最終更新日 2025-06-19

小出秀政

豊臣家臣にして縁戚、小出秀政の研究 ―その生涯と一族の軌跡―

はじめに:秀吉の「叔父」―その実像の再評価に向けて

日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての激動期を生きた武将、小出秀政。彼は一般的に、豊臣秀吉の縁戚として立身し、和泉岸和田藩の初代藩主となった人物として知られている 1 。その生涯は、秀吉の威光によって引き立てられた幸運な武将という側面で語られることが多い。しかし、こうした評価は彼の人物像の一面に過ぎない。近年の研究、特に福田千鶴氏による基礎的研究は、秀政が単なる縁故主義の受益者ではなく、豊臣政権の中枢で財政や蔵入地の管理を担った有能な「役方」、すなわち能吏であったことを明らかにしている 3

本稿は、こうした研究成果を踏まえ、小出秀政の生涯を多角的に再検討することを目的とする。秀吉との特殊な血縁関係が彼のキャリアに与えた影響を分析しつつ、彼が豊臣政権の統治機構において果たした具体的な行政手腕を明らかにする。さらに、秀吉の死後、豊臣家の存亡が危ぶまれる中で、秀頼の後見役として、また関ヶ原の戦いという未曾有の危機において、一族の存続をかけた見事な戦略家としての一面を浮き彫りにする。これにより、秀政を単なる「秀吉の叔父」というレッテルから解放し、乱世から治世への移行期を巧みに生き抜いた、現実主義的な行政官僚大名としての実像に迫りたい。

小出秀政 略年表

年代

出来事

天文9年 (1540)

尾張国愛知郡中村にて、小出政重の長男として生まれる 1

天正3年 (1575)頃

羽柴秀吉に仕え始める。この頃、秀吉の文書に「小出甚左衛門」として名が初出する 3

天正9年 (1581)

蔵奉行の役職にあり、秀吉より妻の化粧料として米30石を賜る 3

天正10年 (1582)

播磨国姫路城の留守居役に任じられる 3

天正13年 (1585)

和泉国岸和田城主となり、3万石(最終的に)を領する 2

天正18年 (1590)

小田原征伐に従軍する 3

慶長元年 (1596)

豊臣姓を下賜される 1

慶長2年 (1597)

秀政による岸和田城の大改修が完了し、五層の天守が竣工する 6

慶長3年 (1598)

秀吉の死に際し、遺児・豊臣秀頼の輔佐を託される 4

慶長5年 (1600)

関ヶ原の戦い。秀政は大坂城で秀頼に付き添い西軍に属す。長男・吉政も西軍として丹後田辺城を攻撃。次男・秀家は東軍に参加し活躍する 5

慶長9年 (1604)

3月22日、大坂にて死去。享年65 1 。京都の本圀寺に葬られる 3

第一章 出自と秀吉との関係構築

小出秀政の生涯を理解する上で、その出自と豊臣秀吉との間に結ばれた特異な関係性は不可欠な要素である。彼の立身の基盤は、この関係性そのものにあったと言っても過言ではない。

秀吉との同郷の縁

小出氏は、その祖先が信濃国伊那郡小井氐の庄に住んだことから家号とし、後に尾張国愛知郡中村に移り住んだと伝えられる 3 。この中村こそ、秀吉が生まれた場所であり、秀政は天文9年(1540年)にこの地で生を受けた。秀吉より3歳年下であり、二人は同郷の出身であった 3 。この地理的な近さは、後の主従関係の形成において、初期の親近感や信頼関係を育む土壌となったと考えられる。

決定的な婚姻関係

秀政の運命を決定づけたのは、秀吉の母・大政所の妹である栄松院(俗名「とら」)との婚姻であった 1 。この結婚により、秀政は秀吉の叔母婿、すなわち血縁上は「叔父」という立場になった。秀吉より年下でありながら、義理の叔父となるこのねじれた関係は、豊臣政権内における秀政の独特な地位を形成する。

この「年下の叔父」という立場は、秀吉にとって極めて都合の良いものであった。低い身分から天下人へと駆け上がった秀吉にとって、信頼できる身内は限られていた。彼の権力基盤は、弟の秀長や、母方・妻方の縁者に大きく依存していた。その中で秀政は、年長の叔父のように敬意を払う必要がなく、それでいて紛れもない身内として絶対的な忠誠を期待できる存在であった。この力学が、秀吉をして秀政を財政管理などの枢要な役職に安心して就けることを可能にした。福島正則(従兄弟) 10 や加藤清正(従兄弟の子) 11 といった他の縁戚が武功派の将軍として活躍したのに対し、秀政は当初から異なる役割を期待されていたのである。

小出氏略系図

Mermaidによる家系図

graph TD subgraph 豊臣家 大政所(なか) --- 豊臣秀吉 end subgraph 小出家 栄松院(とら) --- 小出秀政(秀吉の叔母婿) 小出秀政 --- 小出吉政(長男) 小出秀政 --- 小出秀家(次男) end 大政所 --- 栄松院(姉妹)

秀吉への出仕

『寛永諸家系図伝』など後世の記録には「幼少にして秀吉につかふ」といった記述が見られるが、これは二人の近しい関係を強調するための潤色と考えられている 3 。学術的な分析によれば、秀政が秀吉に仕え始めたのは、秀吉が自身の家臣団を形成できる地位に昇った後、天正3年(1575年)頃と推定される。この年の羽柴秀吉の書状に「小出甚左衛門」として初めてその名が登場するのが、現存する史料上の初見である 3 。この時、秀政は数えで36歳であり、決して若年からの仕官ではなかった。

第二章 豊臣政権下での台頭―能吏としての才覚

小出秀政のキャリアは、戦場での武功ではなく、豊臣政権の屋台骨を支える行政官僚、すなわち「役方」としての道であった。彼の地道で着実な働きは、秀吉の絶大な信頼を勝ち取り、政権内での地位を確固たるものにしていった。

蔵奉行から留守居役まで

秀政が秀吉の側近として頭角を現したのは、財政・兵站を司る役職においてであった。天正9年(1581年)の時点で、彼は秀吉の財産を管理する「蔵奉行」の地位にあったことが確認されている 3 。この年の秀吉自筆の切手には、秀政の妻に化粧料として米30石を支給するよう命じる内容が記されており、その箱書きに秀政が蔵奉行であったことが明記されている 3 。これは、豊臣家の財政の根幹を任されるほどの深い信頼関係を示している。

さらに、天正10年(1582年)、本能寺の変後の混乱期には、秀吉の重要な拠点である播磨国姫路城の留守居役の筆頭に任じられた 3 。主君が畿内で天下統一の戦いを繰り広げる中、後方の拠点を預かるこの役目は、彼の忠誠心と実務能力が高く評価されていた証左である。また、近江国の検地奉行を務めるなど、政権の税収基盤を確立するための重要な事業にも深く関与した 3

和泉岸和田城主として

天正13年(1585年)、秀政は和泉国岸和田城主に任じられた 2 。この配置は、単なる恩賞ではなく、高度な戦略的判断に基づいていた。岸和田は、大坂と紀州を結ぶ紀州街道の要衝であり、当時まだ大きな勢力を保っていた紀州の根来寺などの寺社勢力に対する押さえとして、また、国際貿易港である堺と政治の中心地である大坂との中間に位置する経済的・軍事的な要所でもあった 6

当初の知行は4千石程度であったが、文禄4年(1595年)には3万石にまで加増されており、この地域の統治が安定し、秀政の役割の重要性が増していったことを示している 7

秀政は城主として、岸和田城の大規模な改修に着手した。特に慶長2年(1597年)に竣工した五層の天守閣は、中世の城郭を近世的な城郭へと変貌させる象徴的な事業であった 6 。これは、岸和田城が豊臣政権の西国支配における重要な拠点であることを内外に示すものであった。

秀政のキャリアは、豊臣政権が単なる武人集団ではなく、高度な官僚機構を備えた統治組織であったことを物語っている。彼の役割は戦場ではなく、蔵や検地帳の中にあった。秀吉は秀政の武勇ではなく、その算盤の能力と忠実さをこそ高く評価していたのである。浅野長政らとともに、秀政は巨大な豊臣政権という企業体を円滑に動かすための、不可欠な管理部門の責任者だったのである。

第三章 天下統一事業への参加

小出秀政は、最前線で槍を振るう武闘派の将ではなかったが、秀吉が推し進めた天下統一事業において、後方支援という重要な役割を担っていた。彼の貢献は、華々しい戦功として記録されることは少ないが、巨大な軍事行動を支える兵站と行政の面で不可欠なものであった。

小田原征伐と文禄・慶長の役

天正18年(1590年)の小田原征伐において、秀政が秀吉軍に従軍したことは、同年4月5日付の書状に彼の署名が残っていることから確実である 3 。20万ともいわれる大軍を動員したこの戦役において、彼の役割は武器・兵糧の調達や輸送といった後方支援にあったと推測される。

続く文禄・慶長の役(1592年-1598年)では、秀政の直接の渡海は確認されていないが、彼の次男・秀家が肥前名護屋城に在陣した記録が残っている 9 。秀政自身は、港湾施設を持つ岸和田城主として、また政権の蔵奉行としての経験から、朝鮮半島へ送られる膨大な兵員と物資の集積・輸送管理に関与していたことは想像に難くない。実際に、この時期に彼が四天王寺での勧進能に際して禁制を発給しており、国内にあって行政官としての職務を遂行していたことがわかる 20

歴史の記述は、朝鮮半島で戦った将軍たちの活躍に光を当てがちである。しかし、この未曾有の対外戦争は、前線での戦闘と同じくらい、後方での兵站維持が勝敗を左右する大規模な国家事業であった 21 。秀政のような、戦略的拠点に配置された有能な行政官の存在なくして、数十万の軍勢を長期間にわたって異国の地で維持することは不可能であった。彼の働きは、戦場の華やかさとは無縁であったが、豊臣政権の国力を支える「見えざる労働」であり、その国家としての統治能力の高さを示すものであった。

第四章 秀吉の死と秀頼後見役

慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその生涯を閉じると、豊臣政権は大きな転換点を迎える。秀吉は死に際し、まだ幼い嫡子・秀頼の将来を深く案じ、最も信頼する側近たちにその後事を託した。その一人として、小出秀政が選ばれたのである。

「小出・片桐両輪体制」

秀吉は遺言で、秀政に片桐且元と共に秀頼の傅役(後見人)となるよう命じた 4 。これにより、秀政と且元は、事実上、大坂城内における豊臣家の家政と秀頼の身辺警護を統括する最高責任者となった。この体制は「小出・片桐両輪体制」とも称されるべきもので、彼らは秀頼の側近として、日々の政務から城の維持管理までを取り仕切った 4 。慶長5年(1600年)に三奉行が連署で発した法度では、秀政の子・吉政(父の代理として)と且元が、大坂城の破損箇所の修繕や清掃の責任者として明確に指定されている 8 。また、秀政自身も本丸裏御門など、城の最重要区画の門番に任命されており、その信頼の厚さがうかがえる 4

秀吉の死後、豊臣政権は権力の空白が生じ、五大老筆頭の徳川家康と五奉行の石田三成との対立が先鋭化していく。この緊迫した状況下で、秀政は病を称して表立った政治活動を控えるなど、慎重な姿勢を保った 5 。これは、彼が日和見主義者であったことを意味するのではない。彼の最優先事項は、秀吉から託された秀頼の安全確保であり、政争に巻き込まれてその立場を危うくすることを避けるための、極めて現実的な判断であった。

秀頼の後見人という役目は、単なる世話役ではなく、豊臣家の正統性を象徴する政治的な防波堤としての役割を担っていた。多くの豊臣恩顧の大名が家康の権勢に靡いていく中で、秀政の忠誠心はあくまで秀頼個人に向けられていた。関ヶ原の戦いの際に彼が大坂城に留まったのは、臆病や優柔不断からではなく、秀吉への最後の忠義を果たすための行動であった。彼が秀頼と共にいることで、西軍は「豊臣家の正統な後継者のために戦う」という大義名分を掲げることができたのである。

この意味で、秀政は豊臣家にとって最後の「重石」ともいえる存在であった。慶長9年(1604年)の彼の死は、豊臣家にとって計り知れない打撃となった。秀吉時代を知る老練な重臣を失ったことで、大坂城内の権力バランスは崩れ、大野治長ら若く過激な側近たちの影響力が強まる一因となったのである 4

第五章 関ヶ原の戦い―一族存亡を賭けた巧みな戦略

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、多くの大名家が東軍につくか西軍につくかの苦渋の決断を迫られた。この国家的な動乱に対し、小出家は一族の存亡を賭けた、極めて巧みで計算された戦略を展開する。それは、当主である秀政の現実主義的な洞察力なくしてはあり得ないものであった。

小出家の計算された分裂

小出家は、一族を東西両軍に分裂させることで、どちらが勝利しても家名を存続させるという、いわゆる「両天秤」の策をとった。

  • 小出秀政(西軍) : 当主である秀政は、秀頼の後見人としての責務を全うするため、大坂城に留まり秀頼の側に付き添った。これにより、立場上は西軍に属することになった 1 。これは豊臣家への忠義を示す行動であった。
  • 小出吉政(長男・西軍) : 嫡男の吉政は、西軍の一員として、東軍の細川幽斎が守る丹後田辺城の攻撃に参加した 8 。これは、西軍への明確な加担を示す公的な行動であった。
  • 小出秀家(次男・東軍) : しかし、秀政は次男の秀家を徳川家康率いる東軍に参加させていた 5 。これこそが、小出家の「保険」であった。

この一族の分裂は、内輪揉めなどではなく、秀政が家長として主導した、高度なリスク管理戦略であった。かの真田家が昌幸・信繁(西軍)と信之(東軍)に分かれたのと同様の、乱世を生き抜くための知恵であった。秀政は、秀頼への個人的な忠義を果たしつつ、秀家を通じて徳川方にも恩を売ることで、家の安泰という究極の目的を達成しようとしたのである。

丹後田辺城の「空鉄砲」

吉政が参加した丹後田辺城の戦いでは、興味深い逸話が伝えられている。城主の細川幽斎は当代随一の文化人であり、西軍の包囲軍の中には小出吉政をはじめ、幽斎を歌道の師と仰ぐ武将が少なくなかった。彼らは師への敬意から、本気で城を攻めることをためらい、威嚇のために空の鉄砲を撃つ「空鉄砲」で戦うふりをしていたという 23

この逸話は、武士の文化人への敬意を示す美談として語られるが、同時に極めて政治的な行動とも解釈できる。西軍が敗北した場合に備え、東軍の重要人物である細川家に恩を売っておくという、吉政のしたたかな計算があった可能性も否定できない。

戦後の恩賞と一族の安堵

関ヶ原の戦いは東軍の圧勝に終わった。東軍として本戦で武功を挙げた次男・秀家は、戦後、和泉国に戻り、西軍の残党である長宗我部盛親の軍勢を石津浦で撃退するという功績も上げた 3

家康は秀家の功績を高く評価し、西軍に与した秀政と吉政の罪を問い、改易することはなかった。それどころか、小出家の所領は安堵され、秀家には加増まで行われた 1 。秀政の描いたシナリオは、完璧に成功したのである。この関ヶ原における一連の動きは、日頃は温厚な行政官と見られていた秀政が、家の存亡を賭けた局面において、いかに冷徹な戦略家であったかを如実に物語っている。

第六章 晩年と小出家のその後の軌跡

関ヶ原の戦いを巧みに乗り切った小出秀政は、その晩年を豊臣秀頼の側近として過ごし、一族の未来への礎を築いた。彼の死後も、その戦略的遺産は子孫たちによって受け継がれ、小出家は江戸時代を通じて存続していくこととなる。

秀頼への変わらぬ忠誠

関ヶ原の後、多くの大名が徳川家康に恭順の意を示す中、秀政の立場は一貫していた。彼は徳川家に鞍替えすることはなく、慶長9年(1604年)に没するまで大坂城にあり、秀頼の後見人としての務めを果たし続けた 4 。江戸幕府成立後に編纂された『寛政重修諸家譜』などでは、彼が家康の麾下に属したかのように記されているが、これは徳川の世における政治的配慮による記述であり、実態は異なっていた 3 。秀政は最後まで豊臣家の重臣であり続けたのである。

小出家の繁栄と文化事業

秀政の死後、その遺産は子孫たちによって見事に花開いた。

  • 岸和田藩と出石藩 : 秀政の跡を継いだ長男・吉政は岸和田藩主となり、その子・吉英は但馬出石藩を領した。小出家は岸和田と出石の二つの藩を拠点とし、一大名家としての地位を固めた 8
  • 沢庵宗彭との交流 : 特に注目されるのが、出石藩主となった孫の吉英と、出石出身の名僧・沢庵宗彭との深い交流である。吉英は沢庵に深く帰依し、荒廃していた宗鏡寺の再興を援助するなど、文化的なパトロンとしての役割も果たした 25 。これは、武断の時代が終わり、文化的な権威が重要視される江戸時代において、小出家の名声を高める上で大きな意味を持った。
  • 園部藩の立藩と存続 : さらに、吉政の次男・吉親が丹波国に園部藩を立藩。この園部小出家は、幕末の動乱を乗り越え、明治維新まで大名として存続した 29
  • 明治維新後の小出家 : 明治時代に入ると、園部藩主であった小出家当主は、華族令によって子爵に叙せられた 30 。これは、秀政が敷いた生存戦略が、実に250年以上の時を経て結実したことを示している。

小出家の主要な藩

藩名

初代藩主(関連)

主な石高

備考

和泉岸和田藩

小出秀政

3万石~5万石

秀政が初代藩主。後に吉政、吉英が継ぐが、元和5年(1619年)に出石へ転封 14

但馬出石藩

小出吉政

6万石~5万石

関ヶ原後、吉政が領有。後に吉英が継ぎ、城と城下町を整備。小出家は9代にわたり領有 25

丹波園部藩

小出吉親

約2万6千石

吉政の次男・吉親が立藩。江戸時代を通じて存続し、明治維新を迎える 29

秀政が関ヶ原で稼いだ徳川家に対する「貸し」は、一族に長期的な安定をもたらす政治的資本となった。そして、藩を分立させることでリスクを分散し、文化事業を通じて新たな時代の支配層としての権威を確立していく様は、秀政の現実主義的な生存戦略が、その子孫たちにも脈々と受け継がれていたことを示している。

結論:現実主義的行政官大名の再評価

小出秀政の生涯は、豊臣秀吉の同郷の無名の一家臣から、天下人の縁戚となり、一国一城の主、そして豊臣家の行く末を託される重臣へと至る、劇的な上昇の物語であった。しかし、その本質は戦場での華々しい武功にあるのではなく、政権の財政と行政を支えた地道な実務能力、そして何よりも、時代の激変を読み解き、一族の存続を最優先させた冷徹なまでの現実主義にあった。

彼は、秀吉の「叔父」という特異な立場を最大限に活用し、豊臣政権の中枢で能吏として確固たる地位を築いた。その手腕は、蔵入地の管理や城普請といった、国家の基盤を支える分野で発揮された。秀吉の死後は、託された秀頼の後見人としての忠義を貫き、豊臣家の最後の重鎮として大坂に留まった。

そして、彼の真骨頂が発揮されたのが、関ヶ原の戦いにおける一族存亡を賭けた戦略である。自らと長男を西軍に、次男を東軍に配するという大胆な両天秤策は、彼の深い洞察力と戦略家としての一面を浮き彫りにする。この決断が、その後の小出家250年の繁栄の礎となったのである。

小出秀政は、戦国から江戸への移行期に数多く存在した武将の中でも、武力から行政能力、そして政治的生存術へと価値基準が転換していく時代を象徴する人物の一人と言える。彼は、派手さはないが、有能な行政官であり、先見の明に優れた創業者であった。その静かな、しかし確かな足跡は、歴史の中で再評価されるべき価値を持っている。

引用文献

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