最終更新日 2025-07-02

富田信吉

富田信吉(佐野信吉)の生涯 ― 豊臣恩顧から徳川の世へ、栄光と悲劇の軌跡

序論:富田信吉、その生涯の輪郭

豊臣から徳川へと天下の覇権が移る激動の時代、富田信吉(とみた のぶよし)は、富田と佐野という二つの名跡を背負い、時代の奔流に翻弄された武将である。豊臣秀吉の側近の子として生まれながら、関東の名門・佐野氏の家督を継ぎ、やがて徳川の世で栄光と悲劇の双方を味わった彼の生涯は、近世初期における大名のあり様を映し出す鏡と言える。

本報告書は、富田信吉の生涯を、現存する史料を丹念に読み解き、その歴史的文脈の中に再定位させることを目的とする。彼の人生を単なる個人の物語としてではなく、父・富田一白が築いた政治的遺産、兄・富田信高の行動がもたらした影響、そして「豊臣から徳川へ」という時代の転換期における政治力学という三つの視点から重層的に分析し、その実像に迫る。彼の足跡を辿ることは、戦国から江戸へと移行する過渡期を生きた一人の武将の運命を通して、新たな支配秩序が形成される過程の光と影を明らかにすることに繋がるだろう。

富田(佐野)信吉 年表

年代(西暦)

出来事

石高・身分

永禄9年(1566)

富田一白の五男として誕生 1

天正20年(1592)

佐野房綱の養子となり、佐野家の家督を相続。唐沢山城主となる 1

下野国佐野 3万9000石

慶長5年(1600)

関ヶ原の戦いで東軍に属す。戦後、所領を安堵される 2

佐野藩主 3万9000石

慶長7年(1602)

徳川家康の命により、唐沢山城から麓の佐野城(春日岡城)へ移転を開始 3

同上

慶長18年(1613)

兄・富田信高が「坂崎事件」により改易される 5

同上

慶長19年(1614)

江戸大火の際の無断参府を咎められる。兄・信高に連座し改易 2

改易、浪人

元和8年(1622)

赦免され江戸に移るも、同年7月15日に死去。享年57 1

寛永17年(1640)

嫡男・久綱が旗本として再興される 7

旗本 3000俵

第一部:出自と富田一族 ― 豊臣政権下での栄達

富田信吉の生涯を理解する上で、その出発点である富田家の出自と、父・一白が豊臣政権下で築き上げた地位を把握することは不可欠である。信吉の人生は、この父の威光という「遺産」の上に築かれたものであり、同時にその「遺産」に縛られ続けたものでもあった。

1. 父・富田一白の軌跡 ― 秀吉の側近として

富田氏は、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む一族で、近江国浅井郡富田荘を本貫地とする 9 。信吉の父、富田一白(いっぱく、初名は知信、信広)は、若年の頃より織田信長に仕え、天正元年(1573年)の長島一向一揆では17箇所の傷を負う奮戦を見せるなど、武勇をもって知られた 9

天正10年(1582年)の本能寺の変後、一白の運命は大きく転回する。羽柴秀吉に仕え、その側近として頭角を現したのである 9 。秀吉が天下人への道を駆け上る中で、一白は奉行衆の一人として重用され、小牧・長久手の戦い後の和睦交渉や、東国大名との外交折衝などを担当し、豊臣政権の中枢で重要な役割を担った 6 。文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では、秀吉本陣の前備衆筆頭として兵を率い、文禄3年(1594年)には伏見城の普請を分担するなど、秀吉の厚い信頼を得ていた 9

これらの功績により、一白は文禄4年(1595年)、織田信包の旧領であった伊勢安濃津(あのつ)に5万石(6万石とも)を与えられ、安濃津城主として大名の列に加わった 9 。晩年は秀吉の御伽衆となり、その死に際しては遺産の金30枚を賜っている 9 。一方で、同じ近江出身の石田三成とは不仲であったと伝わっており、この関係が後に富田家の運命を左右する一因となった 9

2. 信吉の誕生と兄弟

富田信吉は、富田一白の五男として、父がまだ秀吉の麾下で功を重ねていた時期に近江国で生まれた 2 。母は黒田久綱の娘である 9 。兄には、後に家督を継いで安濃津城主となる嫡男の信高や、豊臣秀次に仕えた高定らがいた 9 。父・一白の目覚ましい栄達により、富田家は豊臣政権下で確固たる地位を築き、信吉の将来は、この豊臣恩顧の大名家の一員として、当初は安泰であるかに見えた。

信吉の人生の最初の転機は、彼自身の能力や希望によるものではなく、完全に父・一白の政治的地位と、天下人・豊臣秀吉の国家戦略によってもたらされた。秀吉は小田原征伐後、関東の支配体制を盤石にするため、要衝の地に信頼できる人物を配置する必要に迫られていた。時を同じくして、後継者問題を抱えていた下野の名門・佐野氏が秀吉の介入を受け入れざるを得ない状況にあった。この二つの要素が結びついた結果、秀吉は自らの側近である一白の子・信吉を佐野氏に送り込むことで、間接的に佐野領を自身の勢力下に置くことを画策したのである 14 。したがって、信吉の「佐野家相続」は、彼の輝かしいキャリアのスタートであると同時に、豊臣政権の駒として配置されたという、彼の意志を超えた政治的宿命の始まりでもあった。

第二部:佐野家への養子入りと下野国唐沢山城主就任

富田信吉の人生において、最初の大きな飛躍は、下野国の名門・佐野氏の養子となり、その家督を継いだことであった。これは、豊臣秀吉による関東支配体制構築の一環であり、信吉は中央政権の代理人として関東の地に赴くことになった。

1. 下野の名門・佐野氏の窮状と天徳寺宝衍(佐野房綱)の奔走

佐野氏は藤原秀郷の流れを汲む名家で、代々下野国安蘇郡を本拠とし、関東七名城の一つに数えられる難攻不落の山城・唐沢山城を居城としていた 1 。しかし戦国末期、当主の佐野宗綱が天正13年(1585年)に戦死すると、家は動揺し、小田原の北条氏から氏忠を養子に迎えてその支配下に入った 1

ところが天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が滅亡すると、氏忠も没落し、佐野家は再び存亡の危機に立たされる 1 。この窮地を救ったのが、一族の佐野房綱(ほうこう)、法号・天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)であった。房綱は早くから秀吉に通じ、小田原征伐では豊臣軍の道案内役を務めるなどして功を立てた 4 。その功により、秀吉から佐野家の名代(当主代行)として本領3万9000石を安堵されたが、あくまでも暫定的な当主であり、正式な後継者を立てる必要があった 2

2. 豊臣家臣・富田信吉の養子入り

ここで白羽の矢が立ったのが、秀吉の側近・富田一白の子である信吉であった。房綱の奔走と秀吉の強い意向により、天正20年(文禄元年、1592年)9月22日、信吉は房綱の婿養子として佐野家の家督を継ぐことが決まった 2 。当初は佐野政綱と名乗り、後に秀吉から「吉」の一字を与えられて信吉と改名した 1 。また、同年には豊臣姓も下賜されており、彼が豊臣政権直属の大名として位置づけられていたことがわかる 2 。妻には、房綱の養女となった佐野宗綱の娘を迎えた 2

3. 唐沢山城主としての統治 ― 近畿の城郭技術導入

こうして下野国唐沢山城主、3万9000石の大名となった信吉は、ただ名跡を継いだだけではなかった。彼は領主として、その居城に大きな変革をもたらした。信吉の時代、唐沢山城には大規模な石垣普請が行われ、特に本丸周辺には高さ8メートルを超える壮大な高石垣が築かれた 16 。これらの石垣は、隅部の算木積みや緩やかな反り(扇の勾配)といった特徴を持ち、当時最先端であった畿内の穴太衆(あのうしゅう)などが用いた城郭技術(穴太積み)が導入されたことを明確に示している 19

この石垣普請は、単なる城の防御力強化に留まらない、きわめて政治的な意味合いを持つものであった。近江出身で豊臣政権中枢に連なる信吉が、中央の先進技術を関東の伝統的な城郭に持ち込むことは、旧来の関東豪族たちに対して、自身の権威と、その背後にある豊臣政権の圧倒的な力と文化を視覚的に誇示する行為であった。土塁を主とした関東の城郭文化の中に、突如として現れた壮麗な石垣の城は、信吉が単なる地方領主ではなく、中央政権と直結した新しい時代の支配者であることを象徴するモニュメントとなったのである 19

第三部:関ヶ原の戦いと徳川体制への帰順

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した対立は、天下を二分する関ヶ原の戦いへと発展した。豊臣恩顧の大名であった富田信吉にとって、これは自らの家、そして継いだばかりの佐野家の運命を左右する重大な岐路であった。

1. 天下分け目の決断 ― 東軍への参加

徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が対峙する中、信吉は東軍に与するという決断を下す 1 。この選択の背景には、複数の要因が絡み合っていた。第一に、父・一白の代からの富田家と石田三成との不和が挙げられる 9 。豊臣政権内部の派閥対立が、そのまま関ヶ原の陣営選択に影響したのである。第二に、地理的な要因も大きい。下野国佐野は家康の拠点である江戸に近く、西軍に与することは現実的ではなかった。そして何よりも、多くの豊臣系武断派大名がそうであったように、時代の流れが徳川に傾いていることを見極め、一族の存続を賭けて「勝ち馬に乗る」という現実的な判断があったと考えられる 14

2. 下野国における動向

関ヶ原の主戦場は美濃であったが、それに先立ち、家康は会津の上杉景勝討伐のために軍を北上させていた。この時、徳川秀忠が率いる主力部隊は下野国宇都宮に本陣を置き、その後、信濃の真田攻めへと向かった 20 。この間、宇都宮城には家康の次男・結城秀康が入り、北の上杉氏や常陸の佐竹氏といった西軍方の勢力に備えるための防衛拠点となった 20

佐野信吉もこの下野国の防衛体制の一翼を担った。具体的な戦闘記録は残されていないものの、在国して領地の守りを固め、宇都宮の結城秀康の指揮下で東軍方としての役割を果たしたと推察される。当時、石田三成の檄文を運ぶ使者が下野国内を通過するなど 22 、関東においても予断を許さない状況であり、信吉は自領の安定を維持することで東軍に貢献したのである。

3. 佐野藩の成立

慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原での東軍の劇的な勝利により、信吉の決断は報われた。戦後、徳川家康から所領3万9000石を安堵され、彼の地位は揺るぎないものとなった 1 。これにより、中世以来の名門・佐野氏は、富田信吉のもとで近世大名としての佐野藩として、新たな時代に歩み出すことになったのである。

しかし、この選択は諸刃の剣でもあった。東軍参加によって徳川の世で生き残る権利を得た一方で、彼は「元豊臣恩顧」という消せない出自を背負い続けることになった。この事実は、平時には問題とならずとも、ひとたび幕府がその支配体制を揺るがす存在を排除しようとする際には、彼の立場を脆弱にする危険な要因であり続けた。関ヶ原での勝利は、安泰の始まりであると同時に、後の悲劇に繋がる伏線を内包していたのである。

第四部:近世大名としての治世と唐沢山城の放棄

関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来すると、佐野信吉は戦国武将から近世大名へと、その役割を転換させていく。彼の治世は、幕府の新たな支配秩序に適応しようとする努力と、有能な行政官としての一面を示している。

1. 佐野城(春日岡城)への移転

信吉の統治における最大の画期は、居城の移転であった。慶長7年(1602年)、信吉は徳川家康から、代々の居城であった山城・唐沢山城を廃し、麓の春日岡に新たな平城(佐野城)を築くよう命じられる 3 。そして慶長12年(1607年)、築城半ばにして居城を移した 3

この移転命令の背景には、徳川幕府による巧みな大名統制策があった。その理由は複合的である。

第一に、唐沢山城の戦略的価値の無力化である。唐沢山城は関東平野を一望できる要害であり、伝承によれば江戸で大火が起きた際にその煙が確認できたという 3。幕府にとって、江戸を見下ろすこのような戦略拠点を豊臣恩顧の大名が保持し続けることは、潜在的な脅威であった 3。

第二に、全国的な政策の流れである。幕府は一国一城令などを通じて大名の軍事力を削ぎ、防御に優れた山城から、統治と経済活動に重点を置く平城への移行を推進していた 3。

第三に、支配体制の転換である。大名を山から下ろし、平地の城と城下町に住まわせることで、幕府の管理下に置き、独立した軍事領主から、幕藩体制を支える行政官へとその性格を変質させる狙いがあった。

この城替えは、信吉の意思ではなく、徳川幕府による大名統制の象徴的な出来事であった。これにより信吉は、独立性の高い山城の領主から、幕府の厳格な管理下にある平城の行政官へと、その立場を強制的に変えさせられたのである。

2. 城下町の整備と藩政

幕府の意向に従い、信吉は新たな城と城下町の建設に邁進した。佐野城下は碁盤の目状に区画整理され、近世的な都市計画が実施された 23 。特筆すべきは、有事の際に防御拠点として機能するよう、街路の突き当たりに寺院を配置するなどの工夫が凝らされている点である 24 。これは、平時における統治の利便性と、非常時における防御という二つの側面を考慮した設計であった。

さらに信吉は、産業振興にも力を注いだ。特に、鋳物師(いもじ)たちを城下の金屋町に集住させ、地場産業の育成を図った 4 。この政策は成功し、佐野の鋳物業の基礎を築いた。その名残は、現在の佐野市に残る金屋仲町、金屋下町といった地名からも窺い知ることができる。

これらの政策は、信吉が時代の変化を的確に捉え、戦国武将から近世の藩主へと意識を転換し、領国の安定と繁栄を目指す有能な行政官であったことを示している。しかし、彼の善政は、あくまで幕府が描いた新たな支配秩序の枠内でのみ許されたものであり、幕府の彼に対する根源的な猜疑心を完全に払拭するには至らなかった。

第五部:改易 ― 兄・信高の失脚と連座の悲劇

平穏に見えた佐野信吉の治世は、突如として終わりを告げる。その引き金となったのは、遠く伊予国にいる兄・富田信高が起こした事件であった。しかし、その背景には、大坂の陣を目前に控えた徳川幕府による、豊臣恩顧の大名に対する厳しい視線と、政治的粛清ともいえる非情な決断があった。

富田・佐野・宇喜多家関連人物相関図

この事件の理解を助けるため、複雑な姻戚関係を以下に示す。

人物

信吉との関係

備考

富田信吉(佐野信吉)

本人

佐野藩主

富田一白

故人。豊臣秀吉の側近

富田信高

宇和島藩主

信高の妻

義姉

宇喜多忠家の娘。坂崎直盛の異母姉

宇喜多忠家

義姉の父

宇喜多秀家の叔父

坂崎直盛

義姉の異母弟

津和野藩主。信高の義弟

宇喜多左門

義姉の甥

事件の当事者。坂崎直盛の甥

1. 発端:兄・富田信高と「坂崎事件」の全貌

信吉の兄・富田信高は、関ヶ原の戦いの前哨戦「安濃津城の戦い」において、西軍の大軍を相手に寡兵で城を守り抜いた猛将である。この戦いでは、信高の妻(宇喜多忠家の娘)が自ら甲冑をまとい、敵兵をなぎ倒して夫の窮地を救ったという武勇伝も名高い 6 。この功績により、信高は戦後伊勢安濃津7万石を安堵され、慶長13年(1608年)には伊予宇和島12万石(10万1900石とも)へと加増移封される大出世を遂げていた 5

しかし慶長18年(1613年)、この栄光に影が差す。信高の妻の甥にあたる宇喜多左門が、妻の異母弟である津和野藩主・坂崎直盛(さかざき なおもり)の家中で刃傷沙汰を起こし、出奔した 6 。信高は、妻からの懇願を受け、この宇喜多左門を自領の宇和島に匿った 6 。これを知った坂崎直盛は、甥であり家臣でもある左門の身柄引き渡しを義兄の信高に要求。しかし信高がこれを拒んだため、直盛は「富田信高が殺人犯を庇護している」として、幕府に訴え出たのである 6

訴訟は長期化したが、最終的に信高の妻が左門に宛てて送った米と手紙が決定的な証拠となり、信高の罪状が確定した 26 。結果、慶長18年(1613年)、富田信高は12万石の大名から一転、改易処分となり、陸奥国棚倉藩主・鳥居忠政預かりの身となった 5

2. 信吉自身の失策と幕府の猜疑

兄の事件が進行する中、信吉自身も幕府の猜疑心を招く行動をとってしまう。慶長19年(1614年)3月、江戸で大火が発生した際、信吉は忠誠心から自領の佐野より急遽江戸へ駆けつけ、消火活動で活躍した 2 。しかし、この迅速な行動が裏目に出た。幕府の許可なく大名が江戸に参府することは固く禁じられており、信吉の行動は「無断参府」として咎められたのである 2 。豊臣恩顧の大名が、江戸の非常時に即応できる位置にいること自体が、幕府に危険視されたのだ 2

さらに、この時期に改易された大久保忠隣や、死後に不正が発覚し一族が処罰された大久保長安と、信吉が親戚関係にあったことも、彼への風当たりを強くしたとされる 2

3. 慶長十九年の改易とその本質

慶長19年(1614年)7月27日、佐野信吉は、兄・信高の改易に連座するという形で、3万9000石の所領を没収され、改易処分となった 1

この改易は、表向きは「連座」であるが、その本質は、目前に迫った大坂冬の陣を前に、徳川幕府が国内の潜在的な不安定要素を排除しようとした政治的粛清であった可能性が極めて高い。幕府にとって、佐野信吉は「豊臣恩顧の大名」であり、「関東の要衝に位置」し、「かつては独立性の高い山城を拠点」とし、「幕府が粛清した大久保一派とも繋がり」があり、さらに「無断参府という失策」を犯した、まさに危険要素の集合体であった。幕府は、兄の事件という絶好の口実を得て、これら全ての懸念材料を「連座」という一つの理由に集約させ、長年の懸案であった佐野信吉を政治の舞台から排除したのである。彼の悲劇は、個人の罪や失策以上に、時代の転換期における政治的犠牲者であったという側面が強い。

第六部:晩年と佐野家の再興

大名としての地位を一夜にして失った佐野信吉の晩年は、不遇のうちに過ぎていった。しかし、彼が継いだ佐野家の名跡は、嫡男の執念によって、形を変えながらも徳川の世で生き永らえることになる。

1. 不遇の晩年

改易処分となった信吉は、嫡男の久綱(ひさつな)と共に、信濃松本藩主・小笠原秀政のもとへ預かりの身となった 2 。小笠原秀政は、関ヶ原の戦いにおいて宇都宮城の守備で功績を挙げた徳川譜代の重臣である 29 。豊臣恩顧の大名であった信吉父子を、信頼の厚い譜代大名に監視させるという幕府の厳しい姿勢が窺える。

その後、元和8年(1622年)に信吉は赦免され、江戸へ移ることを許された。しかし、長年の心労が祟ったのか、同年7月15日、波乱の生涯を閉じた。享年57であった 1 。その墓所については明確な記録が乏しいが、江戸で亡くなったとされる。後年、旗本として再興した佐野家の菩提寺は東京の浅草や板橋に置かれたが 30 、信吉自身がそこに葬られたかまでは定かではない。

2. 嫡男・佐野久綱による家名再興

父の死後、赦免されていた嫡男・久綱の苦労は続いたが、その努力は寛永17年(1640年)に実を結ぶ。久綱は幕府への再出仕が認められ、3000俵取りの旗本として召し抱えられたのである 7 。ここに、大名としての佐野藩は完全に終焉を迎えたが、藤原秀郷以来の名門・佐野家の家名は、旗本として存続することができた。久綱はこの時、共に苦労を重ねた弟の公當(きんまさ)に1000俵を分与し、兄弟で再興の喜びを分かち合っている 7

3. 旗本佐野家としての存続

佐野家の再興は、単なる名ばかりのものではなかった。久綱の子孫は幕府内で着実に地位を固めていく。二代目の盛綱は盗賊追捕役や禁裏附(きんりづき)といった要職を務め、知行も加増された 8 。三代目の直行の代には、蔵米取りから知行取りへと切り替えられ、最終的に3500石の上級旗本(寄合席)となった 8 。その後も、山田奉行や将軍の側近である御小姓、御三卿の一つである一橋家の家老などを歴任する人材を輩出し、旗本佐野家は幕末に至るまでその家名を保ち続けたのである 8

この一連の過程は、徳川幕府の巧みな統治術を如実に示している。一度は改易という最も厳しい処分を下して大名としての力を完全に削ぎ、脅威を取り除きながらも、名門の家名を完全に断絶させることはしない。無力化・縮小した形で体制内に取り込むことで、他の大名への見せしめとすると同時に、幕府の「温情」を示すという懐柔策を両立させたのである。佐野家は、徳川への忠誠を誓う存在へと生まれ変わることで、改易の悲劇を乗り越え、新たな時代を生き抜いた。

結論:時代の奔流に翻弄された武将の評価

富田信吉の生涯は、父の威光によって得た栄光、自らの才覚で発揮した統治能力、そして兄の事件と時代のうねりによってもたらされた悲劇という、光と影が鮮明に交錯するものであった。

彼は、唐沢山城の先進的な石垣普請や、佐野城下の近世的な都市整備に見られるように、統治者として優れた能力を持つ人物であったことは間違いない 4 。豊臣政権の代理人として関東に乗り込み、中央の先進技術と文化を導入して領地の近代化を推し進めた行政手腕は高く評価されるべきである。また、関ヶ原の戦いでは的確な政治判断で家を存続させ、徳川の世では幕府の意向に従順に従うことで、近世大名として生き残る道を選んだ。

しかし、彼の運命を最終的に決定づけたのは、個人の能力や資質ではなかった。それは、「豊臣恩顧」という出自と、徳川幕府による盤石な支配体制構築という、一個人が抗うことのできない時代の大きな力であった。彼の忠誠心は猜疑心を生み、彼の有能さは脅威と見なされた。兄・信高の事件は、幕府が彼を排除するための格好の口実を与えたに過ぎない。

富田信吉の人生は、戦国から江戸へと移行する過渡期において、多くの外様大名が直面した栄光と没落の危うさを象徴している。彼は、時代の奔流に巧みに乗りこなし、一時は成功を収めながらも、最後はその流れに飲み込まれていった。その悲劇的な生涯は、新たな秩序が力によって形成される時代の非情さと、その中で生きる人間の脆さを、我々に強く物語っている。彼は、歴史の転換期における典型的な犠牲者の一人として、記憶されるべき武将である。

引用文献

  1. 佐野信吉(さの のぶよし)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E9%87%8E%E4%BF%A1%E5%90%89-1079069
  2. 佐野信吉 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E4%BF%A1%E5%90%89
  3. 佐野信吉が築城。佐野城(別名:姥ヶ城、春岡城) DELLパソ兄さん https://www.pasonisan.com/rvw_trip/tochigi/sano-jou.html
  4. 佐野藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E8%97%A9
  5. 富田信高(とみたのぶたか)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%AB%98-1095046
  6. 富田信高の妻 戦国武将を支えた女剣士/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/19736/
  7. 佐野久綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E4%B9%85%E7%B6%B1
  8. 佐野氏~戦国大名から旗本へ - 探検!日本の歴史 https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/hatamoto-sano1
  9. 富田一白 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E4%B8%80%E7%99%BD
  10. 富田知信(とみた とものぶ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E7%9F%A5%E4%BF%A1-19024
  11. 津藩祖 藤堂高虎 https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1001000011267/index.html
  12. 富田信高 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%AB%98
  13. 富田高定とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E9%AB%98%E5%AE%9A
  14. 関ヶ原と信吉の転機 - 佐野市 https://www.city.sano.lg.jp/soshikiichiran/kyouiku/bunkazaika/gyomuannai/4/2/4918.html
  15. 唐沢山城(栃木県佐野市) http://yaminabe36.tuzigiri.com/tochigi%20nisiHP/karasawayama.htm
  16. 唐沢山城 https://shiro-meguri.sakuraweb.com/3-castle/20190326karasawayamajo/20190326karasawayamajo.html
  17. 佐野藩とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E4%BD%90%E9%87%8E%E8%97%A9
  18. 本丸跡(ほんまるあと) - 佐野市 https://www.city.sano.lg.jp/soshikiichiran/kyouiku/bunkazaika/gyomuannai/4/2/4894.html
  19. 唐沢山城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.karasawayama.htm
  20. 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (後半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-2/
  21. 江戸時代ー歴史を知りたい - 宇都宮の歴史と文化財 https://utsunomiya-8story.jp/history/co_9/
  22. 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (前半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-1/
  23. 佐野市の町並み http://matinami.o.oo7.jp/kanto1/sano.htm
  24. 佐野市仏教会 今月の会員紹介 http://www.sano-bukkyo.com/Introduction.html
  25. 絶体絶命のピンチに駆けつけたのは…白馬に乗った嫁⁉︎「関ヶ原の戦い」前哨戦の驚きの結末とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/111649/
  26. 第7話「左門事件」 - 愚将・坂崎直盛(とき) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054882806177/episodes/1177354054884651222
  27. 伊予宇和島藩主富田信高が、改易により平藩主鳥居忠政預かりとなった際に住んでいた寺はどこか。また - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000273435&page=ref_view
  28. 佐野藩(さのはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E9%87%8E%E8%97%A9-69453
  29. 毛利勝信・勝永と関ヶ原の戦い - 歴史ブログ 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2019/12/story6-sekigahara/
  30. 総泉寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8F%E6%B3%89%E5%AF%BA
  31. 佐野世直し大明神・佐野善左衛門の墓は江戸の観光名所⁉ 赤穂事件に次ぐ江戸の刃傷沙汰の主犯者だったのに - 歴史人 https://www.rekishijin.com/35836
  32. 佐野政言 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%94%BF%E8%A8%80
  33. 富田氏とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E6%B0%8F