戦国時代の安芸国人領主、小早川正平(こばやかわ まさひら) 1 。彼の名は、毛利元就や小早川隆景といった、後に天下に名を轟かせる武将たちの輝かしい功績の影に隠れ、歴史の表舞台で語られることは少ない。一般に知られる彼の生涯は、大内氏に属しながら尼子氏への内通を企てて失敗し、主君の出雲遠征に従軍するも、その敗走の殿(しんがり)という死地で若くして散った、悲運の武将という印象に留まる 1 。
しかし、彼の生涯を深く掘り下げるとき、我々は単なる一個人の悲劇に留まらない、歴史の大きな転換点を見出すこととなる。彼の死は、安芸国の一勢力に過ぎなかった小早川家に巨大な権力の空白を生み、その空白こそが、隣国の雄・毛利元就による介入を招き、結果として元就の覇業の礎を築くという、皮肉な歴史の連鎖の起点となったのである。
本報告書は、この小早川正平という人物に焦点を当て、その生涯を徹底的に再検証するものである。彼の行動を突き動かしたものは何だったのか。その鍵となるのは、彼の生涯における二つの大きな謎である。第一に、なぜ彼は安芸国の支配者であった大内氏を裏切り、宿敵である尼子氏に通じようとしたのか。第二に、第一次月山富田城の戦いの敗走において、なぜ生還の望みが薄い殿軍という任務を命じられ、そしてそれを受け入れたのか。
これらの問いに答えるため、本報告書は三部構成でその実像に迫る。第一部では、正平が生きた時代の政治的・地理的・経済的背景を解き明かし、彼が置かれた過酷な状況を明らかにする。第二部では、彼の運命を決定づけた二つの大きな決断、すなわち尼子氏への内通未遂と、殿軍の受諾という行動の深層を、史料に基づき多角的に分析する。そして第三部では、彼の死がもたらした権力の空白が、いかにして毛利元就の台頭と、後の「毛利両川」体制の確立へと繋がっていったのか、その歴史的因果関係を詳細に追跡する。
小早川正平の短い生涯は、戦国中期における国人領主の苦悩と生存戦略の縮図であると同時に、一個人の死が、意図せずして新たな時代の扉を開く触媒となり得るという、歴史のダイナミズムを我々に示している。
西暦(和暦) |
正平の年齢 |
主要な出来事(小早川正平、小早川氏、大内氏、尼子氏、毛利氏) |
典拠・関連史料 |
1523年(大永3年) |
1歳 |
小早川興平の長男として生まれる。幼名は又太郎。 |
1 |
1526年(大永6年) |
4歳 |
父・興平の死去により、沼田小早川家の家督を継承。 |
1 |
1539年(天文8年) |
17歳 |
主君である大内義隆を裏切り、尼子晴久への内通を画策するも事前に露見。居城・高山城を大内軍に占拠され、監視下に置かれる。 |
1 |
1542年(天文11年) |
20歳 |
大内義隆が尼子氏討伐のため出雲へ遠征(第一次月山富田城の戦い)。正平もこれに従軍する。 |
1 |
1543年(天文12年) |
21歳 |
5月7日、大内軍が月山富田城から総退却を開始。義隆より殿軍を命じられる。 |
5 |
1543年(天文12年) |
21歳 |
5月9日、出雲国鳶巣川にて尼子軍の追撃を受け、奮戦の末に討死。享年21。戒名は成就寺天秀祖佑。 |
1 |
1543年(天文12年) |
- |
正平の死後、長男の繁平(当時2歳)が家督を継ぐ。 |
6 |
1550年(天文19年) |
- |
毛利元就と大内義隆が小早川家の家督に介入。繁平は追放され、反対派の家臣・田坂全慶らは誅殺される。 |
3 |
1551年(天文20年) |
- |
毛利元就の三男・小早川隆景が、正平の娘・問田大方と婚姻し、沼田・竹原両小早川家を統一して当主となる。 |
3 |
小早川正平の行動原理を理解するためには、まず彼が背負っていた「小早川氏」という家の歴史的背景と、彼が生きた安芸国(現在の広島県西部)の地政学的な特質を把握する必要がある。
小早川氏の出自は、相模国(現在の神奈川県)の有力武士であった土肥氏に遡る 8 。鎌倉時代初期、土肥実平の子・遠平が平家追討の功により安芸国沼田荘の地頭職を与えられ、この地に下向したのが始まりとされる 8 。以来、小早川氏は安芸国に深く根を張り、名門としての地位を築き上げた。この由緒ある家柄は、後の家督継承問題において、一部の家臣が外部からの介入に強く反発する精神的な支柱となった。
室町時代に入ると、小早川氏は惣領家である 沼田小早川氏 と、分家である 竹原小早川氏 に分立する 3 。正平の家系は、本拠地である高山城に拠る沼田小早川氏であり、本家筋にあたる 3 。しかし、分家の竹原小早川氏も瀬戸内海の水運などを通じて勢力を拡大し、室町時代中期には本家と拮抗するほどの力を持つに至った 3 。この両家の分立と、時には対立も含む複雑な関係性が、のちに毛利元就が介入する隙を生む遠因となった。
沼田小早川氏の経済的・軍事的基盤の中核を成していたのが、本拠地である 高山城 (国指定史跡)と、その麓を流れる 沼田川 であった 9 。高山城は、沼田川流域を一望できる天然の要害であり、300年以上にわたって小早川氏の支配の拠点として機能した 9 。そして沼田川は、当時、瀬戸内海の海水が現在よりも深く内陸まで入り込んでいたため、物資や兵員を輸送する上で極めて重要な水路であった 14 。この水運を掌握することが、小早川氏の経済力と、彼らが有したとされる強力な水軍の源泉だったのである 9 。
しかし、16世紀の安芸国は、一国人領主が安穏としていられる土地ではなかった。西の周防国(現在の山口県)を本拠とする 大内氏 と、東の出雲国(現在の島根県東部)を本拠とする 尼子氏 という、二つの巨大勢力が中国地方の覇権を巡って激しく争う最前線であった 18 。小早川氏や毛利氏のような安芸の国人領主(国衆)たちは、この二大勢力の狭間に置かれ、常にどちらの陣営に与するかという厳しい選択を迫られる運命にあった 22 。彼らは自らの領地と一族の存続を図るため、時には国人同士で「
国人一揆 」と呼ばれる盟約を結び、団結して大勢力に対抗することもあった 24 。
この文脈において、小早川正平の行動は、単なる大内氏の一家臣としてではなく、自らの判断で家の浮沈を賭ける「自立した国人領主」としての側面から捉える必要がある。大内氏の支配は絶対的なものではなく、国人衆の自立性をある程度認めた上での間接的なものであった 27 。それゆえに、国人領主がより有利な条件を求めて主君を乗り換えることは、戦国乱世の生存戦略として決して珍しいことではなかった。正平の悲劇は、彼がこの国人領主としての合理的な判断に基づいた行動に打って出たものの、その企てが失敗に終わった点にあると言えよう。
小早川正平の治世は、多難な状況下で始まった。父・興平は天文13代当主・扶平に続く早世であり、22歳という若さでこの世を去った 9 。その結果、正平はわずか3歳(数え年、以下同様)で沼田小早川家の家督を相続することになる 1 。相次ぐ当主の夭折は、家中の統制に動揺をもたらし、政治的な不安定さを内包していたことは想像に難くない。
さらに深刻だったのは、小早川氏の経済基盤そのものが揺らぎ始めていたことである。前章で述べた通り、沼田小早川氏の繁栄は、沼田川の水運と、その河口に位置する港湾機能によって支えられていた。中世において、港湾の支配は交易による利益や関税収入をもたらす重要な経済基盤であった。しかし、この時期の沼田川下流域では、上流からの土砂の堆積によって沖積平野が拡大し、海岸線が後退する「海退」現象が進んでいた 15 。
この地理的変化は、高山城下の港の機能を著しく低下させ、沼田小早川家は「収益の拠点を失いつつあった」のである 28 。経済基盤の弱体化は、家臣団を維持する力を削ぎ、軍事力の低下に直結する。正平が当主として采配を振るい始めた頃には、この経済的苦境は看過できない問題となっていた可能性が高い。
このように、正平の治世は、幼君の下での政治的な不安定さと、海退という地理的要因に起因する経済的な衰退という、二重の危機に直面していた。この閉塞した状況を打破するため、彼はより大胆な政治的決断、すなわち、当時勢力を拡大していた尼子氏に新たな活路を見出すという危険な賭けへと駆り立てられていったと考えられる。彼の行動は、単なる若さゆえの野心や気まぐれではなく、没落しつつある一族を再興させようとする、追い詰められた当主による必死の策であったと評価することも可能であろう。
カテゴリ |
人物名 |
正平との関係 |
備考 |
主君 |
大内義隆 |
正平が当初属した主君。後に正平に殿軍を命じる。 |
周防・長門などを支配する西国最大の戦国大名。 |
敵対勢力 |
尼子晴久 |
正平が内通を試みた相手。出雲の戦国大名。 |
大内氏と中国地方の覇権を争う。 |
同盟・被官 |
毛利元就 |
当初は同じ大内傘下の安芸国人領主。 |
正平の死後、小早川家の家督問題に介入。 |
家族 |
小早川興平 |
父。22歳で早世。 |
9 |
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小早川繁平 |
嫡男。正平の死後、2歳で家督を継ぐ。 |
幼少かつ盲目であったとされる。 |
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問田大方 |
娘。後に小早川隆景の正室となる。 |
1 |
親族 |
平賀隆保 |
従弟。大内義隆の介入により平賀氏を継ぐ。 |
1 |
家臣 |
田坂全慶 |
沼田小早川家の筆頭家老。繁平の後見人。 |
隆景の家督相続に反対し、後に誅殺される。 |
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乃美宗勝 |
小早川家臣。 |
親毛利派として隆景擁立に動く。 |
関係者 |
小早川隆景 |
毛利元就の三男。正平の娘婿となり家督を継ぐ。 |
毛利両川の一人として毛利家を支える。 |
天文8年(1539年)、17歳になった小早川正平は、人生最初の、そして最大の賭けに出る。主君である大内義隆を裏切り、その宿敵である尼子晴久へ味方を変えようと画策したのである。しかし、この密約は事前に大内方に露見してしまう。激怒した義隆はただちに軍を派遣し、正平の居城である高山城は占拠された。正平自身も軟禁状態に置かれ、城には大内氏の城番が常駐するという、事実上の監視下に置かれることとなった 1 。
この事件の背景には、当時の安芸国を巡る複雑な情勢があった。第一に、大内義隆は安芸国内の国人衆に対する統制を強化しようと試みていた 27 。厳島神社の権益への介入や 30 、平賀氏の家督相続への強引な介入 31 などは、国人衆の自立性を脅かし、彼らの間に不満と反発を燻らせていた。
第二に、尼子晴久は父・経久の代からの勢力拡大路線を継承し、安芸・備後方面へ頻繁に侵攻を繰り返していた 18 。尼子氏は、大内氏の支配に不満を持つ国人衆にとって、魅力的な「受け皿」として存在感を示していたのである 34 。
第三に、安芸国人衆の内部は一枚岩ではなかった。例えば平賀氏では、大内方につく父・弘保と尼子方に与する子・興貞が内紛を繰り広げるなど、情勢は極めて流動的であった 18 。正平の内通計画も、こうした安芸国全体の動揺という大きな潮流の中で起こった出来事であった。
したがって、正平の内通未遂は、彼個人の野心や失敗という側面以上に、大内氏による安芸国人統制策の限界と、国人衆の間に潜在していた自立志向が表面化した、象徴的な事件と評価できる。この事件の失敗と高山城への城番設置は、大内氏による他の国人衆への強烈な「見せしめ」となった。これにより、表面的には大内氏の支配が強化され、後の出雲遠征への国人衆の動員を容易にした側面はあったかもしれない。しかし、それは同時に、国人衆の心中に大内氏へのさらなる不信と遺恨を深く刻み込むことにもなったのである。
天文10年(1541年)、尼子軍による毛利氏本拠・吉田郡山城への侵攻を、大内氏の援軍を得て撃退した毛利元就の活躍は、中国地方の勢力図を大きく動かした(吉田郡山城の戦い) 4 。この勝利に勢いを得た大内義隆は、長年の宿敵である尼子氏を完全に滅ぼすべく、その本拠地である出雲・月山富田城への大規模な遠征を決意する 4 。
天文11年(1542年)、義隆自らが総大将となり、安芸・周防・石見などの国人衆を動員した大軍勢が出陣した 4 。この軍勢の中に、小早川正平の姿もあった 1 。3年前の内通未遂事件で赦免されていた彼にとって、この従軍は、主君への汚名を返上し、改めて忠誠を証明するための、拒否権のない絶対的な命令であった。
しかし、この遠征は当初の楽観的な見通しとは裏腹に、大内軍にとって悪夢のような戦いとなる。出雲の入口にあたる赤穴城の攻略に数ヶ月を要するなど進軍は遅滞 4 。月山富田城を包囲してからも、尼子軍の巧みなゲリラ戦術によって兵站線は寸断され、兵糧不足に苦しんだ 4 。さらに決定的だったのは、戦況の不利を悟った出雲の国人衆(三刀屋氏など)が、次々と大内方から離反し、再び尼子方へ寝返ったことであった 4 。寄せ集めの大軍の脆弱性が露呈し、大内軍は完全に戦意を喪失した。
天文12年(1543年)5月、義隆はついに全軍退却を決断する。この絶望的な状況下で、義隆は小早川正平に対し、全軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ「殿(しんがり)」を命じたのである 1 。
殿軍とは、退却する本隊を無事に逃がすため、文字通り命を懸けて敵の追撃を食い止める、最も過酷で生還の望みが薄い任務である 39 。この死地ともいえる役目を、かつて裏切ろうとした正平に命じた義隆の采配には、戦国大名らしい冷徹な政治的計算が透けて見える。
これは、4年前の内通未遂に対する「懲罰」であった。この命令に従い戦死すれば、それは事実上の処刑となり、義隆の権威は保たれる。同時に、それは正平にとって「名誉回復の機会」でもあった。もし万一、この任務を完遂し生還すれば、彼の汚名は完全に雪がれ、比類なき忠臣として賞賛されるだろう。義隆は正平に「忠誠を示す最後の機会を与えた」という大義名分を立てることができた。
一方、正平にとってこの命令を拒否することは、再び大内氏に反旗を翻すことを意味し、今度こそ一族もろとも滅ぼされることは必定であった。彼に選択の余地はなかった。自らの命と引き換えに、小早川家の存続と、国元に残してきた幼い息子・繁平の将来を託す。それが、彼にできる唯一の選択だったのである。
大内軍の総退却が始まると、勢いに乗る尼子軍は猛烈な追撃を開始した。殿軍を命じられた小早川正平の部隊は、この追撃を一身に受け止め、出雲国鳶巣川(現在の島根県出雲市)のほとりで尼子軍と激しく衝突した 2 。
後世の軍記物語である『陰徳太平記』巻第十四「小早川正平討死之事」は、この時の正平の奮戦ぶりを伝えている 5 。圧倒的な敵軍を前に、正平はわずかな手勢を率いて死力を尽くして戦った。しかし、衆寡敵せず、天文12年5月9日、尼子軍の猛攻の前に力尽き、21歳という若さでその生涯を閉じた 1 。彼の死は、この遠征における大内軍の壊滅的な敗北を象徴する出来事となった。
この悲劇的な最期は、後世に一つの伝説を生んでいる。敗走の途中、疲労困憊した正平一行が鳶巣村の富豪・中村家に食料を乞うたが、災いを恐れた主人に断られ、失意のうちに山中へ逃れた後、全員が自害したというものである 41 。この話の真偽は定かではないが、彼の死の悲劇性が、地域の人々の記憶に深く刻まれていたことを物語っている。
小早川正平の死は、単なる一武将の戦死ではなかった。それは、その後の中国地方の歴史を大きく動かす「ドミノの最初の一枚」であった。第一に、有力国人である小早川家の当主を守りきれなかった(あるいは見殺しにした)事実は、大内氏の権威を著しく失墜させ、他の安芸国人衆の心に大内氏への決定的な不信感を植え付けた。
第二に、大内義隆自身もこの大敗と、同じ撤退戦で寵愛する養嗣子・大内晴持を海難事故で失ったことにより 5 、心身ともに打ちのめされ、政治への意欲を急速に失っていく。これが、8年後の家臣・陶晴賢による謀反(大寧寺の変)と大内氏滅亡の遠因となる 42 。
そして最も直接的かつ重大な影響は、安芸国の有力勢力である小早川本家に、巨大な権力の空白を生み出したことであった。この空白こそ、虎視眈々と機会を窺っていた隣国の智将・毛利元就が介入するための、またとない好機となったのである。もし正平がこの戦いを生き延びていたならば、元就による小早川家の乗っ取り計画は、これほど巧妙かつ容易には進まなかったであろう。正平の死は、歴史の歯車を大きく回転させるきっかけとなったのである。
小早川正平の戦死により、沼田小早川家は最大の危機を迎える。家督を継いだのは、正平の嫡男・繁平(幼名:又鶴丸)であったが、その年齢はわずか2歳に過ぎなかった 6 。さらに不幸は重なり、繁平は天文13年(1544年)頃、病によって失明したと伝えられている 3 。幼少かつ盲目という当主の身体的弱点は、尼子氏の侵攻という外的脅威に晒される小早川家中の動揺を一層深刻なものにした。(ただし、繁平の失明については、後の家督介入を正当化するための口実であったとする異説も存在する 6 )。
この好機を逃さず、尼子晴久は天文12年から13年にかけて高山城へ侵攻する 6 。しかし、この時点では小早川家の家臣団はまだ結束を保っており、幼い繁平を奉じて籠城戦を戦い抜き、見事に尼子軍を撃退している 6 。これは、小早川家の地力の強さを示すと同時に、外部からの介入がなければ、家中の結束は維持されていた可能性を示唆している。
しかし、この状況を一変させたのが、毛利元就の巧みな調略であった。元就は、この権力の空白を見逃さなかった。彼は、かねてより毛利氏と誼を通じていた乃美宗勝や梨子羽宣平といった小早川家中の親毛利派の家臣を巧みに抱き込み、分家の竹原小早川家当主であり、元就の三男である隆景を新たな当主として擁立させようとする動きを画策した 45 。
これに対し、正平の代からの筆頭家老であり、繁平の後見人でもあった田坂全慶(義詮)を中心とする一派は、小早川氏の血統を重んじ、この動きに真っ向から反対した 3 。これにより、小早川家中は隆景擁立派と繁平支持派に真っ二つに分裂し、深刻な内紛状態に陥った。
最終的に、天文19年(1550年)、元就は小早川氏の主君である大内義隆を動かし、共同でこの家督問題に介入する。そして「繁平が尼子氏と内通した」という、かつてその父・正平が実際に行った行為を口実に、繁平を当主の座から追放し、その身柄を拘束した 6 。この電撃的なクーデターに最後まで抵抗した田坂全慶ら反対派の重臣たちは、ことごとく誅殺された 3 。
元就のこの一連の策略は、彼が「謀神」と称される所以を如実に示している。彼は単独の武力で小早川家を制圧したのではない。まず、主君である大内義隆の権威を巧みに利用し、「盲目の当主では尼子の侵攻を防げない」というもっともらしい理由を掲げて介入の大義名分を確保した 6 。次に、家中の親毛利派を支援して内部分裂を煽り、小早川家が自力で問題を解決できない状況を作り出した 45 。そして最後に、真実味を帯びた「尼子内通」という罪状でとどめを刺した。直接的な武力行使を最小限に抑え、大義名分と内部調略を駆使して、安芸国の有力国人である小早川家を完全に手中に収めたのである。
天文20年(1551年)、毛利元就による周到な計画の総仕上げが行われた。既に分家の竹原小早川家を継いでいた元就の三男・小早川隆景が、追放された繁平の妹、すなわち正平の娘である問田大方と婚姻を結び、本家である沼田小早川家の家督をも継承したのである 3 。これにより、長年分立していた両小早川家は、毛利氏の血を引く隆景の下で再統一された。
この家督相続は、正平の父祖から鎌倉時代より続いてきた沼田小早川氏の男系の血筋が、事実上ここで途絶えることを意味した 3 。当主の座を追われた繁平は出家させられ、毛利氏の庇護下で静かな余生を送り、天正2年(1574年)に33歳の若さでその生涯を終えた 6 。
小早川家の乗っ取りは、毛利氏の発展にとって決定的な意味を持った。これに先立ち、元就は次男の元春を安芸の有力国人・吉川家の養子として送り込んでおり 52 、ここに吉川元春と小早川隆景が毛利本家を両翼から支える「
毛利両川 」体制が完成した 3 。この強固な一門体制の確立により、毛利氏は安芸国内の諸勢力を完全に掌握し、中国地方の覇権を争う戦国大名へと飛躍するための盤石な支配体制を築き上げたのである。
特に、小早川家を継承したことの最大の戦略的価値は、彼らが有していた強力な 水軍 を手に入れたことであった 9 。山間部の国人領主であった毛利氏にとって、瀬戸内海の制海権を握ることは長年の課題であった。隆景が小早川水軍を掌握したことで、この課題は一挙に解決された。
その効果が遺憾なく発揮されたのが、毛利氏の運命を決した弘治元年(1555年)の 厳島の戦い である。この戦いで隆景は、小早川水軍を率いて瀬戸内最強と謳われた村上水軍を味方に引き入れることに成功。陶晴賢率いる大内方の大軍を厳島に誘い込んだ上で、その退路を完全に海上封鎖した。これにより、元就率いる毛利本隊による奇襲攻撃は完璧な成功を収め、毛利氏は歴史的な大勝利を手にしたのである 17 。
小早川正平の死から始まった一連の出来事は、ここに毛利氏の覇権確立という形で結実した。正平の戦死という「偶然」が、元就の「謀略」を誘発し、その結果として小早川水軍の「獲得」へと繋がった。この水軍力がなければ、厳島の戦いにおける勝利はあり得なかったであろう。正平の悲劇は、皮肉にも毛利氏の栄光の序曲となったのである。
小早川正平の生涯は、戦国時代中期における安芸国人領主の過酷な現実を体現している。彼は、大内・尼子という二大勢力の狭間で、家の存続と再興をかけて苦闘した。しかし、尼子への内通という起死回生の策は失敗に終わり、主君への忠誠を示そうとした最後の戦いで、21年の短い生涯を閉じた。彼の試みはことごとく裏目に出て、その志が果たされることはなかった。
しかし、歴史の皮肉は、彼の死後にこそ現れる。正平自身の意図とは全く無関係に、彼の死は、隣国で静かに力を蓄えていた毛利元就に千載一遇の好機をもたらした。正平が戦死せず、あるいは彼の子・繁平が健常な当主として家を継いでいたならば、小早川家が毛利氏に吸収されることはなく、「毛利両川」体制も、厳島の戦いにおける水軍の活躍も、その後の毛利氏の中国地方制覇も、歴史は全く異なる様相を呈していたかもしれない。
小早川正平は、自らが望む未来をその手で築くことはできなかった悲劇の当主である。だが、彼の死という一つの出来事が引き金となり、権力の空白、智将の介入、そして新体制の構築という歴史の連鎖が生まれた。結果として、彼は毛利氏という新たな時代の主役を創り出す「意図せざる設計者」の役割を果たしたと言える。彼の存在なくして、その後の中国地方の歴史を正確に語ることはできない。小早川正平の短い生涯は、個人の意志や運命を超えた歴史の大きな潮流と、一つの悲劇が新たな時代の幕開けを告げるという、歴史の非情さとダイナミズムを我々に強く示唆している。