最終更新日 2025-08-01

山名致豊

山名致豊は、名門山名氏の当主ながら家臣に追われ失脚。守護大名体制崩壊と国人台頭の戦国転換期を象徴する悲運の人物。
「山名致豊」の画像

日本の戦国時代における山名致豊の生涯 ― 没落する名門、転換期の悲劇

序章:没落する名門の当主、山名致豊 ― 時代の転換点を生きた悲運の守護

戦国時代の幕開けは、旧来の権威が実力によって覆される「下剋上」の時代として知られる。その激動の渦中にあって、名門守護大名の没落を象徴する一人の武将がいた。その名は山名致豊(やまな むねとよ/おきとよ)。かつて「六分一殿」と称され、室町幕府の権勢を支えた山名宗家の当主でありながら、家臣団の離反によってその座を追われた悲運の人物である。彼の生涯は、単に一個人の挫折の物語にとどまらない。それは、守護大名という中世的な権力構造が崩壊し、国人衆が新たな支配者として台頭する時代の大きな転換点を映し出す、歴史の縮図そのものであった。

致豊の生涯を追う上で、まず直面するのはその生没年に関する情報の錯綜である。応仁2年(1468年)生まれとする説 1 と、文明10年(1478年)生まれとする説 2 が存在する。永正9年(1512年)に隠居した際の年齢が35歳であったという記録は後者の説を支持するが 3 、天文5年(1536年)に65歳で没したという記録とは計算が合わない 3 。この基礎的な情報の不確かさ自体が、応仁・文明の乱以降、山名氏の権威が低下し、その本国である但馬国が中央の歴史記述の主要な関心から外れていった「歴史の周縁化」を暗示している。致豊の物語は、まさにこの忘れ去られていく過程で起きた悲劇なのである。

本報告は、山名致豊の生涯を、単なる事実の羅列に終わらせることなく、彼が生きた時代の文脈の中に深く位置づけることを目的とする。第一章では、彼が背負った名門山名氏の栄光と衰退の歴史を概観する。第二章では、彼の運命を決定づけた父と兄の内訌に焦点を当てる。第三章では、致豊自身の短い治世と、彼を失脚させた国人衆のクーデターの実態を明らかにする。第四章では、隠居後の彼の動向と、彼の失脚が山名家の血統に与えた逆説的な影響を考察する。第五章では、中央政局の混乱や周辺勢力の台頭といった外部環境が、但馬国にいかなる影響を及ぼしたかを分析する。そして終章において、これら全ての要素を統合し、山名致豊という人物が戦国史に刻んだ真の意義を結論づける。

山名致豊 関連略年表

西暦(和暦)

致豊の動向・年齢

山名一族・但馬国の動向

中央(幕府・細川氏)の動向

周辺勢力(尼子氏など)の動向

1468年(応仁2年)

誕生(一説) 1

応仁の乱の最中。

応仁の乱、東西両軍が激突。

1473年(文明5年)

曽祖父・山名宗全、没 2

細川勝元、没。

1477年(文明9年)

父・政豊、但馬へ下国。応仁の乱終結 2

1478年(文明10年)

誕生(一説、次郎) 2

1479年(文明11年)

但馬・因幡・伯耆で内乱勃発(~15年間) 2

1488年(長享2年)

父・政豊、播磨より撤退。国人衆が兄・俊豊を擁立し、政豊と対立 2

1499年(明応8年)

兄・俊豊、没 4

1501年(文亀元年)

家督相続 2

父・政豊、没。

1504年(永正元年)

守護代・垣屋続成に居城・此隅山城を攻撃される 5

細川政元に対し、薬師寺元一らが反乱(淀城合戦) 7

1507年(永正4年)

細川政元、暗殺される(永正の錯乱) 8

1508年(永正5年)

上洛。将軍・足利義稙より御内書を賜う 2

足利義稙、将軍に復帰。

1511年(永正8年)

子・祐豊、誕生 2

船岡山の戦い。

1512年(永正9年)

35歳(または45歳)。 隠居 。弟・誠豊に家督を譲る 2

垣屋氏ら国人衆の離反により、致豊は失脚 1

尼子経久、伯耆へ侵攻(大永の五月崩れ) 9

1528年(大永8年)

弟・誠豊、没。致豊の子・祐豊が家督を相続 2

1536年(天文5年)

死去 (享年69または59) 1

第一章:名門・山名氏の栄光と応仁の乱後の翳り

山名致豊の悲劇を理解するためには、まず彼がその双肩に背負っていた「山名」という名の重みと、それが応仁の乱を経ていかに変質してしまったかを知る必要がある。彼の運命は、彼が生まれる以前からの大きな歴史的潮流によって、その方向性を定められていた。

1.1 「六分一殿」の威光

山名氏は清和源氏・新田氏の庶流に連なる名門であり、鎌倉時代から続く由緒ある武家であった 11 。室町時代に入り、足利尊氏に従った山名時氏の代にその勢力を飛躍的に拡大させ、南北朝期には山陰・山陽を中心に11ヶ国もの守護職を兼任するに至った 12 。これは当時の日本の全60余州の約6分の1にあたり、人々は畏敬の念を込めて山名氏を「六分一殿」と称した 11

その後、一時勢力を削がれるも、山名宗全(持豊)の代には再び9ヶ国から10ヶ国の守護を兼ねるまでに回復 12 。山名氏は、細川氏、斯波氏、畠山氏といった管領家と並び、幕府の軍事警察権を司る侍所頭人を世襲する「四職家」の一つとして、室町幕府の中枢で絶大な権力を振るった 11 。但馬国はその広大な分国の中心地であり、宗全は此隅山城や竹田城を拠点として、西国に睨みを利かせていた 14 。致豊が相続したのは、このような輝かしい栄光の記憶を持つ、日本有数の名門の家督であった。

1.2 応仁・文明の乱という分水嶺

しかし、その栄光は、山名宗全自身が引き起こした応仁・文明の乱(1467年~1477年)によって、決定的な翳りを見せることになる。宗全は西軍の総大将として管領・細川勝元率いる東軍と11年にも及ぶ泥沼の戦いを繰り広げたが、その渦中の文明5年(1473年)に陣没する 2 。乱の終結後、山名宗家の権力基盤は致命的な打撃を受けていた。

第一に、長期間にわたる戦乱は、山名氏の支配する各国の国力を著しく疲弊させた。第二に、守護大名が京都で戦に明け暮れる間、領国の実効支配は守護代や現地の有力国人衆の手に委ねられていた。彼らは乱を通じて在地での権力を確固たるものとし、もはや単なる守護の代理人ではない、自立した勢力へと成長していたのである 11 。これは山名氏に限らず全国的な傾向であり、守護大名体制の崩壊と戦国時代の到来を促す直接的な原因となった。

1.3 但馬における権力構造の変化

乱後、山名氏の支配国は、かつての広大さが嘘のように、但馬・因幡・備後などの数カ国にまで縮小した 1 。そして、その本国である但馬においてさえ、権力構造は激変していた。守護の権威が相対的に低下する一方で、守護代の垣屋氏や、「山名四天王」と称された太田垣氏、八木氏、田結庄氏といった被官・国人衆が、在地領主として急速に実力を蓄えていった 1

彼らの台頭を象徴するのが、守護権力の根幹である経済的権益の移譲である。本来、守護が独占していた段銭(軍事費などを目的とした臨時税)の徴収権が、垣屋氏や太田垣氏といった国人衆に与えられるようになっていた 5 。これは、守護が自らの力だけでは領国を統治できず、彼らの協力を得るために自らの権益を切り売りせざるを得なかったことを意味する。守護権力の空洞化は明らかであり、主君と家臣の力関係は逆転しつつあった。山名致豊が家督を継いだのは、まさにこのような、足元から崩れ始めた砂上の楼閣の上だったのである。

第二章:家督相続の嵐 ― 父・政豊と兄・俊豊の確執

山名致豊の生涯を決定づけたのは、彼自身の治世における失敗だけではない。彼が家督を継承するに至った経緯そのものが、すでに山名宗家の深刻な内紛と権威失墜を物語っていた。父・山名政豊と、本来の嫡男であった兄・俊豊との間の骨肉の争いは、致豊の未来に暗い影を落とす、避けられない負の遺産となった。

2.1 致豊の家督相続の前提

致豊は、山名政豊の三男(あるいは四男)とされ、当初は家督を継ぐ立場にはなかった 1 。山名宗家の後継者は、兄の俊豊であった 1 。しかし、この俊豊が父・政豊との対立の末に廃嫡されたことにより、致豊に家督相続の道が開かれたのである。したがって、致豊の家督は、安定した継承の結果ではなく、一族の内乱の末に転がり込んできた、極めて不安定なものであった。

2.2 内訌の構造

政豊と俊豊の対立は、長享2年(1488年)頃に顕在化する。政豊が播磨から撤退した際、但馬の国人衆が俊豊を擁立し、政豊と対立したことに端を発する 2 。この対立は、単なる父子の感情的なもつれではなく、但馬・備後といった分国の支配権や、台頭する国人衆との関係性をめぐる深刻な路線対立であったと考えられる 4

この内紛において、守護代の垣屋氏をはじめとする但馬の国人衆は、決して傍観者ではなかった。彼らは政豊方、俊豊方にそれぞれ与し、主家の内紛に積極的に介入することで、自らの政治的立場を強化し、勢力拡大を図ったのである 17 。特に、守護代の垣屋続成は、当初は俊豊を支持し、一時は俊豊を匿うなどしたが 6 、最終的には政豊と和解し、俊豊の追放に同意したとみられている。これは、守護代が主家の後継者問題に深く介入し、その帰趨を左右するほどの力を持っていたことを如実に示している。

2.3 内乱が残した負の遺産

十数年に及んだこの一族内の争いは、山名宗家の権威を地に堕とし、家臣団に決定的な意識変化をもたらした。それは、「主君は絶対的な存在ではなく、自らの利害に応じて選びうる、あるいは担ぎうる対象である」という認識である。国人衆は、主家の内紛という絶好の機会を利用して、守護権力に対する影響力を飛躍的に増大させた。彼らは、政豊と俊豊を天秤にかけ、より多くの権益を保障する主君を選択するという「成功体験」を積んだのである。

致豊が文亀元年(1501年)に相続した家督とは、このような無数の亀裂が入った、極めて脆弱な権力基盤の上にあった。彼が対峙しなければならなかったのは、もはや忠実な家臣ではなく、主家の内紛を勝ち抜き、自らの力を証明した、老獪な国人領主たちであった。この時点で、後の彼の失脚の種は、すでに蒔かれていたと言っても過言ではない。

但馬山名氏 略系図(政豊流)

Mermaidによる関係図

graph TD A[山名政豊] --> B(山名常豊 長男); A --> C(山名俊豊 次男・廃嫡); A --> D(山名致豊 三男?); A --> E(山名誠豊 四男?); D --> F(山名祐豊 子); E -.->|養子| F; subgraph "凡例" direction LR G(実線) -- 実子 --> H( ); I(破線) -- 養子 --> J( ); end style A fill:#e6e6fa,stroke:#333,stroke-width: 4.0px style D fill:#e6e6fa,stroke:#333,stroke-width: 4.0px style E fill:#e6e6fa,stroke:#333,stroke-width: 4.0px style F fill:#e6e6fa,stroke:#333,stroke-width: 4.0px

第三章:山名致豊の治世と挫折(文亀元年~永正九年)

父・政豊の死を受け、文亀元年(1501年)に山名宗家の家督を継承した致豊 2 。しかし、彼が手にしたのは、かつての「六分一殿」の威光とは似ても似つかぬ、形骸化した権力であった。彼の短い治世は、強大化する家臣団との絶え間ない権力闘争であり、その結末は、守護権力の完全な失墜という形で訪れる。

3.1 家督相続と形骸化した権力

致豊の治世は、当初から多難を極めた。家督相続からわずか3年後の永正元年(1504年)、守護代であるはずの垣屋続成が、あろうことか主君である致豊の居城・此隅山城(出石)を攻撃するという前代未聞の事件が発生する 5 。これは、但馬国における主従関係が完全に逆転し、守護の権威が名目上だけのものとなっていたことを示す象徴的な出来事であった。

この異常事態に対し、室町幕府が仲介に入り、翌永正2年(1505年)には将軍・足利義澄が両者に和解を勧告する 5 。これにより、一度は和議が成立したものの、それは致豊の権威が回復したことを意味しなかった。むしろ、主君と家臣の争いを幕府が仲裁しなければ収まらないという事実そのものが、山名宗家の弱体化を天下に晒す結果となった。永正5年(1508年)には、致豊は上洛して将軍・足利義稙に拝謁し、曽祖父・宗全の功績により子孫永代が准三位の待遇を受けるという御内書を賜っているが 2 、このような中央の権威にすがる行為も、失われた領国支配の実権を取り戻す助けにはならなかった。

3.2 永正九年(1512年)の政変 ― 家臣団の離反

そして永正9年(1512年)、致豊の運命を決定づける政変が起こる。守護代の垣屋氏を筆頭に、「山名四天王」と称される太田垣氏、八木氏、田結庄氏といった但馬の有力国人衆が、一斉に致豊に対して離反したのである 1

これは、もはや個別の不満に基づく散発的な反乱ではない。但馬の国政の主導権を、名ばかりの守護から完全に奪取することを目的とした、国人連合による組織的なクーデターであった。彼らは、父・政豊と兄・俊豊の内乱を通じて、主家の権力がいかに脆弱であるかを学び、主君を自らの手で選び、擁立できるという自信を深めていた。彼らにとって、意に沿わない致豊を排除し、より御しやすい人物を守護に据えることは、当然の政治的選択だったのである。この政変は、但馬国が事実上、守護の直接統治から、有力国人衆の合議による「国衆支配体制」へと移行したことを告げる画期的な事件であった。

3.3 家督譲位 ― 隠居への道

四方を敵に囲まれ、国人衆の蜂起を武力で鎮圧する力を完全に失っていた致豊に、選択の余地はなかった。彼は国人衆の要求を呑み、弟の誠豊に山名氏の家督を譲って隠居することを余儀なくされた 1

『但馬村岡山名家譜』には、致豊が家督を譲った理由を「老する故に」と記されている 3 。しかし、当時35歳(あるいは45歳)であった致豊の実年齢を考えれば、これが政治的敗北を糊塗するための表向きの口実に過ぎないことは明らかである。病弱であったという説もあるが 3 、いずれにせよ、彼の隠居が自発的なものではなく、国人衆によって強制された失脚であったことは疑いようがない。ここに、但馬守護・山名致豊の治世は、わずか11年で幕を閉じた。

第四章:隠居後の致豊と山名家の行方

永正9年(1512年)の政変により、歴史の表舞台から姿を消した山名致豊。しかし、彼の物語はここで終わりではない。隠居後の彼の存在と、彼が残した血統は、その後の山名家の運命に極めて重要かつ逆説的な影響を与え続けることになる。

4.1 約24年間の隠居生活

家督を弟・誠豊に譲った後、致豊は天文5年(1536年)に没するまで、約24年間の長い隠居生活を送った 1 。この間の彼の具体的な動向を伝える史料は極めて乏しい。これは、彼が但馬の政治に一切関与することなく、静かな余生を送っていたことを示唆している。かつての名門の当主としては、あまりにも寂しい晩年であった。

4.2 弟・誠豊の治世とその限界

一方、国人衆に擁立されて新たに但馬守護となった弟の誠豊は、失われた山名氏の権威を取り戻すべく、積極的な対外政策を試みた。大永2年(1522年)には、隣国・播磨の浦上氏の内紛に乗じて軍事侵攻を仕掛け、領土拡大を狙った 10 。しかし、この試みは翌年には敗北に終わり、但馬への撤兵を余儀なくされる 10 。結局、国人衆の力を背景とした彼の政権も、一度傾いた山名氏の勢いを再興するには至らなかった。彼の権力もまた、彼を擁立した国人衆の意向に制約される、不安定なものであり続けたのである。

4.3 祐豊の家督相続にみる血統の意義

大永8年(1528年)、誠豊は子がないまま死去する 2 。ここで、山名家の歴史において極めて重大な事実が明らかになる。誠豊は生前、兄・致豊の子である山名祐豊を自らの養子として迎えており、誠豊の死後、この祐豊が山名宗家の家督を相続したのである 10

この事実は、永正9年の政変の持つ複雑な性格を浮き彫りにする。もし、あのクーデターが山名宗家の正統な血統そのものを否定するものであったならば、追放された致豊の息子が後継者に選ばれるはずがない。つまり、国人衆にとって打倒すべき対象は、あくまで「山名致豊」という個人であり、山名宗家が持つ「正統な血統」そのものではなかった。むしろ、彼らが但馬国を支配する上での大義名分として、その「権威」は依然として必要不可欠だったのである。

このことから、永正9年の政変は、次のように解釈できる。国人衆は、自らの実権を確立するために、意に沿わない守護・致豊を排除した。しかし、その支配を正当化するための「権威の源泉」として、山名宗家の嫡流、すなわち政豊から致豊、そして祐豊へと続く血筋を必要とした。結果として、彼らは致豊を追放する一方で、その息子・祐豊を次期当主として迎え入れるという、一見矛盾した行動をとったのである。致豊の失脚は、彼個人の悲劇であると同時に、山名家という「家」そのものを存続させるための、苦渋に満ちた政治的取引であった可能性が高い。彼は自らが退くことで、実の息子に家督を継承させる道を、結果的に残したのである。

第五章:致豊を取り巻く外部環境の激動

山名致豊の挫折は、但馬国内の要因だけで引き起こされたわけではない。彼の治世は、中央政局の麻痺と、周辺地域の勢力図の激変という、二つの大きな外部からの圧力に晒されていた。この内外の危機が共鳴し合うことで、但馬国人衆の自立化は決定的に加速され、致豊の権力基盤は根底から覆されたのである。

5.1 中央政局の混乱 ―「永正の錯乱」の影響

致豊が家督を継承した文亀・永正年間は、中央の室町幕府がその権威を完全に失墜させた時期と重なる。特に、永正4年(1507年)に幕府管領・細川政元が養子や家臣によって暗殺された事件(永正の錯乱)は、中央政局を泥沼の内戦へと陥れた 8 。細川京兆家は分裂し、将軍・足利義稙と前将軍・義澄が並び立つ異常事態の中、畿内は十数年にわたる戦乱の舞台と化した 21

守護の権威の源泉は、あくまで幕府による任命である。その幕府と、幕政を主導する管領家が機能不全に陥ったことは、地方の守護の権威をも著しく低下させた。もはや中央からの後ろ盾は期待できず、領国の統治は守護自身の力に委ねられることになった。但馬の国人衆が、主君である致豊に対して公然と反旗を翻すことができた背景には、こうした中央の混乱という「追い風」が吹いていたことは間違いない。彼らは、たとえ主君を追放しても、幕府から咎められる心配はないと判断したのである。

5.2 西からの脅威 ― 尼子氏の台頭

時を同じくして、山名氏の西隣の出雲国では、守護代であった尼子経久が下剋上によって実権を掌握し、急速に勢力を拡大していた。経久は、伯耆、因幡、美作といった旧山名領へ次々と侵攻し、中国地方に覇を唱えようとしていた 9

この尼子氏の膨張は、但馬山名氏にとって深刻な軍事的脅威であった。尼子氏は、但馬山名氏やその配下の国人衆に対し、時には支援を申し出、時には圧力をかけることで、自らの勢力圏に引き込もうと画策した 25 。敗れた伯耆の国人が但馬の山名氏を頼って逃れてくるなど、国境地帯は常に緊張状態に置かれた 5 。致豊と彼を継いだ誠豊は、この西からの圧力への対応に忙殺されることになった。

5.3 但馬国人衆の合従連衡

中央の権威が失墜し、隣国から新たな実力者が登場するという状況下で、但馬の国人衆は、もはや山名氏のみを主君と仰ぐ旧来の枠組みから脱却し始める。彼らは、山名氏、尼子氏、さらにはその背後にいる大内氏といった外部勢力を天秤にかけ、自らの生き残りと勢力拡大のために、独自に外交関係を結ぶ「合従連衡」の道を歩み始めたのである。

特に、山名四天王の中でも有力であった垣屋氏と田結庄氏の対立は深刻であった 27 。両氏は但馬国内での覇権を争い、それぞれが外部勢力と結びつこうとした。後の時代には、田結庄是義が織田信長に通じ、垣屋光成が毛利氏と結ぶなど、但馬国は巨大勢力の代理戦争の舞台と化していく 29 。致豊の失脚は、国人衆が守護の統制を離れ、それぞれが独立した政治主体として行動し始める「外交の自由化」の始まりでもあった。致豊は、内部からの突き上げ、中央の権威失墜、そして外部からの軍事的圧力という三重の苦境の中で、なすすべもなくその座を追われたのである。

終章:山名致豊が歴史に刻んだもの

山名致豊の生涯は、一見すると、無力な当主が家臣に裏切られ、失脚したという単純な悲劇に映るかもしれない。しかし、その背景にある構造的な要因を深く掘り下げる時、彼の物語は戦国時代という時代の転換点を象徴する、より普遍的な意味を帯びてくる。

致豊の挫折は、彼個人の資質や能力の欠如だけに帰せられるべきではない。それは、応仁・文明の乱によって引き起こされた守護大名体制の構造的欠陥と、それに続く中央政局の麻痺、そして周辺勢力の実力主義的な台頭という、抗いがたい歴史の大きな奔流が生み出した必然的な帰結であった。彼が相続した時点で、山名宗家の権力はすでに空洞化し、但馬国における実権は国人衆の手に移りつつあった。彼の治世は、この不可逆的な権力移行のプロセスを、最終的に完了させる役割を担わされたに過ぎない。

山名致豊が歴史に刻んだ最も重要な意義は、彼の失脚と、その息子・祐豊の擁立という一連の出来事が、戦国時代初期における権力のあり方を明確に示している点にある。すなわち、幕府の任命に由来する旧来の「権威」と、在地での軍事力・経済力に根差す「実力」とが、完全に分離したのである。但馬の国人衆は、実力で致豊を追放しながらも、自らの支配を正当化するために、山名宗家の血統という権威を必要とした。致豊は、実権を奪われながらも、その血統の権威ゆえに、その家名だけは存続を許された「最後の守護大名」の一人であった。彼の存在は、古い権威が新しい実力者たちによって利用され、再編されていく過渡期の権力構造そのものを体現している。

致豊の息子・祐豊の代になると、但馬・因幡の再統一を果たすなど、山名氏は一時的に勢力を回復させる 17 。しかし、それはもはや国人衆との協調の上に成り立つ脆弱なものであり、時代の大きな流れに抗うことはできなかった。天正8年(1580年)、羽柴秀吉の但馬侵攻によって有子山城は落城し、守護大名としての但馬山名氏の支配は完全に終焉を迎える 31 。致豊の時代に始まった山名宗家の解体は、その子の代で完了したのである。

山名致豊。彼は、戦国乱世の主役として華々しく活躍したわけではない。しかし、彼の悲運の生涯は、一つの時代が終わり、新たな時代が始まるその瞬間の、権力の移行の複雑さと非情さを、誰よりも雄弁に物語っている。彼は、名門山名氏が戦国史の表舞台から静かに退場していく、その決定的な転換期に立ち会った人物として、歴史に記憶されるべきである。

引用文献

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  28. 但馬 鶴城 山名四天王のひとり田結庄氏の居城 - 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-574.html?sp
  29. 戦国の動乱と垣屋 https://lib.city.toyooka.lg.jp/kyoudo/komonjo/53796b17ef4f0fcb814fdfc50b27377b3d211cf1.pdf
  30. 武家家伝_田結庄氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/taisyo_k.html
  31. 山名氏城跡 | 但馬再発見 https://the-tajima.com/spot/29/