最終更新日 2025-06-13

小笠原長雄

「小笠原長雄」の画像

戦国期石見の雄、小笠原長雄の生涯と時代

序章

本報告書は、日本の戦国時代、石見国(現在の島根県西部)において活動した国人領主、小笠原長雄(おがさわら ながかつ、一説には「ながたか」とも読まれる 1 )の生涯と、彼を取り巻く歴史的背景について、現存する史料に基づき詳細かつ徹底的に考究することを目的とする。

小笠原長雄は、石見国の有力国人・石見小笠原氏の当主として、中国地方の覇権を争った大内氏、尼子氏、そして毛利氏という巨大勢力の狭間で、激動の時代を生き抜いた武将である。その生涯は、石見銀山という当代随一の富の源泉を巡る争奪戦と深く結びついており、彼の動向は地域情勢に大きな影響を与えた。ユーザーが事前に有していた「大内家臣。温湯城主。主君・義隆の死後は尼子家に属した。大森銀山に進出し、これを領有した。のちに毛利元就軍に攻められ、抵抗するが敗北し、降伏した」という情報は、長雄の生涯の骨子を的確に捉えている。しかし、彼の行動の背景にある石見小笠原氏の出自、石見銀山を巡る複雑な駆け引き、周辺国人領主との関係、そして毛利氏降伏後の足跡など、より深く掘り下げるべき点は数多い。

長雄は、単に大勢力に翻弄された存在ではなく、石見銀山という戦略的資源を背景に、主体的に勢力拡大と家名維持を図った地域権力者としての側面も有していた。本報告書では、これらの点を踏まえ、小笠原長雄という一人の武将の生涯を多角的に検証することで、戦国時代の石見地域史、ひいては中国地方の勢力変遷の一端を明らかにすることを目指す。

第一部:石見小笠原氏の出自と長雄の登場

第一章:石見小笠原氏の成立と発展

一、祖先の系譜と石見入部

石見小笠原氏の淵源は、遠く甲斐源氏に遡り、信濃国(現在の長野県)を本拠とした名門・小笠原氏の一族とされている 2 。具体的には、鎌倉時代後期の弘安年間(1278年~1288年)、元寇(弘安の役、1281年)に際し、阿波国(現在の徳島県)池田より小笠原長親なる人物が石見に来援し、その軍功によって石見国邑智郡村之郷(現在の島根県邑智郡川本町周辺)の地頭職を得て土着したのが始まりと伝えられる 2 。長親は、石見国の有力な在地勢力であった益田氏の当主・益田兼時の娘である美夜を娶り、在地社会との結びつきを強めた 2 。この婚姻は、外来の武士団が新たな土地に勢力を根付かせる上で、在地勢力の協力と関係の安定化を得るための重要な方策であったと考えられる。

南北朝時代に入ると、石見小笠原氏は足利氏方に属し、明徳元年(1390年)には室町幕府より河本郷および吉永郷の地頭職を安堵されるなど 2 、着実にその勢力基盤を固めていった。この時期を通じて、石見小笠原氏は、中央の権威と在地勢力との連携を巧みに利用し、石見国における国人領主としての地位を確立していったのである。

二、川本を中心とした勢力基盤の確立

石見小笠原氏は、邑智郡川本郷を本拠地とし、当初は赤城(島根県川本町)を居城としていたが、後代(四代・小笠原長氏または五代・小笠原長義の頃とされる)に温湯城(ぬくゆじょう、同町)を築いて本城とし、赤城は出城となったと伝えられる 3 。温湯城は江の川の支流である会下川と矢谷川に挟まれた要害の地に位置し 3 、水運や陸上交通の結節点を押さえる戦略的拠点であった。居城の移転は、単なる住居の変更に留まらず、領国経営の効率化や軍事戦略上の要請に応じた、勢力拡大への積極的な意志の表れと解釈できよう。

室町時代を通じて、石見小笠原氏は川本郷周辺の支配を盤石なものとするとともに、次第にその影響力を東方の邇摩郡(にまぐん)や那珂郡(なかぐん、いずれも現在の島根県大田市や江津市の一部)方面へも拡大していった 2 。天文11年(1542年)以降には、周防国の守護大名大内氏と結びつきを強め、その勢威を背景にさらなる勢力拡大を図った 2

三、長雄以前の主要な当主の動向(特に祖父・長隆、父・長徳)

小笠原長雄の祖父にあたる 小笠原長隆 (おがさわら ながたか、石見小笠原氏第12代当主)は、石見小笠原氏の歴史の中でも特に傑出した人物であった。永正4年(1507年)、長隆は時の西国の大大名・大内義興が足利義稙(よしたね)を奉じて上洛した軍に従い、各地を転戦した 2 。特に永正8年(1511年)の船岡山の戦いでは武功を挙げ、その功により足利義稙から従五位下上総介の官位を授けられ、褒賞として「獏頭(ばくとう)の玉枕」を拝領したと伝えられる 3 。この玉枕は、石見小笠原氏の菩提寺である長江寺(川本町)に寺宝として現存している 3 。長隆は文武に優れ、在京中は御所の警備も務めるなど、石見小笠原氏の名声を高めた 8

長隆の時代、石見国では大森銀山(石見銀山)を巡る争奪戦が激化しており、彼もこの争いに深く関与した。当初は出雲国の尼子経久に従っていたが、後に大内義興・義隆父子に帰属した 8 。享禄4年(1531年)には大内義隆の命を受けて尼子氏から大森銀山を奪回したが、天文9年(1540年)には尼子晴久の安芸侵攻に呼応して再び大森銀山を攻略するなど、大内・尼子両勢力の間を巧みに立ち回り、自家の勢力維持と拡大を図った 8 。このように、長隆の代に石見小笠原氏は中央政界との繋がりを深めると同時に、石見銀山という経済的・戦略的要衝の支配に本格的に乗り出しており、これが後の長雄の時代における複雑な勢力争いの重要な伏線となった。長隆は天文11年(1542年)4月4日に死去した 8

長隆の子であり、長雄の父にあたるのが 小笠原長徳 (おがさわら ながのり、石見小笠原氏第13代当主)である。長徳は、父・長隆の存命中である永正16年(1519年)に、佐波氏との合戦で軍功のあった家臣・井原秀信に対して感状を発給しており、早くから家中の政務や軍事を分担していたことが窺える 8 。天文11年(1542年)に父の死去に伴い家督を相続 8 。翌天文12年(1543年)には、大内義隆による尼子氏の本拠地・月山富田城攻めに従軍している 11 。長徳の治世は比較的短く、天文16年(1547年)に死去し、子の長雄が家督を継承することになる 1 。長徳に関する記録は、父・長隆や子・長雄に比べると多くはないものの、父が築き上げた石見小笠原氏の勢力基盤を維持し、混乱期にあって比較的円滑に長雄へと家督を継承させた点は評価されるべきであろう。

表1:石見小笠原氏 主要系図(長雄関連)

世代(石見)

氏名

続柄

備考

初代

小笠原長親

阿波より石見へ入部、益田氏より妻を迎える

11代

小笠原長定

長隆の父

12代

小笠原長隆

長雄の祖父

大内義興に従い上洛、石見銀山争奪に関与

13代

小笠原長徳

長雄の父

母は三隅氏 8

14代

小笠原長雄

本報告書の中心人物

母は福屋氏 1 、妻は吉川元経の娘 1

15代

小笠原長旌

長雄の嫡男

(注)石見小笠原氏の系図については諸説あり、上記は主要な情報をまとめたもの。

第二章:小笠原長雄の誕生と家督相続

一、生い立ちと時代背景

小笠原長雄は、永正17年(1520年)、石見小笠原氏第13代当主・小笠原長徳の子として、石見国邑智郡河本郷(現在の島根県邑智郡川本町)に誕生した 1 。通称は弥治郎と伝えられる 1

長雄が生まれ育った16世紀前半の中国地方は、周防の大内氏と出雲の尼子氏という二大勢力が覇権を巡って激しい抗争を繰り広げていた時代であった。特に、良質な銀を産出する石見銀山は、両勢力にとって経済的・戦略的に極めて重要な拠点であり、その支配権を巡る争奪戦は絶え間なく続いていた。石見国はまさにその最前線に位置し、在地国人領主たちは否応なくこの大勢力の争いに巻き込まれ、自らの進退を常に問われる状況にあった。長雄は、このような緊張感に満ちた環境の中で成長し、国人領主としての処世術を身につけていったと考えられる。祖父・長隆が石見銀山を巡って大内・尼子間を渡り歩いた姿は、若き長雄にとって、厳しい戦国乱世を生き抜くための現実的な方策を学ぶ機会となったであろう。

二、家督相続の経緯

天文16年(1547年)、父・長徳が死去したことに伴い、小笠原長雄は28歳で家督を相続し、石見小笠原氏の第14代当主となった 1 。戦国武将としては標準的な年齢での家督相続であり、父の比較的早い死により、若くして激動の時代の領国経営と軍事指揮の重責を担うことになった。

家督相続の翌年、天文17年(1548年)には、長雄は石見銀山を占領するという迅速かつ大胆な行動に出ている 1 。この事実は、長雄自身が家督相続以前から一定の政治的・軍事的才覚を有していたこと、あるいは父・長徳の時代から石見銀山への関与を深めるための準備が進められていたことを示唆している。いずれにせよ、この銀山占拠は、その後の小笠原長雄の運命を大きく左右する重要な一歩となった。

三、長雄の家族構成(父母、兄弟、妻、子)

小笠原長雄の家族構成については、断片的ながら史料から以下のような情報が確認できる。

  • :小笠原長徳 1
  • :福屋氏の娘 1 。福屋氏は石見国の有力国人の一つである。
  • 兄弟 :隆章という名の兄弟がいたとされる 1
  • 正室 :吉川元経(きっかわ もとつね)の娘 1 。吉川元経は安芸国の有力国人・吉川氏の一族であり、毛利元就の次男・元春の祖父にあたる。
  • :長旌(ながしげ)を嫡男とし、他に元枝(もとしげ)、長秀(ながひで)という子がいたと伝えられる 1

長雄の婚姻関係は、当時の国人領主が生き残りのために用いた典型的な戦略、すなわち有力氏族との連携を図るものであった。母方が石見の福屋氏、妻方が安芸の吉川氏という点は、彼が石見国内外の有力者と姻戚関係を結ぶことで、自家の地位安定と勢力拡大を目指していたことを示している。しかしながら、これらの婚姻関係が必ずしも永続的な同盟を保証するものではなかったのが戦国時代の常である。例えば、母方の福屋氏とは後に石見銀山や所領を巡って利害が対立し、敵対関係となる局面も見られた 11 。また、妻方の吉川氏は、後に毛利両川体制の一翼を担う吉川元春の家であり、長雄が最終的に毛利氏に降伏する際には、この縁戚関係が何らかの影響を及ぼした可能性も考えられる。吉川元経の娘を妻に迎えた具体的な時期は不明であるが、毛利氏が中国地方の覇権を確立する以前の、国人領主としての吉川氏との関係構築であった可能性が高い。

第二部:激動の時代を生きた長雄の生涯

第一章:大内氏、そして尼子氏への臣従

一、大内義隆への臣従と初期の活動

小笠原長雄が家督を相続した天文16年(1547年)当初、石見小笠原氏は父祖以来の関係から、周防国(現在の山口県東部)を本拠とする西国随一の大大名・大内義隆の麾下にあった 1 。この時期の長雄の具体的な活動内容を伝える史料は乏しいが、石見国における大内氏の勢力下で、在地領主としての地位を維持しつつ、虎視眈々と勢力拡大の機会を窺っていたものと考えられる。

当時の大内義隆は、相次ぐ軍事行動の失敗や、文治政策への傾倒などから、領国内の統制に緩みが生じ始めていた。こうした中央の権力中枢の動揺は、長雄のような地方の国人領主にとっては、ある程度の自立的な行動をとる余地を生み出すものであった。長雄が家督相続直後に石見銀山を占拠し得た背景には、このような大内氏の内部事情も少なからず影響していた可能性がある。大内氏の権威が揺らぐ中で、石見銀山という莫大な富を生む鉱山を実力で確保しようとする動きは、長雄にとって自然な選択であったのかもしれない。

二、大寧寺の変と尼子晴久への帰属替え

天文20年(1551年)、大内義隆がその重臣である陶晴賢(陶隆房)の謀反によって長門国大寧寺で自害に追い込まれるという政変が発生した(大寧寺の変) 1 。この事件は、西国に君臨した大内氏の事実上の滅亡を意味し、中国地方の勢力図を一変させる大きな転換点となった。

主家である大内氏が崩壊したことにより、小笠原長雄は新たな庇護者を求めざるを得なくなった。彼は、この大内氏内部の混乱を好機と捉え、石見国において大内氏と覇権を争っていた出雲国の戦国大名・尼子晴久に帰属することを選択した 1 。これは、石見国における大内氏の影響力が急速に低下し、相対的に尼子氏の勢力が伸長するというパワーバランスの変化を敏感に察知した結果であり、戦国時代の国人領主が自家の存続を図るためにしばしば見せた現実的な行動であった。長雄にとって、尼子氏への帰属は、石見銀山の支配を維持し、さらには毛利氏など新たな脅威に対抗するための、当時の状況下における最も合理的な判断であったと言えよう。

第二章:石見銀山争奪戦と小笠原長雄

一、石見銀山の戦略的重要性

16世紀の日本において、石見銀山は佐渡金山(発見は後の時代)と並び称される国内有数の貴金属鉱山であり、その産出する銀は莫大な経済的価値を有していた 15 。当時、銀は国内外で貨幣として流通し、特に戦国大名にとっては、軍資金の調達、さらには海外貿易を通じて鉄砲や弾薬の原料となる硝石といった最新兵器や軍需物資を購入するための重要な対価であった 15 。石見銀山から産出される良質な灰吹銀は「ソーマ銀(石見銀)」として知られ、その価値は国内に留まらず、明(中国)やポルトガル商人などを介して東アジアの貿易ネットワークにも流通し、当時の世界経済にも影響を与えるほどであった 15

このような戦略的価値の高さ故に、石見銀山は、周防の大内氏、出雲の尼子氏、そして後に安芸から台頭する毛利氏といった中国地方の有力大名たちによる激しい争奪戦の的となった 10 。石見銀山を制する者は、莫大な富と軍事力を手中に収めることができ、中国地方の覇権争いを有利に進めることが可能となるため、各勢力は文字通り死力を尽くしてその支配権を確保しようとしたのである。

二、長雄による石見銀山占拠とその影響

小笠原長雄は、父・長徳の死後、家督を相続した翌年の天文17年(1548年)に石見銀山を占領した 1 。この時期、長雄は前述の通り大内義隆に属していたが、大内氏の統制力が弱まっていたこと、あるいは尼子氏からの何らかの働きかけがあった可能性も考えられる。そして、大寧寺の変を経て尼子晴久に属した後には、その支援を背景に石見銀山の支配を一時的にせよ確固たるものとした 13

長雄による石見銀山の直接支配は、石見小笠原氏の勢力を飛躍的に増大させる要因となった。銀山から得られる莫大な収益は、兵力の増強、家臣団への恩賞の配分、城郭の修築などを可能にし、石見国内における小笠原氏の発言力を著しく高めたと考えられる。しかし、それは同時に、石見銀山の獲得を目指す他の有力勢力、特に急速に勢力を拡大しつつあった毛利元就からの標的となるリスクを高めることにも繋がった。長雄の銀山占拠は、地域国人である小笠原氏が、大勢力の動向を巧みに利用し、あるいはその狭間で自勢力の最大化を図った好例と言えるが、それは常に危険と隣り合わせの賭けでもあった。

三、銀山を巡る周辺勢力との攻防

小笠原長雄による石見銀山の支配は、決して盤石なものではなかった。特に、安芸国から急速に勢力を拡大してきた毛利元就は、石見銀山の戦略的重要性を深く認識しており、その奪取を最重要目標の一つと位置づけていた。元就は、まず銀山周辺の国人領主たちの調略や攻略を進め、徐々に小笠原氏への圧力を強めていった。

その過程で、小笠原氏にとって大きな打撃となったのが、石見銀山防衛の要衝である山吹城(島根県大田市)の城主・刺賀長信(さしか ながのぶ)の毛利氏への寝返りであった 13 。刺賀長信は、一部史料によれば小笠原長雄の叔父にあたるともされ 21 、尼子方の有力武将として山吹城代を務めていたが、毛利元就の巧みな調略によって毛利方に転じた。これにより、小笠原氏は銀山防衛網の重要な一角を失い、毛利氏の銀山への道が開かれることになった。

また、福屋氏との関係も複雑な様相を呈した。毛利元就は、石見国人である福屋氏の旧領(井田・波積の地)を小笠原長雄に給与することで、小笠原氏の懐柔と自陣営への取り込みを図った 13 。しかし、この処置は、旧領を奪われた形となった福屋氏の強い不満を招き、結果として福屋氏は毛利氏に反旗を翻して尼子方へと走ってしまったのである 13 。これは、毛利元就の深謀遠慮をもってしても、国人領主間の複雑な利害関係や感情のもつれが予期せぬ結果を生むことを示す事例と言える。小笠原長雄自身も、この時期に福屋方の勢力と戦闘を交えた記録が残っており 11 、石見銀山を巡る攻防が、単なる大名間の争いだけでなく、在地国人領主間の利害対立や連携、裏切りが複雑に絡み合ったものであったことを物語っている。長雄は、こうした周辺勢力のめまぐるしい動向に常に気を配り、的確な対応を迫られる困難な立場に置かれていた。

第三章:毛利氏の台頭と温湯城攻防戦

一、毛利元就の石見侵攻と降露坂の戦い

天文24年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢を破り、大内氏の旧領の大部分を併合した毛利元就は、次なる戦略目標として石見国の完全掌握、とりわけ石見銀山の確保に乗り出した。永禄元年(1558年)、元就は嫡男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景らを率い、石見国へ本格的な侵攻を開始し、小笠原長雄の本拠地である温湯城へと迫った 1

これに対し、小笠原長雄は主筋にあたる尼子晴久に救援を要請。晴久もこれに応じ、援軍を派遣した 1 。両軍は石見国内で激突し、特に「降露坂の戦い」と呼ばれる一連の戦闘(その具体的な時期や場所については諸説あり、温湯城攻防戦全体を指して用いられる場合もある)では、小笠原・尼子連合軍と毛利軍との間で激しい攻防が繰り広げられた。この戦いは、単なる局地戦ではなく、石見銀山、ひいては石見国全体の支配権を巡る、毛利氏と尼子氏の雌雄を決する戦いの一環であり、小笠原長雄はその最前線で矢面に立たされる形となった。

二、温湯城籠城戦の詳細

毛利軍の侵攻に対し、小笠原長雄は本拠・温湯城に籠城して徹底抗戦の構えを見せた。温湯城は江の川水系に挟まれた天然の要害であり、堅固な山城として知られていた 2

永禄元年(1558年)2月、まず吉川元春率いる毛利軍の先鋒が温湯城に迫った。長雄は尼子からの援軍と共に、温湯城の支城である別当城(邑南町)に布陣してこれを迎え撃とうとしたが、衆寡敵せず温湯城への退却を余儀なくされた(出羽の戦い) 24 。しかし、この最初の攻撃では、毛利軍も温湯城を容易には攻略できなかった。

事態が動いたのは同年5月下旬(あるいは翌永禄2年(1559年)ともされる)、毛利元就自らが隆元、小早川隆景らと共に1万2千と号する大軍を率いて再度温湯城に来攻した時であった 23 。毛利軍は、温湯城の東側に位置する会下山(えげやま)に陣城(いわゆる対の城、付城)を構築して兵糧攻めの態勢を整え、温湯城への圧力を強めた 24 。さらに、温湯城の周辺にあった日和城や、かつての小笠原氏の居城であった赤城といった支城群も次々と毛利軍の手に落ち、温湯城は完全に孤立した 24

籠城する小笠原長雄にとって最後の頼みの綱は、尼子晴久が派遣するはずの援軍であった。晴久は同年7月に援軍を出陣させたものの、折からの豪雨によって江の川が増水し、渡河することができなかった 24 。この天候不順という偶発的な要因が、尼子軍の救援を不可能にし、温湯城の運命を決定づけた。毛利軍の周到かつ組織的な攻城戦略(大軍の投入、支城の各個撃破、対陣城の構築による包囲網の強化)に対し、尼子からの援軍が途絶えたことで、長雄の抵抗は限界に達した。

三、降伏と所領の変化

外部からの救援が絶望的となり、城内の兵糧や士気も尽き果てようとする中、永禄2年(1559年)8月、小笠原長雄はついに毛利氏への降伏を決断した。この降伏交渉の仲介にあたったのは、毛利元就の三男・小早川隆景であったと伝えられる 1 。隆景の説得(あるいは降伏勧告)を受け入れた長雄は、開城し、毛利氏の軍門に降った。

降伏の結果、長雄は一命こそ助けられたものの 24 、石見小笠原氏の所領は大幅に削減された。本拠地であった温湯城とその周辺の川本をはじめとする旧本領の半分は、毛利氏の石見支配の拠点として吉川氏(吉川元春)に与えられ、長雄自身は江の川の北側に所領を移された 1 。これは、小笠原氏から軍事的・経済的基盤を奪い、毛利氏への反抗能力を削ぐとともに、石見国における毛利氏の支配体制を確固たるものにするための措置であった。小早川隆景が降伏交渉の仲介に立った背景には、長雄の正室が吉川元経の娘であり、吉川元春とは姻戚関係にあったことなども影響した可能性があるが、結果として石見小笠原氏は独立領主としての地位を失い、毛利氏の支配下に組み込まれることになった。

表2:小笠原長雄 略年譜

西暦

和暦

年齢

主要な出来事

典拠

1520年

永正17年

1歳

石見国邑智郡河本郷にて、小笠原長徳の子として誕生。

1

1547年

天文16年

28歳

父・長徳の死去に伴い、家督を相続し石見小笠原氏第14代当主となる。

1

1548年

天文17年

29歳

石見銀山を占領する。

1

1551年

天文20年

32歳

大内義隆が大寧寺の変で死去。これを機に尼子晴久に属する。

1

1558年

永禄元年

39歳

毛利元就が石見に侵攻(降露坂の戦い)。温湯城攻防戦が始まる。尼子晴久に救援を要請。

1

1559年

永禄2年8月

40歳

温湯城を開城し、小早川隆景の仲介で毛利元就に降伏。所領は江の川北側に移され、旧本領の半分は吉川氏領となる。

1

1562年

永禄5年

43歳

甘南備峰山(現在の江津市)に移る。

1

時期不明

時期不明

毛利氏の尼子氏攻めに従い出雲国へ出陣。豊前国三ツ嶽城攻めに小早川隆景配下として参加。

1

1570年

元亀元年

51歳

三原(石見国内)に丸山城を築く。

1

1571年

元亀元年12月9日

51歳

死去。享年51。戒名は成太大龍居士。

1 (西暦変換済)

第四章:毛利氏臣下としての日々と最期

一、甘南備峰山への移転と毛利氏への軍役奉仕

毛利氏に降伏した後、小笠原長雄は旧来の本拠地である温湯城周辺から離れ、永禄5年(1562年)より甘南備峰山(かんなびほうざん、現在の島根県江津市にあったとされるが、正確な位置についてはさらなる検証が必要)に移り住んだ 1 。これは、毛利氏による旧勢力基盤からの切り離しと、監視下に置きやすい場所への配置転換という意図があったものと考えられる。

以降の長雄は、毛利氏の家臣として軍役を務めることとなる。具体的には、かつての主家であった尼子氏の残存勢力を掃討するための戦い、特に永禄8年(1565年)から始まる第二次月山富田城の戦いなどに従軍し、出雲国へ出陣した記録が残っている 1 。また、永禄11年(1568年)には、九州豊前国における大友氏との戦いの一環である三ツ嶽城(みつだけじょう)攻めに、小早川隆景の配下として参加している 23 。かつての敵対勢力であった毛利氏の指揮下で、旧主である尼子氏やその同盟勢力と戦うという状況は、戦国武将の過酷な運命を象徴しており、長雄個人の心情は察するに余りあるが、石見小笠原氏の家名を存続させるためには避けられない道であった。これらの従軍は、長雄の毛利氏への忠誠心を示すとともに、小笠原氏の残存兵力を毛利氏の戦力として有効活用するという毛利側の狙いもあったものと思われる。

二、三原丸山城の築城

元亀元年(1570年)、小笠原長雄は三原(みはら)の地に丸山城を築いたとされている 1 。この「三原」という地名が石見国のどの地域を指すのか、また築城の具体的な意図や背景については、史料が乏しく明確ではない。島根県内には邑智郡美郷町や大田市に三原という地名が存在する。

毛利氏に臣従した国人領主が、新たな城を築くことは比較的稀であり、この築城が毛利氏の許可を得たものであったのか、あるいは毛利氏の石見支配戦略の一環として特定の地域の守備を命じられ、その拠点として築いたものなのか、その詳細は今後の研究課題である。一説には、福屋氏の滅亡後に石見東部地域で小笠原氏が最大勢力となり、本拠地である三原地域で丸山城を築城したとの記述もあるが 2 、これが毛利氏臣従後の元亀元年の出来事を指すのか、それ以前の時期を指すのかについては、史料間の整合性を含め慎重な検討が必要となる。もし臣従後の築城であれば、毛利氏がある程度の自律性を長雄に認めていたか、あるいは特定の戦略的役割を期待していた可能性を示唆する。

三、元亀元年の死とその後の小笠原氏

三原丸山城を築いたとされる元亀元年(1570年)の12月9日、小笠原長雄はこの世を去った 1 。享年51であった。その戒名は成太大龍居士(じょうたいだいりゅうこじ)と伝えられている 1 。51歳という没年は、戦国武将としては平均的か、やや早世と言えるかもしれない。

長雄の死後、家督は嫡男の小笠原長旌(おがさわら ながしげ)が継承した 1 。石見小笠原氏は、長雄の代に独立領主としての地位を失ったものの、その後も毛利氏の家臣として存続した。江戸時代に入ると、一部の系統は長州藩(萩藩)士として仕え、その名は『萩藩閥閲録』などの記録にも見られる(例えば、小笠原友之進、小笠原弥右衛門といった家臣の名が確認できる) 1 。また、天正20年(1592年)には、毛利輝元によって石見から出雲国神西(じんざい、現在の島根県出雲市)への国替えを命じられたという記録もあり 2 、依然として毛利氏の強い統制下に置かれていたことが窺える。

長雄の死をもって、石見国人としての小笠原氏の独立性はほぼ完全に失われ、毛利氏の広大な領国支配システムの一翼を担う存在へと完全に移行していったと考えられる。しかし、長雄の降伏時の交渉やその後の毛利氏への奉公が、結果として小笠原氏の家名を近世まで繋ぐことを可能にした側面も否定できない。

第三部:小笠原長雄をめぐる諸関係と史料

第一章:主要関連人物との関係

一、主君たち(大内義隆、尼子晴久、毛利元就)との関係性

小笠原長雄の生涯は、中国地方の覇権を争った三大名、すなわち大内義隆、尼子晴久、毛利元就との関係によって大きく左右された。

  • 大内義隆 :長雄が家督を相続した当初の主君であり、父祖以来の関係であった。長雄の初期の活動は、この大内氏の勢力圏内で行われた。しかし、天文20年(1551年)の大寧寺の変による義隆の横死は、大内氏の急速な弱体化を招き、長雄の運命を大きく変える最初の転換点となった 1
  • 尼子晴久 :大内氏の混乱と滅亡後、長雄が新たに帰属した主君である。長雄は尼子氏の支援を受けて石見銀山の支配を強化し、また毛利氏の侵攻に対して共闘した 1 。しかし、尼子氏自体の勢力が次第に毛利氏に圧迫され、最終的にはその衰退が長雄の孤立と苦境に繋がった。
  • 毛利元就 :長雄にとって最大の敵対者であり、同時に最終的な主君となった人物である。元就の周到な石見侵攻戦略の前に、長雄は激しい抵抗も空しく温湯城を失い、臣従を余儀なくされた 1 。しかし、元就は長雄の命を奪うことはせず、家名の存続を許した。

長雄の主君変遷は、戦国時代の国人領主が置かれた典型的な状況、すなわち巨大勢力の動向に翻弄されながらも、自家の存続のために現実的な選択を迫られる姿を如実に示している。これらの大名にとって、長雄のような石見の有力国人は、石見銀山の支配や地域支配の安定化を図る上で、無視できない存在であった。長雄の帰属先は、石見国全体の勢力バランスに直接的な影響を与え、大名側も長雄を単に支配対象として見るだけでなく、時には戦略的に利用し、時には警戒するという複雑な視点を持っていたと考えられる。

二、周辺国人領主(吉川氏、福屋氏、佐波氏、益田氏など)との協調と対立

小笠原長雄は、主君となった大大名だけでなく、石見国内外の周辺国人領主とも複雑な関係を築いていた。

  • 吉川氏 :長雄の正室は、安芸国の有力国人・吉川元経の娘であった 1 。毛利両川の一翼を担った吉川元春は、長雄の妻の甥(元経の孫)にあたる。この姻戚関係が、温湯城陥落後の降伏交渉において、小早川隆景だけでなく吉川元春の関与や、長雄の助命に有利に働いた可能性は否定できない。しかし、降伏後には旧本領の一部が吉川氏に与えられるなど 1 、単純な友好関係ではなかった。
  • 福屋氏 :長雄の母は、石見国の有力国人・福屋氏の娘であった 1 。本来であれば緊密な協力関係にあってもおかしくない間柄だが、現実は複雑であった。毛利元就が、福屋氏の旧領であった井田・波積の地を小笠原長雄に給与したことが、福屋氏の強い反発を招き、福屋氏が毛利氏に反旗を翻して尼子方へ走るという事態を引き起こした 13 。長雄自身も、天文22年(1553年)に家臣の平田彦衛が福屋方の軍勢を破るなど、福屋氏とは敵対関係にあった時期も確認できる 11
  • 佐波氏 :石見国東部に勢力を持った国人で、祖父・長隆の代からの宿敵であった 8 。長雄も天文19年(1549年)に佐波氏と石見国太田の造山で戦った記録が残っている 11 。毛利元就が石見へ出兵する口実の一つとして、この佐波氏の救援を掲げた側面もある 13
  • 益田氏 :石見国西部に広大な勢力を有した有力国人。石見小笠原氏の始祖・長親が益田氏から妻を迎えたという古い縁戚関係があった 2 。戦国期における長雄と益田氏との具体的な関係性を示す直接的な史料は多くないが、石見国内の二大国人勢力として、時には協調し、時には緊張関係にあったと推測される。

これらの国人領主間の関係は、血縁、地縁、そして何よりも領土や石見銀山を巡る利害が複雑に絡み合い、単純な敵味方では割り切れない多層的なものであった。特に福屋氏との関係は、親族関係にありながら、毛利氏という外部勢力の介入によって敵対関係に転化しうるという、戦国時代の非情さと複雑さを示している。長雄は、これら周辺勢力とのバランスを常に考慮し、時には連携し、時には武力衝突も辞さないという厳しい外交戦略を強いられていた。

表3:小笠原長雄 関係主要人物一覧

人物名

長雄との関係

影響・備考

大内義隆

当初の主君

義隆の死(大寧寺の変)が、長雄の尼子氏への帰属替えの契機となる。

尼子晴久

大内氏滅亡後の主君

石見銀山支配や対毛利戦で支援を受けるが、尼子氏の衰退が長雄の降伏に繋がる。

毛利元就

最大の敵対者、後の主君

温湯城を攻略され降伏。所領を大幅に削減されるが、家名存続は許される。

吉川元春

毛利氏武将、長雄の妻の甥(元経の孫)

温湯城攻防戦で敵対。降伏後、長雄の旧領の一部を得る。姻戚関係が降伏条件に影響した可能性。

小早川隆景

毛利氏武将

温湯城攻防戦で敵対。長雄の降伏交渉を仲介したとされる。

福屋氏(代表)

母方の実家、石見国人

毛利氏による所領問題で敵対関係に。長雄も福屋方と戦闘。

佐波氏(代表)

石見国人、宿敵

祖父の代から続く対立関係。長雄も戦闘。毛利氏の石見介入の口実の一つ。

益田藤兼

石見国人

石見小笠原氏とは古い姻戚関係。戦国期における具体的な関係は史料に乏しいが、石見国内の有力国人として相互に影響。

刺賀長信

山吹城主、長雄の叔父(異説あり)

当初尼子方だったが毛利氏に寝返り、石見銀山を巡る攻防で小笠原氏に不利な状況をもたらす。

第二章:本拠地・温湯城と関連城郭

一、温湯城の構造、遺構、戦略的価値

小笠原長雄の時代、石見小笠原氏の本拠地であった温湯城(ぬくゆじょう)は、現在の島根県邑智郡川本町湯谷にその跡を残す山城である。城は、江の川の支流である会下川(えげがわ)と矢谷川に挟まれた、標高約219メートル(資料によっては約200メートル 2 )の独立性の高い丘陵の山頂部を中心に築かれていた 2

城の構造は、山頂に本丸(主郭)を置き、その南北に二の丸や腰曲輪を配し、尾根筋には堀切や畝状竪堀群を設けて防御を固めていた 3 。特に、曲輪の縁辺部には石材を用いた石塁構造が見られ、これは温湯城の防御施設における特徴の一つとされている 25 。発掘調査では、二の丸跡から複数の礎石建物跡やカマド跡が検出され、また中国産の青花磁器をはじめとする陶磁器類も多数出土していることから、城内には領主の居館としての機能を持つとともに、ある程度の日常的な生活空間が存在していたことが窺える 25

温湯城の戦略的価値は、その地理的条件に負うところが大きい。城の麓を流れる江の川は、石見地方における重要な水上交通路であり、また陸上においても、石見銀山と安芸国(毛利氏の本拠地)や出雲国(尼子氏の本拠地)方面とを結ぶ街道が交差する交通の要衝に位置していた 2 。このため、温湯城を掌握することは、物流と情報のハブを制することを意味し、石見小笠原氏にとっては領国経営と軍事行動の両面において極めて重要な拠点であった。この堅固な城も、永禄2年(1559年)の毛利元就による大軍の前に、激しい籠城戦の末に落城した 2

二、赤城、会下山城など関連城郭の概要

石見小笠原氏の歴史や温湯城攻防戦を語る上で、いくつかの関連城郭の存在も重要である。

  • 赤城(あかぎ) :温湯城の北東約1.5キロメートル、標高391メートルの山頂に築かれた山城である 6 。石見小笠原氏が温湯城を本城とする以前の居城であったとも、あるいは温湯城築城後はその支城(出城)として機能したとも伝えられている 3 。温湯城と連携して防衛体制を構成していたと考えられる。
  • 会下山城(えげやまじょう) :永禄元年(1558年)から翌年にかけての温湯城攻防戦の際に、毛利元就が温湯城攻略のために、そのすぐ東側の尾根上に築いた陣城(付城)である 24 。温湯城を見下ろす位置にあり、ここを拠点として毛利軍は温湯城への包囲と攻撃を強化した。会下山城の存在は、毛利軍がいかに周到な準備と大規模な土木工事を行って温湯城攻略に臨んだかを物語るものであり、戦国時代の攻城戦術の一端を示す好例と言える。

これらの城郭群は、小笠原氏の勢力範囲と防衛戦略、そしてそれを打ち破ろうとした毛利氏の攻城戦略を具体的に示しており、当時の石見地域における軍事的情勢を理解する上で貴重な手がかりとなる。

第三章:小笠原長雄研究における主要史料

小笠原長雄および石見小笠原氏の研究を進める上で、いくつかの重要な史料群が存在する。

一、『萩藩閥閲録』、『中世川本・石見小笠原氏関係史料集』等の紹介

  • 『萩藩閥閲録』 :江戸時代に長州藩(萩藩)が編纂した藩士の家系や由緒に関する記録集である。石見小笠原氏の一部は毛利氏に臣従した後、長州藩士として存続したため、同書には小笠原氏関連の記述が含まれている 1 。具体的には、巻81「小笠原友之進」や巻94「小笠原弥右衛門」といった家臣の項目に、石見小笠原氏の系譜や戦国時代の動向に関する情報が断片的ながら記されている 6 。これらは後世の編纂物ではあるが、各家に伝来した古文書を元にしている場合もあり、貴重な情報源となり得る。
  • 『中世川本・石見小笠原氏関係史料集』 :島根県邑智郡川本町教育委員会が編集・発行した史料集で、石見小笠原氏に関連する古文書や記録を網羅的に収集・整理し、翻刻や解題を付したものである 6 。鎌倉時代から安土桃山時代に至るまでの石見小笠原氏の歴史的実態を解明する上で、最も基礎的かつ重要な史料集と位置づけられる。
  • 『川本町誌 歴史編』 :川本町が編纂した自治体史で、地域史の観点から石見小笠原氏の歴史や関連する文化財について記述している 9
  • 井上寛司氏の研究 :島根大学名誉教授の井上寛司氏は、石見小笠原氏に関する古文書の研究を長年にわたり進めており、その成果は「石見小笠原文書について」(『山陰地域研究』(伝統文化)第2号、1986年)などの論文で発表されている 1 。これらの学術的研究は、史料の解釈や歴史像の構築において不可欠である。

これらの史料は、それぞれ編纂された時代や目的、性格が異なるため、相互に比較検討し、史料批判を経ることで、より客観的で信頼性の高い小笠原長雄像に迫ることが可能となる。

二、『平田家文書』に見る長雄発給文書の意義

石見小笠原氏の家臣であった平田家に伝来した古文書群、通称**『平田家文書』**(島根県邑智郡川本町田窪 平田家所蔵)は、小笠原長雄自身が発給した書状や感状などを含む一次史料であり、その歴史的価値は極めて高い 11

これらの文書の中には、例えば以下のようなものが確認できる。

  • 天文22年(1553年)12月21日付で、小笠原方の平田彦衛(ひらた ひこえ)が石見国日和村(ひわむら)において福屋方の軍勢を破った戦功に対し、小笠原長雄がその忠節を賞して発給した感状 11
  • 弘治3年(1557年)4月27日付で、長雄が平田氏に対して発給した感状 31
  • 永禄5年(1562年)2月13日付で、長雄が発給した感状(こちらは『清水文書』所収) 32

これらの長雄自身が発給した一次史料は、彼の具体的な活動内容、当時の戦闘の状況、家臣との主従関係の実態、恩賞給与の方針などを生々しく伝えるものであり、二次史料や編纂物では得られない貴重な情報を提供してくれる。特に感状の内容を分析することで、長雄がどのような軍事行動を指揮し、どのような功績を評価したのか、また、当時の武士の価値観や戦闘の実態の一端を垣間見ることができる。これらの文書は、小笠原長雄という武将の人物像や、彼が置かれた時代の状況をより深く理解するための鍵となる。

結論

小笠原長雄の生涯の総括と歴史的評価

小笠原長雄は、戦国時代の石見国という、中央の巨大権力である大内氏、尼子氏、そして毛利氏が石見銀山という当代随一の戦略的資源を巡って激しく角逐した舞台において、在地国人領主としてその興亡の渦中に身を置いた武将であった。彼の生涯は、主家の変転、石見銀山の一時的な掌握と失陥、そして最終的な毛利氏への降伏と臣従という、まさに戦国乱世の厳しさと複雑さを凝縮したものであったと言える。

長雄は、単に大勢力に翻弄されるだけの弱小領主ではなかった。家督相続直後の石見銀山占拠に見られるように、機を見て大胆に行動し、尼子氏という後ろ盾を得て一時的にせよその支配を確立するなど、主体的に自家の勢力維持と拡大を図ろうとした。温湯城における毛利軍への徹底抗戦も、彼の武将としての気概と、領地を守ろうとする強い意志の表れであった。

しかし、毛利元就という戦国屈指の謀将が率いる強大な勢力の前に、独立領主としての道は絶たれた。所領の大幅な削減と毛利氏への臣従は、石見小笠原氏にとって大きな屈辱であったに違いない。だが、長雄はその後も毛利家臣として軍役を務め、家名を存続させる道を選んだ。この現実的な判断と適応能力こそが、激動の時代を生き抜くための彼の選択であり、結果としてその血脈を近世へと繋ぐことを可能にした。

長雄の評価は、単に「敗者」として片付けられるべきではない。むしろ、巨大勢力の狭間で、限られた選択肢の中で最善を尽くし、家と領民を守るために苦闘した「適応者」としての側面も正当に評価されるべきである。彼の行動は、石見地域における勢力図の変動に少なからず影響を与え、また自身もその変動の波に深く飲み込まれた、戦国期国人領主の典型的な姿を我々に示している。

石見国人領主としての存在意義と限界

石見国は、地理的に山がちで広大な平野が少なく、そのため統一的な支配権力が育ちにくい環境にあった 33 。結果として、小笠原氏をはじめとする多くの国人領主が各地に割拠し、それぞれが一定の独立性を保ちながら勢力を競い合っていた 33 。これらの国人領主は、時には連合して外部勢力に対抗しようとする動き(国人一揆など)も見せたが 33 、戦国時代が進行し、毛利氏のようなより広域を支配し、強大な軍事力と経済力、そして高度な統治システムを持つ戦国大名が登場すると、その独立性を維持することは次第に困難となっていった。

小笠原長雄の生涯は、まさにこの戦国期国人領主が直面した存在意義と限界を体現している。彼は石見国内において有数の勢力を誇ったが、最終的には毛利氏という巨大な力の前には抗しきれず、その支配体制に組み込まれていった。これは、長雄個人の能力の問題というよりも、戦国時代における国人領主という存在形態そのものが持つ構造的な限界であったと言える。彼らは、自らの領地の経営と防衛には長けていたかもしれないが、広域的な戦略や外交、そして圧倒的な物量戦を展開する戦国大名に対抗するには、その力はあまりにも小さかったのである。

小笠原長雄の物語は、戦国という時代に翻弄されながらも、必死に生き残りを図った一人の地方武将の記録であると同時に、日本の歴史が大きな変革期を迎える中で、旧来の地域権力が新たな秩序へと吸収されていく過程を示す貴重な事例と言えるだろう。

参考文献

(本報告書作成にあたり参照した主要な史資料・文献)

  • 『萩藩閥閲録』 1
  • 川本町教育委員会編『中世川本・石見小笠原氏関係史料集』 6
  • 『平田家文書』(邑智郡川本町田窪 平田家所蔵) 11
  • 川本町誌編纂委員会『川本町誌 歴史編』(1977年) 9
  • 井上寛司「石見小笠原文書について」(島根大学山陰地域研究総合センター編『山陰地域研究』(伝統文化)第2号、1986年) 1
  • その他、本文中に典拠として示した各ウェブサイト及びPDF資料。

引用文献

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