戦国時代の越中国(現在の富山県)は、越後の上杉、甲斐の武田、加賀の一向一揆、そして畿内から伸張する織田という、日本史を動かした巨大勢力の利害が激しく衝突する、まさに草刈り場であった。この絶え間ない動乱の地で、一人の武将が歴史の表舞台に登場する。その名は小島職鎮(こじま もとしげ)。彼は、越中の有力国衆であった神保氏の家臣という立場から身を起こし、やがて主家の実権を掌握、大大名の狭間で巧みに立ち回り、その名を越中戦国史に深く刻み込んだ 1 。
しかし、その生涯は謎に満ちている。生没年は不詳 1 、姓は「小嶋」とも記されるなど 1 、その出自や経歴には不明な点が多く、彼の人物像を一層複雑で捉えがたいものにしている。一般的には、主君・神保長職の死後に家中の実権を握り、織田信長の後ろ盾で帰還した旧主の子・神保長住を幽閉して主家滅亡の引き金を引いた「奸臣」として語られることが多い。
本報告書は、こうした一面的な評価に留まることなく、小島職鎮の生涯を多角的に検証するものである。彼が下した一つ一つの決断を、当時の越中が置かれた地政学的状況と政治情勢の中に位置づけ、その行動原理を深く分析することで、単なる権力者に留まらない、乱世を生き抜いた一人の武将としての実像に迫ることを目的とする。彼の物語は、強大な外部勢力に翻弄されながらも、自らの家と一族の存続をかけて権謀の限りを尽くした、戦国国衆のリアルな生存戦略の軌跡でもあるのだ。
小島職鎮が歴史の舞台で頭角を現すのは、彼が主家である神保家の実権を掌握してからであるが、それ以前の彼は、主君に忠実に仕える有能な家臣であった。彼の史料上の初出は、享禄年間(1528年~1532年)に、主家のために越前国の朝倉氏と外交交渉を持っていたという記録にまで遡ることができる 1 。この事実は、彼が単なる武辺者ではなく、早くから政治的・外交的な駆け引きを任されるほどの知略と交渉能力を備えていたことを示唆している。
彼の主君であった神保長職は、父・慶宗が永正17年(1520年)に越後守護代・長尾為景らとの戦いで敗死したことにより、一度は没落した神保家の再興という重い宿命を背負っていた 4 。長職は天文12年(1543年)頃、神通川東岸に富山城を築城し、新川郡の守護代であった椎名氏との間で「越中大乱」と呼ばれる大規模な抗争を繰り広げ、神保家の勢力を飛躍的に拡大させることに成功する 4 。職鎮は、この神保家が最も輝いた再興期を支えた「老臣」の一人であり、その外交手腕をもって長職の覇業に貢献したと推定される 1 。
この時期の職鎮の行動は、あくまで神保家の勢力拡大という大方針に沿ったものであり、彼の能力は主家の利益のために発揮されていた。彼が後年見せる権謀術数の片鱗は、この頃から培われていたのかもしれないが、それはまだ主家への忠誠という枠の中にあった。彼の後半生の劇的な活動を理解するためには、まず彼が神保家再興を支えた有能な吏僚的側面を持つ武将であったという原点を押さえておく必要がある。この初期の外交経験こそが、後に彼が神保家中の政治闘争を勝ち抜き、さらには大大名である上杉謙信と直接渡り合うための重要な素地を形成したのである。
神保長職の勢力拡大は、必然的に隣国・越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の警戒を招いた。永禄3年(1560年)以降、謙信は幾度となく越中に軍事介入し、神保氏は敗北と和睦を繰り返す苦しい立場に追い込まれる 5 。この外部からの強大な圧力は、神保家中に深刻な亀裂を生じさせた。いかにして生き残るか、その外交方針を巡って家中は二つの派閥に分裂し、激しい内部抗争へと突入していく。この抗争こそ、小島職鎮が家中の実権を掌握する決定的な契機となった。
対立の構図は明確であった。一方は、小島職鎮が率いる「親上杉派」である。彼らは、地理的に隣接し、圧倒的な軍事力を誇る上杉氏との協調こそが、神保家が生き残るための最も現実的な道であると考えた。主君・長職も、度重なる敗北の末に、最終的にはこの路線へと傾いていった 1 。
これに対し、真っ向から異を唱えたのが、寺島職定(てらしま もとさだ)を中心とする「反上杉派」であった。池田城を拠点とする寺島氏は、一向一揆との関係が深く、上杉氏の宿敵である甲斐の武田信玄と結ぶことで、上杉に対抗しようと画策した 1 。彼らは、親上杉路線に傾く現当主・長職に見切りをつけ、その嫡子である神保長住を新たな旗頭として擁立し、家中を二分する内乱を引き起こしたのである 6 。
この家中を揺るがす対立において、職鎮は主君・長職と歩調を合わせ、反上杉派の弾圧に乗り出す。永禄11年(1568年)頃、上杉氏の介入もあってこの内紛は親上杉派の勝利に終わり、政敵であった寺島職定は排除され、彼が擁立した神保長住は越中から追放されることとなった 1 。
この一連の政争は、神保家の国力を著しく疲弊させたが、その一方で、家中の実権は完全に親上杉派の筆頭である小島職鎮の手に帰した 1 。この権力掌握劇は、単なる個人的な野心の発露と見るべきではない。それは、強大な外部勢力に囲まれた越中の国衆が、どちらの勢力に与すれば存続できるかという、究極の生存戦略を巡る路線闘争であった。職鎮が選択した「親上杉」という道は、彼が神保家にとって最適と判断した「生きる道」であり、寺島職定の排除はその路線を貫徹するために不可欠な政治的手段だったのである。彼の行動は、後世から見れば「主家の乗っ取り」に見えるかもしれないが、当事者にとっては分裂した家中を自らが信じる生存路線の下に一本化する、冷徹な現実主義的判断の帰結であった。
図1:神保家内紛期における主要人物相関図
人物名 |
所属・立場 |
小島職鎮との関係 |
備考 |
小島職鎮 |
神保家家老(親上杉派筆頭) |
- |
本報告書の主人公。 |
神保長職 |
神保家当主 |
主君(後に親上杉路線で協調) |
最終的に職鎮の路線を支持。 |
上杉謙信 |
越後国主 |
主君(神保家臣従後) |
職鎮を「越中衆筆頭」として重用。 |
寺島職定 |
神保家家老(反上杉派筆頭) |
政敵 |
一向一揆・武田氏との連携を主張。 |
神保長住 |
神保長職の嫡子 |
対立 |
寺島派に擁立され、後に織田方として帰還。 |
武田信玄 |
甲斐国主 |
敵対勢力 |
寺島派の後ろ盾。 |
神保家中の内紛を制し、親上杉路線を確立した小島職鎮の立場は、主君・神保長職の死(正確な時期は不明だが、元亀2年(1571年)以降に史料から姿を消す)を境に、新たな段階へと移行する。彼はもはや神保家の家臣という枠を超え、名実ともに上杉謙信の直臣となったのである 1 。
謙信は、職鎮のこれまでの功績と能力を高く評価し、彼を単なる降将としてではなく、越中における上杉勢力の中核を担う重要な代理人として位置づけた。その証左に、職鎮は上杉氏から「越中衆の筆頭」として重用されている 1 。これは、彼が越中に盤踞する他の国人衆を束ね、上杉氏の支配を現地で執行する責任者であったことを意味する。彼が城代を務めた日宮城(ひのみやじょう)は、かつての神保氏の重要拠点であり、上杉氏にとっては越中支配の最前線を維持するための戦略的要衝であった 1 。
彼の活動が上杉家の公式な指揮系統に完全に組み込まれていたことは、第一級の史料からも裏付けられる。国宝「上杉家文書」の中には、天正元年(1573年)10月11日付で、職鎮が上杉家臣の狩野道州と連署した書状が現存している 15 。これは、彼が上杉家の正式な一員として、越中における軍事・政治活動に従事していた動かぬ証拠である。神保家の一家老であった男は、その知謀と政治力によって、戦国大名・上杉謙信の家臣団に名を連ね、越中方面における方面軍司令官とも言うべき地位へと飛躍を遂げたのであった。
上杉家臣として栄達を極めた小島職鎮であったが、そのキャリアにおいて最大の試練であり、後世に大きな謎を投げかける事件が発生する。元亀3年(1572年)の「尻垂坂(しりたれざか)の戦い」における不可解な降伏である。この一件は、一見すると彼の武将としての名誉を汚す失態に思えるが、その後の謙信の対応と合わせて深く考察すると、両者の間に存在した特異な信頼関係が浮かび上がってくる。
事件の経緯はこうである。元亀3年5月、武田信玄の上洛作戦に呼応した加賀・越中の一向一揆が、上杉方の拠点に対して一斉に蜂起した 1 。職鎮は神保覚広らと共に日宮城に籠城し、一揆勢の猛攻に耐えていた。彼らは新庄城の上杉方武将・鰺坂長実に援軍を要請。これを受け、謙信は山本寺定長らを援軍として派遣するが、この部隊は日宮城に到着する前に、神通川の渡し場付近(尻垂坂)で一揆勢の巧みな奇襲攻撃に遭い、壊滅的な敗北を喫してしまった 1 。
援軍到着という最後の望みを絶たれ、城内の弾薬も尽きかけていた日宮城は、完全に孤立無援となった 13 。この絶望的な状況下で、職鎮らが下した決断は徹底抗戦ではなく、「開城」であった。同年6月15日、彼らは一揆勢と和議を結び、城を明け渡すと、能登国の石動山(せきどうさん)へと退去したのである 1 。
この降伏は、結果的に上杉軍の越中戦線における敗北を決定づけた。しかし、不可解なことに、この失態の責任者であるはずの職鎮が謙信から厳しい処罰を受けたという記録は一切ない。それどころか、彼はその後も変わらず厚遇され続け、謙信の死後には、その遺品である太刀を贈られるという破格の扱いを受けているのである 1 。
この一見矛盾した事実をどう解釈すべきか。それは、職鎮の降伏が単なる敵前逃亡や臆病さからきたものではなく、大局的な視点に立った「戦略的撤退」であった可能性を示唆している。援軍が壊滅した以上、日宮城での玉砕は、兵力を無益に消耗させるだけの無意味な行為であった。職鎮は「越中衆筆頭」として、上杉家の越中における基盤戦力を維持する責任を負っていた。彼にとって、城兵は神保家以来苦楽を共にしてきた家臣団であり、犬死させることは到底できなかったであろう。
職鎮は、玉砕という武士の名誉よりも、兵力を温存して再起を図るという実利を選んだ。そして、この冷徹で現実的な判断こそ、稀代の戦術家であった謙信が高く評価した点ではないだろうか。感情的な義理立てで貴重な兵を失う愚将よりも、戦略的に兵を温存した職鎮の判断に「将器」を見出した可能性がある。職鎮は弁明に努めたと伝わるが 1 、その内容は、この戦略的合理性を謙信に説いたものと推測される。謙信から贈られた遺品の太刀は、この一件を経てもなお、職鎮が謙信にとって信頼に足る、越中支配の要であり続けたことの何よりの証左と言えよう。尻垂坂での降伏は、職鎮の冷徹な判断力と、それを理解し評価した謙信の度量の大きさ、そして両者の間に結ばれた強固な信頼関係を物語る、象徴的な出来事なのである。
天正6年(1578年)3月、上杉謙信が急死すると、北陸の勢力図は激変する。謙信の後継者を巡る「御館の乱」で上杉家が内紛に明け暮れる隙を突き、天下統一を目前にした織田信長の勢力が、柴田勝家を総大将とする北陸方面軍を先兵として越中へと怒涛の如く流れ込んできた 7 。
この織田の侵攻は、小島職鎮にとって二重の意味で脅威であった。第一に、長年仕えた上杉家の存亡の危機であり、第二に、かつて自らが追放した政敵・神保長住が、織田信長の後ろ盾を得て越中に帰還し、富山城主として返り咲いたからである 2 。越中は、織田方の佐々成政・神保長住と、小島職鎮ら上杉方の残存勢力が激しく衝突する、文字通りの最前線と化した。
天正10年(1582年)3月、織田軍の猛攻は上杉方の最後の拠点である魚津城に集中していた。城は数倍の敵に包囲され、落城は時間の問題と見られていた。この絶望的な状況下で、職鎮は生涯最後の大勝負に打って出る。彼は同じく上杉方の武将であった唐人親広(とうじん ちかひろ)らと共に兵を挙げると、主力が魚津城攻めに向かって手薄になっていた富山城を電撃的に急襲。見事、城主の神保長住を捕らえ、幽閉することに成功したのである 1 。
この大胆不敵な行動の動機は、複合的なものであったと考えられる。第一に、窮地に陥った主家・上杉景勝を助けるための、魚津城への後方支援という軍事行動であった 17 。第二に、当時、織田信長によって滅亡寸前に追い込まれていた甲斐の武田勝頼に呼応した、反織田連合の一環としての動きでもあった 1 。そして第三に、織田の威光を借りて舞い戻り、自らの存在を脅かす宿敵・神保長住に対する、積年の遺恨を晴らす直接的な攻撃であった。
しかし、この起死回生を狙った蜂起は、あまりにも巨大な敵の前では儚い抵抗に過ぎなかった。報告を受けた柴田勝家は即座に反撃に転じ、職鎮らはあっけなく鎮圧され、富山城からの敗走を余儀なくされた 1 。天正10年の時点で、上杉方が織田方に勝利する見込みは限りなくゼロに近かった。それでも職鎮が立ち上がったのは、もはや合理的な計算を超えた、武士としての矜持の表れであったのかもしれない。長年仕えた上杉謙信とその跡を継いだ景勝への恩義に報い、忠義を貫き通す。富山城襲撃は、彼の生涯を貫いた「親上杉」という政治的立場に殉じた、最後の、そして最も劇的な行動であり、彼の武将としての生き様の集大成であったと言えるだろう。
富山城からの敗走後、小島職鎮はなおも上杉軍の一員として、越中を平定しようとする織田方の佐々成政に対して抵抗を続けたとされるが、その具体的な動向を記した史料は途絶えており、やがて歴史の闇へと消えていった 1 。その最期がどのようなものであったか、今となっては知る由もない。間もなく戦乱の中で命を落としたものと推測されている。
しかし、小島職鎮個人の物語がここで終わっても、「小島一族」の物語は続いていた。職鎮には小島甚介(こじま じんすけ)という嫡男がいたことが知られている 18 。甚介には寺島牛之助(てらしま うしのすけ)という弟がおり、この牛之助はかつての政敵であった寺島氏の養子に入ったと伝えられている 18 。これは、敵対勢力とも縁戚関係を結ぶことで一族のリスクを分散させる、戦国期特有のしたたかな生存戦略の一環であった可能性が高い。
父・職鎮が上杉家への忠義を貫き没落した後、嫡男・甚介は父とは異なる生き残り策を模索したようである。彼は「槻尾秀安(つきお ひでやす)」と名乗り、目まぐるしく変わる越中の支配者に次々と仕えることで、激動の時代に適応しようと試みた 19 。天正9年(1581年)には、上杉方の武将として佐々成政と戦った記録が「寺嶋盛徳・槻尾秀安連署状」に残されている 21 。しかし、その後は佐々成政、そして最終的には越中の新たな支配者となった前田利家に仕えたとされ、その主君遍歴は、親上杉派の父が敗れた後、子が新時代の支配者の下で必死に生き残りを図った苦闘の証左である。
この子の世代の現実的な適応力は、見事に功を奏した。最終的に、小島職鎮の子孫と思われる一族は、江戸時代を通じて越中富山藩の前田家家臣として存続したことが記録されている 1 。
職鎮個人は歴史の舞台から悲劇的に退場したが、一族単位で見れば、彼の物語は決して「失敗」ではなかった。父・職鎮が築いた越中における政治的・軍事的基盤と、子・甚介(秀安)の巧みな処世術。それらが組み合わさることで、小島一族は戦国乱世から近世への大転換を乗り越え、その血脈を未来へと繋ぐことに成功したのである。これは、一族の存続という最大の目的を果たした、見事なサバイバルストーリーであった。
本報告書で詳述してきた通り、小島職鎮は単に「主家を乗っ取った奸臣」という言葉で片付けられる人物ではない。彼は、巨大勢力がひしめく越中という過酷な環境の中で、自らが属する共同体(神保家、そして小島家)の存続を第一に考え、冷徹な政治判断を下し続けた、極めて有能な現実主義者であった。
彼の行動原理は、神保家中の内紛期からその最期まで、驚くほど一貫して「親上杉」という政治路線にあった。政敵・寺島職定の排除も、旧主の子・神保長住との対立も、全てはこの基本戦略を貫徹するための手段であったと解釈できる。彼の生涯は、戦国時代の国衆が、いかに大大名の思惑に翻弄され、またそれを逆手にとって自らの勢力伸張と生き残りを図ったかの典型的な事例と言えるだろう。
その権謀術数の巧みさの一方で、彼には武士としての強固な矜持も見て取れる。尻垂坂の戦いにおける降伏を、玉砕を避けるための戦略的撤退として主君・上杉謙信に認めさせた交渉能力。そして、織田の勢力が圧倒的となり、敗色が濃厚となった中で、なおも上杉家への忠義を貫き、生涯最後の抵抗を試みた富山城襲撃。その生涯は、冷徹なリアリズムと、義理や恩義を重んじる精神性が同居した、複雑で深みのあるものであった。
最終的に、職鎮個人は歴史の奔流の中に姿を消すが、彼の一族は近世大名である富山藩の家臣として存続した。これは、父・職鎮が命がけで築いた基盤と、子・甚介(秀安)の次代への適応力が結実した結果に他ならない。一族の存続という観点から見れば、小島職鎮の生涯は決して「敗北」ではなかった。彼は、自らの代で泥をかぶり、悪評を甘んじて受けることで、一族を未来へと繋いだ、越中戦国史に確かな足跡を遺した権謀の将であったと結論づけることができる。
西暦(和暦) |
小島職鎮の動向 |
越中・中央の関連情勢 |
1528-32年 (享禄年間) |
神保家の使者として越前朝倉氏と交渉を行う 1 。 |
神保長職が父・慶宗の敗死後、神保家の再興に努める。 |
1560年 (永禄3年) |
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上杉謙信が越中に侵攻し、神保長職は富山城を放棄 5 。 |
1568年 (永禄11年) |
親上杉派の筆頭として、反上杉派の寺島職定と対立。これを排除し、家中の実権を掌握する 1 。 |
神保家中で路線対立が激化。寺島派は神保長住を擁立。 |
1572年 (元亀3年) |
5-6月:日宮城に籠城するが、上杉の援軍が敗北(尻垂坂の戦い)。一揆勢と和議を結び開城する 1 。 |
武田信玄に呼応した加賀・越中一向一揆が蜂起。 |
1573年 (天正元年) |
10月:上杉家臣として、狩野道州との連署状を発給する 15 。 |
武田信玄が病死。上杉謙信が越中への影響力を回復。 |
1576年 (天正4年) |
上杉家から「越中衆筆頭」として重用される 1 。 |
上杉謙信が越中・能登をほぼ平定。 |
1578年 (天正6年) |
3月:主君・上杉謙信が死去。後に遺品の太刀を贈られる 1 。 |
謙信の死後、御館の乱が勃発。織田信長の勢力が越中に伸張。 |
1581年 (天正9年) |
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織田方の佐々成政が越中を支配。神保長住が富山城主となる。 |
1582年 (天正10年) |
3月:魚津城の戦いの最中、唐人親広らと富山城を急襲し、神保長住を幽閉。しかし、織田軍に即座に鎮圧される 1 。 |
織田軍が魚津城を包囲。武田勝頼が滅亡(甲州征伐)。 |
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富山城敗走後、佐々成政の越中平定に抵抗を続けるが、その後の消息は不明となる 1 。 |
6月:本能寺の変。魚津城落城。 |
江戸時代 |
子孫と思われる一族が越中富山藩士として存続する 1 。 |
前田氏が越中を領有。富山藩が成立。 |