安土桃山から江戸へ。日本の歴史が大きく舵を切った激動の時代、一人の武将がその奔流の中を巧みに泳ぎきり、新たな時代の藩祖としてその名を刻んだ。その人物こそ、和泉陶器藩初代藩主、小出三尹(こいで みつただ/みつまさ)である。豊臣秀吉の縁戚という特別な出自を持ちながら、彼は旧主の没落と新時代の到来という大きな転換点において、見事な政治的嗅覚と生存戦略を発揮し、徳川の世で一万石の大名としての地位を確立した。
三尹の生涯は、単なる一地方領主の記録に留まらない。それは、体制転換期における武家の生存戦略、小藩経営の現実、そして文化が持つ政治的影響力を、極めて具体的に示す貴重な歴史的ケーススタディである。本報告書は、小出三尹という人物を多角的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。具体的には、第一に、彼がいかにして豊臣家臣から徳川大名へとその立場を変え、時代の勝者の一員となったのか。第二に、彼が創設した和泉陶器藩の実態、特にその経済的基盤と特異な経営手法は何だったのか。そして第三に、茶の湯や姻戚関係といった文化的ネットワークを、自らの地位向上のためにいかに戦略的に活用したのか。これらの問いを軸に、三尹の生涯を徹底的に解明する。
まず、彼の生涯の全体像を把握するため、以下の略年譜を示す。
表1:小出三尹 略年譜
年号(西暦) |
出来事 |
典拠 |
天正17年(1589) |
和泉岸和田藩主・小出秀政の四男として丹波国で誕生。通称は万助、五郎助。 |
1 |
慶長8年(1603) |
養父である次兄・小出秀家が死去し、その遺領2,000石を継承。 |
2 |
慶長9年(1604) |
甥の小出吉英から1万石を分与され、和泉陶器藩を立藩、初代藩主となる。 |
3 |
慶長14年(1609) |
江戸へ出て将軍・徳川秀忠に伺候。豊臣家臣から徳川家臣へと立場を移す。 |
1 |
慶長19-20年(1614-15) |
大坂冬の陣・夏の陣に徳川方として参陣。秀忠に供奉する。 |
1 |
寛永10年(1633) |
永井監物らと共に尾張国で奉行を務める。 |
1 |
寛永11年(1634) |
将軍・徳川家光の上洛に供奉する。 |
1 |
寛永17年(1640) |
池田輝澄の改易に際し、上使(将軍の使者)を務める。 |
1 |
寛永19年(1642) |
4月29日、公務中の播磨国山崎にて死去。享年54。 |
1 |
小出三尹の生涯を理解する上で、その出発点である小出家の出自と、豊臣政権における特殊な立場を把握することは不可欠である。彼の家は、豊臣秀吉との血縁によって栄達を遂げた典型的な豊臣恩顧の大名であったが、その中で三尹自身が置かれた状況は、本家の嫡流とは一線を画すものであった。
三尹の父である小出秀政は、尾張国中村の出身で、豊臣秀吉とは同郷の幼馴染であった 6 。秀政の運命を決定づけたのは、秀吉の母である大政所の妹・栄松院(とら)を正室に迎えたことであった 6 。これにより秀政は秀吉の叔父(叔母婿)という極めて近い姻戚関係となり、秀吉の立身出世に伴ってその側近として重用されることとなる。天正13年(1585年)には和泉岸和田城主に抜擢され、当初4千石であった所領は文禄4年(1595年)には3万石にまで加増された 4 。秀吉の「秀」の字を与えられ、秀頼の傅役(もりやく)の一人に数えられるなど、秀政は豊臣政権の中枢で確固たる地位を築き上げた 6 。この秀吉との強力な縁故こそが、小出家が戦国大名として飛躍する原動力であり、三尹の人生の背景をなす重要な要素であった。
天正17年(1589年)、父・秀政が丹波亀山城で豊臣秀勝を補佐していた頃、三尹は丹波国で生を受けた 1 。しかし、彼の立場を複雑にしたのは、その母の存在であった。秀政の正室が秀吉の叔母である栄松院であったのに対し、三尹の母は側室の「某氏」と記録されている 1 。これは、三尹が豊臣家との直接的な血縁を持たないことを意味し、正室から生まれた長兄・吉政や次兄・秀家とは明確に異なる立場に置かれていたことを示している。
この「側室の子」という出自は、彼のキャリア形成に大きな影響を与えた。本家の跡を継ぐことが定められていた兄たちとは異なり、三尹は自らの力で道を切り開くことを宿命づけられていた。彼は、小出家という豊臣恩顧の威光を背景に持ちながらも、その恩恵を直接的に享受できる嫡流ではなかった。この初期条件が、後に彼が本家とは異なる、より現実的で柔軟な政治的判断を下す素地を形成したと考えられる。安泰な後継者ではなく、自らの価値を証明し続けなければならない「創業者」としての気質が、この時点で育まれ始めていたのである。
三尹のキャリアの第一歩は、次兄である小出秀家の養子となることであった 1 。秀家は、関ヶ原の戦いで東軍に与して功を挙げ、戦後、河内国錦部郡内で1,000石を加増され、合計2,000石の旗本として別家を立てた人物である 2 。しかし、慶長8年(1603年)に37歳の若さで病死してしまう 2 。三尹は、この秀家の遺領と家名を継承した 3 。これは、一族の家産が分散・消滅することを防ぎ、血族内で家を存続させるために行われた、当時の武家社会ではごく一般的な相続戦略であった。この養子縁組により、三尹は初めて自身の知行を得て、武将としてのキャリアを本格的にスタートさせることになったのである。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康へと大きく傾いていく。この時代の転換点において、豊臣恩顧の大名であった小出家、そしてその一員である三尹がどのような選択をしたのかは、彼の生涯を決定づける重要な局面であった。彼は、一族の巧みな生存戦略と、自身の先見性ある行動によって、旧主の没落を乗り越え、新時代の支配者の下で新たな地位を築き上げていく。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、多くの大名家にとって存亡を賭けた選択を迫るものであった。この未曽有の危機に対し、小出家は一族全体で生き残りを図る、巧みなリスク分散戦略を実行した。父・秀政と、当時但馬出石藩主であった長兄・吉政は、豊臣秀頼の傅役という立場上、西軍に与した 7 。これは豊臣家への忠義を示す自然な行動であった。
一方で、次兄の秀家は東軍(徳川方)に属し、家康に従軍した 2 。秀家は関ヶ原合戦後、大坂にいた父兄に代わって本拠地である岸和田城の守備にあたり、西軍の敗将であった長宗我部盛親の軍勢を和泉国石津浦で撃退するなどの功を挙げた 2 。この秀家の功績が決定的な意味を持った。戦後、家康は秀家の働きを評価し、西軍に属した秀政と吉政の罪を問わず、所領を安堵したのである 2 。これは、家の存続を最優先とし、一族を東西両軍に分けて配置するという、当時の大名家に見られた典型的な生存戦略の成功例であった。
三尹自身は、当初、父や兄たちと同様に豊臣秀頼に仕えていた 1 。しかし、慶長9年(1604年)に父・秀政が死去すると、小出家は徐々に徳川家へとその重心を移し始める 2 。その流れの中で、三尹は極めて重要な一歩を踏み出す。慶長14年(1609年)、彼は江戸へ赴き、二代将軍・徳川秀忠に伺候したのである 1 。
この行動の持つ意味は大きい。これは、豊臣家と徳川家の最終的な対決である大坂の陣が勃発する5年も前のことであり、多くの豊臣恩顧大名がまだ大坂と江戸の間で態度を決めかねていた時期の決断であった。三尹が、もはや豊臣家の威光だけでは安泰ではないという時代の流れを的確に読み、自らの将来を徳川幕府に賭けるという、先見性に富んだ政治的行動であったことを示している。これにより、彼は他の豊臣系大名に先んじて、徳川政権下での自身の立場を確保する道筋をつけた。
三尹のキャリアにおける最大の転機は、和泉陶器藩の立藩であった。慶長9年(1604年)、父・秀政の死に伴い、長兄・吉政が岸和田藩を継ぎ、その嫡男である小出吉英(三尹の甥)が父の旧領である但馬出石藩主となった。この時、徳川家康の直接の命令により、吉英の所領から1万石が叔父である三尹に分与されることになった 4 。これにより、和泉国大鳥郡陶器を本拠とする和泉陶器藩が創設され、三尹はその初代藩主となったのである 3 。
この一連の出来事は、単なる甥から叔父への分知という体裁をとっているが、その背後には家康の明確な政治的意図が存在した。これは、家康による豊臣恩顧大名に対する「分断統治」と「恩賞」を組み合わせた、巧みな二重戦略の表れであった。まず、6万石の大名であった小出吉政・吉英の力を、1万石を分与させることで相対的に削ぐ。同時に、側室の子で家内での立場が不安定であった三尹に対し、家康自らの命令で「一万石の大名」という地位を与える。これにより、三尹は甥の吉英に対してではなく、家康個人に絶大な恩義を感じる、「徳川直系」とも言うべき大名となる。そして、こうして徳川への忠誠を植え付けた三尹を、旧主・豊臣家の本拠地である大坂にほど近い和泉国陶器(現在の堺市)に配置した。これは、大坂に対する監視と牽制の役割を期待した、極めて戦略的な配置であった。陶器藩の成立は、家康による天下平定後の政権安定化という、マクロな政治戦略の一環として理解すべきなのである。
慶長19年(1614年)から翌年にかけて起こった大坂冬の陣・夏の陣は、三尹にとって、徳川家への忠誠を戦場で証明する絶好の機会となった。彼は徳川方として両陣に参陣し、将軍・秀忠に供奉した 1 。一方、岸和田城を守る本家の小出吉英も、大坂方からの加勢の誘いを断固として拒絶し、徳川方としての立場を明確にした 9 。岸和田城では、籠城に備えて城内で刀や槍を急造するための工房が設置されていたことさえ確認されている 11 。三尹の参陣と小出本家のこの断固たる態度は、豊臣恩顧の家柄でありながら、もはや完全に徳川の家臣であることを内外に示した。これにより、三尹は徳川政権下で大名として生き残る道を、確実なものとしたのである。
和泉陶器藩は、徳川家康の政治的意図によって創設された一万石の小藩であった。その統治と経営は、小大名が激動の時代をいかに生き抜こうとしたかを示す興味深い事例である。特に、公式な幕藩体制の枠組みから逸脱したかのような、商人との大胆な連携による経済政策は、陶器藩の特色を際立たせている。
陶器藩の所領一万石は、一円的な支配地ではなく、複数の地域に分散した知行地(飛地)で構成されていた。本拠地である和泉国大鳥郡陶器(現在の堺市中区)の村々を中心に、河内国錦部郡、摂津国西成郡、そして遠く離れた但馬国気多郡・美含郡にまで所領が及んでいた 4 。
表2:和泉陶器藩 領地構成表(寛文4年時点)
国 |
郡 |
村数 |
石高(概算) |
和泉国 |
大鳥郡 |
6村 |
約2,932石 |
河内国 |
錦部郡 |
3村 |
約1,021石 |
摂津国 |
西成郡 |
2村 |
約1,048石 |
但馬国 |
気多郡 |
10村 |
約1,384石 |
但馬国 |
美含郡 |
28村 |
約3,616石 |
合計 |
|
49カ村 |
約10,001石 |
典拠: 4
この表が示すように、領地の半分近くが遠隔地の但馬国にあり、年貢の輸送や領地の管理は複雑で困難を伴ったと推測される。一方で、本拠地の陶器周辺は、古代から須恵器の生産地「陶邑(すえむら)」として知られ、農業生産に適した豊かな土地であった 13 。幕府の調査でも、陶器地域は上質の田畑で農作物の収穫も良いと記録されている 16 。藩の陣屋は西高野街道に近い景勝地に置かれ、その風物は儒学者・林羅山によって「陶器十景」として詠まれるほどであった 15 。
陶器藩の経営において最も注目すべきは、三尹の子である二代藩主・有棟、三代藩主・有重の時代に行われた、極めて独創的な新田開発である。財政基盤の強化を目指したこの事業は、通常の大名が行う藩営や村請けとは一線を画すものであった。三代藩主・有重は、この開発事業を大坂天満の商人・福嶋屋次郎兵衛に請け負わせたのである 16 。
福嶋屋は、現在の建設会社のように自らの資金と労働力を動員して事業にあたり、約800石の新たな農地(主に大豆畑と推定)を開発した。さらに、その農地を耕作させるために「福田村」という新しい村まで整備した 17 。驚くべきは、その契約内容である。陶器藩は福嶋屋に対し、この新田から上がる年貢を「折半」し、その権利を代々保証するという、破格の条件を提示していた 17 。
さらに驚くべきことに、この「福田村」は幕府の公式な検地帳や地図に記載されていない、いわば「隠し田」ならぬ「隠し村」であった 17 。これは、幕府の公的な支配体系から外れた、藩独自の経済圏を形成しようとする試みであった。しかし、それは藩と商人による農民の二重支配という構造を生み出し、幕藩体制の根幹を揺るがしかねない、極めてリスクの高い経営手法でもあった。
この大胆な「裏の経営」を可能にした背景には、単なるビジネス上の関係を超えた、小出家と福嶋屋の間に結ばれた秘密の血縁ネットワークが存在した。史料によれば、藩祖・三尹の母(側室おかい)は、後に某氏と再婚して娘「おねね」を産んでいる。そして、このおねねこそが、新田開発のパートナーである福嶋屋次郎兵衛の妻だったのである 17 。つまり、三代藩主・有重にとって福嶋屋は「祖母の娘の夫」という極めて近い姻戚関係にあった。この公にできない血縁関係こそが、年貢折半という異例の契約や、幕府に届け出ない村の運営を可能にした核心的な要因であったと考えられる。
革新的であると同時に危うさをはらんだ陶器藩の経営は、長くは続かなかった。三代藩主・有重は、遊興に耽って藩財政を悪化させ、幕閣の怒りを買ったと伝えられている 12 。しかし、その背景には、商人との非公式な連携という不安定な経営モデルがもたらした歪みがあった可能性も否定できない。
元禄9年(1696年)、四代藩主・小出重興が病に倒れる。彼は死に際して弟の重昌を養子に立てたいと幕府に願い出たが、許可が下りる前に17歳で急死した 12 。これにより、陶器藩は「無嗣(跡継ぎ無し)」を理由に改易、すなわち所領没収となった 4 。表向きの理由は無嗣であるが、幕府に知られていない「隠し村」の存在など、幕藩体制の原則に反する藩経営の実態が幕府の知るところとなり、それが跡継ぎ相続を認めないという厳しい判断に繋がったと推測される 17 。
こうして陶器藩は約90年でその歴史に幕を下ろしたが、小出家は完全に断絶したわけではなかった。宝永2年(1705年)、有棟の四男である小出有仍が、旧領の一部を含む和泉・河内国内で5,000石を与えられ、旗本として家名の存続を許された 12 。
小出三尹は、武将や統治者としてだけでなく、当代一流の文化人、特に茶人としての一面も持っていた。彼が生きた寛永期は、幕府の支配体制が「武断」から「文治」へと移行し、文化、特に茶の湯が政治的・社会的に重要な役割を担う時代であった 19 。一万石の小大名であった三尹にとって、文化的な活動は単なる趣味や教養ではなく、自らの地位を強化し、影響力を行使するための極めて高度な生存戦略であった。
三尹の文化戦略の中核をなしたのが、飛騨高山藩主であり、茶道・宗和流の創始者である金森家との強固な関係であった。三尹は、宗和流の祖・金森宗和の父である金森可重の娘(宗和の妹にあたる菊)を継室として迎えている 1 。
この姻戚関係は一代に留まらなかった。三尹の嫡男で陶器藩二代藩主となった小出有棟もまた、金森宗和の弟である金森重頼の娘「辻」を後室に迎えた 21 。この二代にわたる重層的な婚姻関係は、小出家と金森家が単なる親戚付き合いを超えた、強固な政治的・文化的同盟関係にあったことを物語っている。大坂夏の陣の際には、金森可重が小出本家の岸和田城に援軍を送っており、両家の密接な連携がうかがえる 21 。
表3:小出家・金森家 姻戚関係図
小出家 |
関係 |
金森家 |
小出三尹(陶器藩初代) |
⇔ |
継室:金森可重の娘(菊) |
小出有棟(陶器藩二代) |
⇔ |
後室:金森重頼の娘(辻) |
典拠: 1
三尹は、義兄にあたる金森宗和に直接茶の湯を学び、その才能を高く評価されていた。彼は宗和流の系譜に名を連ねるほどの優れた茶人であり、単なる愛好家の域を超えていた 21 。息子の有棟も父からその道を受け継ぎ、宗和流の茶道をさらに金森家へと伝える役割を担ったとされる 15 。
この茶人としての活動は、三尹にとって計り知れない価値を持っていた。石高わずか一万石の小大名である彼が、物理的な領地や軍事力だけで他の有力大名と渡り合うことは困難である。しかし、彼は金森宗和という文化界の巨人と結びつくことで、「茶の湯」という無形の文化資本、すなわち「第二の領地」を手に入れた。金森宗和は、公家社会を中心に絶大な影響力を持ち、加賀藩の前田利常をはじめとする有力大名とも深い交流があった 27 。三尹が宗和流の茶人であるということは、彼がこのハイレベルな文化人サークルへの「入場券」を手にしていたことを意味する。茶会という洗練された社交の場を通じて、彼は石高だけでは会うことのできない幕府の要人、有力大名、公家と対等に交流し、情報収集や人脈形成を行うことができた。この文化的ネットワークこそが、彼の政治力と社会的名声の源泉だったのである。
小出家は、茶の湯だけでなく、他の文化活動を通じても自らの権威を高めようと努めた。二代藩主の有棟は、当代随一の儒学者であった林羅山に依頼し、藩内の景勝地を漢詩で詠んだ「陶器十景」を作らせている 15 。これは、自藩の文化的価値を一流の知識人によって権威づけ、内外にその名を知らしめるための、巧みな文化プロデュースであった。現在、堺市南区にある「茶山台」という地名は、この時代に小出家が茶会などを催した「お茶屋山」に由来すると言われており、彼らの文化活動の痕跡を今に伝えている 15 。
小出三尹の生涯は、公務への忠勤と、領地経営への腐心、そして文化的ネットワークの構築という、多岐にわたる活動によって彩られていた。彼の死と、その後に残されたものは、近世初期の大名の生き様を象徴している。
和泉陶器藩の藩主として領国経営にあたる一方で、三尹は徳川幕府の公務にも忠実に従事した。寛永10年(1633年)には尾張国で、同12年(1635年)には遠江国で奉行職を務め、幕政の一翼を担った。さらに寛永17年(1640年)には、播磨山崎藩主・池田輝澄が改易された際、将軍の使者である上使という重責を担っている 1 。これらの経歴は、彼が豊臣恩顧の出身でありながら、幕府から深い信頼を得ていたことを明確に示している。
しかし、その生涯は公務の道半ばで幕を閉じる。寛永19年(1642年)4月29日、三尹は播磨国山崎(現在の兵庫県宍粟市)で職務中に死去した。享年54であった 1 。戒名は「青雲院殿前隅州太守梅隠宗周居士」と伝わる 1 。
三尹の墓所は、二箇所に現存している。一つは、幕府への奉公の地であった江戸の祥雲寺(現在の東京都渋谷区広尾)である 1 。これは、彼が徳川幕府に仕える大名、すなわち「公人」としての一面を象徴する場所と言える。
もう一つは、彼の領地であった和泉国陶器にあり、小出家の菩提寺とされた高倉寺(現在の堺市南区高倉台)である 21 。この寺の境内には、三尹をはじめ、息子の有棟など陶器藩小出家代々の墓が今も整然と並んでいる 4 。これは、彼が領民を治める「領主」としての一面を象徴する場所である。江戸と領国という二つの拠点に墓所が存在する事実は、参勤交代に代表されるように、江戸での公務と領国での統治という二元的な生活を強いられた近世大名のあり方を、如実に物語っている。
小出三尹の生涯は、豊臣から徳川へという巨大な権力移行期を、小大名がいかにして生き抜いたかを示す、類い稀なる実例である。彼は、単一の戦略に頼るのではなく、複合的なアプローチを駆使して自らの道を切り開いた。
第一に、関ヶ原の戦いにおける一族全体での巧みなリスク分散。第二に、時代の流れを的確に読み、豊臣家臣から徳川家臣へと、他者に先んじて立場を転換した政治的決断力。第三に、幕藩体制の枠組みに囚われず、商人との非公式な血縁ネットワークを活用して財政基盤を築こうとした革新的な経営手腕。そして第四に、茶の湯と姻戚関係を通じて文化資本を獲得し、石高以上の影響力を行使した高度な文化戦略。これら多面的な戦略が、彼の成功を支えた。
彼の人生は、戦国の遺風が色濃く残る中で、新たな「治世」の秩序に適応し、自らの家を興そうとした近世初期の武家のリアルな姿を浮き彫りにする。小出三尹は、単なる「秀吉の縁者」でも「徳川の家臣」でもない。自らの才覚と戦略を駆使して時代の荒波を乗り越えた、したたかで洗練された一人の統治者として、再評価されるべき人物であろう。