最終更新日 2025-06-15

小山田信有

「小山田信有」の画像

戦国武将 小山田信有 ― 智勇兼備の郡内領主、その実像

序章:武田氏の重臣、小山田信有 ― 混同される三人の「信有」

戦国時代の甲斐武田氏を語る上で、小山田信有という名は頻繁に登場する。一般的には「武田信玄の重臣で、信濃侵攻の諸戦で活躍し、砥石城の戦いで負った傷がもとで亡くなった猛将」として知られる 1 。しかし、この人物像は、戦国期小山田氏の歴史における複雑な事実の一端に過ぎない。史料を丹念に読み解くと、武田氏に仕えた小山田一族には、実名「信有」を名乗る人物が祖父、父、子の三代にわたって存在したことが明らかになる 2 。この同名三代の存在が、後世の研究や通俗史において少なからぬ混乱を生む原因となってきた。

本報告書は、この歴史的混乱を整理し、特に武田信玄の時代にその武勇と内政手腕を大いに発揮した**小山田出羽守信有(おやまだ でわのかみ のぶあり)**に焦点を当て、その生涯と業績を徹底的に解明することを目的とする。彼は、武田家の信濃経略を支える「矛」であったと同時に、自らが治める郡内領の民を守る「盾」でもあった。本稿では、この二つの顔を、史料に基づき多角的に分析していく。

まず、歴史的混乱の源泉である三人の「信有」を明確に区別するため、以下の表にその概要を整理する。

表1:小山田氏三代「信有」の比較

世代

官位・通称

実名・法名

生没年

主要事績

備考

祖父

越中守

信有(涼苑)

不詳~天文10年(1541)

武田信虎と和睦し、婚姻同盟を成立させる。谷村への本拠地移転など、郡内領の基礎を築く 3

小山田氏の武田家中での地位を確立した。

出羽守

信有(契山存心)

永正16年(1519)?~天文21年(1552)

武田信玄の信濃侵攻で先鋒として活躍。志賀城、上田原、砥石城の戦いに参戦。郡内領の経済振興にも尽力 1

本報告書の主題となる人物。

弥三郎

信有(桃隠)

天文8/9年(1539/40)?~永禄8年(1565)?

父の死後、若くして家督を継ぐ。甲相同盟の成立に際し、蟇目役を務める。早世したとされる 8

従来、弟の信茂と同一視されたが、現在は別人説が有力。

この「信有」という実名の継承は、単なる慣習とは考えにくい。武田氏に従属しつつも、郡内領に半独立的な支配権を維持していた国衆・小山田氏にとって、一族の権威と家督の正当性を内外に示すことは極めて重要であった 4 。父祖の名を継ぐことは、その支配体制の連続性と正統性を誇示する、意図的な政治的行為であった可能性が高い。それは、他の譜代家臣とは一線を画す「郡内小山田家」という独自のブランドを確立するための戦略でもあったと言えよう。

本報告では、この三人のうち、武田信玄の覇業を最前線で支え、かつ郡内領主として優れた治績を残した二代目、 小山田出羽守信有 の生涯を軸に、その実像に迫っていく。


第一部:甲斐国衆・小山田氏の台頭と武田氏への従属

第一章:郡内領主・小山田氏の出自と性格

小山田氏は、その系譜を桓武平氏秩父氏流に求め、武蔵国小山田荘(現在の東京都町田市周辺)を本拠とした武家であったとされる 11 。鎌倉時代にその一族が甲斐国都留郡、通称「郡内」地方に移り住み、在地領主としての地位を築いたと伝えられている 12

戦国期の甲斐国は、一枚岩の領国ではなかった。甲府盆地を中心とする「国中(くになか)」を治める守護・武田氏を盟主としながらも、南部の河内領には穴山氏、そして東部の郡内領には小山田氏が、それぞれ半ば独立した勢力を保持していた 4 。特に小山田氏は、武田氏の支配下にありながら独自の領主権を行使しており、その関係は「二重の支配権」と評されるほど特殊なものであった 4 。この独立性は、相模国(神奈川県)の後北条氏との国境に位置するという地政学的な重要性と、郡内地方の険しい山岳地形によって支えられていた 4

この小山田氏の立場は、単なる従属者ではなく、武田氏にとって対北条氏の最前線を担う「緩衝地帯の支配者」としての役割を強く帯びていた。武田氏から見れば、小山田氏を武力で完全に併合するよりも、彼らの在地における影響力と、後北条氏との外交ルートを活用する方が、領国経営全体にとって有益であった。事実、小山田氏は武田・北条間の外交の「取次」を務めており、北条氏の分限帳である『小田原衆所領役帳』にもその名が記載されている 5 。これは、小山田氏が北条氏からも一定の主体性を持つ存在として認識されていた証左である。武田氏は小山田氏の半独立性を認めることで、東方国境の安定と外交の窓口を確保するという実利を得ていたのである。この譜代家臣と独立大名の中間に位置するような特異な立場こそ、小山田氏を理解する上で最も重要な鍵となる。

第二章:父・小山田越中守信有の時代

出羽守信有の活躍の土台を築いたのが、その父(あるいは先代)とされる小山田越中守信有である。当初、小山田氏は甲斐統一を目指す武田信虎と激しく対立したが、永正5年(1508年)の合戦での敗北を経て、越中守の代に武田氏との和睦の道を選んだ 3

この和睦を決定的なものにしたのが、信虎の妹を越中守信有が正室として迎えた婚姻同盟であった 4 。これにより小山田氏は、単なる家臣ではなく、武田一門に準ずる「親族衆」という高い地位を得るに至る。この関係強化は、小山田氏が武田家臣団の中で特別な存在となる上での大きな画期であった。

内政面においても、越中守信有は郡内支配の基盤を固めている。享禄5年(1532年)、本拠地を従来の中津森館(現在の都留市金井)から、より広域支配と経済活動に適した谷村館(現在の都留市谷村)へと移転させた 18 。また、岩殿山円通寺の再建に尽力するなど、寺社勢力との関係を深め、領内の安定化を図った 4

天文10年(1541年)、越中守信有は死去する 5 。奇しくも同年、武田家では当主の信虎が嫡男・晴信(後の信玄)によって駿河へ追放され、家督交代が行われた 7 。武田・小山田両家におけるこの同時期の代替わりは、両者の関係が新たな時代、すなわち信玄と出羽守信有による協力と飛躍の時代へと移行する序曲となったのである。


第二部:猛将・小山田出羽守信有の生涯

第三章:家督相続と武田信玄の信濃侵攻

越中守信有の跡を継いだのが、本報告の主題である 小山田出羽守信有 である。彼の出自については、従来、越中守の嫡男とされてきた。しかし、近年の研究、特に歴史学者・丸島和洋氏の論考においては、新たな視点が提示されている。越中守との世代が近いこと、そして小山田氏嫡流の通称(仮名)が「弥太郎」から、出羽守の代で「弥三郎」へと変化している点などを根拠に、出羽守信有は越中守の弟、あるいは一族の庶流から当主の座を継いだ人物ではないか、という説である 7 。この説が正しければ、出羽守信有の家督相続は単純な世襲ではなく、彼自身の実力や一族内の政治力学が大きく作用した結果であった可能性があり、その人物像をより深く探る上で興味深い論点と言える。

家督を継いだ信有は、時を同じくして甲斐国主となった武田晴信(信玄)の下で、ただちにその頭角を現す。晴信が本格化させた信濃侵攻において、信有率いる郡内勢は常に先鋒として、武田軍の中核を担った。天文11年(1542年)、信濃の国衆・高遠頼継との間で行われた宮川の戦いでは早々に武功を挙げ、晴信から感状を与えられている 1 。これは、代替わりしたばかりの信有が、新たな主君である晴信に対して自身の武勇と忠誠を明確に示し、武田家中における小山田氏の地位を改めて確固たるものにするための、極めて重要な戦いであった。

第四章:智勇兼備の将 ― 主要な軍歴とその実像

出羽守信有の武将としてのキャリアは、信玄による信濃平定戦の歴史そのものと深く重なっている。彼は数々の激戦に参加し、武田軍の勝利に大きく貢献した。

志賀城攻略と「戦果」の逸話

天文15年(1546年)、武田軍は信濃佐久郡の有力国衆・笠原清繁が守る志賀城(長野県佐久市)を攻撃した。この戦いで信有は大きな戦功を立てたことが記録されている 10 。当時の年代記である『勝山記』や『妙法寺記』には、この戦いの後、晴信が城主・笠原清繁の夫人を恩賞として信有に与えたという逸話が記されている 1 。敵将の妻を戦功のあった家臣に与えるという行為は、現代の価値観からは理解しがたいが、戦国時代の武士社会における恩賞の一形態であり、信有が晴信からいかに高く評価されていたかを示す具体例として注目される。

上田原の戦いにおける奮戦

天文17年(1548年)、武田軍は北信濃の雄・村上義清と上田原(長野県上田市)で激突した。この戦いは武田方の大敗に終わり、譜代の重臣である板垣信方や甘利虎泰といった宿老たちが討死するという、信玄にとって最初の大きな試練となった 25 。この敗戦の混乱の中、信有の働きは際立っていた。『甲陽軍鑑』には、信有が「比類無き働き」を見せ、信玄自身も手傷を負うほどの激戦の中で軍の崩壊を防いだと記されている 27 。軍記物語である『甲陽軍鑑』の記述には脚色が含まれる可能性を考慮する必要はあるが、『勝山記』など他の史料もその奮戦を伝えており 26 、絶体絶命の状況下で彼の武勇と冷静さが武田軍を支えたことは間違いないだろう。

砥石城の戦い(砥石崩れ)での重傷と死

上田原の勝利で勢いづく村上義清に対し、信玄は天文19年(1550年)に再び大軍を率いて、その拠点の一つである砥石城(戸石城)を攻撃した 28 。しかし、この城は天然の要害であり、武田軍は攻めあぐねた末に村上軍の反撃に遭い、またもや大敗を喫した。この敗戦は「砥石崩れ」として知られ、武田軍は横田高松をはじめ1,000人もの将兵を失ったとされる 27

この戦いにおいて、信有は鉄砲によるとされる重傷を負った 1 。この時の傷が直接の原因となり、信有は2年後の天文21年(1552年)にこの世を去った 1 。信濃攻略の最前線で常に軍功を挙げてきた猛将の死は、武田軍にとって計り知れない損失であった。

俗説「投石隊」の実像

小山田信有を語る上で、彼が「投石隊を率いた」という逸話は特に有名である 1 。三方ヶ原の戦いなどで、特殊技能を持つ兵団を率いて活躍したというイメージは、彼の武勇を象徴するものとして広く流布している。

しかし、この説には史料的な裏付けが乏しい。より信頼性の高い史料を検証すると、信有(あるいは息子の信茂)が投石隊を専門に指揮したという明確な記録は見当たらないのが現状である 32 。この俗説は、近世以降の軍記物語や戦史資料の解釈の過程で、後から形成された可能性が高いと考えられている。投石自体は、特に山岳地帯での攻城戦や奇襲において有効な戦術であり 33 、山がちな郡内地方を本拠とする小山田勢が、その技術に長けていた可能性は十分にある。この地理的特性と、小山田氏の武勇のイメージが後世に結びつき、「小山田氏=投石の専門部隊」という分かりやすいアイコンが創作され、それが信有個人の功績として語られるようになったと推察される。彼の武勇は疑いようがないが、「投石隊の指揮官」という特定のイメージは、歴史的事実というよりは後世に作られた伝説と捉えるのが妥当であろう。

第五章:郡内領の統治者として ― 内政と経済政策

出羽守信有は、戦場での武勇のみならず、領地経営においても卓越した手腕を発揮した。彼は単なる武将ではなく、自らの領国と領民の繁栄を追求する優れた統治者であった。

独自の統治体制の確立

信有は、郡内領の統治において、武田氏の支配を受けつつも、顕著な独自性を発揮した。その象徴が、彼が発給した文書に見られる「月定」と刻まれた朱印の使用である 7 。これは武田宗家が用いる印判とは異なり、小山田氏が郡内において一次的な行政権・司法権を持つ独立した統治機構を機能させていたことを示している。実際に、彼は家臣や寺社、あるいは富士参詣者に対して、独自の判断で所領の安堵状や過所(通行許可証)を発給しており、郡内領における領主として確固たる権威を確立していた 34

経済振興策と殖産興業

郡内地方は山がちで水田が少なく、米の生産性には恵まれていなかった。そこで信有は、地域の経済基盤を強化するため、殖産興業政策に積極的に取り組んだ。特に知られているのが、隣接する武蔵国秩父地方から養蚕と機織りの技術を導入したことである 6 。この政策が、後に高品質な絹織物として全国に名を馳せる「郡内織」の礎を築いたとされている。

さらに、信有は領内独自の計量単位である「郡内枡」を制定したと伝えられる 6 。度量衡の統一は、領内の経済活動を円滑にし、税収を安定させるための基本的な政策であるが、それを武田氏の基準とは別に独自に定めたという事実は、小山田氏の経済的自立性の高さと、領主権の強さを示す重要な証拠である。加えて、農民の減税も実施したとされ、領民の生活安定を図ることで、その支持を固める善政を敷いていたことがうかがえる 6

富士信仰との関わり:情報と富の源泉

郡内領は、全国から信者が集まる富士山への主要な参詣道が通過する要衝であった。信有はこの地理的利点を最大限に活用した。彼は富士信仰の布教と宿坊の世話をする御師(おし)と呼ばれる宗教者を支配下に置き、彼らを通じて全国からやってくる参詣者から過料銭(通行税)を徴収することで、大きな経済的利益を得ていた 34

しかし、この富士参詣道の支配がもたらす価値は、単なる経済的利益にとどまらなかった。それは、武田氏にとって極めて重要な「情報(インテリジェンス)」の源泉でもあった。全国から武士、商人、僧侶など様々な階層の人々が往来する参詣道は、情報の集積地であった。信有は、御師集団を統制し、通行許可証を発給する立場を利用して、人の流れを完全に把握し、彼らがもたらす諸国の情勢や中央の政局に関する情報を組織的に収集・分析していた可能性がある。この「情報ハブ」としての機能は、武田信玄の戦略決定において、小山田氏の軍事力と同等か、それ以上に重要な価値を持っていたと推察される。小山田氏が武田家中で得ていた特異な地位は、この情報戦略上の重要性によって、さらに強固なものになっていたと言えるだろう。

文化人としての一面

信有は、武勇や統治能力だけでなく、文化的な側面も持ち合わせていた。彼は自身の菩提寺として都留市に長生寺を開基した 7 。また、天文19年(1550年)には、古刹である柏尾山大善寺(甲州市勝沼町)で能の勧進興行を主催している 22 。これは、彼が単なる武人ではなく、地域の文化を保護・育成するパトロンとしての役割も担っていたことを示しており、その多面的な人物像を浮き彫りにしている。

第六章:その死と後世への影響

砥石城の戦傷と最期

数々の武功を挙げ、郡内領に善政を敷いた出羽守信有であったが、その最期は武人として戦場で受けた傷によるものであった。天文19年(1550年)の砥石城の戦いで負った重傷が回復することなく、天文21年(1552年)正月23日、彼は死去した 7 。『勝山記』などの史料から、この戦傷が直接の死因であったと見られている 1

郡内を挙げての葬儀

信有の死が、郡内領にとっていかに大きな出来事であったかは、その葬儀の様子を伝える記録からうかがい知ることができる。『勝山記』によれば、彼の葬儀には「御共人衆は一万人」もの人々が参列し、「郡内一番の弔い」になったと記されている 1

「一万人」という数字は、当時の人口を考えれば誇張表現である可能性が高い。しかし、この記述は、信有が郡内領の領民からいかに深く敬愛され、その死が悼まれたかを物語る象徴的なエピソードである。彼の武功と内政における功績が、領民の心を強く掴んでいたことの何よりの証左と言えよう。

菩提寺・長生寺と肖像画

信有の菩提寺である都留市の長生寺には、彼の姿を今に伝える貴重な肖像画(絹本著色小山田出羽守信有像)が現存しており、山梨県の指定文化財となっている 7 。この肖像画は、長らく先代の越中守信有のものとされてきたが、後に修補銘から法名が「契山存心」であることが判明し、出羽守信有のものであることが確定した 7 。この一枚の絵は、文書史料だけではうかがい知ることのできない、彼の人物像を視覚的に伝える第一級の史料である。


第三部:小山田氏のその後と滅亡

第七章:出羽守信有死後の小山田家

出羽守信有の死後、小山田家の家督は、まず嫡男の弥三郎信有が継承した 9 。彼は父の代からの武田氏との良好な関係を維持し、天文23年(1554年)に武田・今川・北条の三国同盟が正式に結ばれる前段階の、武田晴信の娘・黄梅院と北条氏康の嫡男・氏政との婚儀に際しては、行列の先導役である蟇目役(ひきめやく)という大役を務めている 9 。これは、小山田氏が引き続き武田家の外交において重要な役割を担っていたことを示している。しかし、この弥三郎信有は永禄8年(1565年)頃に病死したとされ、その治世は短いものに終わった 8

兄の早世を受けて家督を継いだのが、次男の小山田信茂である 8 。信茂もまた、父や兄に劣らぬ能力を持つ武将であり、信玄、そしてその後継者である勝頼の二代にわたって武田軍の中核として活躍した 21 。しかし、彼の代に武田家は滅亡の時を迎え、信茂自身も歴史上「裏切り者」の汚名を着せられるという悲劇的な最期を遂げることになる。

この信茂の最後の決断、すなわち天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍による甲州征伐の際に、逃れてきた主君・武田勝頼の岩殿城への受け入れを拒否した行動は、単なる個人の裏切りという言葉では到底説明しきれない。その背景には、父・出羽守信有が築き上げた偉大な遺産が色濃く影を落としていた。出羽守信有は、武田氏への忠誠を尽くす一方で、郡内領の安寧と領民の生活を第一に考えるという国衆としての統治理念を確立し、領民から絶大な支持を得た。この「郡内第一」の思想は、小山田氏の統治の根幹となっていた。

勝頼の代になり、長篠の戦いで大敗を喫して以降、武田家の権威は大きく揺らぎ、家臣団の動揺は隠せなかった 32 。そのような状況下で、滅亡寸前の勝頼一行を自領に迎え入れれば、織田・徳川の大軍が郡内領に雪崩れ込み、父が心血を注いで築き上げた領地と領民が戦火に蹂躙されることは火を見るより明らかであった 4 。信茂の決断は、武田家への「忠誠」と、郡内領主としての「責務」という、二つの引き裂かれた忠誠心の間で下された究極の選択であった。彼は、父・出羽守信有の最大の遺産である「郡内」という共同体を守ることを、滅びゆく主家への殉死よりも優先したのである。この視点に立つとき、信茂の行動は、単なる保身や不忠ではなく、国衆の当主としての苦渋に満ちた合理的な判断として再評価されるべきであろう。彼の悲劇は、偉大な父が残した功績の、いわば裏面であったとも言えるのである。


終章:小山田一族の歴史的評価

小山田出羽守信有は、その生涯を通じて、戦国時代の武将が持つべき多面的な能力を遺憾なく発揮した人物であった。彼はもはや、単に「武田二十四将の一人」として、あるいは「砥石城で戦死した猛将」としてのみ語られるべきではない。

彼は、主君・武田信玄の領土拡大政策を軍事的に支える鋭い「矛」であった。信濃の山々を駆け巡り、数々の戦いで武功を挙げ、武田軍の勝利に貢献した。その武勇は、敵味方問わず認められるところであった。

しかし同時に、彼は自らが治める郡内領の民を守り育む、堅固な「盾」でもあった。山がちな土地の経済を振興させ、独自の統治機構を整え、領民から深く敬愛される善政を敷いた。彼の葬儀に一万人が参列したという伝承は、その治績がいかに領民の心に刻まれていたかを物語っている。

この出羽守信有が確立した、武田家への従属と郡内領主としての自立性という二重の構造、そして「郡内」という共同体を第一に考える統治理念こそが、小山田氏の力の源泉であった。そして皮肉にも、その偉大な遺産が、息子・信茂の代に、主君を見捨てるという悲劇的な決断を強いることになった。信茂の「裏切り」は、近年の国衆研究の進展により、主家からの軍事的保障が失われた際に、自らの領地と共同体の保全を図るという、国衆としての合理的な行動原理に根差すものとして捉え直されつつある 2

小山田出羽守信有の生涯を丹念に追うことは、戦国という時代の複雑な主従関係と、大名の狭間で生きる地方領主のしたたかな生存戦略を鮮やかに理解させてくれる。彼はまさに、武田の矛であり、郡内の盾であった。その功績と、それが内包していた苦悩を理解することによって、我々は戦国史のより深い次元へと至ることができるのである。

引用文献

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  2. 郡内小山田氏 武田二十四将の系譜 中世武士選書 : 丸島和洋 - HMV&BOOKS online https://www.hmv.co.jp/artist_%E4%B8%B8%E5%B3%B6%E5%92%8C%E6%B4%8B_200000000239349/item_%E9%83%A1%E5%86%85%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%B0%8F-%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B0%86%E3%81%AE%E7%B3%BB%E8%AD%9C-%E4%B8%AD%E4%B8%96%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%B8%E6%9B%B8_5621213
  3. 小山田(越中守)信有 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/OyamadaNobuari~Eccyuu.html
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  5. 第3章 小山田氏領主制の展開 https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/tyusei/pdf_b/b018_3.pdf
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  21. 郡内小山田氏―武田二十四将の系譜 (中世武士選書) | 和洋, 丸島 |本 | 通販 | Amazon https://www.amazon.co.jp/%E9%83%A1%E5%86%85%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%B0%8F%E2%80%95%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B0%86%E3%81%AE%E7%B3%BB%E8%AD%9C-%E4%B8%AD%E4%B8%96%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E4%B8%B8%E5%B3%B6-%E5%92%8C%E6%B4%8B/dp/4864030952
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  29. 発刊にあたって - 坂城町 https://www.town.sakaki.nagano.jp/lifestudy/murakamishiforum/sinanomurakmisifo-ramu.pdf
  30. 大河ドラマ「風林火山」第35回「姫の戦い」 - かわうそのうそ - ココログ http://nihonkawauso.cocolog-nifty.com/kawausonouso/2007/09/post_0b80.html
  31. 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu3.php.html
  32. 小山田信茂 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%8C%82
  33. 投石 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%95%E7%9F%B3
  34. 論題 著者 掲載誌 ISSN 刊行年月 判型 0910-9730 JIS-B5 (182mm × 257mm) 1993 年(平成 5 年)3 月 神奈川県 https://ch.kanagawa-museum.jp/uploads/kpmrr/kpmrr019_1993_torii.pdf
  35. 小山田氏の郡内領支配」「戦国大名武田氏領の支配構造」収録 https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/tyusei/pdf_b/b014_3.pdf
  36. 戦国期河口御師の実態 - フジレキシ http://fujinoyama.blogspot.com/2012/09/takeda-oyamada.html
  37. 1 郡内領主小山田氏の足跡をたどる(PDF https://www.pref.yamanashi.jp/documents/99115/yamanashishiromapuchi1.pdf
  38. 小山田信茂- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%8C%82
  39. 第5節 武田・小山田氏の滅亡 https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/tyusei/pdf_b/b016_4.pdf
  40. 甲斐大月「岩殿山」と小山田信茂【山と景色と歴史の話】|水谷俊樹 - note https://note.com/toshi_mizu249/n/n91b38829b26a
  41. 武田勝頼を裏切った小山田信茂にも事情があった? - 旦さまと私 https://lunaticrosier.blog.fc2.com/blog-entry-869.html
  42. 中世武士選書 19 郡内小山田氏―武田二十四将の系譜 - 戎光祥出版 https://www.ebisukosyo.co.jp/sp/item/38/