小寺則職(こでらのりもと、明応4年(1495年) - 天正4年(1576年))が生きた16世紀の日本は、室町幕府の権威が地に墜ち、旧来の支配者であった守護大名の力が衰え、その家臣である守護代や、在地領主である国人衆が実力で領国を支配しようと台頭する、まさに「下剋上」の時代であった 1 。則職の生涯の舞台となった播磨国(現在の兵庫県南西部)も、その例外ではなかった。播磨守護の名門・赤松氏は、かつて将軍を暗殺した嘉吉の乱により一度滅亡し、その後再興を果たしたものの、その権威は常に揺らぎ続けていた。則職が歴史の表舞台に登場する頃には、守護・赤松義村とその守護代・浦上村宗との間で、播磨の覇権をめぐる深刻な対立が繰り広げられており、国内は一触即発の状況にあった 3 。この播磨国内の権力闘争こそが、則職の生涯を規定する重要な背景となる。
小寺則職について語られる際、しばしば「主君の敵を討った忠臣」という側面が強調される。実際に彼は、父と旧主を死に追いやった宿敵・浦上村宗を、劇的な形で滅ぼしている 6 。しかし、この評価は彼の生涯の一面に過ぎない。史料を丹念に追うと、その仇討ちを果たした後に、今度は自らの主君である赤松晴政を裏切り、敵対勢力である尼子氏に与するという、一見矛盾した行動も確認できる 8 。彼は、主家への忠誠を貫く古風な武士だったのか。それとも、自家の存続のためには手段を選ばない、冷徹な現実主義者(リアリスト)だったのか。本報告書では、この「忠臣」と「現実主義者」という二つの顔を軸に、則職を取り巻く播磨の複雑な政治情勢を解き明かしながら、彼の多角的で深みのある人物像に迫る。彼の生涯は、単なる一個人の物語ではなく、戦国時代の播磨国における「国衆(くにしゅう)」の典型的な生存戦略を体現している。その行動は、主家への忠誠心と、自家の存続・勢力拡大という現実的な利益との間で常に揺れ動いており、この緊張関係こそが、戦国期の地方領主を理解する鍵となるのである。
小寺氏は、村上源氏を祖とする播磨の名門・赤松氏の庶流であり、古くから守護赤松氏の重臣として重きをなしてきた一族である 1 。則職の祖父・豊職(とよもと)、そして父・政隆(まさたか)の代には、播磨における軍事・政治の要衝であった姫路城(当時は姫山城と呼ばれた)の城代を務めており、赤松氏の播磨支配において不可欠な役割を担っていた 1 。赤松一門という血統的な正当性と、姫路城代という軍事的な要職、この二つが小寺氏の初期の権力基盤を形成していた。
しかし、小寺氏の力を他の赤松一門と一線を画すものにしたのは、その経済的基盤であった。小寺氏は、守護赤松氏の領国において「段銭(たんせん)」と呼ばれる臨時税の徴収・管理を担う「段銭奉行」という役職にあった 2 。この役職は、単に税を集めるだけでなく、赤松氏の財政を実質的に掌握することを意味し、小寺氏の政治的影響力の源泉となった 12 。御着(ごちゃく)には、そのための徴税事務所である「納所(なっしょ)」が置かれ、ここを拠点に小寺氏は播磨の富をその手に収めていた記録が残っている 15 。軍事行動や領国経営の根幹が経済力である戦国時代において、徴税権を握ることは絶大な力を意味した。この経済的自立こそが、名目上の主君である赤松氏から小寺氏が徐々に自立していくための、何より強力な布石となったのである。
永正16年(1519年)、父・政隆は、それまでの拠点であった姫路城の東方約5キロメートル、山陽道が通る交通の要衝に、新たに御着城を築城し、本拠を移すという大きな決断を下した 8 。これに伴い、当時25歳であった則職は、父に代わって小寺家伝統の拠点である姫路城の城主となった 8 。
この御着城築城は、単なる拠点移動以上の戦略的な意味合いを持っていた。その理由として、①力を増大させる守護代・浦上村宗への軍事的な備え、②政隆自身の隠居城、そして③衰退する主家・赤松惣領家からの本格的な自立への布石、などが考えられている 17。姫路城が「赤松氏の家臣」としての立場を象徴する城であるのに対し、城下町まで取り込んだ「惣構え」を持つ大規模な平城である御着城は、小寺氏自身の権力と経済力を内外に誇示し、独自の勢力圏を確立しようとする明確な意志の表れと解釈できる。
当時、播磨国は深刻な内紛の渦中にあった。守護である赤松義村は、失墜した守護の権力を再興し、大名としての権力集中を図ろうとしていた。しかし、その動きに強く反発したのが、守護代として実力を蓄えていた浦上村宗であった 3 。村宗は、主君である義村を傀儡化し、播磨・備前・美作の三国にまたがる広大な赤松領の実権を掌握しようと画策していたのである 5 。小寺氏は、この主君と守護代による血を血で洗う権力闘争の真っ只中に、その身を置くこととなった。
永正17年(1520年)、姫路城主となった則職に最初の大きな試練が訪れる。主君・赤松義村の命を受け、浦上村宗に与する美作岩屋城(現在の岡山県津山市)の中村氏を討伐するため、赤松軍の大将として出陣したのである 8 。当時26歳の若き当主にとって、これはその力量を内外に示すための重要な戦いであった。
しかし、この戦いは則職にとって苦い敗北に終わる。浦上家臣で、後に梟雄として名を馳せる宇喜多能家の奮戦に加え、友軍であるはずの赤松中務丞が戦闘中に敵方へ寝返るという事態が発生し、赤松軍は総崩れとなった 8 。この敗戦で、小寺氏は一族の小寺祐職(すけもと)父子を戦死させるなど、手痛い損害を被った 1 。この敗北は、単なる軍事的な失敗に留まらなかった。それは、もはや守護・赤松氏の権威が、配下の国衆を完全に統制する力を失っているという冷厳な現実を、若き則職に突きつけるものであった。
岩屋城での敗戦は、赤松氏の権威失墜を決定的なものにした。この敗北の直後、力を失った主君・赤松義村は、勢いに乗る浦上村宗によって捕らえられ、暗殺されてしまう 4 。義村の遺児である才松丸(後の赤松晴政)は、かろうじて淡路国へと逃れ、播磨における浦上氏の支配力は盤石なものとなった 8 。則職は、主君を失い、その仇である宿敵が播磨に君臨するという、絶望的な状況に立たされたのである。この一連の出来事は、則職に「名目上の主君への忠誠だけでは生き残れない」という戦国の鉄則を深く刻み込み、後の彼の現実主義的な行動原理を形成する原体験となった可能性が高い。
旧主・義村が暗殺された後も、則職の父・政隆は、義村の遺児・晴政を奉じて浦上村宗への抵抗を続けていた 8 。しかし、その力の差は歴然としていた。享禄3年(1530年)、畿内への進出を目論む浦上村宗が、管領・細川高国と結んで大軍を率いて播磨に侵攻する。政隆は、平城である御着城では防ぎきれないと判断し、より防御に優れた山城である庄山城(現在の姫路市飾東町)に籠城して徹底抗戦の構えを見せた 6 。しかし、衆寡敵せず、政隆は奮戦の末に討死。御着城もまた、浦上軍の手に落ちた 17 。この敗北は、小寺家にとって最大の危機であったが、同時に則職が全権を掌握し、自らの判断で家を率いる転機ともなった。
父の死を受け、享禄4年(1531年)、則職は御着城に入り、名実ともに小寺家の家督を継承した 8 。この時、彼は37歳。父・政隆と旧主・義村という二人の仇を浦上村宗に持つこととなり、一族の存亡をかけた再起と復讐という、二つの重い責務をその双肩に背負うことになったのである。
則職に復讐の好機が訪れるのは、意外にも早かった。享禄4年(1531年)、畿内では室町幕府の管領職を巡る細川氏の内紛が激化し、細川高国・浦上村宗の連合軍と、対立する細川晴元・三好元長の連合軍が、摂津国の天王寺・大物(だいもつ、現在の兵庫県尼崎市)付近で対峙していた 24 。この畿内の大乱に、播磨の諸勢力も巻き込まれていく。播磨守護・赤松晴政(当時は政祐と名乗っていた)は、小寺則職をはじめとする播磨国衆を率い、表向きは細川高国・浦上村宗の援軍として摂津の戦場に着陣した 24 。
しかし、これは巧妙な罠であった。赤松晴政は水面下で敵方の細川晴元と密約を交わしていたのである。6月4日、戦いの火蓋が切られると、赤松軍は突如として味方であるはずの浦上村宗軍の背後を急襲した 24 。予期せぬ裏切りと、正面からの三好軍の猛攻に挟撃された浦上軍は、たちまちのうちに壊滅。当主・浦上村宗は、この乱戦の中で壮絶な最期を遂げた。主君であった細川高国も逃亡の末に捕らえられ、自害に追い込まれた。この劇的な合戦は、最終的な決着の地名から「大物崩れ」と呼ばれている 6 。
この「大物崩れ」において、小寺則職は赤松軍の中核として働き、父・政隆と旧主・義村の仇である浦上村宗を見事に討ち果たした 7 。この仇討ちは、単なる私怨の清算に留まらなかった。畿内の巨大な政治紛争を巧みに利用した、高度な政治的・軍事的ギャンブルであり、最小限のリスクで宿敵の排除と自家の地位向上という最大の成果を得たのである。これにより、播磨における浦上氏の勢力は一時的に大きく後退し、小寺氏は播磨における最有力国衆の一角としての地位を不動のものとした。則職は、父の戦死からわずか1年で御着城主に返り咲き、小寺家の劇的な再興を成し遂げたのであった 18 。この成功体験は、則職に「大勢力間の争いを利用して自家の利益を最大化する」という戦国的な生存術を確信させ、彼のリアリストとしての一面をより強固なものにしたと考えられる。
大物崩れで浦上村宗という共通の敵を失ったことで、播磨国内のパワーバランスは大きく変化した。村宗の子・政宗が家督を継いだものの、浦上氏の勢力は一時的に弱体化し、守護・赤松晴政の権威がある程度回復するかに見えた 5 。しかし、それ以上に大きな変化は、この混乱の中で小寺氏や東播磨の別所氏といった有力国衆が相対的に力をつけ、守護の統制から離れて半独立的な勢力として台頭し始めたことであった 2 。
共に父の仇を討った赤松晴政と則職であったが、その関係は必ずしも良好ではなかった。史料によれば、則職は晴政とは「距離を置いていた」とされ、もはや赤松氏を絶対的な主君とは見なさず、対等に近いパートナー、あるいは潜在的な競争相手として認識していた節がある 8 。浦上村宗という強大な「外敵」がいた間は利害が一致し協力関係にあった両者だが、その脅威が去ると、播磨国内の覇権を巡る新たな競争関係へと移行したのである。則職のこの態度は、守護として権威を回復したい晴政の動きを警戒し、自らの独立性を保とうとする、極めて合理的な政治的スタンスであった。弱体化した主家は、もはや忠誠を捧げる対象ではなく、自家の勢力拡大のために利用し、時には牽制する対象へと変わっていた。
天文年間に入ると、中国地方の勢力図が大きく塗り替わる。出雲国(現在の島根県東部)の尼子氏が急速に勢力を拡大し、播磨への侵攻を開始したのである 28 。天文7年(1538年)、尼子晴久は但馬の山名氏と手を結び、大軍を率いて播磨に侵攻。守護・赤松晴政は高砂城に籠城し、この未曾有の国難に立ち向かおうとした 8 。
この国家的な危機に際し、小寺則職は驚くべき行動に出る。主君である晴政を助けるどころか、同じく播磨国衆の明石正風らと共に尼子軍に加わり、晴政の籠る高砂城の「攻め手として出陣」したのである 8 。これは、わずか7年前に「主君の仇討ち」を共に行った相手に対する、完全な裏切り行為であった。この則職らの離反が決定打となり、赤松晴政はまたしても本国を追われ、淡路国への逃亡を余儀なくされた 8 。この行動は、則職が「忠臣」ではなく、自家の存続を最優先する冷徹な「戦国武将」であったことを決定づけるものである。当時の尼子氏の勢いは凄まじく、弱体化した赤松氏と共に抵抗しても勝ち目はないと判断したのだろう。ならば、一時的にでも強大な尼子氏に従うことで、自領の安泰を図る。これは「裏切り」というよりは、より大きな権力への「乗り換え」であり、戦国時代の国衆にとってはごく自然な生存戦略であった。
尼子氏の関心が他へ移り、その勢力が播磨から後退し始めると、則職は再び巧みな政治手腕を見せる。今度は一転して、追放したはずの赤松晴政との関係修復に動いたのである。天文9年(1540年)、則職の次男で広峯神社の養子となっていた広峰長職(ながもと)らの仲介もあり、則職は明石正風らと共に晴政と和睦。晴政の播磨への帰還が実現した 8 。
この和睦は、尼子という共通の脅威が去った後、播磨国内に権力の空白を生じさせ、国衆間の無用な抗争が再燃することを避ける狙いがあったと考えられる。則職は、一度は裏切った晴政を再び守護として担ぎ上げることで、自らの支配の正当性を外部に示しつつ、実質的な権力は手放さないという、絶妙な政治的バランスを構築した。則職の行動は一貫している。すなわち、「自家の利益の最大化」である。強大な勢力には従い、脅威が去れば旧主を担ぎ出して国内の安定を図る。彼の行動原理は、忠誠や信義といった情緒的なものではなく、常に冷徹なパワーポリティクスの計算に基づいていた。この柔軟性と現実主義こそが、彼が激動の時代を生き抜き、小寺家を播磨随一の勢力に押し上げた最大の要因であった。
天文14年(1545年)、則職は51歳で家督を嫡男の政職(まさもと)に譲り、隠居の身となった 6 。政職は、父とは異なり主君・赤松晴政との関係を重視し、その証として「政」の字の偏諱(へんき)を賜っている 32 。則職は、宿敵を滅ぼし、主家を巧みに操り、周辺大国の侵攻を乗り切って安定させた勢力圏を、万全の形で息子に引き継いだ。この隠居は、小寺家の権力基盤が最も安定した時期に行われた、計画的な事業承継であったと言える。
この小寺家の安定期に、後の歴史を大きく動かす一族が仕官してくる。黒田氏である。黒田官兵衛の祖父・重隆は、則職の治世下である天文14年(1545年)頃に小寺氏に仕え、姫路城の経営に関わるようになった 9 。則職から家督を継いだ政職は、特に重隆の子・職隆(もとたか)の才覚を高く評価した。政職は自らの養女(明石正風の娘)を職隆に娶らせ、小寺家の家老に抜擢すると共に、自らの名から「職」の字を与え、「小寺職隆」と名乗ることを許し、姫路城代に任命するなど、外様出身の家臣としては破格の厚遇で迎えた 32 。この小寺職隆の嫡男こそ、後に豊臣秀吉の軍師として天下に名を馳せることになる黒田孝高、すなわち黒田官兵衛である 32 。則職が築いた安定と、その下で登用された黒田氏という有能な家臣の存在は、皮肉にも後の小寺家滅亡の遠因となっていく。
隠居後も、則職は天正4年(1576年)に没するまで31年もの長寿を保った。この間、公式な記録にその名が登場することは少なくなるが、小寺家の長老、御意見番として、依然として大きな影響力を保持していた可能性は高い 8 。事実、息子の政職が主君・赤松晴政を追放し、その子・義祐を新たな主君として擁立する(永禄元年、1558年)というクーデターまがいの重大な政治的事件の背後にも、老練な則職の意思が働いていた可能性は否定できない 32 。
則職は天正4年(1576年)10月18日、82歳でその波乱の生涯を閉じた 8 。彼の死は、小寺家にとって極めて重大な時期に訪れた。当時、西からは毛利氏、東からは織田氏という二大勢力が播磨に迫り、小寺家はまさにその狭間で、家の存亡を賭けた究極の選択を迫られていたのである 8 。則職の死は、小寺家における「重し」の喪失を意味した。彼の現実主義と絶妙な政治的バランス感覚が失われたことで、息子の政職は時代の大きなうねりに対応できず、家中の意見対立(親織田派の黒田官兵衛と親毛利派の重臣たち)を収拾できなくなる。則職が生きていれば、また違った判断を下した可能性があり、彼の死が、優柔不断と評されることの多い政職の迷走を招き、小寺家滅亡の序曲となったと言えるだろう。
小寺則職の生涯は、主家への忠誠や父祖の仇討ちといった中世的な武士の価値観と、生き残りのためには裏切りや権謀術数も辞さないという戦国時代の現実主義が交錯する、まさに時代の縮図であった。彼は、播磨守護・赤松氏の有力家臣という立場から、主家の内紛と周辺大国の動向を巧みに利用し、小寺氏を播磨国に覇を唱える半独立的な戦国領主へと押し上げた。その一代記は、播磨という一地域における戦国時代の権力構造の変遷そのものを体現している。
史料を俯瞰すると、則職は主君の仇を討つという大義名分を掲げつつ 6 、その実、畿内の政争に便乗して宿敵を排除した、計算高い策略家であった。また、主君・赤松晴政に対しては、時には反旗を翻して敵対し 8 、時には和睦して担ぎ上げる 8 など、自家の利益を最大化するために忠誠と裏切りを柔軟に使い分ける、徹底したリアリストとしての姿が浮かび上がる。彼の行動原理は、信義や恩讐といった情緒的なものではなく、常に冷徹なパワーポリティクスの計算に基づいていた。この柔軟性と現実主義こそが、彼が激動の時代を生き抜き、小寺家を繁栄に導いた最大の要因であった。
則職を語る上で非常に興味深い点として、史料上、彼の祖父・豊職や父・政隆の時代にも「小寺則職」の名で発給された文書が存在することが指摘されている 8 。これは、小寺氏が三代にわたって「則職」という名を世襲的に使用した可能性を示唆する。これが事実であれば、個人名を超えて「小寺家の当主」を示す一種のブランド名として「則職」を用いていたと考えられ、当主が代替わりしても権力の継続性と正統性を内外にアピールし、不安定な情勢下で家の権威を維持しようとした、極めて高度な政治的戦略であったと解釈できる。
最終的に小寺家は歴史の渦に飲み込まれ滅亡するが、則職が築いた安定した領国と、その下で登用された黒田氏という有能な人材は、結果的に黒田官兵衛という稀代の軍師を育む土壌となった。その意味で、則職の治世が、後の黒田家の飛躍、ひいては筑前福岡藩成立の遠い源流となったという点で、彼は播磨一国の歴史に留まらない、大きな影響を後世に残したと言えるだろう。
西暦(和暦) |
小寺則職の動向・小寺家の出来事 |
播磨国内の動向(赤松氏・浦上氏ほか) |
関連する広域情勢(畿内・中国地方) |
1495年(明応4年) |
小寺則職、誕生 8 。父は姫路城主・小寺政隆。 |
赤松義村、守護在職。守護代・浦上則宗死去後、浦上村宗が台頭。 |
明応の政変(1493年)以降、幕府権威が失墜し、戦国時代へ。 |
1519年(永正16年) |
父・政隆が御着城を築城し本拠を移す。 則職(25歳)、姫路城主となる 8 。 |
赤松義村と浦上村宗の対立が激化 3 。 |
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1520年(永正17年) |
義村の命で、浦上方の美作岩屋城を攻めるも、友軍の裏切りで 大敗 8 。 |
この敗戦後、浦上村宗が赤松義村を暗殺。義村の子・才松丸(晴政)は淡路へ逃亡 8 。 |
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1529年(享禄2年) |
長男・ 政職、誕生 32 。 |
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1530年(享禄3年) |
浦上村宗の播磨侵攻により、父・ 政隆が庄山城で戦死 。御着城も落城 8 。 |
浦上村宗、播磨・備前・美作の実権を掌握。 |
細川高国と結んだ浦上村宗が畿内へ進出。 |
1531年(享禄4年) |
則職(37歳)、家督を継ぎ御着城主となる 。赤松晴政と共に浦上村宗討伐軍に参加 8 。 |
赤松晴政、浦上村宗の背後を突き、これを討ち果たす。 |
大物崩れ 。細川高国・浦上村宗が敗死。細川晴元・三好元長が畿内の実権を握る 24 。 |
1538年(天文7年) |
赤松晴政と距離を置き、明石正風らと共に 尼子晴久に与し、晴政の籠る高砂城を攻撃 8 。 |
尼子晴久の播磨侵攻。赤松晴政は則職らの裏切りにより淡路へ逃亡 27 。 |
尼子氏が勢力を拡大し、山陽道へ進出。 |
1540年(天文9年) |
子・広峰長職らの仲介で、 赤松晴政と和睦 。晴政の播磨復帰を支援 8 。 |
尼子氏の脅威が後退し、播磨国衆と赤松氏の間で和睦が成立。 |
尼子氏、安芸の毛利元就攻めを開始(吉田郡山城の戦い)。 |
1545年(天文14年) |
則職(51歳)、隠居 。嫡男・政職に家督を譲る 8 。黒田重隆が姫路城の経営に関わる 9 。 |
小寺政職、御着城主となる。 |
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1558年(永禄元年) |
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小寺政職、主君・赤松晴政を追放し、その子・義祐を擁立 32 。 |
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1575年(天正3年) |
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小寺政職、黒田官兵衛の進言を受け、織田信長に臣従 32 。 |
織田信長、長篠の戦いで武田軍に大勝。天下統一事業を本格化。 |
1576年(天正4年) |
則職(82歳)、死去 8 。 |
小寺家、織田・毛利の二大勢力に挟まれ、対応に苦慮する。 |
織田信長による中国攻めが開始される直前の時期。 |