宮城豊盛は浅井・織田・豊臣・徳川と仕え、讃岐丸亀城主となる。秀吉の死を伝える密使を務め、関ヶ原で東軍につき生き残る。大坂の陣後加増も、家は二代で改易。乱世を渡りきった現実主義者。
本報告書は、日本の歴史上、最も激しい社会変動期であった戦国時代末期から江戸時代初期を生きた一人の武将、宮城豊盛(みやぎ とよもり)の生涯を、多角的な視点から徹底的に追跡し、その実像に迫ることを目的とする。歴史の教科書において主役として語られることは稀な豊盛であるが、彼の生涯は、豊臣政権下で立身し、関ヶ原の合戦という巨大な岐路を乗り越え、徳川の世に適応しようとした中規模大名の典型的な生存戦略と、その時代の特質を映し出す貴重な鏡である。
豊盛が生きた時代は、織田信長による天下布武の進展、豊臣秀吉による天下統一の完成、そして徳川家康による江戸幕府の創設という、日本の歴史を画する三人の天下人が次々と覇権を握った激動の時代であった。この過程で、旧来の荘園制に基づく社会構造は解体され、武士の価値観、主従関係、そして大名のあり方は根底から覆された。豊盛の人生は、まさにこの大変革の渦中で繰り広げられた。本報告書では、彼の出自から豊臣政権への登場、豊臣大名としての活動、関ヶ原での決断、徳川政権下での役割、そして彼が興した大名家の意外な終焉までを、史料に基づき時系列に沿って詳細に分析する。
宮城豊盛という一個人の生涯を深く掘り下げることは、単に一武将の伝記を記すに留まらない。それは、豊臣恩顧の大名が徳川の治世という新しい秩序にどのように向き合い、適応し、あるいは淘汰されていったのかを示す、極めて重要な事例研究(ケーススタディ)としての意義を持つ。彼の選択と行動、そしてその結果は、同じ時代を生きた数多の中小規模武士たちが直面したであろう運命を象徴しており、歴史の大きな潮流の狭間で個人がいかにして生き残りを図ったのかという、普遍的な問いに対する一つの答えを提示するものである。
本報告書の構成は、まず豊盛の出自と豊臣政権下で頭角を現すまでを第一章で述べ、続く第二章で讃岐丸亀城主として大名になった経緯と活動を詳述する。第三章では、彼のキャリアにおける重要な転機となった文禄・慶長の役、特に豊臣秀吉の死を伝える密使という大役について分析する。第四章では、天下分け目の関ヶ原の合戦における彼の決断とその背景を、第五章では徳川の臣として大坂の陣に参加し、新たな治世に適応していく姿を追う。そして第六章では、彼が一代で築き上げた大名家がなぜ二代で断絶したのか、その原因と歴史的意味を探る。最後に終章として、宮城豊盛という武将の歴史的評価を総括する。
報告書の理解を助けるため、以下に宮城豊盛の生涯と関連する主要な出来事をまとめた年表を提示する。
西暦(和暦) |
宮城豊盛および宮城家の動向 |
国内外の主要な出来事 |
1554年(天文23年) |
宮城豊盛、誕生(推定)。 |
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1573年(天正元年) |
主君・浅井長政が滅亡。その後、織田信長に仕える。 |
浅井氏・朝倉氏滅亡。室町幕府滅亡。 |
1582年(天正10年) |
織田信長が本能寺の変で死去。羽柴秀吉に仕える。 |
本能寺の変。山崎の戦い。 |
1585年(天正13年) |
秀吉より「豊」の字と「宮城」姓を賜る。四国平定後、讃岐国に1万石を与えられ丸亀城主となる。 |
秀吉、関白に就任。四国平定。 |
1587年(天正15年) |
九州平定に従軍。 |
九州平定。バテレン追放令。 |
1590年(天正18年) |
小田原征伐に従軍。 |
小田原征伐。秀吉による天下統一が完成。 |
1592年(文禄元年) |
文禄の役(朝鮮出兵)に従軍し、渡海する。 |
文禄の役が始まる。 |
1595年(文禄4年) |
8,300石を加増され、合計1万8,300石となる。 |
豊臣秀次事件。 |
1598年(慶長3年) |
豊臣秀吉の死を受け、徳永寿昌らと共に撤兵を伝える密使として朝鮮へ渡る。 |
豊臣秀吉死去。 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の合戦で東軍に属す。岐阜城攻めなどで功を挙げ、戦後、所領を安堵される。 |
関ヶ原の合戦。 |
1603年(慶長8年) |
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徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く。 |
1614年(慶長19年) |
大坂冬の陣に徳川方として従軍。 |
大坂冬の陣。 |
1615年(元和元年) |
大坂夏の陣に従軍。戦功により2,000石を加増され、合計2万300石となる。 |
大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。武家諸法度制定。 |
1619年(元和5年) |
10月14日、死去。子の豊嗣が跡を継ぐ。 |
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1636年(寛永13年) |
二代藩主・宮城豊嗣が嗣子なく死去。宮城家は無嗣を理由に改易(領地没収)となる。 |
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この年表は、豊盛個人の経歴と日本のマクロな歴史の動向を対比させることで、彼の決断がどのような大きな歴史の潮流の中で下されたのかを視覚的に示している。例えば、彼が東軍についた慶長5年(1600年)が、主君・秀吉の死からわずか2年後であることが明確になり、その決断の背景にある政局の緊迫感をより深く理解する一助となるであろう。
宮城豊盛の生涯を理解する上で、まず彼の出自と、いかにして時代の覇者である豊臣秀吉の麾下に入り、頭角を現していったのかを明らかにすることが不可欠である。彼の初期の経歴は、戦国末期の近江出身武士が、激動の時代を生き抜くために示した典型的な「適応と上昇」の軌跡を体現している。
宮城豊盛は、近江国犬上郡宮木村、現在の滋賀県犬上郡豊郷町の出身と伝えられている。当初は出身地の名に由来する「宮木(みやき)」という姓を名乗っていた可能性が高い。父は宮城吉清、あるいは政業と記録されているが、この名前の不一致は、当時の記録の曖昧さや後世の編纂物における差異を示すものであり、彼の出自が必ずしも名門ではなかったことを示唆している。
彼の武士としてのキャリアは、北近江の戦国大名・浅井長政に仕えることから始まった。しかし、天正元年(1573年)、主家である浅井氏は織田信長によって滅ぼされる。主家を失った北近江の武士たちにとって、これは最初の大きな岐路であった。ここで豊盛は、旧主を滅ぼした信長に仕えるという、生き残りのための最も現実的かつ合理的な選択をする。この主君の変遷は、単なる裏切りや鞍替えといった単純なものではなく、滅びゆく勢力から新たなる覇者へと、時代の潮流を的確に読み解き、自らの活路を見出すという、戦国武士に不可欠な生存能力の高さを示している。
天正10年(1582年)、本能寺の変によって信長が横死すると、織田家臣団は後継者を巡って分裂し、新たな動乱の時代が幕を開ける。この織田家の内紛において、豊盛は信長の有力後継者であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)にいち早く仕えた。この選択は、彼の先見の明を示すと同時に、秀吉が旧織田家臣団を巧みに吸収していく過程で、ごく自然に取り込まれていった結果とも考えられる。
秀吉の下で、豊盛は主君の身辺警護や側近としての役割を担う「近習(きんじゅう)」や「馬廻(うままわり)」といった役職を務めたと推察される。これは、単に戦場で槍を振るう一兵卒ではなく、主君の側に仕え、直接命令を受け、その意思を体現する、極めて信頼された立場であったことを意味する。秀吉は、血縁や譜代の家臣が少ないという自身の弱点を克服するため、豊盛のような実務能力に長けた新参者を積極的に側近に取り立て、自らの権力基盤を固めていった。
この主従関係が公的な形で確立されたのが、天正13年(1585年)のことである。この年、豊盛は秀吉からその名の一字である「豊」の偏諱(へんき)と、「宮城」という新たな姓を与えられ、宮城堅甫豊盛(みやぎ けんぽ とよもり)と名乗ることになった。これは、豊盛が単なる家臣から、豊臣政権という新しい支配体制を構成する公的な「部品」へと正式に組み込まれたことを象徴する、極めて重要な儀式であった。秀吉が「豊」の字を与えることで擬似的な一門衆を形成し、忠誠心を高めようとした人事政策の一環であり、豊盛が秀吉個人への絶対的な忠誠を誓い、豊臣大名として公的に認知された瞬間であった。この栄誉は、彼のキャリアにおける最初の大きな飛躍点となった。
秀吉の近臣として信頼を得た宮城豊盛は、その忠勤の証として所領を与えられ、一介の武士から大名へと昇格を果たす。彼の石高と領地は、豊臣政権内における彼の地位と役割を正確に物語っている。
豊盛が大名としての第一歩を記したのは、天正13年(1585年)の四国平定後であった。この戦役における功績、あるいはそれまでの近臣としての働きが評価され、彼は讃岐国に1万石の所領を与えられ、丸亀城主となることを命じられた。これにより、豊盛はそれまでの主君の側近くに仕える立場から、領地と領民を預かる統治者へと、その役割を大きく変えることになった。
その後も豊盛は豊臣政権下で着実に評価を高めていく。文禄4年(1595年)には、8,300石の加増を受け、その所領は合計1万8,300石となった。この石高は、豊臣政権の大名ヒエラルキーにおいて、彼の立ち位置を明確に示している。彼は、前田、毛利、徳川といった数十万石を領する有力大名や、石田三成や加藤清正のような政権の中枢を担う大名ではなかった。しかし、主君である秀吉の個人的な信頼に基づいて抜擢され、一定規模の領地と軍事力を預けられた「直参(じきさん)大名」であり、豊臣政権の基盤を全国で支える重要な階層に属していた。この地位は、巨大な軍団を率いて方面軍司令官として活躍するというよりは、中央の意向を地方で着実に実行し、主君の直轄軍の一部として機能することが期待される役割であった。
大名となった豊盛は、豊臣政権が推し進める天下統一事業に、軍役という形で貢献した。天正15年(1587年)の九州平定、そして天正18年(1590年)の小田原征伐といった、日本の歴史を画する大規模な統一戦争に従軍している。これらの戦役への参加は、豊臣大名としての義務を果たすことであり、主君・秀吉への忠誠を具体的に示す絶好の機会であった。
同時に、彼は讃岐丸亀城主として、領国経営にもあたった。具体的な善政や悪政に関する詳細な記録は乏しいものの、この時期に検地の実施、城下町の整備、家臣団の組織化などを通じて、大名としての統治能力と行政経験を積んだことは間違いない。彼のキャリアは、戦場での武功のみならず、平時における統治者としての側面も併せ持っていたのである。豊盛が築いた約2万石という領地と組織は、彼が後の時代の激動を乗り切るための重要な基盤となった。
豊臣政権が安定期に入ると、秀吉は次なる目標として大陸への進出を掲げ、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を開始する。この未曾有の大事業は、宮城豊盛を含む多くの大名にとって大きな負担となっただけでなく、彼の運命を決定づける重要な転機をもたらした。
豊盛もまた、他の豊臣大名と同様に、文禄・慶長の役に従軍し、自ら軍勢を率いて朝鮮半島へ渡海した。この戦争における彼の具体的な戦功に関する記録は多くないが、大名としての軍役義務を忠実に果たしたことが確認されている。しかし、彼が歴史の表舞台で特筆すべき役割を担うのは、戦場での武功によってではなかった。
慶長3年(1598年)8月18日、天下人・豊臣秀吉が伏見城でその生涯を閉じた。この事実は、朝鮮半島で泥沼の戦いを続ける数十万の将兵に動揺を与え、明・朝鮮連合軍による追撃を誘発することを恐れたため、国家の最高機密とされた。秀吉亡き後の政権を担うことになった五大老(特に筆頭の徳川家康)と五奉行は、全軍をいかにして無事に、そして秩序を保ったまま撤退させるかという、極めて困難な課題に直面した。
この国家の存亡に関わる重大な局面で、豊臣政権中枢は、秀吉の死を伏せたまま撤退命令を現地軍に伝えるための密使を派遣することを決定する。この密使には、軍事的な能力以上に、絶対的な信頼性、口の堅さ、そして現地の功名心に逸る大名たちを説得できる高度な政治交渉能力が求められた。白羽の矢が立ったのは、宮城豊盛、徳永寿昌、そして毛利吉成(後の毛利高政)の三名であった。
豊盛がこの大役に選ばれたという事実は、彼が単なる一地方大名ではなく、豊臣政権中枢から絶大な信頼を寄せられていたことの何よりの証左である。秀吉の近習出身であり、豊臣家への忠誠心に疑いがなく、かつ徳川家康を含む五大老・五奉行という新たな権力構造の決定を忠実に遂行できる冷静な人物と見なされたからに他ならない。
豊盛らは直ちに海を渡り、朝鮮半島南岸の諸将のもとへ向かった。彼らはまず、釜山に布陣していた総大将格の毛利輝元や、最前線で戦う加藤清正、小西行長といった有力大名たちに極秘裏に秀吉の死を伝え、全軍撤退の計画を協議させた。秀吉の死という衝撃的な情報に動揺する諸将をなだめ、説得し、整然とした撤退作戦を実行させるという任務は、一歩間違えば全軍崩壊の危機を招きかねない、極めて困難なものであった。豊盛らがこの任務を成功させたことは、彼の政治的手腕と冷静な判断力の高さを物語っている。
この密使としての経験は、宮城豊盛のその後の人生に決定的な影響を与えた。彼は、秀吉という絶対的な権力者の死と、それに伴う豊臣政権の権力構造の変質を、誰よりも早く、そして深く認識する機会を得たのである。特に、この撤兵計画を事実上主導していた徳川家康の存在感と、彼が次代の天下人として政局の中心に座りつつある現実を、肌で感じ取ったはずである。この経験によって得られた情報と洞察は、二年後に訪れる関ヶ原の合戦において、彼が自らの家と家臣団の存続を賭けて下すことになる重大な決断の、重要な布石となった。
豊臣秀吉の死後、その巨大な権力の空白を埋める形で徳川家康が台頭し、これに石田三成ら豊臣政権の奉行たちが反発したことで、日本は再び内乱の危機に瀕した。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の合戦が勃発すると、全国の大名は家康率いる東軍につくか、三成率いる西軍につくか、という究極の選択を迫られた。
宮城豊盛は、秀吉から直接恩顧を受けた「豊臣恩顧」の大名であった。しかし、彼は迷うことなく徳川家康の東軍に与した。この決断は、一見すると旧主への裏切りと映るかもしれない。しかし、彼のこれまでの経歴と、彼が置かれていた状況を深く考察すれば、それは家名を存続させるための、極めて現実的かつ合理的な政治判断であったことが理解できる。
その判断の根底には、まず朝鮮撤兵の密使として得た情報優位性があった。彼は秀吉死後の最高レベルの意思決定プロセスに関与し、徳川家康が事実上の最高権力者として政局を主導している現実を目の当たりにしていた。豊臣政権がもはや一枚岩ではなく、内部から崩壊しつつあることを誰よりも理解していたはずである。
また、豊盛のような秀吉の近習出身の武功派大名と、石田三成に代表される吏僚派(官僚派)との間には、潜在的な対立関係があった可能性も指摘されている。三成の掲げる「豊臣家のため」という大義名分に、豊臣政権全体の未来を託すことができない、という判断があったとしても不思議ではない。
さらに、彼の石高(約1万8,300石)では、単独で大局を左右することは不可能であった。このような中小規模の大名にとって、勝ち馬に乗ることこそが、自らの領地と家臣団を守るための最も確実な道であった。彼の選択は、加藤清正や福島正則といった、より大きな石高を持つ豊臣恩顧大名が東軍についた論理の延長線上にあり、時代の流れを冷静に見極めた結果であった。
東軍への参加を決めた豊盛は、その忠誠を行動で示した。関ヶ原の本戦に先立ち、家康が上杉景勝を討伐するために開始した会津征伐に従軍する。その途上で石田三成が挙兵したため、軍勢を西に転じ、西軍に属した織田秀信が守る岐阜城の攻略戦に参加し、武功を挙げた。そして慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の本戦にも参陣し、東軍の勝利に貢献した。
戦後、徳川家康は論功行賞を行った。豊盛の東軍への貢献は高く評価され、彼の所領は安堵された。すなわち、引き続き讃岐丸亀1万8,300石の領主であることが公的に認められたのである。この「所領安堵」という結果は、彼の決断が家門存続という目的において「正解」であったことを示している。一方で、福島正則のように寝返りによって戦局を大きく変えた大名が大幅な加増を得たのとは対照的に、豊盛に加増がなかったことは、彼の貢献が「危険を冒して大きな見返りを狙う」ものではなく、「忠実な追随者」として評価されたことを意味する。彼は、ハイリスク・ハイリターンな賭けに出るのではなく、着実に生き残る道を選び、そしてそれを成功させたのである。
関ヶ原の合戦を経て、宮城豊盛は徳川家康が創始した新たな支配体制、すなわち江戸幕府の下で生きる道を選んだ。彼は豊臣恩顧の「外様大名」という立場にありながら、徳川の治世に巧みに適応し、その忠誠心を示し続けた。
関ヶ原の後、豊盛は讃岐丸亀藩の初代藩主として、徳川の幕藩体制に組み込まれた。外様大名として、幕府からは一定の警戒と監視の対象とされつつも、彼は徳川家への恭順の意を明確に示し、藩主としての務めを果たした。
そして、彼にとって旧主・豊臣家への忠誠心と、新主・徳川家への忠誠心のどちらが本物であるかを示す、最後の、そして最大の踏み絵となる事件が起こる。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、そして翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣である。この戦いは、関ヶ原後も大坂城にあって潜在的な脅威であり続けた豊臣秀頼を、徳川家が完全に滅ぼすための総力戦であった。
かつて秀吉から直接恩顧を受けた多くの豊臣恩顧大名にとって、旧主の遺児である秀頼を攻めることは、複雑な心境を伴うものであった。しかし、宮城豊盛はここに一切の迷いを見せなかった。彼は冬の陣・夏の陣の両方に徳川方として従軍し、豊臣方と戦ったのである。この行動は、彼がもはや自らを「豊臣の家臣」ではなく、「徳川の家臣」として完全にアイデンティティを転換させたことを、天下に示すものであった。それは、過去の恩義よりも、未来の家の存続を優先するという、彼の生涯を貫く現実主義的な姿勢の最終的な現れであった。
大坂の陣における豊盛の戦功は、幕府によって正当に評価された。戦後、彼は2,000石の加増を受け、その所領は合計で2万300石となった。この石高が、宮城家の歴史における最大のものである。加増された石高の絶対額こそ小さいものの、その象徴的な意味は極めて大きかった。これは、徳川家康・秀忠という幕府の最高権力者が、豊盛の忠誠を公的に認め、「疑いなき徳川の臣」として遇したことの証であった。この加増により、宮城家は徳川体制下での存続を確実なものとしたかに見えた。
豊臣家が滅亡し、元和偃武によって戦乱の世が完全に終わりを告げた後、豊盛は数年の平穏な時期を過ごした。そして元和5年(1619年)10月14日、彼はその波乱に満ちた生涯を閉じた。浅井家の滅亡から織田、豊臣、そして徳川と、四代の主君に仕え、激動の時代を見事に生き抜いた彼の人生は、ここで幕を閉じたのである。
宮城豊盛は、その卓越した政治感覚と現実主義的な判断力によって、戦国の動乱から江戸の泰平へと続く時代の荒波を乗り切り、自らの家を大名として存続させることに成功した。しかし、彼が一代で築き上げたその地位は、あまりにも唐突な形で終焉を迎えることになる。
豊盛の死後、家督は子の宮城豊嗣(とよつぐ)が継承し、讃岐丸亀藩二代藩主となった。豊嗣は父が築いた基盤の上で、安定した江戸時代における藩主としての務めを果たしていた。しかし、豊盛の死から17年後の寛永13年(1636年)、藩主・豊嗣が跡継ぎとなる男子のいないまま急死するという、宮城家にとって最大の悲劇が訪れた。
当時、江戸幕府は、大名の無秩序な家督相続を防ぎ、その権力を統制するために、当主が死に際に慌てて養子を迎える「末期養子(まつごよし)」を原則として厳しく禁じていた。事前に幕府の許可を得た養子でなければ、家督の相続は認められなかったのである。豊嗣には事前に届け出た養子がおらず、宮城家は「無嗣(むし)」、すなわち跡継ぎがいないことを理由に、幕府から「改易」を命じられた。改易とは、大名としての地位を剥奪し、領地をすべて没収するという、武家にとって死に等しい最も重い処分であった。
こうして、宮城豊盛が興した讃岐丸亀藩宮城家は、わずか二代、約50年でその歴史に幕を下ろした。一族の一部は後に旗本として幕府に仕えるなどして存続した可能性も指摘されるが、大名家としての宮城家は完全に断絶し、歴史の表舞台から姿を消すことになった。
宮城家の改易という結末は、豊盛の生涯にわたる巧みな政治的立ち回りと生存戦略が、いかに彼個人の能力に依存したものであり、次世代への継承がいかに困難であったかを物語る、皮肉な結末である。豊盛は、戦国の動乱、豊臣政権の成立と崩壊、そして徳川幕府の創設という、三つの巨大な時代の転換点を、すべて乗り切ってみせた。これは驚くべき生存能力の証左である。
しかし、彼がその能力を駆使して築き上げた大名家という地位は、平和な江戸時代において、幕府が定めた厳格な「法」と「制度」の前にはあまりにも無力であった。戦国時代を生き抜くために必要とされた能力、すなわち時流を読む力、政治的判断力、そして時には主君をも乗り換える決断力といったものは、泰平の世となった江戸時代に家を安定して存続させるために必要とされた能力、すなわち安定した藩政運営や、確実な後継者の確保といったものとは、全く異質であった。
宮城豊盛の生涯は、一個人の類稀なる才覚で乱世を乗り切る英雄譚である。しかし、その家の結末は、もはや個人の才覚だけでは乗り切ることのできない、より強固で非情な幕藩体制という新しい時代の到来を、静かに、しかし明確に象徴しているのである。
宮城豊盛の生涯を俯瞰するとき、彼は歴史に名を轟かせる傑出した英雄でも、悲劇的な運命を辿った武将でもない。しかし、だからこそ彼の人生は、戦国末期から江戸初期という時代の本質を理解する上で、極めて重要な示唆を与えてくれる。
宮城豊盛を評価する上で最も適切な言葉は、「生存者(サバイバー)」そして「現実主義者(リアリスト)」であろう。彼は浅井氏の滅亡に際して織田信長に、本能寺の変後には豊臣秀吉に、そして秀吉の死後は徳川家康にと、常に時代の覇者を見極め、その麾下に入ることで自らの活路を開いてきた。この一貫した行動は、単なる日和見主義と断じるべきではない。それは、時代の激動を冷静に分析し、自らの家と家臣団を守るために、常に生き残るための最善の選択をし続けた、極めて優れた能力の現れと評価すべきである。彼の人生は、イデオロギーや感情論ではなく、冷徹なまでの現実認識に基づいた生存戦略の連続であった。
豊盛の生涯は、大大名ではない、数万石クラスの中規模大名が、いかにして時代の変化に適応し、家名を存続させようと苦闘したかを示す、貴重な実例である。彼の石高では、天下の趨勢を自ら左右することはできない。それゆえに、大きな権力構造の変動を敏感に察知し、自らの立ち位置を的確に定める必要があった。関ヶ原で東軍に与し、大坂の陣で徳川方として戦った彼の行動原理は、同時代に生きた多くの、歴史に名を残さなかった中小規模の大名たちのそれと重なる部分が多い。彼の軌跡を追うことは、この時代の武士階級の大多数を占めた人々の思考と行動を理解する上で、重要な手がかりとなる。
豊盛のキャリアの中で、特に再評価されるべきは、慶長3年(1598年)に秀吉の死を朝鮮在陣中の諸将に伝える密使を務めたという事実である。この任務は、豊臣政権の終焉と徳川への権力移行という、日本の歴史における決定的な転換点において、彼が極めて重要な役割を担っていたことを示している。彼はこの時、歴史の転換点にただ立ち会っただけでなく、そのプロセスに深く関与した重要な証人であった。この一点だけでも、宮城豊盛は単なる一地方大名としてではなく、時代の深層を理解する鍵を握る人物として、より一層の注目に値する。
宮城豊盛の人生は、華々しい成功物語でも、涙を誘う悲劇でもない。しかし、それは激動の時代を渡りきった一人の武将の、堅実で、時に非情なまでの現実主義に裏打ちされた、見事な生存の軌跡である。彼の生涯は戦国という時代の終わりを、そして彼が築いた家のあっけない終焉は、江戸という新しい時代の非情な始まりを、それぞれ鮮やかに映し出している。歴史の主役たちの影に隠れがちな、宮城豊盛のような人物の生涯に光を当てることによって、我々は日本の歴史の転換期を、より立体的かつ深く理解することができるのである。