会津蘆名氏は、相模国の三浦氏を祖とする名門であり、文治5年(1189年)の奥州合戦における功により、三浦義明の七男・佐原義連が会津の地を得たことにその歴史の端を発します 1 。義連の孫である光盛の代から「蘆名」を名乗り始め、以来、天正17年(1589年)に至るまで実に400年の長きにわたり会津に君臨しました 2 。室町時代には「会津守護」を自称し、奥州を代表する有力大名としての地位を確立します 1 。
その勢力が頂点に達したのは、16代当主・蘆名盛氏の時代でした。盛氏は巧みな軍事・外交政策によって周辺の二階堂氏や田村氏を従属させ、勢力圏を福島県中通りにまで拡大、「奥州の名君」と称されるほどの威勢を誇りました 3 。しかし、この栄華は長くは続きませんでした。盛氏の晩年には嫡男・盛興が早世し、後継者問題が浮上します 1 。天正8年(1580年)にカリスマ的指導者であった盛氏がこの世を去ると、蘆名氏は内部から急速に崩壊への道をたどり始めます。盛氏の死は、単なる一当主の死に留まらず、これまで強力なリーダーシップによって抑えられていた家臣団の権力闘争や、後継者システムの脆弱性といった構造的問題を一気に露呈させる転換点となったのです 1 。
蘆名氏の治世、特にその国政の中枢を担ったのが、「四天宿老」あるいは「蘆名四天王」と称された四つの重臣の家柄でした。松本氏、佐瀬氏、平田氏、そして本稿の主題である富田隆実が属する富田氏がこれにあたります 6 。彼らは蘆名家の譜代の臣として、軍事・政務の両面で当主を支える重要な役割を果たしていました。
富田氏がこの宿老の一角を占めるに至ったのは、隆実の祖父・滋実の代からの功績が大きく、その地位は父・氏実の代で確固たるものとなります 6 。永禄9年(1566年)に蘆名家と伊達家が和睦した際に交わされた起請文の署名順を見ると、松本氏輔、平田実範、佐瀬常藤に次いで富田滋実の名があり、当時の家臣団における富田氏の序列をうかがい知ることができます 6 。彼ら四天宿老は、平時においては蘆名家の屋台骨を支える柱石でしたが、主家の衰退期においては、その対立が滅亡の引き金ともなる、まさに諸刃の剣でした。
会津富田氏の起源は、陸奥国安積郡富田の地(現在の福島県郡山市富田町)に住んだ古代氏族・安積臣の後胤に遡ると伝えられています 6 。一族はその後、霊峰・磐梯山に抱かれた慧日寺の寺侍を経て、地域の土豪として勢力を蓄えました。そして、鎌倉時代の貞応元年(1222年)、正式に会津の領主である蘆名氏の家臣になったとされます 7 。
富田氏が蘆名家の譜代の家臣として着実にその地位を築いていった様子は、14世紀末に富田祺祐が隠居所として塚原館(現在の会津若松市内)を築城したという記録からも見て取れます 6 。このことは、富田氏が単なる一兵卒ではなく、鎌倉時代から室町時代にかけて、自らの居館を構えるほどの有力な家臣として蘆名家に仕えていたことを示しています。
富田氏が蘆名家中で飛躍を遂げ、宿老の地位を確立する礎を築いたのは、富田隆実の祖父にあたる富田滋実(しげざね)の代でした。滋実はその武勇を高く評価され、主君である14代当主・蘆名盛滋から偏諱(名前の一字)である「滋」の字を賜るほどの信頼を得ていました 6 。天文10年(1541年)に猪苗代盛頼が反乱を起こした際には、滋実が蘆名軍を率いてその鎮圧にあたるなど、数々の武功を挙げて一族の地位を大いに高めました 6 。
その地盤を継承し、富田氏を四天宿老の一角として不動の存在にしたのが、隆実の父・富田氏実(うじざね)です。氏実は、蘆名家全盛期を築いた16代当主・蘆名盛氏から「氏」の字を賜り、元亀2年(1572年)頃から本格的に出仕しました 10 。天正6年(1578年)には、反乱を起こした大槻政通・山内重勝らを討伐する総大将を務めるなど、父の代に築いた宿老としての地位を名実ともに継承し、蘆名家中における重鎮としての立場を確固たるものにしていったのです 6 。
しかし、富田一族の歴史は、主家への忠誠一辺倒の平坦な道ではありませんでした。一族が常に一枚岩でなかったことを示す象徴的な事件が、永禄4年(1561年)に発生した分家筋による反乱です。富田本家の娘婿であった富田義実が、蘆名盛氏の庶兄・氏方を当主として擁立し、盛氏が長沼氏討伐で黒川城を留守にした隙を突いて謀反を起こしました 9 。
この反乱は数日で鎮圧され、義実父子は処刑されるという結末を迎えます 9 。この事件は、本家である氏実・隆実の家系にとって、一族内の統制の難しさを痛感させると同時に、主家である蘆名氏への忠誠をより一層強く意識させる契機となった可能性があります。皮肉なことに、この反乱の舞台となった塚原館には、後年、天正8年(1580年)頃に富田隆実自身が一時的に居住したと伝えられています 9 。
表1:富田氏関連系図
世代 |
人物名 |
続柄・官途名・備考 |
祖父 |
富田 滋実 |
隆実の祖父。左近将監。蘆名盛滋より偏諱。猪苗代盛頼の乱鎮圧などで武功を挙げ、富田氏の地位を向上させる 6 。 |
父 |
富田 氏実 |
隆実の父。美作守。蘆名盛氏より偏諱。蘆名四天宿老。摺上原の戦いで不可解な行動を取り、伊達への内通が疑われる 11 。 |
本人 |
富田 隆実 |
本報告書の主題 。将監。摺上原の戦いで先鋒として奮戦。主家滅亡後は流転の人生を送り、相馬氏に仕官した説が有力 13 。 |
弟 |
佐瀬 常雄 |
隆実の弟。佐瀬種常の養子となる。摺上原の戦いで主君を守り、養父と共に討死 11 。 |
弟 |
富田 実積 |
隆実の弟。詳細は不明 11 。 |
弟 |
富田 氏繁 |
隆実の弟。詳細は不明 11 。 |
甥 |
富田 氏紹 |
氏繁の子(隆実の甥)。会津富田氏の血筋ながら、敵方であった仙台藩伊達家に仕え、家老にまで出世。一族の再生を象徴する人物 17 。 |
名君・蘆名盛氏の死後、蘆名家は権力の中枢に深刻な空白が生じ、坂道を転げ落ちるように衰退していきます。盛氏の死後、人質から養子として家督を継いだ蘆名盛隆は、若年ながら優れた器量の持ち主と評され、伊達氏への対抗策や織田信長との外交など積極的な政策を展開しました 1 。しかし、家中の完全な掌握には至らず、天正12年(1584年)、居城である黒川城内で近臣の大庭三左衛門によって暗殺されるという悲劇に見舞われます 1 。この事件は、蘆名家中の統制がすでに限界に達していたことを物語っています。
さらに不幸は続き、盛隆の跡を継いだ遺児・亀若丸も、天正14年(1586年)にわずか3歳で疱瘡により夭逝してしまいます 1 。正統な後継者を完全に失った蘆名家は、ここに断絶の危機という未曾有の事態に直面することになりました。
当主不在という異常事態に、家臣団は激しく動揺し、後継者を巡って二つの派閥に分裂、深刻な内部抗争へと突入します。一つは、南奥州で急速に勢力を拡大していた伊達政宗との連携を重視し、政宗の弟・小次郎を新たな当主に迎えようとする「伊達派」。もう一つは、長年の同盟関係にあった常陸の佐竹義重との関係を維持するため、義重の子・義広を擁立しようとする「佐竹派」です 5 。
この派閥対立において、富田氏実や平田氏は伊達派の中心人物であり、一方で金上盛備らは佐竹派の筆頭でした 18 。この対立構造は、単なる後継者選びに留まらず、蘆名家の今後の外交方針、ひいては自らの派閥の政治的生命線を賭けた、抜き差しならない権力闘争でした。この深刻な亀裂こそが、後の摺上原における蘆名家滅亡の最大の要因となります。
最終的に、重臣たちの談合による衆議は、佐竹派が推す蘆名義広に軍配を上げました。天正15年(1587年)、当時まだ13歳の義広は、白川氏への養子縁組を解消し、蘆名家の新たな当主として黒川城に入ります 5 。
しかし、この決定は伊達派の重臣たちに深刻なしこりを残しました。彼らにとって、敵対派閥が擁立した、しかも年若い当主の誕生は、自らの政治的影響力の低下を意味し、到底受け入れがたいものでした。新当主・義広には、この分裂した家中をまとめ上げる政治力も求心力もなく、実質的には父である佐竹義重の後見に依存する傀儡に近い存在でした。指導力を欠いた蘆名家の内情は、奥州統一の好機をうかがう伊達政宗にとって、まさに絶好の的となったのです。富田氏実が摺上原で見せた行動は、この家督争いの延長線上にある、根深い政治的対立から生まれた必然の帰結であったと解釈することができます。
天正17年(1589年)旧暦6月5日、会津盆地の北、磐梯山麓の摺上原にて、蘆名家の命運を賭けた戦いの火蓋が切られました 20 。この決戦において、蘆名軍の先鋒という最も名誉ある、そして最も過酷な任を託されたのが、富田将監隆実でした 13 。
卯の刻(午前6時頃)、合戦が開始されると、緒戦は蘆名軍が圧倒的優位に立ちます。西から吹き付ける強風を追い風にした蘆名勢は、伊達軍を猛然と押し立てました 13 。その先頭に立った隆実は、まず伊達方の先陣である猪苗代盛国隊を瞬く間に撃破。勢いそのままに、伊達軍の二陣、智将・片倉景綱の部隊に突入し、これを大いに苦しめました。その猛攻は、伊達政宗の本陣に肉薄するほど凄まじかったと伝えられています 13 。この奮戦は、富田隆実個人の卓越した武勇と、一軍の将としての高い指揮能力を如実に物語るものです。
息子・隆実が最前線で命を懸けて奮闘する一方、その後方に控えていた父・富田氏実は、不可解な行動を取ります。諸史料によれば、氏実は自らの軍勢を動かすことなく戦況をただ傍観し、やがて戦の趨勢が決まらぬうちに、無断で戦場から兵を引いて撤退してしまったとされています 7 。この行動は、蘆名軍の敗北を決定づけた一因とされ、様々な憶測を呼んでいます。
これらの説の真偽は定かではありませんが、いずれにせよ、宿老という重責を担う氏実が主家の存亡を賭けた決戦において積極的に貢献しなかったことは、蘆名家中の分裂が修復不可能なレベルに達していたことを示しています。
富田隆実ら前線の将兵の奮闘も虚しく、合戦の趨勢は午後になると一変します。突如として風向きが変わり、今度は伊達軍が追い風、蘆名軍が猛烈な向かい風を受けることになりました 15 。この天候の急変に加え、富田氏実をはじめとする重臣たちの離反や傍観による指揮系統の麻痺が決定打となり、蘆名軍は統制を完全に失い、総崩れとなります。将兵は武器や鎧を捨てて逃げ惑い、背後を流れる日橋川で溺死したり、伊達軍に討ち取られたりする者が続出、その死者は数千人にのぼったと記録されています 22 。
この摺上原での一日だけの戦いによって、会津に400年続いた名門・蘆名氏は、戦国大名として事実上滅亡しました 1 。当主・蘆名義広はかろうじて戦場を離脱し、実家である常陸の佐竹氏を頼って落ち延びていきました 1 。富田父子の対照的な行動は、滅びゆく組織の中で、個人の忠義と一族の生存という、二つの相克する価値観の間で揺れ動いた武士の姿を象徴していると言えるでしょう。
摺上原での壊滅的な敗北の後、富田隆実は、命からがら戦場を脱出した主君・蘆名義広に付き従い、その実家である常陸国の佐竹氏のもとへと落ち延びました [User Query]。主家が滅び、領地を失った武将にとって、主君と共に行動するのは自然な選択でした。しかし、その後の記録によれば、隆実は間もなく義広の元を去ったとされています [User Query]。
その理由は定かではありませんが、没落した主君に未来を見出せず、自らの力で新たな道を切り拓くことを決意したと推察されます。義広自身もまた、佐竹義宣の家臣という立場に甘んじ、関ヶ原の戦い後の佐竹氏の秋田転封に伴って角館へ移るなど、流転の人生を送ることになります 1 。隆実の離脱は、そうした先の見えない状況下での現実的な判断であったのかもしれません。
歴史の表舞台から姿を消した富田隆実の後半生は、厚い謎のベールに包まれており、その消息については複数の説が伝わっています。
隆実が相馬氏に仕えた可能性を強く示唆する痕跡が、相馬藩側の史料にいくつか見られます。第一に、相馬藩の記録の中に、行方郡寺内村を知行した人物として「富田隆実(備前守)」の名が記されていることです 27 。摺上原で奮戦した隆実の官途名は「将監」であり、「備前守」とは異なりますが、戦国武将が時期によって官途名を変えることは珍しくなく、同一人物である可能性は十分に考えられます。
そして、この説を決定的に補強するのが、隆実の息子の動向です。複数の史料が、隆実の次男が相馬藩の有力家臣であった門馬経親の婿養子となり、「門馬経実」と名乗って家を継いだことを記録しています 14 。主家を失った亡命武将の子が、仕官先の有力な家の婿養子に迎えられるというのは、その父親である隆実自身が相馬藩内で相当な信頼と地位を築いていなければ、まず考えられないことです。
これらの断片的な情報を繋ぎ合わせると、一つの蓋然性の高いストーリーが浮かび上がります。すなわち、富田隆実は主家滅亡後、自らの武名と人脈を頼りに隣国の相馬氏に再仕官を果たし、そこで確固たる地位を築き、一族の新たな根拠地を確保することに成功したのです。彼の物語は摺上原の悲劇で終わったのではなく、相馬の地で第二の人生として続いていた可能性が極めて高いと言えるでしょう。
蘆名家の滅亡という激動は、富田一族の者たちに、それぞれ異なる運命を歩ませることになりました。その多様な生き様は、戦国乱世から近世へと移行する時代の武家の在り方を象徴しています。
富田隆実の弟・常雄は、蘆名四天宿老の一家である佐瀬氏の養子となっていました 11 。彼は摺上原の戦いにおいて、兄・隆実が先鋒で奮戦する中、本陣近くで主君・蘆名義広を守って戦い、養父である佐瀬種常と共に討ち死にを遂げました 8 。彼の選択は、富田の血を引く者の中にも、主家と運命を共にし、忠義に殉じる道を選んだ者がいたことを示しています。
一方、摺上原で一族の生存を優先する政治的判断を下した父・氏実のその後の消息もまた、伊達家に降伏した、あるいは常陸の佐竹氏のもとへ逃れたなど諸説あり、判然としません 10 。しかし、彼の選択が結果として何をもたらしたかは、その子孫たちの動向が雄弁に物語っています。
富田一族のその後を語る上で、最も劇的で象徴的な人物が、隆実の弟(氏実の四男)・氏繁の子、すなわち隆実の甥にあたる富田氏紹(うじつぐ)です 11 。
驚くべきことに、氏紹は、かつて自らの一族が仕えた蘆名家を滅ぼした仇敵である伊達家の仙台藩に仕官します。そして、単に仕官したに留まらず、その才覚を認められ、万治3年(1660年)、わずか2歳で藩主となった伊達綱村の守役に抜擢されるという異例の出世を遂げました 17 。さらに、藩を揺るがしたお家騒動「寛文事件(伊達騒動)」の渦中において、一貫して幼い主君を支え続けた功績が認められ、延宝3年(1675年)以降、藩の最高職である奉行(家老)にまで昇進。最終的には桃生郡に二千石という広大な知行と、永代着座という破格の家格を与えられ、仙台藩の重臣として富田家の名を大いに高めたのです 17 。
この仙台富田氏の系統は明治時代まで続き、第2代日本銀行総裁を務めた実業家・富田鐵之助を輩出するに至ります 17 。父・氏実が摺上原で見せた「裏切り」とも取れる行動は、巡り巡って、一族に最も華々しい再生と繁栄をもたらしたのです。この歴史の皮肉とも言える結末は、氏実の行動が単なる保身ではなく、主君個人への忠誠よりも「富田家」という血脈を未来へ繋ぐことを最優先した、一族の長としての冷徹な生存戦略であったことを示唆しています。
富田隆実の生涯は、主家滅亡という抗いがたい時代の奔流の中で、一人の武将がいかに生き、いかに戦ったかを我々に示してくれます。摺上原の先鋒として伊達軍を震撼させたその武勇は、滅びゆく蘆名家への最後の忠誠の証であり、紛れもなく「忠臣」と呼ぶにふさわしいものです。しかし、彼の物語はそこで終わりませんでした。敗戦後は没落した主君から離れ、自らの武名を元手に新天地を求め、相馬の地で一族の再興を果たしたであろうその後半生は、彼が単なる猪武者ではなく、現実を見据えて次代を切り拓くことのできる、知勇兼備の優れた武将であったことを示唆しています。
隆実のように、一時は華々しい活躍を見せながらも、その後の記録が乏しく、歴史の狭間に埋もれてしまった武将は無数に存在します。彼の後半生を、相馬藩の断片的な記録や、息子の縁組といった周辺情報から一つ一つ繋ぎ合わせ、その実像に迫っていくプロセスは、歴史研究の困難さと、そして何物にも代えがたい醍醐味そのものです。それは、声なき人々の生きた証を、現代に蘇らせる作業に他なりません。
富田隆実とその一族が辿った多様な運命――忠義に殉じた弟・常雄、忠勇を示しつつも現実的に家を再興した隆実、そして旧敵に仕えることで一族を繁栄させた甥・氏紹――は、戦国乱世における「忠義」という価値観が決して一様ではなかったことを教えてくれます。主君への絶対的な忠誠が必ずしも唯一の美徳ではなく、「家」の存続と繁栄こそが、時にそれを上回る至上命題であった時代のリアルな姿がそこにあります。富田隆実の生涯は、忠義と生存の狭間で葛藤し、自らの道を切り拓いていった、激動の時代を生きる人間の複雑で多面的な在り方を、現代の我々に静かに問いかけているのです。
表2:蘆名氏衰亡と富田隆実の生涯に関する年表
年代(西暦) |
蘆名家の動向 |
富田一族の動向 |
1561年 |
16代当主・蘆名盛氏、家督を嫡男・盛興に譲るも実権は掌握。 |
分家の富田義実が、盛氏の庶兄・氏方を擁立して反乱。鎮圧され処刑される 9 。 |
1572年頃 |
|
富田氏実(隆実の父)、蘆名盛氏に本格的に出仕を始める 10 。 |
1574年 |
17代当主・蘆名盛興が29歳で急死。嫡子なし。 |
|
1578年 |
|
富田氏実、大槻・山内氏の反乱を鎮圧する 6 。 |
1580年 |
蘆名家の最盛期を築いた隠居・蘆名盛氏が死去。 |
富田隆実、一族ゆかりの塚原館に一時居住したと伝わる 9 。 |
1584年 |
18代当主・蘆名盛隆が家臣により暗殺される。 |
|
1586年 |
19代当主・亀若丸が3歳で夭逝。後継者問題が深刻化。 |
|
1587年 |
佐竹家から蘆名義広(13歳)が20代当主として入る。 |
家中が伊達派(富田氏含む)と佐竹派に分裂し、対立が表面化する 18 。 |
1589年 |
摺上原の戦いで伊達政宗に大敗。戦国大名・蘆名家が事実上滅亡。 |
隆実、先鋒として奮戦。父・氏実は傍観・撤退。弟・佐瀬常雄は討死 13 。 |
1589年以降 |
義広、常陸の佐竹氏へ逃亡。後に名を盛重と改める。 |
隆実、義広に従い常陸へ。後に離脱し、相馬氏に仕官した説が有力 14 。 |
1602年 |
蘆名盛重、佐竹氏の秋田転封に従い、角館城主となる。 |
|
1626年 |
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隆実の甥にあたる富田氏紹が誕生 17 。 |
1653年 |
蘆名氏の最後の当主・千鶴丸が3歳で事故死し、蘆名本家は完全に断絶。 |
|
1660年 |
|
富田氏紹、仙台藩4代藩主・伊達綱村の守役に抜擢される 17 。 |
1675年以降 |
|
富田氏紹、伊達騒動を乗り越え仙台藩の奉行(家老)に就任。一族の繁栄を築く 17 。 |