本報告書は、戦国時代の終焉から江戸時代初期にかけて活躍した武将、小笠原忠真(おがさわら ただざね)の生涯を、その出自、武功、藩政、文化振興、そして人物像に至るまで多角的に検証し、歴史における意義を明らかにすることを目的とする。
小笠原忠真は、慶長元年(1596年)に生まれ、寛文7年(1667年)に没した、江戸時代初期の大名である。父は小笠原秀政、母は徳川家康の孫娘にあたる登久姫(福姫) 1 。大坂夏の陣での父兄の戦死という悲劇を乗り越えて家督を相続し、信濃国松本藩主、播磨国明石藩主を経て、豊前国小倉藩の初代藩主となった 1 。特に小倉においては15万石を領し、九州における幕府の重鎮として、また「九州探題」的な役割を担い、西国大名の監視や長崎警備といった幕政の枢要に関わった 1 。武人としての勇猛さを示す「鬼孫」の逸話は名高いが、一方で茶道や上野焼の育成、さらには明からもたらされた黄檗宗の保護など、文化振興にも熱心な文治的な側面も持ち合わせていた 1 。
忠真の血筋は特筆すべきもので、小笠原氏は甲斐源氏の祖・源義光に遡る清和源氏の名門である 1 。さらに、母方を通じて徳川家康の曾孫にあたり、曽祖父には織田信長も名を連ねるという、まさに戦国時代の「サラブレッド」とも言える血統であった 1 。この華麗なる血脈は、忠真の生涯において単なる名誉に留まらず、重要な政治的資本として機能したと考えられる。徳川幕府が全国支配を確立していく過程において、譜代大名としての忠誠心に加え、このような血縁的背景は、幕府からの厚い信頼と期待を得る上で大きな要因となった。特に外様大名が多く配置されていた九州の統治において、忠真の存在は幕府にとって戦略的に重要であり、彼が「九州探題」と称されるほどの役割を担い、長崎警備のような枢機にわたる任務に就いた背景には、この血統がもたらす権威と信頼感が不可欠であったと言えよう 7 。
以下に、小笠原忠真の生涯における主要な出来事を略年譜として示す。
表1:小笠原忠真 略年譜
和暦 |
西暦 |
年齢 |
主要な出来事 |
出典 |
慶長元年2月 |
1596年3月26日 |
1歳 |
下総国古河城にて小笠原秀政の次男として誕生。幼名、春松丸。 |
1 |
慶長11年 |
1606年 |
11歳 |
元服し、将軍徳川秀忠より偏諱を受け忠政と名乗る(後に忠真と改名)。 |
1 |
慶長20年5月 |
1615年6月 |
20歳 |
大坂夏の陣に父秀政、兄忠脩と共に参戦。父兄戦死。自身も奮戦し負傷。家康より「鬼孫」と賞される。 |
1 |
慶長20年7月 |
1615年 |
20歳 |
兄忠脩の嫡男幸松丸(長次)が幼少のため、家督を相続し信濃国松本藩主(8万石)となる。兄嫁の亀姫(家康養女、本多忠政娘)を娶る。 |
1 |
元和2年7月 |
1616年 |
21歳 |
2万石加増の上、播磨国明石への転封を命じられる。 |
2 |
元和3年7月 |
1617年 |
22歳 |
播磨国明石藩主(10万石)として入封。明石城の築城を開始。 |
2 |
寛永9年11月 |
1632年 |
37歳 |
豊前国小倉藩(15万石)へ転封。初代藩主となる。従四位下右近将監に叙任。 |
2 |
寛永10年 |
1633年 |
38歳 |
小倉藩にて家臣の知行割を実施。 |
14 |
寛永14年~15年 |
1637年~1638年 |
42~43歳 |
島原の乱に総大将として出陣。宮本伊織らが活躍。 |
4 |
寛文2年 |
1662年 |
67歳 |
長崎警備の指揮を命じられる。 |
4 |
寛文4年 |
1664年 |
69歳 |
黄檗宗の僧・即非如一を小倉に招く。 |
5 |
寛文5年 |
1665年 |
70歳 |
広寿山福聚寺を創建し、即非如一を開山とする。同寺は小笠原家の菩提寺となる。 |
2 |
寛文7年10月18日 |
1667年12月3日 |
72歳 |
小倉にて逝去。法名、福聚寺殿徳徳生大居士。 |
2 |
大正5年 |
1916年 |
― |
従三位を追贈される。 |
3 |
表3:小笠原忠真 歴任藩一覧
藩名 |
石高 |
在任期間 |
主な出来事・役割 |
出典 |
信濃国 松本藩 |
8万石 |
元和元年(1615年)~元和3年(1617年) |
大坂の陣後家督相続。 |
1 |
播磨国 明石藩 |
10万石 |
元和3年(1617年)~寛永9年(1632年) |
明石城築城、城下町整備、宮本武蔵との交流。 |
2 |
豊前国 小倉藩 |
15万石 |
寛永9年(1632年)~寛文7年(1667年) |
初代藩主。「九州探題」的役割、島原の乱参陣、長崎警備、文化振興(茶道、上野焼、黄檗宗)。 |
1 |
小笠原忠真は、慶長元年(1596年)2月、父・小笠原秀政の次男として下総国古河城で生を受けた 1 。母は徳川家康の長男・岡崎信康の娘である登久姫(福姫)であり、忠真は家康の曾孫にあたる 1 。幼名は春松丸と称した 11 。
慶長11年(1606年)、11歳で元服し、時の将軍徳川秀忠から偏諱(「忠」の字)を賜り、「忠政」と名乗った。後に「忠真」と改名することになる 1 。父・秀政は、豊臣秀吉に仕えた後、徳川家康に臣従し、下総国古河から信濃国飯田を経て、小笠原氏ゆかりの地である信濃国松本8万石の領主となっていたが、家督は忠真の兄である忠脩に譲られていた 1 。
慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、兄の忠脩が出陣した 1 。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣には、父・秀政が出陣することになった。この時、松本城の守備を任されていた忠脩と忠真は、幕府に無断で父の後を追い、出陣するという果断な行動に出る 1 。本来であれば厳罰に処されるところであったが、徳川家康はその勇気を買い、彼らの従軍を許したと伝えられる 1 。
同年5月7日、天王寺・岡山の決戦において、小笠原一族は徳川方の最前線で戦った。本多忠朝隊を救援しようとした際、豊臣方の木村重成の叔父・木村宗明隊と激突 1 。この乱戦の中で、兄・忠脩は討死を遂げ、父・秀政も銃弾を受け重傷を負い、後にこれが原因で命を落とすこととなる(享年47) 1 。忠真は、深手を負った父を守りながら鬼神のごとく奮戦したが、自身も数カ所に傷を負い、鎧を血で染めながら戦場を退いた 1 。
この壮絶な戦いの後、忠真は京都で父と兄の遺骸を荼毘に付し、その遺骨を松本へと送った 1 。忠真自身も重傷であったが、家康と秀忠は見舞いの使者を送り、特に家康は忠真の奮戦を「奮戦見事。まさに我が鬼孫(きそん)ぞ」と激賞したという 1 。この「鬼孫」という評価は、単に武勇を讃えるだけでなく、徳川の血を引く者としての気骨と忠誠心に対する家康の深い感銘と期待の表れであったと考えられる。父と兄を同時に失うという悲劇的な体験と、死線をさまようほどの激戦を経験したことは、若き忠真の人格形成に強烈な影響を与えたに違いない。そして、最高権力者である家康から直接与えられたこの上ない賛辞は、その後の忠真の武将としての矜持を支え、幕府内での彼の立場を確固たるものにする上で、計り知れない力となったであろう。それは、後の彼のキャリア、特に九州という重要拠点への配置へと繋がる伏線ともなった。
大坂夏の陣で父・秀政と兄・忠脩が相次いで戦死したため、小笠原家の家督相続が問題となった。忠脩には嫡男・幸松丸(後の小笠原長次)がいたものの、まだ幼年であった 1 。そのため、慶長20年(1615年)7月、徳川秀忠の命により、次男である忠真が小笠原家の宗家を継ぎ、信濃国松本8万石の藩主となることが決定された 1 。
松本藩主としての忠真の具体的な治績に関する詳細な記録は多くないが、『松本市誌』には「忠眞敬神崇仏の心厚く、父秀政と共に貞宗に比されたり。性寛仁公平にして心を治政に用ふ」と記されており、善政を志した人物であったことがうかがえる 2 。しかし、松本藩主としての期間は元和3年(1617年)に播磨国明石へ転封となるまでのわずか3年間に過ぎなかった 2 。
家督相続とほぼ時を同じくして、忠真の結婚も決定された。徳川家康の命により、大坂夏の陣で戦死した兄・忠脩の未亡人であり、本多忠政の娘(家康の養女であり、母方から見れば忠真の従妹にあたる)である亀姫(円照院)を正室として迎えることになったのである 1 。忠真は亀姫との間に生まれた兄の子、長次(幸松丸)の養育も行った 3 。
この結婚は、単に兄の未亡人を娶るという個人的な事情に留まらない、多層的な政治的意味合いを含んでいた。第一に、亀姫が家康の養女であったことから、小笠原家と徳川将軍家との血縁的・政治的な結合を一層強化するものであった 1 。第二に、亀姫の父・本多忠政は徳川四天王の一人である本多忠勝の嫡男であり、有力な譜代大名である本多家との連携を深める意味も持っていた。そして第三に、兄の遺児である長次を養育し、その母を娶ることは、小笠原家内部の結束を維持し、家督継承の正当性と家内の融和を内外に示す上で極めて重要であった。江戸幕府初期において、大名の婚姻政策は中央集権体制を強化するための重要な手段であり、この忠真と亀姫の結婚もまた、家康・秀忠政権による大名統制策の一環として、小笠原家の安定と幕府への忠誠を確実にするための巧みな布石であったと言えるだろう。
信濃国松本藩主となってからわずか2年後の元和2年(1616年)7月、小笠原忠真は2万石の加増を受け、播磨国明石10万石への転封を命じられた 2 。翌元和3年(1617年)7月に明石に入封し、これにより明石藩が立藩された 2 。それまでこの地域を治めていた池田氏の転封に伴うものであった 19 。
この松本から明石への転封は、単なる領地替え以上の戦略的な意図が幕府側にあったと考えられる。明石は瀬戸内海に面し、古来より海上交通の要衝であり、大坂にも近い。大坂の陣が終結したとはいえ、西国には依然として有力な外様大名が多く存在し、幕府にとって西国の安定は喫緊の課題であった 10 。忠真のような、大坂の陣での武勇と忠誠心を示し、かつ徳川家と深い縁戚関係にある譜代大名をこの地に配置することは、西国大名に対する強力な楔となり、幕府の支配体制を強化する上で極めて有効な手段であった。10万石という石高は、その期待の大きさを物語っている。
明石に入封した忠真は、早速、幕府(徳川秀忠)の命により、新たな城の築城に着手した。これが現在の明石城である 2 。それまでこの地域の拠点であった三木城や船上城(ふなげじょう)は廃され、人丸山に新城が築かれた 17 。明石城の築城には2年を要したと記録されており 2 、西国監視の拠点としての役割が期待された堅固な城であった。
築城と並行して、忠真は城下町の整備にも力を注いだ。現在の明石の市街地の基礎はこの時に形成されたものであり、明石港の整備も行われた 2 。これにより、明石は軍事拠点としてだけでなく、経済的な中心地としての機能も高められ、藩の財政基盤の確立にも繋がった。
小笠原忠真の明石藩主時代を語る上で欠かせないのが、剣豪・宮本武蔵との交流である 5 。武蔵はこの時期、姫路城主であった本多忠政(忠真の義父)の客分であり、その縁で明石城の築城や町割りに参画したと伝えられている 17 。
『播州明石記録』によれば、武蔵は明石の町割りを行い、現在の明石の商店街として栄える鍛冶屋町、細工町、東本町、西本町、信濃町(今の中町)、魚町、樽屋町、材木町などがこの時に誕生したとされる 17 。また、忠真の命により城内に樹木屋敷(庭園)を築造し、本松寺や円珠院の境内には枯山水の庭園も手がけたという 17 。武蔵が自身の剣術に「円明流」と名付けたのも明石滞在中であり、これは月の名所であった明石に由来すると言われている 17 。
忠真が武蔵を単なる剣客としてではなく、都市計画や造園といった文化的、実務的な事業に参画させた点は注目に値する。これは、武蔵が剣術のみならず書画や工芸にも通じた多才な人物であったことを示唆すると同時に、忠真自身が文化的な価値を深く理解し、それを藩政に取り入れようとした先進的な姿勢の表れと言えるだろう。武蔵のような著名な文化人を客分として迎え、その才能を藩の発展に活用することは、藩の権威付けや魅力向上にも繋がった可能性がある。この経験は、後に小倉で茶道や上野焼を奨励する忠真の文化政策の萌芽であったとも考えられる。
さらに忠真は、武蔵の養子である宮本伊織(貞次)を近習として召し抱えている 5 。播磨出身とされる伊織は、この後、忠真の小倉移封に従い、小笠原家で重要な役割を担っていくことになる。
寛永9年(1632年)11月、小笠原忠真は播磨国明石から豊前国小倉15万石へと加増移封された 2 。これは将軍徳川家光の命によるもので、忠真は従四位下右近将監に叙任され、小倉小笠原藩の初代藩主となった 2 。この移封は、単なる領地の変更に留まらず、幕府の九州支配戦略における極めて重要な意味を持っていた。
当時の九州には、島津氏、細川氏(忠真とは義兄弟の関係にあったが)、鍋島氏、黒田氏といった有力な外様大名が多く存在し、幕府はこれらの大名の動向を常に注視し、有事の際にはこれを抑える必要があった 7 。忠真の小倉への配置は、まさにこのためのものであり、彼は譜代大名の筆頭格として、九州の玄関口とも言える小倉において、九州全体の外様大名を監視し、幕府の権威を代表する「九州探題」にも比すべき役割を期待されたのである 1 。15万石という石高は、その責任の重さを示すものであり、忠真の武勇、幕府への忠誠心、そして織田・徳川の血を引くその家格が、この重責を担う上で不可欠な要素と判断された結果であった。
小倉に入封した忠真は、新たな領地と大幅に増加した石高に対応するため、藩政の基盤固めに着手した。寛永10年(1633年)には、家臣団に対する知行割りを実施した 14 。この知行割りでは、家老には五割増、一般家臣に対しても石高に応じて百石以上には百石、百石未満の者には五十石を加増し、足軽や中間といった切米取の者にも三割の増給を行うなど、家臣の士気を高める配慮が見られる。一方で、「知行米皆々御蔵米」と定め、家臣への知行を蔵米支給としたことは、藩財政の集中管理と藩主による家臣への直接的な支配力を強化する狙いがあったと考えられる 14 。
同時に、家臣団の組織改革も断行された。「寄合」の格式を新たに設け、藩主の身辺警護や儀礼を担う駕籠番の役職を新設した。また、従来家老の次席で「馬廻の士」を支配していた番頭を廃止し、新たに「中老」という格式を設け、その下には外様番頭を置くなど、有事の際に迅速に対応できる臨戦体制を意識した家臣団の再編を行った 14 。これは、九州という緊張感を伴う地において、藩主の意向を速やかに実行できる効率的な指揮系統を構築し、譜代・新参を問わず能力ある者を登用することで藩主権力を強化しようとしたものと解釈できる。前領主である細川氏が敷いた手永制度などの統治システムは基本的に継承しつつも 22 、小笠原家としての新たな支配体制を早期に確立しようとする忠真の強い意志がうかがえる。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱は、江戸幕府初期における最大の国内危機であった。九州の諸大名は幕府軍としてその鎮圧に総力を挙げてあたることになり、小倉藩主である忠真もまた、6000の兵を率いて総大将の一人として出陣した 4 。
この戦いにおいて、忠真の家臣である宮本伊織は侍大将・惣軍奉行として目覚ましい戦功を挙げた 5 。その功績により、伊織は戦後1500石を加増され、合計4000石を知行する筆頭家老へと抜擢された 5 。伊織の養父である宮本武蔵もこの乱に従軍したとされ、伊織の後見として、あるいは小笠原軍の軍監として、また一説には忠真の甥にあたる中津藩主・小笠原長次の後見として参陣したと言われている 15 。武蔵は原城攻めの際に投石を受けて負傷したという記録も残っている 15 。小笠原隊の奮戦は、一時期劣勢に立たされていた幕府軍の巻き返しに大きく貢献したと評価されている 15 。
島原の乱は、キリスト教禁令の徹底と幕藩体制の権威を内外に示す上で、幕府にとって極めて重要な戦いであった 24 。忠真がこの大乱において藩主として、また九州における幕府の重鎮として指導力を発揮し、顕著な戦功を挙げたことは、幕府内における彼の評価を決定的なものにした。これは譜代大名としての責務を全うした証左であり、その後の長崎警備というさらなる重任に繋がる重要な実績となった。また、宮本伊織の異例の抜擢も、単なる縁故ではなく、実戦における具体的な功績に裏打ちされたものであったことを示している。
島原の乱後、小笠原忠真は長崎警備の任も務めることになった 4 。特に寛文2年(1662年)には、幕府より正式に長崎警備の指揮を命じられ、名実ともに幕府の九州支配の要としての役割を担うことになった 4 。
鎖国体制下の日本において、長崎は唯一の対ヨーロッパ(オランダ)貿易港であり、中国(唐船)との交易も行われる国際的な窓口であった 28 。そのため、長崎警備の任務は、単に港湾の軍事的な防衛に留まらず、外国船の監視、輸入品の管理、海外情報の収集と幕府への報告(オランダ風説書など)、さらには密貿易の取り締まりといった、非常に多岐にわたる複雑な業務を含んでいた 30 。忠真がこの重要な任務を長期間にわたり統括したという事実は、幕府からの絶大な信頼を得ていたことの証であり、彼自身が高度な政治的判断力と管理能力を有していたことを示している。この任務は、九州における外様大名の監視という役割と表裏一体であり、幕府の対外政策と国内統制の両面において、忠真が鍵となる地位にあったことを明確に物語っている。黄檗宗との繋がりが、中国方面の情報を得る上で間接的に役立った可能性も考慮に入れると、忠真の多面的なネットワークがこの任務遂行に有利に働いたことも推察される。
小笠原忠真は、武勇に優れた武将であると同時に、文化・芸術にも深い理解と関心を示した文人藩主としての一面も持っていた。戦乱の時代が終わり、泰平の世が訪れる中で、彼は積極的に文化振興に取り組み、小倉の地に豊かな精神的遺産を残した。
忠真は「大名茶人」としてその名を知られ、茶湯文化の隆盛に大きく貢献した 1 。彼は茶人・古市了和(ふるいち りょうわ、名は勝元)を小倉に招聘し、茶道頭として召し抱えた 5 。了和の指導のもと、小笠原家独自の茶風である「小笠原家茶道古流」を振興・確立し、その基礎を築いた 6 。了和の子孫も代々茶道頭として小笠原家に仕え、その流儀は幕末まで受け継がれた 5 。古市了和は、千利休とは異なる系譜に連なる古田織部の茶湯を会得していたとも言われ 33 、小笠原家茶道古流も独自の特色を持っていた可能性が示唆される 32 。
江戸時代の大名にとって、茶道は単なる趣味や教養の域を超え、重要な政治的・社交的ツールとしての意味合いも持っていた 34 。忠真が自身の名を冠した流派を興そうとした背景には、藩の文化的水準を高め、他藩との交流や幕府に対する藩の格を示すという意図があったと考えられる。また、茶道を通じて家臣団の結束を固めたり、藩内に洗練された文化を根付かせるという教育的な効果も期待されたであろう。古市了和という専門家を招聘したことは、忠真の文化振興に対する本格的な意志の表れであり、武断だけでなく文治による統治をも目指す、バランスの取れた為政者としての姿を映し出している。
茶道と並び、忠真が情熱を注いだもう一つの文化事業が、上野焼(あがのやき)の育成である 5 。上野焼の起源は、文禄・慶長の役の際に加藤清正によって朝鮮から連れてこられた陶工・尊楷(そんかい、日本名:上野喜蔵高国)が、豊前国上野の地に窯を築いたことに始まる 5 。その後、細川忠興(三斎)の庇護のもとで発展し、特に茶陶として高い評価を得るようになった 37 。
忠真は小倉に入封すると、この上野焼を小笠原家の御用窯として手厚く保護し、その技術の維持と発展に努めた 38 。これにより、上野焼は幕末に至るまで小笠原藩の重要な文化遺産として、また特産品として発展を遂げることになる。上野焼は、緑青釉や鉄釉、紫蘇釉など、多彩な釉薬を用いた変化に富んだ作風が特徴で、特に茶人であった忠興や忠真の好みを反映した格調高い茶陶が多く作られた 39 。
忠真による上野焼の育成は、彼の茶道への深い関心と密接に結びついた文化政策であったと言える。同時に、良質な陶磁器は藩主自身の使用や諸大名への贈答品として高い価値を持ち、藩の威信を高めるとともに、藩の経済にも少なからず貢献した可能性がある 40 。朝鮮人陶工の技術を継承し、それをさらに発展させたことは、当時の先進技術の導入と定着に努めた証であり、文化政策と殖産興業政策が一体となった、忠真の巧みな統治戦略の一環と見ることができる。
忠真の文化的関心は、仏教、特に当時日本に新たにもたらされた黄檗宗(おうばくしゅう)へも向けられた。寛文4年(1664年)、忠真は明国から来日していた黄檗宗の高僧・即非如一(そくひ にょいつ)を小倉に招いた 5 。そして翌寛文5年(1665年)、小倉城下に広寿山福聚寺(こうじゅさん ふくじゅじ)を創建し、即非如一を開山として迎えた 2 。この福聚寺は、以後、小笠原宗家の菩提寺として篤い信仰を集めることとなる 16 。
即非如一は、日本黄檗宗の祖である隠元隆琦(いんげん りゅうき)の高弟であり、木庵性瑫(もくあん しょうとう)と並び称される「黄檗三筆」の一人に数えられる名僧であった 45 。忠真がこのような高名な渡来僧を招き、新たな宗派の寺院を建立した背景には、単なる個人的な信仰や、中国文化への憧憬といった文人趣味 4 を超えた、いくつかの戦略的意図があった可能性が考えられる。
江戸時代初期において、黄檗宗は将軍家をはじめとする武家層にも広がりを見せていた最新の仏教宗派であり、その受容は藩主の先進性や文化的な高さを内外に示す意味も持っていた 46 。また、黄檗僧は当時の中国の先進的な学術や文化、技術をもたらす存在でもあり、彼らとの交流は新たな知識や情報を得る貴重な機会となった 48 。さらに、長崎警備という重要な任務を担っていた忠真にとって、長崎に拠点を持ち、中国との繋がりが深い黄檗宗を保護することは、間接的に対外情報ルートの確保や、国際的な人的ネットワークの構築に繋がる可能性も秘めていた。このように、忠真の黄檗宗への帰依は、彼の知的好奇心を満たすと同時に、藩の文化的水準の向上、幕府や他大名へのアピール、そして実利的な情報収集といった、多角的な動機に基づいていたと推察される。
小笠原忠真の人物像は、勇猛な武将としての一面と、文化を愛し領民に心を配る細やかな側面を併せ持っていた。いくつかの逸話や記録から、その実像に迫ることができる。
大坂夏の陣における忠真の獅子奮迅の働きは、曽祖父にあたる徳川家康に強烈な印象を与えた。父・秀政を守り、自らも深手を負いながら戦い抜いた忠真に対し、家康は「奮戦見事。まさに我が鬼孫ぞ」と賞賛の言葉を送ったと伝えられる 1 。この「鬼孫」という言葉は、単に戦闘における勇猛さを示すだけでなく、家康が自身の若い頃の武勇や不屈の精神を、血を分けた曾孫である忠真の姿に重ね合わせ、徳川家の一員としての将来への大きな期待を込めた評価であったと考えられる。この家康からの直接的な賛辞は、忠真にとって生涯の誇りとなり、彼の行動規範や武将としての生き方に大きな影響を与えたであろうことは想像に難くない。
武勇伝とは対照的に、忠真の人間味あふれる一面を伝える逸話として「糠漬け」の話がある。忠真は糠漬けを非常に好み、豊前小倉に入封する際には、大切にしていた糠床(ぬかどこ)を持参したという 5 。さらに、城下の領民にも糠漬けを奨励し、その美味しさを広めたと伝えられる。この影響からか、小倉の地では、各家庭で代々受け継がれる糠床を「百年床(ひゃくねんどこ)」と呼び、大切にする文化が現代にも残っているとされる 5 。この逸話は、忠真が領民の日常生活や食文化にも関心を持ち、親しみやすい人柄であったことを示唆している。藩主が自ら特定の食文化を奨励することで、それが地域に根付き、後世まで語り継がれるという事例は興味深く、単なる為政者としてだけでなく、領民と文化を共有しようとする忠真の姿勢が垣間見える。
忠真の人物評価において特筆すべきは、その卓越した人材登用術、特に宮本伊織の抜擢である。伊織は剣豪・宮本武蔵の養子として知られるが、忠真は伊織の出自や若さ(一説には20歳で執政に抜擢 5 )に捉われることなく、その非凡な政治的手腕を見抜き、小笠原家の執政(家老職)という重職に登用した 5 。伊織はその後、島原の乱での戦功もあって禄高4000石の筆頭家老にまで昇進し 15 、その子孫は代々小倉藩の筆頭家老を世襲して明治維新まで小笠原家を支え続けた 5 。
江戸時代初期は、まだ家柄や世襲が重視される風潮が強かった中で 52 、譜代の家臣ではない伊織をこのような破格の待遇で登用したことは、忠真が形式や慣習よりも実質的な能力を重んじる、極めて合理的なリーダーであったことを示している 53 。九州という幕府にとって重要な戦略拠点を任され、常に有事に備える必要があった忠真にとって、真に有能な人材を側近に置き、藩政の効率化と安定を図ることは不可欠であった。この伊織の抜擢は、忠真の「人を見る目」の確かさと、旧来の慣習に囚われない柔軟な思考、そして藩運営における実利を優先する現実的な判断力を如実に物語っている。
松本藩主時代の記録ではあるが、『松本市誌』には忠真について「忠眞敬神崇仏の心厚く、父秀政と共に貞宗に比されたり。性寛仁公平にして心を治政に用ふ」と記されている 2 。この評価は、若き日の忠真の基本的な性格や為政者としての姿勢を示しており、その後の明石、小倉における治世にも通じるものであったと考えられる。敬神崇仏の念が厚く、寛容で公平な心をもって政治に臨んだという記述は、彼が単なる武断的な支配者ではなく、徳治を目指した為政者であったことを示唆している。
小笠原忠真の家族構成は、彼の個人的な側面と、大名家の存続と発展に関わる婚姻政策や後継者問題を具体的に示している。
表2:小笠原忠真 家族構成
続柄 |
氏名 |
生母 |
備考 |
出典 |
父 |
小笠原秀政 |
― |
信濃国松本藩初代藩主。大坂夏の陣で戦死。 |
3 |
母 |
登久姫(福姫、峯高院) |
― |
徳川家康の孫(岡崎信康の長女)。 |
1 |
長兄 |
小笠原忠脩 |
登久姫 |
大坂夏の陣で戦死。 |
3 |
弟 |
小笠原忠知 |
登久姫 |
三河国吉田藩主、後に肥前国唐津藩初代藩主。 |
3 |
正室 |
亀姫(円照院) |
― |
徳川家康養女、本多忠政(本多忠勝の長男)の次女。忠真の兄・忠脩の未亡人。 |
1 |
側室 |
那須藤(永貞院) |
― |
|
3 |
長男 |
坂牧忠増 |
不明 |
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3 |
次男 |
小笠原長安 |
亀姫 |
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3 |
三男 |
小笠原長宣 |
亀姫 |
世子とされたが早世。 |
3 |
四男 |
小笠原忠雄 |
那須藤 |
小倉藩2代藩主。 |
3 |
五男 |
小笠原長弘 |
不明 |
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3 |
六男 |
小笠原真方 |
那須藤 |
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3 |
長女 |
市松姫(いちひめ、宝光院) |
亀姫 |
筑前国福岡藩主・黒田光之正室。 |
3 |
次女 |
嘉禰(かねひめ、兼姫) |
亀姫 |
常陸国額田藩(後に陸奥国守山藩)藩主・松平頼元正室。 |
3 |
三女 |
鍋姫 |
亀姫 |
夭折。 |
3 |
四女 |
千代姫 |
那須藤 |
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3 |
養子 |
姫松(小笠原長安娘) |
― |
伊予国松山新田藩主・松平定長正室。 |
3 |
養子 |
繁姫(齢昭院、小笠原忠脩娘、長次の姉妹) |
― |
阿波国徳島藩主・蜂須賀忠英正室。 |
3 |
忠真の正室は、前述の通り、兄・忠脩の未亡人であった亀姫(円照院)である 1 。亀姫は徳川家康の養女であり、本多忠政の次女という高い家柄の女性であった 3 。彼女との間には、次男・小笠原長安、三男・長宣、長女・市松姫、次女・嘉禰、三女・鍋姫(夭折)が生まれた 3 。長女の市松姫は筑前国福岡藩主の黒田光之に、次女の嘉禰は水戸藩主徳川頼房の子で常陸国額田藩主となった松平頼元にそれぞれ嫁いでいる 3 。
また、忠真には側室として那須藤(永貞院)がおり、彼女との間には四男・小笠原忠雄(後の小倉藩2代藩主)、六男・真方、四女・千代姫が生まれた 3 。この他にも生母不明の子として長男・坂牧忠増、五男・長弘がいたことが記録されている 3 。
忠真が娘たちを黒田家や水戸徳川家の分家といった有力大名家に嫁がせたことは、小笠原家の政治的地位の安定と影響力の拡大を意図した戦略的な婚姻政策であったと言える。これは江戸時代の大名家における典型的な生存戦略であり、忠真もまた、徳川家や本多家との縁組で自らが恩恵を受けたように、この方策を巧みに活用して、小笠原家の安泰と発展を図ったのである。これにより、小笠原家は九州内外に強力な姻戚ネットワークを築き、藩の安定のみならず、幕府内での発言力強化にも繋げた可能性がある。
忠真は、兄・忠脩とその妻であった亀姫(後に忠真の正室)の間に生まれた長男・小笠原長次(幼名・幸松丸)を、家督相続後も手厚く養育した 3 。長次は忠真にとって甥にあたるが、同時に義理の子とも言える存在であった。
長次は成長し、後に播磨国龍野6万石の大名として取り立てられた 2 。さらに、忠真が豊前国小倉へ移封された寛永9年(1632年)には、長次も同じ豊前国内の中津8万石へと転封となっている 2 。これは、忠真を中心とする小笠原一族が、九州における幕府の重要拠点である豊前国を一体となって統治するという幕府の意図の表れであり、忠真が長次を後見し、一門の結束を固めていたことを示している。島原の乱の際には、宮本武蔵がこの長次の後見として中津藩の軍勢に加わって参陣したという説もある 27 。忠真が兄の血筋を尊重し、長次の大名としての成長を支えたことは、小笠原一門全体の繁栄を願う彼の姿勢を物語っており、中津藩との連携は豊前国支配をより強固なものにする上で重要な意味を持った。
小笠原忠真の家督は、側室・那須藤との間に生まれた四男・小笠原忠雄が継承し、小倉藩2代藩主となった 3 。正室・亀姫との間にも長安、長宣という男子がいたが、世子とされていた三男・長宣が早世したため、万治3年(1660年)に忠雄が新たに世子として指名された 58 。
忠雄は寛文7年(1667年)に父・忠真の死去に伴い家督を相続し、その後、享保10年(1725年)までの長きにわたり(58年間)、小倉藩主を務めた 18 。正室の子ではなく側室の子である忠雄が後継者となった経緯は、当時の大名家における家督相続の複雑さの一端を示している。しかし、忠雄が長期にわたって安定した治世を敷くことができたのは、父・忠真が築き上げた小倉藩の強固な統治基盤と、その遺した影響力の大きさを物語っていると言えるだろう。
小笠原忠真の約35年間にわたる小倉藩主としての治世は、藩の基礎を固め、その後の小笠原家による長期統治の礎を築いた。知行割や家臣団の再編による藩政の安定化 14 、島原の乱や長崎警備といった幕府からの重任を果たすことによる藩の地位向上 4 、そして茶道や上野焼、黄檗宗の導入といった文化振興策 5 は、小倉藩の政治・経済・文化の各側面に大きな影響を与えた。忠真の死後も、小笠原家は小倉城主として明治維新に至るまで、10代、240年以上にわたり小倉の地を治め続けることになるが 2 、その長きにわたる統治の出発点に忠真の功績があったことは間違いない。
忠真が小倉の地に遺したものは、物質的なものに留まらない。彼が情熱を注いだ茶道(小笠原家茶道古流)、庇護した上野焼、そして開基となった黄檗宗寺院・福聚寺は、その後も小倉の文化として根付き、豊かさをもたらした 5 。特に福聚寺は小笠原家の菩提寺としてだけでなく、黄檗文化の中心の一つとして、地域の精神的支柱となった。
また、「糠漬け」と「百年床」の逸話に象徴されるように 5 、領民との間に育まれた文化的な記憶や親近感も、無形の遺産と言えるだろう。さらに、宮本伊織とその子孫が代々筆頭家老として小倉藩を支え続けたことは 5 、忠真の卓越した人材登用術が長期的な藩政の安定に寄与したことを示している。これらの文化的・精神的遺産は、小倉の歴史と風土を形成する上で重要な要素となった。
小笠原忠真は、寛文7年(1667年)10月18日、治世の拠点であった小倉において72歳の生涯を閉じた 2 。法名は福聚寺殿徳徳生大居士と諡された 2 。
遺骸は、彼自身が黄檗宗の高僧・即非如一を招いて開山とし、小笠原家の菩提寺と定めた広寿山福聚寺(現在の福岡県北九州市小倉北区)に葬られた 2 。福聚寺は、忠真の黄檗宗への深い帰依と、彼の文化的な側面を象徴する場所として、今もその歴史を伝えている。
後年、大正5年(1916年)には、その功績を称えられ、従三位が追贈されている 3 。
小笠原忠真の生涯を振り返ると、彼は戦国乱世の終焉から江戸泰平の世の確立期という、時代の大きな転換点において、武将として、藩主として、そして文化人として、多岐にわたる足跡を残した傑出した人物であったと言える。
武将としては、大坂夏の陣における父兄の戦死という悲劇の中で見せた「鬼孫」と称されるほどの勇猛果敢な戦いぶり、そして島原の乱における総大将としての一翼を担った際の的確な指揮など、戦乱の時代を生き抜く強さと指導力を示した。
藩主としては、信濃国松本、播磨国明石、そして豊前国小倉という、それぞれに戦略的意味合いの異なる藩の経営にあたり、特に西国の要衝である明石では城郭と城下町を整備し、九州の抑えとして配置された小倉では15万石の大藩を巧みに統治した。知行割や家臣団の再編による藩政基盤の確立、そして幕府からの信頼の証である長崎警備の重任遂行など、優れた統治能力を発揮し、領国の安定と発展に貢献した。
文化人としては、茶道に深く通じ「小笠原家茶道古流」を興し、朝鮮渡来の陶工の技術を活かした上野焼を藩窯として育成した。さらに、当時最新の仏教文化であった黄檗宗を積極的に導入し、高僧・即非如一のために福聚寺を建立するなど、地域の文化振興にも大きな役割を果たした。これらの活動は、彼の豊かな教養と美的感覚、そして文化の力を理解する先見性を示している。
小笠原忠真の生涯は、徳川幕府が譜代大名に求めた役割と資質を、まさに体現したものであったと言えるだろう 1 。幕府への絶対的な軍事的忠誠、効率的かつ安定的な領国経営、中央集権体制への積極的な貢献、そして文化を通じた権威の確立と人心の掌握。これらすべてにおいて、忠真は高いレベルで期待に応えた。
彼の輝かしい血筋(織田・徳川双方に連なる)、大坂の陣や島原の乱で証明された武功、明石・小倉における着実な藩政運営、そして茶道や黄檗宗といった高度な文化への関心と保護。これらは、戦国時代の武断主義から江戸時代の文治主義へと移行する過渡期において、大名が持つべき多面的な能力と魅力の理想的な姿を示している。彼は、幕府の信頼厚い譜代大名として、西国支配の安定という国家的課題に貢献しつつ、自らの領国においては文化の華を咲かせた名君であった。
小笠原忠真の生き様は、現代社会に生きる我々にも多くの示唆を与えてくれる。父兄の死という逆境を乗り越えて家督を継ぎ、新たな時代を切り開いた強靭な精神力。家柄や慣習に囚われず、宮本伊織のような異才を抜擢した能力主義的なリーダーシップ。そして、武力だけでなく、文化の力をもって国を治め、人々の心豊かな生活を目指した文治政治の理想。これらの側面は、変化の激しい現代において、組織を導き、社会を発展させていく上で、普遍的な価値を持つ教訓と言えるだろう。彼の生涯は、困難な時代にあっても、確固たる信念と多角的な視野を持つことの重要性を我々に教えてくれる。