日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての歴史を語る上で、小西行長の名はキリシタン大名、豊臣秀吉の側近、そして文禄・慶長の役における外交の主役として、広く知られている。しかし、その弟である小西行景(こにし ゆきかげ)については、兄の輝かしい功績の影に隠れ、その人物像は断片的にしか伝えられてこなかった。「豊臣家臣。行長の弟。キリスト教に帰依した。関ヶ原合戦では行長の居城・肥後宇土城を守備して加藤清正軍と戦うが、西軍の敗戦を聞いて開城し、自害した」 1 。これが、これまで語られてきた小西行景の生涯のほぼ全てであった。
しかし、この簡潔な記述の裏には、一人の武将の壮絶な生涯と、歴史の勝者によって意図的に形成された可能性のある物語が隠されている。近年の歴史研究、特に新史料の発見は、彼の最期に関する通説に大きな疑問を投げかけている。行景の生涯、とりわけその最期を巡る真相の探求は、単なる一個人の伝記の再構築に留まるものではない。それは、関ヶ原の戦いという天下分け目の合戦が、遠く離れた地方にどのような影響を及ぼしたのか、敗者となった者たちの運命がいかに過酷であったか、そしてキリシタンという信仰を持つ武士が「武士道」という規範とどのように向き合ったのかという、より大きな歴史的問いへと繋がっていく。
本報告書は、これまで散逸し、断片的にしか顧みられてこなかった史料を丹念に繋ぎ合わせ、多角的な視点から小西行景という武将の実像に迫ることを目的とする。彼の出自と信仰の背景、兄・行長の代理として肥後を統治した実績、そして宇土城攻防戦における武勇と、その最期を巡る「自害説」と「処刑説」の徹底的な検証を通じて、歴史の影に埋もれた一人の武将の真実の姿を明らかにしていく。
小西行景という人物を理解するためには、まず彼が生まれ育った小西一族の特異な背景を深く掘り下げる必要がある。小西家は、戦国時代に勃興した多くの武家とは一線を画す存在であった。彼らは単なる武士ではなく、国際貿易港・堺の豪商であり、かつ日本におけるキリスト教布教の黎明期から深く関与した熱心な信徒の一族であった。この「商人」と「キリシタン」という二重のアイデンティティは、行景を含む小西家の人間たちの行動原理を深く規定し、その運命を大きく左右することになる。
小西家の礎を築いたのは、行景の父・小西隆佐(りゅうさ)である。堺の薬種問屋を営む豪商であった隆佐は、早くからイエズス会との関係を築いた 2 。天文20年(1551年)には、フランシスコ・ザビエルが京都に滞在した際の世話役を務めたことが記録されており、これが小西家とキリスト教の最初の接点となった 4 。隆佐自身は永禄8年(1565年)、宣教師ガスパル・ヴィレラより洗礼を受け、キリシタンとなった。その洗礼名は「ジョウチン」であった 4 。
この信仰は隆佐個人に留まらなかった。妻のワクサ(洗礼名:マグダレーナ)や、長男の如清(じょせい、洗礼名:ベント)は隆佐よりも早く洗礼を受けており、一家を挙げての熱心なキリシタンであったことがわかる 3 。次男の行長(洗礼名:アゴスチイノ)を筆頭に、三男の行景(洗礼名:ジョアン)、そして弟の主殿介(洗礼名:ペドロ)、与七郎(洗礼名:ルイス)に至るまで、兄弟の多くが洗礼を受けていた 6 。
このように、小西家にとってキリスト教信仰は、単に南蛮貿易を円滑に進めるための政治的・経済的なアクセサリーではなかった。それは、ザビエル来日の初期から続く、世代を超えて受け継がれた一族の核となるアイデンティティそのものであった。この事実は、後に政治的・軍事的な局面で彼らが下す決断、特に信仰と武士道が衝突する場面での行動を理解する上で、極めて重要な鍵となる。彼らの力は、伝統的な土地支配に根差した武家のそれとは異なり、商業資本、海運の知識、外交手腕、そしてキリスト教という国際的なネットワークが融合した、他に類を見ない「ハイブリッドな権力」であったと言えよう。
氏名/洗礼名 |
続柄 |
通称/官位 |
備考 |
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小西隆佐(ジョウチン) |
当主 |
弥九郎、和泉守 |
堺の豪商。豊臣政権下で堺奉行。熱心な初期キリシタン 4 。 |
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ワクサ(マグダレーナ) |
隆佐の妻 |
- |
隆佐と共に一族の信仰の礎を築く 6 。 |
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小西如清(ベント) |
長男 |
- |
薬種商を継ぎ、堺代官などを務める。父や弟たちと同じくキリシタン 2 。 |
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小西行長(アゴスチイノ) |
次男 |
弥九郎、摂津守 |
豊臣秀吉の家臣。肥後南半国の大名。文禄・慶長の役で活躍 3 。 |
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小西行景(ジョアン) |
三男 |
隼人、隼人正 |
本報告書の主題。兄・行長の宇土城代を務める 1 。 |
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小西主殿介(ペドロ) |
四男 |
主殿介 |
隈庄城代を務めたとされる。兄たちと共にキリシタン 6 。 |
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小西与七郎(ルイス) |
五男 |
与七郎 |
知行2千石。慶長の役で戦死 7 。 |
小西家の三男として生まれた行景は、兄・行長の飛躍と共に歴史の表舞台に登場する。天正16年(1588年)、豊臣秀吉による九州平定後、兄・行長が肥後国人一揆の鎮圧における功績などにより、肥後南半国(宇土・益城・八代郡など)約14万6千石(諸説あり)の大名に封じられた 9 。行景もこの時、兄に従って肥後へ入国した 12 。
肥後において、行景は兄から5,000石の知行を与えられ、兄の居城となる宇土城の城代に任じられた 1 。通称は「隼人」または「隼人正」として知られ、多くの史料で「小西隼人」として言及されている 1 。この城代という役職は、単なる城の留守番役ではない。特に、主君である行長が中央政権の要職を担い、長期にわたって領国を離れることが多い小西家においては、領国経営の全般を統括する極めて重要な地位であった。
そして、一族の伝統に違わず、行景もまた敬虔なキリシタンであった。彼の洗礼名は「ジョアン」と記録されている 1 。この信仰は、彼の公私にわたる行動、そしてその後の運命を決定づける、彼の精神的支柱であった。堺の豪商の子として生まれ、キリシタン信仰の中で育ち、そして兄と共に肥後の統治者となった行景の人生は、まさに小西一族の特異な歴史を体現するものであった。
小西行景は、単に兄・行長の威光を借りた存在ではなかった。彼は、兄が豊臣政権の中枢で、また朝鮮半島という国際舞台で活躍する間、その権力の源泉である肥後南半国を実質的に統治し、支え続けた有能な武将であり、優れた実務家であった。本章では、これまであまり光が当てられてこなかった、城代としての行景の具体的な実績を検証する。天草国人一揆における武功と、兄の長期不在中における領国経営の実態は、彼が小西家の領国支配において不可欠な「錨(いかり)」の役割を果たしていたことを雄弁に物語っている。
行景が肥後に入国して間もない天正17年(1589年)、小西家の支配基盤を揺るがす大きな事件が発生する。天草国人一揆である。この一揆は、行長が新たに築城を開始した宇土城の普請費用や人夫役を天草の国人衆(天草五人衆)に命じたことが直接的な引き金となった 3 。天草五人衆は、同じく秀吉から所領を安堵された立場であり、「なぜ同じ立場の小西行長の命令に従わなければならないのか」と強く反発したのである 3 。
この一揆の鎮圧において、小西行景は重要な軍事的役割を果たし、目覚ましい活躍を見せたと記録されている 1 。この事実は、彼が単なる行政官僚的な城代ではなく、実戦を指揮する能力に長けた武将であったことを明確に示している。一揆には、同じ肥後半国を領有する加藤清正も介入したが、この鎮圧における行景の功績は、小西家が肥後、特にキリシタンが多く複雑な情勢を抱える天草地方に支配を確立する上で、大きな意味を持つものであった。
小西行景の統治者としての真価が最も発揮されたのは、兄・行長の長期不在期間中であった。天正20年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけての文禄・慶長の役において、兄・行長は第一軍の将として、また明との和平交渉の責任者として、足掛け7年もの間、その大半を朝鮮半島で過ごした 9 。
この間、行景は宇土城代として、また史料によっては隈庄城代も兼務し 1 、肥後南半国全域の政務、軍事、民政を実質的に一人で担っていた。これは単なる「留守居役」という言葉で片付けられるものではなく、まさしく領主代理としての統治そのものであった 16 。兄・行長が国家的な大事業に従事できたのは、弟の行景が本拠地である肥後を安定的に治め、経済的・人的な基盤を支え続けていたからに他ならない。
広大で、かつ国人一揆の火種を常に抱える不安定な領地を、主君の長期不在という困難な状況下で大きな破綻なく維持し続けたことは、行景が優れた統治能力と、家臣団をまとめ上げる確かな指導力を有していたことの何よりの証明である。歴史の脚光は、朝鮮半島で華々しく活躍した兄・行長に当たりがちだが、その輝かしい功績の背後には、故郷・肥後を堅実に守り続けた弟・行景の地道で、しかし極めて重要な貢献があったことを見過ごしてはならない。彼は、華々しい外交官であった兄に対し、小西領という国家の「内務大臣」とも言うべき存在だったのである。
慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突した関ヶ原の戦いは、その勝敗が日本の未来を決定づけた。しかし、この天下分け目の戦いは、美濃の主戦場から遠く離れた九州においても、各大名の存亡を賭けた激しい局地戦、いわば「地方の関ヶ原」を誘発した。その中でも、肥後国における小西領を巡る加藤清正と小西行景の戦い、すなわち「宇土城攻防戦」は、特に熾烈を極めた戦いの一つとして記録されている。
関ヶ原の戦いが勃発すると、豊臣恩顧の大名でありながら、石田三成ら文治派と対立していた加藤清正は、いち早く東軍への加担を表明した。そして、徳川家康から「肥後・筑後切り取り次第」、すなわち両国を実力で制圧し、自らの領地とすることを認めるという破格の御内書を取り付けた 20 。長年の宿敵であり、領地を隣接させる小西行長が西軍の主力として関ヶ原に出陣している今、清正にとって小西領を併呑する絶好の機会が訪れたのである。
一方、宇土城では、城主・行長と主力兵の不在という絶望的な状況にあった 21 。城を守るのは、城代の小西行景、そして同じく小西家の重臣である南条元宅、さらに文禄・慶長の役で外交官としても活躍した歴戦の勇将、内藤如安(洗礼名:ジョアン)らであった 1 。彼らは、圧倒的な兵力で迫り来るであろう清正軍を前に、手勢を固め、籠城の準備を整えた。当時の人々は、「宇土城は兵も食料も不足しているが、内藤如安がいるから落ちるはずがない」と噂したと伝えられており、城兵の士気は決して低くはなかった 22 。
慶長5年(1600年)9月19日、宇土城郊外の石ノ瀬口で前哨戦の火蓋が切られた 20 。翌20日には清正の本隊が宇土に到着し、21日には城下町を焼き払い、五方向からの宇土城総攻撃が開始された 21 。
行景率いる籠城軍は、兵力で圧倒的に劣りながらも、地の利を活かして勇猛果敢に戦った。特に特筆すべきは、水軍を駆使した攻防戦である。宇土城は本丸北側に運河を引き込み、有明海と繋がる「海の城」としての機能を持っていた 3 。清正軍は、この運河を利用して船で城に攻め寄せたが、行景らは城内からの正確な砲撃によってこれを撃退し、加藤水軍を率いる重臣・梶原景俊(かじわら かげとし)を討ち取るという大きな戦果を挙げた 1 。この的確な采配は、敵方である加藤方からも高く評価されたと伝えられている 1 。この一点からも、行景が単なる代理の城代ではなく、戦術眼に優れた指揮官であったことが窺える。
しかし、戦況は徐々に小西方に不利に傾いていく。行景は、南の八代・麦島城を守る小西行重や、薩摩の島津氏に援軍を要請すべく使者を送った。だが、この使者は道中で加藤軍に捕らえられてしまう。清正はこの機を逃さず、偽の使者を立てて援軍を装わせ、麦島城から出陣した小西の援軍を宮原の乱橋付近で待ち伏せし、壊滅させた 1 。これにより、宇土城は外部からの救援の望みを完全に断たれ、孤立無援の籠城戦を強いられることとなった。
この絶望的な状況の中、清正は心理戦を仕掛ける。イエズス会の宣教師二人を城に派遣し、同じキリシタンとして降伏を勧告させたのである。これは、共通の信仰に訴えかけることで城内の結束を乱そうという狙いであった。しかし、行景はこの勧告に対し、「信仰と軍事は無関係である」と述べ、毅然としてこれを拒絶した 1 。この言葉は、彼の複雑な内面を象徴している。彼は敬虔なキリシタンでありながら、その信仰を、武士としての主君への忠誠や城代としての責任を放棄する言い訳にはしなかった。彼の行動原理においては、戦場における武士としての義務は、個人的な信仰とは別の次元で全うされるべきものであった。これは、戦国時代のキリシタン武将が直面した「信仰と武士道」の相克に対する、行景なりの一つの答えであったと言えよう。彼のこの態度は、単なる頑迷さではなく、二つの異なる価値観を自らの内に統合しようとする「キリシタン武士道」の表れであった。
小西行景の生涯における最大の謎であり、本報告書の核心部分となるのが、その最期を巡る問題である。宇土城の開城後、彼はどのようにして命を落としたのか。長らく通説として語られてきた「武士としての名誉ある自害」という物語と、近年の研究によって浮かび上がってきた「約束を反故にされた上での処刑」という全く異なる説。この二つの説を、根拠となる史料と共に徹底的に比較・検討し、歴史の深層に隠された真相に迫る。
江戸時代に成立した『肥後国誌』や『常山紀談』などの編纂物によって形成され、長きにわたり定説とされてきた物語は、次のようなものである。
関ヶ原の主戦場での戦いが東軍の勝利に終わった後、その報は直ちには九州に届かなかった。宇土城の籠城戦が約一ヶ月に及んだ慶長5年10月20日、関ヶ原から命からがら落ち延びてきた小西家家臣の加藤吉成と芳賀新五の両名が、ついに宇土城に到着する 1 。彼らは、西軍の全面的な敗北と、主君・小西行長が捕縛され、10月1日に京都六条河原で斬首されたという悲報、そして行長自筆の書状を携えていた。
主君の死と、もはや西軍の勝利が絶望的であることを知った行景は、ついに開城を決意する。彼は加藤清正に対し、自らの命と引き換えに、城内に籠る家臣、兵士、そして領民全ての助命を嘆願した 1 。清正はこの条件を快諾し、その義心に感じ入って酒肴を城中に送り、籠城した将兵の労をねぎらったと伝えられる 1 。
そして10月23日(一説には21日)、宇土城は静かに開城された。その翌日の10月24日、行景は熊本城下にある加藤家の重臣・下川元宣(しもかわ もとのぶ)の屋敷に招かれ、そこで武士としてのけじめをつけるべく、潔く切腹して果てたとされる 1 。この物語は、敗軍の将としての責任を全うした、武士の鑑として美しい最期を描き出している。
しかし、この通説には当初から大きな矛盾が内包されていた。第一部で詳述した通り、小西行景は一族代々の熱心なキリシタンであり、その洗礼名は「ジョアン」であった。キリスト教の教義において、自らの命を絶つ「自殺」は、神から与えられた生命を自ら放棄する行為として、最も重い罪の一つとされている 25 。兄・行長が関ヶ原で敗れた後、逃亡中に捕らえられた際も、キリシタンの教えを理由に自害を拒み、斬首されたことは有名である 7 。その弟である行景が、なぜ教義に真っ向から反する切腹を選んだのか。この信仰と行動の間の深刻な矛盾は、長らく「自害説」の最大の弱点であり続けた。
この長年の謎に、決定的な光を当てたのが、近年の歴史研究の成果である。特に、熊本史学会が発行する『熊本史学』第85・86合併号(2006年)に掲載された、阿蘇品保夫氏の論文『宇土城開城に関する新出史料―(慶長五年)一〇月一三日付清正書状について―』は、通説を根底から覆す可能性を秘めた新史料を提示し、学界に大きな衝撃を与えた 1 。
この論文で紹介された新出史料、すなわち慶長5年10月13日付の加藤清正の書状によれば、事態は通説とは全く異なる様相を呈する。この書状の内容から、宇土城の開城交渉は、西軍敗北の報が届いたとされる10月20日よりもずっと早く、10月13日の時点ですでに大筋で合意に達していたことが明らかになった 1 。
そして、この新説が示す最も衝撃的な事実は、行景の最期に関する部分である。通説では10月24日に名誉の自害を遂げたとされるが、処刑説では、開城合意の翌日である10月14日、行景は熊本城下の禅定寺(ぜんじょうじ)において、清正の命により一方的に「処刑」され、その遺体は穴に投げ込まれたと指摘されている 12 。これは、助命の約束を反故にした、事実上の騙し討ちであった可能性を示唆している。
日付(慶長5年) |
出来事(通説) |
根拠史料(通説) |
出来事(処刑説) |
根拠史料(処刑説) |
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9月15日 |
関ヶ原の戦い、西軍敗北 |
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関ヶ原の戦い、西軍敗北 |
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9月19日~ |
宇土城攻防戦 開始 |
『肥後国誌』等 |
宇土城攻防戦 開始 |
『肥後国誌』等 |
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10月13日 |
(籠城戦継続中) |
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清正と行景の間で開城合意が成立 |
(慶長五年)一〇月一三日付清正書状 1 |
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10月14日 |
(籠城戦継続中) |
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宇土城開城。行景、禅定寺にて処刑される |
同上史料に基づく解釈 12 |
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10月20日 |
関ヶ原からの使者が西軍敗北を伝える |
『肥後国誌』等 |
(行景は既に死亡) |
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10月23日 |
宇土城開城 |
『肥後国誌』等 |
(開城は既に完了) |
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10月24日 |
行景、下川元宣屋敷にて切腹 |
『肥後国誌』、『常山紀談』等 12 |
(行景は既に死亡) |
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「処刑説」が事実であったと仮定するならば、なぜ「名誉の自害」という物語がこれほどまでに広く、長く信じられてきたのだろうか。その背景には、歴史がしばしば勝者によって都合よく編纂されるという力学が存在する。
第一に、勝者である加藤家にとって、降伏した将を約束を破って処刑したという事実は、武士の名誉に関わる不都合な真実であった。特に、小西家の旧臣たちを新たに家臣として召し抱え、旧小西領を円滑に統治していく上で、旧主の弟を騙し討ちにしたという事実は、彼らの反感や不信を招きかねない危険な要素であった 1 。そのため、行景が自らの意思で武士らしく切腹したという物語に書き換えることで、清正の非道を隠蔽し、自らの支配の正当性を高めるという強い動機があったと考えられる。江戸時代を通じて加藤清正が「清正公(せいしょこ)さん」として神格化されていく過程で、このような「美しい物語」はより一層定着していった 32 。
第二に、敗者である小西家の記録が、一族の滅亡と共にほとんど失われてしまったことである。歴史は記録に基づいて語られるが、その記録を残す機会自体が、勝者と敗者では著しく不均衡である。小西側の視点からの記録が散逸した結果、加藤家側に都合の良い物語だけが残り、後世の史書、例えば『清正記』のような伝記に採用され、それが「事実」として流通していったのである 24 。
そして第三に、行景自身の人物像との整合性である。「処刑説」は、彼のキリシタンとしての信仰と全く矛盾しない。むしろ、教義に反する自害を拒んだ結果、処刑されたと考える方が、彼の生き様としてはるかに自然である。城代として城兵の助命という責任を果たし、武士としての忠義を全うした上で、キリシタンとして自死の罪を犯すことなく、殉教に近い形で死を受け入れた。この解釈は、彼の行動原理であった「キリシタン武士道」の論理的帰結として、非常に高い説得力を持つ。
新出史料という一次史料の存在、勝者による歴史修正の動機、そして行景自身の信仰との整合性。これらを総合的に勘案すれば、小西行景の最期は「自害」ではなく「処刑」であったとする説が、歴史的真実として極めて妥当性が高いと結論付けられる。
小西行景の死は、宇土城における一個人の死に留まらず、小西一族という特異な戦国大名の完全な終焉を意味した。本章では、彼の死後、その血脈と記憶がどのように受け継がれ、あるいは歴史の闇に葬られていったのかを追跡する。そして、これまでの分析を踏まえ、忠義、武勇、信仰という複数の価値観をその身に体現しようとした武将・小西行景を改めて評価し、歴史の敗者に光を当てることの意義を以て、本報告書の結びとしたい。
主家の滅亡は、家臣や一族の離散を意味する。しかし、小西行景の血脈は、家臣の忠義によって奇跡的に受け継がれていた。行景には、忠右衛門(ちゅうえもん)と七右衛門(しちえもん)という二人の息子がいたことが記録されている 1 。
宇土城が落城する混乱の中、家臣の白井某という人物が、長男の忠右衛門を密かに城から救出し、肥後北部の鹿本(かもと)地方へと落ち延びさせた 12 。追っ手から逃れるため、忠右衛門は「小西」の姓を捨て、「小材(こざい)」と改名し、その地で新たな人生を歩み始めた。彼の子孫は小材氏として、また次男・七右衛門の子孫は津田氏を名乗り、それぞれ武家として存続したと伝えられている 1 。主家が滅び、自らの命も危うい中で、旧主の遺児を命がけで守り抜いた家臣の存在は、小西家の主従が強い絆で結ばれていたことを示唆している。
小西行景の最期の地とされる熊本市中央区横手の禅定寺には、現在も彼の墓と伝えられるものが残されている 33 。しかし、それは立派な墓石ではなく、彼を葬ったとされる元家臣・南条元宅の墓の傍らにひっそりと置かれた、名もなき一個の自然石である 12 。この質素で、注意しなければ見過ごしてしまうような墓のあり方は、勝者である加藤家の支配下で、敗将としてその存在を公に祀ることすら許されなかった彼の運命を、何よりも雄弁に物語っている。
さらに興味深いことに、この寺の伝承では、この自然石の墓は兄・小西行長のものである可能性も示唆されている 36 。行長の遺体は京で処刑された後、イエズス会によって引き取られたとされ、その埋葬地は不明である 7 。禅定寺の伝承は、行長と行景という兄弟の悲劇的な運命が、後世の人々の記憶の中で混然一体となり、一つの象徴的な墓に集約されて語り継がれてきたことを示しているのかもしれない。
本報告書を通じて明らかになった小西行景の姿は、もはや単なる「行長の弟」という付随的な存在ではない。彼は、堺の豪商にしてキリシタンという一族のアイデンティティを継承し、兄の不在時には広大な領国を安定的に統治した有能な管理者であった。そして、関ヶ原という時代の大きな転換点においては、圧倒的に不利な状況下で一ヶ月以上も持ちこたえ、敵将からも評価されるほどの武勇を示した優れた指揮官でもあった。
彼の生涯、特にその最期を巡る「自害」か「処刑」かという議論は、単なる歴史の謎解きに留まらない。それは、キリシタン信仰と武士道という二つの規範の狭間で生きた武将の実践、関ヶ原の戦後処理における敗者への過酷な現実、そして勝者の手によって歴史がいかに編纂されていくかという、戦国末期から近世初期への移行期における重要な歴史的テーマを凝縮している。
小西行長が「抹殺されたキリシタン大名」 7 と評されるならば、その弟・行景は、その存在自体が歴史の記憶から抹殺されかけた武将であった。彼のような人物に光を当てる作業は、固定化された英雄史観や勝者の物語を見直し、敗者の視点から歴史を再構築することで、より複眼的で深みのある歴史理解へと我々を導く。忠義と信仰の狭間で壮絶な最期を遂げた宇土城代・小西行景の生涯は、まさにそのことを現代に問いかけているのである。