宮部継潤
宮部継潤は比叡山の僧から武将となり、浅井家臣を経て秀吉に仕えた。武勇と統治能力に優れ「日ノ本無双」と称されたが、関ヶ原で家は改易された。

宮部継潤:僧にして武将、秀吉を支えた「日ノ本無双」の全生涯
序章:乱世を駆け抜けた僧形の武将
戦国乱世から天下統一へと時代が大きくうねる中、歴史の表舞台に躍り出た武将は数多いる。しかし、宮部継潤(みやべ けいじゅん)ほど、その経歴と能力において特異な光を放つ人物は稀であろう。比叡山の僧侶から身を起こし、浅井家の盾となり、やがて羽柴(豊臣)秀吉の腹心としてその天下統一事業を支える。彼は、卓越した武勇で「日ノ本無双」とまで称えられながら、同時に算勘に長けた統治者として都市を築き、鉱山を経営した 1 。
一般に、継潤は「浅井家旧臣」あるいは「秀吉配下の地味な武将」として語られがちである。しかし、その実像は、僧侶の教養、在地領主としての実力、武将の武勇、そして官僚の統治能力を一身に兼ね備えた、稀有な「マルチロール・プレイヤー」であった 4 。本報告書は、宮部継潤という人物を一面的な評価から解き放ち、その出自から一族の末路に至るまで、生涯の軌跡を徹底的に追跡する。彼の行動原理、多岐にわたる能力、そして秀吉から寄せられた絶大な信頼の源泉を多角的に分析し、乱世の移行期にあって彼が果たした真の歴史的意義を解明することを目的とする。
本編に先立ち、読者の理解を助けるため、彼の複雑な生涯を概観する略年表を以下に示す。
年代(和暦/西暦) |
年齢(推定) |
出来事 |
役職/地位 |
石高/領地 |
享禄元年(1528)? |
0歳 |
近江国にて誕生 1 。 |
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天文九年(1540) |
13歳 |
比叡山延暦寺に入り、修行を開始 6 。 |
僧侶(山法師) |
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元亀三年(1572) |
45歳 |
羽柴秀吉の調略に応じ、織田信長方に寝返る 7 。 |
織田家臣(秀吉与力) |
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天正八年(1580) |
53歳 |
但馬平定の功により、豊岡城主となる 7 。 |
但馬豊岡城主 |
2万石 |
天正九年(1581) |
54歳 |
第二次鳥取城攻めに参加。開城後、城代となる 7 。 |
因幡鳥取城代 |
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天正十五年(1587) |
60歳 |
九州征伐に従軍。根白坂の戦いで島津軍を撃退 1 。 |
因幡鳥取城主 |
約5万石 |
文禄二年(1593) |
66歳 |
因幡銀山を開き、経営を任される 2 。 |
検地奉行、銀山奉行 |
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文禄三年(1594) |
67歳 |
加増され、知行高が最大となる 8 。 |
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8万1千石 |
慶長元年(1596) |
69歳 |
隠居し、豊臣秀吉の御伽衆となる 1 。 |
御伽衆 |
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慶長四年(1599) |
72歳 |
3月25日、逝去 1 。 |
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第一部:黎明期 — 近江の土豪から浅井家の盾へ
宮部継潤が戦国武将として歴史の舞台で飛躍を遂げる以前、彼の人物像を形成した黎明期は、極めて複雑な要素に満ちている。単に僧侶から還俗したという単純な経歴では語れない、彼の権力基盤の成り立ちと運命の転換点を深く掘り下げることで、後の活躍の土台となった本質が見えてくる。
出自の謎と僧籍時代
宮部継潤の出自は、近江国坂田郡醒ケ井(現在の滋賀県米原市)の国人であった土肥真舜の子として、享禄元年(1528年)頃に生まれたと伝わる 2 。その家系は桓武平氏土肥氏の後裔とされ、彼の内に流れる武家の血が、後の武人としての卓越した素養の根源にあったことを示唆している 6 。
幼名は孫八といい、天文九年(1540年)、9歳(一説に13歳)で比叡山延暦寺に上り、出家する 3 。その後、浅井郡宮部村(現在の長浜市)にある湯次神社の社僧・宮部善祥坊清潤の養子となり、善祥坊継潤と名乗った 2 。比叡山での修行は、彼に仏教の知識のみならず、深い教養と冷静な洞察力をもたらし、後の知略や交渉術の重要な基盤となったことは想像に難くない 2 。
しかし、彼の初期のキャリアを決定づけたのは、単なる僧侶としての側面だけではなかった。近年の研究では、宮部氏が室町幕府の重臣・伊勢氏の被官であり、下湯次庄における「庄司(荘園の管理者)」であったことが指摘されている 5 。これは、彼が宗教的な権威だけでなく、世俗的な経済権力を掌握する立場にあったことを意味する。応仁の乱以降、幕府の権威が失墜し、各地で荘園が国人領主によって横領される時代となると、継潤もまたこの流れに乗り、伊勢氏から管理を任されていた荘園を自らの支配下に置き、宮部神社を修築して城塞化(宮部城)し、兵を率いて自立する土豪となった 5 。
この事実は、宮部継潤の権力基盤が「僧侶(宗教的権威・教養)」と「庄司(世俗的・経済的権力)」という二重のアイデンティティを併せ持つ、極めてハイブリッドなものであったことを物語っている。一般的に僧侶が武将となる場合、そのネットワークや交渉術が主な武器となるが、継潤はそれに加え、荘園管理の実務経験と、それを基盤とした在地支配力という、より強固な実力を持っていた。彼が浅井氏に仕える以前から、自らの兵を率い、城を構えるだけの経済的・軍事的基盤を有していたことは、彼を単なる一兵卒ではなく、浅井家にとって無視できない存在たらしめ、後の秀吉による調略の対象となるだけの価値を与えた根源であったと言えよう。
浅井家臣としての雌伏
故郷の近江に戻り、土豪として地盤を固めた継潤は、やがて北近江の戦国大名・浅井長政に仕えることとなる 7 。織田信長との対立が激化する中、継潤は浅井軍の将として数々の戦いで武勇を発揮した 1 。特に、信長が浅井氏攻略の最前線拠点として築いた横山城の城将・羽柴秀吉とは、直接対峙する関係にあった 7 。
彼の武勇を物語る逸話として、江戸時代の軍記物『武家事紀』には、ある戦で弓の名手と対峙した際、相手が立て続けに放った矢を三本まで、その手に持つ槍で打ち落としてみせたという伝説的な武勇伝が記されている 2 。これは彼の卓越した武芸の腕前を象徴するエピソードである。
しかし、浅井家における彼の立場は、譜代の重臣ではなく、いわば外様の「山法師崩れ」であった 5 。そのため、いくら戦功を上げても、それに見合うだけの厚遇、例えば新たな領地や城を与えられることはなかった可能性が指摘されている。彼の能力と功績、そして与えられた待遇との間には、少なからぬ乖離があったのかもしれない。
運命の転換点 — 秀吉による調略
元亀三年(1572年)10月、継潤の運命を大きく変える出来事が起こる。対峙する敵将、羽柴秀吉から織田方への寝返りを促す調略が仕掛けられたのである 7 。この調略は、信長が継潤の古巣である比叡山を焼き討ち(元亀二年九月)にしてから、わずか1年後のことであった 5 。
継潤にとって、比叡山を虐殺の舞台に変えた信長は仇も同然であり、当初はこの誘いを「悪い冗談」としか考えられなかったという 5 。加えて、当時の戦況は必ずしも織田方に有利ではなく、浅井・朝倉連合軍は信長包囲網の一翼を担い、織田方を苦しめていた。このような状況下での裏切りは、合理的な判断とは到底言えなかった。
しかし、秀吉の説得は、継潤の心の琴線に巧みに触れる、高度な心理戦であった。軍記物『浅井三代記』によれば、秀吉は中国の古典『史記』に由来する故事「九牛の一毛」を引き合いに出し、継潤のプライドと野心に訴えかけた 5 。秀吉は、「貴殿がこの小城を守って本望を遂げたところで、それは多くの牛の中の一本の毛を失うような、取るに足らないことではありませぬか」と問いかけ、さらにこう続けたとされる。「浅井家では、譜代ではない貴殿は使い潰されるだけだ。しかし、我が主君・信長公は、この私のような卑賤の生まれでも実力次第で一軍の大将に引き立てるお方。貴殿ほどの教養と武勇を持つ人物を、そのままにしておくはずがない」と。
この説得は、継潤が単なる武辺者ではなく、古典に通じた教養人であることを見抜いた上でのものであった。己の価値が正当に評価されない現状への不満と、実力主義の新興勢力で力を試したいという野心。秀吉は、その二つを的確に突き、継潤の心を動かしたのである。苦悩の末、継潤は調略に応じることを決断。その証として浅井方の国友城を攻めた際には、敵の銃撃を受けて負傷しており、彼の決意がいかに固いものであったかを物語っている 7 。
豊臣秀次との養子縁組
継潤の寝返りに際し、彼と秀吉の関係を語る上で極めて重要なのが、秀吉の甥・秀次(後の豊臣秀次)との養子縁組である。従来、この養子縁組は、継潤を確実に味方に引き入れておくための「人質」政策の一環であり、浅井氏が滅亡した天正元年(1573年)には解消され、秀次は秀吉のもとへ返還されたと考えられてきた 5 。
しかし近年、堀越祐一氏や黒田基樹氏らの研究により、この通説に一石を投じる新説が提唱されている。その根拠となるのが、天正九年(1581年)5月付の文書に、家臣へ知行を与えている「宮部次兵衛尉吉継」なる人物の存在である 7 。この「吉継」という名は、宮部継潤の「継」と羽柴秀吉の「吉」から一字ずつ取ったものと考えられ、この人物こそが秀次であると比定されている 7 。
この新説が示唆するのは、秀次が単なる一時的な人質ではなく、継潤の正式な「養嗣子」として元服し、宮部家を継ぐ者として位置づけられていた可能性である。もしそうであれば、宮部継潤と秀吉の関係性は根本的に見直されなければならない。秀吉が、自らの一門であり後継者候補の一人である最愛の甥を、一武将の正式な跡継ぎとすることを認めたのであれば、それは継潤に対する最大限の信頼と評価の証に他ならない。この「擬似的親族関係」は、継潤が単なる与力や部将ではなく、豊臣家にとって「身内」に準ずる極めて特別な地位を与えられていたことを意味する。彼が後に山陰方面全体の指揮を任されたり 7 、本能寺の変後の危機的状況で毛利勢に対する最前線・鳥取城の留守を託されたり 7 といった破格の待遇を受けた背景には、この強固な信頼関係があったと考えるのが自然であろう。この関係は、後の宮部家の運命を左右する重要な伏線となっていく。
第二部:飛躍期 — 秀吉軍団の中核として
織田・豊臣政権下で、宮部継潤はその才能を完全に開花させる。彼の活躍は単なる武功に留まらず、軍事司令官、都市計画家、そして統治者として、秀吉の天下統一事業に不可欠な役割を果たした。この飛躍期は、継潤が戦国時代が求める武将像の変化を体現し、秀吉が理想とした「戦う統治者」へと進化していく過程であった。
山陰方面の司令官
秀吉の与力となった継潤は、天正五年(1577年)から始まる中国攻めに従軍する。当初は主に秀吉の弟である羽柴秀長(豊臣秀長)の配下として、但馬国(現在の兵庫県北部)の平定戦で多大な貢献を果たした 3 。彼の働きは秀長から高く評価され、秀長が山陽方面へ転戦した際には、彼に代わって山陰方面軍全体の指揮を担うほどの全幅の信頼を寄せられた 4 。
そして天正八年(1580年)頃、但馬平定の功績により、継潤は但馬豊岡城主として2万石の所領を与えられる 3 。ここで彼は、武将としてだけでなく、優れた都市計画家としての一面も見せる。荒れ果てていた木崎城を大改修して「豊岡城」と改名し、城下町を整備したのである 15 。円山川を外堀として利用し、武家屋敷と町人地を計画的に配置し、さらに税を軽くするなどの善政を敷いたことで、領内は安定し発展した 15 。この時に築かれた町割りが、現在の豊岡市の基礎となっており、彼の統治能力の高さを示す最初の輝かしい実績となった。
鳥取城攻めと因幡統治
但馬での功績に続き、継潤は秀吉による第二次鳥取城攻め(天正九年、1581年)に参加する。この戦いは、城内の兵糧を枯渇させる「渇え殺し」として知られるが、継潤はここでも重要な役割を果たした。最前線にあって毛利方の吉川元春が率いる援軍と対峙し続けるとともに 7 、鳥取城と雁金山城を結ぶ補給路を遮断し、城を孤立させる上で決定的な働きを見せた 17 。
鳥取城が開城すると、秀吉はその戦功と、何よりも彼への深い信頼から、継潤を城代に任命し、因幡国(現在の鳥取県東部)の支配を委ねた 2 。この人事は、継潤のキャリアにおいて極めて重要な意味を持つ。翌天正十年(1582年)に本能寺の変が勃発し、秀吉が主君・信長の仇を討つべく「中国大返し」を敢行、山崎の戦い、そして賤ヶ岳の戦いへと畿内で天下の覇権を賭けた主力決戦を繰り広げている間、継潤は毛利氏の脅威に直接晒される最前線・鳥取城をたった一人で守り抜いたのである 7 。この地味ながらも決定的に重要な功績は、秀吉が後顧の憂いなく天下取りに邁進できた大きな要因であり、二人の間にあった絶対的な信頼関係を何よりも雄弁に物語っている 4 。
継潤は因幡統治において、現地の国人衆であった垣屋氏や、鹿野城主となった亀井茲矩らを配下に組み込み、「因幡衆」の惣頭領として彼らを統率した 7 。これにより、軍事力と在地支配を巧みに融合させ、因幡の安定化に大きく貢献したのである 21 。
「日ノ本無双」の武勇 — 九州征伐での輝き
継潤の武人としてのキャリアが頂点に達したのは、天正十五年(1587年)の九州征伐においてであった。豊臣軍は緒戦の戸次川の戦いで手痛い敗北を喫しており、その雪辱を期して秀吉自ら大軍を率いて九州に上陸した 1 。
継潤は日向国高城(現在の宮崎県木城町)の攻防戦において、根白坂に築かれた砦の主将を任され、戦国最強と謳われた島津軍と直接対決することになる 1 。相対するは、島津四兄弟の末弟で猛将として知られる島津家久(一説には島津義弘)が率いる精鋭部隊であった。島津軍は凄まじい勢いで豊臣方の砦に襲いかかったが、継潤は冷静にこれを迎え撃つ。圧倒的な物量の鉄砲隊を効果的に運用し、その猛攻をことごとく粉砕、逆に島津方に900人以上の死傷者を出すという大損害を与え、ついに高城を陥落させた 1 。
この根白坂での決定的な勝利は、島津氏が秀吉に降伏する直接的な要因の一つとなった。獅子奮迅の働きを見せた継潤に対し、秀吉は「日ノ本無双の勇将なり」という最大級の賛辞を記した感状を送り、その功を激賞した 2 。これは、彼の武勇が天下人によって公式に認められた瞬間であり、その名を不滅のものとした。
武辺一辺倒にあらざる才
「日ノ本無双」と称えられた継潤だが、彼の真価は武勇だけに留まらなかった。彼は「算勘に長じた」と評されるように、数字に強い極めて有能な官僚としての一面も併せ持っていたのである 3 。
その能力は、豊臣政権下で遺憾なく発揮される。文禄二年(1593年)、大友義統が改易されると、継潤は山口宗永と共に豊後国(現在の大分県)の検地奉行に任命され、広大な太閤蔵入地の石高を正確に算定するという重要任務を遂行した 8 。
さらに同年、彼は因幡国巨濃郡蒲生郷に因幡銀山を発見・開発し、秀吉からその経営を直々に任されている 2 。この銀山は、文禄・慶長の役などを控えた豊臣政権にとって極めて重要な財源であり、その運営を任されたことは、継潤が経済官僚としても秀吉から絶大な信頼を得ていたことの証左である。
継潤のキャリアは、戦国時代が求める武将像の変化そのものを体現している。彼は、単に戦場で武功を立てるだけの「武辺者」から、占領地の統治、都市開発、財政・経済政策までを担う「戦う統治者(ウォーロード・アドミニストレーター)」へと見事に進化を遂げた。この軍事・行政・経済の三分野にわたる高い能力こそ、実力主義で人材を登用した秀吉が最も評価した資質であった。継潤は、まさに秀吉が理想とし、自らの政権を支える中核として求めた「豊臣的武将」の典型であったと言えるだろう。
第三部:円熟期と終焉 — 豊臣政権の重鎮として
天下統一が成り、豊臣政権が磐石のものとなると、宮部継潤の役割もまた新たな段階へと移行する。武将としての第一線からは一歩退き、秀吉の最も信頼する側近の一人として、その晩年を支えた。しかし、彼が築き上げた栄華は、その死後、後継者の代で脆くも崩れ去ることになる。この最終部では、継潤の円熟期と、宮部家の悲劇的な終焉、そしてその背景にある複雑な人間模様に迫る。
秀吉の御伽衆
慶長元年(1596年)、継潤は家督を嫡男の長房(史料によっては長煕とも 3 )に譲り、形式的に隠居する 1 。しかし、これは決して第一線からの完全な引退を意味するものではなかった。彼は政治活動を継続し、晩年は豊臣秀吉の「御伽衆(おとぎしゅう)」、あるいは「御咄衆(おはなししゅう)」の一員として、その側近くに仕えた 3 。
御伽衆は、単なる天下人の話し相手や時間潰しのための存在ではない。秀吉が心を許し、公式の評定の場では聞けないような本音の意見を求める、極めて重要な相談役・顧問団であった 27 。農民出身であることにコンプレックスがあったとされる秀吉は、特に知識や教養、そして経験豊かな人物を御伽衆として重用した 27 。
継潤がこの栄誉ある地位に選ばれた理由は複数考えられる。第一に、比叡山での修行経験に裏打ちされた深い教養である。秀吉は、彼を知識や情報を得るための貴重な情報源として重宝したであろう 27 。第二に、浅井家臣時代からの長い付き合いと、幾多の戦場と統治で積み上げた功績に裏付けられた、古参の重臣としての絶対的な信頼である 4 。そして第三に、大名としての確固たる地位を持ちながらも、秀吉の側近くで政務に関わることで、客観的かつ大局的な視点からの助言が期待されたからである。一説には、秀吉は将来的に明国を支配下に収めた暁には、その朝鮮統治の補佐役として継潤を考えていたとまで言われている 4 。
慶長三年(1598年)に秀吉がこの世を去ると、その翌年の慶長四年(1599年)3月25日、継潤もまた主君の後を追うかのように72年の生涯を閉じた 1 。
比較分析:宮部継潤と安国寺恵瓊
宮部継潤という人物の独自性を理解するために、同じく「僧侶から大名へ」という異色の経歴を持つ安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)と比較することは、極めて有益である 29 。両者のキャリアパスと役割を対比することで、継潤の個性がより鮮明に浮かび上がる。
比較項目 |
宮部継潤 |
安国寺恵瓊 |
出自 |
武家(土肥氏)の子として生まれ、後に僧籍に入る 7 。 |
武家(安芸武田氏)の遺児として保護され、僧籍に入る 29 。 |
権力への道筋 |
在地領主(庄司)としての実力で台頭し、武将として功績を重ねる。 |
毛利家の外交僧として活躍し、秀吉との交渉窓口となる。 |
主たる能力 |
軍事指揮、武勇、行政実務(都市計画、検地)、経済(鉱山経営) 4 。 |
外交交渉、情報分析、天下情勢を読む慧眼、謀略 29 。 |
秀吉との関係 |
古参の信頼篤い実務型部将。擬似的親族関係(秀次養父) 4 。 |
毛利家とのパイプ役。天下取りを助言する戦略的ブレーン 29 。 |
性格(推定) |
実直。武勇に優れる一方、算勘にも長ける実務家 2 。 |
慧眼。政治的野心に富み、目的のためには謀略も辞さない策謀家 29 。 |
関ヶ原の戦い |
本人は既に死去。嫡男・長房が西軍に与し、戦後改易 26 。 |
西軍の首謀者の一人として参戦。敗北後、捕縛され斬首 29 。 |
この比較から見えてくるのは、「実務の継潤」と「謀略の恵瓊」という対照的な姿である。継潤の功績は、但馬平定、鳥取統治、九州での戦闘、鉱山経営など、具体的な「実行」と「管理」に集中している。彼は秀吉の構想を現地で実現する、信頼できる執行者であった。一方、恵瓊の功績は、毛利と秀吉の和睦交渉や肥後国人一揆での調略など、「交渉」と「謀略」が中心である。彼は秀吉の天下取りのグランドデザインに関わる戦略的パートナーであった。この役割の違いは、彼らの最期にも決定的な影響を与えた。実務家であった継潤は、絶対的な中心であった秀吉の死と共にその役目を終え、穏やかな晩年を送った。対照的に、謀略家であった恵瓊は、秀吉死後の新たな政治力学の中に深く身を投じ、関ヶ原で破滅したのである。
宮部家の没落
継潤の死後、嫡男の宮部長房が8万石余の大名として家督を継承するが、そのわずか1年後、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する 26 。
長房は当初、徳川家康に従い会津の上杉景勝征伐に従軍していた。しかし、道中で石田三成ら西軍挙兵の報に接すると、西軍に与することを決断する 26 。この決断の背景には、与力であった木下重堅や垣屋恒総が既に西軍に加わっていたことや、家中の意見対立など、複雑な事情があったとされる 30 。
結果として西軍は一日で壊滅。長房の居城であった鳥取城は、東軍についた亀井茲矩らの攻撃を受けて開城し、戦後、宮部家は所領を全て没収される「改易」という最も厳しい処分を受けた 26 。継潤が一代で築き上げた栄華は、ここに潰えたのである。
この西軍加担の背景には、一つの謎が残されている。晩年の寛永七年(1630年)、長房は幕府に対し、「西軍に寝返ったのは、田中吉政に騙されたためである」とする弁明書を提出したという 30 。田中吉政は、かつて継潤に仕え、後に秀次の筆頭家老となった人物である 31 。この主張は、吉政をはじめ関係者の多くが既に死去していたため、真偽を確かめる術がなく「沙汰止み」となった 30 。長房の自己弁護である可能性は高いが、継潤、吉政、秀次、そして長房という、旧主従や養親子関係が複雑に絡み合った人間模様の中で、何らかの政治的駆け引きがあった可能性を完全に否定することはできない。
その後の宮部氏
改易処分となった長房は、田中吉政の助命嘆願もあって死罪は免れ、陸奥国の南部利直に預けられる身となった 26 。彼は盛岡で蟄居し、剃髪して長令と号し、寛永十一年(1634年)にその波乱の生涯を終えた 30 。
しかし、宮部氏の血筋が完全に途絶えたわけではない。一族はその後も南部藩(盛岡藩)の藩士として存続したとみられ、南部家に仕えた宮部氏の家紋は「橘菱」であったと伝わっている 6 。彼らは、主家である南部藩が戊辰戦争での敗戦や明治維新という歴史の奔流に揉まれる中で、武士としての時代を終えるまで、その名を繋いでいったと考えられる 32 。
結論:宮部継潤が現代に問いかけるもの
宮部継潤の生涯を俯瞰するとき、我々は彼が単なる戦国武将という枠には収まらない、極めて多才な人物であったことを改めて認識する。僧侶としての深い教養、在地領主として培った実力、戦場で「日ノ本無双」と称えられた武勇、そして都市を築き、国家財政の一翼を担った官僚としての統治能力。これら全てを兼ね備えた彼は、まさに乱世が生んだ「マルチロール・プレイヤー」であった。
彼のキャリアは、戦国乱世の「力による支配」から、豊臣政権が目指した「統治による支配」へと、時代が求めるリーダー像が移行していく過程そのものを象徴している。軍事、行政、経済の各分野で高い専門性を発揮した継潤の能力は、実力主義を掲げた秀吉の新しい国家体制において不可欠なものであり、彼の活躍は個人の資質のみならず、時代の要請でもあったと評価できよう。
その生涯は、現代に生きる我々にも多くの示唆を与える。一つの専門分野を深く極めること(武勇)と、分野を横断する多様なスキル(統治・経済)を身につけ、両立させることの重要性。そして、一代で築き上げた巨大な成功も、後継者の判断一つ、あるいは時代の変化という大きな波の前には、かくも脆く崩れ去るという組織の無常。宮部継潤の物語は、激動の時代を生き抜くための知恵と、権力の儚さを我々に語りかける、色褪せることのない歴史の一頁である。
引用文献
- 宮部 継潤-みやべ けいじゅん http://bit.sakura.ne.jp/tuwamono/busyou1/d16/d16kyuu-page1/d16-b14.htm
- 日本無双の勇将、宮部継潤の生涯と魅力 - 大河ドラマや信長の野望で ... https://tsukumogatari.hatenablog.com/entry/2019/10/18/190000
- 宮部継潤 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/MiyabeKeijun.html
- 宮部継潤 秀吉からの信頼は絶大!戦うお坊さん - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=h9t1LqgsUms
- 「それで、まことに本望なのか?」織田信長は“かたき”同然だったが…「日本無双」の法師武者を寝返らせた豊臣秀吉の説得術 - 本の話 https://books.bunshun.jp/articles/-/8253
- 武家家伝_宮部氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/miyabe_k.html
- 宮部継潤 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E7%B6%99%E6%BD%A4
- 宮部繼潤- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E7%B9%BC%E6%BD%A4
- 宮部継潤(みやべけいじゅん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E7%B6%99%E6%BD%A4-1113922
- 宮部継潤(ミヤベケイジュン)|戦国のすべて https://sgns.jp/addon/dictionary.php?action_detail=view&type=1&dictionary_no=825&bflag=1
- 宮部継潤出生地 | 長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト https://kitabiwako.jp/spot/spot_3073
- 乱世を照らした「慈愛」の光 ― 宮部継潤、その生涯と信仰に生きた道 https://kenplanning.sakura.ne.jp/www/2025/05/26/%E4%B9%B1%E4%B8%96%E3%82%92%E7%85%A7%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%8C%E6%85%88%E6%84%9B%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%85%89-%E2%80%95-%E5%AE%AE%E9%83%A8%E7%B6%99%E6%BD%A4%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%94%9F/
- 戦国武将のお話 その7 | テラソリューション https://www.terasol.co.jp/various/9287
- 宮部繼潤Miyabe Keijun - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/kinki/miyabe-tsugimasu
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