本報告は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて佐竹氏に仕えた武将、岡本宣綱(おかもと のぶつな)の生涯とその事績について、現存する史料に基づき詳細に考察するものである。岡本宣綱は天正11年(1583年)に生まれ、慶安2年(1649年)に没したと記録されている 1 。通称を蔵人(くろうど)、入道後の号を如哲(じょてつ)あるいは如庵(じょあん)と称した 1 。
利用者より提供された情報によれば、宣綱は岡本顕逸(けんいつ)の子であり、当初は父祖に倣って剃髪していたものの、後に主君である佐竹義宣(さたけ よしのぶ)の命により還俗し、義宣の秋田移封に随行、大坂の陣にも出陣して戦功を立てたとされる。本報告はこれらの情報を基点としつつ、それを大幅に超える詳細な情報と歴史的文脈における分析を提供することを目指す。
岡本宣綱の生涯は、織豊政権から江戸幕府確立期へと至る日本の大きな転換期(1583年~1649年)と重なっている 1 。彼が仕えた佐竹氏自身も、関ヶ原の合戦の結果、常陸国から出羽国秋田へと大幅な減転封を経験するという激動の時代を生きた 2 。このような背景の中、宣綱の経歴に見られる僧籍からの還俗、そして晩年の再度の入道という特異な転換 1 は、単なる個人の選択を超えて、当時の武士の価値観、主君との関係性、さらには宗教観のあり方を考察する上で非常に興味深い事例を提供する。本報告では、これらの点に着目し、岡本宣綱という一人の武士の生涯を多角的に掘り下げる。
年代 |
出来事 |
出典 |
天正11年(1583年) |
出生 |
1 |
時期不詳 |
父祖に倣い剃髪 |
1 |
時期不詳(慶長年間か) |
佐竹義宣の命により還俗、「宣」の字を賜り宣綱と名乗る。義宣の側近となる |
1 |
慶長7年(1602年) |
佐竹義宣の秋田移封に従う |
3 |
慶長19年(1614年)~元和元年(1615年) |
大坂の陣に従軍、戦功を立てるとされる |
1 |
寛永元年7月(1624年8月) |
佐竹義直の傅役となる |
1 |
寛永2年2月(1625年3月) |
傅役を辞任(自傷事件) |
1 |
寛永8年(1631年) |
再び僧籍に戻る。如哲・如庵と号す |
1 |
慶安2年(1649年) |
死去(享年67) |
1 |
岡本宣綱の人物像を理解するためには、彼が属した岡本氏の系譜と、祖父・父が果たした役割を把握することが不可欠である。
岡本氏の出自については諸説が存在する。一説には宇都宮氏の重臣であった芳賀氏の一族、あるいは千葉氏の庶流である大須賀氏の一族ともされる 5 。また、国文学研究資料館所蔵の「出羽国秋田郡十二所岡本家文書」に関連する記録では、宇都宮氏の家臣であった岡本時寿(摂津守)を祖とする岡本氏の系統が秋田藩に仕えたことが記されている 3 。
一方で、岡本宣綱の直接の家系に関しては、岡本禅哲(宣綱の祖父)の祖父にあたる岡本妙誉(みょうよ)の代から佐竹氏に仕えるようになったとされ、その系譜は藤原秀郷から小山氏を経て岡本氏に至るとも伝えられている 7 。『岡本禅哲』の項によれば、岡本氏は元々岩城氏の家臣であったが、妙誉の代から佐竹氏に仕えたという 7 。これらの情報からは、複数の岡本氏が佐竹家中に存在した可能性や、記録の錯綜も考えられるが、宣綱の直接的な出自を考える上では、妙誉以来佐竹氏に仕えたという流れが最も重要であると言えよう。この家系が、宣綱のアイデンティティ形成に大きな影響を与えたと考えられる。
岡本宣綱の祖父・禅哲と父・顕逸は、ともに佐竹家において重要な役割を担った人物であった。
岡本禅哲(おかもと ぜんてつ)
生年は不詳であるが、天正11年(1583年)、奇しくも孫である宣綱が生まれた年に没している 7。禅哲は岡本曾端(そうたん)の子で、母は小山秀綱の娘とされ、妻も小山秀綱の娘であったという記録もある 7。号は梅江斎(ばいこうさい)、竹閑斎(ちくかんさい)、慕叟庵(ぼそうあん)など複数持ち、代々又太郎と称した 7。
禅哲は僧籍にありながら佐竹義篤・義昭・義重の三代にわたり、主に外交面で活躍し、その功績から一門衆に準じる扱いを受けたとされる 7。和歌にも長じ、室町幕府十五代将軍足利義昭や当代一流の文化人であった細川幽斎とも交流があったという高い教養の持ち主であった 7。常陸国太田の松山に居住し、邸内に少林院(正林院)を建立して院主となっていた可能性も指摘されている 7。
岡本顕逸(おかもと けんいつ)
岡本禅哲の子であり、宣綱の父である 7。名は良哲(りょうてつ)、号は好雪斎(こうせつさい)とも称した 7。常陸国太田松山館主であったとされる 9。
顕逸も父・禅哲同様、佐竹義重・義宣父子に仕え、外交面でその手腕を発揮した 8。特筆すべきは、天正18年(1590年)、佐竹義重の三男である岩城貞隆が岩城氏へ養嗣子として入る際に、顕逸がその補佐として岩城氏の政務を取り仕切ったことである 9。これは岡本家が佐竹本体のみならず、関連大名家との複雑な関係性の中で重要な調整役を担っていたことを示している。
しかし、顕逸は後に病のため家督を子の宣綱(当時は如哲と号していたか)に譲り、京都へ上って隠居し、まもなく没したと伝えられる 9。
宣綱の祖父・父がともに僧籍の経験を持ちながら、佐竹家の重臣として、特に外交という高度な知的能力を要する分野で活躍したという家風は、宣綱自身の初期の僧籍入りや、後の佐竹義直の傅役としての役割にも影響を与えた可能性がある。
岡本宣綱は天正11年(1583年)に生まれた 1 。これは祖父・禅哲が没した年であり、岡本家にとって一つの時代の区切りであったかもしれない。父・顕逸も佐竹家の重臣として多忙であったと推測され、宣綱の幼少期や僧籍に入った具体的な時期・背景に関する詳細な記録は乏しいが、父祖に倣い剃髪していたことは複数の資料で確認できる 1 。岡本家が代々僧籍と深い関わりを持っていたこと 1 、そして父・顕逸の意向などが影響し、宣綱が若くして僧籍に入ることは自然な流れであったと考えられる。この初期の僧としての経験が、後の彼の人間性や、佐竹義直への教育方針、さらには晩年の再度の入道という決断に何らかの影響を与えた可能性は否定できない。
岡本宣綱の人生において大きな転機となったのは、主君・佐竹義宣の命による還俗と、それに続く武士としての活動であった。
父祖の例に倣い僧籍にあった宣綱であったが、主君である佐竹義宣の命により還俗した 1 。その際、義宣より自身の諱(いみな)の一字である「宣」の字を与えられ、名を宣綱と改めたとされる 1 。主君の名の一字を家臣に与える「偏諱(へんき)」は、主君からの並々ならぬ期待と信頼の証であり、宣綱が義宣にとって重要な存在と見なされていたことを示唆している。還俗後、宣綱は義宣の側近として仕えることとなった 1 。
佐竹義宣が、既に僧籍にあった宣綱を還俗させてまで側近に登用した背景には、宣綱個人の資質、すなわち父祖から受け継いだ知性や教養、あるいはまだ見ぬ才能に対する義宣の期待があったと考えられる。特に、佐竹氏が慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦における曖昧な態度を徳川家康に咎められ、慶長7年(1602年)に常陸国水戸54万石から出羽国秋田20万石へと大幅に減転封されるという苦境にあった時期 2 には、信頼できる有能な側近の育成と登用が急務であった。義宣は秋田移封を機に、旧来の門閥に捉われず、当主の権力を強化し新たな政策を実施するための人材登用を積極的に行った形跡があり 13 、宣綱の登用もその一環であった可能性が高い。
宣綱の還俗と側近としての登用は、佐竹家臣団内部における新たな勢力の形成を意味し、既存の権力構造にも影響を与えた可能性がある。彼の吏僚的な才能が、武功を中心とした旧来の家臣とは異なる形で評価されたのかもしれない。秋田移封後の新たな藩体制の構築においては、武勇だけでなく、行政能力や交渉能力も極めて重要であり、義宣が宣綱のような人物を重用したことは、藩政運営における能力主義的な側面や、新たな家臣層の台頭を示唆している。
慶長7年(1602年)、佐竹義宣は徳川幕府の命により、本拠地であった常陸国から出羽国秋田へと移封された。岡本宣綱もこの主家の国替えに従い、秋田へ赴いた 3 。岡本氏の一族もこの時に秋田へ移住したと記録されている 3 。秋田では、岡本氏の一派が当初横手に、そして元和元年(1615年)には秋田郡十二所(じゅうにしょ)に転住したとの記録があるが 3 、これが宣綱自身の動向と直接結びつくかについては、さらなる検討が必要である。
主家が大幅な減封という困難な時期に直面する中での移封への随行は、宣綱の佐竹家に対する忠誠心の高さを示すものと言えよう。新天地である秋田における藩体制の確立は容易な事業ではなく、藩主・義宣を支える側近の働きが不可欠であった。宣綱は義宣の側近として、初期の混乱期における行政事務、情報収集、あるいは他の家臣団との連絡調整など、多岐にわたる分野で重要な役割を担ったと推測される。
岡本宣綱は、武士として主君に仕える中で、天下分け目の戦いの一つである大坂の陣にも参陣している。
慶長19年(1614年)の冬の陣、そして翌元和元年(1615年)の夏の陣という二度にわたる大坂の陣に、宣綱は佐竹義宣に従い従軍した 1 。佐竹軍は徳川方として参戦し、特に今福・鴫野(しぎの)の戦いなどでは上杉景勝軍と共に豊臣方と激戦を繰り広げた記録が残っている 14 。
義宣の側近であった宣綱が、この重要な戦役に参陣したという事実は、彼が単なる文官的な役割を担うだけでなく、武士としての軍務も期待されていたことを示している。しかしながら、大坂の陣における佐竹軍の具体的な部隊編成や、その中での宣綱の役職、あるいは具体的な配置といった詳細に関する直接的な記録は、現存する資料からは乏しい。彼が義宣本陣の警護にあたったのか、伝令等の連絡役を務めたのか、あるいは一部隊の指揮を任されたのかといった点は、今後の調査課題と言える。
岡本宣綱は大坂の陣で「戦功を立てた」と伝えられている 1 。しかし、その具体的な戦功の内容や、それによって幕府から感状(かんじょう、褒賞状)を賜ったかどうかに関する直接的な記録は、提示された資料の中には見当たらない。
例えば、大坂の陣における戦功により徳川秀忠から感状を授与された佐竹家臣として、戸村義国(とのむら よしくに)、梅津憲忠(うめづ のりただ)、信太勝吉(しだ かつよし)、大塚資郷(おおつか すけさと)、黒澤道家(くろさわ みちいえ)といった名が挙げられているが、この中に岡本宣綱の名前は含まれていない 16 。
「戦功を立てた」という記述は一般的であり、その具体的な内容が不明な場合、その評価は難しい。感状拝領者のリストに名前がないことは、必ずしも戦功が皆無であったことを意味するわけではない。感状は特に顕著な功績に対して与えられるものであり、宣綱の働きが他の多くの家臣と同様の範囲であった可能性も考慮される。あるいは、彼の「功」が、戦闘指揮といった直接的な武功ではなく、義宣の側近としての兵站管理、情報収集、主君の警護といった後方支援や補佐的な役割において発揮された可能性も考えられる。この点についても、今後の史料発見が待たれるところである。
岡本宣綱の経歴において、特に注目されるのが、佐竹義宣の世嗣である佐竹義直の傅役(ふやく、教育係)への就任と、その短期間での辞任、そしてそれに伴う自傷事件である。
寛永元年7月(1624年8月)、岡本宣綱は主君・佐竹義宣の命により、義宣の養子であり嫡男とされた佐竹義直(さたけ よしなお)の傅役に任じられた 1 。この時、義直は慶長17年(1612年)生まれであり、数え年で13歳であった 4 。義直は義宣の異母弟、すなわち佐竹義重の五男にあたる人物である 4 。
藩主の世嗣の傅役という役職は、その人物の能力、人格、そして何よりも主君への忠誠心が高く評価されていなければ任されることのない重職である。宣綱がこの大役に選ばれたことは、義宣からの深い信頼を物語っている。しかしながら、義直が義宣の実子ではなく養子であり、かつ年齢もまだ若いという状況下での教育は、藩の将来を左右する極めて重要な任務であり、宣綱には大きなプレッシャーが伴ったであろうことは想像に難くない。義宣が宣綱を選んだ背景には、彼の知性や教養、そして義宣への揺るぎない忠誠心があったと推測される。また、祖父・禅哲や父・顕逸が外交交渉などで知的な能力を発揮した岡本家の血筋も考慮されたのかもしれない。
傅役に就任した宣綱であったが、その職務は長くは続かなかった。翌寛永2年2月(1625年3月)、宣綱は傅役を辞任するに至る 1 。その在任期間はわずか8ヶ月程度という異例の短さであった。
辞任の理由として伝えられているのは、義直が仏像の彫刻や仏書の研究に異常なまでに傾倒し、傅役である宣綱の諌言に全く耳を貸さなかったためとされている 1 。武家の後継者として期待されるべき資質とはかけ離れた義直の行動に、宣綱は深く憂慮したと考えられる。そして、宣綱は病と称して傅役の任を解かれることを願い出て(秋田へ)帰国し、あろうことか短刀で自らを傷つけるという衝撃的な行動に出たと記録されている 4 。この一件の後、佐竹義直は最終的に廃嫡されることとなる 1 。
宣綱の自傷を伴う辞任は、単なる職務放棄とは到底見なすことができない。それは、傅役としての責任感の強さ、義直の行動に対する深い絶望感、そして何よりも主君・義宣への申し訳なさといった複雑な感情が凝縮された行動であったと考えられる。義直の仏教への過度な傾倒が、世俗の君主としての資質に決定的に欠けると宣綱が判断した可能性は極めて高い。この宣綱の行動は、言葉だけでは伝えきれない強い意志表示であり、諌言が聞き入れられなかったことへの最後の抗議、あるいは自らの無力さを責める行為、そして主君の期待に応えられなかったことへの謝罪など、様々な解釈が可能である。
岡本宣綱の傅役辞任とそれに伴う自傷事件は、佐竹藩の後継者問題の不安定さを露呈するとともに、傅役という立場の困難さを浮き彫りにした。この一件は、佐竹義宣が義直の将来に深刻な懸念を抱く大きな要因となり、後の廃嫡という決断に繋がる重要な伏線となったことは間違いない。藩の跡継ぎ問題は、藩の安定と将来にとって最重要課題の一つであり、この騒動は藩政にも少なからぬ影響を与えた可能性がある。
宣綱自身にとっても、この出来事は大きな精神的負担となり、その後のキャリアにおける一つの挫折であったと推測される。主君の信頼厚い側近であった宣綱だが、この一件でその立場に何らかの変化があった可能性も否定できない。傅役という重責を果たせなかったという経験は、宣綱の精神に深い影響を与え、世俗の務めに対する考え方を変えさせたかもしれない。そして、これが後の再度の入道への道を開いた遠因となった可能性も考えられる。
佐竹義直の傅役辞任という波乱の後、岡本宣綱は再び仏道に帰依する道を選ぶ。
寛永8年(1631年)、岡本宣綱は再び僧籍に戻ったと記録されている 1 。これは、佐竹義直の傅役を辞任してから約6年後のことであった。入道後の号は如哲、あるいは如庵と称した 1 。
宣綱が再び僧籍に戻った具体的な理由については、史料に明確な記述は乏しい。しかし、傅役辞任事件が彼に与えた精神的な影響の大きさや、元々僧籍にあった岡本家の家系の影響、あるいは人生の無常を感じさせる何らかの出来事など、複数の要因が複合的に作用した結果であると考えられる。武士としてのキャリアにおける大きな挫折を経験し、精神的な安寧を求めて仏道に専念する道を選んだとしても不思議ではない。この時期は、大坂の陣も終結し、世の中が比較的安定を取り戻しつつあった頃であり、武士としての役割よりも、内面的な充足を求める心境に至った可能性も考えられる。主君の許可なしに家臣が勝手に出家することは通常許されないため、何らかの形で佐竹義宣の了承を得ていたと考えるのが自然であるが、その具体的な経緯については不明である。
再び僧門に入った岡本宣綱は、慶安2年(1649年)にその生涯を閉じた 1 。享年は67歳であった。彼がどこで、どのような状況で亡くなったのかといった具体的な情報については、現存する資料からは詳らかではない。
再入道後の宣綱の具体的な活動についても史料は乏しいが、如哲あるいは如庵と号し、静かに仏道に勤しんだ晩年であったと想像される。彼の死は、戦国乱世を生き抜き、江戸時代初期における藩体制確立期という大きな時代の転換点に、佐竹家家臣として仕えた一人の武士の生涯の終わりを意味するものであった。
岡本宣綱の生涯を考察する上で、彼が秋田藩においてどのような地位にあり、どれほどの知行を得ていたのか、そして彼の子孫がどのように続いたのかは重要な論点である。また、彼に関する記述がどのような史料に見られるのかを整理することも、今後の研究にとって不可欠である。
岡本宣綱が秋田藩において得ていた具体的な知行高や役職に関する直接的な記録は、提示された資料からは特定が難しい。しかし、彼が佐竹義宣の側近であったことから、相応の待遇を受けていた可能性は高い。
岡本氏一族としては、佐竹氏の秋田移封後、横手や秋田郡十二所に居住し、100石から180石程度の知行を得ていた記録が存在する 3 。これは「出羽国秋田郡十二所岡本家文書」などから窺える情報である。この十二所岡本家は、宇都宮氏家臣であった岡本時寿を祖とし、その孫である時常が慶長2年(1597年)の宇都宮氏滅亡後、義綱に従って常陸から秋田へ移り、平鹿郡横手に住し、後に十二所に移住したとされ、その知行は当初50石から始まり、開墾などを経て100石から150石程度となったと記されている 6 。この十二所岡本家が、宣綱の直系と同一であるか、あるいは密接な分家関係にあるのか、それとも別系統の岡本氏なのかについては、慎重な検討が必要である。もし宣綱の家系と繋がるのであれば、藩境警備などの任務についていた可能性も考えられる 3 。
岡本宣綱の血筋は、秋田藩において重要な役割を担う人物を輩出している。『岡本禅哲』の項に引用されている系図によれば、宣綱の子は蔵人元弘(くろうど もとひろ)、元弘の子が親元(ちかもと)、そして親元の子が岡本元朝(おかもと もととも)であるとされる 7 。
この岡本元朝(寛文元年(1661年)~正徳2年(1712年))は、宣綱の曾孫にあたり、江戸時代中期に秋田藩の家老という要職を務め、詳細な日記である『岡本元朝日記』を遺したことで知られる重要人物である 17 。『岡本元朝日記』には、当時の秋田藩政や江戸の状況、さらには藩の修史事業(『佐竹家譜』の編纂など)に関する貴重な記録が数多く含まれており、秋田藩史研究における一級史料と評価されている 17 。宣綱の曾孫が藩の家老にまで昇進し、このような重要な記録を残したという事実は、宣綱の家系が秋田藩において一定の地位を築き、後世に大きな足跡を残したことを示している。これは、宣綱自身の功績や彼が築いた基盤が子孫に受け継がれた結果とも考えられよう。
また、前述の「出羽国秋田郡十二所岡本家文書」 3 も岡本家の後世を伝える史料群であり、この家系からは戊辰戦争時に鉄砲頭として出陣した岡本大作などの人物が出ている 3 。この岡本大作と宣綱の系統との具体的な関連性については、現存資料だけでは断定が難しいが、岡本姓を名乗る複数の家が秋田藩内で活動していたことを示唆している。
岡本宣綱及び岡本氏に関する記述は、複数の歴史史料に散見される。
これらの史料に岡本宣綱(あるいは岡本氏)に関する記述が散見されることは、彼がある程度の歴史的重要性を持っていたことを示している。『佐竹家譜』の記述は後年の編纂物である点に留意が必要だが、藩の公式見解を含む可能性がある。同時代史料である『梅津政景日記』に宣綱の活動が具体的に記録されていれば、より客観的な評価が可能となるであろう。また、孫の『岡本元朝日記』や岡本家伝来の文書は、一族の視点や詳細な生活実態を知る上で極めて価値が高い。
史料名 |
種別・内容 |
関連情報・出典 |
『佐竹家譜』 |
佐竹藩公式史書。義直傅役辞任の経緯などを記載。 |
4 |
『岡本宣綱 Wikipedia記事』 |
基本情報、経歴の概要。 |
1 |
『岡本禅哲 Wikipedia記事』 |
宣綱の祖父・父、および宣綱の子孫(元朝など)の系譜情報。 |
7 |
『岡本元朝日記』 |
曾孫・岡本元朝の日記。岡本家の後世、秋田藩政に関する詳細な記録。 |
17 |
「出羽国秋田郡十二所岡本家文書」 |
秋田における岡本氏の記録。知行、家政、藩境警備など。宣綱直系との関連は要検討。 |
3 |
『秋田武鑑』 |
江戸時代の武鑑。宣綱に関する記述の可能性あり。 |
1 |
『梅津政景日記』 |
同時代史料(佐竹藩家老・梅津政景の日記)。宣綱(岡本蔵人)に関する記述の有無は要確認。 |
22 |
本報告では、佐竹氏家臣・岡本宣綱の生涯について、現存する史料を基に、その出自から晩年に至るまでの事績を多角的に考察してきた。
岡本宣綱は、天正11年(1583年)に生まれ、慶安2年(1649年)に没するまでの67年の生涯において、日本の歴史が大きく転換する時代を生きた。父祖に倣い一度は僧籍に入ったものの、主君・佐竹義宣の命により還俗し、その側近として重用された。義宣の秋田移封という困難な時期に随行し、新天地での藩政に関与したと推測される。また、大坂の陣にも参陣し、武士としての務めも果たした。その後の佐竹義直の傅役就任は、義宣からの信頼の厚さを示すものであったが、義直の仏教傾倒と諌言無視という事態に直面し、自傷を伴う辞任という衝撃的な結末を迎えた。この事件は、宣綱個人の苦悩を示すと同時に、藩の後継者問題の難しさを浮き彫りにした。晩年には再び僧籍に戻り、静かにその生涯を終えた。
岡本宣綱の生涯は、佐竹義宣という英主の下で能力を発揮する機会を得た一方で、藩の後継者問題という複雑な課題にも直面した、一人の武士の生き様を映し出している。主君への忠誠と、傅役辞任に見られるような困難な状況における苦悩は、戦国時代から江戸時代初期という過渡期を生きた武士の一つの典型と、同時に彼の経歴の特殊性を示している。彼の生涯は、個人の資質と運命、そして主家との関係性が複雑に絡み合った結果であり、近世初期の藩政確立期における家臣のあり方を考察する上で貴重な事例を提供する。
また、宣綱の曾孫にあたる岡本元朝が秋田藩の家老という要職に就き、詳細な日記『岡本元朝日記』を遺すなど、岡本家が秋田藩において一定の地位を築き、後世に重要な記録を残したことは特筆に値する。これは、宣綱が築いた基盤や、彼の一族が代々受け継いできた知的な素養が、子孫の活躍に繋がった結果とも考えられる。
岡本宣綱に関する研究は、現存史料に限りがあるものの、いくつかの展望が考えられる。
第一に、同時代史料である『梅津政景日記』について、宣綱の通称「岡本蔵人」での検索を含め、より詳細な調査を行うことで、彼の具体的な活動記録が発見される可能性がある。
第二に、「出羽国秋田郡十二所岡本家文書」と宣綱の直系との関連性について、系図や他の史料との照合を通じて、より詳細な解明が求められる。これにより、秋田藩における岡本一族全体の動向が明らかになる可能性がある。
第三に、大坂の陣における宣綱の具体的な「戦功」に関する史料の探索も重要である。感状拝領者リストに名がないことから、異なる形での貢献であった可能性も視野に入れ、関連する軍記物や他の家臣の記録などを調査する必要がある。
第四に、宣綱が再入道した後の具体的な生活や、岡本家の家紋、墓所の所在地など、人物像をより豊かにする情報の収集も今後の課題である。これらの情報は、秋田県内の郷土史料や、未公開の岡本家関連文書などに含まれている可能性も否定できない。
岡本宣綱という一人の武士の生涯は、断片的な情報を丹念に繋ぎ合わせることで、より立体的かつ詳細に再構築する余地が残されている。本報告が、その一助となることを期待する。