後北条氏の家臣団において、ひときわ異彩を放つ武将がいる。その名は富永直勝。北条家の精鋭部隊「五色備」の一角である「青備」を率い、一門衆以外では最高クラスの知行を与えられ、そして第二次国府台合戦の露と消えた悲劇の将として、その名は戦国史に刻まれている。しかし、彼の人物像は、これらの断片的な情報の集合体として語られることが多く、その生涯の全貌が体系的に解明されているとは言い難い。
本報告書は、現存する史料を丹念に読み解き、彼の出自である伊豆の在地領主としての富永一族の背景、北条家臣団における彼の具体的な地位と役割、そして彼の運命を決定づけた第二次国府台合戦の真相、さらには彼の死後、一族が辿った道筋までを多角的に検証する。これにより、通説として語られるイメージを超えた、富永直勝という一人の武将の実像に迫ることを目的とする。彼の生涯を追うことは、単に一個人の伝記をなぞるに留まらない。それは、伊豆の在地勢力がいかにして戦国大名・後北条氏の権力構造に組み込まれ、その中核を担うに至ったかという過程を解明する鍵となる。また、彼の栄光と悲劇は、後北条氏の軍事・統治システム、そして関東の覇権を巡る熾烈な争いの実態を、生々しく映し出す鏡でもある。
富永直勝の輝かしい経歴を理解するためには、まず彼の一族が伊豆半島においてどのような存在であったかを知る必要がある。富永氏のルーツは三河国設楽郡に遡るとされ、応仁の乱(1467-1477年)前後に伊豆へ移住した御家人であった可能性が指摘されている 1 。南北朝時代の史料にはすでに「土肥高谷城主富永備前守」の名が見え、古くから伊豆西海岸に根を張る在地領主、いわゆる国人であったことがわかる 3 。
彼らの一族は、伊豆西海岸の土肥(現・静岡県伊豆市)を本拠とし、高谷城やその支城である丸山城を拠点として勢力を扶植していた 3 。この三方を海に囲まれた伊豆半島という地理的条件は、富永氏に特異な性格を与えた。彼らは地域の小海賊や水上勢力を束ね、独自の海上戦力を有する「水軍」として、その名を馳せていたのである 4 。
この「水軍」としての専門性こそが、富永氏の運命を大きく左右することになる。後北条氏の祖である北条早雲(伊勢宗瑞)が伊豆に侵攻した際、伊豆半島の制圧と維持には、陸上戦力のみならず、海上交通路を確保・統制する水軍の力が不可欠であった。早雲にとって、富永氏は伊豆平定を円滑に進めるための、まさに喉から手が出るほど欲しい「海の専門家集団」だったのである。したがって、富永氏の早雲への帰順は、単なる一方的な服従ではなく、新興勢力である北条氏と在地勢力である富永氏との間の戦略的提携であったと見ることができる。富永氏はその卓越した水軍力という専門技術を提供することで、北条家における特別な地位の礎を築いたのである。
明応二年(1493年)、北条早雲が伊豆討ち入りを開始すると、直勝の父とされる富永政直はいち早くその麾下に加わった 2 。早雲は政直の能力と忠誠を高く評価し、自身の旗揚げの城であり、駿河における重要拠点であった興国寺城(現・静岡県沼津市)の城代に任じた。その後、早雲が本拠を韮山城に移した際にも、政直は引き続き興国寺城代を任されている 9 。
富永氏への信頼は、二代・氏綱の時代にさらに深まる。大永四年(1524年)、氏綱が扇谷上杉氏から江戸城を奪取すると、政直はその江戸城の本丸を預かる城代という、破格の重職に抜擢されたのである 2 。この事実は、『北条記』や『豆州志稿』といった複数の軍記物や地誌で言及されており、富永氏が北条家黎明期においていかに重要な役割を担っていたかを物語っている 9 。
興国寺城は早雲の駿河における橋頭堡であり、江戸城は武蔵国進出の最前線であった。これらの戦略的要衝の守りを、一門衆ではなく譜代の家臣である富永氏に委ねたという事実は、北条家が血縁のみに頼らず、能力と忠誠を実証した家臣を積極的に登用する、実力主義的な家臣団統制を行っていた証左と言える。特に江戸城は、江戸湾の制海権や利根川水系の水運を掌握する上で、水上交通の結節点でもあった。伊豆水軍を率いた富永氏の知見と経験は、陸の守りだけでなく、海の支配においても有用と判断された可能性が高い 4 。富永直勝が後に江戸城代を継承し、家中屈指の高禄を得る背景には、父・政直が二代にわたって築き上げたこの絶大な信頼と実績があった。富永家は、北条家の関東支配の最重要拠点を任されるほどの、譜代中の譜代としての地位を確立していたのである。
永正六年(1509年)に誕生した富永直勝は、父・政直の跡を継ぎ、北条家の東方戦略の要である江戸城の城代に就任した 11 。通称は神四郎、四郎左衛門、三郎右衛門尉など複数の名が伝わっている 11 。また、主君である三代当主・北条氏康から偏諱(名前の一字を与えられること)を受け、「康景(やすかげ)」と名乗ったともされており、これは彼が主君から受けた信頼の大きさを示唆するものである 11 。
当時の江戸城は、単独の城代が支配するのではなく、本丸を富永氏、二の丸を遠山氏、三の丸を太田氏がそれぞれ分担して守る「三人城代制」が敷かれていた 10 。これは、単一の家臣に権力が集中することを防ぎ、相互に監視・協力させることで城の防衛を万全にするための、高度な統治システムであったと考えられる。直勝はこの体制の中核として、江戸城の守備に重責を担った。さらに、下総国の葛西城(現・東京都葛飾区)の城代も兼務したとされ、北条氏の支配領域の東の守りを一手に引き受ける、まさに方面司令官とも言うべき立場にあった 10 。
直勝の役割は、城の守備という統治面に留まらなかった。軍事面において、彼は北条家の精鋭部隊「北条五色備(ごしきぞなえ)」の一つである「青備(あおぞなえ)」を率いる大将に任命されていた 11 。
五色備は、その名の通り黄・赤・青・白・黒の五色で部隊を編成したもので、それぞれ黄備を「地黄八幡」の異名を持つ猛将・北条綱成、赤備を北条綱高、白備を笠原康勝、黒備を多米元忠といった、北条家を代表する宿将たちが率いていた 15 。これらは単なる部隊の色分けではなく、北条軍団の中核をなす常備軍的な存在であり、その指揮官は「五家老」に列せられるほどの重臣であったとされている 11 。青備の具体的な兵力は史料上明らかではないが、戦国期の一般的な「備(そなえ)」の編成が300名から500名程度であったことを鑑みると 17 、直勝は数百の精兵を直率する軍事指揮官でもあったと推測される。
直勝が北条家中で占めていた地位の高さは、その経済的基盤からも裏付けられる。永禄二年(1559年)に北条氏康の命で作成された家臣団の知行高リストである『小田原衆所領役帳』には、「江戸衆」の筆頭として「富永弥四郎」の名で1383貫文の役高(軍役負担の基準となる知行高)が記録されている。この富永弥四郎が、直勝と同一人物であるというのが定説である 11 。
この1383貫という役高は、北条一門衆やごく一部の宿老を除けば、家臣団の中で最高クラスに位置する。この役高の高さが、「一門以外では最も高禄」という通説の根拠となっている。彼の知行地は、一族伝来の地である伊豆国西土肥に加え、相模国西郡飯田など広範囲に及んでいた 11 。
直勝の地位をより客観的に理解するために、他の主要家臣の役高と比較してみよう。
家臣名 |
役高(貫文) |
主な役職・立場 |
典拠 |
松田憲秀 |
1768貫110文 |
筆頭家老、小田原衆 |
18 |
富永直勝(弥四郎) |
1383貫 |
江戸城代、青備大将、江戸衆 |
11 |
南條重長 |
552貫105文 |
小田原衆 |
18 |
布施康則 |
438貫180文 |
小田原衆 |
18 |
注:北条綱成や大道寺政繁といった他の重臣は、役帳成立時には既に大身であり、それぞれの軍団(玉縄衆、河越衆)全体の役高として計上されていた可能性などから、役帳に個人名での記載がなく、単純な個人比較は難しい。
この表から、筆頭家老である松田憲秀が直勝を上回っていることがわかる。したがって、「一門以外で最も高禄」という通説は、厳密には「最も高禄な家臣の一人」と修正するのが正確であろう。しかし、1383貫という数値自体が、他の多くの重臣を圧倒していることは紛れもない事実である。
この破格の待遇は、彼が担っていた「江戸城代」と「青備大将」という二つの職務の重要性を物語っている。江戸は武蔵支配の拠点であり、青備は北条軍団の中核である。北条氏にとって生命線とも言える役割を二つも担っていた彼の高い役高は、単なる個人の知行ではなく、北条家の東方戦略全体を支えるための軍事・行政コストを含んだ、いわば「戦略的経費」としての側面も持っていたと考えられる。富永直勝の役高は、彼が単なる一武将ではなく、北条家の領国経営と軍事戦略において、一門に準ずるほどの極めて重要な「準一門」とも言うべき役割を担っていたことを示す、客観的な証拠なのである。
永禄六年(1563年)、越後の「軍神」上杉謙信による関東出兵は、関東の勢力図を大きく揺るがした。この動きに呼応し、武蔵岩付城主・太田資正が北条氏から離反。さらに、房総の雄・里見義堯、義弘親子がこれに同調し、北条方の重要拠点である下総国府台城(現・千葉県市川市)に迫った 19 。
国府台は、房総半島と武蔵国を結ぶ江戸川渡河の要衝であり、ここを失うことは北条氏の関東支配に大きな楔を打ち込まれることを意味した。事態を重く見た当主・北条氏康と嫡男・氏政は、里見・太田連合軍約1万2千に対し、約2万の大軍を率いて自ら迎撃を決意。房総の覇権を賭けた決戦の火蓋が切られようとしていた 20 。
永禄七年(1564年)正月七日、北条軍の先陣を務める富永直勝と、同僚の江戸城代・遠山綱景の部隊が、江戸川を挟んで国府台に布陣する里見軍と対峙した 11 。ここで、直勝と綱景は、氏康・氏政率いる本隊の到着を待たずして、独断で渡河攻撃を敢行するという、戦術上の禁忌を犯す 14 。
歴戦の将である彼らが、なぜこのような無謀とも思える行動に出たのか。その背景には、単なる功名心だけでは説明できない、武士としての強い情動があった。史料によれば、彼らは同じ江戸城代であった太田資正(康資とも)の離反を事前に察知できなかったことに、強い責任を感じていたと示唆されている 22 。この戦いは、彼らにとって失地回復であると同時に、汚された名誉を回復するための絶好の機会であった。先陣を切って敵を打ち破ることで、自らの忠誠を改めて証明し、先の失態を雪ぎたいという、強い焦燥感が彼らを突き動かしたのである。この行動は、冷静な戦略判断よりも、武士としての面目や責任感に根差した、悲壮な決意の表れであったと解釈できる。
しかし、この決死の覚悟は、里見義弘の巧みな戦術の前に脆くも崩れ去る。里見軍は巧みな偽装退却で北条軍先陣を国府台の崖上深くに誘い込んだ 22 。勝利を確信し追撃する直勝らの部隊に対し、潜んでいた里見軍の伏兵が一斉に襲いかかった。不意を突かれた北条軍先陣はたちまち混乱に陥り、壊滅的な打撃を受ける 22 。
この乱戦の最中、富永直勝は馬を縦横に駆って奮戦したが、現在の西蓮寺(下矢切)付近とされる「大坂」と呼ばれる急坂で馬を射られて落馬。折り重なるように攻めかかってきた里見勢に討ち取られた 23 。享年五十五。北条家を支えた宿将は、その忠誠を証明しようとした戦場で、壮絶な最期を遂げた。同僚の遠山綱景もまた、この戦いで命を落とした。
先陣の壊滅という衝撃的な報に接しながらも、後続の北条本隊は動揺することなく、総大将・氏康の冷静な指揮のもと再渡河を敢行した。特に、別動隊を率いた北条綱成が里見軍の背後を突く奇襲に成功し、戦局は一変。最終的に里見軍を撃破し、合戦そのものは北条方の辛勝に終わった 15 。
しかし、この勝利の代償はあまりにも大きかった。富永直勝、遠山綱景という、江戸方面の統治と軍事を一手に担う二人の宿将を同時に失ったことは、北条家にとって計り知れない損失であった 20 。この戦いは、北条氏が経験した数多の合戦の中でも、他に例がないほど有力武将を失った激戦として記録されている 22 。富永直勝の死は、一個人の悲劇に留まらず、盤石と思われた北条家臣団の層の厚さに、決して埋めることのできない亀裂を生じさせた事件だったのである。
富永直勝の死後、その家督と遺志は息子たちによって継承された。直勝には政辰(まさたつ)、政家(まさいえ)という息子がおり、彼らもまた父と同様に北条家に仕え続けた 11 。
特に富永政家は、父の死から26年後の天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐という北条家最大の危機において、その忠誠を証明する。彼は、北条氏康の子・氏規が城主を務める韮山城に籠城し、織田信雄や徳川家康らが率いる4万を超える豊臣軍の猛攻に約三ヶ月間も耐え抜いた 25 。この奮戦は、直勝から受け継がれた北条家への揺るぎない忠誠が、その子世代にも確かに継承されていたことを示している。また、この政家は伊豆水軍の将としても知られ、土肥の高谷城主であり、一族の菩提寺として清雲寺(現・伊豆市)を開基した人物としても名を残している 6 。
小田原城の開城により戦国大名としての後北条氏が滅亡すると、富永一族もまた大きな転機を迎える。彼らのその後の動向は、戦国から江戸へと移行する時代の武家の多様な生き残り戦略を象徴している。
韮山城で奮戦した富永政家は、北条氏滅亡後、徳川家康からその武勇を評価され、仕官の誘いを受けた。しかし、彼は旧主への義理を立ててこれを固辞。その代わりとして、長男の直則を家康に仕官させたという逸話が残っている 25 。これは、滅びゆく主家への忠節を貫くという武士の美学と、新たな時代で家名を存続させるという現実的な判断が交錯した、戦国武士の生き様を象徴するエピソードである。この直則の系統は、江戸時代を通じて幕府の直参である旗本として存続し 1 、『寛政重修諸家譜』などの幕府公式記録から、その後の系譜を追うことが可能である 13 。
一方で、直勝の同族とみられる富永重吉は、早くから徳川家に仕え、関ヶ原の戦いや大坂の陣で武功を挙げた。彼は普請奉行や鎗奉行といった要職を歴任し、最終的には1300石を知行する大身の旗本となっている 13 。特に剣術に長けていたことから、三代将軍・徳川家光の教授役も務め、その流派は「富永流」として後世に伝えられた 13 。
このように、富永一族は北条氏滅亡後、一様に同じ道を歩んだわけではない。旧主への忠義を貫き隠棲に近い道を選んだ者、父の意向で新時代の支配者である徳川家に仕官した者、そして早くから徳川に仕え専門技能で立身した者など、多様な生き残り戦略が見て取れる。富永氏が代々培ってきた「水軍の将」としての軍事技術や、「剣術の達人」としての専門技能が、新たな支配者である徳川家にとっても魅力的であったことが、彼らが旗本として家名を存続できた大きな要因であったことは間違いない。富永直勝が築いた名声と、一族が持つ固有の能力が、その後の家名存続の確かな礎となったのである。
富永直勝の生涯は、後北条氏という巨大な権力機構の中で、一人の譜代家臣がいかにしてその頂点近くまで上り詰め、そして戦場の露と消えていったかを示す、戦国武将の典型的な軌跡である。
彼は伊豆水軍の系譜を引く海の武士であり、北条氏の東方支配の要である江戸城を預かる統治者であり、そして北条軍団の中核を担う「青備」の大将でもあった。その多岐にわたる役割と、一門に準ずるほどの破格の待遇は、後北条氏が実力主義を重んじ、在地勢力を巧みに取り込む高度な統治能力を有していたことを証明している。
しかし、その最期は、武士としての名誉と責任感ゆえの焦りが引き起こした悲劇であった。彼の独断での渡河攻撃は、単なる勇猛や無謀として片付けるべきではなく、同僚の裏切りによって揺らいだ自らの忠節を、命を賭してでも証明しようとした行動であった。彼の死は、戦国という時代の非情さと、個人の武勇だけでは覆しがたい戦局の厳しさを我々に突きつける。
最終的に、富永直勝は「忠臣」としてその生涯を閉じた。しかし、彼が遺したものは、単なる悲劇の物語ではない。それは、北条家への忠誠を最後まで貫き通した子孫の生き様であり、新時代に巧みに適応し、旗本として家名を未来へ繋いだ一族の歴史である。富永直勝という一人の武将の生涯を詳細に追うことで、我々は後北条氏の栄光と滅亡、そして戦国武士の生き様を、より深く、より立体的に理解することができるのである。