最終更新日 2025-06-14

小貫頼久

「小貫頼久」の画像

佐竹氏の外交と統治を支えた重臣、小貫頼久の生涯

序章:佐竹氏の懐刀、小貫頼久という存在

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、常陸国の戦国大名・佐竹氏の当主、佐竹義重・義宣の二代にわたり重臣として仕えた小貫頼久(おぬき よりひさ)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に解明するものである。一般的に知られる「外交官」「三奉行の一人」という側面にとどまらず、彼の出自、主君や同僚との関係、そして佐竹氏の権力構造の変化の中で彼が果たした役割の変遷を多角的に分析する。これにより、一人の家臣の軌跡を通して、戦国大名佐竹氏が如何にして激動の時代を生き抜き、近世大名へと変貌を遂げたのか、その実像に迫ることを目的とする。

小貫頼久は、単なる有能な家臣ではなかった。彼は、佐竹氏が存亡の危機に瀕した局面において、常にその中心で重要な役割を担った「懐刀」とも言うべき存在であった。彼の生涯を追うことは、戦国時代から近世へと移行する時代のうねりの中で、一個の武士が、そして一つの大名家がどのように生き、変容していったかを理解するための、極めて重要な鍵となる。

第一章:小貫氏の出自と頼久の登場

第一節:藤原秀郷を祖とする武門、小野崎氏からの分流

小貫頼久の権威と影響力の源泉は、個人の才覚のみならず、その出自に深く根差していた。小貫氏は、鎮守府将軍・藤原秀郷の流れを汲む常陸国の名門武家、小野崎氏の分流である 1 。具体的には、秀郷から20代目にあたる小野崎氏第13代当主・小野崎通春の次男である通伯が、常陸国久慈郡小貫村(現在の茨城県常陸大宮市小貫)に住み、小貫氏を称したことに始まるとされる 1 。小野崎氏は、2代当主・通長の代から佐竹氏に臣従しており、小貫氏はその中でも特に家格の高い譜代の重臣一門であった 2

戦国時代の武家社会において、家系の正統性は極めて重要であった。特に佐竹氏のような古い源氏の名門においては、譜代家臣(累代の家臣)であることは、その忠誠心と家格を保証する何よりの証であった。頼久が若くして外交の使者といった国家の命運を左右する重責を担うことができたのは、この譜代の重臣という揺るぎない立場があったからに他ならない。彼の存在は、後に佐竹義宣が家柄にとらわれず渋江政光や梅津政景といった新参の能吏を抜擢していく統治体制への過渡期にあって、旧来の譜代家臣層の権威と安定を象徴するものであった 3 。常陸大宮市に現存する小貫城跡や、小貫氏の関与が考えられる龍泉寺の存在は、この一族が地域に深く根差し、佐竹氏の領国支配の一翼を担っていたことを物語っている 5

第二節:父・頼俊と兄・頼行 ― 宿老の家系

頼久の父は、小貫伊勢守頼俊といい、佐竹氏18代当主・佐竹義昭の宿老(家老)として重きをなした人物である 6 。『佐竹家譜』によれば、佐竹宗家と一族の山入氏が争った「部垂(へたれ)の乱」において、小貫俊通が宇留野義元に攻め殺された際、当時わずか二歳であった頼俊が乳母に抱かれて太田城へ逃れたという逸話が記されている 6 。この逸話は、小貫家が佐竹宗家と文字通り運命を共にし、その苦難の歴史を分かち合ってきたことを象徴している。

頼久には頼行(よりゆき)という兄がいたが、早くに亡くなったため、弟の頼久が家督を継承した 6 。史料上、この頼行と頼久はしばしば混同されることがある。その主な理由は、両者が共に「佐渡守」という受領名を名乗った時期があるためである 6 。しかし、この混同は単なる記録の誤りではなく、頼久の経歴を解明する上での重要な手がかりとなる。兄・頼行が先に佐渡守を名乗り、その早世後、家督と共にその官途名をも頼久が引き継いだと考えられる。これは、一族の家格と政治的地位を維持するための措置であっただろう。

その後、頼久は自身の経歴を歩む中で、名を「頼安」から「頼久」へ、官途名を「佐渡守」から「大蔵丞(大蔵大輔とも)」へと改めている 7 。この改名は、彼が兄の影から脱し、特に新当主・佐竹義宣の下で、佐竹家の筆頭家臣として独自の地位を確立していく過程を示すものと解釈できる。天正年間後半の古文書に見られる花押の変遷は、彼が佐竹家中の実権を掌握していく様を如実に物語っている 7

第二章:「鬼義重」の時代 ― 外交官としての飛躍

第一節:激動の関東情勢と佐竹氏の「取次」

小貫頼久が家臣として頭角を現した16世紀後半、佐竹氏は存亡の危機にあった。南には関東の覇権を狙う小田原の北条氏、北には奥州統一を目指す米沢の伊達氏という、二大勢力による挟撃の脅威に常に晒されていたのである 2 。この絶体絶命の状況を打開するためには、軍事力のみならず、周辺勢力との同盟や和睦を駆使した高度な外交戦略が不可欠であった。この時代、大名間の交渉を担う使者は「取次(とりつぎ)」と呼ばれ、単に主君の言葉を伝えるだけでなく、交渉の成否によって一国の運命を左右する、極めて重要な役割を担っていた 11

頼久は、その譜代の家柄に裏打ちされた信頼と、卓越した交渉能力を見込まれ、主君・佐竹義重の「取次」として抜擢された。彼は佐竹氏の外交政策の中核を担い、まさに「鬼義重」と恐れられた主君の武威を、外交というもう一つの戦場で支え続けたのである 8

第二節:対上杉・対武田外交の最前線

頼久の外交官としての手腕が最初に発揮されたのは、越後の上杉謙信との交渉であった。永禄12年(1569年)、佐竹氏と敵対する北条氏政が上杉謙信と越相同盟を結ぶと、佐竹氏は背後を突かれる危機に陥る。この窮地において、義重は頼久を越後へ派遣した。頼久は交渉の任を見事に果たし、元亀3年(1572年)2月には上杉氏との和平を成立させることに成功した 2 。この交渉の経緯は『上杉家文書』にも記録されており、彼の初の大仕事であったことがうかがえる 8

しかし、一つの外交的成功は、新たな火種を生む。上杉氏との同盟は、それまで友好関係にあった甲斐の武田信玄との関係を悪化させたのである。義重は同年12月、再び頼久(この時の名は頼安)を使者として甲斐へ遣わした。頼久は信玄との交渉にも成功し、武田氏との友好関係を復活させた 2 。軍記物である『甲陽軍鑑』にも佐竹氏からの使者に関する記述があり、当時の関東・甲信越の複雑な情勢の中で、頼久がいかに重要な役割を果たしていたかがわかる 13

これらの外交的成功は、単独の成果ではない。それは、主君・義重の軍事的成功と密接に連関していた。頼久が上杉や武田といった大国の脅威を外交交渉によって巧みに封じ込めたからこそ、義重は北条氏や常陸国内の敵対勢力との戦いに兵力を集中させることができたのである。頼久の外交は、義重が「鬼義重」の異名をとるほどの武功を挙げるための、不可欠な戦略的基盤であった。彼の働きは、戦場で槍を振るう武将に勝るとも劣らない功績であったと言えよう。

第三節:北方・南方への睨み ― 南陸奥・常陸諸勢力との折衝

頼久の外交活動の範囲は、上杉・武田といった大国に留まらなかった。『伊達家文書』や『秋田藩家蔵文書』といった史料には、彼が陸奥の芦名氏や岩城氏、さらには宿敵であった伊達氏の家臣とも書状を交わしていた記録が残されている 8 。これは、佐竹氏が関東から南奥州に広がる広域的な反北条・反伊達連合の盟主として機能しており、頼久がその複雑な外交ネットワークの結節点、すなわちハブとして機能していたことを示している。彼は、大国間のパワーバランスを読み解き、中小の国衆との利害を調整することで、佐竹氏の生存圏を巧みに確保していったのである。

第三章:「義宣」の時代 ― 豊臣政権下の奉行として

第一節:中央政権とのパイプ役

天正17年(1589年)に義重が隠居し、義宣が家督を継ぐと、頼久の役割は新たな段階に入る。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に義宣と共に従軍した佐竹氏は、秀吉から常陸国54万石の支配権を公認され、一躍、豊臣大名としての地位を確立した 2 。この飛躍の背景には、頼久が築いた中央政権との太いパイプがあった。

そのことを示す一級の史料が、近年発見された石田三成の腹心・島左近から頼久に宛てた書状である 15 。この書状は、小田原征伐直後に書かれたもので、秀吉への人質提出を渋る常陸の大掾(だいじょう)氏への対応について、三成の代理人である左近が頼久に相談するという内容を含んでいる。これは、頼久が単なる地方の外交官ではなく、豊臣政権の中枢、特に吏僚派の筆頭である石田三成と直接連携し、常陸国内の仕置きを任されるほどの信頼を得ていたことを明確に示している。佐竹氏が秀吉から破格の厚遇を受けたのは、頼久が三成との間に築いたこの強固な関係があったからに他ならない。しかし、この繋がりは、後の関ヶ原の戦いにおいて佐竹氏の運命を左右する、両刃の剣でもあった。

さらに、文禄2年(1593年)からの文禄の役(朝鮮出兵)では、頼久は義宣に従って肥前名護屋城に在陣し、同年6月には真崎兵庫助宣宗と同船して朝鮮半島へ渡海したことが、従軍した家臣の日記『大和田重清日記』に記録されている 2 。この渡海経験は、彼に中央政権の動向や全国の諸大名の情勢を肌で感じる機会を与え、その後の彼の政治家としての視野を大きく広げたに違いない。

第二節:佐竹三人衆 ― 知行割替と領国経営

豊臣政権下の大名として、佐竹氏には領国の近世的な再編が求められた。その最大の事業が、文禄4年(1595年)に行われた太閤検地後の大規模な知行割替(ちぎょうわりかえ)であった。この一大事業を断行するため、当主・義宣は最も信頼する三人の家臣を奉行(執行責任者)に任命した。それが、小貫頼久、和田昭為、そして人見藤通の三人である 2

彼ら「三奉行」は、義宣の名代として家臣団への新たな知行地を割り当てる「知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)」を数多く発給した 8 。現存する宛行状の署名形式を分析すると、三者の役割分担や関係性が見えてくる。

署名形式

主な役割の推測

典拠

小貫頼久・人見藤通 連署

外交・軍事関連の家臣への宛行が中心か

20

人見藤通・和田昭為 連署

内政・財政関連の家臣への宛行が中心か

20

人見藤通 単独奉書

調整役、あるいは広範な案件を担当

20

小貫頼久 単独奉書

特に重要な軍事・外交案件を担当

20

この表から、人見藤通が全体の調整役を担い、外交・軍事を専門とする頼久と、財政・内政に長けた和田昭為(彼は一時佐竹家を出奔したが、その才を惜しまれて帰参した経歴を持つ 21 )を繋ぐ役割を果たしていた可能性が浮かび上がる。頼久自身も、この知行割替によって久慈、那珂、茨城、行方郡内の蔵入地(直轄地)から9,000石余りを預けられており、名実ともに佐竹家中の筆頭家老としての地位を不動のものとした 8 。この三奉行制度は、佐竹氏の統治機構が、旧来の国衆連合的な体制から、当主の権力を頂点とする集権的・官僚的な近世大名へと変貌を遂げたことを象徴するものであった。

第三節:常陸南部統治の拠点・堀之内大台城

常陸国54万石の支配を確立した佐竹義宣は、その広大な領国の南部を統治するための新たな拠点として、堀之内大台城(茨城県潮来市)という巨大な平山城を築いた 2 。そして、この戦略的に極めて重要な城の城代として、小貫頼久を任命したのである 2

この城代としての任務は、単なる軍事拠点の管理に留まるものではなかった。この地域は、かつて大掾氏をはじめとする「南方三十三館」と呼ばれる国衆たちが割拠していた土地であり、佐竹氏による強引な統一に対しては根強い反発があった 20 。頼久に課せられたのは、旧領主の遺臣たちを巧みに懐柔・統制し、新たな支配体制を現地に根付かせるという、高度な政治力と行政手腕が求められる困難な仕事であった 2 。彼がこの重責に抜擢されたという事実は、義宣からの絶大な信頼を物語っている。しかし、その統治の難しさは、慶長7年(1602年)に佐竹氏が秋田へ去った後、この堀之内大台城が旧領民らによって破壊されたという事実が逆説的に示している 2

第四章:関ヶ原の戦いと秋田転封

第一節:佐竹家の苦渋の選択

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍に二分され、関ヶ原で激突する。この天下分け目の戦いにおいて、佐竹家は苦渋の選択を迫られた。当主・義宣は、石田三成との長年の親交から西軍への加担に強く傾いていた。事実、三成が七将に襲撃された際には、義宣が彼を自邸に匿い、窮地を救ったという逸話も残る 6 。一方、父であり隠居の身ながら絶大な影響力を持っていた義重は、時勢を冷静に読み、家康への味方を強く主張した。この父子の対立により、佐竹氏は明確な態度を示せないまま、曖昧な中立の立場を取るという結果になった 2

この義宣の態度は、頼久をはじめとする外交担当者が長年かけて築き上げてきた豊臣政権、特に三成との強固な関係性と、歴戦の将である義重の現実的な情勢判断との間で揺れ動いた結果であり、佐竹家が置かれた複雑な政治的立場を象徴するものであった。

第二節:徳川家康への釈明と交渉

関ヶ原での東軍の圧勝により、佐竹氏の存亡は風前の灯となった。西軍に与したと見なされれば、領地没収(改易)は免れない。この絶体絶命の状況で、義宣は最後の望みを託し、最も信頼する外交官である小貫頼久を江戸へ派遣し、家康への釈明と交渉にあたらせた 24

頼久は、義宣が上杉討伐の途中で水戸へ引き上げた理由を弁明し、さらには東軍が岐阜城を攻略したことへの戦勝祝いを述べるなど、劣勢の中で最大限の外交努力を続けた 24 。結果として、常陸国54万石から出羽国秋田20万石への大減封と、江戸から遠く離れた地への転封という極めて厳しい処分は免れなかった 2 。しかし、宇都宮氏や上杉氏(120万石から30万石へ)など、多くの大名が改易や大幅な減封処分を受ける中で、佐竹家が近世大名として存続できた背景には、頼久や一門の重臣・東義久ら宿老たちの必死の交渉があったことは想像に難くない。この最後の外交任務は、彼の生涯で最も困難なものであったが、家の存続という最低限の目標は達成された。それは、破滅的な状況下における、静かなる外交的勝利であったと言えるかもしれない。

第三節:新天地へ ― 秋田での最期

慶長7年(1602年)、頼久は主家に従い、先祖代々の地である常陸国を離れ、雪深い新領国・出羽国秋田へと移った 1 。54万石から20万石への減封は、藩財政を著しく逼迫させ、家臣団の大規模な再編成を余儀なくさせた。加えて、旧領主であった秋田氏や小野寺氏の旧臣による一揆も発生し、初期の秋田藩政はまさに多事多難であった 29

頼久は、この藩政草創期の混乱の中、宿老として義宣を支えたと考えられるが、秋田での具体的な活動を記す史料は乏しい。常陸時代とは異なり、彼の活躍の場は限られていたのかもしれない。転封の翌年である慶長8年(1603年)、頼久は土崎湊の地でその波乱の生涯を閉じた 2 。享年60。法名は香山(こうざん)と伝わる 8 。彼の死は、佐竹氏の栄光と苦難に満ちた常陸時代を象徴する最後の重臣の退場であり、一つの時代の終わりを告げる出来事であった。

終章:小貫頼久の遺産と評価

第一節:後継者と秋田小貫家の展開

小貫頼久には実子がいなかったため、彼の死後、小貫家の名跡は養子によって継承された。その養子とは、頼重といい、三奉行として頼久と共に佐竹家を支えた同僚、和田昭為の子であった 2

この養子縁組は、単なる個人的な家督相続問題として捉えるべきではない。当時、秋田藩では、藩主・義宣が渋江政光のような新参の能吏を抜擢し、藩政改革を進めていた。これは、旧来の譜代家臣層にとっては自らの影響力の低下に繋がりかねない事態であり、両者の間には緊張関係が存在した。事実、譜代家臣による渋江政光の暗殺未遂事件(川井事件)まで発生している 3 。このような政治的背景を考慮すると、譜代家臣の筆頭格であった小貫頼久が、同じく譜代の重鎮である和田昭為の子を養子に迎えたことは、旧来の有力家臣層が互いに結束し、新たな政治状況の中で自らの家門と影響力を維持しようとする、高度に政治的な同盟であったと解釈できる。

この頼重が継いだ小貫家は、その後も秋田藩の重臣として存続し、幕末に至るまで藩の要職を担った 1 。そして、この家に伝来した膨大な古文書群、すなわち『小貫家文書』は、現在、国文学研究資料館に所蔵されており、秋田藩の藩政史、特に鉱山経営や郷村支配の実態を解明するための、極めて貴重な史料群となっている 28

第二節:歴史的評価 ― 譜代の臣、能吏、そして外交家

小貫頼久の生涯は、佐竹氏の譜代の重臣としての「忠誠」、激動の時代を乗り切るための「外交」、そして近世大名の統治機構を支える「行政」という、三つの側面から総合的に評価することができる。

佐竹義重の時代には、その卓越した外交手腕によって、北条・伊達という二大勢力に挟まれた佐竹氏の生存圏を確保し、後の勢力拡大の礎を築いた。佐竹義宣の時代には、豊臣政権との重要なパイプ役を務め、三奉行の一人として太閤検地後の知行割替を断行し、佐竹氏の統治機構の近世化を推し進めた。そして、関ヶ原敗戦後には、家の存続を賭けた最後の困難な交渉に臨んだ。

彼は、戦国的な武勇や主君への個人的な忠義を体現する旧来の武士像と、中央政権との関係構築や官僚的な統治能力が求められる新しい時代の武士像の、まさに中間に生きた人物であった。彼が築いた礎の上に、渋江政光や梅津政景といった新世代の能吏たちが秋田藩の基礎を固めていく。頼久のような譜代宿老が果たした役割とその歴史的意義は、決して小さくない。彼の生涯は、戦国大名が近世大名へと脱皮する過程で、その家臣団がいかに変質し、また、その中で個々の武士が如何なる役割を果たしたかを物語る、格好の研究事例であると言えるだろう。

引用文献

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  2. 小貫頼久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B2%AB%E9%A0%BC%E4%B9%85
  3. 佐竹義宣 (右京大夫) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E5%AE%A3_(%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%A4%AB)
  4. 人見藤道とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%BA%BA%E8%A6%8B%E8%97%A4%E9%81%93
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  8. 潮来町史 page 279/1018 | ActiBook https://lib.itako.ed.jp/statics/digitalArchive/001/HTML/index279.html
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  15. ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七~ - トータルプラン長山に。 https://www.totalplan.co.jp/sub9-H19-17.html
  16. 会期は8月31日(水)まで!初となる島左近直筆の書状も展示中。特別展『石田三成と西軍の関ケ原合戦』(長浜城歴史博物館様) | 戦国魂ブログ https://sengokudama.jugem.jp/?eid=4583
  17. 嶋左近直筆の書状か 2通発見 猛将イメージ 実は外交官僚の顔も | 近江毎夕新聞 https://ameblo.jp/my-you/entry-12176213944.html
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