戦国時代の播磨国にその名を刻んだ武将、小寺政職(こでら まさもと)。彼は、後世の創作物、特に天才軍師・黒田官兵衛(孝高)を主人公とする物語において、しばしば「優柔不断で決断力に乏しい主君」として描かれてきた 1 。官兵衛の傑出した才覚を際立たせるための対照的な存在として、その人物像は類型化され、単純化されてきた側面は否めない。この評価は、主に勝者となった黒田氏の視点で編纂された『黒田家譜』などの記録に源流を求めることができる 3 。
しかし、一次史料や多角的な視点からその生涯を再検証すると、異なる姿が浮かび上がってくる。彼は、守護大名・赤松氏の権威が揺らぐ戦国乱世の播磨において、一族を率いて巧みに勢力を拡大し、一時は「播磨三大城」と称されるほどの威勢を誇った独立領主であった 4 。本報告書は、こうした通俗的なイメージに留まることなく、小寺政職を一人の戦国領主として客観的に捉え直すことを目的とする。彼の出自から、勢力拡大の過程、そして織田信長と毛利輝元という二大勢力の狭間で下した重大な決断の背景を徹底的に掘り下げ、その実像に迫るものである。
小寺氏のルーツは、鎌倉・南北朝時代に播磨守護として名を馳せた名門、赤松氏に遡る。赤松氏の祖・赤松頼範の四男である将則を遠祖とし、その子孫である宇野氏から分かれた庶流が小寺氏であると伝えられている 6 。南北朝の動乱期には、赤松円心・貞範親子が姫山に城(後の姫路城)を築き、その城代として小寺氏が代々これを守った 6 。このように、小寺氏は単なる国人領主ではなく、守護家・赤松氏の一門という高い家格を誇る、由緒ある一族であった。
その後の歴史においても、小寺氏は赤松宗家と運命を共にする。室町時代中期の嘉吉元年(1441年)、赤松満祐が室町幕府6代将軍・足利義教を暗殺した「嘉吉の乱」では、小寺氏も宗家に従って幕府軍と戦い、当主・小寺職治(もとはる)は敗れて自害、一族は一時没落の憂き目に遭う 6 。しかし、その子・豊職(とよもと)が赤松家再興運動に参加し、「長禄の変」(1458年)で功を挙げたことで、小寺氏は再び播磨の地で勢力を回復させることに成功した 6 。宗家と一蓮托生で戦い、没落と再興を経験したことは、小寺氏に名門としての自負を植え付けると同時に、宗家の動向に一族の運命が左右される危うさを痛感させ、後の自立志向を育む土壌となったと考えられる。
戦国時代に入り、応仁の乱を経て守護・赤松氏の統制力が弱まると、播磨国内では守護代の浦上氏をはじめとする国人領主が台頭し、下剋上の様相を呈していく 6 。このような状況下で、小寺氏の歴史における大きな転換点が訪れる。永正16年(1519年)、政職の祖父にあたる小寺政隆が、交通の要衝である御着の地に新たに城を築き、本拠を移したのである 4 。従来の拠点であった姫路城は、子の則職(政職の父)に譲られた 7 。
この本拠地の移転は、単なる代替わりや隠居以上の戦略的な意味合いを持っていた。姫路城が赤松氏から与えられた城代としての地位の象徴であったのに対し、自ら築いた御着城は、小寺氏独自の権威の源泉であった 5 。肥沃な播磨平野の中心部、そして畿内と西国を結ぶ大動脈・山陽道を押さえる御着の地は、経済的・軍事的に極めて重要であり、この地に拠点を構えることは、赤松氏からの政治的・軍事的自立を明確に宣言する行為に等しかった 5 。
政隆は浦上氏との抗争の末に戦死するが 6 、その跡を継いだ父・則職は、享禄4年(1531年)の大物崩れで浦上村宗が滅亡すると御着城主として復帰し、播磨国内での勢力争いを勝ち抜き、西播磨における有力な独立勢力としての地位を固めていった 4 。政職が家督を相続したのは、まさにこの「独立領主」としての小寺氏が確立された時期であった。
小寺政職は、享禄2年(1529年)に小寺則職の長男として誕生した 11 。その名は、当時の主君であった赤松晴政から偏諱(「政」の一字)を受けたものである 12 。天文14年(1545年)、父・則職の隠居に伴い、17歳で家督を相続し、御着城主となった 11 。
彼が当主となった頃の播磨国は、守護・赤松氏の権威が完全に失墜し、小寺氏のほか、東播磨を拠点とする三木城の別所氏、龍野城を拠点とする赤松政秀など、有力な国衆が互いに勢力を競い合う、まさに群雄割拠の時代であった 13 。政職は、この不安定な情勢の中で小寺家の舵取りを任され、一族の存続と勢力拡大という重い課題に若くして直面することになったのである。
家督を継いだ政職は、播磨国内での主導権を確立すべく、大胆な行動に出る。永禄元年(1558年)、それまで名目上の主君として仕えてきた赤松晴政を追放し、その嫡男である義祐を新たな守護として擁立したのである 4 。これは、主君を事実上傀儡化し、小寺氏が播磨の政治の実権を掌握しようとする野心的な試みであり、戦国時代における典型的な下剋上の一例であった。
しかし、政職は赤松家そのものを滅ぼすという手段は取らなかった。これは、播磨国内において「守護・赤松氏」の権威が依然として一定の影響力を保持しており、それを形式的にでも利用する方が得策であると判断したためと考えられる。自らが守護の座に就くのではなく、意のままになる当主を立てることで、他の赤松一門や国衆からの反発を最小限に抑えつつ、実質的な支配権を確立しようとした。この動きは、単なる武力闘争に留まらない、計算された高度な政治的判断であり、後の「優柔不断」という評価とは一線を画す、政職のしたたかな政治手腕を物語っている。
政職の統治において特筆すべきは、黒田氏に対する破格の厚遇である。黒田氏は備前福岡から播磨へ移ってきた新興の家臣であり、家中では「目薬屋の倅」などと揶揄されることもあった外様の存在であった 2 。しかし政職は、旧来の門閥にとらわれることなく、黒田職隆(もとたか)・孝高(よしたか、後の官兵衛)親子の非凡な能力を見抜き、積極的に重用した 2 。
政職は、職隆の忠義と武勇を賞賛し、自らの養女(明石正風の娘)を娶わせ、小寺の姓と自身の名の一字である「職」を与えて「小寺職隆」と名乗らせ、支城である姫路城の城代に任命した 3 。さらにその子・孝高の器量も見抜き、自身の従姪にあたる櫛橋氏の娘・光を養女として娶らせるなど、婚姻政策を通じて一門に準ずる特別な関係を築いた 2 。
譜代の家臣団からの反発も予想される中でのこの抜擢は、政職個人の恩顧によって成り上がった黒田氏を、他の家臣とは一線を画す、信頼できる直轄戦力として掌握しようとする意図があった。これは、戦国大名が中央集権的な支配体制を構築していく過程でしばしば見られる手法であり、政職が時代の変化に対応しようとしていた証左と言える。
西播磨に勢力を伸張する過程で、周辺の有力国衆との軍事衝突は避けられなかった。政職は、播磨の新たな覇権を巡り、熾烈な戦いを繰り広げる。
永禄12年(1569年)、いち早く織田信長に通じた龍野城主・赤松政秀が侵攻してくると、政職はこれを迎え撃ち、「青山・土器山の戦い」で勝利を収めた 12 。また、天正元年(1573年)には、東播磨の雄・三木城主の別所安治・長治親子と「増位山・有明山城」で戦火を交えている 12 。
これらの戦いは、単なる領土争いではなく、衰退した赤松宗家に代わって誰が播磨の主導権を握るかを決する、覇権争いの側面が強かった。特に、東の織田、西の毛利という巨大勢力が播磨に迫る中、国内での優位性を確立しておくことは、来るべき外交交渉を有利に進める上で不可欠な戦略であった。政職は、この厳しい生存競争を勝ち抜いてきた、決して弱小ではない、歴戦の戦国領主だったのである。
政職は、軍事・政治活動と並行して、本拠地である御着城の整備にも力を注いだ。父・則職の代に築かれた城をさらに大規模に改修・拡充し、幾重にも堀を巡らせた堅固な城郭へと発展させた 4 。
宝暦5年(1755年)に描かれた絵図や近年の発掘調査によれば、御着城は本丸と二の丸を中心に、西側を流れる天川を天然の外堀として利用し、城内には山陽道や城下町まで取り込んだ「惣構え」の構造を持っていたことが判明している 5 。この壮大な規模は、別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び、「播磨三大城」と称されるほどであった 4 。
城の規模と構造は、領主の権威と経済力を示すバロメーターである。御着城が播磨屈指の名城とされた事実は、小寺氏が播磨においてトップクラスの勢力を有していたことを物語る。また、城下町を城郭内に保護する惣構えの思想は、軍事防衛のみならず、領内の経済活動を統制し、そこから富を収取するという、戦国後期における先進的な城郭都市の姿を反映している。発掘調査で茶器や将棋の駒といった文化的な遺物が出土していることからも 5 、政職が単なる武人ではなく、領国を豊かにし、その権威を示すための都市経営を推進できるだけのビジョンと実行力を兼ね備えた領主であったことが窺える。
天正年間に入ると、日本の政治地図は大きく塗り替えられようとしていた。尾張から急速に勢力を拡大し、天下統一事業を推し進める織田信長と、中国地方一円に覇を唱える毛利輝元の二大勢力が、ついに播磨国を挟んで直接対峙するに至った 20 。播磨の国衆たちは、もはや一国規模の勢力では独立を維持することが困難な時代の大きな転換点に直面し、織田につくか、毛利につくか、一族の存亡を賭けた重大な選択を迫られることとなった。
この岐路に際し、小寺家中では地理的にも文化的にも近く、旧来の秩序の守護者と見なされていた毛利氏に与すべきであるという意見が多数を占めていた 23 。しかし、家老の黒田官兵衛は、長篠の戦いにおける勝利などで示された織田信長の圧倒的な軍事力と革新性こそが次代の覇者たる所以であると見抜き、信長への従属を強く進言した 23 。
政職はこの官兵衛の進言を受け入れるという、大きな決断を下す。地理的に遠く、比叡山焼き討ちなどで苛烈なイメージのあった信長を選ぶことは、家中の親毛利派や領内の反織田感情を持つ人々との間に軋轢を生むリスクを伴うものであった 2 。それでもこの道を選んだのは、政職が旧来の縁故にとらわれず、将来の情勢を冷静に分析し、リスクを承知でより大きな利益(=小寺家の安泰)を追求する能力を持っていたことを示している。天正3年(1575年)、政職はまず官兵衛を信長の元へ使者として派遣し、同年のうちに自らも三木城の別所氏らと共に岐阜城に赴き、信長に謁見して臣従を誓った 12 。
織田方への臣従は、即座に毛利氏との軍事衝突を招いた。天正5年(1577年)5月、小寺氏の離反を快く思わない毛利軍が播磨沖に襲来し、英賀(あが)の浦に上陸した(英賀合戦) 12 。『黒田家譜』によれば、この時、政職は官兵衛の献じた奇策を用いて、数で勝る毛利軍を撃退することに成功したとされる 12 。この勝利は小寺氏の武威を内外に示し、信長からも感状を与えられ、織田方としての立場を固める重要な戦果となった 26 。
織田方としての立場を固めた政職に対し、信長は服従の証として人質の提出を命じた。ここで政職は、後の運命を大きく左右する行動に出る。嫡男の小寺氏職(うじもと)が病弱であることを理由に、その提出をためらい、代わりに家臣である黒田官兵衛の子・松寿丸(しょうじゅまる、後の黒田長政)を人質として差し出したのである 12 。
この一件は、政職の織田家に対する忠誠心に、ある種の「ためらい」や「含み」があったことを象徴している。信長にとって人質は、単なる服従の証ではなく、相手の覚悟を測る試金石であった。主君が自らの実子ではなく家臣の子を差し出すという行為は、信長側に「小寺は心底からは信用できない」という疑念を抱かせるに十分であった。一方で政職自身にとっては、万が一の場合に毛利方へ寝返るという選択肢を残す、いわば保険のような意味合いがあったのかもしれない。
この時点で、織田家に対する姿勢において、政職と官兵衛の間には決定的な隔たりが生じていた。我が子を差し出した官兵衛はもはや後戻りできない立場に追い込まれたのに対し、政職はまだ退路を確保しているつもりでいた。この認識のズレが、やがて両者の関係に修復不可能な亀裂を生じさせ、小寺家を破滅へと導く伏線となったのである。
政職が織田と毛利の間で揺れ動く中、播磨の情勢は急変する。天正6年(1578年)、一度は織田に恭順していた東播磨最大の国衆、三木城主・別所長治が突如として反旗を翻し、毛利方へと寝返ったのである 28 。別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力もこれに同調し、織田信長の中国方面軍司令官であった羽柴秀吉は、播磨平定における最大の難関「三木合戦」に直面することになる 29 。播磨全土が織田方と毛利方に二分される大戦乱が勃発し、政職は再び過酷な選択を迫られた。
別所氏の離反に衝撃が走る中、さらに事態を決定的にしたのが、織田家の重臣で摂津一国を任されていた荒木村重の謀叛であった。信長の寵臣ですら反旗を翻したという事実は、信長に仕えることの危うさを播磨の国衆に痛感させた 31 。この動きに呼応するように、小寺政職もついに織田家を裏切り、別所・荒木らと共に毛利方へ与することを決断した 12 。
この離反は、単に「優柔不断」であったり、周囲の情勢に流されたりした結果と見るべきではない。そこには、彼なりの合理的な戦略的判断があった。第一に、別所氏や荒木氏といった播磨・摂津の有力者との同盟関係を維持し、孤立を避ける必要があったこと 13 。第二に、比叡山焼き討ちなどで知られる信長の苛烈な手法に対し、領内の浄土真宗門徒を中心に反織田感情が根強かったこと 2 。第三に、毛利氏の強大な軍事力と、彼らが庇護する将軍・足利義昭の権威が、反信長連合に「大義名分」を与えていたこと 33 。そして第四に、織田体制下でいずれは自らの所領も没収され、使い捨てにされるのではないかという、地方領主としての根源的な不安があったことである 32 。政職は、これらの要因を総合的に判断し、播磨・摂津の国衆が一斉に蜂起すれば、毛利の支援を得て織田軍を撃退できるという可能性に、一族の命運を賭けたのである。
織田からの離反を決意した政職にとって、最大の障害は、織田方との強力なパイプ役であり、もはや家中の一家老という枠を超えて秀吉の部将として活動していた黒田官兵衛の存在であった 12 。
『黒田家譜』によれば、政職は官兵衛に対し、表向きは荒木村重に謀叛を思いとどまるよう説得に行くことを命じながら、その裏では村重に密使を送り、官兵衛を殺害するよう依頼していたとされる 35 。この依頼は、自らの離反計画の障害を取り除くと同時に、毛利方への忠誠を示すための手土産という意味合いがあった。
村重は、旧知の仲であった官兵衛を殺害することはせず、有岡城の土牢に幽閉するに留めた 32 。しかし、官兵衛が帰還しないことを、信長は「官兵衛も村重と共に裏切った」と誤解。激怒した信長は、人質として預かっていた官兵衛の嫡男・松寿丸の殺害を命じるという最悪の事態を招いた(この時、松寿丸は竹中半兵衛の機転により密かに匿われ、命を救われている) 38 。この一連の出来事は、小寺家と黒田家の主従関係を完全に破綻させ、決裂を決定的なものとした。かつて寵愛した家臣との絆が、巨大な政治の渦の中で無惨にも断ち切られた瞬間であった。
反織田連合の頼みの綱であった毛利氏の援軍は、上月城を奪還した後は積極的な東進を見せず、播磨の諸城は秀吉軍の前に各個撃破されていく 30 。秀吉は、三木城を直接攻めるのではなく、その周囲の支城を次々と攻略して補給路を断つ、いわゆる「三木の干殺し」という兵糧攻め戦術を徹底した 39 。
これにより、御着城も完全に孤立無援の状態に陥る。天正7年(1579年)から、秀吉軍による御着城への攻撃が開始された 4 。当初は城兵の奮戦により持ちこたえたものの 4 、天正7年11月に有岡城が、天正8年(1580年)1月に三木城が相次いで落城すると、もはや抗戦は不可能と判断した政職は、ついに城を捨てる決断を下す 5 。
政職は嫡子・氏職を伴い、英賀城を経由して毛利氏の勢力圏である備後国鞆の浦へと逃亡した 12 。主を失った御着城では、残された家臣が秀吉軍に降伏。ここに播磨三大城と謳われた名城は開城し、後に城割りが行われ廃城となった 4 。政職の賭けは、戦略の破綻という形で無残な結末を迎えたのである。
故郷・播磨を追われた政職親子が目指したのは、備後国鞆の浦であった 12 。この港町は、毛利氏の強力な庇護下にあり、当時、織田信長によって京を追放されていた室町幕府第15代将軍・足利義昭が滞在する、反信長勢力の一大拠点となっていた 41 。いわゆる「鞆幕府」と呼ばれる亡命政権が、この地に存在したのである。
鞆の浦にたどり着いた政職は、足利義昭に仕え、その幕府衆の一員として名を連ねた 12 。しかし、領地も兵力も失った亡命領主に、かつての威光はなかった。義昭自身が毛利輝元の庇護に依存する存在であり、その義昭に仕える政職は、いわば「寄客の寄客」という二重に従属した立場で、政治的な影響力は皆無に等しかったと推測される 33 。
天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が斃れるという千載一遇の好機が訪れるも、既に播磨は秀吉の支配体制が確立しており、政職が故郷に復帰することは叶わなかった。再起の夢も潰え、失意の日々を送る中、天正12年(1584年)5月、政職は亡命先の鞆の浦でその波乱の生涯を閉じた。享年56(満55歳)であった 2 。播磨一国を揺るがした有力領主の最期としては、寂しいものであった。なお、公式な記録とは別に、兵庫県太子町に政職の終焉の地とする伝承が残っていることは、地元の人々が彼の最期を憐れみ、語り継いできた可能性を示唆しており、興味深い 6 。
父・政職の死後、遺された嫡男・氏職の運命は、かつての家臣・黒田官兵衛の手に委ねられることになった。官兵衛は、自らを裏切り、命まで狙った旧主君の子である氏職に対し、驚くべき処遇を見せる。官兵衛は秀吉に働きかけ、氏職の赦免を取り付けると、彼を播磨国飾磨津に招き、居住を許したのである 14 。
さらに、黒田家が九州平定の功により豊前国中津12万石の大名となると、官兵衛は氏職を中津へ招き、客分として遇した 27 。関ヶ原の戦いの後、黒田家が筑前国福岡藩52万石の太守となると、氏職もそれに従い、最終的には200石の禄を与えられて大宰府で穏やかな余生を送り、寛永4年(1627年)に没した 27 。
官兵衛のこの行動は、単なる旧主への恩情や憐憫だけでは説明できない。そこには、新たな支配者としての高度な政治的計算があった。仇敵の子を保護し、手厚く遇することで、官兵衛は自らの「度量の大きさ」と「仁義に厚い」という評判を天下に示し、新領主としての権威と正統性を補強したのである。また、旧小寺家臣団に対して「黒田家に仕えれば、旧主の子息もこのように遇される」という明確なメッセージとなり、彼らの抵抗感を和らげ、人心を掌握する上で絶大な効果を発揮した。これは、滅ぼした旧支配者の権威を平和裏に吸収し、自らの支配を盤石にするための、官兵衛ならではの巧みな統治術であった。
大名としての小寺氏は政職の代で滅亡したが、その血脈は各地で受け継がれていった。嫡流である氏職の子孫は、代々「職」の字を通字とする家系などが福岡藩士として存続した 27 。また、政職の次男とされる良明の子孫は、尼崎藩主・青山氏に仕え、後に赤松姓に改めたと伝わる 12 。
この他にも、御着城落城後に岡村秀治の養子となり播磨に土着した天川正則も政職の子であるという伝承があり 12 、現在も姫路市御着地区には小寺氏と、その子孫とされる天川氏を祀る「小寺大明神」が存在し、子孫らによって祭礼が行われている 45 。丹波地方にも小寺氏の後裔と伝わる一族が存在するなど 48 、その系譜は現代にまで続いている。
小寺政職の生涯を総括するにあたり、彼は「優柔不断な暗君」であったのか、それとも「時代の波に翻弄された悲劇の武将」であったのか、という問いが立てられる。本報告書で検証した通り、政職は領国経営や勢力拡大において確かな手腕を発揮した、有能な戦国領主であった。御着城を播磨屈指の城郭に育て上げ、黒田官兵衛のような傑出した人材を見出し、抜擢した慧眼は、凡庸な人物のできることではない。
彼の悲劇は、織田信長がもたらした「天下布武」という、従来の価値観を根底から覆す新たな政治力学の奔流に直面した点にある。彼の織田からの離反は、単なる優柔不断さや気まぐれではなく、親族や同盟者との関係、領内の反織田感情、そして何より地方領主としての自立性を維持しようとした末の、彼なりの合理的な判断に基づく「賭け」であった。しかし、結果としてその賭けに敗れ、全てを失うことになった。
また、黒田官兵衛という傑出した家臣を持ったことは、政職にとって幸運であると同時に、最大の不幸でもあった。官兵衛の才能は小寺氏の勢力拡大に大きく貢献したが、その才能が中央の巨大権力と直結した時、もはや主君のコントロールを超えた存在となり、結果的に家の分裂と滅亡の一因となった。
小寺政職の生涯は、守護大名体制が崩壊し、群雄が割拠する中世的な世界から、強力な中央集権的権力によって天下が統一されていく近世への移行期において、多くの地方領主が辿った運命を象徴している。旧来の秩序の中では成功者であった彼が、時代の大きな構造転換に適応できずに歴史の表舞台から姿を消した事実は、個人の資質のみならず、時代の潮流がいかに一人の武将の運命を左右するかを雄弁に物語っている。彼は、播磨という一国に咲き、そして散っていった、戦国乱世の徒花であったと言えよう。
西暦(和暦) |
小寺政職の動向 |
播磨の動向 |
中央(織田・毛利・朝廷)の動向 |
1529年(享禄2年) |
播磨国御着にて誕生 11 。 |
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1545年(天文14年) |
父・則職から家督を相続し、御着城主となる 11 。 |
父・則職が隠居 4 。 |
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1558年(永禄元年) |
主君・赤松晴政を追放し、その子・義祐を擁立 4 。 |
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1569年(永禄12年) |
青山・土器山の戦いで赤松政秀軍に勝利 12 。 |
龍野城主・赤松政秀が織田方として侵攻 12 。 |
織田信長が上洛(前年)。 |
1573年(天正元年) |
増位山・有明山城で別所氏と交戦 12 。 |
三木城主・別所氏との対立が激化。 |
室町幕府滅亡。 |
1575年(天正3年) |
黒田官兵衛の進言を受け、織田信長に臣従 12 。 |
赤松氏、別所氏らも信長に臣従 12 。 |
長篠の戦いで織田軍が武田軍に大勝。 |
1577年(天正5年) |
英賀合戦で毛利軍を撃退 12 。家臣・黒田官兵衛の子・松寿丸を人質として提出 12 。 |
毛利軍が播磨に侵攻。羽柴秀吉が播磨入り。 |
織田信長、中国攻めを開始。 |
1578年(天正6年) |
荒木村重の謀叛に同調し、織田方を離反 12 。官兵衛の有岡城幽閉に関与 35 。 |
別所長治が三木城で織田方に反旗(三木合戦) 29 。 |
摂津有岡城主・荒木村重が信長に謀叛。 |
1579年(天正7年) |
羽柴秀吉軍による御着城攻めが本格化 4 。 |
有岡城落城 12 。 |
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1580年(天正8年) |
戦況不利と見て御着城を脱出、備後国鞆の浦へ逃亡 12 。 |
三木城落城 12 。秀吉が播磨を平定。 |
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1582年(天正10年) |
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本能寺の変。織田信長死去。 |
1584年(天正12年) |
5月、亡命先の鞆の浦にて死去(享年56) 11 。 |
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人物名 |
読み |
続柄・役職 |
政職との関係・概要 |
小寺一門 |
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小寺則職 |
こでら のりもと |
父、先代御着城主 |
政職に家督を譲り隠居。則職の代に小寺氏は独立勢力としての地位を固めた 4 。 |
小寺氏職 |
こでら うじもと |
嫡男 |
父と共に鞆の浦へ逃亡。父の死後、黒田官兵衛に保護され、福岡藩士となる 27 。 |
小寺福職 |
こでら とみもと |
族兄、妻の父 |
塩田城主。政職の妻は福職の娘であった 12 。 |
黒田家 |
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黒田職隆 |
くろだ もとたか |
家老、姫路城代 |
官兵衛の父。政職に重用され、小寺姓と偏諱を賜う 3 。 |
黒田孝高(官兵衛) |
くろだ よしたか |
家老、姫路城代 |
政職に織田への臣従を進言。後に政職と決裂し、羽柴秀吉の軍師として活躍 12 。 |
黒田長政(松寿丸) |
くろだ ながまさ |
官兵衛の嫡男 |
政職の人質の名代として織田家に提出される。後の福岡藩初代藩主 27 。 |
小寺休夢斎 |
こでら きゅうむさい |
黒田職隆の弟(政職の叔父分) |
黒田高友。文化人としても知られる。御着城開城の際に秀吉から調略を受ける 4 。 |
赤松一門 |
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赤松晴政 |
あかまつ はるまさ |
旧主君、播磨守護 |
政職によって追放される 4 。 |
赤松義祐 |
あかまつ よしすけ |
新主君、播磨守護 |
晴政の子。政職によって新たに擁立された傀儡の主君 4 。 |
赤松政秀 |
あかまつ まさひで |
龍野城主、敵対 |
赤松氏の一門。織田方に付き、政職と敵対。「青山・土器山の戦い」で戦う 12 。 |
播磨・摂津国衆 |
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別所長治 |
べっしょ ながはる |
三木城主、同調者 |
当初は共に織田方に付くが、後に離反。政職もこれに同調した 13 。 |
荒木村重 |
あらき むらしげ |
有岡城主、同調者 |
織田家の重臣だったが謀叛。政職もこれに呼応し、官兵衛の幽閉に関与 12 。 |
中央勢力 |
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織田信長 |
おだ のぶなが |
主君→敵対 |
天下人。政職は一度臣従するが、後に裏切る 12 。 |
羽柴秀吉 |
はしば ひでよし |
取次、敵将 |
織田家の中国方面軍司令官。播磨攻めで政職と直接対決する 4 。 |
毛利輝元 |
もうり てるもと |
庇護者 |
中国地方の雄。離反した政職を庇護する 12 。 |
足利義昭 |
あしかが よしあき |
庇護者 |
室町幕府第15代将軍。京を追われ、鞆の浦で政職らを庇護下に置いた 12 。 |