小出吉英(こいで よしふさ/よしひで)は、戦国時代の終焉から江戸幕藩体制の確立期という、日本史上屈指の激動期を生きた武将・大名である。彼の生涯は、単なる一地方領主の事績に留まらない、時代の転換点を象徴する多面的な様相を呈している。
第一に、彼は豊臣秀吉の従甥(いとこおい)という、豊臣家に極めて近い出自を持つ大名であった 1 。この血縁は、豊臣政権下では絶大な栄誉と特権をもたらしたが、徳川の世が到来すると、一転して家の存続を脅かしかねない危険な出自ともなった。この出自が彼の生涯にわたり、栄光と危機の両面をもたらす根源となったのである。
第二に、関ヶ原の戦い、大坂の陣という時代の大きな節目において、彼は卓越した政治的平衡感覚を発揮し、徳川幕藩体制下で外様大名として家を存続させることに成功した。豊臣恩顧の大名の多くが改易や減封の憂き目に遭う中、小出家がその所領を保ち得た背景には、吉英とその一族による周到な生存戦略が存在した。
第三に、彼は但馬国出石(いずし)の地に、近世的な城郭と城下町を築き上げ、藩政の基礎を固めた優れた為政者であった 3 。その町割りは今日の「但馬の小京都」の礎となり、彼の領国経営者としての手腕を今に伝えている。
そして第四に、同郷の傑出した禅僧・沢庵宗彭(たくあん そうほう)と生涯にわたる深い精神的交流を結び、宗鏡寺(すきょうじ)の再興などに尽力した文化人としての一面を持つ 3 。この交友は、彼の人間性や精神世界を理解する上で不可欠な要素である。
本報告書は、これらの多面的な要素を史料に基づき統合し、小出吉英の生涯を「生存戦略」「領国経営」「精神世界」という三つの主要な軸から立体的に解き明かすことを目的とする。彼の生涯を追うことは、戦国から江戸へと移行する時代のダイナミズムと、その中で生きる大名の知恵と苦悩を理解する上での、貴重な事例研究となるであろう。
小出吉英の生涯を理解するためには、まず彼が属した小出家の成り立ちと、豊臣政権下におけるその特殊な立場を把握することが不可欠である。小出家の勃興は、実力や戦功以上に、豊臣秀吉との血縁という極めて個人的な関係性に依拠しており、そのことが吉英の運命を大きく規定することになる。
小出家が歴史の表舞台に登場するのは、吉英の祖父にあたる小出秀政(ひでまさ)の代からである。秀政の妻・栄松院は、豊臣秀吉の母である大政所の妹であった 16 。この婚姻により、秀政は秀吉の叔父という極めて近しい姻戚関係を結ぶこととなり、豊臣一門に準ずる特別な処遇を受ける基盤を築いた。
秀政は、武勇を誇る猛将というよりは、秀吉の側近(用人)として、役方(文官的役割)でその政権を支えた 19 。天正13年(1585年)、秀政は和泉国岸和田城主に任じられ 20 、文禄4年(1595年)には3万石を領する大名へと取り立てられた 16 。
秀政の嫡男であり、吉英の父にあたる小出吉政(よしまさ)もまた、従兄である秀吉に仕え、その信頼は厚かった。吉政は文禄4年(1595年)、前野長康の失脚に伴い、但馬国出石城6万石の領主となり、小出家は秀政の岸和田3万石と合わせて9万石を領する有力大名へと成長した 12 。
この小出家の権力基盤には、特質と同時に構造的な脆弱性が内包されていた。加藤清正や福島正則といった他の豊臣恩顧の大名が、数々の戦場での武功によってその地位を築いたのとは対照的に、小出家の地位は秀吉との個人的な信頼と血縁に大きく依存していた。この関係は、豊臣政権が盤石である間は絶大な強みとして機能したが、政権の主である秀吉が没すれば、その基盤そのものが揺らぎかねないという危うさを常に孕んでいた。秀吉の死後、小出家が家の存続のために極めて慎重かつ戦略的な行動を迫られたのは、この権力基盤の特質に起因する必然であったと言える。
小出吉英は、天正15年(1587年)、父・吉政の長男として大坂で生を受けた 1 。彼は秀吉の従甥にあたり、豊臣家にとって次代を担うべき貴公子の一人であった 1 。母は伊東治明の娘、長春院である 1 。
この特別な出自を背景に、吉英は異例の待遇を受ける。文禄2年(1593年)、彼はわずか7歳にして従五位下・右京大夫に叙任されたのである 1 。これは、彼が単なる一大名の嫡男としてではなく、豊臣一門の後継者候補の一人として、将来を嘱望されていたことを明確に示している。
しかし、この「豊臣の貴公子」という輝かしい出自は、両義的な意味を持っていた。彼のアイデンティティの中核を形成したであろうこの立場は、慶長3年(1598年)の秀吉の死と、それに続く徳川家康の台頭によって、一転して政治的な負債となり得るものであった。吉英の生涯は、この過去の栄光と、徳川の臣下という新たな現実との間で、いかに自己の立場を再定義し、家を存続させるかという、長く困難な葛藤の連続であったと解釈することができる。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は急速に流動化し、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いとして頂点に達した。この時代の大きな転換点において、小出家は巧みな戦略で危機を乗り切り、吉英は複雑な経緯を経て藩主としてのキャリアを開始する。この過程は、戦国大名が近世大名へと変容していく姿を如実に示している。
関ヶ原の戦いにおいて、小出家は一族を東西両軍に分けるという、リスク分散戦略を採用した。これは、どちらが勝利しても家名を存続させるための、当時にあっては決して珍しくない、計算された生存術であった。
祖父・小出秀政は、秀吉から豊臣秀頼の輔佐を託されたという立場から、父・吉政と共に関ヶ原では西軍に与した 12 。彼らは丹後田辺城に籠る東軍の細川幽斎を攻撃する部隊の一翼を担った 12 。一方で、吉政の弟、すなわち吉英の叔父にあたる小出秀家(ひでいえ)は東軍に属し、関ヶ原の本戦において武功を挙げた 8 。
この意図的な両属戦略は、戦後に明確な結果をもたらした。西軍に与した秀政・吉政父子は、本来であれば改易または減封という厳しい処分を受ける立場にあったが、東軍で戦った秀家の功績が考慮され、戦後も旧領を安堵されるという、望みうる最良の結果を得たのである 12 。この事実は、小出家の行動が偶発的なものではなく、時代の趨勢を見極めた上での周到な政治判断であったことを強く示唆している。
表1:関ヶ原の戦いにおける小出家の配置と役割 |
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人物 |
所属 |
小出秀政(祖父) |
西軍 |
小出吉政(父) |
西軍 |
小出秀家(叔父) |
東軍 |
関ヶ原の戦いを乗り切った小出家では、当主の交代と領地の再編が複雑な形で進められた。この一連の動きは、徳川幕府の承認、あるいは命令の下で行われており、小出家が幕藩体制へと組み込まれていく過程を具体的に示している。
第一次継承(慶長9年/1604年)
関ヶ原から4年後の慶長9年(1604年)、祖父・秀政が死去した。これを受け、徳川家康の命により、父・吉政が秀政の遺領である和泉岸和田藩3万石を継承することになった。そして、その吉政の旧領であった但馬出石藩6万石は、嫡男である吉英が18歳で継承し、ここに小出吉英は初めて一国一城の主となった 1。
この時、幕府の命により、吉英の所領6万石の中から1万石が叔父の小出三尹(みつただ)に分与され、和泉国に陶器(とうき)藩が新たに立藩された 1。これにより、吉英の出石藩は実質5万石となった。
第二次継承(慶長18年/1613年)
慶長18年(1613年)、父・吉政が49歳の若さで死去する 12。家督を継いだ吉英は、小出家の本拠である岸和田藩を継承するため、出石を去って岸和田城へと移った 1。
これにより空き領地となった出石藩は、吉英の弟である小出吉親(よしちか)が継承した 12。ただし、この継承は単純なものではなかった。吉英は出石藩の領地のうち約2万2千石を自らの岸和田領に編入し、父の遺領と合わせて合計5万石余の岸和田藩主となった 1。残りの出石領約2万8千石が弟・吉親に与えられたのである。
一連の複雑な領地再編は、小出家が一族全体で所領を運営する「本藩・支藩」に似た関係 12 を維持しつつも、その全てが幕府の厳格な統制下にあることを示している。豊臣恩顧の大名が、その領地所有権すらも幕府の裁量に委ねられる近世大名へと変質していく、典型的な事例であった。
表2:小出吉英の藩主歴と石高の変遷(慶長9年~元和5年) |
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期間 |
藩 |
石高(公称) |
継承・転封の経緯 |
慶長9年(1604年)~ |
但馬国 出石藩 |
6万石 → 5万石 |
父・吉政の岸和田藩継承に伴い、出石藩を継承。叔父・三尹に1万石を分知。 |
慶長18年(1613年)~ |
和泉国 岸和田藩 |
5万石 |
父・吉政の死去に伴い、家督を継承し岸和田藩主となる。 |
元和5年(1619年)~ |
但馬国 出石藩 |
5万石 |
幕府の畿内大名配置転換政策により、再び出石藩へ転封。 |
小出吉英は、単に時代の波を乗り越えただけの武将ではなかった。彼は領国経営に優れた手腕を発揮し、特に出石の地において、その後の藩政の礎となる物理的・経済的基盤を築き上げた。その治績は、彼が長期的なビジョンを持った為政者であったことを物語っている。
慶長9年(1604年)に出石藩主となった吉英が最初に着手した大事業が、新たな居城の建設であった。彼は、中世以来の山城であった有子山(ありこやま)城を廃し、その山麓に政庁と居館を兼ね備えた近世城郭としての出石城を築いた 1 。
この城郭の縄張り(設計)は、本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪(くるわ)を山麓の傾斜に沿って雛壇状に配置する「梯郭式(ていかくしき)」と呼ばれるものであった 6 。これは防御上の合理性に加え、城下から見上げた際に藩主の権威を視覚的に示す効果も計算された設計であったと考えられる。一方で、天守は築かれなかった 24 。これは、元和元年(1615年)の一国一城令に先立つものではあるが、もはや巨大な天守を誇示する「戦」の時代が終わり、これからは「治」の時代であるという、吉英の冷静な時代認識と幕府への配慮の表れであった可能性が高い。
築城と並行して、吉英は計画的な城下町の整備も断行した。武家屋敷、町人地、寺社地を明確に区画し、碁盤目状の整然とした町並みを形成したのである 4 。特に、町の出入口には防御拠点としての役割も兼ねて寺院を配置するなど 9 、近世城下町に典型的な都市設計思想が見て取れる。この時に築かれた町割りが、今日の「但馬の小京都」と称される出石の美しい景観の骨格となっている。
山城から平山城への移行、そして城と城下町の一体的な整備という一連の事業は、単なる利便性の追求ではない。それは、統治のパラダイムが「戦」から「治」へと転換したことを物理的に表現するものであり、吉英が領国全体を恒久的に支配する近世大名としての明確なビジョンを持っていたことの証左に他ならない。
吉英は、城郭都市の建設というハード面の整備だけでなく、藩の財政基盤を確立するための政策も着実に実行した。
領内検地の実施
元和5年(1619年)に岸和田から出石へ再び封じられた後、吉英は領内の検地を実施した記録が残っている 9。検地は、領内の石高(生産力)を正確に把握し、年貢徴収の基準を明確化するための、近世藩政における最も基本的な政策であった。これにより、藩の財政基盤は安定し、計画的な藩運営が可能となった。
矢根銀山の経営
吉英の治世における特筆すべき経済政策として、矢根(やね)銀山の経営が挙げられる。寛文3年(1663年)、吉英は幕府から但馬国の矢根銀山を下賜された 1。この銀山は万治元年(1658年)に発見され、寛文2年(1662年)頃には最盛期を迎え、月産150貫(約560kg)もの銀を産出したと伝えられる有力な鉱山であった 34。その経営権を得たことは、出石藩の財政に多大な潤いをもたらしたと推測される。
この矢根銀山の下賜という事実は、単なる経済政策の成功に留まらない、より深い政治的な意味合いを持っていた。江戸時代、佐渡金山や石見銀山に代表される主要な金銀山は、幕府の財政を支える最重要資源として、その多くが直轄地(天領)として厳しく管理されていた 36 。そのような状況下で、外様大名である小出吉英に対し、幕府が有望な銀山を「下賜」するという措置は極めて異例であった。
これは、吉英が数十年にわたり、大坂の陣での功績や後述する松江城請取役といった公務を通じて幕府への忠勤に励み、幕府中枢から絶対的な信頼を勝ち得ていたことを示す何よりの証拠である。豊臣恩顧という危うい出自から始まった彼のキャリアが、最終的に幕府から経済的な特権を与えられるほどの信頼を得るに至ったという事実は、彼の生涯にわたる慎重かつ忠実な処世術が、見事に結実したことを物語っている。
慶長19年(1614年)から翌年にかけて勃発した大坂の陣は、豊臣家と徳川家の最終決戦であり、豊臣恩顧の大名であった小出吉英にとっては、その存亡をかけた最後の試練であった。この局面で彼が下した決断は、小出家の運命を決定づけると共に、彼が徳川の世を生きる外様大名としての覚悟を明確に示すものであった。
大坂冬の陣に先立ち、豊臣秀頼やその側近である大野治長らは、吉英が秀吉の従甥という特別な縁故を持つことから、味方に加わるよう盛んに誘いをかけた 1 。当時、大坂に程近い和泉岸和田藩主であった吉英にとって、この誘いは極めて重い意味を持っていた。
しかし、吉英の選択は迷いのないものであった。彼は豊臣方からの誘いを毅然として断ると、その証拠である書状を添えて、事の次第を幕府の重臣・本多正純に報告した。これを知った徳川家康は、吉英の揺るぎない忠誠心に大いに喜び、高く評価したと伝えられている 1 。この行動は、単に誘いを断るという受動的な対応に留まらない。自らの忠誠心を最も効果的に「見える化」し、幕府にアピールするという、極めて高度な政治的パフォーマンスであった。これにより、彼は豊臣縁者という出自からくる幕府の潜在的な疑念を完全に払拭し、「信頼できる外様大名」としての地位を不動のものとしたのである。
その後の戦いにおいても、吉英は徳川方として確固たる働きを見せた。冬の陣では弟の吉親と共に天王寺口の攻撃に参加し 1 、翌年の夏の陣でも戦功を挙げた 3 。この一連の行動は、彼の政治的センスの鋭さを示すものであり、彼がもはや戦国武将ではなく、幕藩体制という新たな政治秩序の本質を深く理解した、近世的な大名であったことを物語っている。
大坂の陣での功績により、幕府からの信頼を勝ち取った吉英であったが、元和5年(1619年)、彼は思わぬ幕命を受けることになる。それは、岸和田から但馬出石5万石へ再び転封せよ、というものであった 1 。
この転封は、吉英個人への懲罰や不信によるものではなかった。これは、大坂の陣後に幕府が強力に推し進めた「畿内大名配置転換政策」の一環であった 12 。幕府は、旧豊臣家の本拠地であり、西国への玄関口でもある大坂周辺の畿内から、池田氏や小出氏といった豊臣恩顧の外様大名らを遠ざけ、その跡地には徳川一門や譜代大名を配置することで、中央の支配体制を磐石なものにしようと図ったのである 39 。
この政策には、吉英の置かれた立場の二重性が明確に表れている。大坂の陣での忠誠の証明により、彼は家康や秀忠から個人的な信頼を得ていた。しかし、幕府という統治機構の視点から見れば、彼の「豊臣縁者」という出自は、依然として構造的なリスク要因と見なされていた。特に岸和田は、大坂と、潜在的な脅威となりうる紀州徳川家とを結ぶ戦略的要衝である 44 。幕府がこの地を豊臣縁者に任せ続けることは、長期的な安全保障の観点から許容できなかったのである。
したがって、この転封は吉英個人への評価とは別に、幕府の国家戦略上の都合によって断行された「構造的排除」であったと解釈できる。吉英がこの幕命に異を唱えることなく従容として従ったことは、彼がこの幕府の冷徹な論理を理解し、個人の感情や功績よりも、新たな時代の秩序への順応を優先したことを示している。それこそが、彼が徳川の世を巧みに生き抜いた最大の秘訣であった。
小出吉英の生涯を語る上で、同郷但馬出身の臨済宗の高僧、沢庵宗彭との深い交流は欠かすことのできない要素である。二人の関係は、単なる大名と僧侶という関係を超え、互いの活動を支え合う精神的・戦略的なパートナーシップであり、吉英の人間性や精神世界を深く理解する鍵となる。
吉英は、沢庵宗彭に深く帰依し、生涯にわたる師弟関係を結んだ 3 。この関係の象徴的な事業が、出石にある宗鏡寺の再興である。宗鏡寺は、室町時代に但馬守護・山名氏の菩提寺として創建された名刹であったが、山名氏の没落後は荒廃していた 11 。
出石出身である沢庵はこの状況を憂い、元和2年(1616年)頃、当時出石藩主であった吉英に再興を勧めた。吉英は師の勧めに応え、見事に寺を再建した 9 。後に沢庵自身もこの寺に庵を結んで暮らしたことから、宗鏡寺は親しみを込めて「沢庵寺」とも呼ばれるようになり、現在に至るまで但馬地方における禅宗文化の重要な拠点となっている 11 。
吉英の沢庵への協力は故郷に留まらなかった。大坂の陣で被災した堺の名刹・南宗寺の復興にも力を貸している。沢庵の依頼を受け、境内に植えるための松の木を寄進するなど、その再建に大きく貢献した 10 。
吉英と沢庵の親交は生涯続き、その間には数多くの書状が交わされたことが確認されている 10 。現存する書簡からは、二人が極めて広範かつ密接な関係にあったことが窺える。
その内容は、前述の寺社復興に関する相談 10 はもちろんのこと、幕府の法度に対する見解 51 、三代将軍・徳川家光の言動に関する情報交換 48 、そして共通の知人であった村上藩主・堀直定が疱瘡で夭折したことを悼む手紙 49 など、個人的な信頼関係がなければ交わされることのない、高度に政治的・社会的な事柄にまで及んでいる。
沢庵は、幕府の宗教政策に異を唱えた「紫衣事件」によって流罪となるなど、権力に与しない硬骨の人物として知られている 47 。その沢庵が、大名である吉英を深く信頼し、様々な内密の相談を持ちかけていたという事実は、二人の関係の特異性を示している。
この関係は、単なる「大名(パトロン)」と「僧侶(帰依者)」という一方的なものではなかった。吉英にとって沢庵は、精神的な指導者であると同時に、柳生宗矩 54 や堀直寄 15 といった幕閣に近い人物たちと繋がる重要なパイプ役であり、中央の政局を把握するための貴重な情報源でもあった。一方、沢庵にとって吉英は、故郷の寺の再興など、自らの理想を実現するための、最も信頼できる経済的・政治的支援者であった。この関係は、同郷という強固な絆を基盤とした、相互の利益と深い信頼に基づく「戦略的パートナーシップ」と評価するのが最も適切であろう。
沢庵が柳生宗矩に与えたとされる兵法書『不動智神妙録』に説かれる、「何事にも心を止めず、動じることのない不動の心境」という思想 55 は、豊臣と徳川という二つの巨大な権力の間で、常に難しい舵取りを迫られた吉英にとって、単なる禅の教えに留まらず、激動の時代を生き抜くための実践的な処世の哲学として、大きな影響を与えたに違いない。
徳川の世が安定期に入ると、小出吉英は幕府の忠実な臣下として公務に精励し、その信頼を確固たるものにしていった。同時に、彼は巧みな婚姻政策を通じて、自家を取り巻く大名家との間に強固なネットワークを構築し、家の安泰を図った。
吉英が幕府からいかに厚い信頼を得ていたかは、彼が拝命した公務の内容から明らかである。
寛永10年(1633年)、出雲松江藩主の堀尾忠晴が無嗣断絶により改易となった際、吉英は幕府から松江城の受け取り役という大役を命じられた。さらに寛永14年(1637年)、その後を継いだ京極忠高もまた無嗣にて没すると、吉英は再び松江城の守衛役として派遣されている 1 。改易された大名の城地を接収し、新たな支配体制が確立するまで管理するという任務は、軍事的な能力と幕府への絶対的な忠誠心の両方が求められる、最も重要な公務の一つであった。外様大名である吉英が、この役を繰り返し拝命したという事実は、彼が幕府から絶大な信頼を得ていたことを雄弁に物語っている。
また、寛永15年(1638年)には、幕命により高野山金剛峯寺の大塔造営を指揮するという栄誉も担った 1 。これらの地道で忠実な公務の積み重ねが、彼の評価を不動のものとしていったのである。
江戸時代初期の大名にとって、婚姻は家を存続させるための最も重要な外交・安全保障政策であった 60 。小出吉英の婚姻政策には、自家の置かれた政治的立場を冷静に分析し、その脆弱性を克服しようとする明確な戦略性が見て取れる。
まず、吉英自身が迎えた正室は、譜代大名・保科正直の娘であり、徳川家康の養女でもある貞松院(ていしょういん、名はヨウ)であった 1 。家康の養女を正室とすることで、徳川将軍家との直接的な関係を構築し、「豊臣縁者」という出自を補完する狙いがあったことは明らかである。
さらに、子女の婚姻を通じて、多方面にわたる盤石なネットワークを築き上げた。
これらの婚姻政策は、吉英が自家の政治的脆弱性を克服するために、いかに周到な計画を実行したかを示している。彼は、徳川家、譜代大名、有力外様大名という、幕藩体制を構成するあらゆる勢力と姻戚関係を結ぶことで、小出家の安全保障網を幾重にも張り巡らせた、優れた戦略家であった。
表3:小出吉英の主要な姻戚関係一覧 |
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関係 |
相手 |
相手の家格・藩 |
正室 |
貞松院(保科正直の娘、徳川家康の養女) |
譜代大名(保科家)、徳川将軍家 |
長女 |
三浦重勝 → 山内一唯 |
譜代大名(下総矢作藩)→ 外様大名(土佐藩重臣) |
四女 |
立花種長(継室) |
有力外様大名(筑後柳河藩) |
五女 |
藤井松平信之 |
譜代大名(丹波篠山藩) |
三男 |
保科正英(保科家嫡子となる) |
親藩に準ずる譜代大名(飯野藩) |
姉妹 |
加藤貞泰(室) |
外様大名(伊予大洲藩) |
姉妹 |
松平忠明(室) |
親藩(大和郡山藩) |
天正15年(1587年)に生まれ、寛文6年(1666年)に没するまで、小出吉英は80年という長寿を全うした 1 。その生涯は、豊臣秀吉の天下統一期から始まり、徳川幕府四代将軍・家綱の治世という文治政治の安定期に至るまで、日本の近世移行期そのものと重なる。彼はまさに、時代の生き証人であった。
吉英が後世に残した遺産は、物理的なものと精神的なものの両面にわたる。為政者としての彼の最も永続的な遺産は、疑いなく出石の地に築いた城郭と城下町である。彼が設計した出石城の壮麗な石垣と、碁盤目状の整然とした町割りは、400年以上の時を経た今日もなお、兵庫県豊岡市出石の歴史的景観の中核をなし、訪れる人々を魅了し続けている 5 。
文化人としての彼の精神的な遺産は、沢庵和尚との深い交流の中に結実している。彼が再興した宗鏡寺は、但馬地方における重要な禅宗文化の拠点として存続し 11 、二人の間で交わされた数多くの書状は、近世初期の政治・社会・文化を研究する上で、極めて価値の高い一次史料として後世に伝えられている。
小出吉英は、華々しい戦功によって歴史に名を刻んだ武将ではない。しかし、彼は豊臣家との深い縁故という、徳川の世においては極めて不利な出自を背負いながらも、類稀なる政治感覚と戦略的思考によって、その逆境を見事に乗り越えた。関ヶ原での計算された両属戦略、大坂の陣における忠誠の明確な表明、幕府への地道で忠実な奉公、そして周到な婚姻政策という一連の巧みな処世術は、彼が戦国から江戸へと移行する時代の激流を読み解き、それに適応する能力に長けていたことを証明している。
彼は、武力のみが支配した時代が終わり、知力と戦略、そして忍耐が求められる新たな時代において、いかにして家を保全し、繁栄させるかという課題に対する一つの模範解答を示した。その意味で、小出吉英は単なる一藩主ではなく、理知的で平衡感覚に優れた「生存の達人」であり、近世初期における外様大名の理想的な処世術を体現した人物として、再評価されるべき存在である。彼の生涯は、激動の時代において、武力だけでなく、先を見通す知性と柔軟な戦略がいかに重要であったかを、我々に静かに、しかし力強く教えてくれるのである。