本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した上野国の武将、小幡信貞の生涯を、現存する史料と近年の研究成果に基づき、包括的かつ詳細に解明することを目的とする。一般に「武田家臣として活躍し、主家滅亡後は北条氏に仕え、最後は真田昌幸の庇護を受けた」という概要で知られるが、その背後には、大国の狭間で翻弄されながらも一族の存続を賭して戦い抜いた国人領主のリアルな姿が浮かび上がる。本報告書では、彼の出自から、武田軍団の中核を担った武勇、主家滅亡後の流転、そして最期に至るまでを多角的に分析し、その歴史的実像に迫る。
小幡信貞という人物を考察する上で、最大の障壁となるのが史料における呼称の不統一である。本報告書の主対象である小幡憲重の子は、史料によって「信実(のぶさね)」 1 、「信真(のぶざね)」 2 、「信貞(のぶさだ)」 4 など、複数の名で記録されている。さらに、家督を継いだ養子(弟・信高の子)は「信定(のぶさだ)」と称し 2 、音が同じであることから、両者の事績はしばしば混同されてきた。
この呼称の変遷は、単なる記録の揺れではなく、彼の流転の生涯そのものを象徴している。父・憲重が当初仕えた関東管領・上杉憲政から「憲」の字を拝領したように 1 、彼もまた主君の変遷と共にその名を変えていった。武田信玄に臣従してからは、信玄から偏諱(主君の名の一字を拝領すること)を受け「信実」を名乗り、後に「信真」と改めたと考えられる 1 。
このような背景を踏まえ、本報告書では、最新の研究動向に基づき、憲重の子を「 小幡信真(信貞) 」と併記し、その家督を継いだ養子を「 小幡信定 」と明確に区別して論を進める。これにより、事績の混同を避け、正確な人物像を提示する。
時期(主君) |
史料に見える呼称 |
官途名 |
典拠史料 |
武田氏臣従初期 |
信実(のぶさね) |
右衛門尉 |
1 |
武田氏配下時代 |
信真(のぶざね) |
上総介 |
2 |
俗称・後世の呼称 |
信貞(のぶさだ) |
上総介 |
4 |
小幡信真(信貞)は、武田二十四将の一人に数えられ、武田軍最強と謳われた「赤備え」の部隊を率いた勇将として、その武威が高く評価されている 5 。しかし、彼の生涯を深く掘り下げると、単なる一武将の武勇伝にとどまらない、より複雑で戦略的な側面が見えてくる。本報告書では、上杉、武田、織田、北条という当代一流の勢力の間を渡り歩き、その都度、家中の枢要な地位を確保し続けた「国衆(国人領主)」としての卓越した生存戦略に光を当てる。彼の選択と決断を通じて、戦国という時代の主従関係の流動性と、地域領主の自律的な生き様を浮き彫りにする。
上州小幡氏は、桓武平氏良文流を汲む武蔵七党の一つ、児玉党の一族にその起源を求めることができる 11 。平安時代末期、秩父行高の子である行頼が、上野国甘楽郡小幡の地を領して郡司となり、小幡氏を称したのがその始まりとされる 11 。鎌倉時代以降、一族はいくつかの系統に分かれながらも、西上野の地に深く根を下ろし、戦国時代には地域に大きな影響力を持つ国衆へと成長した。
小幡氏の本拠地は、現在の群馬県甘楽町に位置する国峯城であった 9 。この城は、標高差244メートルに及ぶ広大な領域に、山城部、丘城部、平城部が一体となった特異な構造を持つ、中世の代表的な大城郭であった 9 。堅固な山城を最終拠点としながら、麓には居館や家臣団の屋敷を配し、領国支配の中心地として機能していた。現在も城跡には、堀切、土塁、石積みといった遺構が良好に残り、往時の姿を偲ばせている 13 。
小幡信真(信貞)の父である憲重の時代、小幡氏は関東管領・山内上杉氏の重臣として、西上野において重きをなしていた。特に、同じく西上野の有力国衆であった箕輪城主・長野業正とは密接な関係を築き、憲重は業正の娘を妻に迎えている 3 。この婚姻関係により、小幡氏は長野氏と共に上杉氏を支える国衆ネットワークの中核を担い、上州八家、あるいは四宿老の一人に数えられるほどの地位を確立していた 9 。
16世紀半ば、関東の政治情勢は激変期を迎える。相模の後北条氏康が勢力を拡大し、天文21年(1552年)、小幡氏の主君であった関東管領・上杉憲政は、本拠地の平井城を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って敗走した 1 。主君の権威が失墜し、関東の支配構造が大きく揺らぐ中で、小幡氏もまた、自らの存亡をかけた重大な岐路に立たされることとなった。
主君・憲政の没落は、小幡一族の内部に深刻な亀裂を生んだ。憲重・信真父子が新たな活路を模索する一方、同族の小幡景定(景純)は、旧主・上杉氏や、上杉方の中核であった長野業正との関係を維持する道を選んだ 17 。この路線対立は武力抗争へと発展し、景定は長野氏の支援を受けて国峯城を占拠、憲重・信真父子は本拠地を追われるという事態に陥った 17 。
この一連の出来事は、単なる主家の衰退や同族間の争いにとどまらず、小幡氏の生き残りを賭けた戦略的な選択の結果であった。庇護者であった上杉氏の権威が失墜し、地域覇権を争う北条氏の圧力が強まる中、さらに一族内の抗争によって本拠地まで失うという三重の危機に直面したのである。この絶望的な状況下で、憲重・信真父子は、西上野への進出を窺っていた甲斐の武田信玄に活路を見出した。
国を追われた「牢人」の身となった父子は、信玄に庇護を求めた 6 。『高白斎記』によれば、天文22年(1553年)9月、信濃の塩田城に在陣していた武田晴信(信玄)のもとに「小幡父子」が出仕したと記録されており、これが憲重・信真父子の臣従を示す最初の史料と考えられている 1 。信玄は、西上野の有力国衆である小幡氏を味方に引き入れることの戦略的価値を高く評価し、父子を温かく迎え入れた。『甲陽軍鑑』には、信玄が父子に信濃国大日向(現在の佐久地方)に五千貫文という破格の所領を与え、再起の足がかりとしたと記されている 19 。この決断が、その後の小幡氏の運命、そして武田軍団における彼らの輝かしい活躍の序章となったのである。
武田氏に臣従した小幡氏は、信玄が推し進める西上野侵攻において、その尖兵たる「西上野先方衆」の筆頭として重要な役割を担った 21 。信玄は、信濃や上野の有力国衆を「先方衆」として軍団に組み込み、彼らが持つ在地での影響力や地理的知識を最大限に活用して領土拡大を図った。小幡氏は、この戦略の中核に位置づけられたのである。
永禄4年(1561年)、信玄の強力な支援を得た信真は、宿敵であった小幡景定が守る国峯城を攻撃し、ついに本領を奪還した 6 。これにより、小幡氏は武田氏の西上野支配における確固たる橋頭堡を築き、その後の武田氏の関東経略において不可欠な存在となった。
永禄10年(1567年)に提出された武田家臣団の忠誠を誓う起請文『下之郷起請文』の分析によれば、信真は甘楽郡のほぼ全域にわたる広大な領域を実質的に管轄していたことが確認できる 2 。さらに、天正8年(1580年)には、当時は北条領であった武蔵国秩父地方の日尾城攻略を命じられ、現地の国衆である黒沢氏に恩賞として所領を与える約束をする判物を発給している 2 。これは、信真が単なる一武将ではなく、方面軍司令官に準ずる権限を与えられていたことを示唆している。
小幡信真(信貞)の名を戦国史に刻みつけた最大の要因は、彼が率いた精鋭部隊「赤備え」の存在である。武具のすべてを朱色で統一したこの部隊は、戦場で際立った存在感を示し、敵に恐怖を与えた 9 。
『甲陽軍鑑』によれば、信真が動員を命じられた兵力は500騎に及び、これは武田家の譜代重臣である高坂昌信(350騎)や馬場信春(120騎)をも凌ぐ、武田家臣団中最大規模の騎馬軍団であった 1 。上野国が古くからの馬の産地であったことも、これほど大規模な騎馬隊の編成を可能にした背景にあると考えられる 25 。その武勇は敵方にも広く知れ渡っており、織田信長の伝記である『信長公記』は、長篠の戦いの記述において小幡勢を「馬上巧者」と特筆している 2 。
その武威を物語る物証として、現在、本拠地であった群馬県甘楽町の歴史民俗資料館には、「小幡氏紋付赤備具足」が所蔵されている。この具足は、胴の背面に丸みを持たせた、乗馬での活動に特化した珍しい様式であり、信真が率いた騎馬軍団の実像を今に伝えている 8 。
信真は、武田軍の主力として数々の主要な合戦に参加し、その名を轟かせた。
小幡氏は、もとは武田氏にとって外様の国衆であった。しかし、その忠誠と武功により、信玄・勝頼の二代にわたって絶大な信頼を獲得し、譜代家臣に準ずる破格の待遇を受けていた。この特別な地位は、武田氏の国衆統制策である「先方衆」制度の成功例であると同時に、小幡氏が単なる軍事力としてだけでなく、政治的にも重要なパートナーと見なされていたことを示している。
『甲陽軍鑑』には、信玄が謀反の気配を見せる木曾義昌を信用できず、代わりに小幡信真を木曾谷に入れることを検討したという逸話が記されており、信真がいかに深く信頼されていたかがうかがえる 2 。
小幡氏の政治的地位を最も象徴するのが、武田一門との緊密な姻戚関係である。信真の姉妹は、信玄の弟・信繁の子であり、一門衆の重鎮であった武田信豊に嫁いだ。さらに、その信豊の娘が、信真の弟・信高の子である信氏(信真の甥)に嫁いでいる 2 。この二重の姻戚関係は、小幡氏が単なる家臣ではなく、武田一門に連なる特別な存在として遇されていたことを明確に物語っている。
信真の義理堅い人柄を伝える逸話も残されている。信玄が、かつての敵方であった箕輪城主・長野業正の娘である信真の正室との離縁を勧め、武田家の譜代の娘を娶るよう促した。しかし信真は、「妻は今や実家も滅び、寄る辺とてない身の上。たとえ御成敗(処罰)を仰せ付けられようとも、離縁することはできませぬ」と、きっぱりと拒絶したという 2 。信玄は、敵将の娘を庇い続ける信真の信義に深く感じ入り、かえって彼を重用し、次の合戦の先手を任せたと言われている。この逸話は、乱世にあって利害だけでなく、人の情や義理を重んじる信真の人間性を浮き彫りにしている。
天正10年(1582年)3月、織田信長の圧倒的な軍事力の前に、名門・武田氏は滅亡の時を迎えた。主家の崩壊という未曾有の事態に際し、小幡信真は迅速に行動した。彼は上野国の有力国衆の中で最も早く、信長の四男・織田勝長を通じて降伏の意を示し、織田氏への従属を決断した 2 。これは、新たな覇者のもとで一族の存続を図る、国衆としての現実的な判断であった。
戦後の領土再編により、上野一国と信濃国の佐久・小県二郡は、織田家の宿老である滝川一益に与えられた。信真は、他の上野国衆と共に一益の与力として配属され、新たな支配体制に組み込まれた 2 。しかし、この織田氏による関東支配は、わずか3ヶ月で脆くも崩れ去る。
同年6月2日、京都で本能寺の変が勃発し、織田信長が横死した。この中央での政変の報は、すぐさま関東にも伝播した。後ろ盾を失った滝川一益に対し、好機と見た相模の後北条氏直が5万を超える大軍を率いて上野国へ侵攻した。両軍は6月19日、武蔵国北部の神流川で激突。この「神流川の戦い」で一益軍は壊滅的な敗北を喫し、一益自身は命からがら本領の伊勢長島へと敗走した 2 。
この戦いの結果、上野国は完全に後北条氏の勢力圏となった。信真は、他の上野国衆と同様に、新たな支配者である北条氏に降伏し、その配下に入った 2 。この一連の動きは、武田遺領をめぐる徳川・北条・上杉の三つ巴の争乱、いわゆる「天正壬午の乱」の幕開けであり、信真もまたその渦中へと投じられていく。乱において、彼は北条軍の先手として、かつての同僚たちが割拠する信濃へ出兵している 2 。
後北条氏の家臣団に組み込まれた小幡氏は、「他国衆」として位置づけられた 2 。これは、北条氏が領土を拡大する過程で支配下に収めた、元来は独立性の高い国人領主たちを指すカテゴリーである。彼らは、譜代の家臣とは区別され、一定の自律性を保持することを認められる一方で、北条氏の軍事指揮系統に組み込まれ、軍役の義務を負った。小幡氏のこの立場は、武田氏における「先方衆」と類似しており、大名権力が在地領主を支配体制に組み込むための一つの形態であった。
後北条氏の支配下において、小幡氏は北関東方面の軍事を統括していた鉢形城主・北条氏邦の「指南」を受ける立場にあった 2 。氏邦は北条氏政の弟であり、方面軍司令官として、上野国衆の統制を担っていた。信真は氏邦の指揮下で、北条氏の対外戦略の一翼を担うこととなった。
天正14年(1586年)頃までの活動を最後に、信真は第一線から退き、家督を養子に譲ったとみられている。後を継いだのは、弟・信高の次男である小幡信定であった 2 。信真に実子がいなかったため、甥を養子として迎えたのである 11 。天正17年(1589年)9月以降、当主として知行を与える文書(知行宛行状)は信定の名で発給されるようになり、世代交代が完了したことが確認できる 2 。
天正18年(1590年)、天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉は20万を超える大軍を動員し、後北条氏の討伐(小田原征伐)を開始した。
後北条氏の総力を挙げた防衛戦において、小幡氏当主となっていた信定は、一族を率いて本城である小田原城に籠城した 7 。しかし、その間、手薄となった本国の守りは、豊臣方の大軍の前に脆くも崩れ去った。北陸道から進軍してきた前田利家・上杉景勝の連合軍が上野国に侵攻し、小幡氏の本拠・国峯城は攻撃を受けて落城したのである 7 。この時、信定の庶兄である小幡信氏が前田軍に投降し、攻城軍の先鋒となって故郷の城を攻めるという悲劇も伝えられている 7 。
同年7月、三ヶ月に及ぶ籠城の末に小田原城は開城し、戦国大名・後北条氏は滅亡した。主家の滅亡と共に、小幡氏もまた本領であった上野国甘楽郡を没収され、数百年にわたって西上野に君臨した国衆としての歴史に終止符を打った 11 。その生涯は、武田・織田・北条という主家の変遷に翻弄されながらも、一族の存続を最優先に行動した上野国衆の典型的な姿であった。同じ武田遺臣でありながら、各大国の間を巧みに渡り歩き最終的に独立大名となった真田昌幸の軌跡と比較すると、国衆が置かれた地政学的な条件や当主の戦略、そして運命の綾が、その後の帰趨を大きく分けたことがわかる。
後北条氏が滅亡し、全ての領地を失った小幡信真(信貞)が最後に頼ったのは、かつて武田家臣として共に戦った旧友、真田昌幸であった 2 。小田原征伐において、昌幸は豊臣方として攻城側にあり、信真(小幡氏)は北条方として籠城側にいた。敵味方に分かれて戦ったにもかかわらず、戦後に昌幸が信真を受け入れたという事実は、両者の間に単なる利害を超えた強固な絆があったことを物語っている。
この絆の背景には、彼らが共に武田信玄配下の「西上野先方衆」として、対上杉の最前線という過酷な状況を長年共有した経験があったと考えられる 21 。同じ釜の飯を食い、生死を共にした「戦友」としての記憶は、主家が滅び、立場が変わった後もなお、色褪せることはなかったのである。この関係性は、戦国時代の人間関係が、主従という縦の繋がりだけでなく、同僚としての横の繋がりによっても強く支えられていたことを示す好例と言える。
昌幸の庇護のもと、信真は信濃国の塩田郷(現在の長野県上田市)に隠棲し、静かな余生を送った 2 。そして天正20年(文禄元年、1592年)、波乱に満ちた生涯を閉じている。享年52であった 6 。
信真の墓所については、明確な定説がない。愛知県新城市の長篠古戦場跡には、長篠の戦いでの戦死説に基づいて後年に建立された墓が存在するが、前述の通り、これは史実とは異なる 4 。一方、一族代々の菩提寺は、本拠地・国峯城の麓にある宝積寺(群馬県甘楽町)であり、現在も境内には小幡氏累代の墓所が残されている 40 。信真の遺骨が故郷に戻り、この菩提寺に葬られた可能性も否定はできないが、その最期の日々を過ごした信濃の地に葬られたと考えるのが自然であろう。
上州小幡氏の宗家は国衆として没落したが、その血脈は途絶えることはなかった。
小幡信真が率いた武田軍団の象徴「赤備え」は、武田氏滅亡後、形を変えて受け継がれていった。徳川家康は、武田氏の旧臣たちを配下に組み入れる際、その多くを徳川四天王の一人、井伊直政に附属させた。そして直政は、武田家の旧制に倣い、部隊の武具を朱色で統一した。これが世に名高い「井伊の赤備え」の誕生である 13 。小幡氏の旧領が徳川譜代の奥平信昌に与えられ、その家臣団が再編される過程で、小幡氏が培った武田流の軍法や武威が、井伊隊へと吸収・継承されていったと考えられる。かつて小幡信真が戦場を駆けた「上州の朱武者」の魂は、徳川最強の精鋭部隊の中に生き続けたのである。
小幡信真(信貞)の生涯を概観すると、そこには武勇に優れた猛将としての顔と、激動の時代を生き抜くために巧みな政治判断を下し続けた国人領主としての顔、二つの側面が浮かび上がる。
武田信玄のもとでは、「赤備え」500騎を率いる最大の先方衆として、三増峠や三方ヶ原といった主要な合戦で武功を挙げ、その武名は敵方にまで知れ渡っていた。外様でありながら武田一門に準ずる厚遇を受けたことは、彼の能力と忠誠が高く評価されていた証左である。
しかし、その生涯は決して順風満帆ではなかった。主君とした上杉氏は没落し、武田氏は滅亡、次いで仕えた織田(滝川)氏は中央の政変で瓦解し、最後に頼った北条氏も天下統一の波にのまれた。彼の主家の変遷は、一個人の忠誠心の問題としてではなく、大国の勢力争いの狭間に置かれた地域領主が、自らの領地と一族を守るために下さざるを得なかった、現実主義的な選択の連続として理解すべきである。
彼の生き様は、戦国時代における主従関係の流動性と、国衆という存在が持つ自律性と戦略性を雄弁に物語っている。天下を争う大名たちの華々しい歴史の陰には、小幡信真のように、時代の荒波に翻弄されながらも、知力と武力、そして時には旧友との絆を頼りに、必死に生き抜いた数多の地域領主たちの存在があった。武田の勇将としての栄光と、流転の末に旧友のもとで静かに生涯を終えるという対照的な姿は、戦国という時代の栄華と無常を、我々に強く印象づけるのである。
西暦 |
和暦 |
年齢(推定) |
主な出来事 |
所属勢力 |
典拠史料 |
1541年 |
天文10年 |
1歳 |
上野国国峯城主・小幡憲重の子として誕生。 |
山内上杉氏 |
2 |
1552年 |
天文21年 |
12歳 |
主君・上杉憲政が北条氏康に敗れ、越後へ敗走。 |
山内上杉氏 |
1 |
1553年 |
天文22年 |
13歳 |
父・憲重と共に国峯城を追われ、武田信玄に臣従。「信実」を名乗る。 |
武田氏 |
1 |
1561年 |
永禄4年 |
21歳 |
武田信玄の支援を受け、国峯城を奪還。 |
武田氏 |
6 |
1567年 |
永禄10年 |
27歳 |
この頃までに家督を相続。史料上の初見(右衛門尉信実)。 |
武田氏 |
2 |
1568年 |
永禄11年 |
28歳 |
「上総介」の官途名を名乗り始める。 |
武田氏 |
2 |
1569年 |
永禄12年 |
29歳 |
三増峠の戦いに参戦。弟・信高が蒲原城攻めで戦死。 |
武田氏 |
2 |
1572年 |
元亀3年 |
32歳 |
三方ヶ原の戦いで先手を務め負傷。弟・昌定が戦死。 |
武田氏 |
2 |
1573年 |
天正元年 |
33歳 |
「上総介信真」を名乗る。 |
武田氏 |
2 |
1575年 |
天正3年 |
35歳 |
長篠の戦いに参戦。負傷するも生還。 |
武田氏 |
2 |
1582年 |
天正10年 |
42歳 |
3月、武田氏滅亡。織田信長(滝川一益)に臣従。 |
織田氏 |
2 |
|
|
|
6月、本能寺の変。神流川の戦いで滝川一益が敗走し、後北条氏に臣従。 |
後北条氏 |
2 |
|
|
|
天正壬午の乱で北条軍の先手として信濃へ出兵。 |
後北条氏 |
2 |
1586年頃 |
天正14年頃 |
46歳頃 |
隠居し、養子の信定に家督を譲る。 |
後北条氏 |
2 |
1590年 |
天正18年 |
50歳 |
小田原征伐。国峯城が落城し、後北条氏滅亡。旧領を失う。 |
(浪人) |
7 |
|
|
|
旧友・真田昌幸を頼り、信濃塩田郷に隠棲。 |
真田氏庇護 |
2 |
1592年 |
天正20年/文禄元年 |
52歳 |
信濃にて病死。 |
- |
6 |