最終更新日 2025-07-22

山川晴重

山川晴重は下総の独立領主で、親上杉・反北条を貫き、反北条連合の中核として活躍。豊臣政権に臣従するも27歳で早世。子の代で独立領主の歴史を終え、越前松平家の重臣となった。

戦国期下総の領主・山川晴重の生涯と時代

【表1】山川晴重 関連年表

年代(西暦)

山川晴重・山川氏の動向

結城氏(宗家)の動向

関東主要勢力(北条氏・上杉氏)の動向

永禄2年(1559)

結城政勝が死去し、小山高朝の子・晴朝が家督を継承。当初は北条氏に従属する 1

永禄3年(1560)

佐竹氏らに攻められるも籠城し、和議を結ぶ 1

長尾景虎(上杉謙信)が関東に出兵。北条氏康の小田原城を包囲する 2

永禄9年(1566)

山川氏重の子として誕生 3 。山川氏は上杉謙信に従い、北条氏と対立していた 3

結城晴朝、上杉謙信が関東管領に就任すると反北条に転じる 1

上杉・北条両氏が関東の覇権を巡り、各地で激しい攻防を繰り広げる 2

天正4年(1576)

兄・小山秀綱が北条氏に降伏し、北条氏の圧力が強まる。宇都宮広綱の子・朝勝を養子に迎える 1

天正5年(1577)

北条氏の侵攻に対し、宗家・結城氏や佐竹氏らと連合してこれを撃退する 3

北条氏の侵攻を受け、佐竹氏・宇都宮氏・那須氏らと連合して対抗。明確に反北条路線を敷く 1

北条氏政が、反北条に転じた結城氏を攻撃する 3

天正18年(1590)

豊臣秀吉の小田原征伐に参陣。所領を安堵される 3

小田原征伐に参陣し、所領安堵。徳川家康の次男・秀康を養嗣子に迎える 1

豊臣秀吉に小田原城を包囲され、北条氏政・氏直父子は降伏。後北条氏が滅亡する 5

天正18年(1590)11月

葛西大崎一揆鎮圧のため、結城秀康に従い陸奥へ出陣する 3

天正20年(1593)

死去。享年27 3 。家督は子の朝貞が継ぐ。

慶長5年(1600)

子・朝貞、主君・結城秀康に従い関ヶ原の戦いに関連する軍事行動に参加。

結城秀康、関ヶ原の戦功により、越前67万石へ加増転封が決定する 3

慶長6年(1601)

子・朝貞、秀康に従い越前へ移封。独立領主としての山川氏の歴史が終わる 3

結城秀康、越前北ノ庄城に入城する。

慶長15年(1610)

子・山川朝貞(讃岐守)、越前松平家において1万7000石を知行し、重臣に列せられていることが確認される 9

序章:乱世に咲いた智勇の将、山川晴重

日本の戦国時代、その最終盤に関東の地を駆け抜けた一人の武将がいた。その名を山川晴重(やまかわ はるしげ、1566-1593)という 3 。彼の生きた時代は、長きにわたる戦乱が終わりを告げ、天下統一という巨大な奔流が列島を飲み込んでいく激動の過渡期であった。相模の後北条氏が関東に築き上げた百年王国が落日の時を迎え、その覇権が豊臣秀吉、そして徳川家康へと移り変わる歴史の転換点において、晴重は下総国の一領主として、自らの一族と所領の存続を賭けて智勇を尽くした。

山川晴重の生涯を追うことは、単に一個人の伝記をなぞる作業に留まらない。それは、大国の狭間に置かれた地方の国人領主が、いかにして複雑な政治情勢を読み解き、独自の判断で行動し、そして新たな時代秩序の中に自らの立ち位置を確保しようと試みたかの貴重な実例(ケーススタディ)である。特に、彼が属した山川氏は、宗家である名門・結城氏に対し、単なる「家臣」ではなく「同盟者に近い」と評されるほどの特異な立場にあった 4 。この歴史的に形成された一族の自立性が、晴重の政治的・軍事的行動を理解する上で不可欠な鍵となる。

本報告書は、山川晴重という一人の武将の生涯を丹念に追うことを通じて、戦国時代末期の関東地方における勢力争いの実像、地方領主の生存戦略、そして近世へと向かう時代の大きなうねりを、詳細かつ多角的に解明することを目的とする。

第一部:山川氏の出自と勢力基盤 ― 自立的「同盟者」の実像

山川晴重の行動原理を理解するためには、まず彼が率いた山川一族の歴史的背景と、その特異な政治的地位を把握する必要がある。山川氏は、単なる結城氏の家臣ではなく、高い自立性を有する「同盟者」として、戦国期の関東に確固たる足跡を刻んでいた。

結城氏庶流としての黎明

山川氏の祖は、鎌倉幕府の有力御家人であった結城朝光(ゆうき ともみつ)の四男・山川重光(やまかわ しげみつ)に遡る 4 。結城氏は藤原秀郷の流れを汲む名門・小山氏の一族であり、朝光が源頼朝から下総国結城郡を与えられたことに始まる 10 。その庶流である山川氏は、結城一門の中でも由緒正しい家柄として、下総国結城郡南部、当時は山川荘(やまかわのしょう)と呼ばれた地域を本領とした 8

彼らの本拠地は、山川沼と呼ばれる広大な低湿地帯を天然の要害とした山川綾戸城(やまかわあやとじょう)であった 8 。この城は、晴重の父とされる山川氏重によって築かれたと伝わり、結城郡から猿島郡一帯に勢力を及ぼすための戦略的拠点として機能した 8 。沼沢地に守られた堅固な城は、山川氏の軍事的な独立性を象徴するものであった。

宗家との力関係 ― 「結城四天王」の筆頭

山川氏は、水谷(みずのや)氏や多賀谷(たがや)氏らと共に、宗家である結城氏を支える「結城四天王」の筆頭に数えられることもあった 14 。しかし、その関係性は単純な主従関係ではなかった。彼らは「家臣というよりは目下の同盟者というべき存在」であり、独自の家臣団を抱え、自領内の知行安堵権を掌握するなど、極めて高い自立性を保持していたのである 11

この特異な関係性は、戦国時代に入り、古河公方を巡る内紛などで宗家の結城氏が弱体化した際に、より顕著となった。他の庶家と同様に、山川氏もこの機に独自性を強め、独立領主としての性格を色濃くしていく 3 。一方で、彼らは単に自家の利益のみを追求したわけではない。宗家である結城氏や、同族の小山氏に後継者が不在となった際には、一族から養子を送り込むなど、結城一門全体の維持と発展に重鎮として貢献する役割も担っていた 4 。十五世紀末には、山川景貞が弟を小山氏に送り込んでその影響下に置き、結城氏の家督継承にも強く介入するなど、一門の中で絶大な影響力を行使した時期もあった 10

この歴史的背景こそが、後の山川晴重の行動を読み解く上で決定的に重要となる。山川氏は、結城氏の傘下にありながらも、自家の存亡に関わる外交・軍事の判断を独自に下すことが可能な政治主体であった。彼らの行動は、宗家への「忠誠」や「反逆」といった二元論的な枠組みでは捉えきれない。それは、自家の存続と繁栄を第一義とする、独立した戦国領主としての合理的な選択の行使に他ならなかった。晴重が、宗主・結城晴朝とは異なる外交路線を歩むことができたのは、まさにこの一族が長年にわたって築き上げてきた「自立性」という歴史的資産があったからなのである。

第二部:晴重の登場と関東の動乱 ― 上杉・北条の狭間で

山川晴重が歴史の表舞台に登場する永禄年間後期から天正年間にかけて、関東地方は越後の「軍神」上杉謙信と、相模の「獅子」北条氏康・氏政父子が繰り広げる覇権争いの渦中にあった。この二大勢力の角逐は、関東の国人領主たちに過酷な選択を迫り、晴重もまた、その渦中で自家の舵取りを担うこととなる。

誕生と家督継承の時代背景

山川晴重は、永禄9年(1566年)、山川氏重の子として生を受けた 3 。彼が物心つく頃の関東は、まさに戦火の絶えない時代であった。上杉謙信は関東管領の権威を掲げて幾度となく越山し、北条氏の勢力拡大を阻もうと試みていた 17 。下野の唐沢山城を巡る佐野氏と上杉氏の攻防 2 や、下総の関宿城を巡る簗田(やなだ)氏と北条氏の死闘 18 など、国境地帯の城は常に両陣営の草刈り場となり、領主たちは帰属と離反を繰り返すことを余儀なくされていた。晴重が率いることになる山川氏の所領も、まさにこの北条・上杉両勢力が激突する最前線に位置していた。

結城晴朝との関係と外交路線の相違

晴重と宗家の当主・結城晴朝との関係は、密接でありながら複雑なものであった。一説によれば、晴重の父・氏重の姉妹が晴朝の正室であったとされ、晴重自身も晴朝から「晴」の一字を偏諱として与えられている 3 。これは、両家が緊密な姻戚関係にあり、晴重が次代を担う結城一門の若きホープとして期待されていたことを示唆している。

しかし、この血縁の近さとは裏腹に、両家の外交路線は明確な対立軸を描いていた。結城晴朝は、家督継承当初、伯父・政勝の路線を引き継ぎ、古河公方・足利義氏を介して後北条氏に従属していた 1 。一方で、分家である山川氏は、一貫して上杉謙信に与し、北条氏と直接対峙する道を選んでいたのである 3 。この一見矛盾した状況は、第一部で述べた山川氏の「同盟者」としての高い独立性がもたらした必然的な帰結であった。彼らは宗家の外交方針に盲従するのではなく、自領が置かれた地政学的な状況と、独自の政治的判断に基づき、北条氏という巨大勢力に対抗するために、遠方の上杉氏と結ぶという生存戦略を選択したのである。

上杉謙信との連携と戦略的重要性

山川氏が上杉方にとって、いかに重要な存在であったかは、現存する古文書が雄弁に物語っている。山川家に伝来した文書群の中には、上杉謙信自らが山川氏に宛てた書状が遺されている 21 。その書状の中で謙信は、甲斐の武田信玄の牽制によってすぐには援軍に駆けつけられない苦しい内情を吐露しつつも、「決してそちらを見捨てたわけではない。しばらくの間、何とか持ちこたえてほしい」という趣旨の、切実なメッセージを送っている 21

この書状は、単なる儀礼的な外交文書ではない。それは、謙信の関東経営戦略における山川氏の死活的な重要性を浮き彫りにする一級史料である。越後から遠く離れた関東で軍事行動を展開する謙信にとって、敵地である北関東の南端、すなわち北条領の喉元に味方の拠点を確保することは、戦略上の絶対条件であった。山川氏の所領は、まさにその「南の前線拠点」としての役割を担っていた。彼らが上杉方として奮闘し、北条氏の圧力を引きつけてくれることが、謙信の作戦行動の自由度を担保し、関東における勢力均衡を維持するための生命線となっていたのである。謙信の書状に込められた言葉の重みは、山川氏が謙信の壮大な戦略構想の中で、代替不可能な駒として認識されていたことを示している。晴重は、このような一族の戦略的価値を、幼い頃から肌で感じながら成長したに違いない。

第三部:反北条連合の中核として ― 天正五年の攻防

天正年間に入ると、関東の政治情勢は新たな局面を迎える。上杉謙信の威光に陰りが見え始め、北条氏の圧力が北関東へ直接的に及ぶようになると、これまで個別に抵抗してきた国人衆は、生き残りをかけて新たな連携を模索し始める。この動きの中で、山川氏は長年の反北条の姿勢を武器に、歴史的な連合軍形成の中核を担うことになった。

北条氏の侵攻と結城氏の路線転換

天正4年(1576年)、結城晴朝にとって衝撃的な事件が起こる。彼の実兄であり、下野の名門・小山氏の当主であった小山秀綱が、北条氏照の軍門に降ったのである 1 。これにより、結城領は西から北条方の勢力に直接晒されることとなり、軍事的脅威は一気に増大した。この危機的状況に直面した晴朝は、大きな政治的決断を下す。これまで維持してきた北条氏との協調路線を完全に放棄し、明確な反北条へと舵を切ったのである 1

その具体的な行動として、晴朝はまず、嗣子がいなかった自らの後継者として、下野の雄・宇都宮広綱の次男である朝勝を養子に迎えた 1 。さらに、常陸の佐竹義重との同盟関係を強化するため、自身の妹を佐竹氏傘下の江戸重通に嫁がせるなど、婚姻政策を駆使して反北条の包囲網を形成しようと試みた 1 。この結城氏の劇的な路線転換は、北条氏にとって看過できるものではなかった。天正5年(1577年)、当主・北条氏政は、結城・山川領に対して大軍を差し向けた。これは、北関東に生まれつつあった反北条連合の芽を、本格的に機能する前に叩き潰すことを目的とした、大規模な懲罰的軍事行動であった 3

連合軍の結成と北条軍の撃退

北条氏の大軍が結城領に迫る中、歴史的な瞬間が訪れる。これまで外交路線を異にしてきた宗家の結城氏と、分家の山川氏が、ついに共通の敵を前にして固く手を取り合い、共同で防衛にあたったのである 3 。当時まだ11歳の少年であった晴重も、山川家の当主として、この存亡を賭けた戦いに臨んだ。

この戦いは、単に結城一族の防衛戦に留まらなかった。結城氏の救援要請に応じ、常陸からは「鬼義重」の異名をとる佐竹義重が、下野からは宇都宮国綱や那須資胤といった有力大名たちが続々と参陣した 3 。これにより、下総・常陸・下野にまたがる広範な反北条連合軍が形成された。これは、これまで上杉謙信という外部の権威に依存することが多かった関東の反北条勢力が、自らの意志と利害に基づき、国境を越えて軍事的に結集した画期的な出来事であった。

この連合形成において、長年にわたり反北条の旗幟を鮮明にし、上杉氏や佐竹氏とのパイプを維持してきた山川氏の存在が、重要な結節点として機能したことは想像に難くない。晴重の父・氏重や一族の長老たちが築いてきた外交的資産が、この土壇場で大きな力を発揮したのである。

連合軍は、数に勝る北条軍の猛攻を巧みな連携で見事に撃退し、勝利を収めた。この天正5年の戦いは、単なる一合戦の勝利以上の意味を持っていた。それは、北関東の諸大名が、上杉氏の直接的な介入がなくとも、自らの力で団結すれば強大な北条氏に対抗しうることを証明した、彼らの政治的・軍事的自立の宣言であった。この輝かしい勝利の記憶は、若き晴重の心に、自らが率いる山川氏の誇りと、同盟の重要性を深く刻み込んだに違いない。

第四部:天下統一の奔流と山川晴重の選択

天正5年(1577年)の勝利で反北条連合の意気を示した関東の諸将であったが、時代の趨勢は彼らの思惑を遥かに超える速度で進んでいた。織田信長、そして豊臣秀吉による天下統一事業の巨大な波は、関東の旧来の秩序を根底から覆し、山川晴重にも新たな時代への適応という、これまでとは質の異なる選択を迫ることになる。

豊臣政権への臣従

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は20万を超える大軍を率いて関東に侵攻し、北条氏の本拠・小田原城を包囲した(小田原征伐)。関東の諸大名が秀吉に恭順するか、北条氏と共に滅びるかの二者択一を迫られる中、山川晴重は主君・結城晴朝と共に、迷わず豊臣方への参陣を決断する 3 。この選択により、彼らは戦後に所領を安堵され、家名の存続を許された 3 。しかしそれは同時に、鎌倉時代以来続いてきた関東の独立領主としての時代の終焉と、秀吉を頂点とする新たな中央集権的秩序への編入を意味していた。

この時期、宗家の結城晴朝は、家の将来を見据えた重大な決断を下していた。秀吉の天下統一後、関東にはその最も信頼する同盟者である徳川家康が入封することが確実視されていた。晴朝は、この新たな関東の支配者との関係を強化し、結城家の安泰を図るため、家康の次男であり、秀吉の養子ともなっていた於義伊(後の結城秀康)を、自らの養嗣子として迎えたのである 1 。これにより、山川晴重もまた、徳川家康の子である結城秀康を新たな主君として仕えることになった。

新秩序下での役割 ― 葛西大崎一揆への出陣

小田原征伐によって後北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入封すると、日本の政治構造は一変した。晴重ももはや、下総の一国人領主として、周辺勢力との合従連衡に腐心する立場ではなくなった。彼の役割は、豊臣・徳川連合が主導する天下の「公儀」、すなわち中央政府の秩序維持に貢献する武将へと変化したのである。

そのことを象徴する出来事が、小田原征伐と同じ天正18年(1590年)の11月に起こった。奥州で、秀吉の仕置に不満を持つ旧領主たちが蜂起し、葛西大崎一揆が勃発した。この鎮圧のため、晴重は徳川家康の命を受け、新たな主君・結城秀康の配下として陸奥へと出陣している 3 。これは、彼の軍事行動が、もはや自領の防衛や勢力拡大のためではなく、天下の静謐という公的な目的のために行われるようになったことを示している。

早すぎる死

新時代の武将として、新たな秩序の中でその智勇を発揮することが期待された矢先、晴重に突然の終焉が訪れる。天正20年(1593年)、彼は27歳という若さでこの世を去った 3

彼の短い生涯は、まさに戦国時代の関東を生きた独立領主の軌跡そのものであった。北条・上杉という二大勢力の狭間で一族の自立性を守り抜き、反北条連合の一翼を担って勝利を掴み、そして天下統一という時代の大きな転換点を見届けた。彼の死は、関東の国人たちが自らの力で運命を切り拓こうとした、一つの時代の終わりを象徴する出来事であったと言えるかもしれない。

第五部:晴重没後の山川氏 ― 独立領主から越前家老へ

山川晴重の早すぎる死は、山川氏にとって大きな転機となった。彼が生涯をかけて守り抜こうとした「独立領主」としての地位は、息子の代で大きく変容し、一族は新たな時代の中で新たな役割を見出すことになる。それは、戦国乱世の終焉が、多くの地方領主に何をもたらしたかを示す典型的な事例であった。

跡を継いだ子・朝貞

晴重の死後、山川家の家督は、その子である山川朝貞(やまかわ ともさだ)が継承した 3 。彼は後に讃岐守(さぬきのかみ)の官位を名乗っている 9 。朝貞が家督を継いだ時、山川氏を取り巻く環境は、父・晴重の時代とは全く異なっていた。もはや彼らの運命は、主君である結城秀康、そしてその背後にいる徳川家康の動向と不可分に結びついていた。

関ヶ原の戦いと越前移封

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この時、主君・結城秀康は、徳川家康から、会津の上杉景勝が徳川領の背後を突いて南下してくるのを阻止するという、極めて重要な戦略的任務を与えられていた 3 。山川朝貞も、秀康の配下としてこの対上杉戦線に参加し、主君の任務遂行に貢献した。

秀康はこの大役を見事に果たし、その功績は戦後に高く評価された。慶長6年(1601年)、秀康は下総結城10万石から、越前北ノ庄67万石という大大名へと、破格の加増転封を命じられる 3 。この主君の栄転に伴い、山川朝貞もまた、一族郎党を率いて先祖代々の地である下総国山川荘を離れ、遠く越前の地へと移ることになった 3 。鎌倉時代以来、約400年にわたって続いた、下総の地に根差す独立領主としての山川氏の歴史は、この移封をもって完全に幕を閉じたのである。

越前松平家における地位

故郷を離れた山川氏であったが、その待遇は決して悪いものではなかった。慶長15年(1610年)に作成された『越前松平家分限帳』によれば、山川朝貞は越前国吉田郡花谷において1万7000石という、一万石以上の大名に匹敵する広大な知行を与えられ、越前松平家の重臣筆頭格にその名を連ねている 9 。これは、徳川家康の実子である秀康が当主を務める徳川一門の大名家において、譜代ではない外様の家臣としては異例の厚遇であった。この事実は、晴重の代から続く山川氏の功績と実力が、結城(徳川)家にとって、いかに高く評価されていたかを物語っている。

しかし、この栄達は、同時に一つの時代の終わりを明確に示していた。晴重の時代、山川氏の力の源泉は、先祖から受け継いだ「土地(所領)」そのものであった。彼らは土地と不可分に結びついた「領主」であり、その独立性の根幹もそこにあった。対して、息子の朝貞の代になると、彼らの地位は土地から切り離され、主君への忠誠と、その対価として与えられる「知行(石高)」によって保障される、近世的な「家臣」へと変質した。1万7000石という高禄は、経済的な豊かさと安定をもたらした一方で、それはもはや独自の外交判断を下すことのできない、巨大な大名家の家臣団の一員になったことを意味していた。父・晴重が生涯をかけて守り抜いた戦国領主としての誇りと自立性は、息子の代で、より安定した「大名家老」という地位に姿を変えた。これは山川氏一族の栄達であると同時に、戦国という時代の終焉そのものを体現する、不可逆的な歴史の転換であった。

結論:山川晴重が遺したもの

山川晴重の生涯は、わずか27年という短い期間であったが、その軌跡は戦国時代末期の関東を生き抜いた地方領主の気概と苦悩、そして時代の変革の中で避けられなかった運命を鮮やかに映し出している。

彼は、宗家である結城氏が北条氏に従属する中にあっても、自家の置かれた地政学的状況を冷静に分析し、上杉謙信と結ぶという独自の外交路線を貫き通した。これは、山川氏が歴史的に培ってきた「同盟者」としての高い自立性があったからこそ可能な、大胆かつ合理的な選択であった。彼のこの一貫した姿勢は、上杉謙信の関東戦略において重要な役割を果たし、山川氏を北関東における反北条勢力の確固たる一拠点たらしめた。

その外交努力は、天正5年(1577年)の北条軍との決戦において、結城・佐竹・宇都宮・那須といった諸勢力を結集させる原動力の一つとなり、歴史的な勝利に結実した。これは、関東の国人衆が外部の権威に依存せずとも、自らの力で大勢力に対抗しうることを証明した点で、大きな意義を持つものであった。

しかし、天下統一という時代の巨大な奔流は、一個人の智勇や一族の結束が抗しきれるものではなかった。晴重は、豊臣政権という新たな中央権力への臣従を選択し、新秩序下での役割を果たそうとした矢先に、志半ばで世を去る。

最終的に、彼が守ろうとした「独立領主」としての山川氏は、その子の朝貞の代で終焉を迎えた。一族は先祖伝来の地を離れ、近世大名である越前松平家の家臣団に組み込まれることで、家名を未来へと繋いだ。それは、戦国的な「独立性」の喪失と引き換えに、近世的な「安定」を手に入れるという、多くの国人領主が辿った道でもあった。

山川晴重の名は、戦国史の表舞台で華々しく語られることは少ないかもしれない。しかし、彼の生涯は、大国の狭間で自らの意志を貫き、激動の時代を駆け抜けた一人の武将の確かな証として、関東戦国史の一隅に、静かながらも力強い光を放ち続けている。

引用文献

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  3. 山川晴重 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E6%99%B4%E9%87%8D
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  10. 武家家伝_山川氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yamakawa.html
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