山崎定勝は豊臣秀吉に仕え一万石大名となるも、関ヶ原で西軍につき改易。大坂の陣で豊臣家に殉じた。最期は戦死説と病死説があり、幕府の公式記録は子の登用のため「病死」と修正された可能性が高い。
山崎定勝(やまざき さだかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて生きた武将である。豊臣秀吉の馬廻衆として仕え、伊勢国竹原に一万石の所領を与えられた大名として、その名を歴史に留める。関ヶ原の戦いでは西軍に属して戦い、敗戦によって改易。その後、豊臣秀頼に再び仕え、大坂の陣にその身を投じた。
この経歴は、豊臣秀吉によって取り立てられ、その恩顧に報いるために豊臣家に最後まで忠誠を尽くそうとした、いわゆる「豊臣恩顧の大名」の典型的な姿を映し出している。彼の生涯は、豊臣政権の興隆と、その滅亡の過程を色濃く反映したものであった。秀吉個人の信頼を背景に大名の地位まで上り詰めたものの、秀吉の死という政権の根幹を揺るがす事態に直面し、時代の大きなうねりの中に飲み込まれていった。
しかし、彼の生涯には不明瞭な点も少なくない。特に、関ヶ原での敗戦と改易から、いかにして十数年の雌伏の時を過ごし、大坂城に再び参じるに至ったのか。そして、その最期を巡っては、大坂夏の陣での「戦死」と、戦が始まる直前の「病死」という、相反する記録が残されている。この記録の錯綜は、歴史の敗者となった側の人物の末路が、勝者によっていかに記録され、あるいは改変されていくかという、歴史記述そのものの不確かさを象徴している。
本報告書は、山崎定勝という一人の武将の生涯を、その出自から豊臣政権下での活動、関ヶ原での動向、そして大坂の陣における最期と一族のその後まで、現存する史料を基に徹底的に追跡する。彼の人生の軌跡を丹念に辿ることを通じて、豊臣から徳川へと移行する激動の時代を生きた、一人の小大名の姿を浮き彫りにすることを目的とする。
和暦(西暦) |
日本の主要な出来事 |
山崎定勝および一族の動向 |
永禄10年 (1567) |
織田信長、稲葉山城を攻略(美濃平定) |
父・山崎片家が織田信長に仕える。 |
天正元年 (1573) |
室町幕府滅亡 |
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天正10年 (1582) |
本能寺の変、山崎の戦い |
父・片家が織田信雄に仕える。 |
天正13年 (1585) |
豊臣秀吉、関白に就任 |
父・片家が豊臣秀吉に仕える。定勝も秀吉の家臣となる。 |
天正15年 (1587) |
九州平定 |
定勝、九州平定に従軍する。 |
天正18年 (1590) |
小田原征伐、天下統一 |
定勝、小田原征伐に従軍する。伊勢国竹原に一万石を拝領。 |
文禄元年 (1592) |
文禄の役(朝鮮出兵) |
定勝、肥前名護屋城に在陣する。 |
慶長3年 (1598) |
豊臣秀吉、死去 |
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慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦い |
定勝、西軍に属し安濃津城を攻撃。敗戦により改易される。 |
慶長19年 (1614) |
大坂冬の陣 |
定勝、大坂城に入城する。『寛永諸家系図伝』によれば11月14日に病死。 |
慶長20年 (1615) |
大坂夏の陣、豊臣家滅亡 |
『大坂の陣覚書』などによれば、夏の陣で戦死したとされる。 |
寛永9年 (1632) |
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子・山崎氏家が徳川家光に赦免され、旗本となる。 |
山崎定勝の人物像を理解するためには、まず彼の出自と、その一族が戦国時代をいかに生き抜いてきたかを知る必要がある。山崎氏は、定勝の代に豊臣大名として歴史の表舞台に登場するが、その基盤は父・片家の代に築かれたものであった。
山崎善左衛門
┣━━━ 山崎片家(かたいえ)
┃ (斎藤氏→織田氏→織田信雄→豊臣氏)
┃
┣━━━ 山崎定勝(さだかつ)
┃ (豊臣氏家臣、伊勢竹原一万石)
┃
┗━━━ 山崎氏家(うじいえ)
(大坂城入城→赦免→徳川旗本)
定勝の父は、山崎片家(やまざき かたいえ)という武将である。片家は、当初、美濃国を支配していた斎藤道三・義龍親子に仕えていた。この事実は、山崎家が美濃国土着の武士であったことを示唆している。
しかし、永禄10年(1567年)、尾張から侵攻した織田信長によって斎藤氏の本拠地・稲葉山城が陥落し、斎藤龍興が追放されると、美濃の国衆の多くは新たな支配者である信長への臣従を余儀なくされた。山崎片家もこの時に信長に降伏し、その家臣団に組み込まれた。
信長配下としての片家は、各地の合戦に従軍し、武功を重ねた。元亀元年(1570年)の姉川の戦いや、天正2年(1574年)の長島一向一揆、天正3年(1575年)の越前一向一揆討伐など、信長の主要な軍事行動に参加した記録が残っている。これらの戦いを通じて、片家は織田家臣としての地位を固めていった。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が横死すると、織田家の家督を巡る後継者争いが勃発する。この混乱期において、片家は信長の次男・織田信雄に仕えた。これは、信長の正統な後継者と目された人物に属することで、家の安泰を図ろうとする自然な選択であった。しかし、小牧・長久手の戦いを経て、最終的に天下の覇権を握ったのは羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)であった。時流を読んだ片家は、主君である信雄が秀吉に屈服した後、自らも秀吉の家臣へと転じ、その家名を保った。
この山崎家の主君の変遷(斎藤氏 → 織田氏 → 織田信雄 → 豊臣氏)は、特定の主家への忠節やイデオロギーに殉じるのではなく、時々の実力者に仕えることで家そのものを存続させようとする、戦国時代における地方武士の極めて現実的かつ典型的な生存戦略の現れである。滅亡した主家と運命を共にするのではなく、新たな支配者の下で自らの価値を証明し、家を次代に繋ぐ。この現実主義的な家風は、息子の定勝にも受け継がれたと考えられる。定勝が豊臣家臣となったのは、父・片家が秀吉に仕えた流れの中でのことであり、彼は秀吉子飼いの譜代家臣ではなく、キャリアの途中で豊臣家臣団に組み込まれた、いわば「外様」に近い出自の武将であった。
父・片家と共に豊臣秀吉の家臣となった山崎定勝は、秀吉の側近としてそのキャリアを本格化させる。彼が任じられた「馬廻(うままわり)」という役職は、彼のその後の人生を決定づける重要なものであった。
定勝は、秀吉の直臣の中でも、主君の身辺を警護するエリート集団である馬廻衆の一員であった。史料によっては、その前段階である「小姓(こしょう)」を務めていたともされる。馬廻衆は、単に主君の馬の周りを固める護衛兵力であるだけではない。彼らは常に秀吉の側に控え、時には政務に関与し、あるいは主君の命令を各地の諸将に伝える伝令役も務めるなど、極めて重要な側近としての役割を担っていた。
物理的にも心理的にも秀吉に最も近いこの立場は、能力と忠誠心を示し、主君の個人的な信頼を得る絶好の機会であった。定勝のキャリアパスは、この近習としての奉公から始まり、やがて一万石の大名へと至る。これは、石田三成や加藤清正、福島正則といった他の多くの豊臣恩顧の大名が辿った道筋と同様であり、豊臣政権下における典型的な出世街道であった。彼の成功は、戦場での華々しい武功のみならず、秀吉個人の側近くに仕えることで得られた「個人的な信頼」に大きく依存していたことを示している。
馬廻衆の一員として、定勝は豊臣政権の根幹をなす主要な軍事作戦にことごとく参加している。これは、彼が秀吉の直属部隊の中核を担う、信頼された武将であったことの証左である。
これらの継続的かつ忠実な近侍としての奉公が評価され、定勝は次のステップである「大名」へと昇進する機会を得る。彼の出世は偶発的なものではなく、豊臣政権の人事システムにおける「近習奉公から知行拝領へ」という、論理的な帰結であったと言える。
天正18年(1590年)、天下統一事業の総仕上げである小田原征伐が終結すると、豊臣秀吉は大規模な論功行賞と全国的な領地の再編を行った。この時、長年にわたる側近としての奉公が認められ、山崎定勝はついに大名の仲間入りを果たす。
彼は、伊勢国飯高郡竹原(現在の三重県多気郡明和町から松阪市にかけての地域)において、一万石の知行を与えられた。これにより、定勝はそれまでの秀吉個人の直臣という立場から、自らの領地と家臣団を持つ領主へと、その地位を大きく向上させた。石高一万石以上が大名と見なされる当時において、彼はその末席に名を連ね、自らの居城として竹原城(あるいは竹原陣屋)を構えたとされる。
一万石という石高は、相応の軍役義務を伴う。平時においては領地の統治に専念するが、ひとたび主君から動員令が下れば、石高に応じて定められた数の兵士を率いて参陣する義務があった。定勝の領地経営の具体的な内容を示す史料は乏しいが、彼が後に動員した兵力から、この軍役を忠実に果たせるだけの統治体制を築いていたことが窺える。
しかし、この伊勢竹原という領地の配置は、単なる個人的な恩賞地という側面だけでは説明できない。そこには、秀吉の深慮遠謀とも言うべき、高度な戦略的意図が隠されていた可能性が高い。定勝が伊勢に封じられた天正18年(1590年)は、徳川家康がそれまでの東海地方の領地から、関東の旧北条領へと移封(国替え)させられた年と完全に一致する。
伊勢国は、豊臣政権の本拠地である畿内(大坂・京都)と、家康が新たに本拠とした関東を結ぶ、東海道のまさに中間に位置する交通と軍事の要衝である。秀吉は、潜在的な脅威である家康を牽制し、その動向を監視するため、東海道沿いの重要拠点に、自らが信頼する子飼いの武将を配置する政策を推し進めていた。堀尾吉晴(遠江浜松十二万石)、山内一豊(遠江掛川五万石)、田中吉政(三河岡崎十万石)といった面々がその代表例である。
秀吉の馬廻衆出身であり、忠誠心が高いと見なされていた定勝を、この伊勢国の要地に配置したことは、この対家康を念頭に置いた広域的な防衛・監視網の一部を形成する意図があったと推測できる。定勝の伊勢拝領は、彼個人のキャリアにおける栄達であると同時に、豊臣政権の国家的な安全保障戦略の一翼を担う、重い意味を持つものであった。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去すると、彼が築き上げた政権の均衡は急速に崩れ始める。徳川家康が台頭し、それに反発する石田三成らとの対立が先鋭化。そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この国家的な動乱において、山崎定勝は迷うことなく西軍に加担した。
定勝が西軍に与した最大の理由は、豊臣家、とりわけ秀吉個人に対する「恩顧(恩義)」に尽きる。彼のキャリアは、一介の武将の子から秀吉の側近に取り立てられ、ついには一万石の大名にまで引き上げられた、まさに秀吉によって築かれたものであった。秀吉亡き後、その遺児である豊臣秀頼を守り、豊臣家の天下を維持しようとする三成らの西軍に加わることは、彼にとって武士としての筋目を通す、当然の選択であった。地理的には家康の勢力圏に近い伊勢に領地を持ちながらも、彼は自らの立身の源泉となった主家への忠義を貫いたのである。
同年8月、定勝は毛利秀元を総大将、鍋島勝茂らを主将とする西軍の伊勢方面攻略軍に所属し、伊勢路の制圧作戦に参加した。彼らの当面の目標は、東軍に与した富田信高(五万石)が守る安濃津城(現在の三重県津市)の攻略であった。
安濃津城は伊勢湾に面した堅城であり、ここを落とさなければ西軍は伊勢を完全に平定できず、東海道を西上してくるであろう家康の本隊を側面から脅かすこともできない。定勝は、長束正家や九鬼守隆といった他の西軍諸将と共に城を包囲。この時、彼が率いた兵力は「三百余」であったと記録されている。当時、一万石の大名に課せられる軍役は、おおよそ250人から350人程度が標準であった。定勝が動員した兵力は、彼の石高に完全に相応するものであり、彼が自らの軍役義務を忠実に果たしたことを示している。
攻城戦は熾烈を極めた。富田信高と援軍の分部光嘉は寡兵ながらも奮戦し、西軍に多大な損害を与えた。しかし、兵力で圧倒的に優る西軍の猛攻の前に城は持ちこたえられず、最終的に開城勧告を受け入れて降伏した。定勝もまた、この安濃津城攻めの一翼を担い、勝利に貢献した。
しかし、彼の奮戦も空しく、戦全体の趨勢は、彼のような小大名が関与できない場所で決してしまう。安濃津城が開城した直後、9月15日に行われた関ヶ原での本戦において、西軍はわずか一日で壊滅的な敗北を喫した。この報が伊勢の西軍部隊に届くと、彼らは戦意を喪失し、各々の領国へと敗走していった。定勝もまた、戦線を離脱し、逃亡を余儀なくされた。
戦後、勝利者となった徳川家康によって戦後処理が行われ、西軍に与した大名は厳しく断罪された。山崎定勝も例外ではなく、その所領一万石は没収(改易)された。彼の忠義は、結果として全てを失うという悲劇的な結末を迎えたのである。この一連の出来事は、自らの運命を自らで決めることができない、中小規模の武将が持つ構造的な限界と悲哀を象徴している。彼個人の忠誠心や武勇がいかに高くとも、天下の趨勢を決する巨大な権力闘争の渦の中では、あまりにも無力であった。
関ヶ原の戦いで西軍に与した結果、山崎定勝は伊勢竹原一万石の領地を没収され、大名の地位から一転、全てを失った浪人(牢人)となった。ここから大坂の陣が勃発する慶長19年(1614年)までの約14年間は、彼の人生における「空白期間」であり、その動向を直接的に示す史料は極めて乏しい。
改易後、定勝がどこでどのように潜伏生活を送っていたかは定かではない。しかし、いくつかの可能性が考えられる。一つは、旧領である伊勢や、一族の出身地である美濃の縁者を頼った可能性である。また、関ヶ原で同じく西軍に属しながらも、所領を安堵されたり減封で済んだりした旧知の大名、例えば島津氏や毛利氏といった西国の大名にかくまわれていた可能性も否定できない。いずれにせよ、彼は徳川の世において「罪人」の身であり、息を潜めて再起の機会を待つ、苦難の日々を送っていたと想像される。
雌伏の時は、慶長19年(1614年)に終わりを告げる。この年、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家の関係は決定的に決裂し、大坂城は徳川との決戦を覚悟して、全国の浪人たちをかき集め始めた。
この豊臣家の呼びかけに応じ、山崎定勝もまた大坂城に入城した。彼は、関ヶ原で西軍に与して改易された「豊臣恩顧」の旧大名であり、豊臣方にとっては、その大義名分を象徴する重要な人物の一人であった。
彼が大坂城に入った動機は、複雑であっただろう。浪人生活の経済的な困窮から脱却したいという現実的な理由もあったかもしれない。しかし、それ以上に大きかったのは、自らのキャリアを築き、大名にまでしてくれた豊臣家への「最後の奉公」であり、武士としてのアイデンティティを再確認する行為であったと考えられる。関ヶ原の敗北で一度は失われた「豊臣家臣・山崎定勝」という自己を、滅亡を目前にした主家にもう一度捧げることで、その生涯を完結させようとしたのである。勝ち目の薄い戦いに身を投じることは、合理的な損得勘定を超えた、彼の武士としての美学や意地の発露であった。関ヶ原で果たせなかった忠義を、今度こそ最後まで貫き通す。その決意が、彼を再び戦場へと向かわせたのであった。
大坂城に入った山崎定勝の最期については、驚くべきことに、複数の異なる記録が存在する。これは、歴史の敗者側の人物の末路が、後世、特に勝者である徳川幕府の公式な歴史編纂の中で、いかに扱われたかを示す興味深い事例である。
定勝の死に関しては、主に二つの説が対立している。
この二つの説は、彼の死の時期と状況について全く異なる内容を伝えている。軍記物語が伝える「戦死」は、物語としての英雄性を高めるための脚色である可能性も否定できない。一方で、幕府の公式記録である『寛永諸家系図伝』が記す「病死」には、極めて重要な政治的意図が隠されている可能性が指摘できる。
この謎を解く鍵は、定勝の子・山崎氏家(うじいえ)のその後にある。氏家は父・定勝と共に大坂城に入城したが、慶長20年(1615年)の落城後、徳川方に捕らえられた。父・定勝は関ヶ原と大坂の陣で二度にわたり徳川に敵対した「反逆者」であり、その子である氏家も本来であれば死罪となってもおかしくない立場であった。
しかし、氏家は死を免れ、後に赦免される。そして寛永9年(1632年)、三代将軍・徳川家光に拝謁し、幕府の直参である旗本として召し抱えられるという、異例の処遇を受けたのである。
この氏家の登用を正当化するために、父・定勝の経歴を「修正」する必要があったのではないか。もし、父・定勝が「大坂夏の陣で徳川軍と戦って死んだ」となれば、その息子を徳川将軍家の直臣として召し抱えることは、幕府の権威に関わる問題となりかねない。しかし、父が「戦闘が始まる直前に病で死んだ」のであれば、彼は直接徳川に弓を引いたわけではない、という解釈が可能になる。これにより、氏家の罪は「反逆者の父に付き従っただけ」と相対的に軽減され、赦免と登用の道が開けやすくなる。
したがって、『寛永諸家系図伝』の「病死」という記述は、歴史の事実をありのままに記録したというよりは、 山崎氏家を旗本として登用するという政治的決定を事後的に正当化するため、過去の事実を幕府にとって都合の良い形に「修正」または「選択」した結果 であると強く推論できる。これは、勝者(徳川幕府)によって歴史がいかに編纂され、敗者の記憶が都合よく改変されていくかを示す、生々しい一例と言えるだろう。
山崎定勝の生涯を俯瞰するとき、我々は豊臣政権の栄光と没落、そして時代の転換期を生きた一人の武将の姿を鮮明に見ることができる。
彼の人生は、豊臣秀吉個人の恩顧によって立身し、秀吉の死と共にその運命が暗転し、最後は豊臣家と運命を共にしようとした(あるいは、その直前に没した)、典型的な「豊臣大名」の縮図であった。秀吉の側近として忠実に仕えることで一万石の大名へと駆け上がった前半生は、豊臣政権下における立身出世の王道であった。しかし、その成功は秀吉という絶対的な庇護者の存在に大きく依存しており、彼の死後は、自らの意思だけでは抗うことのできない巨大な政治的潮流に翻弄されることとなる。
山崎定勝という物語の価値は、その成功譚にあるのではない。むしろ、関ヶ原での敗北、その後の雌伏、そして最期を巡る記録の不確かさにこそ、彼の歴史的存在の重要性がある。特に、幕府の公式記録が彼の死の状況を「戦死」から「病死」へと書き換えた可能性は、歴史記述そのものが持つ政治性を我々に教えてくれる。歴史とは、単なる過去の事実の集積ではなく、時の権力者の意図によって選択され、解釈され、時には創造されるものであることを、彼の事例は雄弁に物語っている。
最終的に、彼の家名は子・氏家が徳川旗本として取り立てられることで存続した。これは、豊臣家への忠義を貫こうとした父の生涯とは対照的に、新たな時代を生き抜くための子の現実的な処世術、そして敵方の将の子であっても有能であれば登用するという、徳川幕府の現実主義的な人材登用策が複雑に絡み合った結果であった。
山崎定勝は、歴史の主役となることはなかった。しかし、彼の人生の軌跡は、豊臣から徳川へと移行する時代のダイナミズムと、その中で生きる人々の忠義、葛藤、そして生存への渇望を映し出す、貴重な鏡なのである。