戦国時代、群雄が割拠し、下剋上が日常であった動乱の日本において、中国地方は幾多の有力大名が覇を競う激戦地であった。周防の雄大内氏、安芸から急速に台頭した毛利氏、そして古くからの名門山名氏などがひしめく中、出雲国を本拠として一代で巨大な勢力を築き上げたのが尼子氏である。その祖、尼子経久は「謀聖」とも称され、守護代の立場から主家京極氏を凌駕し、山陰地方を中心に十一カ国にも影響を及ぼす大戦国大名へと成り上がった 1 。
本報告書は、この尼子経久の嫡孫にあたり、尼子氏の最大版図を実現し、毛利元就らと激しい興亡を繰り広げた武将、尼子晴久(あまご はるひさ)に焦点を当てる。晴久の生涯、彼が成し遂げた武業、その統治の実態、そして史料から垣間見える人物像を丹念に追うことで、彼が戦国時代の中国地方史にどのような足跡を刻んだのかを多角的に検証する。彼の治世は、尼子氏の栄光と、その後の急速な衰退という劇的な転換を内包しており、戦国という時代の非情さとダイナミズムを象徴していると言えよう。
尼子晴久は、永正11年(1514年)、尼子経久の嫡男である尼子政久の次男として生を受けた 1 。母は山名氏の血を引く山名幸松の娘と伝えられている 4 。幼名は三郎四郎といい、これは政久の長男にあたる兄(おそらく又四郎を名乗ったのであろう)がいたためとされるが、この兄は夭折した 4 。これにより、次男であった三郎四郎が父・政久の跡目と目されることとなった。
しかし、晴久の運命は幼少期から波乱に満ちていた。晴久がわずか4歳の永正15年(1518年)、父・政久が出雲阿用城攻めの最中に陣没するという悲劇に見舞われる 1 。伝承によれば、政久は味方の兵を鼓舞するために笛を吹いていたところ、その音を頼りに放たれた敵の矢が喉に命中したという 1 。父の早すぎる死により、晴久は祖父・経久の直接の世子(家督相続者)へと繰り上がることとなった 4 。
父・政久は武勇に優れていただけでなく、笛を嗜み、その文才は後土御門天皇から賞賛されるほどであったと記録されており 1 、文化的な素養も兼ね備えた人物であった。父や兄との相次ぐ死別、そして「下剋上」の体現者たる祖父・経久という強烈な個性の下で成長した環境は、晴久の人間形成に大きな影響を与えたであろう。特に、経久から直接薫陶を受ける機会が多かったことは、彼に後継者としての強い自覚と、時に非情ともなりうる決断力を植え付けた可能性がある。また、父の文化的側面は、後に晴久自身が和歌や連歌といった文化活動に関心を示す 7 素地となったとも考えられる。
元服後の晴久は、初め詮久(あきひさ)と名乗った 4 。大永年間(1521年~1528年)には、祖父・経久の命を受けて伯耆守護代に任じられ、伯耆守護であった山名澄之を監視する任に就いている 4 。この時期、尼子氏は重臣・亀井秀綱の主導による毛利氏の家督相続への介入に失敗し、結果として毛利氏が大内氏へ転属することを許してしまい、尼子氏の備後国や安芸国への支配力低下を招いていた 4 。
享禄3年(1530年)、叔父にあたる塩冶興久が謀反を起こすという事件が発生する。この時、経久は大内氏の支持を得てこれを鎮圧しており、大内氏との間には一時的な和睦関係が成立していたことが窺える 4 。翌享禄4年(1531年)には、詮久(晴久)は安芸国の有力国人であった毛利元就と義兄弟の契りを結んでいる 4 。
そして天文6年(1537年)、祖父・経久が隠居したことにより、詮久は24歳で尼子氏の家督を相続し、当主となった 1 。この家督相続は、単なる世代交代という意味合いだけでなく、毛利氏の離反など、尼子氏が直面していた対外的な課題への対応を、若き日の晴久の行動力と指導力に託すという経久の戦略的な判断があったものと考えられる。晴久は、その期待に応えるかのように、家督相続直後から石見銀山の奪取など、積極的な軍事行動を開始している 1 。
その後、天文10年(1541年)には、室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱(名前の一字)を賜り、名を「晴久」と改めた 6 。将軍からの偏諱拝領は、晴久自身の権威を高めるとともに、中央政権との結びつきを内外に示威する重要な意味を持った。これは、対立する大内氏や毛利氏に対する政治的優位性を確保しようとする、晴久の戦略の一環であったと言えよう。
晴久が尼子氏当主として最初期に取り組んだ重要な軍事行動の一つが、石見銀山の掌握であった。天文7年(1538年)、当時大内氏の支配下にあった石見銀山を攻略し、その支配権を奪取した 1 。石見銀山から産出される銀は、軍資金の調達や家臣への恩賞として極めて重要であり、その支配権は中国地方の覇権を左右するほどの戦略的価値を有していた 10 。
このため、石見銀山を巡っては、尼子氏、大内氏、そして後に台頭する毛利氏の間で、数十年にわたり激しい争奪戦が繰り広げられることとなる 1 。晴久は生涯を通じてこの銀山の確保に腐心し、その支配は尼子氏の軍事力維持と領国拡大の生命線であった。
弘治2年(1556年)の忍原崩れ(おしばらくずれ)における毛利元就軍に対する勝利は、一時的にではあるが尼子氏による石見銀山の支配を確実なものとした 5 。この戦いは、晴久の経済的・軍事的視点の鋭さを示すとともに、彼の戦略家としての一面を浮き彫りにしている。
晴久の時代は、まさしく戦乱の時代であり、彼は数多の合戦を通じて尼子氏の勢力拡大を図った。
家督相続後間もない晴久は、まず因幡国を平定し、次いで播磨国へと侵攻した。ここで播磨守護であった赤松晴政の軍勢を破り、龍野城を落城させるなど、その勢威を大きく拡大した 1 。この一連の軍事行動は、単なる領土拡大に留まらず、より大きな戦略的意図を含んでいた。当時、九州の大友義鑑が室町幕府12代将軍・足利義晴の入洛を名目とした大内氏包囲網の形成を画策しており、晴久の播磨進出はこの動きに呼応するものであったとされる 4 。これにより、晴久は幕府の権威を利用しつつ、自勢力下の国人衆の統制を強化し、近隣諸勢力に対して尼子氏の力を誇示するという、戦国大名特有のしたたかな外交・軍事戦略を展開した。
天文9年(1540年)、当時まだ詮久を名乗っていた晴久は、約3万と号する大軍を率いて安芸国の毛利元就の居城・吉田郡山城を攻撃した 1 。これに対し、毛利軍の兵力は約2,400と寡兵であった 13 。毛利元就は籠城戦術をとり、その間に同盟関係にあった大内義隆が陶隆房率いる約1万の援軍を派遣した 1 。結果、尼子軍は大敗を喫し、出雲へと撤退することとなった 1 。この遠征に際しては、祖父・経久が反対していたと伝えられている 1 。
この敗北は尼子氏にとって大きな痛手となり、安芸国からの撤退を余儀なくされただけでなく、大内氏の勢力伸張と毛利氏の安芸国内における優位を確立させる結果となった 13 。さらに、安芸・備後・石見のみならず、本国出雲の国人領主の中からも離反者が続出するなど、尼子氏の権威は大きく揺らいだ 13 。この戦いは、晴久の積極策が裏目に出た例であり、毛利元就の台頭を許す一因となった。経久の反対を押し切って出陣したとされる点は、晴久の血気にはやる性格、あるいは祖父との戦略観の違いを示唆しており、国人衆の動向が戦局を大きく左右する戦国時代の厳しさを物語る教訓となったであろう。
吉田郡山城での敗戦と、天文10年(1541年)11月の祖父・経久の死という二重の打撃を受け、尼子氏の足元は大きく揺らいだ 1 。尼子方であった国人領主の離反が相次ぐ中、天文11年(1542年)、周防の大内義隆は毛利元就らを引き連れ、約4万5千とも言われる大軍で尼子氏の本拠地である月山富田城へと侵攻した 1 。迎え撃つ尼子軍の兵力は約1万5千であった 5 。
絶体絶命の危機に瀕した尼子氏であったが、晴久の指揮のもと徹底抗戦を展開した。戦いが長期化するにつれ、大内軍内部では厭戦気分が広がり、さらに一度は大内方に寝返っていた三刀屋氏などの出雲国人衆が再び尼子方に帰順するという事態も発生した 1 。これにより形勢は逆転し、大内・毛利連合軍は総崩れとなり撤退を余儀なくされた 1 。この敗走の最中、大内義隆の養嗣子であった大内晴持が揖屋浦で溺死するという悲劇も起こっている 14 。
この劇的な勝利は、晴久の指導力、月山富田城の堅固さ、そして大内軍内部の結束の脆さ(特に国人衆の動揺)を天下に示した。祖父の死と先の敗戦という逆境を乗り越えたこの勝利は、晴久の評価を飛躍的に高め、尼子氏の権力基盤を再構築する絶好の機会となった。戦後、晴久は一度離反した国人領主を粛清・追放するなど支配を強化し、出雲国を中心とした中央集権体制の構築へと動き出した 1 。この戦いは、まさに尼子氏が最盛期へと向かう大きな転換点であったと言える 5 。
第一次月山富田城の戦勝で勢いを取り戻した晴久は、天文13年(1544年)、備後国の豪族三吉氏を攻撃した。これに対し毛利元就が派遣した児玉就忠、福原貞俊らが率いる援軍を、晴久は布野(現在の広島県庄原市)で撃破した(布野崩れ) 6 。この勝利は、再び備後方面への影響力拡大を目指す晴久の積極的な姿勢を示すものであり、毛利氏の勢力伸長を牽制する上で重要な戦果であった。
石見銀山を巡る争いは、その後も執拗に続いた。弘治2年(1556年)7月、毛利元就軍(約7千)と尼子晴久軍(約2万5千)が石見国忍原(おしばらくずれ、現在の島根県大田市川合町)で激突した 5 。緒戦は毛利方が優勢に進めたものの、晴久の本隊と小笠原長雄の援軍が合流した尼子軍が、その圧倒的な兵力差をもって毛利軍を打ち破った 5 。この戦いで尼子軍は毛利軍の精鋭を破り、石見銀山支配の要衝である山吹城を攻略、銀山の支配権を確保した 5 。
前年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢を破り、大内氏を事実上滅亡させて勢いに乗る毛利元就に対し、石見銀山争奪戦で完勝したことは、晴久の卓越した軍事的能力と尼子氏の底力を改めて示すものであった。この勝利は、毛利氏の中国地方統一の動きを遅らせ、尼子氏の経済基盤を一時的にではあれ安定させる上で、極めて大きな意味を持った。
天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶晴賢(隆房)の謀反によって自害する(大寧寺の変)という政変が起こると 6 、中国地方の勢力図は大きく変動する。この好機を捉え、晴久は中央政界への働きかけを強めた。そして天文21年(1552年)、室町幕府13代将軍・足利義輝(当時は義藤)から、出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後の山陰道・山陽道にまたがる八カ国の守護職に任じられ、同時に将軍の諮問に応じる名誉職である幕府相伴衆にも列せられた 1 。
これにより、晴久は名目上、中国地方の大部分を支配する大義名分を手にし、尼子氏の勢力はここに頂点を迎えた 1 。翌天文22年(1553年)には、2万8千と称される大軍を率いて美作国へ侵攻し、現地の浦上宗景・後藤勝基の軍を破り、さらに播磨国加古川まで進軍するなど、その威勢を示した 1 。
しかしながら、この「八カ国守護」という称号は、必ずしも全ての国々に対する実効支配を意味するものではなかった。特に備前・備中・備後といった山陽道の国々においては、浦上氏、三村氏、そして毛利氏といった在地勢力との衝突が絶えず、守護としての権威と実際の支配力との間には大きな隔たりが存在したと考えられる。それでも、この称号は尼子氏の勢力が名実ともに頂点に達したことを象徴する出来事であり、晴久の治世における最大の栄光の一つであったと言えるだろう。
表1:尼子氏 八カ国守護支配状況(天文21年/1552年頃推定)
国名 |
守護職獲得年 |
支配の実態(推定) |
主要な在地勢力・特記事項 |
関連史料例 |
出雲国 |
(京極氏以来) |
比較的安定した直接支配 |
本拠地。出雲大社(杵築大社)への影響力行使。 |
4 |
隠岐国 |
(京極氏以来) |
比較的安定した直接支配 |
|
4 |
伯耆国 |
天文21年 |
影響力大。守護代を通じて支配。一部に抵抗勢力も存在。 |
山名氏勢力の残存。晴久は若い頃に守護代として統治経験あり 4 。 |
3 |
因幡国 |
天文21年 |
一時平定するも、山名氏などとの係争地。流動的。 |
天文7年に平定後、播磨へ侵攻 1 。山名誠通を従属させる 6 。 |
1 |
美作国 |
天文21年 |
侵攻により一時確保するも、浦上氏などとの係争が続く。 |
享禄5年に侵攻し確保 4 。天文22年に大軍で再侵攻し浦上氏を破る 1 。中山神社再建 7 。 |
1 |
備前国 |
天文21年 |
攻略を試みるも、浦上氏の勢力が強く、実効支配は限定的。 |
享禄5年に攻略 4 。浦上氏との抗争。 |
4 |
備中国 |
天文21年 |
影響力は限定的。三村氏などの在地勢力が割拠。 |
|
4 |
備後国 |
天文21年 |
北部に影響力を持つも、毛利氏・大内氏との最前線。 |
塩冶興久の乱に同調した山内氏を討伐 4 。布野崩れで毛利援軍を破る 6 。宮氏・渋川氏を従属させる 4 。後に毛利氏により北部国人衆が駆逐される 2 。 |
2 |
この表は、晴久時代の尼子氏の勢力範囲とその実態を理解する一助となる。出雲・隠岐・伯耆といった山陰中核地域では比較的安定した支配を確立していたものの、山陽方面や因幡などでは在地勢力との間で一進一退の攻防が続き、守護としての権威と実効支配には差があったことが推察される。
尼子晴久の治世は、単なる軍事的な勢力拡大に終始したわけではない。彼は、戦国大名として領国を安定的に統治し、自身の権力を強化するための様々な施策を講じた。
天文23年(1554年)、晴久は叔父である尼子国久とその子・誠久らを中心とする一族内の有力武力集団「新宮党」を粛清した 5 。新宮党は、その居館が月山富田城の麓、新宮谷にあったことからそう呼ばれ、尼子軍の中でも最強の精鋭部隊として知られ、数々の合戦で武功を挙げていた 20 。
この粛清の理由については、長らく毛利元就の謀略によるものという説が有力であった 6 。元就が国久と晴久の不和を煽り、同士討ちさせたというものである。しかし、近年の研究では、この事件は晴久自身の主体的な判断、すなわち大名権力の集中と内部統制の強化を目的としたものであったとする見方が強まっている 6 。史料によれば、新宮党はその武功を背景に次第に増長し、横暴な振る舞いが目立つようになったとも言われ 21 、晴久の命令と国久の命令が対立して指揮系統に混乱が生じるなど、晴久と国久の間には明らかな確執が生まれていたとされる 7 。また、新宮党は出雲大社との結びつきが強かったため、彼らを排除することで晴久が出雲大社へ直接介入する狙いがあったという指摘や 1 、塩冶氏の旧領であった出雲西部への影響力を強化するためであったという説もある 23 。毛利元就の謀略が何らかの形で関与した可能性は否定できないものの、それはあくまで晴久の決断を後押しする一因に過ぎず、主たる動機は晴久自身の権力基盤強化にあったと考えるのが自然であろう。
この新宮党粛清は、晴久にとって両刃の剣であった。短期的には、家中における当主権力を絶対的なものとし、出雲大社への直接的な影響力行使を可能にするなど、中央集権化を推し進める上で一定の成果を上げた 1 。しかし、その代償はあまりにも大きかった。尼子氏の軍事力の中核を担っていた最強の武力集団を自らの手で葬り去ったことは、尼子氏全体の軍事力を著しく低下させ 1 、その後の毛利氏との熾烈な抗争において、決定的に不利な状況を招いた。さらに、この強硬な手段は、他の国人領主たちの間に不満や不信感を募らせ、尼子氏の内部結束にも亀裂を生じさせた可能性が指摘されている 1 。結果として、この粛清は尼子氏の衰退を早める遠因となったと評価されている。
戦国時代の常として、尼子氏もまた、領国内の国人領主たちの離反や寝返りに絶えず悩まされていた。特に吉田郡山城の戦いや第一次月山富田城の戦いでは、国衆の動向が戦局を大きく左右することを晴久自身が痛感した 1 。
この経験を踏まえ、晴久は国衆に対する統制を強化する方策を講じた。第一次月山富田城の戦いの後には、一度大内方に寝返った国人領主を容赦なく粛清・追放し、その所領を没収するなど、恐怖による支配も辞さなかった 1 。一方で、複数の奉行による合議制を導入するなど、奉行衆を用いた尼子宗家の権力基盤強化にも努めた 7 。これは、従来の国衆に大きく依存した伝統的な支配体制が行き詰まりを見せていたことへの対応であり 24 、大名を中心としたより強固な中央集権体制への移行を目指す動きであった。直臣層の拡大もその一環と考えられる 24 。晴久は、不安定な国衆連合体から脱却し、大名権力を確立しようと苦心したのである。この点は、彼が単なる武将ではなく、時代の変化に対応しようとした統治者であったことを示している。
晴久は、軍事力だけでなく、領国の経済的基盤の確立にも注力した。その柱となったのが、石見銀山の支配と日本海を通じた交易である。
石見銀山は、前述の通り、尼子氏にとって軍資金や家臣への恩賞の源泉として最重要視された 10 。晴久は石見銀山防衛と経営の拠点として山吹城を築き 11 、その支配権確保に心血を注いだ。
また、日本海交易も尼子氏の重要な収入源であったと考えられる。祖父・経久の代から出雲産の鉄の輸出や海上交易は行われており 2 、晴久もこれを継承・発展させたと見られる。実際に、晴久支配期に栄えた飯梨川流域の城下町遺跡からは、朝鮮半島や明国(中国)で生産された陶磁器や鏡などが出土しており、活発な交易活動が行われていたことを裏付けている 7 。石見の銀、出雲の鉄、そしてそれらを活用した日本海交易は、尼子氏の経済力を支える両輪であったと言えよう。晴久が経済力の重要性を深く認識し、領国経営に活かそうとしていたことは、彼の戦国大名としての先進性を示すものである。
晴久は、領国内の有力な寺社に対しても積極的に関与し、その影響力を統制下に置こうとした。
特に出雲国一之宮である出雲大社(杵築大社)に対しては、新宮党粛清後、その直接的な介入を強めた 1 。天文20年(1551年)、晴久は出雲大社の国造家である千家氏と北島氏に対して条目(掟)を発布している 25 。現存する史料によれば、この条目には、両国造家の社人や社領に関する宿坊の相互利用規定や、長年怠慢であった御供の慣行に関する指示などが含まれており 25 、晴久が出雲大社内部の運営や両国造家の対立にまで踏み込んで統制を試みていたことがわかる。これは、晴久が領内の最高宗教権威である出雲大社を掌握し、尼子氏の支配体制を盤石なものにしようとした強い意志の表れである。
また、晴久は寺社の再建や保護にも熱心であった。美作国一宮の中山神社は、永禄2年(1559年)、尼子氏の美作侵攻の際に一度は焼き払われたものの、その後晴久自身の発願によって再建された 7 。この時再建された本殿は「中山造」と呼ばれる独特の建築様式を持ち、後の美作地方における神社建築の模範となったとされている 7 。この行為は、単なる宗教的信仰心の発露というよりも、被征服地における人心掌握と尼子氏の権威誇示という、高度な政治的計算に基づいていたと考えられる。武力で制圧した後に文化的な保護者として振る舞うことで、領民の心を得ようとした戦国大名特有の統治術の一環であった。
さらに、伯耆国の大山寺が天文23年(1554年)の大火災で焼失した際には、晴久は一族を挙げてその堂舎や仏像の再興を支援したと伝えられている 29 。戦国大名にとって、領国内の有力寺社の再興は、領主層のみならず広範な民衆の人心収攬に繋がる重要な政策であり 29 、晴久もその点を深く理解し、積極的に関与したのである。
尼子晴久は、勇猛果敢な武将として数々の戦功を挙げた一方で、その人物像については史料によって様々な評価がなされている。また、戦乱の時代にありながら、文化活動にも関心を示した形跡が残されている。
後世に成立した軍記物である『雲陽軍実記』には、晴久に関するいくつかの評価や逸話が記されている。中でも有名なのは、晴久の大叔父にあたる尼子久幸が、晴久を「短慮で大将の器に乏しく、血気にはやって仁義に欠けている」と厳しく評したという記述である 7 。『雲陽軍実記』は、尼子氏滅亡後の天正8年(1580年)頃に元家臣であった河本隆政によって著されたとされており 31 、一次史料ではないため、その記述の全てを史実と見なすことはできない。物語性を重視する軍記物の性格上、誇張や創作が含まれる可能性は常に考慮する必要がある。しかし、このような辛辣な評価が伝えられていること自体は注目に値する。晴久の急進的な政策や新宮党粛清のような強硬な手段が、尼子一族や家臣団の一部から反発や批判を招いていた可能性を示唆しているのかもしれない。
一方で、『雲陽軍実記』には、天文12年(1543年)の第一次月山富田城の戦いにおいて、鉄砲伝来(一般的には天文12年とされる)以前に尼子軍が火縄銃を実戦投入したという記述があり、これは尼子氏の先進性を示すものとして注目されている 31 。
他の評価としては、「ワンマンだがやり手な人」「他人のアドバイスには耳も貸さない」といったものも伝えられている 5 。これらの評価は、晴久が強烈なリーダーシップと決断力を備えていた一方で、周囲との協調性に欠ける側面があった可能性を示唆する。祖父・経久の反対を押し切って強行したとされる吉田郡山城攻め 1 や、新宮党粛清といった行動は、このような性格的特徴の表れと解釈することもできるだろう。
現存する尼子晴久の書状は、彼の性格や政治判断を直接的に知る上で貴重な史料となる。島根県立図書館には「冨家文書」と呼ばれる古文書群が所蔵されており、その中には晴久の書状も含まれている 7 。これらの書状の具体的な内容分析は今後の研究課題であるが、一次史料を通じて晴久の実像に迫る上で重要である。
また、晴久の人間的な側面を伝える逸話として、出雲大社の神官であった秋上氏、富氏、別火(財)氏の三氏が和解したことを喜んで詠んだとされる和歌の存在が挙げられる。「秋上は 富高らかに 相かして 思うことなく 長生きせん」というこの歌は、従来、祖父・経久の作とされてきたが、実際には晴久が詠んだものであるという説が有力である 7 。この逸話が事実であれば、晴久が領内の安定や融和に深い関心を持ち、それを素直に喜ぶ人間的な一面を持っていたことを示している。単に武断的な人物としてだけでなく、領国統治者としての配慮や、それを和歌という形で表現する文化的素養も持ち合わせていたことが窺える。
晴久は、戦乱の最中にありながらも、和歌や連歌といった文化活動に親しんでいた形跡が残されている。その代表的なものが、天文22年(1553年)に成立したとされる百韻連歌「尼子晴久夢想披百韻」である 8 。この連歌は、出雲大社(杵築大社)に奉納されたものと考えられており、当時の著名な連歌師であった宗養なども参加していた可能性が指摘されている 8 。
百韻連歌は、高度な古典知識や作法、そして即興性が求められる洗練された文化的遊芸であり、晴久がこれを主催、あるいは参加したという事実は、彼が単なる武人ではなく、京の都の文化にも通じた教養人であったことを強く示唆する。これは、先に触れた父・政久の文化的素養 1 が影響した可能性も考えられる。また、この連歌が出雲大社への奉納という形をとっているのであれば、晴久の宗教政策とも深く関連するものであったと言えよう。
その他、美作国一宮中山神社の再建 7 に見られるような建築活動への関与も、晴久の文化的な側面を示すものと言える。これらの文化活動は、晴久の個人的な趣味嗜好に留まらず、戦国大名としての権威を高め、領国支配の安定化に寄与するという複合的な動機に基づいていた可能性が高い。
尼子氏の勢力を絶頂期に導いた晴久であったが、その最期はあまりにも突然であった。永禄3年12月24日(西暦1561年1月9日)、晴久は居城である月山富田城内にて急死した 5 。享年は47歳 5 (あるいは48歳 5 )であった。死因については、脳溢血であったとする説が有力である 5 。また、石見国に侵攻してきた毛利元就軍との防戦の最中であったという状況も伝えられている 19 。没年については、永禄4年(1561年)または永禄5年(1562年)とする異説も存在する 16 。
晴久の急死は、尼子氏にとって計り知れない打撃となった。宿敵毛利氏との抗争が激化の一途を辿っていたまさにその渦中における、指導者の突然の喪失は、尼子氏の戦略遂行能力を著しく低下させ、その後の急速な衰退へと直結することになる。もし晴久がもう少し長命であったならば、中国地方の勢力図は大きく異なっていたかもしれないと指摘する声もあるほどである 9 。彼の死は、好敵手であった毛利元就にとっても、その後の戦略を大きく左右する転機となったはずである。
晴久の死後、家督は嫡男である尼子義久が継承した 2 。しかし、晴久という強力な指導者を失った尼子氏の勢威には陰りが見え始めていた。これを好機と見た毛利元就は、本格的な出雲侵攻を開始する 21 。
永禄8年(1565年)から翌年にかけて行われた第二次月山富田城の戦いでは、毛利軍による執拗な包囲と兵糧攻めの前に、尼子軍は次第に追い詰められていった 1 。そして永禄9年(1566年)11月、ついに義久は毛利氏に降伏し、月山富田城は開城。これにより、戦国大名としての尼子氏は実質的に滅亡した 1 。
義久はその後、安芸国に幽閉された後、毛利氏の客分として遇され、やがて出家した 1 。尼子氏の滅亡後も、山中幸盛(鹿介)らが尼子勝久を擁立して尼子家再興を目指す運動(尼子再興軍)が幾度か試みられたが、いずれも毛利氏の強大な力の前に阻まれ、成功には至らなかった 21 。
晴久の死からわずか5、6年での本拠地陥落という事態は、後継者である義久の力量不足のみならず、晴久時代に潜在していたかもしれない内部的な脆弱性、例えば新宮党粛清による軍事力の低下や、一部国人衆の不満などが、指導者の交代と共に顕在化した結果とも考えられる。
尼子晴久は、祖父・経久が築き上げた尼子氏の基盤をさらに発展させ、一時は山陰山陽八カ国の守護職を兼任し、中国地方随一の大大名へと押し上げた名君であったと評価されている 2 。その勢力は、後に中国地方の覇者となる毛利元就をして最大のライバルの一人と認識させ、その台頭を遅らせるなど、当時の中国地方の勢力図に極めて大きな影響を与えた 1 。
晴久は、中央集権化の推進や石見銀山経営、積極的な交易政策といった、戦国大名としての先進的な統治手腕も発揮した。しかしその一方で、新宮党粛清のような強硬策が、結果として自らの軍事力を削ぎ、一族の衰退を招いたという負の側面も指摘されている 1 。
尼子晴久の存在と活動は、戦国時代中期の中国地方における政治・軍事動向を理解する上で不可欠である。彼の統治政策や人物像には毀誉褒貶あるものの、一代で尼子氏をその勢力の頂点に導いた卓越した指導力と戦略眼は、高く評価されるべきであろう。彼の急逝がなければ、毛利氏の中国統一はさらに遅れたか、あるいは全く異なる形になっていた可能性も否定できない。
尼子晴久は、戦国乱世の中国地方に鮮烈な光芒を放った武将であった。祖父・経久の築いた礎の上に、彼は尼子氏の最大版図を築き上げ、一時は毛利元就をも凌駕する勢いを誇った。石見銀山の掌握、八カ国守護職への任官、そして積極的な領国経営は、彼の非凡な能力を物語っている。
しかし、その強烈なリーダーシップと権力集中への志向は、新宮党粛清という悲劇も生み、結果として尼子氏の軍事力を弱体化させる一因となった。また、毛利元就という希代の謀将との長きにわたる抗争は、晴久の生涯を通じての宿命であり、彼の死はそのまま尼子氏の没落へと繋がった。
晴久の生涯は、戦国大名が直面する権力維持の困難さ、国人衆統制の難しさ、そして一人の指導者の力量と限界を如実に示している。彼の積極果敢な勢力拡大策と、時に非情とも映る決断は、戦国という時代を生き抜くための必然であったのかもしれない。尼子晴久が中国地方の歴史に刻んだ足跡は、単なる一地方大名の興亡史に留まらず、戦国時代の権力闘争、経済戦略、そして人間ドラマを理解する上で、今なお多くの示唆を与えてくれる。彼の名は、戦国史に輝く驍将の一人として、永く記憶されるべきであろう。
年月日(西暦) |
晴久の年齢(数え) |
出来事 |
関連史料例 |
永正11年 (1514) |
1歳 |
尼子政久の次男として出雲国に生まれる。幼名:三郎四郎。 |
1 |
永正15年 (1518) |
5歳 |
父・尼子政久が阿用城の戦いで陣没。祖父・経久の世子となる。 |
1 |
大永年間 (1521-28) |
8-15歳 |
祖父・経久より伯耆守護代に任じられる。 |
4 |
享禄3年 (1530) |
17歳 |
叔父・塩冶興久が尼子氏に叛く(塩冶興久の乱)。 |
4 |
享禄4年 (1531) |
18歳 |
毛利元就と義兄弟の契りを結ぶ。塩冶興久に味方した備後山内氏を討伐。 |
4 |
享禄5年 (1532) |
19歳 |
美作国へ侵攻し確保、備前国を攻略。 |
4 |
天文6年 (1537) |
24歳 |
祖父・尼子経久の隠居により家督を相続。初名は詮久。 |
1 |
天文7年 (1538) |
25歳 |
大内領・石見銀山を奪取。因幡国に侵攻し平定。播磨国に侵攻し赤松晴政を破る。 |
1 |
天文8年 (1539) |
26歳 |
播磨国龍野城を落城させる。 |
4 |
天文9年-10年 (1540-41) |
27-28歳 |
吉田郡山城の戦い。毛利元就を攻めるも大内義隆の援軍により大敗。 |
1 |
天文10年 (1541) |
28歳 |
将軍足利義晴より偏諱を受け「晴久」と改名。同年11月、祖父・尼子経久死去。 |
6 |
天文11年-12年 (1542-43) |
29-30歳 |
第一次月山富田城の戦い。大内義隆・毛利元就連合軍を撃退。 |
1 |
天文13年 (1544) |
31歳 |
布野崩れ。備後国で毛利氏の援軍(児玉就忠・福原貞俊ら)を破る。因幡守護山名誠通を従属させる。 |
6 |
天文21年 (1552) |
39歳 |
室町幕府より山陰山陽八カ国の守護に任じられ、幕府相伴衆となる。 |
1 |
天文22年 (1553) |
40歳 |
美作国へ侵攻し浦上宗景らを破る。「尼子晴久夢想披百韻」成立。 |
1 |
天文23年 (1554) |
41歳 |
新宮党(尼子国久・誠久ら)を粛清。 |
5 |
弘治2年 (1556) |
43歳 |
忍原崩れ。石見銀山を巡り毛利元就軍を破り、銀山支配を確保。 |
5 |
永禄2年 (1559) |
46歳 |
美作国一宮中山神社本殿を再建。 |
7 |
永禄3年12月24日 (1561年1月9日) |
47歳 |
月山富田城にて急死。 |
5 |
合戦名 |
年月日(西暦) |
交戦勢力(尼子方 vs 敵方) |
主要指揮官(尼子方/敵方) |
兵力(推定:尼子方/敵方) |
結果 |
意義・影響 |
関連史料例 |
播磨侵攻・赤松氏との戦い |
天文7-8年 (1538-39) |
尼子詮久軍 vs 赤松晴政軍 |
尼子詮久/赤松晴政 |
不明 |
尼子軍勝利 |
播磨・因幡への勢力拡大。大内包囲網への参加と国人統制強化。 |
1 |
吉田郡山城の戦い |
天文9-10年 (1540-41) |
尼子詮久軍 vs 毛利元就軍・大内義隆援軍 |
尼子詮久/毛利元就、陶隆房 |
約3万/約2千4百+約1万 |
尼子軍敗北 |
安芸からの撤退。毛利氏の台頭と国人離反を招く。 |
1 |
第一次月山富田城の戦い |
天文11-12年 (1542-43) |
尼子晴久軍 vs 大内義隆・毛利元就連合軍 |
尼子晴久/大内義隆、毛利元就 |
約1万5千/約4万5千 |
尼子軍勝利 |
尼子氏の危機回避と勢力回復。中央集権化の契機。 |
1 |
布野崩れ |
天文13年 (1544) |
尼子晴久軍 vs 毛利元就援軍(三吉氏救援) |
尼子晴久/児玉就忠、福原貞俊 |
不明 |
尼子軍勝利 |
備後方面への影響力維持。毛利氏への牽制。 |
6 |
忍原崩れ |
弘治2年 (1556) |
尼子晴久軍 vs 毛利元就軍 |
尼子晴久、小笠原長雄/毛利元就 |
約2万5千/約7千 |
尼子軍勝利 |
石見銀山の支配権確保。毛利氏の中国統一を遅延。 |
5 |
(参考)新宮党粛清 |
天文23年 (1554) |
尼子晴久 vs 新宮党(尼子国久・誠久) |
尼子晴久/尼子国久、尼子誠久 |
― |
晴久勝利 |
当主権力強化。一方、尼子氏の軍事力低下を招く。 |
1 |