本報告書は、戦国時代末期から江戸時代初期という激動の時代を、奥州の地で生きた一人の武将、小国義操(おぐに よしもち)の生涯を、現存する史料と地域に根差した伝承を駆使して、多角的かつ徹底的に解明することを目的とする。通称を又四郎と称した彼の物語は、主家の滅亡という乱世の無常の中で、一人の武士として「義」をいかに貫き通したかを示す、稀有にして示唆に富む事例である。
義操が生きた天正年間(1573-1592)の奥州は、中央における織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業の波が及び始め、旧来の秩序が根底から揺らぎ始めた時代であった。とりわけ、伊達政宗という新たな覇者の台頭は、南奥州の勢力図を劇的に塗り替える地殻変動を引き起こした 1 。義操が命を懸けて仕えた主家、二本松畠山氏は、この巨大な歴史の転換点の直中に立たされた名門であり、その滅亡は、一個の戦国大名の終焉に留まらず、中世以来の奥州の権威構造が崩壊する様を象徴する出来事であった 3 。
彼の名は、伊達家の公式記録である『伊達治家記録』のような正史には、その痕跡を見出すことが困難である 4 。しかし、その武勇と忠節の物語は、二本松の地に民話として、また彼の子孫の家に家伝として、確かに語り継がれてきた。本報告書では、まず小国氏の出自と、彼が仕えた名門・二本松畠山氏の歴史的背景を明らかにする。次に、彼の武名を不動のものとした伊達政宗との対決、すなわち二本松城攻防戦における逸話を詳細に分析する。そして最後に、主家滅亡後の「帰農」という彼の選択と、生涯をかけて貫いた忠節の意味を深く考察する。これにより、歴史の表舞台に立つことのなかった一地方武将の生き様を通して、戦国という時代の武士の精神性、特に「忠義」という観念の多層的な実像に迫るものである。
小国義操という人物の行動原理を理解するためには、まず彼が属した「小国家」の出自と、その中での彼の位置づけを把握する必要がある。彼の物語は、地域社会が語り継ぐ英雄譚としての側面と、家系が保持する祖先の記録としての側面が重なり合うことで、その輪郭を形成している。
立命館大学の安齋郁郎が発表した論文によれば、義操が属する小国家は、そのルーツを近江国に持つ神職の家系に遡るとされる 6 。そして、平安時代後期の「前九年の役」(1051年-1062年)において、源義家に従って奥州へ下り、安倍氏追討に参加した後、その帰途で二本松の杉田村(現在の福島県二本松市杉田地域)に定住したという伝承を持つ 6 。この伝承は、小国家が古くから武門としての自意識を育んできたことを示唆しており、後の義操の行動を支える精神的基盤の一つであったと考えられる。
残念ながら、定住から約500年間の家系図は失われており、確実な系譜は天正年間の人物から始まる。小国家では、この時代に実在が確認される小國将監(おぐに しょうげん)を初代とし、義操はその子、すなわち第二代当主として位置づけられている 6 。彼の名は「義操」、通称は「又四郎」であった 6 。主家滅亡後に帰農してからは、武士としての名を捨て「小国豊前(ぶぜん)」と名乗り、「出雲(いずも)」とも号したと伝えられる 7 。これは、武士の身分を離れた後も、自らの来歴を示す雅号を保持し続けることで、精神的な矜持を保とうとした彼の心情を物語っている。
義操に関する記録は、主に二つの系統から成り立っている。一つは、二本松市の公式サイトなどで紹介されている「豪雄小国又四郎」という民話・伝承であり、英雄譚としての性格が強い 7 。もう一つは、前述の安齋論文に記された、小国家の子孫に伝わる家伝である 6 。興味深いことに、二本松市は義操を「民話」の登場人物として扱う一方で、市の公式な「ふるさと人物史」にはその名を掲載していない 10 。これは、彼の功績を直接証明する一次史料、例えば伊達家の公式記録などでの裏付けが乏しく、その存在が主に民話や家伝といった二次的な伝承に依存しているためと考えられる。しかし、これら二つの異なる系統の伝承が、後述する伊達政宗本陣への突撃や、主家滅亡後の仕官の拒絶といった物語の核心部分において、驚くほど一致している点は重要である。この一致は、物語の核となる出来事が、何らかの歴史的事実に基づいている可能性が極めて高いことを示唆している。
年代(西暦) |
小国義操の動向(推定含む) |
二本松畠山氏・伊達氏の関連事項 |
典拠 |
天正12年 (1584) |
二本松畠山家臣として活動 |
10月:伊達政宗、伊達家17代当主となる。 |
11 |
天正13年 (1585) |
二本松城攻防戦に参加 |
8月:政宗、大内定綱の属城・小手森城を撫で斬りにする。 |
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政宗本陣へ突撃、「片政」と挑発 |
10月8日:粟ノ巣の変。畠山義継、伊達輝宗を拉致するも、両名共に死亡。 |
2 |
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11月17日:人取橋の戦い。伊達軍、佐竹・蘆名連合軍に大敗を喫し、政宗は窮地に陥る。 |
1 |
天正14年 (1586) |
主家滅亡に伴い、帰農 |
7月:二本松城開城。城主・畠山義綱は会津へ逃亡。名門・二本松畠山氏は事実上滅亡する。 |
3 |
天正18年 (1590) |
杉田村団子内にて隠棲 |
豊臣秀吉、奥州仕置を実施。奥州の勢力図が確定する。 |
15 |
慶長5年 (1600) |
杉田村団子内にて隠棲 |
関ヶ原の戦い。政宗は東軍に属し、戦後62万石の大大名となる。 |
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元和元年 (1615) |
杉田村団子内にて隠棲 |
大坂夏の陣。豊臣氏が滅亡し、徳川の世が盤石となる。 |
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元和年間頃 (1615-1624) |
伊達政宗からの仕官の誘いを固辞 |
政宗、「仙台中納言」として参勤交代の途次、二本松を通過。 |
7 |
(没年不明) |
杉田村にて生涯を終えたと推定される |
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小国義操の揺るぎない忠節心の源泉を探る上で、彼が仕えた主家・二本松畠山氏が、いかなる家であったかを理解することは不可欠である。二本松畠山氏は、単なる一地方豪族ではなく、日本史上有数の名門としての誇り高き歴史を有していた。
その本姓は清和源氏であり、足利氏の支流にあたる 16 。室町幕府において将軍に次ぐ権勢を誇った三管領家(斯波・細川・畠山)の一つ、畠山金吾家の兄筋であり、本来は畠山氏の嫡流であった 16 。その祖先は、南北朝時代に幕府から奥州探題に任じられた畠山高国・国氏親子に遡る 17 。探題とは、幕府の出先機関として地域の軍事・行政を統括する重職であり、畠山氏はかつて奥州に絶大な権威を誇っていた。しかし、中央政争である「観応の擾乱」(1350年-1352年)において、高国・国氏親子が吉良氏との戦いに敗れて自害するという悲劇に見舞われ、その勢力は大きく後退する 17 。
生き残った国氏の子・国詮が二本松の地に拠点を構え、これが二本松畠山氏の始まりとなる 17 。以後、代々二本松城を居城としたが、戦国時代に入ると、幕府の権威は失墜し、畠山氏もまた、かつての栄光を失っていった。義操の主君であった第15代当主・畠山義継の時代には、その所領は安達郡の半分ほどにまで減少し、北に勢力を急拡大させる伊達氏と、南に強大な地盤を持つ蘆名氏や佐竹氏という二大勢力に挟まれ、常に存亡の危機に晒される弱小勢力となっていた 1 。
しかし、たとえ現実の勢力は衰退したとしても、足利一門であり、かつては奥州の支配者であったという由緒と家格は、義継やその家臣団にとって、何物にも代えがたい精神的な支柱であったに違いない。伊達氏との関係においても、畠山家から見れば、伊達家は奥州における「新参者」であり、ライバルではあっても格下の存在という認識があった 20 。この「名門に仕えている」という強烈な自負と矜持こそが、小国義操の後の行動、すなわち「二君に仕えず」という頑ななまでの忠節心の根底に流れていたと解釈できる。彼の忠義は、単に主君・義継個人への思慕に留まるものではなく、畠山という「家」が背負ってきた歴史と権威そのものに向けられた、より深く、そして重いものであったのである。
天正13年(1585年)、小国義操と彼の主家である二本松畠山氏の運命は、若き伊達政宗の野望の前に、決定的な転回点を迎える。この年に起きた一連の事件は、義操の武勇伝が生まれる直接的な舞台となると同時に、南奥州の勢力図を塗り替える激しい戦乱の序曲であった。
天正12年(1584年)に父・輝宗から家督を譲られた伊達政宗は、18歳という若さで、奥州制覇に向けた積極的な軍事行動を開始する 11 。その最初の標的の一つが、二本松畠山氏と姻戚関係にあった小浜城主・大内定綱であった 2 。天正13年(1585年)8月、政宗は大内氏の支城である小手森城を攻め落とすと、城兵のみならず女子供を含む籠城者800人余りを皆殺しにするという、世に言う「小手森城の撫で斬り」を敢行する 1 。この凄惨な処置は、周辺の諸大名を恐怖に陥れるための示威行為であり、その効果は絶大であった。
この政宗の非情な戦略に震撼したのが、大内定綱を庇護していた畠山義継であった。政宗の矛先が自らに向けられることを悟った義継は、政宗の父であり、隠居の身であった輝宗に仲介を依頼し、降伏を申し出る 2 。しかし、政宗が提示した和睦の条件は、二本松領のうち五カ村を除く全ての領地を没収するという、事実上の滅亡宣告に等しい屈辱的なものであった 13 。
この過酷な条件に追い詰められた義継は、同年10月8日、輝宗が滞在する宮森城へ御礼言上のために訪れた際、突如として輝宗を拉致し、人質として二本松城へ連れ去ろうとするという暴挙に出る 13 。知らせを受けた政宗は直ちに追撃し、阿武隈川のほとり、高田原(粟ノ巣)で義継一行に追いつく。有名な逸話によれば、輝宗は捕らわれの身から「我が身ごと義継を討て」と叫び、政宗は涙ながらに鉄砲隊に一斉射撃を命じたという 20 。この「粟ノ巣の変」と呼ばれる事件により、畠山義継と伊達輝宗は共に命を落とし、両家の対立はもはや回避不可能な全面戦争へと突入した 23 。
父の初七日を終えた政宗は、弔い合戦として1万3千の大軍を率いて二本松城に殺到した 11 。対する畠山方は、義継の遺児である幼い国王丸(後の二本松義綱)を城主として擁立し、籠城戦を展開する 11 。この畠山氏の危機に際し、常陸の佐竹義重を盟主として、蘆名氏、岩城氏、石川氏など南奥州の諸大名が反伊達連合軍を結成し、その数3万に及んだ 1 。同年11月、伊達軍7千と連合軍3万は人取橋で激突。圧倒的な兵力差の前に伊達軍は壊滅的な打撃を受け、政宗自身も討死寸前まで追い詰められるが、連合軍内部の事情により敵が突如撤退したことで、九死に一生を得る 2 。しかし、この戦いの結果、二本松城は救援の望みを完全に断たれ、伊達の大軍に包囲される絶望的な状況に置かれた。小国又四郎義操の、後世に語り継がれる武勇伝は、この死と隣り合わせの籠城戦のさなかに生まれたのである。
人取橋での辛勝の後、伊達政宗は再び全軍を二本松城(別名:霧ヶ城)の包囲に向けた。城内は兵糧も尽きかけ、士気も低下する絶望的な状況にあった。この時、一人の武将の類稀なる蛮勇が、沈滞した城内の空気を震わせ、敵将・政宗の心胆を寒からしめた。その武将こそ、栗ヶ柵内蔵之介(くりがさく くらのすけ)の配下にあった小国又四郎義操であった 7 。
二本松市に伝わる民話「豪雄小国又四郎」によれば、ある日、義操は城から単騎で打って出ると、数万の伊達勢がひしめく中をものともせず、敵陣深くへと馬を乗り入れた 7 。その狙いはただ一つ、敵の総大将である伊達政宗の首であった。彼は伊達軍の兵士たちを次々となぎ倒しながら政宗の本陣へと迫ると、政宗の姿を視界に捉え、朗々とこう叫んだと伝えられる。
「片政、片政、見参せん」(かたまさ、かたまさ、けんざんせん) 7
「片政」とは、言うまでもなく「片目の政宗」を指す蔑称である。若くして右目を失ったことは、政宗が最も気にしていた身体的特徴であった。そのコンプレックスを敵陣の真っ只中で、大音声で揶揄されたのである。これは単なる挑発を超えた、最大限の侮辱であった。案の定、政宗は激怒し、「討ち取れ、討ち取れ」と、血相を変えて下知した 7 。命令一下、伊達勢は総がかりで又四郎に襲いかかった。しかし、彼はこの絶体絶命の包囲網の一角を剛腕で駆け破ると、何事もなかったかのように悠々と城中へと引き上げていったという 7 。
この一連の行動は、物理的な戦果こそなかったものの、その与えた影響は計り知れない。圧倒的な劣勢に置かれ、明日をも知れぬ運命にあった畠山方の兵士たちにとって、敵の大将を公然と嘲り、その包囲を単騎で突破して生還した味方の存在は、どれほどの勇気と希望を与えたことであろうか。それは、武力による抵抗がもはや困難な状況下で、武士としての「気概」だけは決して失っていないことを内外に示した、精神的な勝利であった。
そしてこの出来事は、敵将である政宗の記憶にも強烈な印象を刻み込むことになった。後年、天下人となった豊臣家の大名、そして「仙台中納言」という高い官位を得て権勢を誇った政宗が、参勤交代の途上で、わざわざ一介の元敵将を探し出してまで召し抱えようとした事実は、その証左である 7 。彼は義操を「憎い奴だが武勇のものである」と評したと伝えられる 7 。これは、かつて自分を侮辱した男の胆力と武技を、個人的な恨みを超えて高く評価していたことを示している。戦国の武将は、敵であってもその「武勇」や「気骨」を、自らの家臣団に加えるべき価値あるものとして認識する、合理的かつ複眼的な価値観を持っていた。政宗の勧誘には、かつての宿敵の、最も忠義に厚いとされた家臣を自らの麾下に加えることで、伊達家の威徳が畠山家のそれを完全に凌駕したことを天下に示す、という政治的な意図も含まれていたかもしれない。義操の後の頑なな拒絶は、結果的にこの政宗の政治的パフォーマンスを完遂させなかった。政宗が漏らしたとされる「老いても片意地な男よ」という言葉には、計画がうまくいかなかったことへの苦笑と、最後まで己の義を貫いた一人の武士への、純粋な敬意が入り混じっていたと推察されるのである。
二本松城攻防戦で示した小国義操の武勇は、滅びゆく主家の最後の輝きであった。しかし、彼の真価は、戦場での働き以上に、主家滅亡後の生き様にこそ示されている。それは、武士としての誇りを胸に秘め、新たな主君に仕えることなく土に生きることを選んだ、「帰農」という道であった。
人取橋の戦いで救援軍が敗退した後、二本松城は完全に孤立した。城内では主戦派と和平派の間で内部分裂も生じ、もはや籠城を続けることは不可能であった。天正14年(1586年)7月、ついに城は開城され、城主・畠山義綱は会津の蘆名氏のもとへと落ち延びた 14 。これにより、奥州探題以来の名門・二本松畠山氏は、事実上滅亡の時を迎えた。
主家を失った武士たちが選ぶ道は様々であった。藤堂高虎のように、次々と主君を変えながら自らの才覚で立身出世を遂げる者もいれば、新たな仕官先を見つけられずに浪人となる者、あるいは武士の身分そのものを捨てて商人や職人になる者もいた 24 。このような状況下で、小国義操が選んだのは「帰農」の道であった 6 。
義操の帰農は、単に生活の糧を得るための消極的な手段ではなかった。それは、「二君に仕えず」という彼の確固たる信条を体現するための、積極的な意思表示であったと解釈すべきである。武士としての魂と誇りを内に秘めたまま、俗世の栄達には背を向け、土と共に生きる。それは、新たな支配者である伊達氏への無言の抵抗であり、滅びた旧主への忠誠を生涯貫くという、精神的な在り方の選択であった。豊臣家への忠義に殉じ、関ヶ原で散った石田三成とは対照的に、義操は「生きる」こと、そして「仕えない」ことによって、自らの忠義の形を示そうとしたのである 25 。彼の選択は、戦国乱世における武士の多様な生き様の中でも、特に強い精神性を感じさせるものとして際立っている。
主家滅亡から約三十年の歳月が流れた。世は徳川の治世となり、かつての戦乱は遠い昔語りとなっていた。小国義操は名を小国豊前と改め、出雲と号し、故郷である二本松の杉田村にある「団子内(だんごうち)」という地で、一人の農夫として静かな余生を送っていた 7 。この「団子内」は、現在の二本松市杉田駄子内(すぎただごうち)に比定される実在の地名であり、物語に強いリアリティを与えている 26 。
その頃、伊達政宗は仙台藩62万石の藩主として、また「仙台中納言」の官位を持つ天下有数の大名として、絶大な権勢を誇っていた。元和年間(1615年-1624年)のある時、参勤交代の途上で二本松を通過した政宗は、杉田村の問屋で休息中に、ふと若き日の記憶を呼び覚ます 7 。彼は近習に命じた。「この近くの団子内という所に、小国又四郎という者がいるはずだ。憎い奴だが、その武勇は確かなもの。まだ存命であれば召し使いたい故、尋ねて参れ」と 7 。
政宗の使者は、団子内で畑を耕す一人の白髪の老人を見つけ出した。彼こそが、かつての豪雄・小国又四郎義操であった。使者から伊達家への仕官を促された義操は、静かに、しかし毅然としてこう答えたと伝えられる。
「私は畠山家の家臣。帰農してこのような姿になり果ててはおりますが、二君に仕える心はありません。中納言様(政宗)の御心は有難くは存じますが、このまま田夫野人(でんぷやじん)として生涯を終えとう存じます」 6
この言葉は、彼の揺るぎない忠節と武士としての矜持を凝縮したものであった。政宗は諦めきれず、二度にわたって誘いをかけたとされるが、義操の決意は変わることはなかった 7 。報告を受けた政宗は、その頑なさに呆れながらも、どこか感心したように笑い、「老いても片意地な男よ」と呟いたという 7 。
この逸話は、勝者と敗者の関係を超えた、武士同士の精神的な交流の物語として、後世に語り継がれることとなった。そして、この物語が単なる伝説に終わらず、強い説得力を持って現代に伝わっているのは、二本松城、粟ノ巣古戦場、そして隠棲の地・団子内といった、具体的な地理空間と固く結びついているからに他ならない 7 。これらの「場所」は、物語を記憶し、伝承するための物理的な「錨(いかり)」として機能する。二本松を訪れる人々は、これらの地名に触れることで、小国義操という一人の武士が貫いた生き様を、より現実的なものとして追体験することができるのである。
小国義操は、歴史の教科書にその名が記されるような、天下の趨勢を動かした人物ではない。彼の生涯は、奥州の一地方における、一つの滅びゆく大名家に殉じた家臣の物語に過ぎないかもしれない。しかし、彼の生き様は、戦国という時代の価値観の中で、武士としての「義」とは何か、そして「忠誠」とはいかなる形を取りうるのかを、現代の我々に深く問いかける。
彼の生涯を総括するならば、それは滅びゆく主家への絶対的な忠誠、勝者におもねらない不屈の気骨、そして武士の身分を捨ててでも自らの信条を貫徹するという、戦国武士の一つの理想像を体現したものであったと言える。彼の物語は、主君への忠誠が、単なる滅私奉公や主従関係という枠組みを超え、自らが仕えた「家」の歴史と家格への誇りに裏打ちされた、より複雑で多層的な精神性に基づいていたことを示唆している。勝者が正義となり、敗者は歴史から消え去るのが常である乱世において、最後まで敗者の側に立ち続けた彼の選択は、武士道における「義」のあり方について、我々に再考を促す。
興味深いことに、彼の存在は郷土史の領域に留まらず、現代のサブカルチャーの中でもささやかな光を放っている。コーエーテクモゲームスの歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』シリーズに登場し、その武勇を評価された能力値が設定されているほか 19 、その名を記したオリジナルTシャツが販売されるなど 30 、彼の持つ「一途な忠義」や「反骨精神」といった物語性が、現代人にとっても一定の魅力を持ち続けていることがわかる。
結論として、小国義操は、公式な歴史書の片隅にも記されないかもしれない、無名の地方武将である。しかし、その生き様が、二本松の地で民話として語り継がれ、子孫の家伝として守られ、さらには現代の創作物の中で生き続けているという事実そのものが、彼の放った強烈な矜持の光が、時代を超えて人々の心を打ち続けていることの何よりの証明と言えるだろう。彼の物語は、歴史とは勝者の記録だけで紡がれるものではないこと、そして敗者の側にもまた、語り継がれるべき尊い物語が存在することを、我々に雄弁に物語っているのである。