山村良候は木曽氏重臣。武田信玄に武功を認められ、関ヶ原で木曽谷を平定。大名打診を固辞し、木曽代官・福島関守に。幕臣と尾張藩士の二重臣従体制を確立し、近世木曽の礎を築いた。
本報告書は、戦国時代の末期から江戸時代初期にかけて、信濃国木曽谷の歴史に決定的な足跡を残した武将、山村良候(やまむら よしとき)の生涯を、現存する史料に基づき多角的に解明することを目的とします。彼の出自から、甲斐の武田氏麾下での武功、主家である木曽氏の転封という激動の時代を経て、天下分け目の関ヶ原の戦いにおける功績、そして近世木曽支配の礎を築き上げるに至るまでの軌跡を、詳細にわたり検証いたします。
まず、調査対象となる人物を明確に定義する必要があります。「山村」を名乗る歴史上の人物は複数存在しますが 1 、本報告書が対象とするのは、天文14年(1545年)に生まれ、慶長7年(1603年)に没した、通称を七郎右衛門、三郎左衛門、後に入道して道祐(道勇)と号した木曽氏の重臣、山村良候その人です 4 。
山村良候は、単なる一地方武将としてその生涯を終えた人物ではありません。彼は、戦国の動乱を生き抜き、仕えていた主家が歴史の舞台から退場する中で、新たな時代の覇者である徳川家康にその才覚を見出され、故郷・木曽谷の統治者としての地位を確立しました。彼の卓越した武勇と、それ以上に非凡な政治的判断力が、江戸時代を通じて約280年もの長きにわたり木曽を世襲支配する「木曽代官山村家」の礎を築いたのです。本報告書では、良候個人の生涯を追うとともに、彼の一つの決断が如何にしてその後の木曽の歴史を方向付けたのかという点を、中心的なテーマとして探求してまいります。
報告書の理解を助けるため、まず山村良候の生涯の概略を以下の年表に示します。
表1:山村良候 略年表
西暦 |
和暦 |
年齢 |
主要な出来事と関連史料 |
1545年 |
天文14年 |
1歳 |
木曽氏重臣・山村良利の子として生まれる 4 。 |
1572年 |
元亀3年 |
28歳 |
主君・木曾義昌に従い武田信玄の西上作戦に参加。飛騨攻めで戦功を挙げ、信玄から直接感状と所領を与えられるという異例の待遇を受ける 4 。 |
1584年 |
天正12年 |
40歳 |
小牧・長久手の戦い。主君・木曽氏が羽柴(豊臣)方に与し、嫡男・良勝が妻籠城にて徳川方を撃退する 4 。 |
1590年 |
天正18年 |
46歳 |
徳川家康の関東移封に伴い、主君・木曽義昌が下総国網戸へ転封。良候もこれに従った後、木曽へ帰還したとされるが、早期に出奔したとの説もある 4 。 |
1600年 |
慶長5年 |
56歳 |
関ヶ原の戦い。徳川家康率いる東軍に属し、息子・良勝と共に木曽谷および東濃地方を平定。中山道を進む徳川秀忠軍の進路を確保する大功を立てる 8 。戦後、家康から木曽一万石の大名に取り立てる旨を打診されるも、これを固辞 4 。木曽代官および福島関所の関守に任命される 8 。 |
1603年 |
慶長7年 |
59歳 |
11月20日、死去。木曽代官職は嫡男・良勝が継承し、山村家の世襲支配が始まる 4 。 |
山村良候の活躍を理解するためには、まず彼が属した山村氏の出自と、木曽谷におけるその特殊な地位について知る必要があります。
山村氏の家譜によれば、その祖は宇多源氏佐々木氏、あるいは大江氏の末裔とされる大江良道に遡ります 6 。良道が近江国山村郷(現在の滋賀県甲賀市周辺)の出身であったことから、その地名を取って「山村」を姓としたと伝えられています 7 。良道は当初、室町幕府に仕えていましたが、幕府の権威が衰退すると職を辞し、諸国を遍歴した末に信濃国木曽谷へ至り、木曽氏に仕えることとなりました 6 。良候の祖父にあたるこの良道は、永正12年(1515年)、須原館を襲撃した敵との戦いで戦死したと記録されています 6 。
良候の父である山村良利(よしとし)の代には、山村氏は木曽家中の重臣としての地位を確固たるものにしていました。良利は主君・木曾義康が甲斐の武田信玄に臣従した後、武田氏との外交交渉における取次役を務めるなど、政治的に極めて重要な役割を担っていました 6 。
しかし、山村家の地位を特権的なものにしていたのは、単なる功績だけではありませんでした。良候の母は、木曽氏の当主であった木曾義在の娘、月光院です 4 。これは、良候が主君・木曽氏の血を直接引く人物であったことを意味します。戦国時代において、重臣が主家と姻戚関係を結ぶことは、その一族が特別な信頼と家格を有していることの証左に他なりません。父・良利自身も木曾義昌の娘を妻に迎えることが許されるほどの立場にあり 7 、山村家が単なる家臣団の一員ではなく、主家と血縁で結ばれた、いわば準親族とも言うべき別格の存在であったことが窺えます。この強固な血縁的・政治的基盤こそが、後に良候が木曽谷の動乱を乗り越え、新たな支配者として台頭するための重要な下地となったのです。
良候自身も、木曽谷の有力者である千村氏から妻を迎えており、山村家が地域の豪族と重層的な婚姻関係を結ぶことで、その支配力を盤石なものにしていった様子がうかがえます。
表2:山村良候を中心とする主要系図
関係 |
氏名 |
備考 |
祖父 |
山村良道 |
近江国より木曽へ移り、木曽氏に仕える。山村氏の祖 6 。 |
父 |
山村良利 |
木曽氏重臣。武田氏との取次役を務める 6 。 |
母 |
月光院 |
木曾義在の娘。良候は木曽氏の血を引く 4 。 |
本人 |
山村良候 |
初代木曽代官。 |
妻 |
(氏名不詳) |
千村八郎左衛門重政の娘 4 。 |
嫡男 |
山村良勝 |
二代木曽代官。通称は甚兵衛 4 。 |
娘 |
(氏名不詳) |
千村平右衛門良重に嫁ぐ 4 。 |
娘 |
(氏名不詳) |
千村次郎右衛門重照に嫁ぐ 4 。 |
娘 |
(氏名不詳) |
千村助右衛門重次に嫁ぐ 4 。 |
山村良候が歴史の表舞台にその名を現すのは、主家である木曽氏が甲斐の武田信玄の勢力下に入ってからのことです。彼の武将としての非凡な才能は、早くから中央の有力大名の知るところとなります。
弘治元年(1555年)、木曾義康が武田信玄に降ると、その子・義昌と共に山村良利・良候親子も武田軍の一翼を担うことになりました 4 。特に、元亀3年(1572年)9月、信玄が敢行した大規模な西上作戦において、良候は大きな戦功を挙げる機会を得ます。
この作戦の一環として、木曾義昌の軍勢は飛騨国へ侵攻しました。その先鋒として戦った良候は、父・良利と共に敵将・檜田次郎左衛門を見事討ち取るという功績を立てました 4 。
この戦功に対し、武田信玄が取った措置は極めて異例なものでした。通常、大名がその家臣の家臣、すなわち「陪臣(ばいしん)」に恩賞を与える際は、その直属の主君(この場合は木曾義昌)を通じて行われるのが通例です。しかし信玄は、この慣例を破り、山村良候・良利親子に対して直接感状を送り、さらに美濃国恵那郡の安弘見郷三百貫、加えて千旦林村と茄子川村で三百貫、合計六百貫文の知行地を与えたのです 4 。
この事実は、単に良候の武功が優れていたことを示すだけではありません。陪臣に対して主君を飛び越えて直接恩賞を与えるという行為には、信玄の高度な政治的計算が働いていたと考えられます。第一に、良候の武勇と指揮能力が、陪臣の域を超えて信玄自身の目に留まるほど突出していたこと。第二に、信玄が木曽谷を安定的に支配する上で、その地の実力者である山村家の存在を重視し、直接的な関係を結ぶことで木曽氏を内側から牽制し、掌握を確実にしようという戦略的意図があった可能性が指摘できます。
いずれにせよ、この一件は、山村良候が若くして単なる木曽の一武将にとどまらない、より大きな政治的文脈の中で評価されるべき器量を持っていたことを示す、初期のキャリアにおける重要なエピソードと言えるでしょう。
天正10年(1582年)の本能寺の変による織田信長の死と、それに続く武田氏の滅亡は、木曽谷にも大きな動乱をもたらしました。主家・木曽氏が激動の時代に翻弄される中、山村良候もまた、自身の将来を左右する重大な岐路に立たされます。
武田氏滅亡後、木曾義昌は織田、豊臣と目まぐるしく主君を変え、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、当初徳川家康に与しながらも、戦いの途中で羽柴(豊臣)秀吉方に寝返るという苦渋の決断を下します 4 。この際、良候の嫡男である山村良勝が妻籠城の守将として派遣され、攻め寄せる徳川方の軍勢を寡兵で撃退するという目覚ましい活躍を見せています 4 。
しかし、木曽氏の運命を決定付けたのは、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐でした。戦後、徳川家康が関東へ移封されると、その麾下にあった木曽義昌もまた、先祖伝来の地である木曽谷を離れ、下総国網戸(阿知戸、現在の千葉県旭市周辺)へ一万石で転封されることになったのです 7 。
主家の転封に際しての山村良候の行動については、史料によって記述が異なり、彼の人生における一つの謎となっています。
一つの説によれば、良候は嫡男・良勝と共に主君・義昌に従って下総へ移り住んだとされます。義昌の死後もその子・木曾義利に仕えましたが、慶長5年(1600年)、義利が素行不良を理由に改易されると、良候は主家を失い浪人となります。その後、故郷である木曽へ戻り、剃髪して「道祐」と号し、三留野村(現在の長野県木曽郡南木曽町)の田屋に隠棲したと伝えられています 4 。この説は、主家が存続する限りは忠義を尽くした、律儀な家臣としての良候の姿を浮かび上がらせます。
一方で、全く異なる動向を伝える史料も存在します。それによれば、良候は木曽氏がわずか一万石という不遇な処遇を受けたことに不満を抱いたのか、あるいは早くから木曽氏の将来に見切りをつけていたのか、転封後すぐに主家から出奔。信濃松本城主となった石川数正に仕官し、福島周辺の代官に任じられたとされています 7 。この説は、旧領への強い執着と、時勢を冷静に見極めて迅速に行動する、現実主義的な策略家としての一面を強調しています。
この二つの説のどちらが真実であったかを断定することは困難ですが、両者に共通する重要な事実は、「慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの直前には、良候は木曽の地にいた」という点です。木曽谷は豊臣家の直轄地(太閤蔵入地)となり、尾張犬山城主の石川貞清が代官を兼務していましたが、良候はその下で福島、王滝、岩郷といった村々を治める「下代官」として、在地支配の一端を担っていました 4 。この立場こそが、来るべき天下分け目の戦いにおいて、彼が故郷の命運を賭けた決定的な役割を果たすための、重要な足がかりとなったのです。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに天下を二分する関ヶ原の戦いへと発展します。この国家的な動乱は、山村良候にとって、自身の、そして木曽谷の未来を切り拓く最大の好機となりました。
戦いが始まると、良候は迷わず徳川家康率いる東軍に与することを決断します。家康もまた、中山道の要衝である木曽谷を確保することの戦略的重要性を深く認識しており、木曽の事情に精通し、在地に影響力を持つ山村・千村といった木曽氏の旧臣たちに白羽の矢を立て、木曽平定を命じました 8 。
当時、下野国小山(現在の栃木県小山市)の家康の本陣に馳せ参じていた嫡男・良勝は、家康から鉄砲30丁と弾薬、そして黄金十枚という破格の支援を受け、父・良候の待つ木曽へと急行します 9 。
父子と千村良重らの軍勢は合流すると、直ちに木曽谷の平定作戦を開始しました。最初の目標は、木曽谷の北の入り口に位置する贄川の砦でした。この砦は西軍方の石川貞清の支配下にありましたが、砦の守備を任されていた山村次郎右衛門、原図書助といった木曽氏の旧臣たちが良候の呼びかけに応じて内応したため、東軍はほとんど抵抗を受けることなく砦を突破することに成功します 9 。
これを皮切りに、良候らの軍勢は木曽谷を南下、瞬く間に全域を平定しました。さらに勢いに乗って美濃国東部(東濃)へ進軍し、同じく東軍に与した遠山友政らと協力して、西軍方の田丸具忠が守る岩村城や、河尻秀長が支配していた苗木城の攻略戦においても重要な役割を果たしました 9 。
山村良候親子のこの一連の軍事行動は、単なる局地的な勝利以上の、極めて大きな戦略的価値を持っていました。当時、家康の嫡男・徳川秀忠が率いる三万八千の東軍本隊が、中山道を通って決戦の地である関ヶ原へ向かって西上していました。もし木曽谷が西軍の支配下にあり続けたならば、秀忠軍は背後を脅かされ、安全な進軍路を確保することができず、関ヶ原への到着は絶望的だったかもしれません。良候たちが秀忠本隊の通過に先んじて木曽谷を完全に制圧したことは、東軍の全体戦略の遂行に不可欠な、決定的な貢献だったのです。
なお、一部で伝えられる「良候が西軍に捕らえられた」という情報については、今回調査した主要な史料からは、それを裏付ける記述は一切見当たりませんでした 4 。むしろ、彼は一貫して東軍の能動的な主体として戦功を重ねており、この情報は他の出来事や人物との混同、あるいは後世の伝承の過程で生じた誤伝である可能性が極めて高いと判断されます。
関ヶ原における東軍の劇的な勝利は、徳川家康を天下人の地位へと押し上げ、日本の歴史を大きく転換させました。この勝利に多大な貢献をした山村良候に対しても、家康から破格の論功行賞が提示されます。しかし、この時の良候の対応こそ、彼の真骨頂を示すものであり、その後の山村家と木曽谷の運命を決定づけることになりました。
戦後、家康は良候親子の功績を最大限に評価し、木曽氏の旧領であった木曽谷一万石の所領をそっくり与え、大名として取り立てることを提案しました 4 。先祖伝来の地を自らの領国として支配する大名となることは、戦国の武将にとって最高の栄誉であったはずです。
しかし、山村良候はこの破格の申し出を、驚くべきことに固辞したのです。その表向きの理由として、良候は「木曽谷は天下の公道である中山道が貫き、また江戸城の建材ともなる良質な木材を産出する、国家にとって極めて重要な土地です。このような公の土地を、私共のような者が私有すべきではありません」と述べたと伝えられています 4 。
この言葉は、単なる謙遜や廉直さの表明と見るべきではありません。ここには、良候の戦国武将の枠を超えた、近世的な統治者としての卓越した政治感覚が凝縮されています。
彼の判断の背景には、冷静な情勢分析がありました。まず、木曽谷一万石の小大名(外様大名)となることは、独立した領主としての体面は保てるものの、常に強大な徳川幕府からの監視下に置かれ、些細なことで改易されるリスクを生涯負い続けることを意味します。特に木曽のような戦略的・経済的要衝の地では、そのプレッシャーは計り知れないものがあったでしょう。
一方で、良候が選んだ「代官・関守」という役職は、幕府の直轄地の統治を代行する立場です。これは、自身の権力基盤を幕府の権威と一体化させることを意味し、幕府が安泰である限り、その地位もまた安泰となります。さらに、大名になることを辞退し、その理由として「天下のための公の土地」であることを挙げたことで、良候は家康に対し「私心がなく、公儀に対してどこまでも忠実な人物」という、金銭や所領では得られない絶大な信頼を勝ち取ることに成功しました。
結果として、良候は見かけの「大名」という地位よりも、実質的かつ永続的な「幕府の代理人」としての支配権を選択したのです。これは、私的な領地拡大を目指す戦国的な価値観から、公儀の秩序の中で安定的な地位を確保する近世的な価値観へと、彼がいち早く思考を転換させていたことを示す、非凡な先見性の現れと言えます。
良候の深慮遠謀に満ちた申し出を受け入れた家康は、関ヶ原の戦いからわずか2週間後の慶長5年(1600年)10月2日、彼を正式に木曽代官に任命しました。同時に、中山道四大関所の一つである福島関所の関守という重責も命じられます 4 。知行としては、良候自身に千三百石、嫡男の良勝に四千六百石、合わせて五千七百石が安堵され、かつての主君・木曽氏の居館であった福島館の跡地を屋敷として拝領することも許されました 7 。こうして、近世木曽の支配者としての山村代官家が誕生したのです。
木曽代官および福島関守として、新たな時代の木曽谷統治の基礎を固めた山村良候でしたが、その任についてからわずか3年後、その生涯に幕を閉じます。
良候は、慶長7年11月20日(西暦1603年1月2日)、59歳で死去しました 4 。戒名は「幡龍院殿傑庭玄勇大居士(ばんりゅういんでんけつていげんゆうだいこじ)」 4 。墓所は、木曽氏の菩提寺でもあった木曽町福島の長福寺にあります 4 。
彼の死後、家督と木曽代官の職は嫡男の山村良勝が継承しました。良候が築いた徳川家との信頼関係と、木曽谷における支配の基盤は、良勝の代にさらに強固なものとなり、山村家による代官職の世襲が事実上確立されることになります。
良候の先見性は、その子女の婚姻政策にも見て取ることができます。彼には複数の娘がいましたが、そのうち三人は、木曽谷で山村氏と並ぶ有力な豪族であった千村氏の一族(千村良重、千村重照、千村重次)へそれぞれ嫁いでいます 4 。これは、木曽谷における山村家の支配体制を盤石にするため、地域の有力者と重層的な姻戚関係を結ぶことで、内側から結束を固めようとする明確な戦略であったと考えられます。
また、四男は盲目であったため武家を継ぐことはありませんでしたが、京へ上って鍼灸の道を志し、その術をもって朝廷から「検校(けんぎょう)」の位を授けられ、山室検校と称して大成したという記録も残っており 5 、良候の子たちが多様な分野で活躍したことが窺えます。
山村良候が遺した最大の遺産は、彼の死後に成立した、山村家の極めて特殊な地位にあります。それは、彼の政治判断がなければ決して生まれなかったであろう、特異な統治体制でした。
元和元年(1615年)、大坂の陣が終結し、徳川の天下が盤石になると、家康は木曽谷の地を自身の九男である尾張藩主・徳川義直に加増しました。これにより、木曽谷は尾張藩の所領の一部となります 8 。
この時、木曽代官である山村家は、極めて複雑で、しかし有利な立場に置かれることになりました。これが「幕臣」と「尾張藩士」という、二重の臣従関係です。
山村家は、以下の二つの顔を持つことになります。
この「幕府直臣」と「尾張藩士」という二重の臣従関係こそ、山村良候の「木曽一万石辞退」という政治判断がもたらした、究極の成果でした。この特殊な地位により、山村家は尾張藩の統制を受けつつも、一方で幕府の権威を直接的な後ろ盾とすることができました。これにより、木曽谷において半ば独立した領主のような強大な権限を維持し、明治維新に至るまで約270年以上にわたって木曽に君臨し続けることが可能となったのです 19 。彼らは木曽檜に代表される豊かな林産資源の管理も任され、尾張藩の財政に大きく貢献する一方で、木曽独自の文化と産業を育む統治者として、その名を歴史に刻みました 21 。
山村良候の生涯を振り返るとき、我々は一人の武将の中に、複数の顔を見出すことができます。それは、武田信玄のような戦国の巨星にもその武勇を認められた猛将の顔であり、主家の没落という危機を乗り越えるための処世術に長けた策略家の顔であり、そして天下分け目の大戦において的確に時勢を読み、決定的な功績を挙げる戦略家の顔です。
しかし、彼の真骨頂は、武功そのものよりも、戦後の論功行賞で見せた「木曽一万石辞退」の逸話に象徴される、近世的な統治者としての卓越した政治感覚にあります。彼は、目先の栄誉である私的な領地所有という戦国的な価値観に固執しませんでした。代わりに、自らを「公儀」の秩序に組み込み、その代理人という立場を選択することで、一族の長期的かつ安定的な繁栄の礎を築き上げたのです。
彼の生涯は、戦国時代の武将が、いかにして近世の新たな支配体制に適応し、自らの地位を確立していったかを示す、類稀な成功例と言えるでしょう。山村良候という一人の人物の決断なくして、江戸時代を通じての木曽谷の安定と繁栄、そして山村代官家の長期にわたる支配はあり得ませんでした。彼はまさに、近世木曽のグランドデザイナーであり、その初代統治者として、日本の地方史に不滅の名を深く刻んでいるのです。