小梁川盛宗は伊達三代を支えた智勇の将。高畠城主として活躍し、元亀の変を乗り越え、政宗の最高顧問「泥蟠斎」として献策。伊達家の激動期を京都で終えた。
戦国時代の奥州にその名を轟かせた伊達家。その栄光は、独眼竜として知られる伊達政宗一人の力によって築かれたものではない。彼の父・輝宗、祖父・晴宗の時代から、幾多の優れた家臣たちがその礎を築き、主家を支えてきた。片倉景綱や伊達成実といった政宗世代の驍将が脚光を浴びる一方で、彼らとは異なる世代、異なる立場で伊達家の屋台骨を支え続けた重臣たちがいた。本報告書が光を当てるのは、まさにそうした人物の一人、小梁川中務盛宗(こやながわ なかつかさ もりむね)である。
大永3年(1523年)に生を受け、文禄4年(1595年)に没するまで、盛宗は伊達晴宗、輝宗、政宗という激動の三代にわたり、伊達家の中枢で重きをなした 1 。彼は「勇武に秀でた謀臣」と評され、ある時は戦場の先鋒として武功を挙げ、またある時は若き主君の側近くで策を献じる老練な相談役として、その生涯を伊達家に捧げた。
本報告書では、まず彼の出自である伊達氏一門・小梁川氏の系譜を解き明かし、彼がいかにして家中の重臣としての地位を確立したかを探る。次いで、輝宗、政宗の各時代における具体的な活躍を、史料に基づき時系列で丹念に追う。特に、彼のキャリアにおける最大の危機であった「元亀の変」や、最上氏、大内氏との合戦における働き、そして晩年に「泥蟠斎(でいはんさい)」と号してからの政宗との関係性に焦点を当てる。これにより、単なる武将という一面的な評価にとどまらない、政治家、教養人としての一面をも含めた、小梁川盛宗の多角的な実像を明らかにすることを目的とする。
なお、伊達家の庶流である小梁川氏には、本稿の主題である盛宗の曾祖父にあたり、小梁川氏の祖となった室町時代の同名の人物、小梁川盛宗(1440年 - 1500年)が存在する 2 。本報告書で扱うのは、あくまで大永3年生まれの戦国時代の盛宗であることを、冒頭で明確にしておきたい。
小梁川盛宗という人物を理解するためには、まず彼が属した「小梁川氏」が伊達家の中でいかなる位置を占めていたかを知る必要がある。彼の地位と影響力は、個人の能力のみならず、その出自と血縁に深く根差していた。
小梁川氏は、藤原北家山蔭流を本姓とし、伊達家第11代当主・伊達持宗(1393年 - 1469年)の三男(一説に四男)である初代盛宗に始まる 2 。初代盛宗は、陸奥国伊達郡梁川(現在の福島県伊達市梁川町)の地に分家し、地名をとって小梁川氏を称した 4 。この出自は、小梁川氏が単なる家臣ではなく、伊達宗家から直接分かれた、極めて血縁の濃い一門であったことを示している。
この高い血統的権威は、後の仙台藩体制においても「御一家」という最高の家格として保障された 6 。御一家は、藩主の一族として特別な待遇を受け、大番頭や奉行職といった藩の要職を歴任する家系であった 6 。盛宗の活躍の背景には、このような一族が持つ、揺るぎない家格と権威が存在したのである。
本稿の主題である小梁川盛宗は、大永3年(1523年)、小梁川親宗(尾張守)の子として生を受けた 1 。彼の父・親宗もまた、伊達家の内訌である「天文の乱」において伊達晴宗方に与して功績を挙げた人物であった 5 。
しかし、盛宗の地位を決定的にしたのは、彼自身の能力や父の功績以上に、伊達家第15代当主・伊達晴宗の娘を正室に迎えたことであった 1 。これにより、盛宗は主君・晴宗の婿、そして次代当主となる輝宗にとっては義理の弟(輝宗の妻・義姫が最上氏出身であるため、輝宗から見れば姉妹の夫)という極めて強力な姻戚関係を築き上げた。
この血縁関係は、彼の生涯にわたるキャリアの基盤となった。家中での発言力は増し、他の家臣とは一線を画す特別な立場を得た。そして、この「当主の婿」という立場こそが、後に彼の身を襲う最大の危機において、彼を失脚から救う命綱の役割を果たすことになる。盛宗の生涯は、武将としての能力と、伊達宗家との血縁という二つの強力な要素によって、常に支えられていたと言える。
一族内の複雑な人間関係を整理するため、以下に戦国期の小梁川氏の主要な人物関係を略系図として示す。特に、本稿の主題である盛宗と、同時代に活躍し「元亀の変」で討死した小梁川宗秀との関係性を明確にすることは、後の章の理解に不可欠である。
家系 |
人物名 |
続柄・関係 |
主要な動向・備考 |
小梁川氏祖 |
伊達持宗 |
伊達家第11代当主 |
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↓ |
初代 小梁川盛宗 |
持宗の三男。小梁川氏の祖 |
室町時代の人物(1440-1500) |
親朝系 |
小梁川親朝 |
初代盛宗の長男 |
永正11年(1514年)、長谷堂城の戦いで活躍 5 |
↓ |
小梁川親宗 |
親朝の子。尾張守 |
本稿の主題・盛宗の父 。天文の乱で晴宗に仕える 5 |
↓ |
小梁川盛宗(泥蟠斎) |
親宗の子 |
本稿の主題 (1523-1595)。晴宗の婿。輝宗・政宗に仕える |
↓ |
小梁川宗重 |
盛宗の子 |
父の跡を継ぎ、一家の家格となる 1 |
宗朝系 |
小梁川宗朝 |
初代盛宗の二男 |
天文の乱で稙宗を救出し、殉死した智将 5 |
↓ |
小梁川宗秀 |
宗朝の子 |
元亀の変(1570年)で中野宗時討伐軍の先鋒を務め、討死 10 |
この系図が示す通り、本稿の主題である盛宗は「親朝系」、元亀の変で討死した宗秀は「宗朝系」であり、同じ小梁川一門でも異なる家系に属していた。この事実は、一族が一枚岩ではなかった可能性を示唆し、「元亀の変」における一族内の異なる動きを理解する上で重要な鍵となる。
伊達輝宗が家督を継承した時代、小梁川盛宗はそのキャリアの全盛期を迎える。彼は伊達家の西の守りを固める最前線の指揮官として武功を重ねる一方、家中を揺るがす政争に巻き込まれ、キャリア最大の危機に直面することになる。この時期の彼の動向は、単なる武人ではない、政治的な駆け引きにも長けた人物像を浮き彫りにする。
盛宗は伊達晴宗の代から伊達氏に仕え、天文の乱が終結し、晴宗が本拠を米沢城に移した後に、出羽国置賜郡の高畠城を与えられていた 2 。高畠城は、米沢盆地の南部に位置し、伊達領の西の玄関口とも言うべき戦略的要衝であった。その向こうには、長年にわたり伊達家と抗争を繰り広げてきた宿敵・最上氏の領土が広がっていた 13 。
このような国境の最前線にある重要拠点を任されたという事実は、伊達家が盛宗の武勇と忠誠心に絶大な信頼を寄せていたことの何よりの証左である。彼は単に知行地を与えられた領主ではなく、対最上氏政策の最前線を担う軍事司令官としての重責を担っていたのである。
盛宗の軍事司令官としての能力が遺憾なく発揮されたのが、天正2年(1574年)に勃発した「天正最上の乱」であった。この内乱は、最上家の当主・最上義光と、隠居した父・義守との間で起こった家督争いであり、伊達輝宗は義父である義守を支援するため、軍事介入を決定した 15 。
輝宗はこの重要な軍事行動の先鋒として、盛宗を指名した。同年1月、輝宗の命を受けた盛宗は、高畠城から出陣し、最上義光方に与した武将・里見民部が守る上山城を攻撃した 5 。この攻撃は熾烈を極め、結果として上山城主は伊達方に降伏したとも伝えられている(ただし、降伏はなかったとする史料も存在する) 15 。
この一連の活躍は、後述する「元亀の変」での失態からわずか4年後の出来事である。この事実は、盛宗が輝宗の信頼を完全に取り戻し、伊達軍の主要な軍事作戦を担う筆頭指揮官の一人として、再びその地位を確立していたことを明確に示している。一度は主君の怒りを買ったものの、彼の武将としての価値と能力は、輝宗にとって依然として不可欠なものであったことが窺える。
輝宗の時代、盛宗が直面した最大の試練は、元亀元年(1570年)に発生した「元亀の変」であった。この事件は、伊達家の権臣・中野宗時が起こしたクーデター未遂事件であり、盛宗はこの政争の渦に深く巻き込まれることとなる。
事件の背景には、伊達晴宗の時代から絶大な権力を握っていた中野宗時と、家臣団の権力を抑制し当主親政を目指す若き輝宗との深刻な対立があった 18 。対立が頂点に達した元亀元年4月、宗時の謀反計画が露見。追い詰められた宗時は一族郎党を率いて居城の小松城に籠城した後、伊達領を脱出し、敵対する相馬氏のもとへ出奔した 20 。
この際、盛宗は白石宗実、田手宗光らと共に、自らの知行地の近くを通過する宗時の一党を阻止せず、結果として見逃してしまう 20 。この「敵将の逃亡幇助」とも取れる行動は、主君である輝宗を激怒させた 1 。輝宗がこの一件をいかに重大な裏切りと見なしたかは、想像に難くない。
この事件をさらに複雑にしているのが、同じ小梁川一門の武将・小梁川宗秀の存在である。盛宗の親族(初代盛宗の孫同士)にあたる宗秀は、この元亀の変において輝宗の討伐命令を受け、中野宗時が籠る小松城攻撃の先鋒を務めた。そして、その戦闘の最中に奮戦むなしく討死を遂げている 5 。同じ一族でありながら、一方は「謀反人を見逃した」とされ、もう一方は「謀反人と戦い討死した」という対照的な結果は、小梁川一門が置かれた苦しい立場を物語っている。
主君の逆鱗に触れ、一族からは忠義の犠牲者も出ている。盛宗の立場は絶体絶命であった。しかし、彼は失脚を免れる。その背景には、二つの重要な要因があった。一つは、輝宗の腹心であった遠藤基信の現実的な進言である。基信は、中野宗時に同調する勢力が伊達・信夫郡に未だ多く、下手に盛宗ら重臣を粛清すれば家中のさらなる動揺を招くと判断し、厳罰を主張する輝宗を諌めたとされる 20 。
そしてもう一つの、そしてより決定的な要因が、盛宗の血縁であった。『伊達治家記録』によれば、輝宗の父であり、盛宗にとっては舅にあたる隠居の晴宗が、自ら盛宗の赦免を懇願したという 20 。輝宗とて、父の願いと、義理の弟という関係を完全に無視することはできなかった。事件から約半年後の同年9月、盛宗は白石宗利らと共に正式に赦免された 21 。
この一連の出来事は、盛宗が単なる武辺者ではなかったことを雄弁に物語る。彼がなぜ宗時を見逃したのか、その真意は史料には記されていない。しかし、晴宗政権の重鎮であった宗時と事を構えることが、伊達家中を二分する深刻な内乱に発展しかねないと判断し、あえて「見逃す」という高度に政治的な選択をした可能性は十分に考えられる。それは、目先の軍令遵守よりも、伊達家全体の安定を優先した結果であったかもしれない。この危機を乗り切った彼の処世術は、武勇だけではない、複雑な政局を読み解く「謀臣」としての側面を強く印象付けるものである。
天正13年(1585年)、父・輝宗が二本松城主・畠山義継に拉致され、非業の死を遂げるという衝撃的な事件を経て、伊達政宗が19歳の若さで家督を継承した。この主家の代替わりを機に、小梁川盛宗の役割もまた、大きな転換点を迎える。彼は武勇を誇る第一線の指揮官から、若き主君を導く老練な後見役へと、その立場を変えていくのである。
輝宗の死後、盛宗は63歳という老齢を理由に第一線から退き、隠居して「泥蟠斎(でいはんさい)」と号した 1 。しかし、これは決して権力の中枢から離れることを意味しなかった。むしろ、彼は政宗の側近くにあって重要な政策決定に関与する「談合衆(だんごうしゅう)」の一員となり、その豊富な経験と知見をもって若き主君を補佐する、新たな役割を担うことになったのである 5 。
「泥蟠」という号は、龍が泥の中に蟠(とぐろを巻いて)潜み、天に昇る機会を窺っている様を指す言葉である。これは、老いてなお大志を抱き、時節を待つという、彼の気概と自負を示す雅号であったと言えよう。
盛宗の隠居が名目的なものであったことは、その直後の行動が証明している。政宗が家督を継いで最初に取り組んだ大きな戦の一つが、蘆名氏と結んで伊達家に反旗を翻した小浜城主・大内定綱の討伐であった。この重要な戦において、隠居したはずの盛宗は、原田宗時らと共に刈松田城(現在の福島県二本松市)近辺に布陣し、軍事作戦に深く関与している 5 。
この事実は、政宗が家督を継いだばかりの不安定な時期に、輝宗の代から伊達軍を率いてきた盛宗の軍事的経験と存在感を、いかに重要視していたかを示している。彼は、若き政宗が自信をもって采配を振るえるよう、その後ろ盾となるべく戦場に立ったのである。
政宗の時代における盛宗の真価は、直接的な武功以上に、その側近としての助言・献策にあった。「策を献じ伊達氏の勝利につくした」という後世の評価は、この時期の彼の働きを的確に捉えている 5 。
政宗と盛宗の間の深い信頼関係を裏付けるのが、天正15年(1587年)5月付で、政宗が「小梁川泥蟠斎」に宛てて送った自筆の書状の存在である 24 。この書状は、二人が重要な戦略や政情について、直接書状を交わして緊密に連携していたことを示す一級の史料であり、盛宗が政宗にとって単なる老臣ではなく、心から頼るべき「惟幄(いあく)の謀臣」、すなわち最高顧問であったことを物語っている。
盛宗が武勇や謀略だけに長けた人物ではなかったことを示す、興味深い逸話が『伊達治家記録』に残されている。天正17年(1589年)、政宗が家臣の片倉景綱の屋敷で能の会を催した際、政宗自身が太鼓を打ったのに合わせ、盛宗(泥播斎)が大鼓(おおつづみ)を共に務めたという記録がある 25 。
この能楽の共演は、二人の関係の深さを象徴する出来事である。そこには、形式的な主君と家臣という関係を超えた、人間的な交流と親密さが窺える。血気盛んな若き主君と、彼を大叔父のように見守る老練な重臣が、共に芸事に興じる。この情景は、盛宗が武人としての厳しさだけでなく、文化的な素養を併せ持ち、それを通じて政宗の人格形成にも影響を与えていた可能性を示唆している。彼の存在は、政宗にとって軍事・政治両面における師であり、同時に文化的な教養を分かち合うことができる、得がたい存在であったのだろう。
摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし、小田原参陣を経て、伊達政宗は豊臣秀吉の天下のもとで生きる道を模索していた。小梁川盛宗の晩年は、この中央政権との緊張関係の中で、主君・政宗を支えることに費やされた。そして彼の最期は、故郷の奥州ではなく、政治の中心地・京都で訪れることになる。
小梁川盛宗は、文禄4年1月14日(西暦1595年2月22日)、京都の伊達屋敷においてその73年の生涯を閉じた 1 。法名は「心連院泥蟠日雄居士」と伝えられている 2 。
盛宗が亡くなった文禄4年(1595年)という年は、伊達家にとって存亡の危機とも言うべき年であった。この年の7月、豊臣政権の関白・豊臣秀次が秀吉から謀反の嫌疑をかけられて切腹させられるという大事件が起こる。政宗は秀次と親しかったことから、この謀反への関与を疑われ、秀吉から厳しい追及を受けることになった 10 。
盛宗がこの伊達家最大の危機の直前に、政治の中心地である京都に滞在し、そこで亡くなったという事実は、極めて重要である。これは、彼が晩年まで単に故郷で静かに余生を送る隠居老人ではなかったことを強く示唆している。彼は、豊臣政権との複雑で危険な関係を乗り切るため、政宗に随行し、その老練な政治感覚と輝宗の代から培ってきた経験をもって、若き主君に助言を与えるという、極めて重要な役割を担っていたと考えられる。彼の死は、穏やかな隠居生活の終わりではなく、伊達家が中央の激しい政争の渦中にあった、その最前線における死だったのである。
史料は盛宗が京都で亡くなったことを伝えているが、その具体的な墓所の場所を特定する記述は、現在のところ確認されていない。当時、伊達家は豊臣秀吉から与えられた伏見の地に広大な屋敷を構えており、その一帯は「伊達町」と呼ばれていた 27 。現在も京都市伏見区には「桃山町正宗」という地名が残り、伊達家ゆかりの寺院である海宝寺などが存在するが 27 、盛宗の墓所がこれらの寺院にあることを直接示す史料は見当たらない。彼の墓所の特定は、今後の研究に委ねられた課題と言えるだろう。
盛宗の死後、その跡は子の小梁川宗重が継いだ 1 。史料によれば、小梁川家が正式に「一家」の家格となったのは、この宗重の代であったとされている 5 。
その後、江戸時代に入ると、小梁川家は仙台藩の成立に伴い、本拠を陸奥国江刺郡野手崎(現在の岩手県奥州市江刺)に移された 4 。そして、仙台藩の御一家筆頭として、幾多の養子を迎えながらも家名を保ち、幕末に至るまで同地を治めた 7 。明治維新後、最後の野手崎領主であった第16代当主・盛之は、伊達姓に復し、伊達邦盛と名乗った 7 。盛宗が築き上げた名門としての地位は、時代の変遷を超えて受け継がれていったのである。
小梁川盛宗の73年の生涯を振り返るとき、我々は一人の武将が時代の変化の中で、その役割を巧みに変容させながら、三代にわたる主君を支え続けた類稀な姿を目の当たりにする。彼の人生は、伊達家が奥州の戦国大名から、天下泰平の世を生きる近世大名へと脱皮していく、激動の時代そのものを体現していた。
盛宗は、単なる「勇将」という言葉だけでは語り尽くせない、多面的な人物であった。輝宗の時代には、対最上氏の最前線である高畠城を預かる屈強な指揮官として武名を馳せた。その一方で、「元亀の変」においては、主命と家中の安定という二律背反の状況下で、あえて「黙認」という政治的決断を下し、舅である晴宗の威光を頼って危機を乗り切るという、高度な政治的嗅覚と生存術を見せた。
政宗の時代に入ると、彼は「泥蟠斎」として、血気盛んな若き主君の後見役へとその役割を移す。戦場では老練な経験をもって軍を支え、政務においては「惟幄の謀臣」として策を献じ、時には能楽を共に楽しむ教養人として、政宗の人格形成にまで影響を与えた。そしてその最期は、伊達家が中央政権の荒波に揉まれる京都の地で迎えた。これは、彼が死の瞬間まで、伊達家の重臣としての責任を全うし続けたことの証左である。
伊達家の歴史において、盛宗は輝宗から政宗への困難な権力移行期を支え、若き政宗の治世を安定させる上で不可欠な「重し」の役割を果たした。片倉景綱や伊達成実のような華々しい活躍は少ないかもしれない。しかし、彼の存在なくして、伊達家が戦国末期の激動を乗り越え、62万石の大藩として近世を生き抜くことは、より困難であっただろう。
小梁川盛宗は、武勇と知謀、そして時代の変化を読み解く柔軟性を兼ね備えた「智勇兼備の宿老」であった。彼の生涯は、戦国武将の価値が単なる武功のみで測られるものではなく、政治力、人間性、そして忠誠心といった、より深い資質によって決まることを示す、一つの優れた実例として再評価されるべきである。