山内隆通は備後国の国人領主。尼子氏の傀儡として家督を継ぐも、大内・尼子・毛利の間を巧みに渡り歩き、毛利氏に別格の待遇で帰属。その戦略的慧眼で一族の存続を図った。
戦国時代の備後国(現在の広島県東部)は、中国地方における地政学的な要衝として、極めて重要な位置を占めていた。国内を西国街道(山陽道)が貫通し、古代から官道として整備されたこの道は、京都と九州を結ぶ大動脈であった 1 。さらに南に目を向ければ、瀬戸内海航路の要衝である鞆の浦や、備後南部の中心地であった神辺といった港湾・商業都市を擁し、経済的にも軍事的にも大きな価値を有していた 2 。
このような地理的優位性は、同時に備後国を絶え間ない緊張状態に置く要因ともなった。北には出雲国を本拠地とし山陰に覇を唱える尼子氏、西には安芸国の毛利氏、そして周防国を拠点に西国一の大大名として君臨した大内氏が、それぞれ備後への影響力拡大を虎視眈眈と狙っていたのである 5 。備後国は、これら巨大勢力が直接的に衝突する緩衝地帯であり、最前線であった。この地で生きる国人領主たちにとって、一つの勢力に完全に依存することは、その勢力が衰退した際に共倒れとなる危険を常に孕んでいた。したがって、彼らの多くは、状況に応じて最も有利な勢力に付くという、柔軟かつ現実的な外交戦略を採らざるを得なかった。本報告の主題である山内隆通の生涯は、まさにこの「要衝の地」の宿命を体現したものであり、彼の巧みな勢力間の立ち回りは、備後国という土地が国人領主たちに強いた生存戦略そのものであったと言える 7 。
山内氏は、藤原秀郷の流れを汲むと称し、相模国鎌倉郡山内荘を本拠とした名門武家であった 8 。鎌倉時代、山内通資の代に備後国地毘庄(現在の広島県庄原市一帯)の地頭として入部したことに、備後山内氏の歴史は始まる 10 。当初は現在の高野町に蔀山城を築いて居城としたが、文和4年(1355年)、宗家はより戦略的な地である庄原に甲山城を新たに築いて移り、蔀山城は弟の通俊に譲られた 11 。この通俊の家系が、後に多賀山氏(多賀山内氏)を称する有力な庶流となり、山内隆通の出自へと繋がっていく 8 。
備後国に根を下ろした山内氏は、周辺の国人である三吉氏や和智氏らと所領を巡って争いつつも着実に勢力を拡大し、室町時代には備後守護であった山名氏のもとで守護代を務めるなど、地域における支配的な地位を確立した 8 。その勢力は、戦国時代に入る頃には安芸国の毛利氏と並び称されるほどの有力国人領主へと成長しており、備後国において最強の勢力の一つと見なされていた 11 。
山内隆通は、享禄3年(1530年)、備後山内氏の庶流である多賀山氏の当主・多賀山通続と、山内宗家第11代当主・山内直通の娘との間に嫡男として生を受けた 15 。幼名は聟法士(むこほうし)と伝わる 15 。この血脈は、隆通の生涯を決定づける極めて重要な要素であった。彼は、山内宗家の血を色濃く引く正統な後継者候補の一人であると同時に、宗家とは独立した勢力を持つ有力庶流・多賀山氏の後継者でもあった。
父である多賀山通続の生涯もまた、波乱に満ちたものであった。永正11年(1514年)、通続がまだ幼い頃、叔父の謀反によって父と兄を殺害され、居城の蔀山城を追われるという悲劇に見舞われる。乳母に背負われて辛くも出雲国へ落ち延びた通続は、翌年に家臣の忠義によって叔父が討ち取られると、帰還して多賀山氏の家督を相続した 18 。このような厳しい環境は、隆通が幼少期から戦国の非情さを肌で感じながら成長した可能性を示唆している。
隆通が山内宗家の家督を継承するに至った経緯は、彼自身の意志や功績によるものではなく、中国地方の二大勢力、尼子氏と大内氏の角逐という、巨大な政治力学の結果であった。
その発端は、天文元年(1532年)に勃発した尼子氏の内紛にある。尼子経久の三男で、山内直通の義理の弟(妹婿)にあたる塩冶興久が、父・経久に対して反乱を起こした。しかしこの反乱は失敗に終わり、敗れた興久は義兄である直通を頼って甲山城へと落ち延びてきた 15 。直通は武家の義理と情誼から興久を匿ったが、これを知った尼子経久は激怒し、天文3年(1534年)に興久の引き渡しを強く要求した。板挟みとなった直通の苦境を察した興久は、直通に感謝の意を伝えて自害。直通は興久の首を尼子氏に差し出すことで一旦は和睦したものの、この一件により山内氏と尼子氏の関係は修復不可能なほどに悪化した 15 。
この状況に目を付けたのが、安芸国で台頭しつつあった毛利元就である。元就は、尼子氏との対抗上、備後の有力国人である山内氏を味方に引き入れることの戦略的重要性を理解していた。彼は巧みに直通に接近して親睦を深め、天文4年(1535年)には毛利・山内間で講和を成立させることに成功する 15 。
山内氏が毛利氏と手を結んだことは、尼子氏にとって看過できない脅威であった。尼子経久とその嫡孫・詮久(後の晴久)は、天文5年(1536年)春、大軍を率いて備後へ侵攻し、山内氏の居城・甲山城を攻略した 15 。この敗北により、直通は強制的に隠居させられることとなる。直通の嫡男であった山内豊通は、すでに父に先立って死去しており、他に有力な後継者もいなかった 15 。当初、尼子詮久はこれを機に山内宗家を断絶させることさえ考えていたという 15 。しかし、最終的に尼子氏が下した判断は、当時まだ7歳の少年であった山内隆通に家督を相続させることであった。
この決定の背景には、複雑な政治的計算があった。隆通は、直通の外孫として宗家の血を引いており、家督相続における血統的正統性を持っていた。それに加え、彼の父・多賀山通続は、宗家とは異なり親尼子的な立場をとっていたのである 15 。尼子氏にとって、隆通を当主に据えることは、山内氏という備後の大勢力を、自らの影響下に置かれた傀儡として掌握するための、最も好都合な選択だったのである。
このように、隆通の家督相続は、彼の血筋の正統性と、父・通続の親尼子的な立場という二つの要素が、尼子氏の政治的都合によって結びつけられた結果であった。これは隆通にとって、宗家の家督という大きな果実を得る一方で、「尼子の傀儡」という極めて不安定な立場からの出発を意味した。彼のその後の生涯は、この「傀儡」という軛(くびき)から脱し、名実ともに山内氏の当主として自立するための、長い闘争の始まりだったのである。
尼子氏の後ろ盾によって山内宗家の当主となった隆通であったが、その立場は常に巨大勢力の動向に左右される危ういものであった。彼の当主としての最初の試練は、天文11年(1542年)に訪れる。
天文10年(1541年)に尼子氏の祖・経久が死去し、その前年には吉田郡山城の戦いで毛利元就に大敗を喫するなど、尼子氏の勢いに陰りが見え始めていた 15 。これを好機と捉えた周防の大内義隆は、中国地方の覇権を完全に掌握すべく、自ら大軍を率いて尼子氏の本拠地・月山富田城へと侵攻を開始した(第一次月山富田城の戦い)。この時、備後・安芸・石見の多くの国人領主たちは、大内氏の威勢を前にして、次々と大内方への味方を表明した 18 。山内隆通も、父・多賀山通続らと共に、この大内軍の一翼を担って出雲へ遠征することとなった 14 。
しかし、この遠征は難航を極める。堅城である月山富田城の攻略は進まず、戦線は膠着。長期化する戦いの中で大内軍の士気は低下し、兵糧の供給も滞りがちになった。戦況が大内方に不利であると見るや、参陣していた国人衆の間に動揺が広がる。そしてついに、安芸の吉川興経、石見の三沢為清、本城常光といった有力国人たちが、次々と大内軍を裏切り尼子方へと寝返った 16 。山内隆通もまた、この流れに乗り、尼子方へと転じたのである 12 。
この国人衆の一斉離反は、大内軍にとって致命傷となった。戦線は崩壊し、大内義隆は屈辱的な総退却を余儀なくされる。隆通のこの行動は、一見すると単なる日和見主義的な裏切り行為に見えるかもしれない。しかし、彼の立場を鑑みれば、それは極めて合理的な判断であった。そもそも彼は尼子氏によって当主の座に据えられた経緯があり、大内方への参陣自体が、時勢に従った苦渋の選択であった可能性が高い。大内軍の劣勢が明らかになった時点で、自らの政治的・軍事的存続を第一に考え、本来の宗主とも言える尼子方へ復帰するという、現実的な選択肢を採ったのである。これは、巨大勢力に翻弄される国人領主の、必死の生存戦略であった。
大内軍が混乱のうちに敗走する中、一つの有名な逸話が生まれる。軍記物である『陰徳太平記』などに記されている、山内隆通と毛利元就の邂逅である 16 。
総崩れとなった大内軍の中で、毛利元就らの一行もまた、決死の撤退戦を強いられていた。敵地である出雲国内を少人数で突破し、備後国へと逃げ延びたものの、その先にはつい先ほどまで敵方として戦っていた山内隆通の居城・甲山城がそびえ立っていた 21 。絶体絶命の状況であったが、元就は意を決して甲山城を訪れる。すると、隆通は驚くべき対応を見せた。彼は敵将である元就一行を城内に温かく招き入れ、酒食を振る舞ってその労をねぎらい、さらには家臣を護衛につけて、元就が無事に本拠地・吉田郡山城まで帰り着けるよう手配したのである 8 。
この逸話は、後世、武士の情けや美談として語られることが多い。しかし、これを単なる感傷的な物語として片付けるのは、戦国武将の思考を見誤ることに繋がる。この行動の背後には、隆通の極めて高度な政治的計算と、将来を見据えた戦略的思考が存在したと見るべきである。
当時の隆通は、尼子方へ寝返ることで目先の危機を回避した。しかし、彼ほどの戦略家であれば、これで中国地方の情勢が完全に安定するとは考えていなかったはずである。大内・毛利氏がこの敗戦で完全に滅びたわけではなく、いずれ勢力を回復し、再び尼子氏と覇権を争うであろうことは、容易に予測できた。その時、自分は「大内氏を裏切った者」として、毛利氏から深い恨みを買っている立場にある。
元就をこの場で殺害しても、隆通が得る個人的な利益は限定的である。むしろ、毛利家全体の憎悪を一身に集めることになり、将来に大きな禍根を残す。一方で、元就を助ければどうなるか。これは、毛利元就という人物に、計り知れないほど大きな個人的な「恩」を売ることになる。この「恩」は、将来、毛利氏が再び優勢となった際に、交渉の切り札として絶大な効果を発揮する可能性を秘めている。
隆通のこの行動は、短期的な軍事的利益よりも、長期的な政治的保険を優先した、極めて冷静で先見性のある「戦略的投資」であった。敵方にすら将来の交渉の窓口を開いておくという、彼の卓越したリスク管理能力の現れと言える。そして事実、この一件は、約10年後に彼が毛利氏へ帰属する際に、交渉を円滑に進める上で、無形の、しかし決定的な資産となったのである。
第一次月山富田城の戦いから約10年、中国地方の勢力図は大きく塗り替えられようとしていた。大内氏では、当主・義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって討たれるという大事件(大寧寺の変)が起こり、その力に著しい翳りが見えていた。一方で毛利元就は、安芸国内を完全に掌握し、着実に勢力を拡大。厳島の戦い(1555年)で陶晴賢を破り、大内氏に取って代わる中国地方の新たな覇者としての地位を固めつつあった 5 。
このような情勢の変化を、山内隆通は見逃さなかった。尼子氏の勢威が相対的に低下し、毛利氏の台頭が明らかになる中で、彼は自らの、そして山内一族の将来を賭けた大きな決断を迫られる。それは、これまで属してきた尼子氏を見限り、毛利氏の麾下に入ることであった。
この重要な交渉の仲介役として、毛利元就は宍戸隆家と口羽通良を派遣した 18 。特に宍戸隆家の起用は、元就の巧みな人選であった。隆家の正室は元就の娘・五龍姫であり、毛利一門の重鎮である。そして、山内氏と宍戸氏は古くから深い姻戚関係にあった。隆通の継室は宍戸隆家の義理の妹であり、さらに隆家の祖父・元源は幼少期に隆通の祖父・直通に養育されたという恩義があったのである 8 。この血縁と旧恩を背景に、宍戸隆家は隆通に毛利氏への帰属を粘り強く説いた。
ここに至って、隆通は毛利氏への帰属を決断する。しかし、彼は一方的に服属する道を選ばなかった。天文22年(1553年)12月3日、彼は宍戸隆家を通じて、毛利氏に対し9ヶ条からなる詳細な条件を提示したのである 15 。これは、隆通の卓越した政治的手腕と、当時の山内氏が毛利氏にとって「多大な譲歩をしてでも味方に引き入れたい」と考えるほど重要な存在であったことを示す、第一級の史料である。
毛利元就と嫡男の隆元は、この9ヶ条の要求を慎重に検討した。そして最終的に、三谿郡和智村の分領問題と、小豪族である涌喜氏の処遇に関する2ヶ条を除く7ヶ条を全面的に承認し、その旨を記した起請文を隆通に送付した 15 。この返答を受け、隆通も正式に毛利氏への帰属を承諾。ここに、備後の大国人・山内氏は、毛利氏の同盟者として新たな一歩を踏み出すこととなった。
隆通が提示した9ヶ条の要求は、彼の国人領主としての矜持、周到な計算、そして一族の将来を見据えた戦略の集大成であった。各条項の内容と、その背後にある意図を分析することで、この交渉が単なる降伏ではなく、対等に近い政治的取引であったことが明らかになる。
条項番号 |
山内隆通の要求内容 (要約) 15 |
隆通の政治的意図・狙い (分析) |
毛利側の回答と、その背景 (分析) 15 |
1 |
宮氏・東氏の旧領で、隆通が知行する備後国奴可郡小奴可・久代の地の所領を、全て隆通のものとして安堵すること。 |
既得権益の完全な承認を求める。特に周辺国人との係争地であった所領の支配権を、新たな覇者である毛利氏に公的に認めさせる狙い。 |
承認。 山内氏の実効支配を追認し、備後北部における彼の影響力を認めることで、確実な味方として取り込むことを優先した。 |
2 |
隆通の実父である多賀山通続が毛利氏に服属した際、通続を疎略に扱わないという旨の起請文を出すこと。 |
自らの出自である多賀山氏、そして父の安泰を確保する。一族への配慮と孝を示すことで、家臣団の結束を固める意図もある。 |
承認。 人道的配慮を示すことで隆通の心証を良くし、忠誠心を高める狙い。毛利氏にとってコストのかからない効果的な懐柔策であった。 |
3 |
備後国永江の地は、今後も隆通の所領とし、元の領主であった江田氏に返還しないこと。 |
特定の係争地における自らの権利を明確に主張し、国人領主間の紛争に毛利氏を安易に介入させないという意思表示。 |
承認。 個別の小領主(江田氏)の不満よりも、大物国人である山内氏の歓心を買うことを優先。現実的な力関係に基づく判断。 |
4 |
備後国三谿郡和智村は、近年の通り山内氏と三吉氏の分領とすること。 |
隣接する有力国人・三吉氏との勢力均衡を、現状維持という形で固定化しようとした。国境地帯の安定化を図る狙い。 |
不承認。 和智氏や三吉氏との関係は、毛利氏が直接管理する意向を示した。国人同士が連携して毛利氏に対抗することを防ぎ、毛利氏の優位を保つ狙いがあった。 |
5 |
備後国三上郡信敷の複雑な分領関係について、現状を維持し、誰がどのような提言をしても耳を貸さないこと。 |
領内の複雑な知行関係に外部から介入させず、領主としての自らの裁量権を維持しようとした。 |
承認。 細かい領地問題に深入りせず、大きな枠組みでの支配を優先。山内氏の領国経営能力をある程度信頼した形。 |
6 |
高光氏は、隆通と同様に毛利氏へ従う意思があるため、その所領を安堵すること。 |
自らを頼る同盟国人・高光氏を保護することで、備後国人社会における自らの影響力(親分としての立場)を毛利氏に認めさせる。 |
承認。 山内氏の勢力圏を丸ごと受け入れる形をとり、傘下の国人も含めて毛利体制に組み込むことで、効率的に備後を平定する狙い。 |
7 |
涌喜氏のこと。(独立した領主としての地位保全を求めたとされる) |
傘下の小豪族の地位を保証することで、自らの支配体制の安定を図る。 |
不承認。 涌喜氏のような小領主は、宍戸氏のような毛利一門の傘下に直接組み込む方針を示した。山内氏の権力が過度に強大化することを抑制する意図があった。 |
8 |
毛利氏領内から一ヶ所を隆通に分与すること。 |
毛利氏への帰属という大きな政治的決断に対する、具体的な恩賞を要求。自らの価値を領地という形で評価させる。 |
承認。 忠誠を誓う者には恩賞で報いるという、大名としての器量と姿勢を示すことで、他の国人へのアピールにも繋がる。 |
9 |
以上の条件を認めるという誓書に、毛利元就、毛利隆元、宍戸隆家の三者が連署し、花押を加えること。 |
毛利家当主父子だけでなく、交渉の仲介者であり姻戚でもある宍戸隆家の保証も取り付け、契約の履行を多重に担保する。 |
承認。 要求に全面的に応えることで、契約の正当性と毛利氏の誠意を示し、隆通の信頼を完全に獲得しようとした。 |
この巧みな交渉の結果、山内氏は他の多くの備後国衆が毛利氏の直臣や一門の家臣として完全に組み込まれていく中で、高い独立性を保った「別格の待遇」を勝ち取ることに成功した 12 。これは、隆通の政治的手腕の勝利であると同時に、毛利氏が中国地方の覇権を確立する上で、山内氏の協力がいかに不可欠であったかを物語っている。
毛利氏の麾下に入った山内隆通は、元就、隆元、そして輝元の三代にわたって忠実に仕え、毛利家の重臣としてその勢力拡大に貢献した 15 。彼の役割は、単なる一武将に留まらず、備後方面における毛利氏の支配を安定させるための重要な支柱であった。
特に、旧主家であった尼子氏との戦いにおいては、その最前線に立つことを求められた。元亀元年(1570年)、山中幸盛らが尼子勝久を擁して出雲国に侵攻し、尼子家再興の兵を挙げると、隆通も輝元の命を受けて出雲へ出陣。同年7月には、尼子再興軍に合流した旧石見国人の福屋隆兼と宇祢路(うねじ)において交戦するなど、毛利方として尼子氏と対峙した 16 。これは、彼が尼子氏との関係を完全に断ち切り、毛利家への忠誠を明確に示すための、避けては通れない戦いであった。
隆通の後半生における最も注目すべき活動の一つが、亡命将軍・足利義昭の支援である。天正4年(1576年)、織田信長によって京都を追われた室町幕府第15代将軍・足利義昭は、毛利輝元を頼って備後国鞆の浦に下向し、この地に亡命政権(通称「鞆幕府」)を樹立した。
毛利輝元は、この「公方様」を庇護することで、反信長勢力の結集軸となり、織田氏に対抗する大義名分を得ようとした。この国家的なプロジェクトにおいて、輝元は山内隆通に義昭への援助を命じた 16 。隆通はこの期待に応え、家臣の滑良通泰(なめらみちやす)を鞆に派遣し、義昭本人やその家臣たちに対して、多額の金品や物資を献上した 16 。この手厚い支援は、毛利家の外交僧であり、義昭と輝元の間を取り持っていた安国寺恵瓊を深く感嘆させた。恵瓊は隆通に対し、「面目の至り、大慶これに過ぐべからず候(これほどの面目を施していただき、この上ない喜びです)」という最大限の賛辞を記した書状を送っている 16 。
この支援活動は、単に主君の命令に従ったというだけではない。それは、毛利政権内における山内氏の豊かな財力と、中央政局にも関与しうる高い政治的影響力を、内外に示す絶好の機会であった。一地方領主であった隆通は、中央の権威である将軍家を支えるという大事業の一翼を担うことで、毛利家にとって不可欠な重臣としての地位を不動のものとしたのである。
しかし、隆通の晩年は、戦国時代の終わりと近世の始まりを告げる、大きな時代のうねりの中にあった。織田信長、そして豊臣秀吉という天下人の登場により、毛利氏は存亡をかけた全面対決に直面する。この巨大な外部圧力に対抗するため、毛利輝元は領国支配体制の抜本的な強化、すなわち、これまで半独立的な地位を認めてきた国人領主たちを完全に家臣団へと組み込み、権力を中央に集中させる政策を強力に推し進めた。
かつて隆通が勝ち取った「別格の待遇」も、この大きな時代の流れには抗えなかった。天正12年(1584年)、輝元は隆通に対し、三吉氏や久代氏といった他の有力国人と同様に、忠誠の証として人質を差し出すよう要求した 15 。これは、もはや対等な同盟者ではなく、主君と家臣の関係であることを明確にするための措置であった。
隆通はこの要求に正面から抵抗することなく、現実的な対応を見せる。彼は姻戚である熊谷信直や宍戸隆家と緊密に連携を取りながら、嫡男の広通を人質として差し出すことを承諾した。ただし、国人領主としての最後の矜持か、広通の差し出しは表向き「病気療養のため」という名目で、宍戸隆家の居城である五龍城へ送られた 15 。
そして、この人質提出は、山内氏が独立性を失う画期的な出来事の序章に過ぎなかった。天正14年(1586年)2月、隆通は輝元の命令に基づき、自領および家臣の所領をすべて書き出した知行高注進状を提出した 15 。この時の山内氏の所領は、備後、安芸、出雲の三国にまたがり、家臣団の知行を含めた合計は6748貫に及んでいたことが記録されている 15 。
人質の提出と知行高の全面的な報告。この二つの出来事は、山内氏が独立した国人領主としての地位を完全に失い、毛利大名権力の下で知行を与えられる存在、すなわち完全な家臣へと編入されたことを示すものであった。隆通が生涯をかけて維持しようとした国人としての独立性は、豊臣政権という巨大な外部圧力に直面した毛利氏の、領国再編という内圧の波に、最終的に飲み込まれたのである。彼の晩年は、戦国的な国人領主の時代の終焉を象徴していた。
知行高を注進した同年の天正14年10月15日(西暦1586年11月25日)、山内隆通はその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年57であった 15 。戒名は帰雲玄鶴 15 。
山内隆通の生涯を俯瞰するとき、そこに浮かび上がるのは、激動の時代を生き抜くための冷静な現実主義と、将来を見通す戦略的思考、そして一族と家臣を守り抜くという国人領主としての強い責任感を兼ね備えた、稀有な指導者の姿である。
彼は、尼子氏の介入という他律的な要因で家督を継ぎながらも、それに甘んじることなく、常に自らの手で運命を切り開こうとした。第一次月山富田城の戦いでの寝返りと、その後の毛利元就の保護という一連の行動は、短期的な利害に囚われず、長期的な視点でリスクを管理し、将来への布石を打つという彼の戦略眼を如実に物語っている。毛利氏への帰属に際して9ヶ条もの詳細な条件を突きつけた交渉力は、彼が単なる武人ではなく、優れた政治家でもあったことを示している。
その一方で、彼は人間的な温かみも持ち合わせていた。父・多賀山通続が晩年に腹痛を患った際、隆通は当時敵方であったはずの室町幕府の幕臣・結城意旭に依頼して薬を取り寄せ、父に送ったという逸話が残されている 18 。これに深く感謝した父からの書状が現存しており、彼の家族を思う情の深さを伝えている。
隆通は、政略結婚を通じて一族の安泰を図った。正室には、山内宗家の血筋を継ぐ山内豊通の娘を迎え、自らの家督の正統性を補強した 15 。その後、継室として安芸の有力国人であり、毛利氏の重臣でもある熊谷信直の娘を迎えている 15 。これは明らかに、毛利氏との関係をより強固にするための戦略的な縁組であった。
子としては、元通と広通という二人の息子がいたとされている 27 。しかし、嫡男であった元通は早世したか、あるいはその存在自体が後世の混同であった可能性も指摘されており、最終的に家督を継いだのは継室・熊谷氏の子である広通であった 16 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、主家である毛利氏が防長二カ国に減封されると、山内家もそれに従って長門国(現在の山口県)へ移住した 14 。以後、山内氏は長州藩士として家名を存続させ、隆通が守り抜いた血脈は江戸時代を通じて受け継がれていったのである 27 。
山内隆通とその一族が残した遺産は、今なお広島県庄原市の地に息づいている。
山内隆通は、戦国時代という、一寸先が闇の乱世において、備後国という地政学的に極めて困難な場所にありながら、一族を率いてその激動を駆け抜けた、傑出した国人領主であった。彼の生涯は、尼子、大内、そして毛利という巨大勢力の狭間で、常に冷静な状況分析と先見性に満ちた戦略的判断、そして巧みな外交手腕を駆使して、一族の存続と繁栄を図るための連続した闘争であった。
彼は、毛利氏への帰属という大きな決断に際しても、決して一方的に屈することなく、対等に近い交渉によって一族の利益を最大限に確保し、毛利家臣団の中でも特異な地位を築き上げた。その手腕は、戦国時代の国人領主の中でも屈指のものであったと言える。
しかし同時に、彼の生涯の終盤は、戦国時代の「国衆」の時代が終わりを告げ、より強固な中央集権体制を持つ近世的な大名権力による一元支配へと、社会が大きく移行していく歴史の転換点を象徴している。彼が守ろうとした国人としての独立性は、時代の大きなうねりの中で、最終的には大名家の家臣という形に収斂していった。
それでもなお、彼が後世に遺した最大の功績は、この歴史の荒波を乗り越え、山内氏という鎌倉以来の名門の血脈を、長州藩士として近世へと繋いだことにある。それは、戦国の世に生きた武将にとって、究極の勝利であったのかもしれない。山内隆通の生涯は、一人の武将の物語であると同時に、乱世を生き抜くための知恵と戦略、そして時代の変化に適応していく人間の営みを我々に教えてくれる、貴重な歴史の記録なのである。