日本の戦国時代は、数多の武家が興亡を繰り返した激動の時代である。その中で、鎌倉時代以来の由緒を誇る名門守護大名が、かつての家臣によって滅ぼされるという「下剋上」の悲劇を体現した一族が、九州北部に勢力を張った少弐氏である。本報告書は、その少弐氏における第17代、そして最後の当主となった少弐冬尚(しょうに ふゆひさ)の生涯を、詳細かつ徹底的に検証するものである。
少弐氏は、藤原北家秀郷流を称する武藤資頼が、鎌倉幕府より大宰府の次官である大宰少弐に任じられたことに始まる 1 。以来、鎮西奉行として九州の御家人を統括し、元寇に際しては日本の防衛線の中核を担うなど、北部九州に絶大な権勢を誇った 2 。しかし、室町時代に入ると、周防の大内氏や豊後の大友氏といった周辺勢力の台頭と、度重なる内部抗争によりその勢力は次第に衰退。戦国時代に至っては、かつての栄光の面影はなく、存亡の危機に瀕していた 1 。
少弐冬尚は、まさにこの没落する名門の命運を一身に背負った人物である。彼の治世は、父の非業の死に始まり、家臣団の深刻な内紛、そして新興勢力である龍造寺氏の台頭という、内外の危機に絶えず苛まれた。本報告書では、単に冬尚個人の生涯を時系列で追うだけでなく、彼の決断の背景にあった少弐家臣団の構造的対立、九州全体の地政学的変動という複合的な要因を多角的に分析する。これにより、一個人の悲劇に留まらない、中世的名門守護大名が戦国という新たな時代に適応できず滅亡に至る、歴史の必然ともいえるプロセスを解明することを目的とする。
年代(西暦) |
元号 |
年齢 (1510年説) |
年齢 (1529年説) |
主要な出来事 |
関連人物・勢力 |
出典 |
1510年 |
永正7年 |
1歳 |
- |
少弐冬尚、生誕(一説) |
- |
3 |
1529年 |
享禄2年 |
20歳 |
1歳 |
少弐冬尚、生誕(一説) 。龍造寺隆信、生誕。 |
龍造寺隆信 |
3 |
1530年 |
享禄3年 |
21歳 |
2歳 |
田手畷の合戦。大内軍を龍造寺家兼らが撃退。冬尚、父・資元より家督を譲られたとの説あり。 |
少弐資元, 大内義隆, 龍造寺家兼, 馬場頼周 |
6 |
1536年 |
天文5年 |
27歳 |
8歳 |
大内義隆の命を受けた陶興房の攻撃により、 父・少弐資元が自害 。冬尚は蓮池城の小田資光のもとへ落ち延びる。 |
少弐資元, 大内義隆, 陶興房, 小田資光 |
1 |
1540年 |
天文9年 |
31歳 |
12歳 |
龍造寺家兼らの支援により少弐氏を再興 。勢福寺城に復帰。 |
龍造寺家兼 |
4 |
1545年 |
天文14年 |
36歳 |
17歳 |
馬場頼周の讒言により、冬尚が龍造寺一族の粛清を決行 。隆信の父・周家らが殺害される。 |
馬場頼周, 龍造寺家兼, 龍造寺周家 |
4 |
1546年 |
天文15年 |
37歳 |
18歳 |
龍造寺家兼が蒲池氏の支援を得て反攻。馬場頼周を討ち、龍造寺氏を再興。家兼は死去し、曾孫の隆信が後を継ぐ。 |
龍造寺家兼, 龍造寺隆信, 蒲池鑑盛 |
7 |
1547年 |
天文16年 |
38歳 |
19歳 |
龍造寺隆信、主筋の冬尚を攻め、勢福寺城から追放。冬尚は筑後へ出奔。 |
龍造寺隆信 |
6 |
1548年 |
天文17年 |
39歳 |
20歳 |
龍造寺本家の当主・胤栄が死去。冬尚、対馬の宗氏の支援を得て勢福寺城を回復。 |
龍造寺胤栄, 宗氏 |
4 |
1551年 |
天文20年 |
42歳 |
23歳 |
大寧寺の変 。大内義隆が自害。北部九州に権力の空白が生じる。冬尚、大友氏と結び反龍造寺勢力を結集。 |
大内義隆, 陶晴賢, 大友宗麟 |
13 |
1558年 |
永禄元年 |
49歳 |
30歳 |
龍造寺隆信、勢福寺城を攻撃。江上武種らの奮戦により持ちこたえ、和議を結ぶ。 |
龍造寺隆信, 江上武種, 神代勝利 |
13 |
1559年 |
永禄2年 |
50歳 |
31歳 |
隆信が和議を破り勢福寺城を急襲。江上武種は降伏。 冬尚は自害し、少弐氏滅亡 。弟・政興が再興運動を開始。 |
龍造寺隆信, 江上武種, 少弐政興 |
3 |
1563年 |
永禄6年 |
- |
- |
弟・政興、大友宗麟や肥前諸将の支援を得て龍造寺氏と交戦。 |
少弐政興, 大友宗麟, 有馬晴純 |
15 |
1572年 |
元亀3年 |
- |
- |
龍造寺軍が東肥前の政興を攻撃。 |
少弐政興, 龍造寺隆信 |
15 |
1576年 |
天正4年 |
- |
- |
大友宗麟の命で五条鎮定が政興に協力。政興の活動が見られる最後の記録。 |
少弐政興, 大友宗麟 |
15 |
少弐冬尚の生涯を理解する上で、まず彼の父である第16代当主・少弐資元の時代背景を把握する必要がある。資元の治世は、西国随一の大名であった周防の大内義隆による、北部九州への熾烈な圧迫に終始した。大内氏は筑前国の支配を確立し、さらに肥前国へと触手を伸ばしていた。これに対し、衰退した少弐氏は単独での対抗が困難であり、豊後の大友氏と連携することでかろうじて命脈を保つという、極めて不安定な状況に置かれていた 6 。大国間の勢力争いの狭間で、少弐氏は常に存亡の危機に立たされており、冬尚はまさにこのような暗雲立ち込める時代に生を受けたのである。
冬尚の生年については、史料によって記述が異なり、主に二つの説が存在する。一つは永正7年(1510年)説、もう一つは享禄2年(1529年)説である 3 。この約20年の差異は、冬尚の人物像、特に彼の治世における重大な決断の主体性を評価する上で、決定的な意味を持つ。
もし1529年生まれであれば、父・資元が自害した天文5年(1536年)にはわずか7歳、後年、龍造寺氏の粛清という家運を左右する決断を下した天文14年(1545年)においても16歳の少年に過ぎない。この場合、彼の行動は経験不足や若さゆえの判断の甘さ、あるいは馬場頼周ら譜代の重臣に操られた結果と解釈され、彼自身の責任は相対的に軽減される。
しかし、複数の史料や状況証拠は、1510年生まれ説の蓋然性を高めている。特に、冬尚の娘が重臣である横岳資誠に嫁いでいるという事実は重要である 3 。戦国時代の婚姻の慣習から鑑みれば、1540年代から50年代にかけての出来事と推測され、その時点で娘が嫁ぐに足る年齢であったことを考えれば、父である冬尚が1510年頃の生まれであることは不自然ではない 3 。本報告書では、この1510年説を主軸に据える。これにより、冬尚は父の死の時点で27歳、龍造寺氏粛清の際には36歳という、十分な判断能力を持つ成人の当主として描かれることになる。彼の決断は、若さゆえの過ちではなく、没落する名門の当主が置かれた苦境の中での、主体的な、そして結果として破滅的な選択であったと捉えるべきであろう。
天文年間に入ると、大内義隆の九州経略はさらに本格化する。天文3年(1534年)、龍造寺家兼の斡旋により大内氏と少弐氏の間で一度は和議が結ばれるが、これは実質的な降伏に等しいものであった 6 。この和議は長続きせず、義隆は天文5年(1536年)、重臣の陶興房に命じて再び少弐領へ侵攻させた 1 。
父・資元は、大内軍の圧倒的な攻勢の前に抗しきれず、肥前多久の地で自害に追い込まれた 6 。名門少弐氏の当主が、かつての栄華の地である大宰府から遠く離れた肥前の地で非業の最期を遂げたこの出来事は、少弐氏の没落を象徴するものであった。この時、龍造寺家兼が大内氏との和議を仲介したという事実が、後に少弐家臣団、特に譜代の家臣たちの間に家兼への不信感を植え付ける遠因となったことは見逃せない 7 。
父の死という衝撃的な事態の最中、若き冬尚は家臣に守られ、肥前蓮池城主であった小田資光のもとへと落ち延びた 4 。かつて九州北部に覇を唱えた名門の嫡男が、家臣の城を頼って流浪の身となるというこの過酷な経験は、彼の心に深い影を落としたであろう。この雌伏の時期は、彼にとって、失われた権威を取り戻すことへの強い渇望を育む期間となったに違いない。
流浪の日々を送っていた冬尚であったが、少弐氏の命脈はまだ尽きていなかった。父の代からの重臣、特に当時少弐家中で最大の軍事力を有していた龍造寺家兼を中心とする家臣団が、主家の再興のために結束したのである 4 。
天文9年(1540年)、家兼らの支援を受けた冬尚はついに勢力を回復し、少弐氏の当主として再興を果たす 6 。そして、かつての拠点であった肥前神埼の勢福寺城へと帰還を果たした 6 。この時点では、龍造寺氏の忠誠と働きは少弐氏再興の最大の原動力であり、両者の関係は主従の鑑ともいえる蜜月状態にあった。しかし、この主家を凌駕しかねないほどの力を持つ家臣の存在こそが、皮肉にも、後に訪れる破滅的な亀裂の温床となるのであった。
(注:本図は主要な人物の関係性を示したものであり、全ての人物を網羅するものではない。婚姻・養子関係は複雑であり、一部は説が分かれるものも含む。)
人物 |
所属・役職 |
主要な関係性 |
少弐冬尚 |
少弐氏17代当主 |
本報告書の中心人物。 |
少弐資元 |
少弐氏16代当主 |
冬尚の父。大内氏に攻められ自害。 |
少弐政興 |
冬尚の弟 |
兄の死後、少弐氏再興運動を起こす。 |
千葉胤頼 |
東千葉氏当主 |
冬尚の弟。兄と共に龍造寺氏と戦い自害。 |
龍造寺家兼 |
龍造寺氏(水ヶ江家)当主 |
少弐氏の家臣。田手畷の合戦などで活躍し台頭。 |
龍造寺家純 |
家兼の長男 |
馬場頼周の謀略により殺害される。 |
龍造寺周家 |
家純の長男 |
龍造寺隆信の父。馬場頼周の謀略により殺害される。 |
龍造寺隆信 |
龍造寺氏当主 |
家兼の曾孫。少弐氏を滅ぼし肥前を統一。 |
慶誾尼 |
隆信の母 |
夫・周家の死後、鍋島清房に再嫁。 |
鍋島清房 |
龍造寺氏家臣 |
慶誾尼と再婚し、隆信の義父となる。 |
鍋島直茂 |
清房の子 |
隆信の義弟。龍造寺氏の権力を実質的に継承。 |
馬場頼周 |
少弐氏家臣、綾部城主 |
少弐氏一門。龍造寺氏の台頭を妬み、粛清を画策。 |
馬場政員 |
頼周の子 |
頼周と共に龍造寺家兼に討たれる。 |
江上武種 |
少弐氏家臣、勢福寺城代 |
当初は冬尚に尽くすが、最終的に龍造寺氏に降伏。 |
横岳資誠 |
少弐氏家臣、西島城主 |
冬尚の娘婿。冬尚の死後、政興の再興運動に参加。 |
少弐氏再興の立役者となった龍造寺家兼であったが、その功績と影響力の増大は、少弐家臣団の内部に深刻な亀裂を生じさせていた。この対立の根源は、家臣団の構造そのものにあった。一方には、少弐教頼の弟を祖とし、主家と血縁関係にある一門衆で、譜代の重臣としての地位を占める馬場氏が存在した 22 。もう一方には、元来は九州千葉氏の旧臣であったともいわれ 1 、少弐氏にとっては外様の家臣でありながら、卓越した軍事的手腕によって急速に発言力を高めた龍造寺氏がいた 1 。
龍造寺家兼の武名は、享禄3年(1530年)の田手畷の合戦で大内義隆の派遣した大軍を奇策によって打ち破ったことで、九州一円に轟いた 6 。この勝利は、衰退する少弐氏にとって起死回生の一打であり、家兼は主家存続に不可欠な存在となった。しかし、その功績は彼の権力を主家である少弐氏を凌駕するほどに高め、譜代の家臣である馬場頼周らにとっては、自らの地位を脅かす危険な存在と映った 13 。家臣団内部の嫉妬と警戒心は、やがて主家の運命を破滅へと導く引き金となる。
天文14年(1545年)、龍造寺氏の排除を画策した馬場頼周は、主君・冬尚に対し「龍造寺家兼は大内氏と内通し、少弐家からの自立、ひいては乗っ取りを企てている」という内容の讒言を行った 20 。この讒言は、単なる作り話ではなかった。家兼が過去に大内氏との和議を斡旋した事実 7 や、その勢力が主家を圧倒しているという客観的な状況 25 が、頼周の言葉に恐ろしいほどの信憑性を与えていた。
ここで問われるべきは、なぜ冬尚がこの讒言を信じ、最大の功臣である龍造寺一族の粛清という破滅的な決断を下したのかである。その背景には、彼の置かれた極めて脆弱な権力基盤があった。父の代からの衰退と、自身の流浪の経験により、冬尚の当主としての権威は盤石ではなかった。彼の権力は、龍造寺氏の軍事力に大きく依存していたが、その依存こそが、いつかその力に飲み込まれるのではないかという根源的な恐怖を生み出していた。
この状況下で、一門であり譜代の重臣である馬場頼周からの「龍造寺は裏切る」という進言は、冬尚の猜疑心を強く刺激した。「譜代の忠臣」対「成り上がりの功臣」という単純な二項対立の構図で事態を捉えてしまった冬尚は、自らの権威を再確立する手段として、最も力の強い家臣を排除するという短絡的かつ致命的な選択に至ったのである。これは、彼の個人的な資質の問題以上に、衰退する守護大名が、実力主義が支配する戦国時代に適応できずに陥った構造的なジレンマの表出であった。
冬尚の許可を得た馬場頼周は、周到な謀略を実行に移す。偽りの軍令で龍造寺の軍勢を各地に分散させ、個別に撃破した 7 。そして天文14年(1545年)正月、和議を装って呼び出した龍造寺一族の主だった者たちを、神埼郡祇園原などでことごとく謀殺したのである 20 。この粛清により、龍造寺家兼の子である家純や家門、そして孫であり龍造寺隆信の父である周家、叔父の頼純、家泰らが命を落とした 5 。この凄惨な事件は、単なる家中の政治的対立を、血で血を洗う個人的な復讐劇へと転化させ、両家の間に決して埋まることのない溝を刻み込んだ。
一族の多くを失いながらも、90歳を超える老将・龍造寺家兼は辛うじてこの謀略から逃れた。彼は筑後国の柳川城主・蒲池鑑盛を頼り、その保護下で再起の機会を窺った 7 。
翌天文15年(1546年)、家兼は重臣・鍋島清房らの尽力によって味方を糾合し、反撃の狼煙を上げる 7 。佐賀に帰還した家兼の軍勢は、馬場頼周を討ち果たし、一族の無念を晴らした 13 。この一連の出来事により、少弐氏と龍造寺氏の関係は完全に破綻。龍造寺氏は、もはや少弐氏の家臣ではなく、独立した勢力として、そして旧主への復讐を誓う敵対者として、肥前の歴史の表舞台に立つことになったのである 9 。
少弐氏と龍造寺氏の対立が決定的なものとなる中、九州の勢力図を根底から揺るがす大事件が発生する。天文20年(1551年)、北部九州に絶大な影響力を誇っていた大内義隆が、重臣の陶晴賢(当時は隆房)に謀反を起こされ、長門大寧寺で自害したのである(大寧寺の変) 13 。西国随一の大名の突然の崩壊は、北部九州に巨大な権力の空白を生み出した。これは、龍造寺氏のような新興勢力にとっては、またとない飛躍の好機であった 29 。
大内氏の衰退に乗じて、北部九州の覇権を狙ったのが豊後の大友宗麟(義鎮)であった。宗麟は、肥前国で急速に力をつける龍造寺隆信を危険視し、これを牽制するための駒として、没落した名門・少弐氏に白羽の矢を立てた。彼は少弐冬尚、そしてその弟である政興を支援し、肥前国内の反龍造寺勢力を結集させることで、龍造寺氏の勢力拡大を阻止しようと図ったのである 16 。
大友氏という強力な後ろ盾を得た冬尚は、最後の輝きを見せる。神代勝利、小田政光、江上武種といった、龍造寺隆信の台頭を快く思わない肥前の国人衆を糾合し、一大勢力を形成した 13 。この反龍造寺連合軍は、一時は隆信を本拠地である佐嘉城から追い出し、再び筑後国への亡命を余儀なくさせるほどの成功を収めた 13 。これは、冬尚にとって失われた権威を取り戻す最後の好機であったが、それは同時に、龍造寺隆信の憎悪を決定的に掻き立てる結果ともなった。
筑後で再び力を蓄えた龍造寺隆信は、永禄元年(1558年)、ついに少弐氏への最終的な復讐戦を開始する。「一族の重臣を滅ぼされた恨みを晴らさん」と、4千ともいわれる軍勢を率いて、冬尚が最後の拠点とする勢福寺城を包囲した 13 。
この絶体絶命の危機において、少弐方の奮戦は目覚ましいものがあった。特に冬尚の執権であった江上武種は、城兵を巧みに指揮し、20日間にわたって龍造寺軍の猛攻を凌ぎきった 13 。この粘り強い抵抗の前に、隆信は一旦攻撃を諦め、同年12月には両者の間で和議が結ばれた。江上武種、神代勝利、そして龍造寺隆信の三者は、「今後異心あるべからず」と誓紙を交わし、和睦を誓った 13 。
しかし、この和議は龍造寺隆信の巧妙な計略であった。戦国の世にあって「嘘も武略」を地で行く隆信は、和議によって少弐方を油断させることを狙っていたのである。年が明けた永禄2年(1559年)正月、隆信は誓いを反故にして勢福寺城へ不意の奇襲をかけた 13 。
この時、冬尚の運命を決定づけたのが、最も頼みとしていた江上武種の行動であった。不意を突かれ、防戦もままならない中、武種は龍造寺方に降伏し、城を明け渡して筑後へと落ち延びていったのである 13 。一説には、武種はかねてより龍造寺と通じていたともいわれる 13 。
この江上武種の行動は、単なる個人的な裏切りと断じるべきではない。むしろ、それは戦国時代の国衆としての、極めて現実的な生存戦略であったと解釈できる。江上氏は少弐氏の重臣でありながら、独立した領主としての側面も持ち合わせており、龍造寺氏とも同盟関係を結ぶなど、独自の外交を展開していた 33 。武種は、もはや少弐氏の命運が尽きたことを見抜き、勝者である龍造寺氏に降ることで、自らの一族と所領を保全する道を選んだのである。事実、隆信は降伏した武種を処断せず、後に自らの三男・家種を武種の養子として送り込み、江上氏そのものを龍造寺一門に組み込むという形で支配を確立している 33 。これは、武種の降伏が、主家への忠誠よりも一族の存続を優先する、戦国国衆の典型的な行動原理に基づいた政治的取引であったことを示唆している。
最大の頼みであった江上武種に見捨てられ、完全に四面楚歌となった少弐冬尚に残された道は、もはや自害しか無かった。永禄2年(1559年)1月11日、冬尚は勢福寺城内(あるいは城下の菅生寺とも 25 )にて自刃し、その生涯を閉じた 3 。享年は、1510年説に基づけば50歳、1529年説では31歳(あるいは32歳、33歳とも 6 )であった。
その最期は、壮絶な逸話と共に伝えられている。『肥陽軍記』などによれば、冬尚は裏切った江上武種への凄まじい怒りから、自らの腹を切り裂いて腸を掴み出し、それを武種の使者に向けて投げつけ、「江上家七代まで祟りをなすべし」と呪詛の言葉を吐いて絶命したという 27 。この逸話の真偽は定かではないが、名門の当主としての誇りを無残に踏みにじられた彼の無念と、非情な下剋上の実態を後世に生々しく伝えている。
少弐冬尚の死をもって、鎌倉時代から約370年にわたり北部九州に君臨した名門・少弐氏の嫡流は、完全に滅亡した。かつての家臣であった龍造寺氏の手によって滅ぼされるという結末は、旧来の権威が実力によって覆される戦国時代を象徴する出来事であった 13 。
冬尚の死によって少弐氏の嫡流は途絶えたが、一族の抵抗が完全に終わったわけではなかった。冬尚の弟・政興が、兄の遺志を継ぎ、一族再興の執念を燃やしたのである 3 。彼は大友宗麟の支援を取り付け、馬場鑑周(頼周の孫)や横岳資誠(冬尚の娘婿)といった旧臣たちを再び結集させ、龍造寺氏への反攻を開始した 4 。
永禄6年(1563年)頃から、政興は有馬氏や波多氏といった肥前の諸将をも巻き込み、龍造寺隆信を大いに苦しめた 15 。その武勇は、隆信に多大な犠牲を強いたと記録されており、決して侮れない力を持っていたことが窺える 15 。しかし、圧倒的な勢力差を覆すには至らず、永禄7年(1564年)には肥前中野城に籠るも、龍造寺軍の猛攻の前に降伏。少弐氏再興の夢は潰えた 15 。
その後の政興の動向は判然としない。九州を去ったとも、出家したとも伝えられる一方で、元亀3年(1572年)や天正4年(1576年)にも、なお龍造寺氏と敵対する勢力としてその名が史料に見える 15 。彼の断続的な抵抗は、名門・少弐氏の最後の残照であったといえよう。
少弐冬尚の生涯を総括する時、その評価は単純ではない。龍造寺一族の粛清という致命的な判断ミスを犯した点で、彼を暗愚な当主と断じることは容易である。しかし、彼の決断は、個人の資質のみに帰せられるべきではない。彼は、巨大勢力の狭間で衰退していく名門の命運を背負い、台頭する家臣の力を制御できず、猜疑心に苛まれるという、極めて困難な状況に置かれた悲劇の君主でもあった 36 。彼は、旧来の主従関係や権威がもはや通用しない戦国という新たな時代の変化の波を乗りこなすことができなかった、過渡期の支配者の典型であったと評価できる 4 。
『北肥戦誌』や『肥陽軍記』といった江戸時代に成立した軍記物では、冬尚をめぐる一連の事件は、下剋上の典型例としてドラマティックに描かれている 4 。これらの記述は、史実を脚色したものも多いが、龍造寺隆信の台頭と少弐氏の滅亡という歴史的事件に対する後世の人々の関心の高さを示しており、冬尚の人物像形成に大きな影響を与えた。
冬尚が最後の時を迎えた勢福寺城跡は、現在、佐賀県神埼市に国指定史跡として保存されている。山城と城下町の遺構が一体として残り、守護大名の本拠地の姿を伝える貴重な遺跡として高く評価されている 2 。また、麓にある真正寺には、冬尚の墓と伝えられる五輪塔がひっそりと佇み、訪れる者に名門の悲劇的な末路を物語っている 2 。
少弐冬尚の死と、それに伴う少弐氏の完全な滅亡は、戦国時代の九州史における一つの大きな画期であった。この出来事は、龍造寺隆信が肥前一国を完全に手中に収め、大友氏、島津氏と並び「九州三強」と称される巨大勢力へと飛躍するための、最後の障害を取り除く決定的な意味を持った。
同時にそれは、鎌倉時代以来の伝統と権威を誇った守護大名が、国人衆の中から実力で台頭してきた新興の戦国大名によって歴史の舞台から完全に駆逐されるという、戦国時代の本質である「下剋上」の流れを、北部九州において最終的に決定づけた象徴的な事件であった。少弐氏の滅亡をもって、この地域における中世的な権力秩序はその幕を閉じ、実力が全てを決定する新たな時代が本格的に到来したのである。少弐冬尚の悲劇は、時代の大きな転換期に翻弄された、一人の君主と一つの名門一族の物語として、今なお多くの示唆を与えている。