山吉豊守は越後山吉氏当主で、上杉謙信の側近として外交・内政・軍事に貢献。家中最大の軍役を担うも急死し、山吉家は転落。しかし、激動の時代を乗り越え米沢藩士として存続した。
日本の戦国時代、越後の龍と称された上杉謙信。その生涯は数多の合戦と、義を重んじる孤高の精神性によって彩られている。しかし、その強大な軍事力と広大な支配領域を、謙信一人のカリスマ性のみで維持・運営することは不可能であった。彼の背後には、政権を実務的に支える有能な家臣団の存在があった。その中でも、ひときわ異彩を放つ人物が「山吉豊守(やまよし とよもり)」である。
一般に、山吉豊守は上杉謙信の側近として、主君の意思を伝達する秘書官的な役割を担った人物として知られている 1 。また、謙信が越中へ出陣した際には、本拠地である春日山城の留守居という重責を任されたことからも、その深い信頼関係が窺える 3 。しかし、彼の真の姿は、単なる有能な側近という言葉だけでは到底捉えきれない。天正年間に作成された『上杉家軍役帳』には、山吉豊守が上杉家の後継者である上杉景勝をも凌ぎ、家中最大の軍役を負担していたという驚くべき事実が記録されているのである 3 。
本報告書は、この山吉豊守という人物について、利用者様がご存じの「秘書官」という側面に留まらず、彼の出自、政治・外交・軍事における具体的な役割、そして彼が築いた絶大な権勢の源泉と、その死によってもたらされた一族の急転直下な運命を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。
なぜ、守護代長尾氏の被官、すなわち旗本の一人に過ぎないはずの豊守が、家中最大の軍事力を動員し得たのか。この一点の謎を解き明かすことは、謙信政権の権力構造が持つ特質と、山吉豊守という人物の歴史的意義を理解する上で不可欠な鍵となる。本報告書では、豊守の人物像を「蒲原郡の在地領主」「謙信政権の中枢を担う実務官僚」「上杉家最大の軍事力を持つ旗本」という三つの側面から多角的に捉え、それらが如何に相互作用し、彼の特異な地位を形成したのかを論証していく。
山吉豊守が上杉家中で築いた絶大な影響力は、彼個人の能力のみに帰せられるものではない。その権勢の根底には、彼が属する「山吉氏」という一族が、越後国蒲原郡(かんばらのこおり)において長年にわたり築き上げてきた強固な権力基盤が存在した。この章では、豊守の活躍を支えた土台とも言うべき、山吉一族の歴史的背景と権力の源泉を明らかにする。
山吉氏の出自は、桓武平氏三浦氏の流れを汲むと伝えられ、その名字は越後国蒲原郡山吉(現在の新潟県見附市山吉町)の地に由来すると考えられている 5 。このような由緒ある出自は、中世社会において在地での権威を正統化する上で重要な意味を持っていた。
史料上で山吉氏の活動が確実となるのは室町時代からである。彼らは越後守護代であった長尾氏の被官として頭角を現し、特に蒲原郡を拠点とした三条長尾氏の管轄権を実質的に継承する形で、同地域の「郡司」として勢力を拡大していった 5 。これは、山吉氏が単に主君に仕える家臣という立場に留まらず、特定の地域における統治権を委任された、半ば独立した国人領主としての性格を強く帯びていたことを示している。
その権力の中核を成したのが、蒲原郡の中心に位置する三条城(別名:島之城)であった。山吉氏は代々この城を居城とし、信濃川水系を抑える交通の要衝でもあるこの地を拠点として、政治的・軍事的な影響力を行使したのである 5 。
中世の武士にとって、軍事力や経済力と並び、宗教的権威との結びつきは自らの支配を安定させる上で極めて重要な要素であった。山吉氏はその点においても、巧みに自らの権力基盤を強化していた。
一族は、本拠地である三条に所在する法華宗の有力寺院・長久山本成寺(ほんじょうじ)の創建に深く関与し、代々「大檀那(おおだんな)」としてこの寺院を厚く庇護した 5 。大檀那とは、単なる経済的な支援者に留まらず、寺院の運営や人事にも影響を及ぼす強力な後援者のことである。本成寺は山吉氏の庇護の下で越後における日蓮宗の根本道場として隆盛し、時には山吉氏と共に長尾為景(謙信の父)を軍事的に支援するなど、政治の舞台においても重要な役割を果たした 10 。
この山吉氏と本成寺、そして三条城との密接な関係を今日に伝える貴重な物証が、本成寺に現存する「黒門」である。この門は、寛永19年(1642年)に廃城となった三条城の城門を移築したものであり、三条城唯一の遺構とされている 9 。これは、山吉氏の世俗的権力の象徴であった城の一部が、その宗教的権威の象徴であった寺院に引き継がれたことを物語っており、両者の不可分な関係を雄弁に示している。
山吉豊守の権力は、決して上杉謙信からの個人的な信任のみによって成立したものではなかった。その根底には、①由緒ある出自、②蒲原郡における世襲的な統治権、③三条城という軍事拠点、④本成寺という宗教的権威との強固な結びつき、という四つの柱からなる、一族が長年にわたり築き上げてきた複合的な地域支配体制が存在した。謙信が豊守を重用した背景には、彼個人の才覚はもとより、彼を登用することによって、この山吉氏が持つ地域全体の力を上杉政権に円滑に組み込むという、高度な政治的計算があったと考えられる。豊守の権勢は、彼個人のものではなく、彼が代表する「山吉氏」という在地勢力そのものの力であったのである。
強固な一族の地盤を背景に、山吉豊守は上杉謙信の治世において、その才能を遺憾なく発揮する。彼は謙信政権の中枢に深く食い込み、文武両面にわたって目覚ましい活躍を見せた。この章では、史料に残る豊守の具体的な活動を追いながら、彼が謙信にとって如何に不可欠な存在であったかを詳述する。
山吉豊守の基本的な経歴については、複数の史料間で記述に食い違いが見られ、その正確な姿を特定するには慎重な史料批判が求められる。
まず生没年について、大きく二つの説が存在する。一つは、大永5年(1525年)に生まれ、天正3年(1575年)または天正5年(1577年)に没したとする説である 3 。これは江戸時代に編纂された『山吉家家譜』などに依拠するもので、比較的長い生涯を送ったことになる。もう一つは、天文10年(1541年)または天文11年(1542年)に生まれ、天正5年(1577年)に没したとする説で、これによれば30代半ばでの早世となる 11 。
父親の名についても、山吉政応(まさおき) 11 、山吉政久(まさひさ) 3 など、史料によって異同が見られる。こうした情報の錯綜は、『山吉家家譜』のような後世の系図が、一族の系譜を美しく整える過程で加筆や整理が行われた可能性を示唆している。事実、山吉氏の戦国時代以前の系譜は信憑性に疑問を呈する研究もあり、一次史料との慎重な照合が必要である 14 。
家督相続については、『山吉家家譜』によれば、天文21年(1552年)に父・政久の隠居により豊守が家督を継いだとされている 3 。
史料上、豊守の活動が顕著になるのは永禄年間末期からである。彼は上杉謙信の側近である「御奏者(ごそうしゃ)」に抜擢される 2 。御奏者とは、主君の命令や意向を家臣や外部の勢力に伝達し、また彼らからの言上を取り次ぐ役職であり、現代で言えば秘書官長や奏者番に相当する。主君の側近くに仕え、その「口」ともなるこの役職は、能力はもとより、絶対的な忠誠心と信頼がなければ務まらない、極めて重要なポジションであった。
豊守の外交官としての能力が最も発揮されたのが、長年の宿敵であった相模の後北条氏との同盟交渉、いわゆる「越相同盟」である。永禄12年(1569年)頃、彼はこの困難な交渉において中心的な役割を担い、同盟締結に大きく貢献した 2 。敵対していた大国間の利害を調整し、関係を劇的に転換させるこの任務は、極めて高度な政治感覚と交渉力が求められるものであり、豊守の手腕の高さを示す好例と言える。
彼の外交活動は、対北条氏に留まらなかった。関東の諸豪族との折衝 3 、陸奥の芦名氏や飛騨の江馬氏といった遠方の勢力との交渉や調略 12 、さらには家臣間の領地紛争の調停まで、その活動範囲は多岐にわたった。彼が発給した書状も現存しており、例えば、関東方面の重要拠点である根利関所の管理について現地の武将に指示を与える書状からは、彼が謙信の代理として広範な軍事・行政上の権限を行使していたことが明確に読み取れる 16 。
豊守は文官としての顔だけでなく、武将としても重要な役割を担っていた。永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは、謙信の本陣を守る旗本衆の一員(左備え)として参陣したと伝えられている 12 。
彼の軍事的な重要性を示すより確実な事例が、春日山城の留守居役である。謙信が主力を率いて越中などへ長期遠征に出る際、豊守は斎藤朝信や本庄実乃といった上杉家を代表する宿老・重臣らと共に、本拠地である春日山城の守備を任された 3 。国の心臓部とも言える春日山城の留守居は、万一の事態に対応できる軍事司令官としての能力と、そして何よりも、主君の不在時に決して裏切らないという絶対的な忠誠心を信頼されていなければ任されない重責であった。
これらの事実から明らかなように、山吉豊守は単なる秘書官ではなく、外交交渉を主導し、時には軍事的な重責も担う、文武両面に通じた最高レベルの実務官僚であった。彼の役割は、謙信というカリスマ的指導者の戦略や構想を、具体的な外交政策や軍事行動として実行に移すための、不可欠な「執行機関」であったと言える。謙信政権は、謙信個人の突出した軍事的才能に依存する一方で、その統治機構は豊守のような有能な実務官僚群によって支えられていた。豊守の目覚ましい活躍は、上杉家の統治システムが、独立性の高い国人たちの連合体から、より中央集権的な大名権力へと移行していく過渡期の姿を象徴しているのである。
山吉豊守を巡る最大の謎であり、本報告書の核心となるのが、彼が上杉家中で最大の軍役を負担していたという事実である。この事実は、彼の地位が単なる側近の域を遥かに超えていたことを示唆している。この章では、『上杉家軍役帳』の記述を基に、その背景にある経済的・政治的要因を多角的に分析し、豊守の権勢の源泉を解き明かす。
天正3年(1575年)頃に、上杉謙信が家臣団に対して動員を命じることができる兵数を査定し、一覧にした台帳が『上杉家軍役帳』である。この史料には、当時の上杉家臣団の序列や勢力を知る上で極めて貴重な情報が含まれている。その中で、山吉豊守(史料上は通称の「山吉孫二郎」)に課せられた軍役数は、 377名 と記録されている 2 。
この数値の持つ意味を理解するためには、他の主要な家臣たちの軍役数と比較することが不可欠である。
『上杉家軍役帳』における主要家臣の軍役数比較
武将名 |
家格 |
軍役数 |
山吉 孫二郎 (豊守) |
旗本 |
377 |
御中城様 (上杉景勝) |
一家 |
375 |
直江 大和守 (景綱) |
旗本 |
305 |
柿崎 左衛門大輔 (景家) |
国衆 |
260 |
本庄 清七郎 (繁長) |
旗本 |
240 |
色部 弥三郎 (長実) |
国衆 |
227 |
斎藤 下野守 (朝信) |
国衆 |
213 |
新発田 尾張守 (長敦) |
国衆 |
194 |
出典:『上杉家軍役帳』の記録に基づく 4
この表が示す事実は衝撃的である。豊守は謙信直属の「旗本」という立場でありながら、その軍役数は、謙信の養子であり後継者と目される「一家」の上杉景勝とほぼ同等、あるいは僅かに上回っている。また、上杉四天王に数えられることもある柿崎景家や斎藤朝信、同じく重臣である直江景綱といった錚々たる面々の数値を大きく凌駕している。軍役数は、その者が支配する所領の石高(経済力)に比例するのが通例である。したがって、この数値は、山吉豊守の支配する所領が、名目上の家格を超えて、実質的に上杉家中でトップクラスの経済力を有していたことを明確に物語っている。
では、山吉氏の絶大な経済力はどこから生まれていたのか。その答えは、彼らの本拠地である蒲原郡の地理的・経済的特性にある。
第一に、圧倒的な農業生産力である。山吉氏の所領が広がる蒲原平野は、日本最長の河川である信濃川がもたらす肥沃な沖積土壌に恵まれた、越後国でも有数の穀倉地帯であった。安定した米の収穫は、多数の兵士を養い、戦時の兵糧を確保するための基本的な経済力となった。
第二に、交通の要衝としての利点である。彼らの拠点・三条は、信濃川水運の結節点に位置していた。中世・近世において、河川舟運は物資を大量かつ効率的に輸送する最も重要な手段であり、三条は越後国内の産物や日本海交易の品々が集まる一大集散地として栄えていた 17 。この水運を掌握することは、通行税や商業活動から莫大な利益を得ることを可能にしただけでなく、武器・兵糧といった戦略物資の輸送においても絶大な軍事的利点をもたらした 18 。
第三に、古くから続く産業の集積である。三条および隣接する燕の地域は、古来、鍛冶を中心とした金属加工業が盛んな地として知られていた 19 。戦国時代において、刀槍や甲冑といった武具、さらには農具の生産は、地域の富を増大させると同時に、自軍の装備を質・量ともに充実させる上で直接的なアドバンテージとなった。
これらの農業・商業・工業が一体となった強固な経済基盤こそが、377名という巨大な軍役を可能ならしめる物理的な源泉であった。
経済力だけでは、家中最大の軍役という特異な地位は説明できない。そこには、謙信政権における豊守の卓越した政治的地位が深く関わっていた。
山吉氏は、謙信の父・長尾為景の代から仕える譜代の家臣であり、主家に対する忠誠心は高く評価されていた 1 。謙信は、独立性の高い国人領主が多く、家臣の裏切りにしばしば悩まされた経緯から、こうした譜代の家臣を特に信頼し、重用する傾向があった 20 。
加えて、第二章で詳述した通り、豊守は謙信の政権運営に不可欠な実務官僚であった。彼の担う外交・内政の職務の重要性が、彼に与えられる所領や権限の大きさに直結していたことは想像に難くない。謙信は、豊守の傑出した能力と揺るぎない忠誠心を高く評価し、その見返りとして、彼の権勢を公的に承認し、さらに強大なものとする処遇を与えたと考えられる。
結論として、山吉豊守が担った最大の軍役は、単一の要因によるものではなく、「①山吉氏が元来持つ蒲原郡の経済力」と、「②謙信政権における豊守個人の政治的重要性」という二つの要素が、いわば相乗効果を生んだ結果であると分析できる。謙信は、山吉氏の持つ在地領主としての強大な力を、豊守という有能かつ忠実な個人を側近に登用することで巧みに政権内に取り込み、自らの覇業のために最大限に活用した。豊守の377名という軍役数は、この上杉政権と在地有力国人との間の、戦略的で相互依存的な関係性を象徴する、極めて意義深い数値なのである。
栄華を極めた山吉豊守であったが、その権勢は彼一代のもの、そして謙信との個人的な信頼関係という、極めて属人的な基盤の上に成り立っていた。その「楔」が失われた時、一族の運命は劇的に暗転する。この章では、豊守の死を境に、栄光の頂点から一転して厳しい状況に追い込まれる山吉家の姿を描写する。これは、豊守という一個人の存在がいかに巨大であったかを、逆説的に証明する出来事であった。
天正5年(1577年)9月頃、山吉豊守は急病によりその生涯を閉じたとされる 11 。これは、主君である上杉謙信が翌天正6年(1578年)3月に急逝する、わずか半年前の出来事であった。上杉家が、その後の家督を巡る内乱「御館の乱」へと突入していく激動期の直前に、政権の中枢を担う最重要人物を失ったことは、計り知れない損失であった。
豊守の死は、山吉家そのものにも深刻な後継者問題を引き起こした。史料によれば、豊守の死後、家督は嫡男とされる山吉盛信が継いだものの、彼もまた間もなく急死するという悲劇に見舞われた 3 。その結果、盛信の弟(あるいは豊守の子ともされる)である山吉景長が、わずか13歳という若さで、巨大な山吉家の家督を継承することになったのである 22 。
相次ぐ当主の死と、新当主・景長が元服前の若年であったことを理由に、上杉家の指導部は山吉家に対して極めて厳しい処置を下した。その内容は、所領を半減させた上、一族が先祖代々本拠地としてきた三条城を没収し、黒埼(現在の新潟市西区)の木場城へと移封させるというものであった 3 。これは、家中最大の勢力を誇った一族に対する処置としては、まさに転落とも言えるものであった。
この処置の表向きの理由とされたのが、上杉家に存在したとされる厳格な家法であった。それによれば、家督を継いだ者が15歳に満たない場合、その領地は一旦没収されるという決まりがあったという 22 。山吉家の場合、長年の功績が考慮された結果、全没収ではなく領地半減という「温情」措置に落ち着いたとされている 22 。
この時の領地没収、いわゆる「三条闕所(さんじょうけっしょ)」の詳細は、『三条闕所御帳』という帳面に記録として現存している 21 。この史料は、山吉家が没収された所領の規模や、そこに仕えていた家臣団の構成などを具体的に記したものであり、豊守時代の山吉家の権勢の大きさを知る上での、極めて貴重な一次史料となっている。
しかし、この一連の処置を、単に家法の形式的な適用と見るのは早計であろう。その背後には、上杉家指導部の明確な政治的意図が存在した可能性が極めて高い。
豊守の死後、空席となった三条城には、神余親綱(かなまり ちかつな)という武将が新たな城主として送り込まれた 7 。神余氏は、京都との連絡役などを務めた吏僚的な家臣であり、山吉氏のように蒲原郡に強固な在地基盤を持つ人物ではなかった 24 。この人選は、上杉家中枢が、三条という越後の要衝を、特定の在地勢力の影響下から切り離し、より直接的な統制下に置こうとした意図を明確に示している。
豊守個人の能力と謙信との信頼関係によって、その強大な力は上杉政権にとって有益なものとして機能していた。しかし、その絶対的な「管理者」である豊守を失った途端、山吉氏の巨大な勢力は、後継者や他の重臣たちにとって、統制困難な「潜在的脅威」へとその姿を変えた。したがって、「三条闕所」は、若年の当主への懲罰というよりも、将来のリスクを未然に防ぎ、大名権力の中央集権化を推し進めるための、冷徹な「外科手術」的な政治判断であったと分析できる。
山吉家の急転直下の転落は、彼らの権勢がいかに山吉豊守という一個人の存在と、謙信との個人的な信頼関係に深く依存していたかを物語っている。それは、戦国時代における権力が、個人の能力や主君との信頼関係といった、極めて属人的で脆弱な基盤の上に成り立っていたという、時代の本質を如実に示す事例であった。
最大の権勢を誇った父祖の時代は終わりを告げ、所領を半減され、本拠地を追われた山吉家。若き当主・山吉景長の前には、茨の道が広がっていた。しかし、一族はここで歴史の舞台から消え去ることはなかった。この章では、縮小された権力基盤の中で、新当主・景長が如何にして一族を率い、謙信死後の激動の時代を生き抜いたかを追う。それは、豊守が遺した「遺産」が、形を変えながらも一族の存続に寄与した物語でもあった。
天正6年(1578年)3月、上杉謙信が急逝すると、その後継者の座を巡り、養子の上杉景勝と上杉景虎の間で家中を二分する大規模な内乱「御館の乱」が勃発した。この時、山吉景長は迷うことなく上杉景勝方に与した 5 。これは、一族の存亡をかけた極めて重要な政治的決断であった。豊守の死によって上杉家中枢との繋がりが弱体化していた山吉家にとって、勝利者となる可能性のある側に早期に帰属を明確にすることは、自らの地位を保全するための最善の策であった。
景長は、新たに移された本拠地である木場城を守り、景勝方の一員として戦った 5 。この乱における忠誠は、最終的に勝利を収めた景勝からの信頼を勝ち取る上で大きな意味を持ち、乱後の上杉家中における山吉家の地位を確保する礎となった。
御館の乱は景勝の勝利に終わったが、越後の混乱は収まらなかった。乱後の論功行賞に不満を抱いた下越の有力国人・新発田重家が、織田信長と結んで反旗を翻したのである。この「新発田重家の乱」において、山吉景長の居城・木場城は、信濃川河口の新潟津を抑える新発田勢力と対峙する、まさに最前線の拠点となった 26 。
景長は、この絶え間ない緊張下に置かれた最前線で、若年ながら武将としての器量を示した。彼は蓼沼友重といった他の将と共に木場城を固守し、時には城から打って出て新潟・沼垂方面で新発田勢と交戦。天正14年(1586年)7月の合戦では、敵将・新発田駿河守を討ち取るという具体的な武功を挙げている 5 。これらの戦いを通じて、景長は父・豊守の威光に頼るのではなく、自らの力で武将としての評価を確立し、新たな主君・景勝にとって「使える家臣」であることを証明していった。
新発田の乱を鎮圧し、越後を再統一した上杉景勝は、豊臣秀吉の天下統一事業に協力し、豊臣大名の一員となる。山吉景長も、主君に従い、その後の佐渡本間氏討伐では先陣を務め、秀吉による小田原征伐では八王子城攻めに参加、さらに文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では母衣武者(ほろむしゃ、主君の伝令などを務める精鋭の騎馬武者)として参陣するなど、上杉軍の主要な戦力として活躍を続けた 5 。
慶長3年(1598年)、上杉家は秀吉の命により会津120万石へと移封される。さらに慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与した結果、戦後、徳川家康によって出羽米沢30万石へと大減封された 29 。山吉氏もこの主家の浮沈に従い、越後の地を離れて米沢へと移り住んだ 6 。
以後、山吉氏は米沢藩士として江戸時代を通じて存続し、藩に仕え続けた 6 。江戸時代中期には、藩が歴史編纂事業を行うにあたり、一族に伝わる戦国時代以来の古文書を藩に提出した記録も残っており、彼らが自らの一族の歴史を大切に伝承していたことが窺える 32 。
山吉家は、豊守の死によって家中最大の権勢は失った。しかし、豊守が築いた「上杉家への多大な貢献」という実績と、「譜代の重臣」という家格は、無形の遺産として残された。新当主・景長は、その遺産を元手に、新たな主君・景勝への揺るぎない忠誠と、戦場での具体的な武功によって自らの価値を証明した。これにより、一族は激動の時代を乗り越え、近世大名の家臣団の一員として家名を後世に伝えることに成功したのである。それは、巨大な権力を失った後の、巧みな適応と存続の物語であった。
本報告書は、戦国時代の武将・山吉豊守について、複数の史料を横断的に分析し、その人物像と歴史的意義を再検討してきた。その結果、彼が単なる「謙信の有能な秘書官」という評価に留まる人物ではないことが明らかになった。
山吉豊守は、蒲原郡に強固な在地基盤を持つ有力国人領主「山吉氏」の当主として、その豊かな経済力と軍事力を背景に、謙信政権の中枢で外交・内政・軍事にわたる広範な権限を行使した、**「在地領主出身の最高実務官僚」**と評価するのが最も的確であろう。
彼が担った家中最大の軍役は、決して謙信個人の寵愛や気まぐれによるものではなく、彼の政治的・経済的実力と、それを最大限に活用しようとした謙信の巧みな統治戦略の産物であった。豊守の存在は、上杉家臣団が、独立性の高い国人領主の連合体から、大名を中心とするより集権的な統治機構へと変質していく、戦国時代のダイナミズムそのものを体現している。
そして、彼の栄光に満ちた生涯と、その死によってもたらされた一族の運命の暗転は、戦国時代における権力が、個人の傑出した能力や主君との個人的な信頼関係といった、極めて属人的で脆弱な基盤の上に成り立っていたという事実を如実に示している。山吉豊守の栄光と悲劇を追うことは、上杉謙信という稀代の英雄の背後で、その政権を現実に支えた人々の実像に迫ることであり、ひいては戦国という時代の権力構造の深層を理解する上で、極めて重要な示唆を与えてくれるのである。