戦国時代、日本の中国地方にその名を轟かせた武将、尼子経久(あまごつねひさ)。彼はしばしば「出雲の狼」と称され 1 、その生涯はまさに「下剋上」、すなわち下の者が上の者を実力で凌駕していく時代の象徴でありました。北条早雲や斎藤道三と並び、「戦国下剋上の三大謀将」の一人に数えられることからも 1 、彼の非凡な智謀と野心が窺えます。
経久が生きた戦国時代は、室町幕府の権威が失墜し、守護大名による地方統治も形骸化していた時代でした 1 。このような権力の空白期に乗じ、経久のような守護代や国人領主が、自らの武力と戦略によって領国を切り拓いていったのです 2 。特に経久は、応仁の乱での経験を通じて、既存の権力構造が腐敗し、実質的な力を失っていることを見抜いており、それが彼の独立への野心を育んだと言えるでしょう 1 。応仁の乱(1467-1477年)は、室町幕府の無力さを露呈させ、全国的な戦乱の時代の幕開けを告げるものでした。若き経久にとって、この大乱を直接体験したことは、伝統的な権威への懐疑と、実力主義への確信を深める決定的な契機となったと考えられます。中央の権力が頼りにならない以上、自らの力で道を切り開くしかないという、下剋上特有の精神性が、この時期に培われたのではないでしょうか。
尼子氏は、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の庶流とされています 3 。その名字は近江国犬上郡尼子郷(現在の滋賀県犬上郡甲良町尼子)に由来します 3 。経久の父は尼子清定といい、京極氏のもとで出雲国の守護代を務めていました 1 。尼子氏が出雲へ移ったのは、京極高秀の子高久の次男・持久が出雲に下向し、出雲尼子氏となったことによります 3 。
経久は長禄2年(1458年)、尼子清定の嫡子として誕生しました 1 。幼名は又四郎と伝えられています 5 。若くして父に従い、戦陣での経験を積んだとされます 1 。
文明10年(1478年)頃、20歳で家督を継いだ経久は、主家である守護・京極氏に対し公然と反抗的な態度を取り始めます。京極氏の命令を無視し、税の納入や労役の提供を拒否、さらには寺社領を横領するなど、独立した勢力を築こうとする明確な意志を示しました 1 。この背景には、応仁の乱を通じて目の当たりにした京極氏の権勢の衰えと、既存権力への不信感があったと考えられます 1 。
しかし、こうした大胆な行動は京極氏や周辺国人衆の怒りを買い、一時は本拠地である月山富田城(がっさんとだじょう)から追放されるという苦杯を嘗めます 1 。これは経久が20代半ばの頃の出来事でした 1 。文明16年(1484年)には一時的に守護代の職を解かれたとの記録もあります 5 。
浪々の身となった経久でしたが、不屈の精神で再起を期し、文明18年(1486年)正月、僅かな手勢を率いて月山富田城の奪還に成功します 1 。この奪還劇は、経久の伝説を彩る最も有名な逸話の一つです。一説には、元旦の祝賀で城内の油断に乗じ、配下の者たちを芸人(賀詞の使者、あるいは鉢屋衆と伝えられる)に変装させて城内に潜入させ、城主を討ち取って城を乗っ取ったとされています 1 。月山富田城を失い、浪人となったことは経久にとって大きな試練でしたが、この逆境が彼の不屈の意志を鍛え上げ、型破りな戦術への傾倒を促したのかもしれません。元旦という油断しやすい時期を選び、芸人への変装という奇策を用いたことは、単なる武勇だけでなく、敵の心理を巧みに突く知略に長けていたことを示しています。この成功は、経久の武名と智謀を世に知らしめ、後の勢力拡大の大きな足掛かりとなりました。また、この際に協力したとされる鉢屋衆が、その後も経久の謀略を実行する特殊部隊として暗躍したという話は 6 、彼が早くから情報戦や非正規戦の重要性を認識していた可能性を示唆しています。
月山富田城を奪還した後、経久は出雲国内の対抗勢力を次々と排除し、実質的に京極氏の支配を覆して国内を統一しました 1 。永正5年(1508年)には出雲守護に任じられ、名実ともに尼子氏の独立を達成します 1 。
その後、経久は積極的な対外侵攻を開始し、石見、隠岐、伯耆、備後、さらには安芸、備前、備中、美作の一部にまでその勢力を拡大しました 1 。特に因幡・伯耆(現在の鳥取県)には長期間にわたり深く関与しています 8 。大永年間(1521年~1528年)には出雲・隠岐・伯耆西部・石見東部を支配下に収めていたと記録されています 3 。
経久は「十一州太守」あるいは「陰陽十一ヶ国の太守」と称され、出雲、石見、隠岐、安芸、備後、備前、備中、美作、伯耆、但馬、播磨の広大な地域を支配したかのように語られています 1 。
しかし、歴史学的な検証によれば、この呼称は実態よりも誇張されたものであったと考えられています 1 。経久の影響力や軍事行動がこれらの地域に及んだことは事実ですが、安定的かつ直接的な行政支配が及んでいたのは、出雲、隠岐、石見東部、伯耆、そして備中北部などに限られていたとみられています 1 。「十一ヶ国を治めた」というよりは、「十一ヶ国に亘って戦跡を残した」という表現の方が実情に近いでしょう 9 。戦国時代において、力の誇示はそれ自体が戦略的な意味を持ちました。広大な領土を支配するという評判は、敵対勢力を威嚇し、味方を引きつける効果があったはずです。たとえ「十一州太守」の称号が実態を完全に反映していなかったとしても、経久の威勢を示すプロパガンダとして機能し、彼の Gekokujo を正当化し、中国地方における覇権争いを有利に進めるための心理的な武器となった可能性は高いと言えます。また、この時代の「支配」の概念は流動的であり、直接統治だけでなく、影響力の行使や一時的な軍事占領、国人領主との同盟関係も含まれていたことを考慮する必要があります。
経久の覇業は、数々の戦いと複雑な外交関係によって彩られています。
表1:尼子経久の主要な軍事行動と外交
年代 |
主要な出来事・合戦 |
関係勢力(敵対/同盟など) |
場所 |
結果・意義 |
典拠 |
応仁年間 |
応仁の乱に従軍 |
|
京都など |
既存権力の形骸化を認識 |
1 |
文明18年 (1486) |
月山富田城奪還 |
城代 塩冶掃部介(伝) |
出雲 |
奇襲により本拠地を回復、独立の基盤を築く |
1 |
永正5年 (1508) |
大内義興の上洛に従軍 |
大内義興(協力) |
京都へ |
中央政局への関与、大内氏との一時的協調 |
5 |
永正8年 (1511) |
船岡山合戦に参加 |
大内義興軍の一員として |
京都 |
中央での武功 |
5 |
永正9年 (1512) |
備後国人・古志為信の反乱を支援 |
大内氏(敵対)、古志為信(支援) |
備後 |
大内氏への牽制 |
5 |
永正14年 (1517) |
石見国で大内氏と交戦 |
大内氏(敵対)、山名氏(協力) |
石見 |
石見銀山を巡る抗争の端緒か |
5 |
大永3年 (1523) |
鏡山城の戦い |
大内氏(敵対)、毛利氏(傘下) |
安芸 |
毛利元就を使い大内氏の拠点を攻略、毛利氏の初期の従属関係を示す |
5 |
大永4年 (1524) |
西伯耆を制圧 |
山名澄之(敵対)、南条宗勝(敵対) |
伯耆 |
伯耆国への勢力拡大 |
5 |
享禄3年頃 (1530)~天文3年 (1534) |
塩冶興久の乱 |
塩冶興久(実子、敵対) |
出雲など |
身内の反乱を鎮圧、支配体制の課題露呈 |
4 |
大永年間~天文年間 |
大内氏との継続的な抗争 |
大内氏(主要な敵対勢力) |
中国各地 |
中国地方の覇権を巡る長期的な戦い |
1 |
天文初期まで |
毛利氏との関係 |
毛利元就(当初は傘下、後に離反) |
安芸など |
当初は従属させるも、後に独立し尼子氏の脅威となる |
1 |
特筆すべきは、周防の大内氏との長期にわたる抗争です 1 。また、当初は経久の傘下にあった安芸の毛利元就が、後に大内氏に与し、尼子氏の勢力拡大を阻む最大の要因となったことは歴史の皮肉と言えるでしょう 1 。経久の次男・国久には細川高国から、三男・塩冶興久には大内義興からそれぞれ偏諱(名前の一字)が与えられており 5 、当時の複雑な多方面外交の一端が垣間見えます。
内政においては、三男で塩冶氏の養子となっていた塩冶興久の反乱(1534年頃鎮圧)に直面しました 4 。この反乱は、所領問題や周辺国人の不満が背景にあったとされ 13 、尼子氏の支配体制に潜む問題を露呈させるものでした 13 。
経久の支配下にあった国人領主たちは、必ずしも尼子氏の直接的な家臣とは言えず、その統制は非常に不安定なものでした 5 。経久は、これらの国人衆を掌握し、一つにまとめるために、積極的な対外遠征を繰り返しました 5 。共通の目標を掲げ、戦功による恩賞を与えることで求心力を高めようとしたのです。これは甲斐の武田氏など、同時代の他の戦国大名にも見られる統治手法でした 5 。しかし、具体的な利益(特に土地)を与えられなければ、国人衆の忠誠は容易に揺らいだことも事実です 6 。戦国大名の支配は、特に初期においては、当主個人の力量やカリスマに大きく依存していました。国人衆は半独立的な勢力であり、彼らの協力なしには広大な領国を維持できませんでした。経久が用いた対外遠征という手段は、国人衆のエネルギーを外部に向けさせ、内部の不満を逸らす効果があった一方で、常に戦果を挙げ続けなければならないというプレッシャーも伴いました。もし遠征が失敗に終わったり、十分な恩賞を与えられなかったりすれば、国人衆はより魅力的な別の主君に鞍替えする可能性を常に秘めていたのです。塩冶興久の反乱に一部国人が同調したことは 13 、この構造的脆弱性を示しています。孫の晴久の時代に、より中央集権的な官僚制度(奉行人制度)の整備が目指されたのは 14 、こうした属人的な支配からの脱却を図ろうとした動きと解釈できます。
経済的には、鉱山からの収益が尼子氏の勢力拡大を支えた重要な要素でした 4 。特に石見銀山は、孫の晴久の代に尼子氏の重要な財源となりますが 7 、経久の時代からその戦略的重要性は認識されていたはずです。また、塩冶興久の反乱後に尼子氏が直接支配下に置いた塩冶郷は、穀倉地帯であると同時に、河川水運の要衝であり、鉄の流通拠点でもありました 16 。このような経済的要衝を掌握することが、軍事力の維持と国力増強に不可欠であったことは言うまでもありません。
尼子経久は、その卓越した戦略と権謀術数から「謀将」と評されています 1 。月山富田城の奪還劇をはじめ、彼の軍事行動の多くは、敵の意表を突く奇襲や巧みな策略に満ちていました。毛利元就、宇喜多直家とともに「中国地方の三大謀将」の一人に数えられることもあります 11 。
戦場や政略においては冷徹な判断を下す一方で、家臣に対しては思いやり深く、気前が良かったと伝えられています 6 。この二面性が経久の人間的な魅力を形作っていたのかもしれません。「家臣に優しい親分」 6 といった評価も残っています。
これらの逸話が示す経久の性格は、一見矛盾しているように見えるかもしれません。しかし、戦国乱世を生き抜く指導者にとって、これらの要素はむしろ戦略的に有効であったと考えられます。「謀将」としての冷徹さは敵対勢力に恐怖を与え、家臣への寛大さや配慮は強固な忠誠心を引き出す上で不可欠でした 6 。家臣の心を掴むことは、裏切りが日常茶飯事であった当時において、組織の結束を維持するための重要な手段でした。また、倹約家としての一面は 6 、領国経営における現実的な資源管理の意識を示すと同時に、家臣団に対する範を示す意味合いもあったでしょう。文化的な素養は 11 、単なる武辺者ではない、洗練された大名としてのイメージを高めるのに役立ったかもしれません。そして、毛利元就のような才能ある人物への警戒心は 6 、油断が命取りになる戦国時代において、むしろ鋭い危機察知能力の現れと見ることもできます。このように、経久の多面的な性格は、彼が時代の要求に巧みに適応し、成功を収めるための重要な資質であったと言えるでしょう。
天文6年(1537年)、経久は高齢(79~80歳頃)を理由に隠居し 1 、家督を孫の尼子詮久(あきひさ、後の晴久)に譲りました 1 。晴久はこの時24歳でした 7 。経久の嫡男・政久は永正10年(1513年)に戦死しており 4 、晴久(政久の子)の兄も早世したため、晴久が直系の後継者となりました 7 。
尼子経久は天文10年(1541年)11月13日に月山富田城内で死去しました 5 。享年84(満82歳没)でした 1 。一部史料では同年の1月13日死去(西暦1541年2月7日)とするものもあります 1 。
その墓は、島根県安来市広瀬町の洞光寺(とうこうじ)にあり、父・清定の墓と並んで祀られています 10 。現在の墓石は、来待石(きまちいし)製の宝篋印塔で、元は同寺の旧境内にあったものを後世に移したものと伝えられています 10 。
経久が築いた尼子氏の勢力は、孫の晴久の代に最盛期を迎え、一時は八ヶ国を領するほどになります 3 。しかし、その繁栄の陰には、既に衰退の要因が潜んでいました。
その一つが、晴久の治世下で起きた「新宮党(しんぐうとう)の粛清」です。新宮党は、経久の次男・国久とその子・誠久が率いた尼子氏屈指の精鋭軍事集団でしたが 19 、天文23年(1554年)頃、晴久によって粛清されました 4 。この事件は、晴久の権力集中と出雲大社への直接介入を可能にした一方で 19 、尼子氏の軍事力を著しく低下させ、家臣団に動揺と不満をもたらしました 19 。新宮党の度重なる軍事的失敗やその傲慢な態度が粛清の一因とされています 20 。
そして、最大の脅威となったのが、毛利元就率いる毛利氏の台頭です。毛利氏は着実に勢力を拡大し、永禄9年(1566年)には月山富田城を陥落させ、戦国大名としての尼子氏は事実上滅亡しました 4 。経久の時代に毛利氏の完全な服属を確立できなかったこと、あるいはその危険性を十分に排除できなかったことが、後の尼子氏の運命に大きな影響を与えたと言えるでしょう。
経久は一代で巨大な勢力を築き上げましたが、その統治体制は彼個人の卓越した能力に大きく依存していた側面がありました 14 。また、国人領主たちとの関係も、必ずしも盤石なものではありませんでした 5 。実子である塩冶興久の反乱や 4 、後に晴久が断行した新宮党(経久の子・国久が創設)の粛清は、尼子一族内部の深刻な亀裂や構造的な問題を暗示しています。経久が国久ら一族の有力者を重用し、大きな力を持たせたことが、結果として後継者にとって制御し難い存在を生み出し、内紛の火種となった可能性も否定できません。新宮党はその武勇を誇りましたが、同時に傲慢さも指摘されており 19 、これが晴久との対立を深めたのかもしれません。晴久による官僚制度の整備は 14 、こうした属人的支配からの脱却と権力の制度化を目指す試みであったと考えられますが、内部分裂と毛利氏という強大な外的圧力の前には、十分な効果を発揮できなかったのかもしれません。経久の築いた遺産は偉大でしたが、その急成長した領国には、戦国時代特有の脆弱性が内包されていたと言えるでしょう。
尼子経久は、守護代の立場から身を起こし、中国地方有数の戦国大名へと成り上がった、まさに下剋上を体現した人物です 1 。出雲国を統一し、周辺諸国へ積極的に勢力を拡大、孫の晴久の代に迎える尼子氏最盛期の強固な基盤を築き上げました。特に、型破りな戦術や外交手腕は特筆に値します 1 。また、厳格な指導力と家臣への寛容さを併せ持つことで人心を掌握し、多くの困難を乗り越えて勢力を拡大した点も高く評価されるべきでしょう 6 。
「十一州太守」と称されたものの、その広大な版図全てを安定的に支配していたわけではなく、急速な勢力拡大には行政的な限界があったことが窺えます 1 。また、経久個人の力量に頼る部分が大きかった統治体制は、彼の死後、必ずしも盤石なものではありませんでした 5 。毛利氏のような新興勢力の台頭を抑えきれなかったことも、結果として尼子氏の衰退に繋がりました 1 。塩冶興久の反乱など、一族内部の不協和音も、後のより深刻な分裂の予兆であったと言えるかもしれません 4 。一部には「晩年に失政が続く」との評価もありますが 21 、これに対しては異論もあり、尼子氏、そして経久自身の再評価が進んでいることも指摘されています 21 。
尼子経久は、その劇的な生涯、卓越した戦略、そして複雑な人間性によって、戦国史において際立った存在感を放っています。NHK大河ドラマ『毛利元就』で緒形拳氏が演じたように 18 、歴史小説や映像作品においても、しばしば毛利元就の強大な好敵手として描かれます。彼の事績は、現代においても歴史研究の対象であり続け、新たな史料の発見や解釈によって、その評価は常に更新されています。歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』シリーズにおける彼の能力値が、近年の研究成果を反映して上昇傾向にあるという話は 21 、その一端を示す興味深い事例と言えるでしょう。彼の時代に関する一次史料としては、各種の古文書や軍記物が存在し、研究の進展に寄与しています 5 。
歴史上の人物の評価は、しばしばその最大のライバルや最終的な勝者の視点から形成されることがあります。長らく、経久は毛利元就によって克服された勢力という側面で語られることが多かったかもしれません。しかし、近年の研究では、尼子氏、そして経久自身の業績をより多角的に捉え直す動きが見られます 21 。これは、中央集権的な史観から離れ、地方史の掘り下げが進む中で、彼自身の国づくりや革新的な戦略、統治の複雑さなどが、毛利氏との関係性とは独立して評価されるようになってきたことを意味します。歴史の理解は固定的なものではなく、常に新たな光が当てられるものです。経久は、その重要性が長く認識されてきた人物ですが、現在進行中の学術的な再評価によって、戦国大名としての彼の能力と重要性がさらに明らかになることが期待されます。
尼子経久は、戦国という混沌の時代に現れ、自らの智勇才覚をもって一代で巨大な勢力を築き上げた稀有な武将でした。その生涯は、下剋上の体現者として、また、複雑な人間味あふれる指導者として、今後も多くの人々を魅了し続けることでしょう。