山名祐豊は但馬守護。生野銀山を掌握し経済力を強化、因幡を支配下に置く。しかし、有力国人の自立化や織田信長の侵攻により、有子山城が落城し、天正8年(1580年)に病死。名門山名宗家は事実上滅亡した。
室町時代、日本の六十六州のうち十一州の守護職を兼ね、「六分一殿」と称された名門、山名氏 1 。その栄華は、応仁の乱で西軍総大将を務めた山名宗全の時代に一つの頂点を迎えた 3 。しかし、その玄孫にあたる山名祐豊(やまな すけとよ)が歴史の表舞台に登場する戦国時代中期、かつての権勢は見る影もなく、但馬・因幡を中心とする一地方勢力へとその姿を変えていた 4 。
山名祐豊の生涯は、旧来の権威に依存する守護大名が、実力主義の戦国大名へと転化する過程で直面した苦悩と葛藤の縮図である。彼の治世は、但馬国内における有力国人衆の自立化という内部からの圧力と、西から毛利氏、東から織田氏という巨大勢力の伸長という外部からの脅威に絶えず晒され続けた。祐豊は、この二つの力の狭間で、一族の存亡をかけて外交、軍事、そして経済のあらゆる面で粘り強い戦いを繰り広げた 5 。
本報告書は、山名祐豊を単なる「羽柴秀吉に敗れた武将」として片付けるのではなく、彼の複雑な家督相続の経緯から、因幡・但馬二国の支配確立、生野銀山の経営、そして二度にわたる織田軍の侵攻と、それに伴う落城と再起の過程を詳細に追う。これにより、旧時代の秩序が崩壊し、新たな天下統一の奔流が地方を飲み込んでいく過渡期において、名門の最後の当主として最後まで家名の存続をかけて戦い抜いた一人の武将の実像を、多角的に解き明かすことを目的とする。
表1:山名祐豊 略年表
西暦 (和暦) |
出来事 |
1511年 (永正8年) |
生誕。父は山名致豊。 |
1512年 (永正9年) |
父・致豊が国人衆に離反され失脚。叔父・誠豊が但馬守護となる 7 。 |
1528年 (大永8年) |
叔父で養父の誠豊が死去。山名氏の家督を相続し、但馬守護となる 9 。 |
1541年 (天文10年) |
大坂石山本願寺と誼を通じるなど、外交活動を活発化させる 11 。 |
1542年 (天文11年) |
生野銀山に進出し、直轄支配下に置く。鉱山経営を本格化させる 12 。 |
1548年 (天文17年) |
「申の歳崩れ」。因幡守護・山名誠通を討ち、弟・豊定と共に因幡支配を確立 11 。 |
1560年 (永禄3年) |
因幡統治を担っていた弟・豊定が死去 9 。 |
1566年 (永禄9年) |
長男で後継者の棟豊が18歳で病死 11 。 |
1569年 (永禄12年) |
第一次但馬侵攻。羽柴秀吉に攻められ此隅山城が落城。堺へ敗走する 11 。 |
1569年 (永禄12年) |
豪商・今井宗久の仲介により織田信長と和睦。但馬出石郡への復帰を許される 15 。 |
1573年 (元亀4年) |
次男・義親が21歳で病死。この頃「韶煕」と改名したとされる 11 。 |
1574年 (天正2年) |
此隅山城に代わる新拠点として、有子山城を築城する 18 。 |
1580年 (天正8年) |
第二次但馬侵攻。羽柴秀長に攻められ有子山城が落城。三男・堯熙は因幡へ敗走 18 。 |
1580年 (天正8年) |
5月21日、有子山城内で病死。享年70 15 。 |
山名祐豊の生涯を理解する上で、彼が家督を継承した背景の異常性をまず指摘しなければならない。祐豊の実父である山名致豊は、祖父・政豊から正統に家督を継承した但馬守護であった 8 。しかし、彼の治世は安定しなかった。守護代の垣屋続成をはじめ、「山名四天王」と称される太田垣氏、八木氏、田公氏といった但馬の有力国人衆が、致豊の統治に対して次第に反発を強めていったのである 5 。
この対立は永正9年(1512年)に頂点に達する。垣屋氏ら国人衆はついに致豊に公然と離反し、彼の弟である誠豊を新たな守護として擁立した 7 。主君が家臣団の意向によって追放され、その弟が後継に据えられるという事態は、まさしく下剋上の兆候であった。これにより致豊は隠居を余儀なくされ、山名宗家の権威は大きく揺らぐことになる。祐豊が家督を継ぐ以前から、但馬山名氏は主君と家臣の関係が逆転しかねない、極めて不安定な権力基盤の上に成り立っていた。祐豊の生涯にわたる苦闘は、彼が相続した時点で既に構造的に崩壊しつつあった「守護領国制」というシステムそのものに起因していたと言える。この家督相続の経緯は、彼の治世全体の困難を象徴する序章であった。
国人衆に擁立される形で但馬守護となった叔父・山名誠豊であったが、彼には実子がいなかった 10 。誠豊は、大永2年(1522年)に播磨の浦上氏の内紛に乗じて領土拡大を図るも、翌年には敗退するという軍事的な失敗を経験する 10 。この後、誠豊は後継者として、追放した兄・致豊の子である甥の祐豊を養子として迎えるという決断を下した 10 。そして大永8年(1528年)、誠豊が30代半ばの若さで死去すると、祐豊は養子として山名氏宗家の家督と但馬守護職を継承したのである 9 。
この一連の流れは、単なる家督相続以上の複雑な政治的力学を内包している。国人衆に擁立された誠豊の立場は、傀儡に近いものであった可能性が高く、その後継者選定にも当然、国人衆の意向が強く働いたと推測される。失脚した致豊の嫡男である祐豊を後継者とすることは、旧致豊派の不満を和らげつつ、誠豊派の国人衆にとっても制御しやすい人物を選ぶという、一種の政治的妥協の産物であったと考えられる。祐豊は、正統な血筋(致豊の嫡男)と、現当主(誠豊)の養子という二重の正当性を得て家督を継いだ。しかし、その権力の源泉が自らの実力のみならず、有力家臣団とのパワーバランスの上に成り立つという事実は、彼の治世を通じて常に重い枷となった。この構造が、後の領国経営における彼の行動を大きく制約していくことになるのである。
表2:山名祐豊 関連略系図
Mermaidによる関係図
注:この系図は本報告書に関連する主要人物を抜粋して作成したものである。
但馬守護として家督を継いだ祐豊が最初に着手した大きな事業は、隣国・因幡への勢力拡大であった。彼は但馬一国の支配に留まらず、弟の山名豊定を因幡国に派遣し、但馬・因幡の両国を実効支配下に置くことを目指した 5 。豊定は永正9年(1512年)生まれで祐豊のすぐ下の弟であり、室町幕府の管領を務めた細川高国の娘を正室に迎えるなど、政治的にも高い地位にあった 9 。彼は兄・祐豊の命を受け、鳥取城や岩井城を拠点として東因幡の支配を着実に進めていった 9 。
この行動は、幕府から任命された守護職という名目上の権威に安住するのではなく、自らの武力と一族の結束によって領国を拡大しようとする、まさしく戦国大名的な思考の表れであった。祐豊は、不安定な但馬国内の権力基盤を補い、衰退した山名氏の権勢を再興するためには、因幡という新たな領国が不可欠であると考えていた。これは、旧時代の守護大名から新時代の戦国大名へと脱皮しようとする、祐豊の強い意志を示すものであった。
しかし、祐豊の因幡進出は平坦な道のりではなかった。当時の因幡には、祐豊ら但馬山名氏とは系統を異にする因幡守護・山名誠通(のぶみち)が存在しており、当然ながら祐豊の介入に激しく抵抗した 11 。誠通は独力で但馬山名氏に対抗するのは困難と考え、西の出雲国で急速に勢力を拡大していた尼子氏との連携を模索する。
この連携の証として、誠通は尼子氏の当主・尼子晴久から偏諱(名前の一字)を賜り、「久通(ひさみち)」と改名した 14 。これは、尼子氏への事実上の従属を意味するものであり、祐豊にとっては到底容認できるものではなかった。伯耆国に続いて因幡国まで尼子氏の影響下に置かれることは、但馬山名氏の存立そのものを脅かす事態であったからである。これに対し、祐豊は尼子氏と敵対関係にあった中国地方の雄・大内義隆と結ぶことで、尼子・誠通勢力を挟み撃ちにする外交戦略を展開した 14 。こうして、但馬・因幡の山名氏一族間の内紛は、中国地方の二大勢力である大内氏と尼子氏の代理戦争という、より大きなスケールの紛争へと発展していったのである。
両者の対立は、天文17年(1548年)に一つの転機を迎える。この年、祐豊は因幡への奇襲攻撃を敢行し、敵対していた山名誠通を討ち取ったと伝えられている。この事件は、後世の軍記物である『因幡民談記』において、干支にちなんで「申の歳崩れ」として記録されている 11 。
ただし、この「申の歳崩れ」の史実性、特に事件が天文17年に起こったとする説については、同時代の確実な史料による裏付けが乏しいことから、近年では疑問も呈されている。誠通の没落はこれより早い時期であり、弟の豊定はその後、空白地帯となった因幡に国主として穏便に入国したのではないか、という見方が有力になりつつある 9 。
事件の具体的な経緯については諸説あるものの、この時期を境に祐豊・豊定兄弟による因幡支配が確立したことは間違いない。弟・豊定が因幡の統治を担い、兄・祐豊が但馬からそれを後見するという体制が構築され、祐豊は名実ともにかつての山名氏の版図の一部を取り戻し、但馬・因幡二国の太守としての地位を確立したのである 5 。しかし、この成功は尼子氏、そしてその後に尼子氏を滅ぼす毛利氏という、より強大な勢力との直接対決を不可避なものとし、結果的に自らの首を絞めていく遠因ともなった。
祐豊の治世において、因幡経略と並ぶもう一つの重要な柱が、経済基盤の確立であった。天文11年(1542年)、彼は但馬国南部の朝来郡に位置する生野銀山に進出し、これを直轄領とした 12 。さらに、銀山の麓に生野城を築いて鉱山経営を主体とする政務を掌握し、西国の石見銀山から灰吹法と呼ばれる当時最新の銀精錬技術を導入して、本格的な採掘を開始した 12 。
この銀山経営は大きな成功を収め、その産銀量は莫大なものに達したと推測される 12 。戦国時代の合戦は、鉄砲の導入や兵員の増加に伴い、兵糧や武具の調達に膨大な資金を必要とした。生野銀山という巨大な財源は、祐豊にとって軍事力や外交力を維持・強化するための強力な経済的支柱となった。彼が但馬・因幡の支配を固め、周辺勢力からの圧力に長期間耐え抜くことができた背景には、この経済力があったことは間違いない。
しかし、この莫大な富は諸刃の剣でもあった。生野銀山の存在は、天下統一を目指す織田信長や豊臣秀吉といった中央の権力者たちにとって、極めて魅力的な戦略的資源と映った 25 。事実、永禄12年(1569年)に行われた羽柴秀吉による第一次但馬侵攻の際には、此隅山城と並んで生野銀山も主要な制圧目標とされている 11 。生野銀山は祐豊の権力を支える「光」であったと同時に、より強大な勢力を引き寄せる「影」でもあった。その高い経済的価値が、結果的に但馬国を天下統一の過程における係争地へと変貌させ、祐豊自身の命運を左右する決定的な要因となったのである。
祐豊が対外的に因幡を平定し、二国守護として勢威を示していたその裏で、彼の足元である但馬国内の支配体制は深刻な問題を抱えていた。但馬国では、古くから山名氏の支配を支えてきた垣屋氏、太田垣氏、八木氏、田結庄氏といった有力国人衆が「山名四天王」と称され、大きな影響力を持っていた 8 。
彼らは形式的には祐豊の家臣であったが、その実態は半ば独立した領主であり、それぞれの居城を拠点に独自の勢力を形成していた。そのため、祐豊の領国統制は但馬全域に十分に行き届いているとは言い難い状況にあった 5 。特に、祐豊が直轄化した生野銀山を巡っては、近隣の竹田城を本拠とする太田垣氏がその領有権を主張し、弘治2年(1556年)には一時的に祐豊を生野から追放して銀山を奪取するなど、主君と家臣の間で武力衝突さえ発生していた 13 。
これは、山名氏の権力構造が、惣領家を中心とした一族・被官の緩やかな連合体(同族連合体制)という、室町時代以来の古い形態から脱却しきれていなかったことを示している 29 。家臣を完全に服属させ、中央集権的な支配体制を確立した織田信長のような戦国大名とは対照的に、祐豊は常に内部からの離反や下剋上のリスクを抱えていた。後の秀吉侵攻の際、但馬の諸城が驚くほど短期間で次々と陥落した背景には 11 、織田軍の軍事力の強大さだけでなく、祐豊への忠誠心が希薄で、自らの領地の安堵を優先した国人衆が早々に降伏・離反したという内部要因があったことは想像に難くない。祐豊の支配は、外見上の成功とは裏腹に、内部構造の脆弱性という致命的な問題を内包しており、彼の敗北は外部からの攻撃のみならず、内部からの崩壊によってもたらされた側面が強い。
表3:山名四天王と主要城郭一覧
氏族名 |
当主名(戦国期) |
主要城郭 |
秀吉侵攻時の動向 |
垣屋氏 |
垣屋 豊続(とよつぐ) |
楽々前城(らくらがまえじょう) |
当初は毛利方として抵抗するが、降伏。秀吉からその能力を評価され、但馬国内の所領を安堵されるなど優遇された 30 。 |
太田垣氏 |
太田垣 輝延(てるのぶ) |
竹田城 |
秀吉の但馬侵攻により落城し、没落したとされる 16 。一族はその後、秀吉に仕えた 31 。 |
八木氏 |
八木 豊信(とよのぶ) |
八木城 |
秀吉に降伏し、その配下として因幡鳥取城攻めに従軍した 32 。その後、島津氏に仕えた記録も残る 34 。 |
田結庄氏 |
田結庄 是義(たいのしょう これよし) |
鶴城(田結庄城) |
秀吉に降伏し、本城の破却を免れたとされる 6 。一族は後に秀吉に仕えた 35 。 |
対外的、対内的な苦境に加え、祐豊は家庭内でも深刻な悲劇に見舞われる。将来の山名家を託すはずだった後継者たちが、相次いで若くしてこの世を去ったのである。
まず、因幡統治を担わせるべく派遣した祐豊の長子・棟豊が、永禄9年(1566年)5月にわずか18歳で病死してしまう 11 。棟豊の死後、代わって嫡子となった次男の氏煕(後の義親)にも期待がかけられたが、彼もまた元亀4年(1573年)正月に21歳という若さで病に倒れた 11 。
相次ぐ有為な後継者の死は、父である祐豊にとって計り知れない精神的打撃であったことは想像に難くない。それだけでなく、山名家の将来に暗い影を落とし、家臣団の動揺や結束力の低下を招いた可能性も否定できない。記録によれば、祐豊はこの次男の死を境に「韶煕(しょうき)」と改名したと伝えられている 11 。これは、相次ぐ不幸からの心機一転を図ったものか、あるいは仏道に深く帰依するようになったことの表れか、その真意は定かではないが、彼の晩年の苦悩を物語る出来事であった。
中国地方の勢力図は、天文24年(1555年)の厳島の戦いを境に大きく塗り替えられた。この戦いで大内義隆を討った毛利元就が急速に台頭し、ついには永禄9年(1566年)に月山富田城を攻略して、祐豊が長年敵対してきた尼子氏を滅亡させた。これにより、祐豊にとっての最大の脅威は、尼子氏から西に隣接する毛利氏へと移った 5 。
この新たな情勢に対し、祐豊は大胆な戦略転換を図る。かつての敵であった尼子氏の残党、すなわち山中幸盛(鹿之助)らが主家再興を掲げて結成した「尼子再興軍」を積極的に支援する道を選んだのである 5 。これは「敵の敵は味方」という冷徹な現実主義に基づく判断であり、毛利氏の背後を尼子再興軍に攪乱させることで、但馬国への直接的な圧力を軽減しようとする狙いがあった。この戦略は、因幡国内で毛利氏と結んで山名氏に対抗していた武田高信ら国人衆との対立をさらに激化させたが 5 、祐豊にとっては毛利という巨大勢力に対抗するための数少ない選択肢の一つであった。
祐豊が西方で毛利氏との角逐を繰り広げている間に、東方の畿内では歴史を揺るがす地殻変動が起きていた。永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たし、瞬く間に畿内を制圧したのである 11 。これにより、但馬国は西の毛利氏と東の織田氏という、二つの巨大勢力に直接挟まれる最前線の緩衝地帯と化した 4 。
この絶体絶命の状況下で、祐豊はどちらの勢力に与するか態度を明確にせず、両者の間を巧みに揺れ動くことで、かろうじて独立を保とうとする綱渡りの外交を展開した 4 。しかし、この曖昧な態度は、織田・毛利の双方から強い不信感を招く結果となった。地方レベルの勢力均衡が機能していた時代には有効であったかもしれないこの戦略も、天下統一という巨大な奔流の前では通用しなかった。日本の勢力図が「織田対反織田(毛利を含む)」という、より大きな構図に再編されていく中で、祐豊のような中小勢力が中立を保つ余地は急速に失われていったのである。
そして永禄12年(1569年)、事態は最悪の形で動く。祐豊の存在を障害と見なした毛利元就は、敵対する織田信長に使者を送り、但馬の制圧を要請するという驚くべき手を打った 11 。信長はこの要請を受け入れ、腹心の将である木下秀吉(後の羽柴秀吉)に但馬侵攻を命じた。祐豊の外交戦略は完全に破綻し、彼は東西両面から敵視されるという、最も避けるべき状況に追い込まれたのである。
永禄12年(1569年)8月、毛利氏からの要請と織田信長の命令に基づき、木下秀吉(羽柴秀吉)と坂井政尚が率いる二万の織田軍が但馬国へ侵攻を開始した 11 。織田軍の進撃は凄まじく、わずか13日間ほどの電撃的な作戦行動で、山名氏の本拠地であった此隅山城をはじめ、垣屋城など但馬国内の主要な18の城が次々と陥落した 11 。この驚異的な速さの背景には、織田軍が駆使した鉄砲隊の圧倒的な火力があったと推測されている 11 。
この壊滅的な敗北により、但馬における山名氏の支配体制は一挙に崩壊。『重編応仁記』には「山名故入道宗全ノ嫡流但馬ニ断絶ス」と記されるほど、深刻な打撃を受けた 11 。城を失った祐豊は、但馬からの脱出を余儀なくされ、和泉国堺へと敗走した 17 。
敗将として堺に逃れた祐豊であったが、彼の運命はまだ尽きていなかった。堺で商人・渡辺宗陽を頼った祐豊は、当時、織田信長と極めて緊密な関係にあり、絶大な影響力を持っていた茶人兼豪商の今井宗久との接触に成功する 15 。
宗久が祐豊の仲介に動いた背景には、彼が山名氏の領国、特に生野銀山や鉄の産地といった資源に対して強い経済的関心を抱いていたことがあったとされる 15 。宗久は信長への取次ぎを行い、この交渉は成功した。永禄12年(1569年)の冬には、信長から祐豊の但馬復帰が正式に許可され、出石郡に限られたものの、旧領の安堵が認められたのである 4 。一度は全てを失った祐豊にとって、これはまさに奇跡的な再起であった。
故郷・但馬への復帰を果たした祐豊は、再起をかけて新たな拠点作りを開始する。彼は、第一次侵攻で容易に陥落した此隅山城に代わる、より堅固な城の必要性を痛感していた。天正2年(1574年)頃、祐豊は此隅山城の北方にそびえる、より険峻な有子山(標高321メートル)の山頂に、新たな城の築城を開始した 18 。これが有子山城である。
この城の名には、「子を盗られた」とも読める此隅(このすみ)の名を嫌い、再起を願って「有子(ありこ)」と命名したという伝承が残っている 2 。相次いで息子たちを失った祐豊の悲痛な思いと、家名存続への執念が込められているようにも感じられる。
有子山城は、山頂に本丸を置き、そこから伸びる尾根筋に沿って曲輪を階段状に配置した、典型的な連郭式の山城であった 39 。この城の選定と構造は、平時の統治拠点としての性格が強かった此隅山城とは異なり、純粋な軍事的防御機能を最優先した、より戦国時代的な思想への転換を示している。しかし、現在見られる壮大な石垣については、祐豊の時代に築かれたものではなく、後の城主である羽柴秀長や前野長康の時代に、藤堂高虎らによって改修されたものとする説が有力である 19 。祐豊が築いた段階では、まだ土塁を中心とした土造りの城であった可能性が高い。彼は城の立地において新時代の戦争に適応しようとしたが、その築城技術においては、織田勢が誇る最新の技術には及ばなかった。この差もまた、彼の最終的な運命を左右した一因であったかもしれない。
但馬に復帰した祐豊は、毛利氏と結ぶことで織田方に対抗する姿勢を続けた。しかし、天正8年(1580年)、播磨の三木城を攻略して後顧の憂いを断った羽柴秀吉は、弟の秀長に大軍を授け、再び但馬へと侵攻させた 20 。
この第二次侵攻において、但馬国人衆の多くはもはや祐豊と運命を共にしようとはしなかった。八木豊信をはじめとする国人たちは、勝ち目のない戦いを避け、次々と秀吉軍に降伏していった 30 。完全に孤立した祐豊は、最後の希望である有子山城に籠城するが、衆寡敵せず、同年5月にはついに城は陥落した。
この時、祐豊は既に高齢で病の床に伏していたという。城主不在の中、三男の堯熙(氏政)が父を残して城を脱出し、因幡方面へ敗走した 18 。ここに、戦国大名としての但馬山名氏の歴史は、事実上の終焉を迎えたのである。
有子山城が落城した直後の天正8年(1580年)5月21日、山名祐豊は城内の一室で静かにその生涯を閉じた。享年70 4 。一部に自刃したとの説も伝わるが、高齢と心労による病死であったとする記録が有力である 15 。
彼の法名は「銀山寺殿鐡壁韶熈大居士(ぎんざんじでんてっぺきしょうきだいこじ)」と伝わる 15 。その生涯を通じて経営に心血を注いだ生野銀山を名に冠したこの法名は、彼の治世を象徴しているかのようである。遺体は、山名氏代々の菩提寺の一つであった出石の智明院に葬られた 15 。こうして、室町の名門の最後の当主は、その本拠地であった但馬の地で永遠の眠りについた。
父を残して有子山城を脱出した三男の堯熙(うじまさ、後のたかひろ)は、その後、父を滅ぼした羽柴秀吉に降伏し、その家臣となる道を選んだ 20 。これは、豊臣政権下で家名を保つための、最も現実的な選択であった。
堯熙は、秀吉が但馬に続いて行った因幡平定戦(鳥取城攻め)に従軍を命じられる。彼は旧山名家臣らと共に、鳥取城の支城であった私部城を攻略するなどの功績を立て、秀吉の信頼を得た 43 。その功により、当初は因幡、後に播磨国内に合わせて2,000石ほどの所領を与えられ、秀吉直属の親衛隊である馬廻衆、そして近習として仕えることになった 20 。
秀吉の死後、堯熙の子である堯政は豊臣秀頼に仕えた。しかし、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、堯政は豊臣方として大坂城内で戦死する 43 。これにより、山名祐豊の血を引く但馬山名氏の嫡流は、豊臣家の滅亡と共に歴史の表舞台から姿を消すこととなった。
一方で、祐豊の直系(嫡流)とは異なる道を歩み、山名氏の血脈を近世へと繋いだ人物がいた。祐豊の弟・豊定の次男であり、祐豊にとっては甥にあたる山名豊国である。
因幡鳥取城主であった豊国もまた、秀吉に降伏した一人であった 42 。しかし彼は、武将としてよりも和歌や茶道に通じた文化人としての素養を秀吉に評価され、御伽衆として仕えた 45 。豊国は、豊臣政権に身を置きながらも、巧みに次の天下人候補と目されていた徳川家康にも接近し、関係を構築していた 45 。
その先見性は、関ヶ原の戦いで結実する。慶長5年(1600年)、豊国は迷わず東軍に属して戦功を挙げた 46 。その結果、家康から但馬国七美郡に6,700石の所領を与えられ、大名に準じる格式を持つ旗本である「交代寄合」の地位を確立した 5 。江戸時代に入り、祐豊の嫡流が断絶したため、この豊国の家系が山名宗家を継承することとなり、以後、明治維新に至るまで徳川幕府に仕え続けたのである 1 。
この一族の処遇の差は、戦国末期から江戸初期にかけての名門武家に見られる、巧みな生き残り戦略の一例を示唆している。一族を複数の有力な勢力に分散して仕えさせることで、いずれかの勢力が勝利した際に家名が存続する可能性を高める、いわば「保険」のような戦略である。山名氏の場合、祐豊の「嫡流」は豊臣家と共に滅びたが、傍流であった豊国の活躍により「宗家」は存続した。これは、山名祐豊個人の敗北が、必ずしも山名一族全体の滅亡を意味しなかったことを示している。
山名祐豊の生涯は、室町時代以来の旧守護大名という権威が、実力主義が支配する戦国時代の新たな権力構造に適応しきれずに淘汰されていく、過渡期の悲劇を象徴している。但馬国内では家臣団の自立化に苦しみ、領国の外では織田・毛利という巨大勢力の奔流に飲み込まれた彼の姿は、敗れ去った地方領主の典型例として語られることが多い。
しかし、彼を単なる無為無策のまま滅びた領主と断じるのは早計であろう。その生涯を詳細に追うと、むしろ逆境の中で驚くべき粘り強さを見せた為政者の姿が浮かび上がってくる。因幡への積極的な進出による領国拡大、生野銀山の開発による経済基盤の確立、尼子再興軍の支援や豪商・今井宗久を介した外交交渉など、彼は最後まで領国の維持と家名の存続のために、あらゆる政治的・軍事的・経済的手段を講じて戦い続けた。
彼が築いた最後の拠点・有子山城は、最新の築城技術を持つ織田軍の前に陥落したが、その再起への執念は、後の山名一族の存続へと間接的に繋がったのかもしれない。祐豊自身の奮闘は、彼の代で実を結ぶことはなかった。しかし、彼が必死に守ろうとした山名氏という存在そのものは、甥の豊国によって形を変え、近世、そして現代へと引き継がれている。山名祐豊の生涯は、戦国という時代の非情な現実と、その中で最後まで抗い続けた人間の複雑な実像を、我々に力強く伝えているのである。
山名祐豊の生涯をたどる上で、彼が拠点とした城郭や信仰を寄せた寺社は、その歴史を今に伝える貴重な証人である。
これらの史跡を訪れることは、文献資料からだけでは得られない、祐豊が生きた時代の空気や、彼が守ろうとした土地の歴史を肌で感じるための貴重な機会となるだろう。