、比叡山を焼き討ち。 |
1574年(天正2) |
正室・五龍局が死去。 |
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織田信長、長島一向一揆を殲滅。 |
1582年(天正10) |
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備中高松城の戦い。羽柴秀吉と和睦。 |
本能寺の変。織田信長が自刃。 |
1585年(天正13) |
(豊臣政権下の四国攻めに従軍か) |
豊臣秀吉の四国攻めに従軍。小早川隆景が伊予を得る。 |
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1587年(天正15) |
(豊臣政権下の九州平定に従軍か) |
豊臣秀吉の九州平定に従軍。 |
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1591年(天正19) |
毛利輝元の広島城入城に伴い、広島城下へ移る。 |
輝元、本拠を広島城へ移す。 |
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1593年(文禄2) |
2月5日、広島にて死去(享年75)。家督は孫の元続が継承。 |
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文禄の役。 |